随談第668回 目にはさやかに見えねども

地球温暖化ではなく○○化であるという、最近言い出された説には同感するところ大いにあるけれど、が、それはそれとして、35度だ36度だという天気予報士諸氏に合いの手を打って猛暑ぶりをいやがうえにも強調する各局のアナウンサー諸氏の嬌声?にもかかわらず、この数日、やはり秋は忍び寄っているのだと実感している。数字で表わされる温度だけが季節のバロメーターではない。35度という猛暑の中にも秋の気配は肌に感じられる。秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる、という古歌はやはりいまなお健在なのだ。「涼」という感覚、ひいては概念は、気温という数字によって表されるべきものではないと、たしか寺田寅彦で読んだように覚えているが違ったかしらん。

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西武デパートが池袋からなくなりそうだというニュースは、一文の関りもない私にもある種の感慨を抱かせる。昭和27年つまり1952年4月28日というのは、前年9月に調印したサンフランシスコ講和条約が発効した日だが、もちろん全くの偶々で、その日我が家は鷺の宮から当時の地名で豊島区の西巣鴨に転宅した。巣鴨といっても国電だと大塚へ三分,池袋へ七分、時間にすればそれぞれ10分と10数分という距離だったが、まず驚いたのは、猫の額ほどの庭土を掘ると瓦礫がざっくざく現れたことだった。つまり、昭和20年4月13日の城北大空襲でこの辺り一帯が壊滅した跡地だったからで、築地の癌研究所の分院が広島の原爆ドームをもう三倍も大きくしたような姿で残骸を曝していたり、後に知ったことだが近所の国鉄の官舎がかつては渋沢栄一一家の屋敷跡であったとか、つまり戦前はちょっとしたよき住宅地であったのだという。

でさて、話はひと落ち着きした五月の連休の一日、家族で池袋へ出かけた時の池袋駅周辺の光景である。明治通りのいま家電量販店が立ち並ぶ駅東口のとっつきに当時は映画館が数軒ならんでいた。現在は路地をやや奥まったところにある文芸坐も、その一軒として表通りに並んでいたが、それと斜めに向かい合う形で、現在デパートの一番端に当る見当の位置に木造二階建てでスレート瓦を屋根に載せた切り妻造りの(つまり一番簡素な建て方である)建物があって、それが西武デパートだった。大きな道路を隔てたほぼ向かい側に囲いをした土地があって、やがて三越がここに出来るらしいという話だった。つまり、西武百貨店としては、とりあえずの仮店舗でまずは開業した早々の姿であったに違いない。その後あれよあれよという間に拡張又拡張して今日の姿になったわけだが、西武百貨店のみならず池袋の街の原風景として忘れ難い。

やがて駅の反対側に東武百貨店ができ、東口に西武、西口に東武デパートという笑い話の種になったが。そういえば、その東武百貨店はもちろん東口の西武よりも一足先に、東急が進出していた一時期もあったはずで、これはあまり大規模にならないままに撤退したのだった。とんだむかし話だが、今度のニュース報道の中で,どこやら局のアナが、80ねん池袋の街の象徴だった云々と言っていたのはちと大袈裟、80年前では戦争前のことになってしまう。言い間違えのチョンボというには、ちとまずいのではあるまいか?

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国立劇場のさよなら公演がいよいよ残すところ二カ月となった。昭和41年11月がこけら落としの第一回公演、『菅原』を翌12月にかけて通し上演したのだったが、几帳面にもさよならの方も9月10月と『妹背山』を二カ月通して、帽子と靴のコンビネーションを図っている。(国立開場の更にひと月前に開場した帝劇で二代目を襲名した吉右衛門は、国立開場の『菅原』の「車引」で桜丸をしたのだったっけ。松王丸ではありませんよ。まさに往時茫々とはこのことだ。

それにしても二代目披露は6年後というのでは私など旧人はまず立ち会えないだろうが、それよりも気になるのは、その6年間をつなぐ劇場が今なお噂の域に留まって正式の発表がなされていないことだ。いくつかの劇場を転々とするのであるらしい、とは人の噂。歌舞伎座には新橋演舞場という控え櫓の劇場があったから少なくともよそ眼には揺るぎなかったが、こちらはそうした控え櫓を持たないのがつらいところ、というわけだろう。まあそれはそれとして、よき締めくくりの舞台を見せてくれることを期待しよう。

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そのさよなら公演も、九月の文楽公演はこれが文字通りのさよなら。次回12月公演は北千住との由。すでに現実の話である。

では今月はこれ切り。

随談667回 ふたりの人間国宝

中村歌六が人間国宝に認定された。近ごろ嬉しいニュースである。実は私はずいぶん久し昔からこの人のひそかな贔屓だった。いまはゆっくり論じているゆとりがないので、せめてという思いで『劇評』の次号に短い「讃」を書いたからお読みいただければ幸いである。

同時の認定として五街道雲助が人間国宝になった。歌六とは意味合いが違うし、そもそもこの人について語れるほど多くは聞いてもいないが、しかしこれも嬉しいニュースであることに変わりはない。五街道雲助は十代目金原亭馬生の愛弟子で、寄席に足を向けなくなって久しいから近ごろの高座は聴いてないが、さぞかしいい噺家になったであろうことは容易に察しが付く。師匠の馬生は、私が一番熱心に聴いていた頃がちょうど脂の乗り盛りだったから、いいところをいろいろ聴いている。いい噺家だった。円生も先の正蔵も、先の小さんも健在でそれぞれの頂点を極めていた時期でもあったが、そういう中で、私が一番好きだったのは馬生だった。当時まだ先の新橋演舞場が健在で、どういう構造になっていたのかいま思うと不思議なようだが、ともかくその二階に畳敷きの稽古場があって、そこを会場にして馬生が三夜連続で「お富与三郎」をしたことがあった。もちろん、こういうのは自身の工夫と才覚で復活上演するのである。当然のこととして(とは言っても、当時はそういう暇だけは充分あったればだが)三夜とも聴きに行った。とりわけ「島抜け」が圧巻だったのが忘れ難い。「島抜け」は歌舞伎だと、国立劇場で勘弥がやったのが今もって唯一の実見で、こちらは流刑地が伊豆で、島抜けをして辿り着いた岩に這い上がると朝日が昇ってくるのが型になっている。これはこれで忘れ難い場面だったが、噺だと佐渡の金山の断崖から夜の闇に紛れて海中に飛び降りるのだからその迫真力というものは、話芸でなければ不可能だろう。

と、さてそのときに、三夜、前座をつとめたのが五街道雲助の、そもそも存在を知ったはじめだった。かれこれもう半世紀になんなんとする(何という時の流れの速さよ!)昔だが、今もって五街道雲助などという名前で通しているのも、何か深い思いがあってのことと思われる。もちろんその間の、いくら寄席から足が遠のいたと言っても、今日に至るまでの経過は、幾度か目に耳にして知らないわけではないが、この度の朗報は、師の思い出と共に、さまざまな思いを蘇らせてくれた。
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恒例のようになってしまったが、毎回、目にした訃報を書くのも、それだけわが関心事だからに違いない。この頃はテレビドラマを見ていても、出てくる俳優で名前と顔が結び付くのは十人に一人あるかないか。別のドラマで違う役と扮装で出てきても、あああれだ、ということにならないことも珍しくない。そこへ行くと昔の俳優は・・・まあ、関心の持ち方が違ってしまったのが一番の理由かもしれない。

さて今回の訃報だが、旧聞ながら杉下茂、平岩弓枝、わりに最近聞いたのでは那智わたるとか幾つかあったが、ちょいといまは勘弁してもらって、杉下氏だけに限らせてもらおう。

今回改めてつくづく思ったのは、一リーグ時代のプロ野球を体験している最後の人だということだった。一リーグ時代は、今で言うところの変則ダブルヘッダーが普通だったから、球場へ見に行くと、毎回二試合、4チーム見られることになる。一試合が3時間を超えるのが当たり前になっている現在からすると、試合の運びもずっと速かったわけで、もし今、当時のプロ野球を実見することが出来たならどういう風に見えるか、興味深いものがある。部分的には、黒澤明の『野良犬』とか、『エノケンのホームラン王』などといった往年の映画を見ると往時の様子の一端が窺えるのだが、しかし所詮、それは「部分」であることを免れない。(どちらも、1949年、すなわち一リーグ時代最後の年の実写映像だが、見れば感無量のものがある。とりわけ、当時の後楽園球場のスタンドの模様といったらない!)

