随談第660回 抜けば玉散る天秤棒

『劇評』第10号の團十郎襲名の『助六』評に、他の役役について書く余地が亡くなってしまったから、他の場に書こうか・・・と書いたものの、久しぶりに新聞にも書いたことだし、趣向を変えて、『助六』がらみの話題として「天秤棒」と「水入り」の話に絞ることにしよう。

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新・團十郎の『助六』に勘九郎が白酒売で出ているが、「抜けば玉散る天秤棒」というところで、腰に差した天秤棒をスーッと抜いて見せたので、ホオと、ちょいと感心した。父親の18代目勘三郎が抜いて見せたのを見覚えていてやったのだろうか。普通は、と言うか、他の人のやる白酒売りは大概、と言うよりほぼ誰しも、刀の柄に見立てた辺りにちょっと手を掛ける仕種をするだけだが、18代目は「子供の頃、勘弥の小父さんが本当に抜いて見せたのを見てから、ずーっと、何時か機会があったらやってみようと思っていたんだ」と語っていた。たしかに、勘弥の白酒売りは私は二度は見ているが二度とも、「抜けば玉散る天秤棒」と言ってすーっと抜いてみせたのを覚えている。あれは当然、抜いて見せるべきだと思うが他の誰もしないのは、何だか不精たらしくてつまらない。案外、(巧く抜けなかったり?)

むづかしいのかもしれない。ともかくそれを、子供の頃に見た18代目が、いつかやってみようと思っていてたのが、大人になってようやく白酒売りをする機会が巡ってきた時に念願を果たした、というのはいかにも18代目らしい佳話である。またそれを、勘九郎がおとッつぁんのしたのを見覚えていて、今回機会到来、天秤棒を抜いて見せたというのはまさしく蛙の子は蛙、父子二代にわたる近ごろのヒットで、こういうところがいかにも中村屋代々の役者気質というものであろう。

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天秤棒以もさることながら、そろそろ誰かがやってくれないと、やる方も見る側も、誰も知らなくなってしまうと心配になるのは「水入り」である。これは、いつもの幕切れの後にもう一幕つけないとならないから、上演時間に制限のある今は無理だが、いずれやがて旧に復した暁、誰でもない13代目團十郎白猿に、ぜひともやってもらいたいと思っている。(12代目は海老蔵時代にやっている。あの後、誰かやっただろうか?)

水入りを一番多くやっているのは17代目勘三郎だろう。あるとき公演途中で風邪をひき高熱を押して出演、その一日、満々と水を張ってあるはずの水桶にざんぶと(?)飛び込むと、何と中は空っぽ。一瞬、ムッとしたが、見ると桶の中に張り紙がしてあって、「お大事に」と書いてあったという話があったが、これはそれと別の時、八代目團蔵の引退記念の興行でも『助六』を出して、17代目の助六に團蔵が意休だった。ところが17代目が水入りを敢行したので、すると意休は白装束で助六と立回りの果てとどめを刺されることになる。つまり團蔵は引退公演の最後の幕で殺されることになる。だが、内心は知らず、いつものように淡々と舞台を終えると(つまり殺されると)、翌日には念願の四国巡礼の旅に出掛け、ひと月余り後、八十八箇所を巡り終えると、夜、連絡船の甲板からから人知れず瀬戸内海に水入りならぬ入水をしてしまった。古木のような枯淡の舞台ぶりが心惹かれる老優だった。

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今月はちょっとユニークな訃報がいくつかあった。

吉田喜重   89歳
江原真二郎  85歳
藤尾茂    87歳

ご当人たち相互にはあまり関係はなさそうだが、ちょいと目を惹いた三つの訃報が同じ日の新聞に載るという奇遇。棲んだ浮世はそれぞれだが、昭和30年代という空気感が満ち溢れる感じに心を惹かれる。それにしても、喪主として名が載った岡田茉莉子も中原ひとみも健在なんだなあ。何だかうれしい。

と、思っていたら中原ひとみが、他日、「徹子の部屋」に出演したのを見た。フーム、昭和30年代にスクリーンで見ていたあの目玉の大きな可憐にして素朴な少女が、60年の歳月をすっ飛ばして、見事な老女となって現れた。(若い時には目の大きいのが何よりの特徴だった人が歳を取るとさほど大きな目というわけでもない、ということがチョイチョイあるが、彼女の場合もそうだった。がまあ、そんなことはこの際どうでもよろしい。よかったのは話の内容である。)江原真二郎との結婚記念に片岡千恵蔵から貰ったという油絵が映ったが、そうだ、『黒田騒動』という内田吐夢監督の映画で千恵蔵が栗山大膳をしたとき、彼女も少し頭の弱い黒田家の姫の役で出ていたのだった。

岡田茉莉子は、吉田喜重氏などと結ばれるより前、小津安二郎のたしか『秋日和』だったっけ、司葉子の一種の引き立て役のような役回りで佐分利信だの中村伸郎だの小父様連をを引っ?き回す役を一番思い出すが、それより前、東宝にいた頃、題名は今ちょっと思い出せないが、これも東宝にいた当時の有馬稲子などと共演したいた頃のユニークなキャラが、いま思い出すとじつによかった。『芸者小夏』などという二流のシリーズで屈託のない明るいキャラを見せていたのも懐かしい。いまになって当時の出演作を見ると、いいなあと思う。

藤尾茂は、話変わって野球の選手である。俗にいう巨人軍第二次黄金時代の後期、川上だ千葉だ青田だ別所だといった大物連が齢を食って(青田はホエールズに移っていたっけ)、さしもの常勝巨人軍も勢いに陰りを見せだした端境期、水原監督に見い出されてアレヨという間に売り出して、強打の捕手としていっときは大変な勢いだった。売り出した若手の先頭だったが、やがて捕手の座を森昌彦(後に西武の常勝監督になって何やら難しい名前に変わったが)に追い抜かれる形で影が薄くなった。語られることも滅多に、どころかほとんどなくなって久しいが、それだけにひとしお、思いがけなく名前を見ると感慨なきを得ない。

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坂本博士 なんて人もいましたっけね。クラシック畑から出てテレビの人気者になった歌手が(立川澄人なんて人がその先駆けだった)いろいろ出た、その一人だった。まだ白黒テレビの時代だ。

松原千秋 私にとっては原健策の娘としてのみの存在だ(デビューした頃、ヘーエ。原健策にこんな娘がいたのかと、しばし眺め入ったものだった)が、父親の原健策の方なら何度見たか知れない。(一番数多く見た映画俳優の一人かも知れない。とにかく、当時東映の時代劇を見れば二本に一本は出てくる感じだった)。マンネリの仕事もあったが玄人筋には評価の高かったバイプレイヤーで、たしかに、忘れることはない役者ぶりではあった。またも千恵蔵が出てくるが、『新選組鬼隊長』という映画で千恵蔵の近藤勇に土方の役をしていたのが今もよく覚えている。いまどきの妙にカッコイイ土方でなく、昔風の武骨な土方役として、改めて評価されても然るべきではあるまいか。(売り出して間もない錦之助が沖田総司役で出ていた。やや重くるしい難はあったが、子母澤寛の『新選組始末記』を原作とする、新撰組ものとして上等な作だったと思う。もう一遍、見てみたいなあ。)

ほかにもいろいろな訃報があったが、それにしても、「亡くなっていたことが分かった」といった報道が多いのが、近年ますます増えているのが、現代という時代をさまざまに語っているようだ。ま、いろいろな事情や理由があるのだろうが。
        
        
        
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本年はここまで。よい年になることを願いつつ、良い年をお迎えください。

