随談第657回 木槿から金木犀へ

もう忘れている人、そもそも知らなかったという人の方が、今となっては大多数だろうが、昭和の昔のいっとき、吉右衛門と仁左衛門をライバル視するあまり両者のファンの間にかなり過熱した関係が生まれたひと頃があった。ご当人同士はどうであったかは知らないが二人とも丸本物を得意としたためもあって、当たり役が競合したことが、熊谷なら、盛綱なら、実盛なら、孝夫の方がいい、いや吉右衛門の方が、ということになったわけだろう。それから久しい時が経ち、仁・柄・芸風、それぞれの良さを認め合えば自ずから、時とともにめでたく棲み分けも出来、評価も安定したわけだが、一時は、双方のファンの間で一触即発のような空気さえあったものだった。まあそれだけ、熱烈な支持者がそれぞれにあったればこそで、歌舞伎がそれほど活気に包まれていたればこそであったとも言えるが、今はむかしの物語、秀山祭の一周忌に『七段目』の大星をつとめる仁左衛門を見ながらゆくりなくも思い出した。

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文楽はこのところ、三部制にぎっちり詰め込むという方針らしく、一日びっちり通して見ると疲労困憊ということが、このところ毎回続いている。もっとも、これは必ずしも悪口ではない。むしろ、文楽というものはこういう風に見る方がその本質に適っているのかもしれない、とすら思わぬでもない。歌舞伎は遊び、文楽は凝り固まるところに生命がある、とすれば、疲労困憊する愉しみ、ということもこの世にはあるのである。

とはいえ、今回は一部二部を『碁太平記白石噺』に充てるという劇場サイドの「意欲」は多とするものの、真実ひたすら疲労困憊した。同時にこれは、このアマチュアリズムが生んだ作ならではの故であろうということにも、改めて思い至った。机に向かって浄瑠璃の本文を読んでいても気が付かない、これは劇場の椅子に座って見て聴いて初めて気づくことかも知れない。「田植の段」「逆井村の段」「雷門の段」「揚屋の段」と(入れ替えをはさみ、二部の第一に『寿柱立万歳』という一服する救いの演目もあるものの)、通して見るには、作も曲も、耐え得るものではない(途中どうしても、疲労困憊の末、睡魔に襲われる!)ということを、「一挙通し上演」という劇場側の大奮発の企画のお陰で確認したというわけだ。

ということが分かっただけでも、今回の通し上演の意義はあったことになる。とは言え、何の彼のと言ったところで、自作の作品が二世紀の余も後まで永らえているのだから、豪商三井の四代目の当主と聞く紀上太郎なる作者、当節の三井物産や三井不動産の社長が逆立ちしても出来ないことをしていたわけで、あっぱれアマチュアリズムの権化、敬服に値するというものだろう。

でさて、その疲労困憊も、第三部まで見ると、今度は『奥州安達原』の三段目「朱雀堤」から「貞任物語」をたっぷりと、ヴォリュームからすればこっちの方がはるかに大きいにもかかわらず、疲労はむしろ解消された。作よし曲良し、演者も概ね好演で、こちらは眠るどころではなかった。思うにこれは、作の出来の良しあし以前に、作者の言葉に対するセンスの問題であろうと、これも今回気が付いた。言葉というものに対する感性の違い、それが言葉の選び方から、話の進め方云々、というものに恐ろしいほどの違いが出来てくるのだ。半二の作としてはごたごたしていると思われがちだが、むしろこのほどの良い「ごたごた感」が、時代物浄瑠璃の生命である雄渾さを生み出している。『白石噺』のごたごた感は、言葉が説明に終わっているからだが、『安達原』の方は、見る者聴く者の心をつかみ取り劇の世界へ運び去る力を有しているからだ。この上は、「一ツ家の段」を、死ぬまでにぜひもう一度見たいものだ。(久しく見ていないが、もう何年やっていないだろう? 野沢吉兵衛の雄渾な撥さばきが忘れ難く耳に残っている。この人のいかにも昔のらしい風貌風格が、私は好きだった。)