と、いきなり杉下氏のことから脱線してしまったが、しかし、やれフォークボールがどうのといった、現在でもどなたも知る話をしたところで意味がないだろう。私にとっての杉下は(いや、当時の他の誰であろうと)忘れ難いのは、そういう「語り伝えられた」、すなわち「語り伝えることが可能な」事実ではなく、球場で見た、いやもしかしたら、ラジオの実況放送で聴いた(つまり実際には目で見たわけではない)誰それ彼それの姿なのだ。中日で言えば、西沢道夫も、服部受弘も(この人は確か、投手と捕手を兼任していたが、他にもこういう選手は幾人もいた。つまり投手として投げない日は捕手を務めるわけで、当時はこういう「二刀流」もあったわけだ。オオタニサン、あなた、キャッチャーもやってみませんか? と、誰か勧める人はいないだろうか?)、杉山悟も、藤原鉄之助も、みんなひとしく、そうした「眼中の映像」の中で生きているのだ。遊撃手として監督を兼任していた杉浦清が、何やら大声で指図をしながら遊ゴロを処理する、いかにも理論派のうるさ型らしい姿とか。(この人は弁護士になる資格を取るために明大の大学院まで行ったと聞いている。尤も、実際に資格を取ったかどうかまでは知らないが。)

当時眼鏡をかけた選手は、杉下の外にも、阪急の野口次郎とか阪神の御園生とか梶岡とか、南海の武末とか、二リーグになってからだが毎日の荒巻とか、眼鏡をかけた名投手は何人もいたが、思えばみな投手だったのは当然だったかもしれない。当時の眼鏡はみなフレームがまん丸だったから、正直、あまりスマートな感じではなかったが、杉下はあの長身と風貌によく合っていた。目に残るのはやはり投球フォームで、杉下のあの長身と、魔球フォークボールは切っても切り離せない。実際には、川上など限られた相手以外には投げていないとご本人が語っているのだから、事実はそうだったのだろうが、こちらは、あの長身から繰り出される玉はどれもフォークボールだと思って見ていたわけだ。(少なくとも、そう思っていたいという気持ちがあったのは、誰しもだろう。)

 こう見てくると、野球が変わったのは、二リーグになったからではなく、長嶋以後と見た方がよさそうだというのが、私の意見である。どっちがいい、という話ではない。旧石器時代と新石器時代のように、原稿用紙に手で文字を書いていた時代と、パソコンを指で打つ時代、更にはスマホやらナンタラカンタラに指先でちょいちょいと突っついて文章をつくる時代の違いと、どこかで通ずるものがあるような気がする。

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長くなったから後は簡略に行こう。豊昇龍の優勝はよかった。四つ相撲でありながらあの瞬発力が、豪快な投げ技を可能にする。しばらく前、このところ「休場」中の解説の北の富士氏が、豊昇龍を「初代若乃花」と言ったことがある。我が意を得た。叔父の朝青龍をはじめて見た時(横綱になって間もなくだった)、瞬時に、これは初代若乃花だと思ったことがある。(体の綺麗さも若乃花を彷彿させた。)朝青龍はその後あまりにもヒールのイメージが強くなりすぎて自ら土俵人生を短くしてしまったが、若乃花は、ヒールとは違うがある種の放胆な感覚を持ち、そこに独自の人気の源泉があったと思う。横綱大関を撃破しながら同等以下の相手に取りこぼすため、毎場所8勝7敗が続いて何場所も小結に留まっていた時期がある。ゲンを担いでか若乃花の「乃」の字を初めは「ノ」だったのを「の」に改めて大関になり、そこでしばらくの停滞を今度は「乃」の字に改めて横綱になったのはご愛敬だが、洗練された名人芸と風格ある土俵ぶりがいかにも名力士のイメージだった栃錦との好対照が、戦績や力量上のライバルに留まらない面白さがあったのだ。私は栃錦のファンだったが、若乃花のすばらしさも認めるにやぶさかではない。豊昇龍に期待しよう。

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今回はこれ切り。8月の歌舞伎は、幸四郎が『新門辰五郎』をするのに注目している。

随談第665回 五月は長し

長い5月だった。明治座を見たのが初日の三日、歌舞伎座が六日、鶴澤津賀寿が人間国宝になったのを祝う会があったのが七日の日曜、そのあとに前進座の公演や文楽を見に国立劇場へ行く日が続くなど、まあ初めの二週間はいつもとさして変わらない足取りで日が過ぎていったのが、にわかに慌ただしく時が過ぎ、そのことが却って、振り返って日の経つのを長かったと感じさせる。理由はもちろん、例の一件である。しかし「あのこと」は、ここには書くまい。ここには、いつもと変わらぬ閑文字を連ねることにしよう。

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例によって訃報から。

中西太。その打者としての凄さは今更ここに書くまでもない。多くのことが言われ、書かれている。しかしいま思っても、昭和31年からの3年間で、それまでの常勝巨人で回っていたようなプロ野球を、大河の流れを変えるように変えてしまったのは、90年に及ぶプロ野球史でも屈指の大事件であったことは確かだろう。しかしその打った本塁打数の案外な数字は当時のボールが重かったことを如実に語るもので、記録というものの一面のむなしさを思わずにいられない。

池田敬子という名前を見たのは何十年ぶりだろう。女子の体操競技というものを一般人に知らしめた功労者と言うべきか。器具や用具も、今のような機能的でスマートなものでなく、学校の体育の授業で使っていた跳び箱だの何だのと大差ない野暮ったいものだった。選手の、とくに女子選手の体格スタイルも今とはずいぶん違っていた。尤もその分、池田選手は、今の選手とは比較ならない貫禄があったわけだが。

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栃ノ心が引退した。引退の弁を語る顔がじつによかった。相撲界のいろいろな事情で客の入りが悪く、昼頃から出かけても当日売りが楽に買えた10年前後の昔、東京場所には毎場所二、三日は見に行っていたひと頃がある。そんな頃、三段目の終わりごろから取組みを見ていると、ひと際立派な力士が控えに座っているので見ると栃ノ心だった。怪我で幕下の下位まで落ちていたのだった。以前、新入幕の頃、山ノ上ホテルの麓で姿を見たことがあった。のっぺりした感じであまり感心もしなかったが、その頃とは見違えるように気合の入った充実したいい風格だった。ひと目でファンになった。それからの快進撃で、十両へ、更には幕の内へと番付を戻し、次の大関候補は栃ノ心という声も上がったが、その通りだと私も思った。ちょうど逸ノ城や照ノ富士が上がってきたころである。実際に大関になったのは、その間に照ノ富士が大関になり、稀勢の里との一番で膝を痛めて陥落し、その稀勢の里が替わって大関になるといった諸々があってからで、期待したよりは大分後のことだったが、強引な取り口だがまさしく怪力無双といった土俵ぶりには風格があった。

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いまだに腕時計はねじ巻式、寒暖計は水銀柱が上がったり下がったりするのを目盛りで読む式のを使っている。水銀柱も20度を超える高さまで上るようになると、その量感から暑さが実感されるようになる。数字で24.5などと出るとのでは実感が違う。残念ながら、昔の寒暖計は、水銀柱をはさんで目盛りがFとCとになっていて、つまり華氏と摂氏と両方が測れたものだが、残念ながらいま愛用しているのは摂氏のしか目盛りがない。しかも誰かが旅先の土産物屋で買ってきたものらしい代物だからどこまで正確なのかも保証し難いのだが、一応、摂氏50度から氷点下20度まで測れるのだかられっきとしたものと考えていいに違いない。少なくとも、天気予報で予報官と女子アナが掛け合いでじゃれ合いながら、じゃあ何か羽織るものが必要ですね、だの、午後は半袖でいいでしょう、などというのより、わが愛用の寒暖計の目盛りの方が、暑さ寒さ、涼しさ温かさの微妙な程の良さが実感出来る。

