随談第231回 年の終わりに 『演劇界』同窓会のこと

話題にしたマスコミが果たしてあったかどうか? 今年は『演劇界』の前身である『演芸画報』の創刊から100周年に当る。『演芸画報』は明治40年、1907年1月が創刊、雑誌統合による終刊が昭和18年(1943)10月号だから、百年の内『演芸画報』が37年、百年の6割以上は『演劇界』の時代であったことになる。その百年目に、『演劇界』がこれまでの形では終わりになり、リニューアルという名目で新体制のもとに新出発することになったのは、天の配剤か、それとも、ここで終ったが百年目という神の冗談か? 少なくとも、戦後歌舞伎の語り部であり続けてきた『演劇界』が、一旦にせよここで終ったということは、ひとつの時代の終わりを思わないわけにはいかない。

旧の『演劇界』にとっては最終号に当たる今年の5月号で、「わたしの歌舞伎讃歌」という特集を組んでざっと六十人ほどが寄稿した中に私も入れてもらったが、案ずるにこの心は「わたしの演劇界讃歌」ということだろうと読んだから、『演劇界』は私にとっての学校であり教科書であって、歌舞伎についていっぱしのことが言えるようになったのはすべて、エライ学者・評論家の文章から雑報・投稿欄に至るまで、『演劇界』をむさぼり読んだお陰であるということを書いた。嘘でも衒いでもなく、これはその通りなのであって、少なくとも私よりもう少し上から、少し若い世代ぐらいまでの人なら、大なり小なり、共感してもらえるだろうと思う。もしかすると今の若い世代には理解の外かもしれないが、部数は小なりといえども、『演劇界』とはそういう雑誌だったのである。

そういう思いもあったので、旧『演劇界』の最後の編集長で、リニューアルと同時に身を引いた秋山勝彦さんにごくろうさまを言う会を、この歳末、山の上ホテルを会場に催すことにした。年若の友人の代表として声をかけた児玉竜一氏が即座に賛同してくれ、更に『演劇界』の小宮暁子・若井敬子・川島千芽留さんたちが協力を申し出てくれて、裏方が以上五人、出席者八十名たらずの大ならざる集まりだが、お義理の出席者はひとりもなしの、心のこもった会にすることができた。つまり私の狙いは、秋山氏をねぎらうと同時に、各世代こぞっての『演劇界』同窓会にしたかったのである。それはまさしく、そのとおりになった。発起人代表の役を快諾してくださった河竹登志夫氏を最長老として、つまり上は八十歳代からほぼ半世紀にわたる各世代の、何らかの形で『演劇界』に関わって来た人たちばかりの同窓会である。松竹の安孫子正・東宝の臼杵吉春・国立劇場の織田紘二といった方々も快く列席して下さったし、橋本治さんが、自分は他校へ転校してしまった人間だがと口では言いながら、最後まで居残り、『演劇界』こそ氏にとっての文筆家としての故郷であることを、身をもって語ってくれたのも嬉しいことだった。

秋山さんは最後の編集長としていわば千住大橋を渡ったわけだが、実は私が秋山氏を心から偉とするようになったのは、リニューアルが決まってから後のことだった。かつて『演芸画報』から『演劇界』へのバトンタッチは一号の空白もなく行なわれたが、今回は、危うく三ヵ月の空白が生じる恐れがあった。秋山氏はほとんど身を挺するような献身的な尽力でその間『演劇界月報』を刊行し、四月から六月までの空白を辛うじて防いだのである。

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