老婆が若い女の腹を裂くというこの「一ツ家」の段を、歌舞伎でも一度やったことがあるが、これも忘れ難い思い出で、国立劇場の歌舞伎公演50年の中でも屈指の舞台と言えるだろう。腹を裂く老女が17代目勘三郎、裂かれる女が当時澤村精四郎、すなわち後の澤村藤十郎。まあこれ以上の配役は望んでも無理だとしても、だ。(魁春と米吉で? さあ、どうだろう?)

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国立劇場が、しばらく前から改築が言われてはいたが、アララという隙に、向こう一年間の舞台に「さよなら公演」という文字が添えられることとなった。昭和46年11月が開場だったから、来年10月までさよなら公演が続くことになる理屈だが、さてまだそこまでは発表がない。

それにしても、国立劇場よりひと月先んじた昭和46年10月が帝劇の開場、さらにその3年前の昭和38年10月が日生劇場の開場で、その日生劇場が、現在東京で最古の劇場ということになるというのは、当時を目の当たりに見ていたものとしては不思議でしょうがないが、真実の話らしい。

さてその帝劇のこけら落としが二代目吉右衛門襲名公演だったというのは、当代の高名な歌舞伎役者の中で歌舞伎座で襲名をしなかった人があります。サテ誰でしょう?というクイズの問題になり得るような話だったが、果たしてそういうクイズが実際にあったかどうかは知らない。披露の役が『金閣寺』の東吉に、父八代目幸四郎の関兵衛に歌右衛門の小町姫で宗貞をしたのだったが、狂言半ばで「口上」となり、赤姫姿の歌右衛門の口上に続いて新・吉右衛門の挨拶の開口一番、「ただいまは成駒屋の叔父さまよりご懇篤なるお言葉をいただきまして」と言った途端、場内に笑いの渦が広がった。なるほど、このお姫様が「おじさま」であったことに満場改めて気が付いた、というわけである。

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記念すべき舞台とか勝負、というものに巡り合って、「オレ、誰それの○○を見たぞー」と言いたくなる心理というものは、おそらく、ヒトという生物にだけあるものだろう。亡くなった澤村田之助が、7歳の砌り、しかも六代目菊五郎の膝に抱かれて、双葉山が70連勝目に安芸ノ海に敗れた一番を見た嬉しさを繰り返し語っていたことは先ごろもこの欄に書いたが、この「双葉破る!」という一戦を目撃したことこそ、当時の日本人の自慢話として最も普遍性を持った自慢の種であったであろう。(当今の大相撲に対する一般人の関心の度合いとは天地の差があった時代である。)

と、前置きが長くなったが、ヤクルトスワローズの村上が一試合に54,55号の二本のホームランを打った試合を見てきました。55号が王貞治氏の記録と並んだという、例の一発ですが、54号の方が美的には快適な一打だった。こういう一銭にもならない(という言い草がかつてあったが)無邪気な喜びというものは、何物にも代えがたい。その意味を理解する者である限り、小学生も八十歳九十歳の老いぼれも、これほど平等に分かち持てる物はないだろう。老耄の記憶の中で、この村上の一打は、小学生の時(よりも前だったかも)に見た青バットの大下のホームランに記憶の奥底で繋がっている。すなわち、わが人生の喜びに、結構深いところでつながっている。かるが故に、こういう埒もない記憶というものは、ヒトにとって深甚な意味を持つのである。

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訃報

その1)元西鉄の池永~この人については私などが出る幕がないほど、多くのことが語られている。池永は無実であったわけだが、その奥には、ああいう事態がわだかまっていたわけで、かつての興行ものとつながっていた闇こそ恐ろしい物はない。