腕時計も毎日一定の時刻に秒針を合わせるのが自ずからなる日課となっているが、最近途惑うのは、NHKのテレビで以前のように時報をきちんと放送しなくなったことである。以前は、正何時という時刻になると、ピンピンピンポーンと、ラジオ時代以来の方式で時報を鳴らしたものだが、最近は、シャシャシャッカーンといった感じの曖昧な音が鳴る。以前の方式だと、はじめのピンピンピンは陸上競技の「用意」に相当し、つぎのポーンが号砲一発に相当するものと自ずから分かったが、今のやり方だと、はじめのシャカシャカなのか、後のシャッカーンなのか判断がつけにくい。まあ、大体合わせればいいのだろうという感じで当てにならない感じが否めない。

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今月は芝居の話題はなし。大変な世の中になったものと思うしかない。

随談第663回 縁は異なもの・ホットなニュースとむかし話

随談第663回 縁は異なもの・ホットなニュースとむかし話

WBC優勝は同慶の至りだが、私が覚えている最古の日米野球といえば1949年、サンフランシスコ・シールズが来て日本のプロ野球が全く歯が立たないことだった。これがヤンキース傘下の3Aのチームで、監督のオドールという人は、戦前昭和9年にベーブ・ルース一行の全米軍に選手として参加していたという親日家で、翌年には愛弟子のジョー・ディマジオを連れて再来日、更にその三年後にはマリリン・モンローと新婚旅行のディマジオに付き添ってやってきたという人だった。コカ・コーラという飲み物を日本人が知ったのもこの時、折から開催中の秋場所を初日から3連敗して休場中の横綱前田山が、開会式でオドール監督と握手したのが報道され引退に追い込まれたといった副産物のニュースも忘れ難いが、とにかく、対戦した巨人、全日本軍、東軍・西軍(一リーグ時代最後の年の秋であるこの時点で、まだセもパも存在していない。名古屋、つまり中日、より東のチームが東軍、関西以西のチームが西軍である。「東西対抗戦」というのが、現在のオールスター戦に相当するものとしてあった。因みに「中日」とは本来「中部日本」の略称である。胸にCHUBU NIPPONと二段に書いたユニフォームが懐かしい)などが対戦したが、部分的な善戦健闘はあっても、要するに全く歯が立たなかった。本塁打一本すら、川上も藤村も大下も打てなかった。(翌々年に大リーグ選抜軍が来訪した時、中日の西沢と毎日の別当が打ったのが、(戦前のことは知らないが)日本人選手がメジャーリーグの投手から本塁打を打った最初だったと覚えている。

あれを思えば今回の快挙には感慨もひとしおどころではないが、大方の方々と同じようなことを言っても仕方がないから、ただひとつ、多分あまり多くの人が言わないだろうと思うことを書くことにしよう。それは、今回の快挙をよい潮時として、オリンピックの代表を、アマとノンプロの選手に戻すべきだということである。他の国々はどうか知らない。しかし他国はどうあれ、日本の野球は、もうこれ以上、メダルを取るためにプロ選手がアマやノンプロの選手の晴れの場を奪うことはないではないか。WBCにもいろいろ問題はあるにしても、今度のような実績を積み上げて日本が存在感と発言力を強めてゆくのが何より肝心なことだろう。

もうひとつ、今度の大会でチェコの選手が全員、本業を持ったアマチュアだったということが話題になり、大谷が、あの人たちこそ本当の二刀流だと言ったそうだが、これを聞いて、私は改めて、人物としての大谷を見直す思いだったことをつけ加えよう。

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横綱と大関が休場した春場所は、結局最高位となった関脇から優勝が出たのだから番付の権威は守られたという理屈になるが、そんなことよりも、大栄翔と優勝を争った霧葉山が、本割と決定戦と二番続けて同じような展開、同じ決まり手で勝って優勝を決めたのを見て、昭和27年の秋場所、関脇だった栃錦が(もっともこの時は千秋楽ではなく中日八日目の結びの相撲だったが)横綱の東富士を二番続けてうっちゃりで破った一番がこの場所の潮目を大きく変える決め手となって初優勝をしたという、昔話をする気になった。(昭和27年は1952年、何と71年前ということになる。さすがに、ウームと唸らざるを得ないが、WBCの快挙から1949年のシールズ来訪を思い出したのと言い、むかし話というのは、記録を調べて何かを言うのとはまた違った意義があるのだと信じたい。)東富士は「怒涛の寄り身」と呼ばれた、相手の上手を引き付けて一気に寄り立てる相撲が身上(この頃流の表現によると「持ち味」か)で、この時も、48貫160キロという巨体でわずか24~5貫80数キロという相手を鎧袖一触の勢いで寄り立てたのを、土俵際一杯で両足が俵に乗った姿勢で打っ棄った。物言いがついて取り直し、今度も同じように怒涛の寄り身で寄り立てる横綱をまたも土俵一杯で打っちゃって勝ったのだが、一度目は右へ、二度目は左へ(逆だったかもしれない)うっちゃり分けたのもさすが技能派と評判になった。当時の栃錦は、24~5貫という細身で、毎場所の様に技能賞を貰う技能力士として評価も人気も高かったが、良くて10勝どまり、大関になる力士とは思われていなかった。まして横綱になるとは、たぶん誰も考えていなかったろう。霧葉山は、それに比べれば大関候補として名が挙がっているだけ上等だが、イメージとしてはまだちょいと距離がある。しかし一風ある相撲ぶりには他人にない多様さに加え、寄り身や力強さが加わってきた昨今を見ると、案外、こういう力士が名を成すことになるのかもしれない。

ついでに言うと、豊昇龍にも初代若乃花の再来を期待したくなる。彼の伯父(叔父?)の朝青竜を初めて目の当たりに見た時、すぐに初代若乃花を連想したことがある。初代若乃花も、大敵を食っても同等以下の相手に星を落とすので毎場所8勝9勝を続けて、長いこと小結関脇を動かなかった時期があった。それが、ひとつきっかけを掴むとあれよという間に無敵の力士になったのだった。

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訃報さまざま

大江健三郎氏と扇千景氏の訃報が、命日は違え同じ日の新聞に載ったのはたまたま同じグリーン車に乗り合わせたようなものだろうが、大江氏については、私がここで何やら言うまでもなく多くの識者の言説が出るに違いない。既に目にした限り、私も大筋、異存はないので、例によって他愛もない昔話と行くことにしよう。デビューした頃のこの方の文章というと「ナニナニマルマルであった僕は…
という風な、英文法で言うところの関係代名詞を多用した、逐語訳の翻訳というか英文和訳の訳文を読むような感じで、中里介山だの吉川英治だの、大佛次郎は時にフランス語風が混在するから一風違っていたが、ともあれそういった人たちの文章に馴染んでいた当時の私としては、えらく読みにくく感じられたものだった。大江健三郎って喋るときも「何々するところの僕は・・・」なんて調子なんだってさ、という話も聞いたが、ウソかマコトかまでは知らない。

扇千景氏のことは、しばらく前に誰だかの訃の折に書いた記憶がある。初めて見たのが
宝塚在籍中に大佛次郎の小説を映画化した『照る日くもる日』でだった。まだ二十歳前の長門裕之の新妻の役で、大きな瞳が印象に残った。つぶらな瞳とはこのことかという感じだった。当時の東宝の時代劇というと、宝塚映画製作・東宝配給という形のものが多く、宝塚の女優(とは本当は言わないわけだが)がしばしば出演した。あの顔は、齢を取り参院議長という三権の長となって、いわば位人臣を極めてからも基本的には変わらなかった。