隋談第659回 噫! 忠臣蔵

11月の国立劇場の歌舞伎公演は、国立劇場察するに余りある苦心の企画「歌舞伎&落語・コラボ忠臣蔵」というので、春風亭小朝の『殿中でござる』と『中村仲蔵』のあと芝翫が『五段目・六段目』の勘平をやったが、(これだと実は、小朝と競演したのは歌六の定九郎ということになるわけだが・・・)、いわば「小朝流忠臣蔵論」ともいうべき『殿中でござる』は菊池寛の短編を小朝流に?み砕いたものらしいが、釈台を置いての、つまり「講釈」である。討入がテロと見做されるようになった今日、『忠臣蔵』を演じる機会は少なくなるだろうというあたりが、菊池寛×小朝÷2、というところか。大佛次郎が『赤穂浪士』を書いたのが昭和初年、池宮彰一郎が『四十七人の刺客』を書いたのが平成初年、大河ドラマで忠臣蔵を出した最後が西暦2000年、即ち20世紀最後の年(大河版忠臣蔵としてこれが何作目だったろう? すなわちそれまでは、「忠臣蔵物」は戦国物、幕末維新物と並んで大河ドラマの常連メニューだったのだ。)つまり、昭和から平成、さらに20世紀末までの4分の3世紀の間に「義士」が「浪士」となり、遂には「刺客」となったわけである。今日、日常的レベルで「赤穂義士」という言葉はほぼ絶滅、すなわち「死語」と化し、「赤穂浪士」という言い方が、大佛次郎がかつてそこに籠めた暗喩は雲散霧消、何の批判も感傷もないフラットな用語として、何気に(!)使われるようになったのが昭和末期以降、さらにそれを「刺客」と呼ぶに至ったのが平成初年、すなわち20世紀末ということになる。(因みに、10月歌舞伎座で松緑が講釈種の新作として演じた『荒川十太夫』は、堀部安兵衛を「義士」として見る上に成り立っているわけだが、『劇評』第8号の狂言作者竹柴潤一氏の言によると、言い出しっぺにして主演者である松緑から「『元禄忠臣蔵』が通しがあったとして『大石最後の一日』の後につけて上演してもおかしくないようにしたい」と注文があったという。フーム。「義士」と「浪士」さらには「刺客」との間に、こういう間隙があったということか。

ところで肝心の芝翫演じる『五・六段目』だが・・・長くもなったし、まあ、預かりとさせていただこう。

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ところでその小朝の二席の間に、つまり釈台を前に忠臣蔵の講釈をした小朝が、衣裳を変え座布団一枚で『中村仲蔵』を語るつなぎに太神楽が出た。鏡味・翁家・丸一の三組が交互出演のようだが(私の見た日は翁家社中の出演だった)、私はむかしから、寄席のさまざまな色物の中でもこの太神楽というものが大好きで、寄席からだいぶ足が遠のいている今、久しぶりで大いに楽しんだ。へたな落語より、などと言ったら??られるが、さまざまな曲芸が、下座で「千鳥」等々を寄席流に崩して弾く中、繰り広げられるのをぼんやり眺めているときほど、浮世の憂さを忘れてくつろげるひとときはない。かりにかのプーチンをいまここに連れてきて太神楽を見せたとしても、一ミリ、いや3ミリぐらいは頬をゆるめるに違いない。(ベートーベンを聴かせようと『仮名手本忠臣蔵』を見せようと、そうはいくまい。)

それにしても、見る側は他愛もなく笑い、する側にとってはあれほどごまかしの利かないものはないだろう。世代から言って、私などが一番数多く見たのは染之助染太郎兄弟だが、更にベテランで東富士夫という人もよく見た。この人はいつも一人芸で、平素は黒のスーツに蝶ネクタイというスタイルなのだが、何かの拍子に和装でたっつけ袴という姿のこともあった。この使い分けの理由は分からないが、ご本人には使い分ける根拠があったのかもしれない。で、ある時、曲芸がなかなかうまくいかない。失敗に次ぐ失敗。だが下座の鳴物は何事もないように続き、芸も何度となく繰り返す。ハラハラしながら見守る中、とやがて、見事成功。にっこり笑顔を見せて一礼、満場の拍手を背に退場、ということがあった。太神楽というのは、こういうこともあり得る芸なのである。

九代目の三津五郎が、出し物を出す機会に恵まれるごくたまさかの折に見せた『どんつく』という踊りも、太神楽の社中が芸をして見せる風俗舞踊で、親方が曲毬を舞台でして見せるくだりがあるが、役者がつとめるのだからそうはうまくいかない。あるとき十七代目羽左衛門が親方の役で、なかなかうまくいかずにようやく成功、ほっと破顔一笑したので万雷の拍手だったのを思い出す。

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訃報
白木みのる 昭和8年生まれ、かつて『てなもんや三度笠』で共演した藤田まこととは一歳違いとであったとか。毎週あれを見ていた頃、我が家の受像機はまだ白黒テレビだった。
村田兆治 この死については何とも言いようがない。私より若いのだが、その言動・察するところのその人となり・その風情風格等々、10歳も年長のような気がする人だった。

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團十郎白猿襲名については、12月の公演を見てからということにしたい。差し当たっては、11月公演の評を『劇評』第9号に書いたのでそれをご覧願いたい。

随談第658回 夜明け前?

トトロの家

このブログを始めてまだ間もない頃のことだが、トトロの家のことを書いたことがある。尤もその家がいわゆる「トトロの家」ということになったのは話の順序から言うと更に後の、火を出して焼失してしまってからのことになる。

昭和の初期のものとすぐわかる、赤いスレート瓦を載せたその「洋館」は、20年前、今の練馬の家に越してくる前に住んでいた杉並の阿佐ヶ谷の家から歩いて二、三分という近所だったから、戦前から戦後をつなぐ東京の郊外のひとつの風景を偲ばせる懐かしいものとして、今もその残像を瞼に、また記憶に残している。その洋館が、過失か何かで火を出して焼失したのはかれこれ既に10年の余の以前のことだが、北原白秋が晩年、阿佐ヶ谷に住んでいたと聞くがもしかしたらあの家ではあるまいか、とかねて思っていた私は、そのことをこのブログに書いたのだった。と、それを読んですぐに調べてくれた人があって、それによると、白秋の住んでいたのは確かに我が家からほど近くではあるがこの赤瓦の洋館とは反対方向へ、もうちょっと離れたところだったらしい。

その後、私と入れ替わって阿佐ヶ谷の家に住まっていた兄が亡くなった時、久しぶりに訪ねると、跡地は公園になっていた。つまりそれが、トトロの家を記念して作られた「Aさんの庭」なる公園である。宮崎駿氏がトトロの家をイメージしていたという縁から、杉並区に働きかけてのことであったらしい。「トトロの家」のことは今では多くの人の知るところだろうが、かつてその持ち主だったという女性が亡くなったという記事がこのほど新聞に大きく出た。大変なご高齢で、元々、戦前の良き時代に養父であった方が建てたものだったという。東京23区の西端に位置する中央線沿線は、関東大震災で旧市内が壊滅的な状況になって以後、急速に開発が進んだと言われるが、折からのモダニズムの風潮と相俟って、文化人好みのハイカラな住まいとして、ああしたたたずまいの家はそちこちに見かけたものだった。小学校時代の同級生にI君という、お父さんが絵描きさんだという子がいたが、そのI君の家も、やはり赤い屋根の、同じような作りの家だったのを思い出す。

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訃報欄に山本豊三という名前を見つけた。81歳とか。なるほど、と思うのだが、その業績として10数行ほどの記事に書いてあることは一切、知らないことだった。スターとしては、成程それらのことで身の丈に合った名を残したということなのだろう。が、私の記憶にある山本豊三は、それらの業績を積んだのより前の姿である。昭和30年7月、とはっきり覚えているのは私の性癖から来ることで、その月に何か格別なことがあったからではない。この月の末、新東宝映画『下郎の首』というのが封切られ、かなりの話題を呼んだ。伊藤大輔監督が戦前に作った作を自らリメイクした、往年の「傾向映画」の力作だった。たしかに力作だが、肩に力の入った重苦しい、しかし紛れもなく「良心的な」作だった。当時は、独立プロダクション制作の「良心的な」映画がいろいろ作られ、識者から高く評価されることがしばしばあったのも、日本が独立を回復し、しかしまだ「もはや戦後ではな

くならないという、戦後史の一つの時期だったのだ。銀座の松坂屋の裏手に銀座コニーと劇場という、初めは洋画専門だったのが新東宝と大映の作品をもっぱら上映するようになった映画館があって、何故か(は、中学生だった私の知ったことでなかったが)そこの優待券を毎月何枚か融通してもらえるというコネクションがあったので、生意気にも銀座まで映画を見に行くということを時々していたのである。(ちょうど一月後に、五所平之助監督、美空ひばり主演の『たけくらべ』を見たのもこの銀座コニー劇場で、これも、いわゆる「ひばり映画」とは全く違う、肩に力の入った重苦しいばかりの力作だった。今の白鸚氏が、あちらもまだ中学生で、先々代市川染五郎として出演していたのを覚えている。ヒロインみどりの相手役の真如ではなく別の役だったが、思えばこれが、映像でとはいえ、既に少年スターとして名高かった染五郎を見た最初である。)と、例によって脱線が長くなったが、その『下郎の首』にあちらもまだ中学生だった山本豊三が、田崎潤演じる下郎を供に仇討ちの旅を続ける年若の主人の役としてデビューをするのが、ひとつの話題となっていたのだ。当時、この人の祖父の山本礼三郎と言えば、戦前からの映画界の大物俳優として著名な存在だったから、そのデビューが映画界として話題を呼んだのだった。真面目で育ちの良い、いかにも好感の持てる少年だったのをはっきり覚えている。同じ時代の空気を吸っていたという、ただそれだけで抱く親近感が、この文章を書かせたとも言える。