その2)三遊亭圓窓~さる事情があって、この人のために新作落語を一篇作ったことがあった。もっとも、いまひとつご本人の気に入らなかったためにボツになってしまったが。

その3)佐藤忠男(旧聞へ遅ればせながら)~高校生の頃から名前は知っていた。格別ファンにはならなかったが、偏りのない姿勢や、高等ぶった難解な理屈を振り回すことなく(非常に真面目であるにもかかわらず)いわゆるプログラム・ピクチャーと十把ひとからげにされるような映画にも(いかにも真摯に)目を配っているところに好感を抱いていた。

その4)町田博子(さらに遅ればせながら)~大映映画を見るといつもこの人の顔を見ていたが名前は知らない、という人は多かったと思う。「おはなはん」という、NHKの朝ドラ草創期の何作目かで、大ヒットして朝ドラの存在を「国民的規模」に飛躍させた作で、この人が相当の活躍をした。映画で見ていたあの人だ、と思った人は多かったろう。町田博子っていうんだってさ、ということになった。それから以後については、私などが語るまでもない。96歳だって? ム、映画時代を計算に入れれば、まあそうだろうなあ。

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九月も末。気象の変動が言われる中、今年も、二十年前いまの家に越してきたときに部屋の窓の前に植えた木槿が、夏中にしきりに咲かせた花を終らせようとしている。わたしはこの、ほのかに野趣のある木が好きなので、庭というもののない、従って門も塀とか垣根というものもない今の家に越してきた時、幅一メートルあるかなきかという余地に木槿を植えた。うまく土に馴染んだかしてよく育った。実に几帳面な植物で、7月から9月までの3か月間、朝一杯に花を咲かせ、夕方にはしぼんで落ちてしまうのを繰り返す。まこと、

   道の辺のむくげは馬に喰はれけり

という句の通りである。(この句、芭蕉なそうな。季語としては秋である。)厳密にいうと、6月の28~9日ごろに最初の花を咲かせ、10月の2~3日ごろに最後の花をつける。前後にささやかな「おまけ」をつけるところが、昔の駄菓子屋や肉屋さんの「お愛想」のようで面白い。

と、この話には注釈が必要かもしれないのでちょいと脱線すると、駄菓子屋でお菓子を買うにも、肉屋で肉を買うにも、カリントウならカリントウ、牛のコマ切れならコマ切れを50匁なら50匁買う時(当時はまだ尺貫法だった)、店の小父さんが客の目の前に置いてある秤で見計らいでカリントウなりコマ切れなりを量って売ってくれるわけだが、ここで売り手の商人(アキンド、と読んでください)としての器量が分かる。目分量でカリントウなり牛のコマ切れなりを秤に乗せてゆくわけだが、50匁のちょっと手前で秤の針が揺れる、と、売り手の小父さんが二つ三つ、二タ切れ三切れ、ひょいと足してくれる。と、50匁をちょいと越えて針が振れる。その頃合いを見計らって、カリントウなら紙袋、牛のコマ切れなら経木なり竹の皮に包んで、ハイ、お待ちどうさまと渡してくれるという寸法である。買う側は、ちょっぴり得をした気分になる。量り売りという商法がなくなってしまった現代、あの子供心にも分る商売の機微、阿吽の呼吸の面白さというものも忘れられてしまった。

横道の話が長くなったが、朝に咲いて夕べにはしぼむという木槿が、季節に二、三日先立って咲き出し、二、三日遅れて咲き終わるという「オマケ」の精神を几帳面に持ち続けているのも、何か不憫な思いを抱かせる。