橋爪四郎 こういう人の訃報こそ、さまざまな記憶を呼び覚まされる。今となっては、古橋広之進の名は往時を知らない人でも知っているが、橋爪四郎の名を知るのは往時を知る人だけかもしれない。だがその「往時」にあっては、「古橋・橋爪」と常にワンセットの様に並び称されていたから、その名を知らない人はいなかった。ヘルシンキのオリンピックは戦後日本が久々に参加した大会という格別の思いのあったオリンピックだが、夙に記録の上で世界水準を大きく上回っていた二人にとっては、やや盛りを過ぎた年齢になっての初出場だった。古橋は400㍍決勝に残ったのが精一杯で決勝は最下位の8着、それを見ていた橋爪は1500㍍で飛ばしに飛ばし、最後にへばって二着に終わった(などと、見てきたように言うのも、テレビはまだ存在せず、ガーガーピーピー雑音の合間からアナウンサーの声が聞き取れるラジオの現地中継で聴いたのだったが、あれほど切迫した臨場感は、すべてが整い何度でもリプレイしてくれる今のテレビでは到底味わえない)。しょんぼりとうなだれて銀メダルを貰う写真が新聞に載ったのは今も覚えている。優勝した紺野という選手は日系アメリカ人の米国代表、三位のブラジルの選手もオカモトという日系人だったから、なんのことはない、つまり日本人が金銀銅独占ではないか、という声も上がった。と、こちらも小学校6年生という、まあ、自分で言うのもナニだが、多感な年齢だったから、今なお記憶も鮮明である。

奈良岡朋子 この人を以って、戦後のいわゆる「新劇」を身に纏って全うしたビッグな存在はお終いかもしれない。それにしても、その訃を報じるNHKのニュースで、朝ドラ『おしん』のナレーションで親しまれた奈良岡朋子さんが亡くなりました、と言うのが何だか笑いたくなった。そういえば(だいぶ昔の話になるが)芥川也寸志が亡くなった時のニュースでも、「大河ドラマ『赤穂浪士』のテーマ音楽でおなじみの芥川也寸志さんが亡くなりました」というのを聞いて、ご本人が聞いたら何と言うだろうと思ったものだった。ベートーベンの時代にNHKがあったなら、その死去を伝えるニュースで、『エリーゼのために』で親しまれたベートーベンさんが亡くなりました、と言ったに違いない。

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3月の歌舞伎は、歌舞伎座・国立劇場とも『花の御所始末』『十段目』『髑髏尼』『曲舞』と、稀曲特集のような演目がずらり。意図してか偶然かは知らず、でもまあ、たまにはこういうのも悪くないかもしれないね。ではまた来月。

随談第662回 雑学大学

正式名称は東京雑学大学、私が関わりを持つようになったのは20年ほど前からだがそのころ既に確固たる活動を続けていた。設立者は大正の昔の早稲田の名ランナーで箱根駅伝初期の頃に、いまの河野太郎大臣の祖父の河野一郎などという人達と共にメンバーであったそうな、という大変な人で、私の知った頃もまだ健在だった。その名の通り「雑学」だから、専門などという小せえことに捉われない。森羅万象、硬軟大小、興味深いことならあらゆることが学びの対象になる、それを学ぼうという、即ち「雑学」のための大学である。対象は、個々それぞれさまざまな仕事で世に何らかの貢献して既に現役から離れたが、まだまだ学ぶ気持は旺盛に持っている、といった年配の人たち男女を問わず、そういう人たちのための「大学」をこしらえて、詳しい経営方法は知らないが財源はおそらく参加費用だけだったのではあるまいか。講師はさまざまな分野から伝手を通して、その都度都度に声を掛けられて授業を引き受けるわけだが、講師料はゼロ、即ち無報酬。但し、授業終了後、会場近くの中華料理店で(と決まっていたわけでもなかろうが、中華料理のことが多かったような気がする)でスタッフ(というのも、会員からの有志であろう)と打ち上げの会食をする、その費用はタダ、つまりご馳走になる、というのが決まりだった。

「大学」だから、まして聞き手(つまり学生)は上記のような大人たちばかりだから、そういう意味では普通の大学の学生よりむしろレベルは高い、というより、相手は大人である、ということである。何カ月かごとに、各講師それぞれ、こんな話をしたというレジュメみたいなものが会報に載るので見ると、さすがにその道で通った人たちだから大変なものである。私の場合は歌舞伎に関する話を、と言うだけの注文なので、まあ、名人上手が揃った寄席で、間に挟まってやる奇術だの音曲だのと同じく、色物と心得てつとめることにしたが、また次も、とお呼びがかかるのが続くことになったところを見ると、評判は悪くはなかったのだろう。いつの間にか出演ならぬ出講回数の多い方になっていた。実は歌舞伎より大相撲の方が小さい時から知っている。「菊吉」は見ていないが、双葉山は(見ているはずだが)記憶にないのは兎も角として、羽黒山・照国以降なら知っているといったところ、それでは大相撲の話も是非ということになって二回か三回はやっただろうか。

コロナになってしばらく中断したが、再開となって去年の二月に久しぶりでやったのが、結果として最後ということになった。創立者の方は大分前に亡くなり、その後は奥方が跡を引き継いでからも隆盛は続いていると見えていたのだが、閉学のやむなきに至りましたという挨拶状が届いたのが昨年の秋も末であったか。やはりコロナ禍故の諸々の事情が原因であったらしい。年改まってから、賀状に代えて寒中見舞いをお送りしたが返信がなかった。

とまあ、無慮20年余、ごまめの魚交じりのような講師としてのお付き合いだったが、こういう「大学」もあったのだということをせめてこの場に書き残して、最後のご奉公としよう。

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訃報数種

三枝佐枝子 久しく忘れていた名前である。「婦人公論」編集長という肩書で訃報が載ったが、私もそれ以上のことは知らない。但しこれに「女性初の」という冠がついたところに、かつてニュースになった理由があった。その折のインタビュー記事に、忙しい仕事の合間を縫って「ちょっと歌舞伎座を覗いてきました」と「この余裕!」という感じで報道されたのを読んだのを覚えている、というそれだけの細い糸のつながりである。

永井路子 杉本苑子と共に当時あまりいなかった女性の歴史小説作家として、年配・キャリア等々もほぼ相似ていたところから、当時はよくテレビでも見た顔だった。鎌倉物を本領とし大河ドラマにもなったはずだが、この程の大河ドラマ二作目の鎌倉物を最終回まで見た(かどうかは知らねども)すぐ後で逝去、というのも奇縁というものであろう。

辻村寿三郎と(おそらく本名で)新聞に載ったが、活躍していた頃は「ジュサブロー
と片仮名で書いていた。かなり前から見聞きしていた名だが、何といってもNHK(としても歴史に残る好番組であったろう)で毎夕、かなりの長期にわたって放送した『八犬伝』で、その面白さを、それも人形師としての立場から多くの現代人に知らしめたのが、大天晴れというものだった。あれ迄『八犬伝』などと言うと、知識人(というほどでなくとも、インテリを以って自認しているような人たち)はふふんと鼻であしらって見向きもしないのが通例だった。

われわれ世代には、ともにデビュー間もない中村錦之助の犬飼現八に東千代之介の犬塚志乃という映画があったが(ジャリ、と当時業界用語で言った、つまり子供ファン向けの安上がりの映画で、一回一時間足らずで5部作の二本立ての当て馬、つまり当たれば五週続けて見に来てくれるから「小人料金」(と当時は表記した)でも馬鹿にならない収益になるわけだった)、それはそれとして、私は中3のとき、リライトでは飽き足らず馬琴の書いた原作で読んでやろうと一念発起、学校の図書室から有朋堂文庫の6冊本を借り出して読んだものだった。(こういう大長編の小説を書くような作家になるつもりだったのだ!)受験勉強などそっちのけだったから、お陰で高校に入ってから悲惨な目に遭ったものだが、しかしまあ、受験勉強などにかまけるよりあの時原文であれを読んだのは、いま思ってもどれだけよかったことか。