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菊之助が『千本桜』の三役を演じる国立劇場は、菊之助らしい真摯さでなかなかのものだったが、入りの薄いのにちょっと驚いた。三座競演となった今月は、平成中村座が一番活気があったのは腑に落ちるが、菊之助が三役をつとめる『千本桜』の案外な不入りは、AプロBプロCプロと、全部見るには三回も足を運ばねばならないというのが祟ったのかもしれない。もったいないことである。

評は新聞に書いたから繰り返しになるが、本役の忠信、が最も安定感があるのは当然だろうが、知盛も権太も、相当のレベルで落ちこぼれなく充分仕こなしていたのは天晴れと言うべきだろう。権太は、イガミぶりを見せる場面ほど「いい男」になるのが面白かったが、それでいながら「役違い」とは感じさせないのが偉い。

さりながら、(これも新聞に書いたが)今回菊之助以上に刮目すべきは梅枝の維盛で、「たちまち変わる御装い」で身ごなしひとつで、弥助から維盛へ、別の世界が現れるかのようだった。曾祖父三代目時蔵のこの場面について伝え聞くところがあるのを彷彿させたが、風貌雰囲気は、むしろ三代目左團次を思い出させるものがあった。

A、B、C各プロごとに、冒頭に映像付きの菊之助自らナレーションをつとめる解説がつくのが「珠に瑕」との評があったのはもっとも至極ながら、おそらくこれは、本来二年半前の春、三月公演という啓蒙的な公演について用意されたものなのだろう。

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来月はいよいよ團十郎白猿襲名ですね。今回のタイトルを「夜明け前?」としたが、ハテ如何なりますか。

随談第657回 木槿から金木犀へ

もう忘れている人、そもそも知らなかったという人の方が、今となっては大多数だろうが、昭和の昔のいっとき、吉右衛門と仁左衛門をライバル視するあまり両者のファンの間にかなり過熱した関係が生まれたひと頃があった。ご当人同士はどうであったかは知らないが二人とも丸本物を得意としたためもあって、当たり役が競合したことが、熊谷なら、盛綱なら、実盛なら、孝夫の方がいい、いや吉右衛門の方が、ということになったわけだろう。それから久しい時が経ち、仁・柄・芸風、それぞれの良さを認め合えば自ずから、時とともにめでたく棲み分けも出来、評価も安定したわけだが、一時は、双方のファンの間で一触即発のような空気さえあったものだった。まあそれだけ、熱烈な支持者がそれぞれにあったればこそで、歌舞伎がそれほど活気に包まれていたればこそであったとも言えるが、今はむかしの物語、秀山祭の一周忌に『七段目』の大星をつとめる仁左衛門を見ながらゆくりなくも思い出した。

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文楽はこのところ、三部制にぎっちり詰め込むという方針らしく、一日びっちり通して見ると疲労困憊ということが、このところ毎回続いている。もっとも、これは必ずしも悪口ではない。むしろ、文楽というものはこういう風に見る方がその本質に適っているのかもしれない、とすら思わぬでもない。歌舞伎は遊び、文楽は凝り固まるところに生命がある、とすれば、疲労困憊する愉しみ、ということもこの世にはあるのである。

とはいえ、今回は一部二部を『碁太平記白石噺』に充てるという劇場サイドの「意欲」は多とするものの、真実ひたすら疲労困憊した。同時にこれは、このアマチュアリズムが生んだ作ならではの故であろうということにも、改めて思い至った。机に向かって浄瑠璃の本文を読んでいても気が付かない、これは劇場の椅子に座って見て聴いて初めて気づくことかも知れない。「田植の段」「逆井村の段」「雷門の段」「揚屋の段」と(入れ替えをはさみ、二部の第一に『寿柱立万歳』という一服する救いの演目もあるものの)、通して見るには、作も曲も、耐え得るものではない(途中どうしても、疲労困憊の末、睡魔に襲われる!)ということを、「一挙通し上演」という劇場側の大奮発の企画のお陰で確認したというわけだ。

ということが分かっただけでも、今回の通し上演の意義はあったことになる。とは言え、何の彼のと言ったところで、自作の作品が二世紀の余も後まで永らえているのだから、豪商三井の四代目の当主と聞く紀上太郎なる作者、当節の三井物産や三井不動産の社長が逆立ちしても出来ないことをしていたわけで、あっぱれアマチュアリズムの権化、敬服に値するというものだろう。

でさて、その疲労困憊も、第三部まで見ると、今度は『奥州安達原』の三段目「朱雀堤」から「貞任物語」をたっぷりと、ヴォリュームからすればこっちの方がはるかに大きいにもかかわらず、疲労はむしろ解消された。作よし曲良し、演者も概ね好演で、こちらは眠るどころではなかった。思うにこれは、作の出来の良しあし以前に、作者の言葉に対するセンスの問題であろうと、これも今回気が付いた。言葉というものに対する感性の違い、それが言葉の選び方から、話の進め方云々、というものに恐ろしいほどの違いが出来てくるのだ。半二の作としてはごたごたしていると思われがちだが、むしろこのほどの良い「ごたごた感」が、時代物浄瑠璃の生命である雄渾さを生み出している。『白石噺』のごたごた感は、言葉が説明に終わっているからだが、『安達原』の方は、見る者聴く者の心をつかみ取り劇の世界へ運び去る力を有しているからだ。この上は、「一ツ家の段」を、死ぬまでにぜひもう一度見たいものだ。(久しく見ていないが、もう何年やっていないだろう? 野沢吉兵衛の雄渾な撥さばきが忘れ難く耳に残っている。この人のいかにも昔のらしい風貌風格が、私は好きだった。)

老婆が若い女の腹を裂くというこの「一ツ家」の段を、歌舞伎でも一度やったことがあるが、これも忘れ難い思い出で、国立劇場の歌舞伎公演50年の中でも屈指の舞台と言えるだろう。腹を裂く老女が17代目勘三郎、裂かれる女が当時澤村精四郎、すなわち後の澤村藤十郎。まあこれ以上の配役は望んでも無理だとしても、だ。(魁春と米吉で? さあ、どうだろう?)

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国立劇場が、しばらく前から改築が言われてはいたが、アララという隙に、向こう一年間の舞台に「さよなら公演」という文字が添えられることとなった。昭和46年11月が開場だったから、来年10月までさよなら公演が続くことになる理屈だが、さてまだそこまでは発表がない。

それにしても、国立劇場よりひと月先んじた昭和46年10月が帝劇の開場、さらにその3年前の昭和38年10月が日生劇場の開場で、その日生劇場が、現在東京で最古の劇場ということになるというのは、当時を目の当たりに見ていたものとしては不思議でしょうがないが、真実の話らしい。

さてその帝劇のこけら落としが二代目吉右衛門襲名公演だったというのは、当代の高名な歌舞伎役者の中で歌舞伎座で襲名をしなかった人があります。サテ誰でしょう?というクイズの問題になり得るような話だったが、果たしてそういうクイズが実際にあったかどうかは知らない。披露の役が『金閣寺』の東吉に、父八代目幸四郎の関兵衛に歌右衛門の小町姫で宗貞をしたのだったが、狂言半ばで「口上」となり、赤姫姿の歌右衛門の口上に続いて新・吉右衛門の挨拶の開口一番、「ただいまは成駒屋の叔父さまよりご懇篤なるお言葉をいただきまして」と言った途端、場内に笑いの渦が広がった。なるほど、このお姫様が「おじさま」であったことに満場改めて気が付いた、というわけである。

