随談第652回 富士尽くし

濃厚接触者なるものになって、幸い陰性で済んだものの、月初めの7日間は外出自粛となり前売りで買っておいたチケットはフイになった。お払い戻しは致しませんという約束だから、丸損である。改めて中日過ぎの切符を買って無事見物はしたが、何だか不戦敗のような気がしないでもない。黙阿弥の芝居などで耳にする、三百落としたような心持ちとはここらのことを言ったものか。劇評は、先月から始まった木挽堂書店発行の『劇評』第二号に書いたのでそちらをご覧いただきたい。

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緊急事態もマンボウも政府が「発出」しないので、連休に日帰りで、久しぶりに箱根に出かけ大涌谷から桃源台までロープウェイに乗って富士を眺めた。思いのほかに高く聳えて見えるのは、まだ雪に覆われてはいるがあちこち雪が解けて「はだら」になっているために豪快な趣きが増している故か。考えて見ると、この季節にこうした姿の富士山を見るのは初めてのことだった。九年前の晩秋、桃源台から「海賊船」で元箱根へと渡って、湖水越しに真っ白に冠雪した秀麗な姿の富士を眺めて堪能したものだった。これで思い残すことはないとさえいうつもりになったものだが、いま改めてこうして新たな富士の姿を見ると、思い残すことはないなどと言ったって、未知のことはいくらもあることに気づかされる。(当たり前の話だが。)

山歩きというものを、学生時代にほんの真似事をした以外、したことがない私は、槍だの穂高だのはもちろん、上高地だのなんだのといった所へ行ったことがない。富士山も登ったことはないが、小学一年の冬休みに、当時沼津の千本松原に戦火を避けて疎開したまま住まっていた祖父に連れられて、そのころ沼津にあった御用邸を見物にかなりの道のりを歩いて行った折に、道々、振り返るとすぐ間近に雪を冠った富士が雄大な裾野を引いた全容を見ることができたのが、70余年も経ったいまなお目に焼き付いている。手前に裾を引くように連なっている山があって、あれは愛鷹山というのだと教わった。「愛鷹山」と書いて「あいたかやま」でなく「あしたかやま」と読むのだという。沼津からだと宝永の噴火でできた宝永山が手前に瘤のように張り出して見える。『忠臣蔵』の映画で大石東下りの場面で、宝永山が映っている富士を背景に大石の一行が江戸へ急ぐショットが良くあるが、元禄にはまだ宝永山はなかったのに、などというこましゃくれた知恵を身に着けたのは、もう少し後のことである。

それよりも、毎年夏休みに祖父の家へきょうだい揃って泊りがけで行き、千本松原の海岸で泳ぎを覚えたのがいい思い出だが、『伊賀越』の『沼津』のラスト、十兵衛と平作がこの世の別れをする有名な場面を見るたびに、石浜の海岸に寝そべって眺めた景色がそのまま舞台に再現されるのを愉しむのが、今でも、更なる情趣を覚えるよすがとなっている。『道行旅路の花聟』おかる勘平の戸塚の山中の道行の、一面菜の花畑の向こうに桜の並木が連なり、その上に雪を冠った富士が描かれる舞台の光景は、大正年間に大道具の担当者が当時の戸塚の山の上のスケッチをしたのに基づいていると聞いたが、『沼津』のラストの千本松原の舞台装置も、実際の情景のスケッチに基づいているに相違ないと、私は勝手に信じている。だってそうでもなければ、あんなに実際そっくりな情景が舞台装置として再現されるとは思われないからだ。

とまあ、今回は不急不要のお話ばかり。(今回も、か?)

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訃報欄に、山本圭81歳とあった。フーム、と小さく唸った。

随談第651回 雑誌『劇評』三代記

コロナの騒ぎが最早「騒ぎ」ではなく「常態」と心得るべきこととなった感のある一方、露国のウクライナ侵攻という一件は、なんとなく終末論的な要素すら孕んでいるやに覚える。そんなのに比べれば小せえ小せえと思うべきなのかもしれないが、話をわが歌舞伎に関わることどもに限っても、いろいろ波乱含みの事態が続いている。が、そんな中にも「いい話」もちゃんとある。

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「演劇界」の休刊のことは前々回に書いたが、それを受けての動きと言おうか。近々発行になるだろうが『劇評』という小冊子が創刊されることとなり、声が掛ったので私もトト交じりよろしく創刊号に一文を物したので、チンドンチンドンとクラリネットを吹いたり鉦や太鼓を叩く代わりに、自分のPRも兼ねてお知らせしておこう。知る人ぞ知る、歌舞伎座のいわば膝元を、築地方面へ向かってすぐの路を左へ折れてチョイのところに店を構えて10年余になる木挽堂書店の小林順一氏が発行人である。せめて歌舞伎の劇評の灯を絶やすまいとの思いからの「義挙」であろうと、私なりに理解している。15年前、『演劇界』が小学館の傘下に身を寄せることとなった時にも、三カ月ほど、空白の期間が生じたので、それまで編集の責任者であった秋山勝彦氏が自腹を切って小冊子を出して、歌舞伎劇評の灯を絶やさなかったという先例があったが、まこと歌舞伎という古川にはこうした形で水を絶やすまいという「義人」が、危急の際に現れるのである。

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『劇評』という誌名の雑誌は、実はこれまでに二回、と言うか、二種類存在した。ひとつは、前の歌舞伎座が開場した昭和20年代後期から30年代初めにかけて月刊として刊行され、その月の公演が終わらないうちに出るという迅速さと、劇評だけでなくグラビア入りというのが売りだった。読売の記者だった依光氏など当時新進の演劇記者等の手になるもので、相当の評判を得たと聞いているが、残念ながらまだ小中学生だった私には、後にバックナンバーを手にしてのことしか実感がない。

これを『劇評』と称した歌舞伎劇評誌の第一次とすれば、第二次に相当するのは、昭和53年の1978年から前世紀の末まで約20年間、野州宇都宮に在って歌舞伎から寄席芸から新劇から、目配り広く活動を展開していた清水一朗氏が個人誌として出していたのが、独特の存在として知られている。こちらは、『演劇界』にしても一つの公演について一人の評者の評しか掲載しないため、自分の意見感想と相容れない評者の見解に疑問や不満を抱くという、読者の誰しもが抱懐している思いに対する試みとして、必ず二人、ないし三人、複数の評を載せるところにユニークさがあり次第に評価を高めた。手作りの個人誌なので、年間数回程度の発行という限界から、全公演を対象というわけには行かない半面、これぞという公演については、数名の同人による合評会を掲載するなどユニークな試みが読者を獲得した。同人というのは、『演劇界』で隔年に行っていた新人発掘のための劇評募集や投稿欄、各大学の紀要などを足掛かりとして登場した書き手で、かくいう私もその一人だった。私の場合は、これも前々回に書いたように一等入選したのが昭和52年6月の新橋演舞場の花形公演の評だったが、同じその年の11月の顔見世興行に、東京の歌舞伎座と大阪の中座に東西の全歌舞伎俳優を結集して『仮名手本忠臣蔵』の通しを東西競演の形で上演するという記念碑的な公演があったのを機に、清水氏が『劇評』誌創刊を思い立ったという、偶然とはいえ絶妙のタイミングで奇しき縁に結ばれたのだった。

その年の暮れも押し詰まった30日に、宇都宮在住の清水という未知の人から創刊号と称する『劇評』なる冊子が郵送されてきた、というのが馴れ初めである。明けて正月の松の取れる日、という心憎いタイミングで今度は清水氏ご本人から電話があって、同人として参加してほしい、ついては第二号に三月の国立劇場で菊五郎(もちろん、現・七代目である)が『浮世柄比翼稲妻』の権八をするのを見て6枚で劇評を書いてもらいたい、4月早々に同人の顔合わせをしたいからそのときに原稿を持参してくれという、否も応もない話だったが、こちらも否やはない話だったから、言われた通り、築地にあった中央区の区民会館の一室に原稿持参で赴いた、というのが事始めだった。

この席で、清水さんだけでなく藤巻透さんとか神山彰さん等と初の対面をしたのだったが、藤巻さんの名は夙に『演劇界』の、時には劇評欄、時には投稿欄で頻繁に見て知っていた。所謂「芝居通」としては大変な人で、この実年齢では10歳足らず年長の(萬屋錦之介と同年同日の生まれとの由だった)、知識・経験の量としては及びもつかない先達と親しくなったことが、歌舞伎についての雑学的知識から、「通」という人間存在の有り様から、築地明石町に住まって(幼時、初代猿翁一家と隣り同士、つまり現・猿翁とは幼なじみであった由)銀座八丁を我が庭の如くに闊歩するという日常の姿まで、如何ばかりの「開眼」を繰り返すことになったか計り知れない。まだまだという年齢で不幸な亡くなり方をしたのは気の毒というも愚かというべき人だった。
神山彰さんはまだ本当に初々しい青年という外貌にもかかわらず、すでに独自の見識を備えたいわゆる「畏友」として、今日に至るまで変わらぬ印象を抱かせた。程もなく国立劇場に勤務されることとなり劇評家としての筆を折ることになったので、再び親しく接するようになったのはかなり後年のこととなったが、しまった、先んじられたという思いをしばしばさせられる存在と言おうか。いま現在の活躍ぶりは、ここに書くまでもないだろう。