入来ナニガシ 兄弟でプロ野球の投手としてそれなりに知られた選手となったのだからちょいとしたものと言っていいだろう。今度の訃報はその兄の方だが、選手としての戦績人で投げていた弟の方が上だった。兄は最晩年にヤクルトに移った一年だけ、なかなかの活躍を見せ、その年の日本シリーズで好投したのをたまたま見ている。と言って、解説者やコーチなどになるほどではなく、引退後は大分苦労しているらしきことを聞いたことがあった。それにしても交通事故死とは気の毒な話である。「入来」という、この兄弟以外には聞いたことのない名前は、「入り来たる」という意味で天孫降臨にまつわる苗字だと、誰かが言っていたのをヘーエと思って聞いたことがあるが本当かどうかは確かめていない。何でも猿田彦に関わりを持つ由来があるというのだが・・・

豊田章二郎 この手の人物について書くような材料は持ち合わせ皆無なのだが、何故ここに書く気になったのかと言うと、それこそ蜘蛛の絲のように細い細い縁(と、やはり言ってもいいだろう)が繋がっているからだが、これはもちろんあちら様のあずかり知らぬ話である。小学校5年生の時だった。社会科の授業か何かで、担任の先生が「皆が偉人だと思う人の名前を一人づつ言ってごらん」でなことを言ったことがあって、やれエジソンだ野口英世だとやっている中で、当時私が岡惚れをしていた女子生徒が「ハイ」と手を挙げると「トヨダサキチ」と答えたのである。トヨダサキチWHO?と思ったのが、この偉大なる一族を知った始まりであったというお粗末の一席。他のクラスメートが言ったのだったらそれきりで忘れてしまったのは間違いない。

伊藤絹子死す と聞いて、ああ、と思ったのは後期高齢者だけかもしれない。だがミス・ユニバース日本人初の第三位(というところが奥ゆかしい。オリンピックでも、金メダル続々獲得などというえげつない!ことは昭和20年代にはないことだった)という快挙!を伝えたニュースによって、それからしばらくの間に大人になった世代までを下限として、この名を知らない日本人はいなかった。だが彼女が時代に果たした意義はそれだけにとどまらない。「八頭身美人」、すなわち短躯短足の在来の日本女性の体格から抜け出して、長身で脚線美が売りの新しい型の美女の在り様を初めて身を以って導入したところに、彼女の果たした「快挙」の意味があった。「日本人初」である以上、これは余人にはできないまさに偉業であったと言える。つまり、戦後日本において様々な分野で「時代を変えた」人物列伝中の、彼女もその一人であったわけだ。90歳だったとか。

西山太吉 この人の果たした仕事についてはこんなところで私などが口を出す要はあるまいが、この名前を見ると、政権にある存在と渡り合うことの怖ろしさというものを思わないわけには行かない。どんな手を使ってでもつぶそうと思えば潰すことも、民主主義だのなんだのと言ったところで権力の座にある者にはできるのだということを、まざまざと知ったのはこの人の「あの一件」を通じてだった。つい近年にもあった「あの一件
にしても、いささか奇妙な学校ではあったが、その奇妙さ故に時の話題を引き起こしたあの経営者夫婦は、いまも獄中にあるのだ。

松本零士(の父) 劇画というものについぞ親しまなかった私は、かの高名なこの人のあの作も読んだ(と言うのか、見たというのか分からないが)ことがないが、この人の、かつて戦闘機乗りだったという父親の戦後の生き方を知って、せめてここにその名だけでも遺す気になった。

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二月の歌舞伎座は三部それぞれに落ちこぼれなく良かったと思うのだが、誰に言わせてもガラガラだったという。(なるほど、三部とも三階B席が簡単に買えたわけだ。)今更ながら、歌舞伎の興行の難しさを思わないわけにいかない。(コロナ禍中といえども)一年12カ月、歌舞伎を上演するのが今では当り前ようになっているが、これはじつはたかだかこの30年来のことなのだ。それまでは、歌舞伎で開ける月は、最悪の時は年に8カ月などという年すらあったのだが、ところが、そうしたどん底にあった昭和40年代50年代というのは、芸の上から言えば戦後歌舞伎の最も充実した時期でもあったのだから、客の入りの良しあしというのはまたそれとは別のことと思わなければない。

当時の歌舞伎座の三階席と言えば、ことに夜の部など、外国人観光客を乗せたはとバスが「夜の東京観光コース」の一環に歌舞伎座も入っていたと見え、芝居の途中であろうとバスが到着すればぞろぞろ団体で入ってくる。たまたま、舞台では人物が坐ったままセリフのやり取り、時にはチョボ(というのが竹本の通称だった)が入ったり、といった場面が続く。初めて見るカブキ(と、そのころは新聞などでは表記していた)をどう思ったか、凡そ想像がつくというものだ。やがて予定の時間が来ると、舞台の進行に関わりなくざわざわ音を立てて席を立ちぞろぞろ廊下へ出てゆく。その間こちらはじっと耐えていなければならない・・・というのが、かつての客席風景だった。それから思えば・・・?

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今月はこれ切り。またよろしく。

随談第661回 嗚呼!自己責任

自己責任という妙にガチガチした言葉が日常に入ってきたのが今世紀になってからなのは確かだろう。中東などの戦闘地域に入るのは自己責任においてなすべきである、というようなことがしきりに言われたのがかれこれ20年の「昔」だから、自己責任なる語が日常語となったのもむべなるかなとも言えるわけだが、われわれ旧弊人には異物が混入したような感がいつまでもつきまとう。

マスクをするしないは自己責任に置いておこなってください、と政府が言う。

車外に出るのは自己責任に置いてお願いします、と大雪で立ち往生した電車の車掌が車内アナウンスで言う。

あーあ。

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近ごろ、テレビ(に限らないが)でコメンテーターやインタビューその他取材に応じて何かを喋っている人が、識者・一般普通人を問わず、また男女年齢を問わず、たとえば「経験値」とか「スピード感」とか「部分」とか「より何々である」とか、その他その他、私などからするとひどく硬質で大仰に感じられる言葉を使ってものを言う人が多くなっているような気がする。「私の経験では」ですむところを「私の経験値からすると」というたぐいの例がよく耳に入る。したり顔でもっともらしがっているようで気になるが、もっともご本人にそのつもりはないのかもしれない。「オレの経験値からするとA店のラーメンよりB軒のラーメンの方が、より美味いっすね」とか、「ハルミよりナツミの方がより俺の好みだっていう部分があるっすね」などという具合である。

「スピード感」というのは政治家や官僚が好んで使うようだが、これが一般人にも感染して、その度合いはコロナ感染どころの比ではない。むかしは蕎麦屋さんに「さっき出前を頼んだ天ぷらソバ三つ、まだ来ないぞ」と催促すると「すみません。ただ今出たところです」と返すのが常で、これを「蕎麦屋の只今」といったものだが、当世語に翻訳すると「すみません、スピード感を持ってデリバリー中です」ということになるわけだろう。

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反対に、固くていいものを柔らかい言葉で言うのも耳につく。大相撲の放送を聞いていたら、アナウンサーが「貴景勝は突き押しが持ち味です」などと言っている。「突き押し」は貴景勝関にとっては最大の「得意手」であって、あれを「持ち味と言うのだろうか? もっとも、突き押しが上手くいかないとすぐに引き技を使って墓穴を掘るのがこの力士の悪い癖だが、まさかこれは「持ち味」ではあるまい。