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記念すべき舞台とか勝負、というものに巡り合って、「オレ、誰それの○○を見たぞー」と言いたくなる心理というものは、おそらく、ヒトという生物にだけあるものだろう。亡くなった澤村田之助が、7歳の砌り、しかも六代目菊五郎の膝に抱かれて、双葉山が70連勝目に安芸ノ海に敗れた一番を見た嬉しさを繰り返し語っていたことは先ごろもこの欄に書いたが、この「双葉破る!」という一戦を目撃したことこそ、当時の日本人の自慢話として最も普遍性を持った自慢の種であったであろう。(当今の大相撲に対する一般人の関心の度合いとは天地の差があった時代である。)

と、前置きが長くなったが、ヤクルトスワローズの村上が一試合に54,55号の二本のホームランを打った試合を見てきました。55号が王貞治氏の記録と並んだという、例の一発ですが、54号の方が美的には快適な一打だった。こういう一銭にもならない(という言い草がかつてあったが)無邪気な喜びというものは、何物にも代えがたい。その意味を理解する者である限り、小学生も八十歳九十歳の老いぼれも、これほど平等に分かち持てる物はないだろう。老耄の記憶の中で、この村上の一打は、小学生の時(よりも前だったかも)に見た青バットの大下のホームランに記憶の奥底で繋がっている。すなわち、わが人生の喜びに、結構深いところでつながっている。かるが故に、こういう埒もない記憶というものは、ヒトにとって深甚な意味を持つのである。

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訃報

その1)元西鉄の池永~この人については私などが出る幕がないほど、多くのことが語られている。池永は無実であったわけだが、その奥には、ああいう事態がわだかまっていたわけで、かつての興行ものとつながっていた闇こそ恐ろしい物はない。

その2)三遊亭圓窓~さる事情があって、この人のために新作落語を一篇作ったことがあった。もっとも、いまひとつご本人の気に入らなかったためにボツになってしまったが。

その3)佐藤忠男(旧聞へ遅ればせながら)~高校生の頃から名前は知っていた。格別ファンにはならなかったが、偏りのない姿勢や、高等ぶった難解な理屈を振り回すことなく(非常に真面目であるにもかかわらず)いわゆるプログラム・ピクチャーと十把ひとからげにされるような映画にも(いかにも真摯に)目を配っているところに好感を抱いていた。

その4)町田博子(さらに遅ればせながら)~大映映画を見るといつもこの人の顔を見ていたが名前は知らない、という人は多かったと思う。「おはなはん」という、NHKの朝ドラ草創期の何作目かで、大ヒットして朝ドラの存在を「国民的規模」に飛躍させた作で、この人が相当の活躍をした。映画で見ていたあの人だ、と思った人は多かったろう。町田博子っていうんだってさ、ということになった。それから以後については、私などが語るまでもない。96歳だって? ム、映画時代を計算に入れれば、まあそうだろうなあ。

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九月も末。気象の変動が言われる中、今年も、二十年前いまの家に越してきたときに部屋の窓の前に植えた木槿が、夏中にしきりに咲かせた花を終らせようとしている。わたしはこの、ほのかに野趣のある木が好きなので、庭というもののない、従って門も塀とか垣根というものもない今の家に越してきた時、幅一メートルあるかなきかという余地に木槿を植えた。うまく土に馴染んだかしてよく育った。実に几帳面な植物で、7月から9月までの3か月間、朝一杯に花を咲かせ、夕方にはしぼんで落ちてしまうのを繰り返す。まこと、

   道の辺のむくげは馬に喰はれけり

という句の通りである。(この句、芭蕉なそうな。季語としては秋である。)厳密にいうと、6月の28~9日ごろに最初の花を咲かせ、10月の2~3日ごろに最後の花をつける。前後にささやかな「おまけ」をつけるところが、昔の駄菓子屋や肉屋さんの「お愛想」のようで面白い。

と、この話には注釈が必要かもしれないのでちょいと脱線すると、駄菓子屋でお菓子を買うにも、肉屋で肉を買うにも、カリントウならカリントウ、牛のコマ切れならコマ切れを50匁なら50匁買う時(当時はまだ尺貫法だった)、店の小父さんが客の目の前に置いてある秤で見計らいでカリントウなりコマ切れなりを量って売ってくれるわけだが、ここで売り手の商人(アキンド、と読んでください)としての器量が分かる。目分量でカリントウなり牛のコマ切れなりを秤に乗せてゆくわけだが、50匁のちょっと手前で秤の針が揺れる、と、売り手の小父さんが二つ三つ、二タ切れ三切れ、ひょいと足してくれる。と、50匁をちょいと越えて針が振れる。その頃合いを見計らって、カリントウなら紙袋、牛のコマ切れなら経木なり竹の皮に包んで、ハイ、お待ちどうさまと渡してくれるという寸法である。買う側は、ちょっぴり得をした気分になる。量り売りという商法がなくなってしまった現代、あの子供心にも分る商売の機微、阿吽の呼吸の面白さというものも忘れられてしまった。

横道の話が長くなったが、朝に咲いて夕べにはしぼむという木槿が、季節に二、三日先立って咲き出し、二、三日遅れて咲き終わるという「オマケ」の精神を几帳面に持ち続けているのも、何か不憫な思いを抱かせる。

ところで九月も末となって木槿の咲き方にも勢いが薄れてくると、入れ替わって、玄関脇に立っている金木犀が、あれは何色というのだろう(試しに広辞苑を見たら、うまい言葉がないのかして「赤黄色」などという不粋な説明しか載っていない。まあ、当世風に言えばオレンジ色の範疇に入れるしかあるまいが)、強い香りを放つ小さな花を咲かせては散り、咲かせて散りを繰り返す。こちらはおそらく前の住人が植えたのが長い歳月を経てちょいとした大木となったものと思われる。年中葉を繁らせている常緑樹だから、少々の雨降りなら、その下陰に入れば傘がいらない。帰宅して傘を畳むひまに濡れるのを気にしないですむのがありがたいが、その反面ということもあるわけで、盛りになると、散らす花の量も馬鹿にならない。玄関前は私道とは言えそんなことは知らないで通行する人も少なからずあるから、なおのこと、盛りになるとちょっとした絨毯並みに散り敷くのを放っておくわけにいかない。この掃除が、これからしばらく、馬鹿にならない作業となる。木槿も、毎夕、しぼんだ花のまま落ちるのを、盛りの時期にはマメに掃除するのが日課となるのだが、量と、それに要する時間と労力は比較にならない。まあこれが、私にとっての、秋の音連れのしるしということになる。

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今月はこれ切り。海老蔵白猿の襲名が近づいてきましたね。さて・・・・

随談第656回 よしなしごとばかり

毎年8月は自主公演やら勉強会やらが並んで、これがちょっとしたおたのしみになっているが、思い出すのは、世紀の変わり目頃だったか各種の自主公演が目白押しだったのが、何年か続いたひと頃があった。京蔵が『吉野川』の定高をしたり丸本物の大物に挑むなど意欲作も多かったが、そうなると毎回のように葵太夫が引っ張り出される。この種の会は土曜日に行われることが多かったので、ある年の8月など、毎週土曜日になると葵太夫の顔を見ていたという夏もあった。その葵太夫も今や人間国宝、役者の方も今やベテランと呼ばれる年配になっている。20年余はひと昔、である。評は『劇評』第6号に載せる予定なので、そちらをご覧いただきたい。

人間国宝といえば、このほど梅玉と一緒に、女義太夫三味線の鶴澤津賀寿が認定されたのも、まだ一介の素人だった頃から、縁あって知る者として感慨なきを得ない。素人も何も、そもそも彼女が三味線を弾くようになるとは、当時は思いもしなかったのだから夢のよう話である。良き師についたことと、もちろん人知れぬ努力もあったに相違ないが、おめでとう、でも昔を思い出すと頬っぺたを抓ってみたくなるねとメールを送ったら、ちょっと似合わないですねーと返信が来た。