ところで九月も末となって木槿の咲き方にも勢いが薄れてくると、入れ替わって、玄関脇に立っている金木犀が、あれは何色というのだろう(試しに広辞苑を見たら、うまい言葉がないのかして「赤黄色」などという不粋な説明しか載っていない。まあ、当世風に言えばオレンジ色の範疇に入れるしかあるまいが)、強い香りを放つ小さな花を咲かせては散り、咲かせて散りを繰り返す。こちらはおそらく前の住人が植えたのが長い歳月を経てちょいとした大木となったものと思われる。年中葉を繁らせている常緑樹だから、少々の雨降りなら、その下陰に入れば傘がいらない。帰宅して傘を畳むひまに濡れるのを気にしないですむのがありがたいが、その反面ということもあるわけで、盛りになると、散らす花の量も馬鹿にならない。玄関前は私道とは言えそんなことは知らないで通行する人も少なからずあるから、なおのこと、盛りになるとちょっとした絨毯並みに散り敷くのを放っておくわけにいかない。この掃除が、これからしばらく、馬鹿にならない作業となる。木槿も、毎夕、しぼんだ花のまま落ちるのを、盛りの時期にはマメに掃除するのが日課となるのだが、量と、それに要する時間と労力は比較にならない。まあこれが、私にとっての、秋の音連れのしるしということになる。

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今月はこれ切り。海老蔵白猿の襲名が近づいてきましたね。さて・・・・

随談第656回 よしなしごとばかり

毎年8月は自主公演やら勉強会やらが並んで、これがちょっとしたおたのしみになっているが、思い出すのは、世紀の変わり目頃だったか各種の自主公演が目白押しだったのが、何年か続いたひと頃があった。京蔵が『吉野川』の定高をしたり丸本物の大物に挑むなど意欲作も多かったが、そうなると毎回のように葵太夫が引っ張り出される。この種の会は土曜日に行われることが多かったので、ある年の8月など、毎週土曜日になると葵太夫の顔を見ていたという夏もあった。その葵太夫も今や人間国宝、役者の方も今やベテランと呼ばれる年配になっている。20年余はひと昔、である。評は『劇評』第6号に載せる予定なので、そちらをご覧いただきたい。

人間国宝といえば、このほど梅玉と一緒に、女義太夫三味線の鶴澤津賀寿が認定されたのも、まだ一介の素人だった頃から、縁あって知る者として感慨なきを得ない。素人も何も、そもそも彼女が三味線を弾くようになるとは、当時は思いもしなかったのだから夢のよう話である。良き師についたことと、もちろん人知れぬ努力もあったに相違ないが、おめでとう、でも昔を思い出すと頬っぺたを抓ってみたくなるねとメールを送ったら、ちょっと似合わないですねーと返信が来た。

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早稲田大学の内山三樹子先生が亡くなったのは前回分を載せてしまった直ぐ後だったから、もうずいぶん日が経ってしまった。お付き合いというほどのものはなかったが、本を出した際に献呈すると必ず懇篤な御礼を下さった。育ちの良さがそのまま人格や人柄となっているのが感じられた。それで思い出すのは、もう二十年の余も昔のことになるのに驚くが、『新世紀の歌舞伎俳優たち』という本を出したとき、献本すると程なくお返事が届いた中に、ちゃんと読んでくださったと見え、澤村田之助のことを書いた文章について、この人の若い頃の舞台についてなら自分の方がたくさん見ているようだ、という趣旨のことが書いてあった。ほぼ同年輩の先達として、一言、自慢したくなったのであるらしい。こうした稚気と言おうか、純と言おうか、少女の心がそのまま今も生き続けているようで、覚えず微笑が浮かんだ。(さる女性にこの話をすると、「カッワイイ」と嘆声を挙げた。)その田之助と、ほぼ相次ぐように亡くなったのは、私だけの知る因縁というものだろう。劇場のロビーなどで姿を見かけると、ずいぶん遠くからでも、深々と丁寧な挨拶を送ってくださる方だった。