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隠岐の海が引退した。「サンデー・モーニング」で司会の関口宏氏が、私は大ファンでしたと語っているのを聞いてヘーエと、(失礼ながら)ちょいとばかり見直す思いだった。私も、大ファンというほどでもないが、本場所が始まると気にかけている力士の一人であったことは間違いない。昔ながらのケレン味のない四つ相撲、型にはまったときは大関相撲ともいうべき格のある取り口で、相当の強みを見せた。昨今主流の取り口ではない分正直すぎたとも言えるが、そこが伝統美ともいうべき風格があった。何よりも、その風格を支えていたのが立派な風貌で、隠岐で薨じたという後鳥羽上皇の血を引いているのではないかしら、と言った人すらある。「隠岐の海」という四股名もよかった。こういう、格調のあるオーソドックスな四股名が少なくなって、漢字三文字をすべて音読みする四股名が大勢を占める昨今、呼出しや行司がその名を呼ぶのを聞くだけでGOOD OLD DAYSの大相撲の雰囲気が甦る感があった。

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ついでにもう一つ大相撲に関する話。テレビ中継で「行司デー」と称して登場する行司についての逸事等を紹介していたが、まあそれもいいが、普段もっと、行司に限らず呼出しや検査役(とは今は言わなくなったのだった。審判員か)の名前を普段からテロップでもっとマメに出してもらいたい。以前は、行司や呼び出しが土俵に上がるごと、検査役が交替や、物言いがつきそうな時等々、ごく自然な形で半身がアップになり、名前が表示されたものだった。(大相撲放送担当のアナウンサー諸氏に申し上げる。昭和30~40年代ごろの映像をご検討ください。ひと目で成程とお分かりの筈である。)行司デーだの呼び出しデーだのと、特別なことをしなくとも、視聴者は自然に彼らの顔と名前を覚え特徴や個性を知り、親しみを持ったものだった。審判員は元関取だが、歳月と共にかつてとは風貌風采も変わり、土俵下に座っている姿が写っても、「あれ誰だっけ?」と思うことがよくあるが、端然と座っている姿のショットに名前もテロップで出してくれれば、顔と名前がおのずとおぼわって古いファンには懐かしく、新しいファンには親しみも増して、よろしいと思うのだが。

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訃報二、三件

(1)門田博光 打撃三部門いずれも王・野村に次ぐ生涯記録を残しながら、知名度がこの二人に比べるべくもないところに、この(偉大なる)野球人の存在の在り様のすべてがある。「最後の野球バカ」と野村が評したそうだが、「以て瞑すべし」とはこういう場合のためにある言葉かも知れない。
 野村には、監督としてのもう一つの人生に加え、独特の弁舌の徒としての生き様(という言葉はこういう場合にこそ使うべきであろう)がある意味で王以上の存在感をもつことになったが、愛弟子ともいえる門田にはそれがまるでなかった。

(2)鈴木邦男・渡辺京二 人さまの語る以上のことを書くだけの知識がなければ書かないのが原則だから、この二人の場合もそれに違いないのだが、ここに名前だけでも記しておこうと思ってのこと。つまり、それだけの関心を持たざるを得ない存在であったということになる。もっとも、渡辺氏の文章の読みにくいことと言ったら・・・

(3)三谷昇 久しく念頭から消えていた人だが、小さな記事にその名を見つけて、あるひと頃の記憶が蘇った。日生劇場が出来、文学座から中堅どころがごっそり抜けて、「雲」という劇団を結成してここの舞台に出るという一時があった。その劇団「雲」と「四季」の俳優たちと一緒に、17代目勘三郎が出来たばかりの日生劇場で『リチャード三世』をやったりした。そうした中でこの人を見たというのが、ある懐旧の念を喚起させらた。あれがもう、ざっと60年の昔のことである。

(4)清水可子 この方の訃は、新聞ではなく日本演劇協会の会報で知った。知る人ぞ知る演劇人だが、表に出ない形での功績は計り知れない。「ベクコさん」と親しい方々は呼んでいた。88歳だったとの由。

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その日生劇場が、現在東京最古の劇場となったのは前の歌舞伎座が取り壊された時点でのことだったが、その現在の歌舞伎座がこの4月で10周年になるのだそうだ。東横本店が今日(1月31日)で終了というニュースが話題となっているが、国立劇場も10月限りとか、その他その他の同様のニュースをこのところしきりに聞くにつけ、NHKホールも小田急デパートも、みな昭和40年代前後の誕生であったことに気が付く。してみると鉄筋コンクリート製の「ビルヂング」(と、かつては表記したものだった)というものの寿命は、せいぜい60年程度であるらしい。渋谷ヒカリエ、なんてのも、いまの小学生が高齢者になるころには取り壊される運命にあるわけで、まこと盛者必衰、風の前の塵のごとしというわけだ。

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歌舞伎座の『十六夜清心』その他、国立の『遠山桜天保日記』については『劇評』第11号をご覧ください。

随談第660回 抜けば玉散る天秤棒

『劇評』第10号の團十郎襲名の『助六』評に、他の役役について書く余地が亡くなってしまったから、他の場に書こうか・・・と書いたものの、久しぶりに新聞にも書いたことだし、趣向を変えて、『助六』がらみの話題として「天秤棒」と「水入り」の話に絞ることにしよう。

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新・團十郎の『助六』に勘九郎が白酒売で出ているが、「抜けば玉散る天秤棒」というところで、腰に差した天秤棒をスーッと抜いて見せたので、ホオと、ちょいと感心した。父親の18代目勘三郎が抜いて見せたのを見覚えていてやったのだろうか。普通は、と言うか、他の人のやる白酒売りは大概、と言うよりほぼ誰しも、刀の柄に見立てた辺りにちょっと手を掛ける仕種をするだけだが、18代目は「子供の頃、勘弥の小父さんが本当に抜いて見せたのを見てから、ずーっと、何時か機会があったらやってみようと思っていたんだ」と語っていた。たしかに、勘弥の白酒売りは私は二度は見ているが二度とも、「抜けば玉散る天秤棒」と言ってすーっと抜いてみせたのを覚えている。あれは当然、抜いて見せるべきだと思うが他の誰もしないのは、何だか不精たらしくてつまらない。案外、(巧く抜けなかったり?)

むづかしいのかもしれない。ともかくそれを、子供の頃に見た18代目が、いつかやってみようと思っていてたのが、大人になってようやく白酒売りをする機会が巡ってきた時に念願を果たした、というのはいかにも18代目らしい佳話である。またそれを、勘九郎がおとッつぁんのしたのを見覚えていて、今回機会到来、天秤棒を抜いて見せたというのはまさしく蛙の子は蛙、父子二代にわたる近ごろのヒットで、こういうところがいかにも中村屋代々の役者気質というものであろう。

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天秤棒以もさることながら、そろそろ誰かがやってくれないと、やる方も見る側も、誰も知らなくなってしまうと心配になるのは「水入り」である。これは、いつもの幕切れの後にもう一幕つけないとならないから、上演時間に制限のある今は無理だが、いずれやがて旧に復した暁、誰でもない13代目團十郎白猿に、ぜひともやってもらいたいと思っている。(12代目は海老蔵時代にやっている。あの後、誰かやっただろうか?)