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早稲田大学の内山三樹子先生が亡くなったのは前回分を載せてしまった直ぐ後だったから、もうずいぶん日が経ってしまった。お付き合いというほどのものはなかったが、本を出した際に献呈すると必ず懇篤な御礼を下さった。育ちの良さがそのまま人格や人柄となっているのが感じられた。それで思い出すのは、もう二十年の余も昔のことになるのに驚くが、『新世紀の歌舞伎俳優たち』という本を出したとき、献本すると程なくお返事が届いた中に、ちゃんと読んでくださったと見え、澤村田之助のことを書いた文章について、この人の若い頃の舞台についてなら自分の方がたくさん見ているようだ、という趣旨のことが書いてあった。ほぼ同年輩の先達として、一言、自慢したくなったのであるらしい。こうした稚気と言おうか、純と言おうか、少女の心がそのまま今も生き続けているようで、覚えず微笑が浮かんだ。(さる女性にこの話をすると、「カッワイイ」と嘆声を挙げた。)その田之助と、ほぼ相次ぐように亡くなったのは、私だけの知る因縁というものだろう。劇場のロビーなどで姿を見かけると、ずいぶん遠くからでも、深々と丁寧な挨拶を送ってくださる方だった。

これもしばらく前の話で、その際にもこのブログに書いたことがあったが、一度、こんな椿事があった。国立能楽堂の講堂を借りてささやかな催しをしたことがあった時のことだが、神山彰・児玉竜一両氏と近くのレストランで打ち合わせを兼ねた昼食を済ませて戻る途中、能楽堂の正門の前の道を内山さんが、それが癖らしくうつむき加減で歩いてくるのに出会い頭のようになった。互いに、アッこれは、という感じで挨拶を交わす・・・と思ったとたん、わずかな段差に足を取られたかして、バッタリ、転んでしまわれた。とそこへ、スーッとタクシーが一台滑り込んできて停車する。はっとした一瞬、ドアが開いて憮然とした面持ちで降り立ったのは、何と、加藤周一氏だった・・・という一幕で、黙阿弥もどきに、加藤氏に河内山よろしく「星が飛んだか」と言ってもらいたいような、滅多には遭遇しないであろう、忘れ難い一場面だった。

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今回はこれ切りにします。

お詫び 水野久美さんについてのこと

今月2日付の随談第655回に、水野久美さんについて訃報を聞いたという趣旨の一文を載せましたが、お読みになった方からの指摘を受け、調べたところ、私の思い違いであったと認めざるを得ないようです。水野さんには大変失礼なことを致しました。また、お読み下さった方々にも申し訳ないことでありました。ここに訂正・抹消の上、お詫び申し上げます。

随談第655回 だいなし

今回も、オッと目を引かれる訃報を見つけた。順不同で、

まず石浜朗。兄世代である。ということは、こちらは小6、中1ぐらいの年頃になっていろいろ世の中のことが眼中に入ってくるようになった頃に、あちらは高校生から大学生といった年齢でスターとして売り出したところ、という世代差になる。健全な環境、と言っても、一般人から見てそう手の届かない(というほどでもない)ところで生まれ育った、大人から見ても、同世代から見ても、(私のように)やや年下の者から見ても、ほどほどの距離感をもって見ることのできるスター、と受け止められていた。手の届かないところにいるスターではなく、見る側の世代年配によって、感じのいい息子の友人であったり、同輩だったり、知り合いのお兄さんであったり、といった距離感がミソで、いつも詰襟の学生服を着てスクリーンにも雑誌のグラビアにも登場した(ような気がする)。(これが、現代の高校生大学生のタレントと決定的に異なるところで、このことの持つ意味の大きさと多様さは、ちょっと考えるよりはるかに大きいに違いない。)

でまあ、この件についての難しい分析解析はいまは兎も角として、いつも詰襟の学生服を着ているような役をして、当時の青年の喜びや悩みや・・・を演じるのが彼、石浜朗の役柄であり役割だった。実際に彼は、たしか立教大学の正真の学生だった。(と書いて、気が付いてみれば、たぶん、長嶋茂雄選手や杉浦忠投手や本屋敷錦吾選手などと同じころに在籍していたことになる筈である。)沖縄戦の「健児の塔」とか、美空ひばりと共演した『伊豆の踊子』(これを見たある若い国文学徒が、この石浜朗を見て若き日の川端康成そっくりだと驚いていたことがあった。またこの美空ひばりを見ると、彼女へのイメージが変わる人も出るだろう。余計なお世話だが、ついでに一言)とか、昭和20年代の後半から30年代へかけての、戦後の空気を最大公約数的に担い、伝えつつ、いまでいう青春ドラマ(などという言葉はもちろんなく、実態も天地ほど異なるものだったが)を演じた俳優、ということになる。だが、その死を伝える記事を読むと、代表作として『切腹』その他を挙げるのはいいとして(演技者としては、まあたしかに、『切腹』を以って代表作ということになるのだろう)、より若き日の、ということは、スターとして最も輝かしかったころの、それから、その存在が「時代」を語ってはるかに雄弁であった「学生服」を着て演じたもろもろの作品に触れた文章にはお目にかからない(ということに、私などはいまさらながら、軽い、しかし結構深い、衝撃を覚える)。書いた記者が往時を知らず、何かを調べて書いているからであろう。よく政治家などが、後世の史家に俟つ、などと聞いた風なことを言うが、後世の史家というのも案外、頼りにならないものかもしれない。

数年前、同じく松竹映画のスターだった有馬稲子と共演した『白い魔魚』というのを(原作は舟橋聖一が朝日に連載した新聞小説で、中学生だった私はちょいと背伸びをしながら愛読していた)、なつかしさに惹かれて池袋の文芸坐に見に行ったら、何と当の石浜氏ご本人がゲストとして上映後に登場、アフタートークをするという「幸運」に巡り合った。そのときすでに80歳ということだったが、歳は取っても、印象としては、詰襟の学生服を着ていた昔のイメージを損なうことはなかった。むしろ、あまりにも変わらなかったとも言え、そこが、やっぱり石浜朗は石浜朗だ、という感じだった。きっと、いつ会っても、いい人だったに違いない。

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島田陽子、となるとこっちはもう、それなりの年齢になってからの人だから、同じ「懐かしい」と言ってもその度合いは全然違う。この人の場合も、訃を伝える新聞やテレビの報道はなにやらお定まりのことを伝えて終わったようだが、何と言ったってこの人は、一介の素人娘が、朝日新聞が莫大な懸賞金を投じて新聞連載小説を募集して大きな関心を集めた入選作、三浦綾子作の『氷点』の映画化に当ってヒロイン役として発見され、演じ、一躍スターとして売り出した、あのことを語らなければ、このスターの全貌を、ごく簡潔になりと、語ったことにならないのではあるまいか。少なくとも一言も触れないという法はないだろう。そのうえで、他に数々の名演技があるなら語ればよいではないか。既成のスターには求められないものを求めての,新人発掘に選ばれたところに、往時を、往時のこの人の有り様の意味を、雄弁に語ることになるのだ。

それから数年後、安定したスターとなりおおせた彼女と、劇場の椅子で隣り合わせたことがあった。後の坂田藤十郎、当時の先代中村扇雀が、歌舞伎から全く離れた形で武智鉄二演出の『四谷怪談』に田宮伊右衛門役で出演、かなり大きな話題と注目を集めた公演が岩波ホールであった時のことだった。といっても、ただそれだけの話である。(つまり、そういうことを言いたくさせるだけの存在であったというわけである。)

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コロナにもマスクにもうんざりしながら、でも出かけるときには几帳面にマスクをかける。何やら、人間のいとなみや、人生そのものの、いやもっと大風呂敷を広げて、人間存在そのものの戯画のように見えなくもない。こんな勉強、何のためにするのかと勉強塾に通う小学生は思い、何のためにこんなことをしなければならないのだと、パパもママも,月給鳥と一緒くたに括られる人たちも、センセイと呼ばれる稼業の人も、それぞれの業務にいそしみながら、でもともかくも、マスクをかける。何十年かのちに、こうした光景を映した画像を、後世の人達が見ることがあったなら、笑うだろうか。それとも、気味悪がるだろうか、それとも・・・

プロ野球では、監督・コーチ・球団スタッフから、有名無名の選手まで、大ぜいがコロナに罹って試合が出来なくなったチームが出来た。大相撲の終盤、幕内の取り組みの半分近くが、東方西方、どちらか一方の力士がコロナにかかって休場、相手力士の不戦勝を告げる取組みが次々と続いて、あれが相撲ファンの集まりだから場内溜息の連続、というニュースで済んだが、街中の何かだったら、何かが起きていても不思議はない。運転手が皆コロナにかかってしまい路線バスが休業というニュースがあったが、審判や行司がコロナで休場,試合や取組みが出来ないということもあり得るわけだ。やれやれ、である。