清水さんは、私より何代か前の一等入選者だったが、私がそれを知らなかったのは、当時の私は、幾度かに及んで、もう歌舞伎など見るまいと思い定めてはしばらく劇場に足を向けずにいるということを繰り返していたので、たぶん、そうした間歇的な空白時に当っていたのだろう。歌舞伎以上に落語界に深く接していて、円生・正蔵・小さん・馬生から志ん朝・談志といった人たちの強い信用を勝ち得ていて(これらはもちろん、すべて当時この名前であった人たちである)、毎月地元宇都宮で主宰していた落語会にはこうした当時錚々たる人たちが快く出演するという按排だった。私が馬生が好きだと言ったら、落語界の会報に馬生についての一文を書かせてくれたが、こういうとき、「書かせてくれる」のでなく「書いてくれませんか」という言い方をする人だった。

同人は常時数人いたが、いくばくかの会費を負担するのと、何カ月かごとに会合を開いて次号の企画や劇評執筆の担当を決める(つまり、何時いつに歌舞伎座なり国立劇場なりで誰それが何をするのを扱うこととしよう、ついては誰と誰がどの評を書くことにするか、といったことを相談ずくで決めてゆく)のと、合評会の校正をするぐらいで、それを終えた後の雑談の方が時間的にはるかに長かった。それを愉しみに参加しているような向きもないではなかったが、やがて愛読者と言おうか、常連の熱心な購読者も参加しての集まりもするようになり、これらをいっときの足場としてやがて他方面で名を成すようになった人たちも、一人や二人ではない。聞けばへーッと驚く名前もあるのは間違いないが、この際はそれは内緒。最終号を出して活動を終わりにしたのが前世紀末だから、すでに四半世紀の昔だが、その後もこうした集まりは新年会のような形で永く続き、いまもまだ、必ずしも終わったわけではない。

これが第二次の『劇評』で、私にとっては、『演劇界』と共に劇評家としての出発点であり、下地を作る土台でもあったわけだが、そうこうするうちに、やがて日経新聞から声がかかって今に至るという履歴になる。新しく船出をする、いわば第三次の『劇評』は、また全く別種の経緯や事情のもとに計画されたわけだが、資本力より個人の手作り感覚という点では、一脈、相通じるところもあるような気もする。

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訃報として、大町陽一郎90歳、川津祐介86歳、宝田明87歳、佐藤忠雄91歳等々の名前を見た。親疎の程はさまざまだが、それぞれに、ムム、と胸に響くものがあった。

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照ノ富士が玉鷲の押しに土俵下へ仰向けに転落するという信じ難い負け方は、膝に加えて踵の負傷の深刻さを物語る、今後に不安を残したという、その一点を別にすれば、若隆景の惚れ惚れするすまいぶり(相撲ぶり)に留飲を下げた春場所だった。とりわけ優勝決定戦で高安の押しを膝が地につきそうなほどこらえた足腰の強靭さは、最近の相撲では絶えて久しく見なかった醍醐味である。昭和36年の初場所、内掛け名人として名高かった琴ケ浜が柏戸の猛烈なのど輪攻めを、俵にかかった足を「くの字
に曲げてしのいだ姿が蘇った。琴ケ浜はついにそのまま押し潰されたが、若隆景が土俵の内のりを辿って回り込んで残したのは琴ケ浜以上と言える。若隆景のことはしばらく前にも書いたが、これで相撲を見続ける意欲が沸いたというものだ。

お陰で祖父の若葉山のことが話題になったのも懐かしさがこみ上げる。力士としては孫の方が上等で、足取り名人の典型的な手取り力士だったが、24,5貫といえば80キロ台という小兵ぶりで、その後に現われたあまたの曲者力士の中でもとりわけ記憶に残っている。解説の北の富士氏が、付き人をしていた横綱の千代の山のところへよく油を売りに来ていたものだと思い出を語っていたが、おそらく、初土俵が同じころであったはずだ。戦中派で、活躍したのが戦後まだ日の浅い20年代から30年代初めにかけて、30数歳までかなり永いこと幕内で取っていた。若隆景は福島の出身とのことだが,若葉山は確か埼玉と言っていたと覚えている。関取になってからもしばらく「岩平」という本名で取っていたのは、幼くした別れた親類に会いたいが故だったという話が伝わっていたが、孫の本名は別の姓のようだ。かくべつ贔屓にしていたわけでもないのにこんな細かいことまで覚えているのは、それだけ印象に残るものがあったわけだが、『相撲』というベースボール・マガジン社で出していた月刊誌を読んで得た知識でもあった。『相撲』にせよ『ベースボールマガジン』にせよ、『演劇界』にせよ、はたまた『映画の友』にせよ、それぞれのジャンルで果たした役割というものは、実に計り知れないものがあった。翻って言うなら、こうした雑誌が健在なうちは、そのジャンルは健全であり安心であると言っても過言ではない。

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ウラジミール大公の建設したキエフ公国がスラヴ世界の始原であるというのが「かの仁」の「信念」の根源にあるとすれば、米国の大統領がいくら「戦争犯罪人」だなどと非難したところで蛙の面に水というものだろう。あっちの非もさることながら、こっちの底の浅さもどっこいどっこいなのにため息が出る。

がまあ、まず今月はこれ切りとしよう。

随談第650回 最後のラ・マンチャ

オミクロン株に変容して以来、コロナ感染の噂は俄かにあちこちで耳にするようになったが、この月の演劇界も、文楽は早々と全面休演してしまったが、あちこちで出演者に陽性反応が出て休演、再開、また休演と、間を縫ってのジグザグ公演を余儀なくされている。東宝ではこの二月、『笑う男』を帝劇で、「ファイナル公演」と角書き?のついた白鸚一世一代の『ラ・マンチャの男』を日生劇場で興行を行なったが、当初、同日の昼と夜に報道関係者に予定されていた観劇招待日が休演となって数日後、帝劇を昼の部に招待、夜の日生の方は満席なのでロビーで映像をご覧になることになりますというので、ウームと一瞬迷ったが劇場にいながら生の舞台を見られないのも皮肉な話とやめにしたら、また二、三日後、今度は席を作りましたという知らせを貰ったので早速出かけた。とにかくこれが、白鸚として最後の『ラ・マンチャの男』である。その心境や、思い遣らざるべしである。

出かけてみると、なるほど、私の席は最前列のいわゆる「かぶりつき」。『ラ・マンチャ』の舞台設営特有の、人物が地下?の扉を開けて登場し、退場するさまが手を伸ばせば届きそうな目の前で展開する。普通だったら平舞台であるべきところがその上に張り出した形になっているから、白鸚のセルバンテス/ドン・キホーテがよろけたはずみに足を踏み外しやしないかとひやひやする。他人ごとではない。こんなところに私事を持ち出して恐縮だが、私なども昨今は、股関節が固くなった(つまり体全体を支える蝶番が錆びついた)ためとやらで、駅のプラットホームなどで、エスカレーターやら何やらで幅が狭くなっている個所など、うっかりよろめいて線路へ転落しやしないかとひやひやする有様だから、白鸚氏の演技とは別に、同世代人として他人ごとと思って見ていられないのである。だが、白鸚は見事、あの法廷へと上り下りする長い階段でもいささかの不安を感じさせなかった。鍛えてもいるだろうがそれ以上に、気力であろう。

いや、足元の話をしている時ではない。舞台ぶりも気迫充実、今度ほど気魂のこもったラ・マンチャは見なかったと言って過言ではない。実はこれまで、私は『ラ・マンチャ』よりむしろ『アマデウス』の方が、白鸚の仁にも芸風にも似つかわしいと思っていたのだが、今度の舞台を見て認識を改めた。というか、この作の良さを、今回の白鸚の舞台ぶりによって、改めて知ったというべきか。「狂気とは何だ。現実のみを追って夢を持たぬのも狂気かも知れぬ。夢におぼれて現実を見ないのも狂気かも知れぬ」という有名なセリフも、今度ばかりは強く心に沁みて聞いた。

だが仄聞するところによれば、この翌日の舞台はまたしても休演となったという。まあ、あれだけの人数の出演者が舞台上に、舞台裏に楽屋にひしめいているのだから、ソーシャルディスタンスどころの話ではない。ファイナル公演がこうしてコロナと「折り合いをつけた」形になったのは残念と言う他はないが、こればかりはセルバンテスでも如何ともしがたかろうというものだ。