水入りを一番多くやっているのは17代目勘三郎だろう。あるとき公演途中で風邪をひき高熱を押して出演、その一日、満々と水を張ってあるはずの水桶にざんぶと(?)飛び込むと、何と中は空っぽ。一瞬、ムッとしたが、見ると桶の中に張り紙がしてあって、「お大事に」と書いてあったという話があったが、これはそれと別の時、八代目團蔵の引退記念の興行でも『助六』を出して、17代目の助六に團蔵が意休だった。ところが17代目が水入りを敢行したので、すると意休は白装束で助六と立回りの果てとどめを刺されることになる。つまり團蔵は引退公演の最後の幕で殺されることになる。だが、内心は知らず、いつものように淡々と舞台を終えると(つまり殺されると)、翌日には念願の四国巡礼の旅に出掛け、ひと月余り後、八十八箇所を巡り終えると、夜、連絡船の甲板からから人知れず瀬戸内海に水入りならぬ入水をしてしまった。古木のような枯淡の舞台ぶりが心惹かれる老優だった。

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今月はちょっとユニークな訃報がいくつかあった。

吉田喜重   89歳
江原真二郎  85歳
藤尾茂    87歳

ご当人たち相互にはあまり関係はなさそうだが、ちょいと目を惹いた三つの訃報が同じ日の新聞に載るという奇遇。棲んだ浮世はそれぞれだが、昭和30年代という空気感が満ち溢れる感じに心を惹かれる。それにしても、喪主として名が載った岡田茉莉子も中原ひとみも健在なんだなあ。何だかうれしい。

と、思っていたら中原ひとみが、他日、「徹子の部屋」に出演したのを見た。フーム、昭和30年代にスクリーンで見ていたあの目玉の大きな可憐にして素朴な少女が、60年の歳月をすっ飛ばして、見事な老女となって現れた。(若い時には目の大きいのが何よりの特徴だった人が歳を取るとさほど大きな目というわけでもない、ということがチョイチョイあるが、彼女の場合もそうだった。がまあ、そんなことはこの際どうでもよろしい。よかったのは話の内容である。)江原真二郎との結婚記念に片岡千恵蔵から貰ったという油絵が映ったが、そうだ、『黒田騒動』という内田吐夢監督の映画で千恵蔵が栗山大膳をしたとき、彼女も少し頭の弱い黒田家の姫の役で出ていたのだった。

岡田茉莉子は、吉田喜重氏などと結ばれるより前、小津安二郎のたしか『秋日和』だったっけ、司葉子の一種の引き立て役のような役回りで佐分利信だの中村伸郎だの小父様連をを引っ?き回す役を一番思い出すが、それより前、東宝にいた頃、題名は今ちょっと思い出せないが、これも東宝にいた当時の有馬稲子などと共演したいた頃のユニークなキャラが、いま思い出すとじつによかった。『芸者小夏』などという二流のシリーズで屈託のない明るいキャラを見せていたのも懐かしい。いまになって当時の出演作を見ると、いいなあと思う。

藤尾茂は、話変わって野球の選手である。俗にいう巨人軍第二次黄金時代の後期、川上だ千葉だ青田だ別所だといった大物連が齢を食って(青田はホエールズに移っていたっけ)、さしもの常勝巨人軍も勢いに陰りを見せだした端境期、水原監督に見い出されてアレヨという間に売り出して、強打の捕手としていっときは大変な勢いだった。売り出した若手の先頭だったが、やがて捕手の座を森昌彦(後に西武の常勝監督になって何やら難しい名前に変わったが)に追い抜かれる形で影が薄くなった。語られることも滅多に、どころかほとんどなくなって久しいが、それだけにひとしお、思いがけなく名前を見ると感慨なきを得ない。

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坂本博士 なんて人もいましたっけね。クラシック畑から出てテレビの人気者になった歌手が(立川澄人なんて人がその先駆けだった)いろいろ出た、その一人だった。まだ白黒テレビの時代だ。

松原千秋 私にとっては原健策の娘としてのみの存在だ(デビューした頃、ヘーエ。原健策にこんな娘がいたのかと、しばし眺め入ったものだった)が、父親の原健策の方なら何度見たか知れない。(一番数多く見た映画俳優の一人かも知れない。とにかく、当時東映の時代劇を見れば二本に一本は出てくる感じだった)。マンネリの仕事もあったが玄人筋には評価の高かったバイプレイヤーで、たしかに、忘れることはない役者ぶりではあった。またも千恵蔵が出てくるが、『新選組鬼隊長』という映画で千恵蔵の近藤勇に土方の役をしていたのが今もよく覚えている。いまどきの妙にカッコイイ土方でなく、昔風の武骨な土方役として、改めて評価されても然るべきではあるまいか。(売り出して間もない錦之助が沖田総司役で出ていた。やや重くるしい難はあったが、子母澤寛の『新選組始末記』を原作とする、新撰組ものとして上等な作だったと思う。もう一遍、見てみたいなあ。)

ほかにもいろいろな訃報があったが、それにしても、「亡くなっていたことが分かった」といった報道が多いのが、近年ますます増えているのが、現代という時代をさまざまに語っているようだ。ま、いろいろな事情や理由があるのだろうが。
        
        
        
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本年はここまで。よい年になることを願いつつ、良い年をお迎えください。

隋談第659回 噫! 忠臣蔵

11月の国立劇場の歌舞伎公演は、国立劇場察するに余りある苦心の企画「歌舞伎&落語・コラボ忠臣蔵」というので、春風亭小朝の『殿中でござる』と『中村仲蔵』のあと芝翫が『五段目・六段目』の勘平をやったが、(これだと実は、小朝と競演したのは歌六の定九郎ということになるわけだが・・・)、いわば「小朝流忠臣蔵論」ともいうべき『殿中でござる』は菊池寛の短編を小朝流に?み砕いたものらしいが、釈台を置いての、つまり「講釈」である。討入がテロと見做されるようになった今日、『忠臣蔵』を演じる機会は少なくなるだろうというあたりが、菊池寛×小朝÷2、というところか。大佛次郎が『赤穂浪士』を書いたのが昭和初年、池宮彰一郎が『四十七人の刺客』を書いたのが平成初年、大河ドラマで忠臣蔵を出した最後が西暦2000年、即ち20世紀最後の年(大河版忠臣蔵としてこれが何作目だったろう? すなわちそれまでは、「忠臣蔵物」は戦国物、幕末維新物と並んで大河ドラマの常連メニューだったのだ。)つまり、昭和から平成、さらに20世紀末までの4分の3世紀の間に「義士」が「浪士」となり、遂には「刺客」となったわけである。今日、日常的レベルで「赤穂義士」という言葉はほぼ絶滅、すなわち「死語」と化し、「赤穂浪士」という言い方が、大佛次郎がかつてそこに籠めた暗喩は雲散霧消、何の批判も感傷もないフラットな用語として、何気に(!)使われるようになったのが昭和末期以降、さらにそれを「刺客」と呼ぶに至ったのが平成初年、すなわち20世紀末ということになる。(因みに、10月歌舞伎座で松緑が講釈種の新作として演じた『荒川十太夫』は、堀部安兵衛を「義士」として見る上に成り立っているわけだが、『劇評』第8号の狂言作者竹柴潤一氏の言によると、言い出しっぺにして主演者である松緑から「『元禄忠臣蔵』が通しがあったとして『大石最後の一日』の後につけて上演してもおかしくないようにしたい」と注文があったという。フーム。「義士」と「浪士」さらには「刺客」との間に、こういう間隙があったということか。

ところで肝心の芝翫演じる『五・六段目』だが・・・長くもなったし、まあ、預かりとさせていただこう。

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ところでその小朝の二席の間に、つまり釈台を前に忠臣蔵の講釈をした小朝が、衣裳を変え座布団一枚で『中村仲蔵』を語るつなぎに太神楽が出た。鏡味・翁家・丸一の三組が交互出演のようだが(私の見た日は翁家社中の出演だった)、私はむかしから、寄席のさまざまな色物の中でもこの太神楽というものが大好きで、寄席からだいぶ足が遠のいている今、久しぶりで大いに楽しんだ。へたな落語より、などと言ったら??られるが、さまざまな曲芸が、下座で「千鳥」等々を寄席流に崩して弾く中、繰り広げられるのをぼんやり眺めているときほど、浮世の憂さを忘れてくつろげるひとときはない。かりにかのプーチンをいまここに連れてきて太神楽を見せたとしても、一ミリ、いや3ミリぐらいは頬をゆるめるに違いない。(ベートーベンを聴かせようと『仮名手本忠臣蔵』を見せようと、そうはいくまい。)