・・・・というところで、今月はお終い。お暑うございます、お体お気をつけなすって・・・。

随談第654回 ON THE SHADOWY SIDE OF THE STREET

街を歩いていて「片陰」という言葉を思い浮かべる季節となった。日が高くなって、道の片側にしか日陰が出来ない。陽ざしを避けてその日陰を拾って歩くようになると、もう夏だなと思う。反対に、陰になっている側を避けて日当たりのいいところを選って歩くようになると、そろそろ冬だなと思う。もっとも「片陰」は季語としては夏という約束だが、それよりも、いまどきそんな歩き方をしていると鋭い警笛に非難叱責されるかもしれないから(「叱声」に対する「叱笛」(しってき?)という言葉が出来て然るべきか)、片陰、などという言葉は日常語としては絶滅危惧語になりかねない。先ごろの朝ドラの『カムカムエヴリバディ』で(あれはなかなかよかった。朝ドラ近来の佳作だった)、ルイ・アームストロングのON THE SUNNY SIDE OF THE STREETがテーマになっていたが、あれは日本の冬の時代が舞台だったからという隠し味だったのだろうか。

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染五郎の好演で今月の歌舞伎座第二部『信康』がスター誕生の感を呈することとなった。評は木挽堂書店刊行の『劇評』第4号に載せるのでそちらをご覧願うとして、舞台を見ながらふと頭をかすめたのは、久しぶりにこういう芝居を見るという思いだった。むかし見慣れた景色に思いがけず出会ったような、一種なつかしいような気分と言おうか。

作者の田中喜三という名前を見るのも、思えば久しぶりである。よくその名を見たのは昭和も四、五十年ごろだったか。きちんとまとまった几帳面な作風という印象と共に記憶している。この『信康』もいかにもそうした作で、信康役の染五郎だけでなく、家康の白鸚も、家来の役の鴈治郎も錦之助もその他誰かれなく、真摯に、いわばそれぞれが役になり切っていて、隙とか遊びというものがない。それが、17歳にして自ら決意して退学し歌舞伎俳優として専念するという染五郎の強い思いと、劇中の信康と重なり合って、好演・好舞台を生んだわけだろうが、翻って思ったのは、昨今の、舞台にせよ映像にせよ、よく言えば遊び沢山の作劇が常識・常態となってからこっちの世代の観客に、こういう芝居がどう映っただろうかということだった。まあ今度の舞台では、染五郎のひたむきさは若い観客にもそくそくと伝わったであろうが、それにしても、こういう遊びのない、ひたすらリアルな劇の運びを、どう思って見ただろうという興味(と不安)は涌く。違和感、とは言わないまでも、勝手の違うような思いを抱いたとしても不思議はないのではあるまいか?

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テレビを見ても、大河ドラマでも朝ドラでも、作品の出来不出来、好感を覚えたか否かを問わず、ずいぶんドラマの作りが変わってしまったことに驚き、ときに呆れながら見るのが常となって久しい。よく言えば奇想縦横、裏返せばハッタリ沢山(と、私のような旧弊な人間には時として見える)。現在放送中の『ちむどんどん』にせよ『鎌倉殿の13人』にせよ、脚本の運びは手練れというか名人芸の域にすら達しているとも言えるが、とにかく絶えずめまぐるしく見る者の意表を突き、引っ張りまわす。ああまでしなくても、と私などは思ってしまうが、ああしなければイマドキノ視聴者はじっと見ていてくれないのかもしれないし、まず作者ご本人が不安でならないのかも、という気もしないでもない。演者の演技も、コントを見るような羽目の外し方をするのが当然、ドラマの演技というのはそういうもの、とされているようにも見える。

最近、夕方4時台という時間帯にNHKでしばらく昔の朝ドラを再放送するようになって、仕事の合間の一服がてら眺めていると、なんとも「古風」というか、マジメというか、時にカッタルイというか、ナツカシイと言えば懐かしい思いがする。昔と言っても、あの時間枠の第一作の、昭和36年だったかに「テレビ小説」と称して放送した獅子文六の『娘と私』ほどの大昔ではない(この「テレビ小説」というのも、それ以前に「ラジオ小説」と称して、名のある作家の有名作を朗読や放送劇(という言い方の方がラジオドラマというより普通だった)の形で定着していたのを踏襲してのネーミングだった筈だ。まさしくあれは、作者自身を思わせる「私」なる人物の独白の形で流れるナレーションで物語が進行する、即ちまさしく、目で見、耳で聞く「小説」だった。)その「テレビ小説」から「小説」の二文字が取れ、やがて「朝ドラ」という言い方が定着してからずい分長い年月が経つわけだが、最近夕方に放映されていたのは昭和の末か平成の初めごろと思しい作だから、われわれ年配者からすればそれほどの大昔というわけではない・・・筈なのだが、いま見ると、私から見てもたしかにちょいとカッタルイ感じがしないでもない。しかしおそらく当時はこういうものと思って見ていたのだろう。(朝ドラというのは、朝の小忙しい時間帯に合わせて、時計代わりに見るもので、ジッと画面を見ていなくとも凡そ見当がつくように作られているのだとよく言われていたものだったっけ。いまだってそういう条件は変わっていないだろうから、してみると、突如、羽目を外したようなオーバーアクションやギャグが飛び出すのは、視聴者の目を画面に呼び戻そうという試みとも見える。)

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『信康』から話が引込線に入り込んでしまったが、この作に限らず、ある時期までの歌舞伎の新作物といえば(北条秀司とか宇野信夫とかいった独自の作風をもった大家の作は格別として)、大なり小なりこうした感じのものが普通だった。つまり、突如話の風呂敷を広げれば、逍遥・綺堂以来の新歌舞伎というのは要するに西欧近代劇のリアリズムに準拠した作劇法を和風に馴化しつつ定着させ、その延長として戦後の新作歌舞伎にまで及んだものだったわけで、昭和も末ごろに活躍した田中喜三のような作者の作風も、そうした流れの一脈だったことになる。『鎌倉殿の13人』に登場する宮沢りえ演ずるところの北条時政夫人と、坪内逍遥がマクベス夫人を念頭に書いたという『牧の方』の主人公を並べて見ると,新歌舞伎とテレビドラマの差異を越えて、明治から令和へ、遥けくも来つるものかなと感慨無きを得ない。『牧の方』はたった一度、歌右衛門がしたのを見た切りだが、とにかく何やら物々しいものだった。『鎌倉殿の13人』の作者が如何に坪内逍遥の詰屈さから解放されているか、思い半ばを過ぎるものがあるが、その意味では、曾我の五郎・十郎が助六や白酒売り粕兵衛となって花の吉原に出没する歌舞伎十八番『助六』の自由闊達融通無碍の境地に比べれば、まだまだマジメ一途、進化?の途上にあるのかもしれない。

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朝ドラと大河ドラマの話が出たついでに、毎回冒頭に出るスタッフと配役の出し方について、以前から一言したいと思っていたことがある。いや、一言では済まないから、箇条書き風に書こう。

その1)まず役名と役者名の出し方。背景に凝るのはいいが、木洩れ日だとか霧だとか白砂だとかの背景の上に白っぽい文字で役名と俳優名が次々と出ては変わる。しかもかなりの速度で切り替わるケースがちょいちょいある。当然ながら、逆光や白っぽい地の上に白い文字は読みにくい。外国映画などでは昔からままあったことだが、昔の映画のクレジットは画面いっぱいに大きい文字で出たから格別読みにくいというほどではなかった。要するに、視聴者の見やすさより自分の美学を優先する「芸術家」が担当者に多いのだろう。

その2)『鎌倉殿の13人』の配役紹介は覚える暇がない速さで次々に切り替わる。出演者の人数が多いせいでもあろうが、馴染みのない俳優の名前が目まぐるしく流れては消え、消えては流れするのは、担当者は、すべての視聴者が出演者の顔と名前を熟知していることを前提にしているのではあるまいか?(せめて、その補いの意味からも、その人物が劇中に登場した時に役名をテロップで出してくれれば!あれは誰だと判って見るのと、何者か判然しないまま見ているのとでは、興味の有無に大きな差異が生まれる。特にこの手の「歴史劇」?の場合、役名と結びつけて覚えないと感興を殺ぐことにつながる。

その3)現代劇の場合、小さな役の人物が劇中で名前で呼ばれる場面があるわけでもないのに、「原小百合」とか「小谷翔平」とかいった風に役名だけを出されても、その「小百合さん」や「翔平氏」がいつどの場面に登場したどの役の人物なのか見当がつかない…ということがしばしば、いや必ずのようにある。

以前、芥川比呂志のエッセイを読んでいたら、どんな端役でもそれぞれ一人の人間なのだから、作者は「役人A」とか「兵隊B」などとしないで名前をつけてもらいたいと書いていたのを思い出す。なるほど、と小さな役をつとめる無名の俳優を思いやるその床しさに感じ入ったものだが、これではせっかく名前を付けても、どこに出ていたどの役だか、観客・視聴者にはわからない。「吉永節子(魚屋のおばさん)」とか「小谷翔平(区役所の窓口のおにいさん)」と書くだけの、いま一歩の配慮を何故してくれないだろう?