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それにつけても思い出す。当時市川染五郎だった白鸚がブロードウェイで『ラ・マンチャ』を演じたのは1970年、昭和45年5月のことだが、この月歌舞伎座では十七代目勘三郎が一世一代の大奮発で「三代目歌六50回忌追善」という興行を行なっていた。長兄の初代吉右衛門ゆかりの役者と言えば八代目幸四郎、二代目吉右衛門(既に吉右衛門になっていた)に先代又五郎等々という一家一門、次兄の三代目時蔵ゆかりと言えば当代の時蔵やら歌六やら又五郎やらがまだ梅枝だったり米吉だったり光輝だったり、どころか萬屋錦之介も出演して一幕受け持ったり、6代目菊五郎とつながる縁で梅幸が出るのは不思議はないが、何と文政年間以来の縁というので十三代目仁左衛門に片岡孝夫等々等、出演者すべて親類縁者ばかりというのが十七代目が鼻高々という一座だった。「口上」の挨拶で、誰それとはかくかくしかじかというつながりで、と客席に向かって説明する十七代目の満足顔というものはなかった。「これに居りまする八代目幸四郎は、隣に座っておりまする吉右衛門の父でありますがまた同時にこの両名は義理の兄弟でもござりまして・・・」等々という辺りがミソ中のミソで、十七代目の得意顔、後の初代白鸚の複雑微妙な苦笑を見比べるのも面白かったが、その中で、「まだこのほかに染五郎がいるのでございますが、彼は(という言い方を確かしたと覚えている)なかなか勇気のある男でいまはラ・マンチャの方に行っております」と言ったのが忘れ難い。十三代目仁左衛門が、文政年間以来の縁という片岡家と三代目歌六の一族との関係を懇切に説明したのも、いかにも「大松島」らしい律義さだったが、最期に、隣に平伏している若き日の十五代目を顧みながら「このめでたい席に倅(せがれ)片岡孝夫を召し連れまして馳せ参じましてござりまする」と締めくくった声音は今も耳に残っている。

あれもこれも、もう五十年の余の昔である。さっきテレビのニュースで、今日は浅間山荘事件からちょうど50年目に当たりますと言っていたが、そうか、あれよりもさらに2年むかしのことなのだった。

随談第649回 『演劇界』・吉右衛門、そして・・・

アルファ、ベータ、ガンマーぐらいまでなら大概の人が知っているギリシャの伊呂波文字も、オミクロンとなるとちょいとガクのある人でないと知らなかったろう。次々と新手が繰り出してくるさまはドロ沼永久戦争の様相。三年目を迎えたこの時期は、太平洋戦争であったら、既に一昨夏にミッドウェイで大敗を喫し、昨年には山本五十六大将の戦死だのアッツ島玉砕だのを経て、この年の秋には遂に特攻作戦が始まるという、じり貧の悪戦苦闘の真っ只中に相当するわけだ。してみるとワクチンは神風か。あーあ・・・

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なんてことは兎も角、『演劇界』が休刊となった。読者としては昭和30年代、書き手としては50年代からの縁だが、そもそも、原稿料を貰えるという形で自分の書いたものが活字になったはじめも『演劇界』なのだから、育ててもらった揺籃のようなものといって然るべきだろう。

昭和18年に、当時政府の指令で各分野についておこなわれた政策の一環として、雑誌統合によって誕生したのがはじまり。明治40年創刊の『演芸画報』が主体だが、『東宝』など演劇関係の数誌が合体しての誕生だったから、誌名も『歌舞伎界』ならぬ『演劇界』であって、事実、小学館の傘下に入って今の『演劇界』になるまでは、日比谷の芸術座や帝劇など東宝系の舞台や、明治座やその他、関西・中京の各座から、簡略ながら新劇まで、文字通り「演劇界」の情報を網羅していた。巻末に小さな活字で各劇場の上演記録を(歌舞伎などは小さな役に至るまで配役を載せていた)掲載していたのが、実はこの雑誌の使命であり生命で、この数ページこそが、昭和平成という、戦後の演劇界の動向を後世に伝え残す唯一と言うべき記録なのだった。

昭和25年に経営が立ち行かなくなり半年ほど休刊の時期があって、やがて利倉幸一さんが取り仕切るようになってからが、経営的には兎も角、演劇雑誌としてユニークな個性を発揮したグッド・オールド・デイズであった。さほど分厚くもないのに読みでがあって、読み終わるのに丸一日かかった。その世界での錚々たる方々が執筆者として名を連ねていたのだから、即ち当時の『演劇界』は私にとって歌舞伎を学ぶ教科書であり学校だった。それも、中学高校から大学レベルまで。この思いは私ばかりではなかったはずだ。土岐廸子さんと榎そのさんのコンビで楽屋探訪だのなんだの、軽いようで読み応えのある記事が始まったのも、ちょうど私が熱心な読者になって間もない頃だった。(下手な劇評より、などと言うと叱られそうだがその急所の押さえ方には端倪すべからざるものがあって、それこそ下手な授業よりタメニナル放課後の遊びのように、初心の私にとって有益な養分となった。)

利倉さんは、新しい書き手の発掘にも意を注いでいて、「見物席」という投稿欄もその意図を担っていたから、誰それさんのファンです、○○屋さんのごひいきの方、お手紙下さい、などというのではなく、意のある所を論じてこのページで名を知られた常連の投稿者も少なくなかった。また利倉さんは、初めは、折から世代交代の時節を迎えていた歌舞伎界の動向を汲んで「俳優論」を募集(第一回は八代目幸四郎、第二回は歌右衛門…という具合に何カ月か、数回にわたって実施したのだったから、いま思っても意気込みの程が知れる)、そこから有吉佐和子、利根川裕等々といった方々が登壇し、やがてそれぞれの活躍の場を大きくしてゆく足掛かりとなった。有吉さんと毎回のように首位を争った草壁知止子さんは映画評論家草壁久四郎夫人だった。しばらく間をおいてから今度は、二年ごとに「劇評」募集をはじめ、ここからもいろいろな人たちが登壇し、三宅周太郎だの戸板康二だのといった高名な劇評執筆者と同等に並ぶ形で誌面に名前を連ねた。志野葉太郎さんとか如月青子さん等々、常連の執筆者となった人材が輩出したが、かくいう私もその驥尾に付した一人だった。予め前の号に、何月の歌舞伎座なり国立劇場なりの歌舞伎公演を対象に劇評を募集と予告があって、当選作は当該の号の劇評として掲載する、という形で行われ、私の場合は昭和52年6月、新橋演舞場の花形公演でいまの仁左衛門の片岡孝夫が『実盛物語』をした時だった。まだ演舞場が、戦災後に再建した旧い建物だった時代で、孝太郎が太郎吉だったのだから思えば今はむかしだが、しかし私にとってはこれが、れっきとした誌面に自分の書いた文章と名前が載ったはじめである。次回からは編集部から執筆の依頼が来て、原稿料を貰うということになったわけだが、普段は三階席の片隅で見ている身が、こういう時には一階の、いわゆる「御社」の席にトト交じりよろしくの態で見るわけで、それもたび重なれば、あっぱれセミプロの劇評家として、『演劇界』の購読者という狭い範囲とはいえ、顔も知らない人たちに存在を覚えてもらうよすがになってゆく。すなわち『演劇界』は、わたしにとっては学校であったと同時に、物書きとしての揺籃であったということになる。

そんな頃、いま考えてもどうして?と不思議に思うようなことがあった。先の劇評募集入選ということがあってから一年後の夏、その間二度ほど、歌舞伎座と新橋演舞場の公演の劇評を書かせてもらっただけが全キャリアであったところへ、来月は歌舞伎の公演がゼロなので歌舞伎十八番をテーマに特集を組む、ついては貴君にそのトップとなるものを書いてもらうと言って何と25枚という原稿依頼があったのである。(当時は、歌舞伎人気がどん底の時代で、日本中に歌舞伎の興行がひとつもないということも本当にあったのだ。昭和50年代といえば、十一代目團十郎はすでになかったが、初代白鸚の八代目幸四郎は東宝から帰ってきていたし、歌右衛門も十七代勘三郎も二代目松緑も梅幸もみな元気で、芸の上では戦後歌舞伎の一つのピークを迎えつつあったのだったが、それと興行としての人気とはまた別物なのだ。)まあびっくりはしたがともかくも書いて出したところ、数日後、利倉さん御自身の自筆でお褒めの言葉を書いた葉書を頂戴した上に、掲載号の巻末にわざわざ推奨の一文まで載せて下さった。こういうことは何年経っても忘れないものだが、あれから半世紀近くの月日が流れたことになるのに今更のように驚く。

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この夏までに岩波ホールが閉館し、駿河台下の三省堂が、これは建て替えのためだがやはり姿を消すという。昭和30年代、私が知った当時の神保町のメルクマールを基点とすると、これで二代目がなくなり、やがて三代目の時代になるわけだが、思えば「演劇界」も私が知ってからこっちは、小学館の傘下に入って以降もずっと神保町にあったわけだから、これもまた、この町から一つの灯が消える中に数えられることにもなるわけだ。もっとも、かつては手書きの原稿を編集部に持参していたことを思えば、パソコンで打ってひょいと送信すれば済むようになった当今は、そうした感慨も薄くなったが・・・

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吉右衛門の訃報は、勘三郎や團十郎の時とはまた異なるさまざまな思いを喚起させられたが、幸いにも、追悼の形で幾つかの場に思いを述べる機会が与えられた。死の報を聞いて間なしの12月3日付の日経新聞朝刊と時事通信を通じての各地方紙に書いた追悼文の外に、今年に入ってから、「月間FACTA」の二月号(1月20日発売)、2月早々に出る予定の『演劇界』三月号にも、それぞれの観点から吉右衛門の追想を書くことができた。殊に「月刊FACTA」は、政治経済外交など現実社会の「いま」を切るのが売りの、歌舞伎ファンとは縁の薄い雑誌だが、そうした場で吉右衛門を語るのはやりがいのある仕事だった。お読みいただければ幸いである。