それにしても、見る側は他愛もなく笑い、する側にとってはあれほどごまかしの利かないものはないだろう。世代から言って、私などが一番数多く見たのは染之助染太郎兄弟だが、更にベテランで東富士夫という人もよく見た。この人はいつも一人芸で、平素は黒のスーツに蝶ネクタイというスタイルなのだが、何かの拍子に和装でたっつけ袴という姿のこともあった。この使い分けの理由は分からないが、ご本人には使い分ける根拠があったのかもしれない。で、ある時、曲芸がなかなかうまくいかない。失敗に次ぐ失敗。だが下座の鳴物は何事もないように続き、芸も何度となく繰り返す。ハラハラしながら見守る中、とやがて、見事成功。にっこり笑顔を見せて一礼、満場の拍手を背に退場、ということがあった。太神楽というのは、こういうこともあり得る芸なのである。

九代目の三津五郎が、出し物を出す機会に恵まれるごくたまさかの折に見せた『どんつく』という踊りも、太神楽の社中が芸をして見せる風俗舞踊で、親方が曲毬を舞台でして見せるくだりがあるが、役者がつとめるのだからそうはうまくいかない。あるとき十七代目羽左衛門が親方の役で、なかなかうまくいかずにようやく成功、ほっと破顔一笑したので万雷の拍手だったのを思い出す。

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訃報
白木みのる 昭和8年生まれ、かつて『てなもんや三度笠』で共演した藤田まこととは一歳違いとであったとか。毎週あれを見ていた頃、我が家の受像機はまだ白黒テレビだった。
村田兆治 この死については何とも言いようがない。私より若いのだが、その言動・察するところのその人となり・その風情風格等々、10歳も年長のような気がする人だった。

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團十郎白猿襲名については、12月の公演を見てからということにしたい。差し当たっては、11月公演の評を『劇評』第9号に書いたのでそれをご覧願いたい。

随談第658回 夜明け前?

トトロの家

このブログを始めてまだ間もない頃のことだが、トトロの家のことを書いたことがある。尤もその家がいわゆる「トトロの家」ということになったのは話の順序から言うと更に後の、火を出して焼失してしまってからのことになる。

昭和の初期のものとすぐわかる、赤いスレート瓦を載せたその「洋館」は、20年前、今の練馬の家に越してくる前に住んでいた杉並の阿佐ヶ谷の家から歩いて二、三分という近所だったから、戦前から戦後をつなぐ東京の郊外のひとつの風景を偲ばせる懐かしいものとして、今もその残像を瞼に、また記憶に残している。その洋館が、過失か何かで火を出して焼失したのはかれこれ既に10年の余の以前のことだが、北原白秋が晩年、阿佐ヶ谷に住んでいたと聞くがもしかしたらあの家ではあるまいか、とかねて思っていた私は、そのことをこのブログに書いたのだった。と、それを読んですぐに調べてくれた人があって、それによると、白秋の住んでいたのは確かに我が家からほど近くではあるがこの赤瓦の洋館とは反対方向へ、もうちょっと離れたところだったらしい。

その後、私と入れ替わって阿佐ヶ谷の家に住まっていた兄が亡くなった時、久しぶりに訪ねると、跡地は公園になっていた。つまりそれが、トトロの家を記念して作られた「Aさんの庭」なる公園である。宮崎駿氏がトトロの家をイメージしていたという縁から、杉並区に働きかけてのことであったらしい。「トトロの家」のことは今では多くの人の知るところだろうが、かつてその持ち主だったという女性が亡くなったという記事がこのほど新聞に大きく出た。大変なご高齢で、元々、戦前の良き時代に養父であった方が建てたものだったという。東京23区の西端に位置する中央線沿線は、関東大震災で旧市内が壊滅的な状況になって以後、急速に開発が進んだと言われるが、折からのモダニズムの風潮と相俟って、文化人好みのハイカラな住まいとして、ああしたたたずまいの家はそちこちに見かけたものだった。小学校時代の同級生にI君という、お父さんが絵描きさんだという子がいたが、そのI君の家も、やはり赤い屋根の、同じような作りの家だったのを思い出す。

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訃報欄に山本豊三という名前を見つけた。81歳とか。なるほど、と思うのだが、その業績として10数行ほどの記事に書いてあることは一切、知らないことだった。スターとしては、成程それらのことで身の丈に合った名を残したということなのだろう。が、私の記憶にある山本豊三は、それらの業績を積んだのより前の姿である。昭和30年7月、とはっきり覚えているのは私の性癖から来ることで、その月に何か格別なことがあったからではない。この月の末、新東宝映画『下郎の首』というのが封切られ、かなりの話題を呼んだ。伊藤大輔監督が戦前に作った作を自らリメイクした、往年の「傾向映画」の力作だった。たしかに力作だが、肩に力の入った重苦しい、しかし紛れもなく「良心的な」作だった。当時は、独立プロダクション制作の「良心的な」映画がいろいろ作られ、識者から高く評価されることがしばしばあったのも、日本が独立を回復し、しかしまだ「もはや戦後ではな

くならないという、戦後史の一つの時期だったのだ。銀座の松坂屋の裏手に銀座コニーと劇場という、初めは洋画専門だったのが新東宝と大映の作品をもっぱら上映するようになった映画館があって、何故か(は、中学生だった私の知ったことでなかったが)そこの優待券を毎月何枚か融通してもらえるというコネクションがあったので、生意気にも銀座まで映画を見に行くということを時々していたのである。(ちょうど一月後に、五所平之助監督、美空ひばり主演の『たけくらべ』を見たのもこの銀座コニー劇場で、これも、いわゆる「ひばり映画」とは全く違う、肩に力の入った重苦しいばかりの力作だった。今の白鸚氏が、あちらもまだ中学生で、先々代市川染五郎として出演していたのを覚えている。ヒロインみどりの相手役の真如ではなく別の役だったが、思えばこれが、映像でとはいえ、既に少年スターとして名高かった染五郎を見た最初である。)と、例によって脱線が長くなったが、その『下郎の首』にあちらもまだ中学生だった山本豊三が、田崎潤演じる下郎を供に仇討ちの旅を続ける年若の主人の役としてデビューをするのが、ひとつの話題となっていたのだ。当時、この人の祖父の山本礼三郎と言えば、戦前からの映画界の大物俳優として著名な存在だったから、そのデビューが映画界として話題を呼んだのだった。真面目で育ちの良い、いかにも好感の持てる少年だったのをはっきり覚えている。同じ時代の空気を吸っていたという、ただそれだけで抱く親近感が、この文章を書かせたとも言える。

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菊之助が『千本桜』の三役を演じる国立劇場は、菊之助らしい真摯さでなかなかのものだったが、入りの薄いのにちょっと驚いた。三座競演となった今月は、平成中村座が一番活気があったのは腑に落ちるが、菊之助が三役をつとめる『千本桜』の案外な不入りは、AプロBプロCプロと、全部見るには三回も足を運ばねばならないというのが祟ったのかもしれない。もったいないことである。

評は新聞に書いたから繰り返しになるが、本役の忠信、が最も安定感があるのは当然だろうが、知盛も権太も、相当のレベルで落ちこぼれなく充分仕こなしていたのは天晴れと言うべきだろう。権太は、イガミぶりを見せる場面ほど「いい男」になるのが面白かったが、それでいながら「役違い」とは感じさせないのが偉い。

さりながら、(これも新聞に書いたが)今回菊之助以上に刮目すべきは梅枝の維盛で、「たちまち変わる御装い」で身ごなしひとつで、弥助から維盛へ、別の世界が現れるかのようだった。曾祖父三代目時蔵のこの場面について伝え聞くところがあるのを彷彿させたが、風貌雰囲気は、むしろ三代目左團次を思い出させるものがあった。

A、B、C各プロごとに、冒頭に映像付きの菊之助自らナレーションをつとめる解説がつくのが「珠に瑕」との評があったのはもっとも至極ながら、おそらくこれは、本来二年半前の春、三月公演という啓蒙的な公演について用意されたものなのだろう。

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来月はいよいよ團十郎白猿襲名ですね。今回のタイトルを「夜明け前?」としたが、ハテ如何なりますか。