これもしばらく前の話で、その際にもこのブログに書いたことがあったが、一度、こんな椿事があった。国立能楽堂の講堂を借りてささやかな催しをしたことがあった時のことだが、神山彰・児玉竜一両氏と近くのレストランで打ち合わせを兼ねた昼食を済ませて戻る途中、能楽堂の正門の前の道を内山さんが、それが癖らしくうつむき加減で歩いてくるのに出会い頭のようになった。互いに、アッこれは、という感じで挨拶を交わす・・・と思ったとたん、わずかな段差に足を取られたかして、バッタリ、転んでしまわれた。とそこへ、スーッとタクシーが一台滑り込んできて停車する。はっとした一瞬、ドアが開いて憮然とした面持ちで降り立ったのは、何と、加藤周一氏だった・・・という一幕で、黙阿弥もどきに、加藤氏に河内山よろしく「星が飛んだか」と言ってもらいたいような、滅多には遭遇しないであろう、忘れ難い一場面だった。

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今回はこれ切りにします。

お詫び 水野久美さんについてのこと

今月2日付の随談第655回に、水野久美さんについて訃報を聞いたという趣旨の一文を載せましたが、お読みになった方からの指摘を受け、調べたところ、私の思い違いであったと認めざるを得ないようです。水野さんには大変失礼なことを致しました。また、お読み下さった方々にも申し訳ないことでありました。ここに訂正・抹消の上、お詫び申し上げます。

随談第655回 だいなし

今回も、オッと目を引かれる訃報を見つけた。順不同で、

まず石浜朗。兄世代である。ということは、こちらは小6、中1ぐらいの年頃になっていろいろ世の中のことが眼中に入ってくるようになった頃に、あちらは高校生から大学生といった年齢でスターとして売り出したところ、という世代差になる。健全な環境、と言っても、一般人から見てそう手の届かない(というほどでもない)ところで生まれ育った、大人から見ても、同世代から見ても、(私のように)やや年下の者から見ても、ほどほどの距離感をもって見ることのできるスター、と受け止められていた。手の届かないところにいるスターではなく、見る側の世代年配によって、感じのいい息子の友人であったり、同輩だったり、知り合いのお兄さんであったり、といった距離感がミソで、いつも詰襟の学生服を着てスクリーンにも雑誌のグラビアにも登場した(ような気がする)。(これが、現代の高校生大学生のタレントと決定的に異なるところで、このことの持つ意味の大きさと多様さは、ちょっと考えるよりはるかに大きいに違いない。)

でまあ、この件についての難しい分析解析はいまは兎も角として、いつも詰襟の学生服を着ているような役をして、当時の青年の喜びや悩みや・・・を演じるのが彼、石浜朗の役柄であり役割だった。実際に彼は、たしか立教大学の正真の学生だった。(と書いて、気が付いてみれば、たぶん、長嶋茂雄選手や杉浦忠投手や本屋敷錦吾選手などと同じころに在籍していたことになる筈である。)沖縄戦の「健児の塔」とか、美空ひばりと共演した『伊豆の踊子』(これを見たある若い国文学徒が、この石浜朗を見て若き日の川端康成そっくりだと驚いていたことがあった。またこの美空ひばりを見ると、彼女へのイメージが変わる人も出るだろう。余計なお世話だが、ついでに一言)とか、昭和20年代の後半から30年代へかけての、戦後の空気を最大公約数的に担い、伝えつつ、いまでいう青春ドラマ(などという言葉はもちろんなく、実態も天地ほど異なるものだったが)を演じた俳優、ということになる。だが、その死を伝える記事を読むと、代表作として『切腹』その他を挙げるのはいいとして(演技者としては、まあたしかに、『切腹』を以って代表作ということになるのだろう)、より若き日の、ということは、スターとして最も輝かしかったころの、それから、その存在が「時代」を語ってはるかに雄弁であった「学生服」を着て演じたもろもろの作品に触れた文章にはお目にかからない(ということに、私などはいまさらながら、軽い、しかし結構深い、衝撃を覚える)。書いた記者が往時を知らず、何かを調べて書いているからであろう。よく政治家などが、後世の史家に俟つ、などと聞いた風なことを言うが、後世の史家というのも案外、頼りにならないものかもしれない。