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訃報(その1)沢本忠雄86歳。この人とか川地民男とか、日活映画を見ているといつも出てきた。かくべつ上手いと思ったこともないが、いろんな作品である種の役どころをソツなく勤めてかなり長いこと働き、テレビや舞台に移ってからも結構息が長かった。ああいうポジションというのは、長く俳優人生を続けるのになかなかよさそうに見えるが、どうなのだろう?7番か8番を打って打率2割3分か4分、という選手がいるが、一試合に一安打、いいところでチームに貢献する安打を打てれば、3割も打たなくとも、本塁打を20本も30本も打たなくとも、その道で息長くやっていけるのと同じかもしれない。

その2)マヒナスターズの松平直樹88歳 「愛して愛して愛しちゃったのよ」という大ヒット曲はいわゆる名曲ならぬ名曲というべきものだった。果然、はるか後年の、皇室を揺るがしたあの恋を先取りしていたのである? まさか!

その3)ジャン=ルイ・トランティニャン。特に言うこともないが、、、まあ、記憶に残りやすい役者ではあった。

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と、ここまで書いてきたところで、歌舞伎界から二つの訃報が届いた。

改めてその1)坂東竹三郎 この人の真価を知ったのはじつは晩年に至ってから、それも東京にいてはなかなか触れる折がなく、まめに関西まで足を運ばないと機会も多くはなかったが、それでも『有馬猫』は見逃したが『女團七』を見たのがせめてもだった。その存在を知ったはじめは、『演劇界』のグラビアで坂東薪車の名で関西での活躍ぶりが紹介されていたのを見たことで、昭和30~40年代という関西の歌舞伎の状況の中で、自主的な公演などを催して気を吐いている様子だった。昭和ひと桁生まれ(田之助と生年から誕生日まで、即ち同年同月同日の生まれということは、短い間に相次いだそれぞれの没後に知った)という、不運な巡り合わせにもかかわらず奮闘していて、二桁生まれの秀太郎・孝夫の松島屋兄弟に先んじているかに思われた。師であり養父であった尾上菊次郎は先代富十郎の実弟だから、われわれのよく知るあの富十郎の叔父にあたるわけだが、この人を初めて見たのも、富十郎が坂東鶴之助から市村竹之丞になった興行に、久々に東上、「口上」の席で「東京のお客様、お久しぶりにございます」と挨拶したのがその声を聞いた初めだった。東京オリンピックのあった年の春のことだから,まだ新幹線は開通していない。その同じ興行で、竹之丞と同時に、由次郎から田之助への襲名が行われたのだから、誕生日だけでなく、妙なところでご縁があった同士ということになる。

改めてその2)田之助についての思い出はいろいろある。その存在を知ったのは、東横ホールで由次郎と名乗るぽっちゃりと可愛い、とは私が言ったのではない、年配が由次郎と相前後すると思われる、私からすれば姉世代の女性ファンの間でじわじわと注目を集めていた頃だった。つまり、東横ホールの菊五郎劇団の花形公演で売り出した、ある意味では代表的な一人と言える。(この辺りのことは、旧「演劇界」に2001年から07年まで連載し、後に『田之助むかし語り』と題する自伝風の一書につぶさに語られている。編集を手伝ったから言うのではないが、数ある歌舞伎俳優の自著の中でもユニークな一書であることは疑いない。田之助の舞台を見たことのない人でも意表を突かれる、歌舞伎俳優なるものへの先入観の蒙を啓かれるという意味からも、お読みいただいて損はないとお勧めしたい。

こういったからと言って、田之助が変わり者でも異端児だったわけではない。むしろ良識家であり、会って話していてこの人ほど、いわゆる「役者」の臭みを感じさせなかった人もなかったというべきだろう。地下鉄の東西線に九段下(だったか)の駅から目の前に乗ってきて、オオ、ということがあったり、中央線の四谷から高円寺まで並んで吊革につかまったままお喋りを続けた、なんてこともあった。(新幹線のグリーン車ではない。)

のちの萬屋錦之介の初代中村錦之助や大川橋蔵と言った面々が子役から中供(ちゅうども)時代の同窓生、六代目菊五郎に可愛がられ巡業に連れていかれたといった戦中の日々を語る件の面白さもさることながら、戦争が終わったが、小学校を出ても算数の二桁の計算もわからないという現実に気が付くと、歌舞伎から足を洗って、中高生時代を全くの一少年として送ったという辺りに、余人にないこの人ならではの生き方が窺われる。その空白を取り戻すための、歌舞伎に復帰してからの努力の程が察しられるが、むしろそれ以上に、この辺りにこの稀有な一書の読みどころがある。

昭和14年春場所(と、かつては一月場所のことを呼んでいた)4日目、というのはかの双葉山が70連勝目に安芸ノ海に一敗地にまみれたという、近代相撲史上最も多く語られている日だが、この一番を7歳にして六代目菊五郎の膝に抱かれて国技館の桟敷で見ていた、という話は知る人ぞ知る逸話として、角通としての見識から北の湖理事長に請われて横綱審議委員になったことも知られているが、この本が出た時に、相撲解説の北の富士氏から、いろいろな人に読ませたいからと、版元に二十部ほど注文があったという。以て、その横審委員としての存在の有り様のほどが窺われるであろう。

七代目宗十郎の孫として、後の九代目宗十郎の訥升とひとつ違いの従兄弟だったわけだが、もうひとりの従兄弟の澤村藤十郎と合わせ三人の俊才が、もう見られないということになる。名門紀ノ国屋が、目の前でこういうことになろうとは思いも寄らなかったことである。晩年に膝の痼疾のために女方の役が困難になって立役を勤めるようになり(『入谷』の丈賀までやって、それがまた楽々と(という風に見える)やってしまう。三代目左團次や十三代目仁左衛門ような大家がつとめる丈賀も見たことがあるが、『矢口渡』のお舟で襲名したという人が勤めたのは初めて見ることだった。爺もやれば婆もやる。「六段目」のおかやもやった。これだって、錦祥女や尾上も勤めたという人が、普通ならやる役ではない。

その『国姓爺』の錦祥女や『加賀見山』の尾上をつとめた平成になって間もなくの頃が、身上としては盛りであったか。同じころ宗十郎が自主公演の「宗十郎の会」で『濡れ髪お関』という南北物の稀曲を出したとき、宗十郎の濡髪お関に田之助が放駒お関(つまり『双蝶々』の穴を行く芝居である)をしたのが、この現代歌舞伎において稀有な風を持っていた従兄弟同士二人でした最も実り多い精華だったと思っている。

だがもうひとつ田之助の真骨頂を語るうえで、私には忘れ難い記憶がある。まだ昭和の頃の中堅と言われた当時のことだが、歌右衛門が復活して当時レパートリーになっていた『二人夕霧』が出て、歌右衛門と芝翫の二人の夕霧に延若の伊左衛門という絶対の布陣の中に、田之助が吉田屋のおきさの役で出た時のことだった。終幕、二人の夕霧と伊左衛門が三人手踊りのようになってのひとくさりに、田之助のおきさが加わった途端の、得も言われぬ模様というものはなかった。クヮルテットのヴィオラ奏者の趣きだった。つまりそれが、古き良き昭和の歌舞伎に、わが田之助の占めていたポジションだった。

随談第653回 あれこれ

マスクをしなくてもよい場合、というのを政府が決めたというニュースがあったが、それなりの反響に留まっている感じだ。例によってテレビのワイドショーの識者が、同調圧力だの、個人の自主性だのと言った声を発している。これまたいかにも日本的な「景色」であろう。マスクは第二のワクチンである、と力説していたお医者さんもいたはずだが、歯痛から緑内障まで、私はいま現在罹っている医療に関することは一切、専門医の言うことをそのまま信用することにしている。