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お互いさま高齢となってくると、永年年賀状をやり取りしてきた方々から、今年で賀状をやめにしますという通知をいただくことが増えてくる。もっとも至極なことなのだが、やや思うところがあって、今年から、年賀状ではなく「寒中見舞い」を差し上げることにした。これまでにも、身内に不幸があった際などに「喪中欠礼」の代わりに「寒中見舞い」の形にしたこともあったが、今回からは毎年、その「寒中見舞い」を恒例としようというわけである。もっとも、宛名書きをする負担は変わらないわけだが、寒中に出せばよいという時間的なゆとりもさることながら、それももはや出来ないということになるまでは、欠礼が縁の切れ目みたいなことになるのを避けたいからである。例年年末になると、幾人かの方から「喪中欠礼」の挨拶をいただくが、うっかりしているとそのまま音信が途絶えてしまうということもままありがちなのが、前から気になっていたということもある。

年賀状虚礼説や無用説を唱える向きも昔からあるが、また一方、こんなこともある。大学に入学して最初の一年間、語学の授業で同じクラスになったというだけの縁で、野球の応援で一緒になった帰りに飲んだり、という程度のことはあったがそれ以上の深い付き合いのあったわけでもない相手と、いまだに年に一度、賀状を通じて音信が繋がっているという間柄を、一体どう考えればいいだろう? 卒業して当初は、幾人かいた同じような関係だった友人たちが、時が経つうちにいつしか賀状のやり取りも絶え、そのままになってしまうのが普通なわけだが、この友人との場合は、こちらが出し忘れても向こうが賀状を寄こせば返信を書く、と言ったことを繰り返しているうちに、何時しか互いに歳を取り、こうした間柄というのも何かの意味があるように(おそらく向こうも)感じるようになったのだった。これもまた、賀状が取り持って生まれた間柄、ちょいと乙な人生の機微というものではあるまいか。

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訃報欄で次のような人たちの名前を見つけた。

片岡宏雄。ヤクルトスワローズの名スカウトとして鳴らしたが、プロ選手としての戦績は実働6年で2安打だったとある。思い出す。この選手は六大学野球で立教大学の名捕手だったが、プロ入りしてすぐのオープン戦だったかで、二塁に送球しようとしたボールをポトリと肩から落とすという予期せぬ不祥事が、選手としての寿命を定めてしまったのだった。

大相撲から元関脇安念山。栃若時代後期から柏鵬時代前期にかけて上位力士として長く取った。本名が安念なので安念山(あんねんやま)という四股名がめずらかでおもしろいので、負けて引き揚げてくると悪ガキどもから「ざんねんやまー」と声援が上がったそうな。

同じく大相撲界から、呼び出し三郎94歳。この人は相撲甚句の名手で、大川橋蔵を渋くしたような端正な好男子だったが、入門が遅かったために序列は幕内格でなかったので、本場所の土俵では、箒で土俵を掃き清めたり土俵下で介添えをしたりする風情ある姿が懐かしいが、幕内の取組で力士を呼びあげる姿は見られなかった。

川田孝子86歳という記事もあった。「童謡歌手」というジャンルが歴として存在していた頃、川田正子、孝子、もうひとり名前を失念したが妹がいて、三姉妹で鳴らしていた。たいした人気だった。

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朝ドラの『カムカムエブリバディ』が近過去を扱って、なかなか面白い隠し味が気が利いているのを書くつもりだったが、長くなったので次回まわしにして、今回はこれ切りとよう。

随談第648回 来年も宜しくお願い致します

吉右衛門逝去という大浪をかぶって、それに関わる原稿を書いたり、と思っていたら数え日となってから身近に葬儀があったり、何かと慌ただしくしているうちに(この「慌ただしい」の「慌」という字ほど、実情を穿った文字はあるまい。なるほど、「心」が「荒らされて」いるわけだ)早や、大三十日(おおみそか)である。慌ただしいとはいえそれなりに書くこうとしていたこともあったのだがもう時がない。

というわけで、今年はこれで幕引き。くる年が良き年となりますよう。

随談第647回 歳末PR

今年も早や師走を迎え、コロナ歴第二年も暮れなむとしている。ヤクルト・スワローズが制覇したり照ノ富士が全勝で連覇したり、贔屓ごころを満たしてくれた良きこともあったが、もうそろそろ下火かと思うと次々と新手の変異ウィルスが這い出して、マスクはこのまま21世紀風俗として定着してしまいそうな気配である。マスクという代物は、元来、西洋伝来のもので(宗十郎頭巾とか御高祖頭巾とか、お忍びやら防寒やらの目的で面を覆う優美な風俗はあったが、防菌という即物的且つ不粋なものではない)、100年前にスペイン風邪が猛威を振るった時がきっかけだったと言うが、西洋ではあくまで医療従事者の必要品に留まって一般人の間には定着しなかった模様だが、日本では(もしかすると西洋伝来というハイカラなものだとあこがれたのかもしれない)マスク好きという人種が誕生した。子供心に覚えているのは、正面から見ると正方形、横から見ると烏天狗みたいに真ん中がとんがっている黒いマスクをしている男性をよく見かけたものだった。おまけに黒いインバネスなど羽織っていると何とも陰気臭くて子供心にも恐ろし気で、気が滅入りそうだったのを思い出す。この戦前風の風俗は戦後しばらくまで存続したが時世の変化とともにやがて廃れ、代わって、インフルエンザだ花粉症だと理由をつけて、マスク愛好者が一定数、常に存在し続けてきたのが今日まで底流となってきたわけだろう。その間のひと頃、ゲバ学生という、いまや古語となった人達が武威を揮った時節があって(大学紛争華やかなりし昭和40年代だから、かれこれ何と半世紀の昔である!)、ヘルメットに手拭いで顔を覆った風俗が跋扈したのも一種のマスク文化史を担う一コマだったが、布製の白のマスクというオーソドクシイが改めて確立したのはコロナ禍下(発音しにくい!)に置いてと言える。やれやれ、というほかない。

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このひと月の間に聞えた訃報と言えば瀬戸内寂聴師もさることながら、それに比べるべくもない小さな記事で川柳川柳の死を知ったときは、いささかの感慨を抱いた。何と言ったって、かの古典派の泰斗三遊亭円生一門の最古参の弟子である。師のお気に入りの愛弟子だったかの先代円楽が、かかる不肖の兄弟子を持ったために自身が師の名跡を継ぐのに邪魔になると、本当に思っていたかどうかはともかく、傍目ではそう勝手に憶測していた。師から冷眼視されていたのは事実らしく、そういう師弟関係に立ち至った弟子の側の何とも言い難い思いというものは、私も、住んだ世界は違ったが身に沁みて体験した覚えがあるから実によくわかる。私の場合は結局自分の方から師弟の縁を返上してしまったが、川柳氏は、ソンブレロハットにギターを抱えて、かの名人の弟子にあるまじき高座を続けていた・・・。がまあ、そんなことより、数年前、国立演芸場の高座で久しぶりに見た(聴いた)川柳師の高座に、感銘というのとも違うが、ある種の感慨を抱いたのは事実で、いい歳の取り方をしたのだな、と、つくづく感じられて身に沁みるものを覚えたのだった。同じ日の高座に、かつて同じ円生一門の後輩で、秀才と自他ともに任じていたと思われる某師が出演していたが、川柳の方が間違いなく立派だった。(それよりさらに数年前、時の総理だった福田首相にそっくり、というのを売りにしていた当時の高座を見たことがあるが、幸か不幸か、福田政権が短命に終わったためにこのいささか辛辣なギャグもまた短命に終わったのも、川柳にふさわしい。)謹んで冥福を祈りたい。(野暮を承知で蛇足を加えておくと、川柳川柳と書いてカワヤナギ・センリュウと読みます。)

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シアターXの劇団若獅子の公演で「王将」を見た。立派な舞台だった。主宰の笠原章としては文字通り乾坤一番の舞台であったに違いない。前回書いた新派の「太夫さん」に続いて、北条秀司の傑作を見る巡り合わせだったわけだが、敢えて同じことを繰り返すが、こういうのが、かつて私たちが親しんだ「芝居」なのである。正直に言うまでもなく、劇団若獅子を、かつての新国劇とそのまま比較するわけには行かない。だが、(笠原自身としても既に数回演じ重ね、自らの芸をも深めたのももちろんだが)今度の舞台には、そうした諸々の条件を一旦止揚してしまうだけの、見事な感動があった。 一部と二部を一挙上演だから、出演者もおのずと多くなる。協力してくれる助演の俳優たちに渡す出演料の捻出から何から、一切を担い、年に一度の公演にすべてを託しているのだろう。それにつけても、これだけの舞台が、たったの5日間8公演しか上演の機会がないとは!

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前回にもちょっと書いたように、電子書籍というものを出すことになった。そういうものの存在すらろくに知らなかった私である、一切合切、好意から提案し、すべての作業を引き受けてくれた存在があってのことである。内容は、前回も書いたように、一年前、このブログに「抄」という形で載せた『眼中の役者たち』の決定版である。ごちゃごちゃいうより、「まえがき」の全文をPRコピーとして以下に載せることにするので、お読み願いたい。売り上げはすべて、協力者である吉田亜矢さんに献呈する心算なので、一冊でも多くの方に買っていたければと心から願っている。

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 眼中の歌舞伎役者-わが人生の歌舞伎-     上村以和於

  まえがき  

 わが目で見た、いまも眼中に生き続けている役者たち一人一人のことを書いておきたい。そう痛切に思うようになった。旧歌舞伎座の三階席の一見物人として始まった私の歌舞伎見聞歴もそろそろ終幕に近づいているが、幸運に恵まれて、新聞という社会に向かって開かれている場に劇評という形で歌舞伎についての文章を書くことを業とするようになってからでも、相応の歳月が経っている。

 新聞に歌舞伎評を書くとき、私は常に、歌舞伎を見る習慣を日常に持たない読者の存在を意識の一隅に置いてきた。その中には、紙面の片隅に載っている私の書いた劇評を目でひと舐めするだけの読者もあるだろう。歌舞伎自体に関心があるわけではないが、社会を彩るさまざまなピースのひとつとして目を通す。そういう読者にも、自分の書く歌舞伎評が読まれていると考えることは、私には愉快なことであった。歌舞伎の愛好者だけのために書いているのではないという思いが、三十年近い歳月、新聞評を書き続ける心の張りとなっていたことは疑いない。

 だがその一方で、劇評という形では掬い切れないものが、長い歳月のあいだに私の中に澱となって溜まっている。それは、永年見続けてきた役者たちへの思いであり、その俤や舞台ぶりの記憶である。世評高い著名の俳優の舞台だけが思い出ではない。世評や通評と、私の思いが必ずしも一致しない例も、決して少なくない。心惹かれる芸を持ちながら世間での知名度がそれに見合っているとは思われない役者もある。社会の側から歌舞伎へ開かれている窓がもうちょっと大きかったなら、彼らの名はそれだけ広く知られたかもしれないという無念の思いは、私の心の底に澱となって堆積している。また一方、非名優の非名演にも忘れ難い思い出があり、それはときに心の癒しですらある。それらは、私自身の人生のさまざまな記憶と結びついて、生きてきた証しとすらなってくれている。それらをひっくるめて書いておきたい、そういう思いである。

 すべては追憶の中にある。私がこの世を去るとき、それらの一切合切は、この世から消滅してしまう。また同時に、そうした舞台の記憶を書くことは私自身の人生を書くことに通じる。言うなら、わが人生の歌舞伎である。

 ここに書き連ねたのは、大きな役を演じる大立者から脇の小さな役に甘んじていた役者まですべて私の目にある人々ばかりだが、切りをつけるために私がその死を舞台を通じて見送った人たちに限ることとした。但し今も健在の澤村田之助、片岡我當、市川猿翁、澤村藤十郎、市川段四郎といった人たちは、私の眼中に残る舞台の記憶はここに記した同時代の諸優と共にした舞台にあるので、一緒に語りたいという思いから併せて載せることにさせてもらうことにした。どうか、諒としていただければ幸いである。

 ほぼ生年順に、長くて一人当たり、むかし風の言い方で原稿用紙三枚ないし四、五枚を目途とした。自ずから長短・深浅は生じたが、それは親疎や評価と比例するものではない。名鑑などによく見るような評伝式の客観的記述ではなく、あくまで私の眼鏡を通して見た、曰く「わが眼中の役者」たちである。Ⅰとして大名題クラス、Ⅱとして、つとめる役こそ小さいがそれぞれに「わが眼中」に忘れ難い存在を留めている人びととしたが、必ずしもそうと一概には決めかねるケースもあることもまた、諒としていただきたい。ひとつだけ、読者諸氏にご忠告申し上げておくと、仮にA優のことを読もうと思ったならA優の項だけ読んでも不十分で、B優やC優、時にはY優やZ優の項でもA優のこと語っているかもしれないから、拾い読みではなく、順に漏れなく読み進めることをお勧めしたい。

 これだけのことに三年の余も要してしまったのは、途中でパソコンの故障で書きかけの原稿がすべてフイになり、ゼロから書き直すなどのことも一度ならず、危うく流産の憂き目に会う寸前まで行ったこともあったからである。ようやく書き上げたものの、この種の文章はなかなか本になりにくい。まして、このご時世である。せめてその一端だけでもと、ほぼ四分の一のエッセンスとなる部分に切り詰めたのが、先に私のホームページに発表した『眼中の役者たち(抄)』だった。幸いに評判を得て、勧めてくれる声があったのを力に、全編を電子本として上梓することとなった。私にとっては初めての電子本だが、ここまで漕ぎつけられたのは一から十まで、かねてから私のホームページを管轄してくれている吉田亜矢さんのお陰で、彼女の力がなければ、こうして陽の目を見るのはあり得ないことだった。

 もうひとつお願いしたいことがある。1994年4月から日本経済新聞に書き続けた歌舞伎劇評が、この3月で満27年となった。それもいずれ、一本にまとめられればと思っているが、彼れを姉、此れを妹とする姉妹編として併せてお読みいただけるなら、幸いこれにまさるものはない。もっとも、姉よりも妹の方が、こういう形で先に誕生することになったのは、これもまた、ままならぬ浮世のならいというものであろう。

   2021年10月

随談第646回 新派公演『太夫さん』

10月の各座で最も感慨深く見たのは新橋演舞場の新派だった。国立の梅玉の『伊勢音頭』の貢もよかったが、梅玉のことはこの前『須磨の写絵』の行平の時に書いたから今回は措くことにして、新派公演で『太夫さん』を見ながらつくづく思ったのは、こういうのが、我々がかつて親しんできた芝居だったのだということである。セリフのやり取りをじっくり聴きながら、大局から微細な綾までを味わい、且つ辿りつつ、大役脇役端役に至るまで、役者一人一人の芸を愉しむという、敢えて繰り返すがこういうのが、かつて私たちが親しんできた「お芝居」というものだったのだ。大声でわめきながら舞台上を駆け回る昨今の「演劇」と、こうも変わってきたものかと、改めて思いを致さざるを得ない。

第一幕の設定が昭和23年、開幕早々、島原の遊郭にインターナショナルの歌声が響き渡り、花魁たちがストライキを策動しているという、ショッキングにして滑稽、且つ往時の廓の雰囲気を濃縮して醸し出すというのからして、いきなり観客を掴んでしまう導入の手際の卓抜さは、『東海道四谷怪談』の序幕「浅草額堂から裏田圃」における鶴屋南北に匹敵し、しかもこちらは、中・高齢の観客にとっては目に耳に、人によっては身にも覚えのある、体験はないとしても実感としての記憶の中にある(つまり「現代劇としての実感を持つ)近過去、中年以下の観客にとっても現代にひと流れにつながる(「半時代劇としての関心を引き出される)近過去だから、その親密度は南北劇の比ではない。けだし、北条秀司最高の傑作であろう。

これを書いた当時のことは作者自身が『演劇太平記』につぶさに書いているが、相当の苦心苦労、且つ島原に長逗留してのお愉しみの産物であったらしい。北条秀司という人は、岡本綺堂の門から出てまず新国劇から出発し、やがて新派、更には歌舞伎にも数々の佳作・秀作を物したが、マッチョな感覚からして一番ウマの合う新国劇に数々の佳作・名作を書いたのはもちろんとして(即ち、かの『王将』その他である)、それにまさる傑作を新派に書いたところが面白い。『京舞』にしても『太夫さん』にしても、花柳章太郎という名女形がいたからでもあるが、それを初代水谷八重子から『京舞』は当代八重子、『太夫さん』は波乃久里子へと受け継がれ今なおこれだけの水準を保っているところ、それ自体が無形文化財のようなものだ。まだ初代健在の頃、たまたま見に行った日に八重子が病気休演で、老巧な脇の女形として知られていた成田菊雄がお栄の役をつとめたのを見たことがある…などと言っても、ああ、とわかってもらえる人があるだろうか? 「太夫」と書いて「こったい」と読ませる、などということも、今こうした形で見ることができてこそであって、この芝居がなかったら、ただの雑知識に過ぎなくなってしまうであろう。(さてこののちは? というところだが、見終わった今しばらくは、それよりも、こういうものがあったのだという感慨の方が大きくわが胸を浸している。)

久里子演ずる宝永楼の女将おえいと、田村亮演じる輪違屋の善吉が微妙な仲の昔がたりに身を任せていると、近くを通っている山陰本線の汽笛が聞こえてくる。SLなどという言葉などまだなかったころの夜更けに聞こえてくる汽車の汽笛の物悲しくも懐かしいような感覚というものも、生きてなお伝えるのはこの芝居だけであろう。

それにつけても田村亮は、いい俳優になったものだ。若い頃は、セリフがレロレロして何とも頼りがなかったものだったが。大夫さんこときみ子役は、今回は藤山直美だが、この役、初演はかの京塚昌子であったのだ。京塚昌子と聞いて、テレビのホームドラマのお母さん役者、と知る人さえ、いま何歳から上だろう? すべては、命あればこその記憶という他はない。

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白鵬の引退とか、小三治の死去とか、書くことはいろいろあるのだが、今回はこれ切りとさせていただく。いずれ何かの折に話題に出すこともあるだろうから、それでお許しいただきたい。

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前回お約束した来月の新聞評の掲載予定ですが、国立の『熊谷陣屋』評が18日(金)掲載予定です。