もっとも、私がマスクをするようになった動機の第一は、コロナ初期の頃、国電の車内でマスクの有無をめぐって乗客同士で諍いとなり、緊急停止させてノーマスクの乗客を降ろしてしまったというニュースを聞いて、オソロシイ世の中になったものだと思ったことだった。触らぬ神に祟りなしという、極めて「日本人的な」理由である。

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キッシンジャーなんて人がまだ生きていたのをウクライナ関連のニュースで見て驚いたのは私ばかりではないだろう。しかもまだ100歳にもなっていないというのも、ウームと唸らされる。この人が活躍したのはニクソン大統領時代の1970年代だから半世紀前だが、つまり半世紀というのは、事件出来事としては「大昔」だが、それに関わった者の人生としては、ひと流れの内に過ぎないのだ。(と、思ったら、今度は重信房子が釈放という。服役していたのは帰国してからこっちの20年間だが、「時代の中の人物」としては、これも1970年代、半世紀前の存在である。

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彼らよりもっと古い昔に活躍していた俳優などで、いまなお死亡その他の消息をとんと聞かないままのあの人この人が幾人か思い当たる。思うに相当以上の高齢に達している筈にもかかわらずだ。特にそれが、その美しさや風情によって、あるいはその知的な風貌やたたずまいによって、それぞれの時代で輝かしかった女優であったりすると一倍気になる。平安な余生を送っていてくれるようにと願わずにはいられない。

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私にとって、個人史の観点からすれば70年代というのはそれほど大きな過去ではない。「私という人間を作り上げていると思うのは、もっと前の時代である。つまり、いま振り返って懐かしい、というのは決して単に懐旧的抒情的な「思い出」の対象としてだけではないということである。

私に興味があるのは過去の事件・ニュースではない。有名無名・活躍の大小多寡ではなく、その人その人の人生の意味である。例えば「70年代」という言葉から、いわゆる識者がああまたかというようなあの事件この人物を挙げて決まりきった「時代」を論じるのを聞くとうんざりする。

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訃報欄に高橋よしこ、85歳、新派女優、という記事を見つけた。初代水谷八重子の弟子とある。85歳という年齢は、こういう経歴をもつおそらく最後の人、ということだろう。ところでこの高橋よしこだが、当時としては背が高くてちょっとバタ臭い、つまり新派の女優としてはちょっと異色なところがユニークで、私はちょっぴりファンだった。何という役がよかったというより、その存在の有り様で、ちょっと立ったところがある役者だった。

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夏場所は、初日を見てもうこれはもう相撲が取れない状態かと暗然となった照ノ富士が「何とか立派に締めくくってくれたのは何よりだったが、もう一つ、佐田の海なる力士が見せた相撲ぶりが爽快だった。その風貌・体躯・取り口、いまどきこれほど、かつての(昭和3,40年代ごろの)力士の姿・有り様を彷彿させてくれる存在はない。という意味で、かねてひそかに注目しているのだが、なかなか上位で取る、どころか、上位と当たる地位にまで届かない存在だった。(数年前、解説の舞の海氏が、佐田の海を上位陣に一枚加えたいですね、といった趣旨のことを言うのを聞いて、ひそかに敬服したことがある。)

褒めすぎを承知で言うと、かつて初代若乃花キラーとして鳴らした信夫山と重なるものがある。信夫山は関脇を最上位に常時上位で相撲を取ったが、しかしそれ以前の数年は中堅どころに留まっていたのが、ある時からひと皮むけてもろ差し名人・二本差し名人の「りゃんこの信夫」として名を成すようになったのだった。足駄を履き吊革につかまらずに山の手線を二周だか三周だかしたとか、いろいろな「芸談」を持っていた。みちのくのしのぶ文字摺りの福島は信夫郡の出身で、この点、若隆景とも通じ合う。その祖父という若葉山とほぼ同年配かと察するが、取り口の卓抜さ・地位、若葉山より一枚上の存在だった。体躯・出足早やに攻め立てる速攻の呼吸等々、佐田の海に面影の幾分かを偲ぶのが私の密かな愉しみだが、さてこれを機にひと化けできるかどうかだ・・・

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海老蔵が久しぶりに歌舞伎座に出演した。某紙の劇評に、「ほかに海老蔵の『暫』がある」とだけで済ませているのを見て、ヘーエと感服?した。と思ったら、スカイツリーの上から「睨んで御覧にいれる」様子がテレビのニュースに流れた。・・・というただそれだけの「二題噺」である…と、ここまで書いたら、團十郎襲名興行が本決まりになったというニュースが流れた。ホオ、という感じか。ここらで本街道に戻って、しっかりと歩み出してくれるなら言うことはないわけだが。

随談第652回 富士尽くし

濃厚接触者なるものになって、幸い陰性で済んだものの、月初めの7日間は外出自粛となり前売りで買っておいたチケットはフイになった。お払い戻しは致しませんという約束だから、丸損である。改めて中日過ぎの切符を買って無事見物はしたが、何だか不戦敗のような気がしないでもない。黙阿弥の芝居などで耳にする、三百落としたような心持ちとはここらのことを言ったものか。劇評は、先月から始まった木挽堂書店発行の『劇評』第二号に書いたのでそちらをご覧いただきたい。

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緊急事態もマンボウも政府が「発出」しないので、連休に日帰りで、久しぶりに箱根に出かけ大涌谷から桃源台までロープウェイに乗って富士を眺めた。思いのほかに高く聳えて見えるのは、まだ雪に覆われてはいるがあちこち雪が解けて「はだら」になっているために豪快な趣きが増している故か。考えて見ると、この季節にこうした姿の富士山を見るのは初めてのことだった。九年前の晩秋、桃源台から「海賊船」で元箱根へと渡って、湖水越しに真っ白に冠雪した秀麗な姿の富士を眺めて堪能したものだった。これで思い残すことはないとさえいうつもりになったものだが、いま改めてこうして新たな富士の姿を見ると、思い残すことはないなどと言ったって、未知のことはいくらもあることに気づかされる。(当たり前の話だが。)

山歩きというものを、学生時代にほんの真似事をした以外、したことがない私は、槍だの穂高だのはもちろん、上高地だのなんだのといった所へ行ったことがない。富士山も登ったことはないが、小学一年の冬休みに、当時沼津の千本松原に戦火を避けて疎開したまま住まっていた祖父に連れられて、そのころ沼津にあった御用邸を見物にかなりの道のりを歩いて行った折に、道々、振り返るとすぐ間近に雪を冠った富士が雄大な裾野を引いた全容を見ることができたのが、70余年も経ったいまなお目に焼き付いている。手前に裾を引くように連なっている山があって、あれは愛鷹山というのだと教わった。「愛鷹山」と書いて「あいたかやま」でなく「あしたかやま」と読むのだという。沼津からだと宝永の噴火でできた宝永山が手前に瘤のように張り出して見える。『忠臣蔵』の映画で大石東下りの場面で、宝永山が映っている富士を背景に大石の一行が江戸へ急ぐショットが良くあるが、元禄にはまだ宝永山はなかったのに、などというこましゃくれた知恵を身に着けたのは、もう少し後のことである。

それよりも、毎年夏休みに祖父の家へきょうだい揃って泊りがけで行き、千本松原の海岸で泳ぎを覚えたのがいい思い出だが、『伊賀越』の『沼津』のラスト、十兵衛と平作がこの世の別れをする有名な場面を見るたびに、石浜の海岸に寝そべって眺めた景色がそのまま舞台に再現されるのを愉しむのが、今でも、更なる情趣を覚えるよすがとなっている。『道行旅路の花聟』おかる勘平の戸塚の山中の道行の、一面菜の花畑の向こうに桜の並木が連なり、その上に雪を冠った富士が描かれる舞台の光景は、大正年間に大道具の担当者が当時の戸塚の山の上のスケッチをしたのに基づいていると聞いたが、『沼津』のラストの千本松原の舞台装置も、実際の情景のスケッチに基づいているに相違ないと、私は勝手に信じている。だってそうでもなければ、あんなに実際そっくりな情景が舞台装置として再現されるとは思われないからだ。

とまあ、今回は不急不要のお話ばかり。(今回も、か?)

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訃報欄に、山本圭81歳とあった。フーム、と小さく唸った。