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最後にPRをひとつ。近々、電子本というものを生まれて初めて出します。発案から実際の作業管轄その他、すべてはおんぶにだっこの形ですが、わが「まなこ」で見、わが「まなこ」のなかにいまなお生き続けている役者たちの記憶を、一人づつの小エッセイとして書いたもので、題して『眼中の歌舞伎役者たち』。詳細は次回以降になりますが、形が見えてきたところで先ずは予告のお知らせという次第。

随談第645回 ながつきだより

この前、蔓延防止措置をマンボウと呼んだことから北杜夫の「どくとるマンボウ」を思い出したと書いたのを覚えておいでかどうか。こちらはそれから思い立って、マンボウではなく『楡家の人びと』を読むこととなった。いずれはもう一度読み直したいと思っていたことではあったが、半世紀の余を隔ててしばしの幸福に浸ることが出来たのだから、まったく禍福は糾える縄の如く、何が幸いするかわからない。

手元にあるのは昭和39年4月発行の初版で、発売と同時に買って読んだのを覚えている。上下二段組550頁という大作で、トーマス・マンに私淑していた作者が『ブッデンブロオク家の人びと』のような作を書こうという一念を果たしたものと聞こえていた。因みに『ブッデンブロオク家の人びと』は岩波文庫版では各冊★4つで全3巻だった筈である。新興ブルジョワジーの一族の興亡を物語る大河小説で、同じようなものにフランスではマルタン・デュ・ガールの『チボー家の人びと』(これは日本でもいっときかなり読まれたもので、『晩春』だったか『麦秋』だったか、横須賀線の北鎌倉駅のプラットホームで原節子が電車を待つ間に読んでいると「何を読んでるんです?」「チボーケの人びと」というやり取りがあったはずだ)、イギリスではゴールズワージ『フォーサイト・サーガ』というのがあり、こちらは美智子上皇后の学生時代の愛読書と聞いたおぼえがある。映画にもなって、フォーサイト家というタイトルを聞き覚えたのも大人たちが評判をしているのが小耳に入ったからだったと思うが、肝心の映画はまだ餓鬼、つまりイニシエーション未然の子供だった悲しさには残念ながら見ていない。

もっとも当時、つまり50年代60年代という時勢は、文学を論じていっぱし気の利いたことを物そうかという向きは、やれサルトルだカミユだ、ヘミングウェイだフォークナーだと血道をあげるのが通り相場だったから、この種の作を読むのは素人の読者だと見なされがちだった。そこを承知で畢生の大作を書いたところに北杜夫の身上があったことになる。我が『楡家の人びと』は青山に実在した脳病院を舞台に、創立者である初代、その女婿で作者の実父である歌人であり精神科医だった斎藤茂吉を二代目とするファミリーをモデルとする、明治末・大正から昭和20年の敗戦までほぼ半世紀にわたる、まさしく大河のごとき物語である。作者自身と思われる少年や、その兄でひところテレビ文化人としても知られた斎藤茂太氏の若き日と思われる人物も後半になって登場する。

この前に書いた『鞍馬天狗』や『父子鷹』もだが、半世紀余を隔てて若い頃に読んだものを再読するというのは、かつて読んだ時のさまざまな記憶が蘇ったり、それがまたさまざまに乱反射したりといった、作品自体を味読するというだけに留まらない面白さを誘発してくれる。買って未読のままの本、再読三読を待っている本が相当数、埃を冠って書棚に仮眠している。新刊書だって読まないわけではなし、まだ当分、死んでいる暇はない。
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初めて読んだ大人向けの本、というと前にも書いたように『鞍馬天狗』だが、(『鞍馬天狗』愛読者のご多聞に漏れず「鬼面の老女」「御用盗異聞」「小鳥を買う武士」「鞍馬天狗余燼」にはじまり、最後の作『地獄太平記』まで読み進んだわけだが(はじめの四作中でも『鞍馬天狗余燼』はその後も何度か読み返したが、去年コロナ禍の徒然に久しぶりに読んで、わが人生観はこの小説に随分と影響を受けていたのかもしれないと心づいた)、しかし一方、これと相前後して新聞の連載小説が視野に入ってきたから、時間差からするとむしろこちらの方が最初に読んだ大人向けの小説ということになるかもしれない。小学校6年の時に引っ越した家というのは、当時の町場の小住宅によくあった随分安直な作りで、玄関の格子戸の隙間から新聞配達が二つ折りにした新聞を差し込んでゆく。頁数の多い今の新聞だったら無理だろうが確か8ページ立ての当時の朝刊なら十分な隙間だった。小学6年生というのは、それまで目に入っていなかった大人の世界、つまり社会のさまざまな断片が俄かに視界の内に入ってくる。ちょうど読売新聞で石川達三の『悪の愉しさ』というのが連載を始めたのを、玄関の格子戸の隙間からインクの匂いも新しい朝刊を取ってきて寝床で寝そべって読んだ。兵隊帰りで今はしがない月給取の男がタクシーの運転手の首を絞めて強盗を仕出かすという筋だった。当時、タクシー強盗のニュースは小学生の耳にも頻繁に入っていた。いかにも昭和20年代という時世である。あまり子供に向いた内容ではない。が、面白いと思った。それからしばらくして今度は朝日に井上靖の『あした来る人』というのが始まった。これも、互いに気に染まぬ夫婦が別れるというのが主筋だから子供向きとは言えないが、文章の感じや全体の気分が何かすがすがしい感じがして気に入った。様々な登場人物も、大人の世界を垣間見るような魅力が感じられた。福田豊四郎の挿絵も素敵だった。後年、大分後になって,選集の一巻に入っていた端本がいい状態に保存されていたのを神保町を歩いていて見つけて買っておいたのを、『楡家の人びと』の余燼冷めやらぬ中、書棚に眠っていたのが目に入ったので取り出して読んだ。改めて思ったのは、『鞍馬天狗余燼』にせよ『あした来る人』にせよ、読み落としていたものが多々あるのは確かだが、勘どころとなるものは、小学生中学生なりにちゃんと読み取っていたのだということである。

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それにしても、当時は新聞小説の最盛期で、各紙が第一線級の作家に次々と争って書かせていたのが、世上の話題となり評判となり、その作家にとっても代表作となるという盛況だった。スペースは現在と変わらないが、二段組で活字も一段に14文字という、いまから見ればコンサイス辞典みたいな小ささだったから、一回分がざっと400字詰め用紙3枚余はたっぷりあったろう。短くとも百数十回、長いのは1年有余も続いた。読売に連載していた海音寺潮五郎の『蒙古来る』などは、始まった時中学の一年生だったのが終わった時は3年生になっていたのではなかったかしらん。(と書いてから確かめて見たら、ナニ、実際は1年半で連載は終わったらしい。果てしなく続くかと思われたほどだったが。ともあれ『鞍馬天狗』とはまた趣きの違った、雄渾な歴史小説の醍醐味というものを、私はこれで知ったのだった。)

新聞に連載というのは、いまも言うように一回分が原稿用紙3枚余だから、話の筋にせよ人物の思弁にせよ一回の分で一定のまとまりができるから、おのずと、今日の分と次回の分の間に微妙な呼吸の間が生じる。作者もそれを意図的に利用して、場面転換や、話柄や人物の視点の変化などに利用したりする。そこらの微妙な呼吸が面白い。今度『あした来る人』を読みながら、たぶんここが一日分の変わり目だろうと想像しながら読む面白さを改めて思った。新聞小説はいまでも面白そうなら読むが、どうもこういう微妙な呼吸に心をつけて書いている作家は数少ないような気がする。

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前回のタイトルを「勝手にしやがれ」としたら、ジャン=ポール・ベルモンドが死んだというのも、マンボウではないがこれも一つの奇縁ろう。NHKのBSでは予定を切り替えて『勝手にしやがれ』を放映した。まさしく旬の時代のベルモンドとジーン・セバーグが、小道具や風俗が古びてもなおみずみずしいのにはウームと唸らされる。ジーン・セバーグ演ずるパリ留学中のアメリカ娘が、フォークナーを読んでいるというひとくさりがある。つまりこれも、1950~60年代のヌーベル・バーグの風俗なわけだ。

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秋場所で東昇龍が若隆景に一本背負いという大技を決めたのが目覚ましかった。同じような技でも柔道の背負い投げは膝をついて投げるが、相撲は膝をついては負けになってしまうから腰を入れた姿勢で投げる分、派手に決まる代わり、滅多に出る技ではない。今場所は珍しい技として、宇良が大栄翔に決めた「後ろ吊り出し」というのもあったが、画像を見るかぎりでは、あれは相手の体を後ろから抱え上げているのであって「吊り」とは言えないのではないだろうか?

照ノ富士は横綱としての初優勝で念願を達した場所と言えようが、楽日を待つかのように白鵬が引退を声明するという歴史の綴じ目となるような場所となった。しかし民放のスポーツニュースでは大谷翔平でもちきりである。

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歌舞伎座は第一部に六世歌右衛門20年祭・七世芝翫10年祭というタイトルがついて成駒屋をめぐる一門の出演だが、梅玉と魁春の『須磨の写絵』を感に堪えて見た。魁春と児太郎の松風・村雨に梅玉の行平という配役で「行平名残の巻」というタイトルをつけた、つまり上の巻だけで、此兵衛の活躍する下の巻は出ないからやんやと沸かせるような場面はない。(かつて歌右衛門が再三演じたときは上下巻通して、此兵衛は延若が大傑作だった。延若というひとは所作ダテの名手だったから、此兵衛のような役は、延若としても指折りの代表作であった。『千本桜』の「鳥居前」の忠信でも、東京風の筋隈を取り仁王襷をつけた荒事でなく、取り手を相手に存分に所作ダテを見せるという演出で堪能せた。)私はこのところ、魁春を見るのが楽しみで、まるで歌右衛門のエッセンスを見るような思いで毎回、ひとりひそかに楽しんでいるが、今度はそれにもまさって梅玉の行平が、風情と言い、役者ぶりの大いなることと言い、これなるかなという思いで見入ることとなった。10月には国立劇場で『伊勢音頭』の貢をするらしいが、これでまた唸らせてくれたなら、あっぱれ当代に江戸和事の芸を伝える「最後の人」と言われることになるだろう。

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鳥居清光さんが亡くなって、歌舞伎座の絵看板の画風ががらりと変わった。あれはあれで絵看板としてひとつの画風だろうが、連綿と続いてきた鳥居派の絵看板はこれで終息したことになる(のだろうか?)

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九月は文楽がかかる月で、『双蝶々』と『伊賀越』に『卅間堂棟由来』に『日高川』と、こういう演目が今なお並ぶのは、文楽の観客が歌舞伎の観客より安定しているという表れと見ていいのか? それとも固定していると見るべきなのか? 『伊賀越』を「沼津」「伏見北国屋」「伊賀上野敵討」と出して、十兵衛が討たれる件を見せるなどは文楽ならではと言える。「北国屋」などは歌舞伎で出したら、せっかくの『沼津』での感銘に水を差されたようになりかねないが、浄瑠璃という語り物文芸として、つまりストーリイ・テリングを事とする文楽では、成程これで、伊丹屋十兵衛は男でござるという物語が完結することになるわけだ。

『卅間堂』の「平太郎内」を語った咲太夫も、高齢なりに健康も復した様子に見えるのは何よりである。

開幕に『寿式三番叟』が出るのは国立劇場として開場55周年の記念と同時にコロナ禍も厄払いの意味も込めてなそうな。『式三番叟』と言うと、国立劇場が出来る前、三越劇場で文楽をしていた頃、ある正月の開幕にこれが出て、終わって劇場に隣接した憚りへ行くと大変な混雑だったが、ふと気が付くと何と隣りで鶴澤寛治師が所用中だった、という何とも忘れ難い思い出がある。しばらく前に書いた、上手の床の真下の席で見ていたら、津大夫の唾が私の右の高頬にひらりと飛んできた時の嬉しさと共に、忘れ難い思い出となっている。

それにして天下の名人鶴澤寛治師と○○〇〇をしたなど、東横ホールに上方歌舞伎がかかった時、劇場内にあった小食堂で(八階の大食堂と別に、9階のホール内に劇場専用の小さな食堂があったのだ)ふと気が付くと、すぐ隣のテーブルで二代目の鴈治郎が何と(私と同じく)焼きそばを食べていたのと共に、立派な大劇場では考えられない体験であろう。

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このブログも、古くから継続して読んでくださっている方があって、そういう方から、以前そうしていたように新聞評の掲載日を予告してほしいという要望があった。熱心に読んでいて下さればこそで有難いことである。さしあたり10月は、14日(木)に国立劇場の『伊勢音頭』の通しの評を掲載予定だが、但しこの予定は本来、新聞社内のものだから、紙面上の都合で間際になって変更ということもちょいちょいあることを、悪しからずご承知おきいただかなければならない。

随談第644回 休載の弁

先月末、ちょうどこのブログを書く時期に、わがPCのメール送受信の機能に原因不明のトラブル発生、余儀なく休載ということになった。だからこの第644回は二カ月ぶりということになる。ワープロとしての機能は無事だったから、8月10日締切りの『演劇界』の10月号特集に載せる原稿を仕上げ、メールでは送れないからFAXでと思ったら、これも何故か「送信できませんでした」という機械音に冷酷にも送信拒否され、ならばと、速達郵便という最も古典的にして最も確実な手段で原稿を送ってから、近所のYAMADA電機に二泊三日で検査入院させて、どうやら無事、退院してきたのが終戦記念日の二日前だった。一介のフリーランスの老いぼれ物書きから大手銀行のATMのトラブルと、事の大小を問わず、通信からマネーの流通その他その他、コンピューターという神サマに世の中のありとあらゆる手段をこんなにおんぶにだっこをさせてしまって大丈夫なのかという疑念を、私は今もって拭えずにいる。

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7月の又五郎の『千本桜』狐忠信のことは新聞評にも『演劇界』の劇評にも書いたからよしとすると、他の旧聞に属することをいまさら出し遅れの証文よろしく書く気にもならないからすべて割愛させていただく。(照ノ富士の横綱ぶりについては、間もなく始まる九月場所で書けばよい。)

オリムピックが終わり、静かになったと思ったら、パラリンが始まってまたぞろテレビから「かーぜーがふけーばー」という歌声が流れ出すと、食傷もいいところでげんなりする。オリンピックも競技そのものは嫌いではないからそれなりに見たし、見れば面白くもあるし、パラリンピックなどは選手たちの信じがたい働きには驚嘆驚愕以外の何物でもないが、実況アナウンサーの絶叫と解説者の饒舌、それにもまして司会者やコメンテーターたちのハイテンションのお喋りにはうんざりする。社会の状況下、盛り上げたいという善意とお役目大事の職業意識のなせる表れなのだろうが、過ぎたるは及ばざるがごとし、逆効果ということも、たまには考えてもらいたい。

また、これも毎度のことながら、報道は日本選手の活躍ばかりを追いかけるので、ヘビー級の重量挙げのような日本は出場しないが興味深い種目は、よほど放送予告を舐めるように探さない限り見ることが出来ないのも、いつもながら寂しいことである。オリンピックを見る愉しみの一つは、世界には普段滅多に見る機会のないこんな選手がいるのだということを知ることでもある。当節の日本のマスコミのオリンピックの報道は、外国旅行をしながら日本料理の店ばかり漁っているようなものだ。

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人生には人それぞれにイニシエーションの時期というものがあるから、私にとっては、一番思い出深いオリンピックと言うと、前回の東京大会より、小学6年生の時にラジオで聞いたヘルシンキ大会ということになる。地球の裏側から聞こえてくる和田信賢とか志村正順とかいった高名なアナウンサーの声が、ザーザーゴーゴーという雑音の合間を縫うように聞こえてくる。この雑音はじつは音波の関係で起こるのであろうが、高くなったり低くなったりするのがまるで波涛のように聞こえるので、本当に波の音が聞えてくるのだと思っていた人が(大人でも)いたものだった。この大会では、大方の日本人にとっては、全盛期をとうに過ぎた水泳の古橋選手が400mの決勝に辛うじて進んだものの一番端っこの第8コースという「屈辱」で、果たして結果も8着、つまりビリだったというのが忘れ難い記憶となったのだったが、この大会の大ヒーローはチェコの陸上長距離選手のザトペックで、五千㍍と一万㍍に優勝した余勢をかって、それまで走ったことのないマラソンにも出場して金メダルを取ってしまったというのだから、東京大会の時のアベベの上を行ったことになる。当時盛んに出版されていた講談本の『赤穂義士銘々伝』を呼んでいたら、中山安兵衛が伯父の敵討ちに深川の裏長屋から高田馬場へと駆けつけるくだりで、「安兵衛はザトペックのように駆けましたが間に合いません」という一節があったのをいまもありありと覚えている。ザトペックの走り方が喘ぎ喘ぎ走る蒸気機関車のようだというので「人間機関車」と異名が付き、それから数年後、阪神タイガースの投手として売り出した村山が、ダイナミックな投球フォームがザトペックを連想させるというので「ザトペック投法」と仇名されたが、ヘルシンキ大会が昭和27年、村山が関大から阪神に入ったのが昭和34年だからその間7年ものタイムラグがあったことになる。以て、ザトペックの超人ぶりとその走法の印象が、当時の日本人の脳裏にいかに強く、且つ長期間にわたって刻まれていたかが分かるというものだろう。(ヘルシンキ大会のあった昭和27年1952年はサンフランシスコ講和条約発効の年、村山がプロ入り早々大活躍を始めた昭和34年1959年は日米安保騒動の前年である。当時の日本人にとっての7年の歳月は、現代人にとっての7年とは比較にならないほど長かったはずである。)

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パラリンから画面を切り替えると第2チャンネルで甲子園の高校野球をやっている。何となく懐かしいような気持になる。しばらく眺めているうちに、次々に登場する選手たちの名前に目が止った。姓名の「名」の方である。男の子のネーミングが想像以上に様変わりしていることに、今更ながら驚く。女の子の命名法が、時に日本語の破壊ではないかと心配になるほど様変わりしていることは前から知っていたが、こうして見ていると、男の子の命名法も負けていない。何と読めばいいのか、判じ物のようなネーミング(と当て字)の多様なのに感じ入るほかはない。以前なら同級に一人や二人は必ずいた「清クン」だの「正男クン」だのという名前の選手は、私の見ていたかぎりでは一人も出てこなかった。

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このひと月、二タ月の間に目に留まった訃報。順不同で、伊藤京子、サトウサンペイ、中島弘子、千葉真一、笑福亭仁鶴、坂上弘、山内静夫、ジェリー藤尾等々等。中島弘子さんと山内静夫さんは私よりも大分年長の方だが(伊藤京子さんもそうか)、ほとんどは、若干の年上に過ぎず、社会的に知名の人となったのは、私がある程度成人してからの人がほとんどである。つまり、大概の方々の売り出しの頃を知っていことになる。感慨なきを得ない。

随談第643回 勝手にしやがれ

開催自明、というムードになったのに歩調を合わせる如く、東京のコロナ感染者の数字が日に日にじわりじわりと上がるという、綱渡りを見るような日が続く。勝手にしやがれ。もう、どうなったって知らないからね、と高みの見物を決め込んで眺めるなら、なかなかスリリングな日々である。一介の市井の民としては、せいぜいワクチンでも打って眺めているしか、本当になんにも仕様がない。五輪開催中にハルマゲドン到来となった時の、SさんやBさんの顔が見られるのはオリンピックの競技を見るより、いとおかしきものであるかもしれない。先ごろの国会で本当に五輪は開くのかと迫る野党議員に対して「私はさっきから何度もお答えしています。いいですか、よく聞いてください」と念を押した上で「安心安全」を唱えている。そう、かの仁の中では開催宣言は自ずから疾うになされているのである。紋切り型の念仏と言うが、同じことを訊かれるから同じことを答えているまでなのだ。

がまあ、こんな何の益にもならない文字を連ねていても仕様がない。それよりは、市井の老耄の呟きのごときものをそこはかとなく書きつけて、今回の随談ということにしよう。

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新しい朝ドラが始まって、まあ、見ているが、今回もまた、毎日冒頭に流れる主題歌の歌詞が何と言っているのか聞き取れない。今に始まったことではない。この何年来、ドラマは変われど同じことが繰り返され、続いている。何と言っているのだろうと耳を傾けるが、ところどころ、きれぎれに聞き取れるフレーズはあっても、歌詞全体として立ち上がってくるには程遠い。いつ頃からこうなったろうか、とにかく以前はこういうことはなかった。

曲の作り方、歌手の歌い方にも原因の一端があるのは確かで、とくにフレーズの切り方、息継ぎの仕方、アクセントの置き方,甘ったれたような発声等々、いろいろ考えられるが、どうやらそうしたことどもも含めて、より根元的には、音符に言葉を乗せる乗せ方が、以前とは大きく、もしかするとかなり根元的なところで、変わっているからに違いない。

もう大分昔になるが、ひところ、曲のフレーズと歌詞のフレーズを一致させるべきだという理論がしきりに唱えられたことがあった。なるほど、そうすれば歌詞の意味が明確にわかる。ポッポッポ、鳩ポッポ、という具合である。少し手が込むと、春の小川はさらさら行くよ、の「春」を「はある」と義太夫で言う産み字のようにして処理するという手もある。しかしこのやり方には当然限界があって、曲のフレーズの切れ目と歌詞の切れ目を常に一致させるのは時に齟齬を生じる。我が国家である「君が代」にしてからが、「さざれ石の巌となりて」というところが、「さざれー」で大方の者は息が続かなくなる。ひと頃、大相撲の千秋楽に観客も唱和する国家斉唱のとき、楽隊の演奏が「さーざーれー」だったか「いーしーのー」だったかというところで太鼓をドンドンドンと三連打していたものだが、あれはただの「石」ではなく「さざれ石」なのだから、「さざれ」を切り離して「石の」で太鼓を三つ叩くのは歌詞を無視した演奏ということになる。(それからぬか、最近はこの箇所での太鼓連打はしなくなったようだが。)もともとこの歌は、「君が代は千代に八千代に/さざれ石の巌となりて/苔のむすまで」と、七・五・七・五・七という七五調になっているわけだが、いまの国歌「君が代」の旋律だと、「きーみーがアーよーオーはー/ちーよーにーイイやーちーよーにさーざーれー/いーしーのー/いーわーおーとーなーりてー」と、よほど歌唱の訓練をした者でなければなってしまうように出来ているわけだ。

というわけで、そもそも単純素朴な一音符一音一文字主義を貫けるのは、せいぜい童謡か小学唱歌ぐらいまでが関の山だろうから、我々世代とは飛躍的に音楽の素養が進化した当節の若い音楽家たちが、歌詞の束縛から自由な曲を作りたがるようになったのは無理からぬところには違いない。そこまでは解る。翻って思うに、これは、作曲の仕方より、歌詞、ひいては現代日本語に対する感覚に関するかぎり、朝ドラの主題歌の製作者と私との間に大きな隔たりが出来てしまっているからに相違ない。と、そういう結論に、最近私は達しつつあるのである。

流行歌で言えば、美空ひばり、島倉千代子の時代はもちろん、五木ひろし、舟木一夫、森進一辺りまでは、歌詞がごく何の気なしに、他のことを考えながら聞いていても聞き取れた。いや、もっと近くまでそうであったろう。散文であっても、ある時期までの文章にはそれなりに一定の韻律というものが、たとえ新聞記事にでも、売薬の箱に書いてある効能書きにすら、どこかに潜んでいた。だから何の苦もなく読むことができた。だが近年の散文の文章となるとそうはいかないことがしばしばある。パソコンを買い替えるなどして説明書きを読んでも、内容以前に文意そのものが頭に入ってこない。不案内な用語や、機器の仕組みが理解を超えているというだけなら、当然のことだから不満も不安も覚えないが、それ以前に、文章そのものが無機的で、リズムも抑揚もなく、読む者を拒絶しているかのように感じられる。パソコンの効能書きならまだしも、新聞などで読む年若の識者の筆になる(いや、キーを叩く指先になる、か?)コラムなどにも、韻律を感じ取れない無機的な文章が多くなったような気がする。明晰と言えばそうともいえるが、機械の書いた文章のようで味気ないことおびただしい。

しかし翻って思うに、こういう文章を書き、またそれを読む人たちが、そこに何らかの快適さを感じていないということは(人間である以上)考えられないから、たぶん当節の読者諸氏諸嬢は、こういう無機的(と私には思われる)文章に何らかの「美」を感じ取っているに違いない。最近の朝ドラの主題歌も、あれをよしとし、愛する(ような感性を持った)人が、視聴者の多数を占めるようになっているのに違いない。その人たちには、私には聞き取れない歌詞も、はっきり聞き取れているに違いない。

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それとは違うが(しかしどこかで通底しているはずだという「疑念」も、じつは抱いているのだが)、もう今更、間違いだの、やめてくれだのと言っても間に合わないほど風靡してしまっているから、他人様が使うのを咎める気はないが、自分では絶対に使おうとは思わない「常套フレーズ」がある。

・(お待たせいたしました、こちらカキアゲソバ)になっております、(または)となります。
→さてはタヌキソバがカキアゲソバに化けたのか?

・(××宣言を発出)させていただきます。

・(総理、五輪開催中止)でいいですね?

・(五輪は絶対中止すべきだ)という風に思います。

・(うな重はうな丼より値段が高い)と承知しております。

等々、といったフレーズである。こうした、持って回った物の言い様が、街に出ても、テレビを見ていても、何回となく耳に飛び込んでくる。思うにこれは21世紀になってから以降の現象であろうと私は思っている。

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近ごろはNHKでも民放でも、アナウンサーにアクセント教育ということをしなくなったらしい。たしかに、以前のように「標準語」なるものを絶対視して、NHKのアナウンサーをお手本にすべし、などということを言わなくなったのはむべなるものがあるが、それにしても、同じアナウンサーがわずか数分の間に、さっきは「・・・と述べた」と頭にアクセントを置いて言ったと思うと、同じニュースの中で今度は「野豚」と同じアクセントで「述べた」と言う・・・と言ったことが当たり前になっている。

そういえば、往年の横綱大鵬の孫という若手力士が最近、十両に昇進して、それまで祖父と同じく本名の「納谷」を四股名としていたのが、新規に「王鵬」と名乗るようになった。が、ここではその新しい四股名ではなく、元の「納谷」という名前の読み方である。「ナヤ」と「玉」とか「球」などというのと同じくフラットに呼ばれてきたらしいのだが、さすがに古手のアナウンサー連から、横綱の大鵬の若手の頃、四股名の「納谷」は「納屋」というのと同じに頭にアクセントを置いて呼んでいたものだという声が上がったという。祖父が幕下力士だった昭和30年ごろと孫が幕下の平成30年ごろとでは、同じ名前が別の読まれ方をしていたという、これも同じ根から出ている現象に違いない。

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その一方で、NHKではしばらく前から、「各界」という言葉を「角界」と同じイントネーションで読むのが定例化しているのが、気になっている。「角界の名士たちが一堂に会して」というから、往年の名力士や何かが集まったのかと思うとそうではなく、元総理だのナントカホールディングス会長だのが集まったのだという。あれは、三蔵法師のお供をした孫悟空の同僚の猪の八戒と同じ読み方をするのではなかったろうか?
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立花隆、原信夫、寺内タカシetc、etc・・・と言った人たちの訃報が目に入った。それぞれに、それぞれの盛んだった時代の匂いが、一瞬、立ち込めた。