数年前、同じく松竹映画のスターだった有馬稲子と共演した『白い魔魚』というのを(原作は舟橋聖一が朝日に連載した新聞小説で、中学生だった私はちょいと背伸びをしながら愛読していた)、なつかしさに惹かれて池袋の文芸坐に見に行ったら、何と当の石浜氏ご本人がゲストとして上映後に登場、アフタートークをするという「幸運」に巡り合った。そのときすでに80歳ということだったが、歳は取っても、印象としては、詰襟の学生服を着ていた昔のイメージを損なうことはなかった。むしろ、あまりにも変わらなかったとも言え、そこが、やっぱり石浜朗は石浜朗だ、という感じだった。きっと、いつ会っても、いい人だったに違いない。

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島田陽子、となるとこっちはもう、それなりの年齢になってからの人だから、同じ「懐かしい」と言ってもその度合いは全然違う。この人の場合も、訃を伝える新聞やテレビの報道はなにやらお定まりのことを伝えて終わったようだが、何と言ったってこの人は、一介の素人娘が、朝日新聞が莫大な懸賞金を投じて新聞連載小説を募集して大きな関心を集めた入選作、三浦綾子作の『氷点』の映画化に当ってヒロイン役として発見され、演じ、一躍スターとして売り出した、あのことを語らなければ、このスターの全貌を、ごく簡潔になりと、語ったことにならないのではあるまいか。少なくとも一言も触れないという法はないだろう。そのうえで、他に数々の名演技があるなら語ればよいではないか。既成のスターには求められないものを求めての,新人発掘に選ばれたところに、往時を、往時のこの人の有り様の意味を、雄弁に語ることになるのだ。

それから数年後、安定したスターとなりおおせた彼女と、劇場の椅子で隣り合わせたことがあった。後の坂田藤十郎、当時の先代中村扇雀が、歌舞伎から全く離れた形で武智鉄二演出の『四谷怪談』に田宮伊右衛門役で出演、かなり大きな話題と注目を集めた公演が岩波ホールであった時のことだった。といっても、ただそれだけの話である。(つまり、そういうことを言いたくさせるだけの存在であったというわけである。)

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コロナにもマスクにもうんざりしながら、でも出かけるときには几帳面にマスクをかける。何やら、人間のいとなみや、人生そのものの、いやもっと大風呂敷を広げて、人間存在そのものの戯画のように見えなくもない。こんな勉強、何のためにするのかと勉強塾に通う小学生は思い、何のためにこんなことをしなければならないのだと、パパもママも,月給鳥と一緒くたに括られる人たちも、センセイと呼ばれる稼業の人も、それぞれの業務にいそしみながら、でもともかくも、マスクをかける。何十年かのちに、こうした光景を映した画像を、後世の人達が見ることがあったなら、笑うだろうか。それとも、気味悪がるだろうか、それとも・・・

プロ野球では、監督・コーチ・球団スタッフから、有名無名の選手まで、大ぜいがコロナに罹って試合が出来なくなったチームが出来た。大相撲の終盤、幕内の取り組みの半分近くが、東方西方、どちらか一方の力士がコロナにかかって休場、相手力士の不戦勝を告げる取組みが次々と続いて、あれが相撲ファンの集まりだから場内溜息の連続、というニュースで済んだが、街中の何かだったら、何かが起きていても不思議はない。運転手が皆コロナにかかってしまい路線バスが休業というニュースがあったが、審判や行司がコロナで休場,試合や取組みが出来ないということもあり得るわけだ。やれやれ、である。

・・・・というところで、今月はお終い。お暑うございます、お体お気をつけなすって・・・。

随談第654回 ON THE SHADOWY SIDE OF THE STREET

街を歩いていて「片陰」という言葉を思い浮かべる季節となった。日が高くなって、道の片側にしか日陰が出来ない。陽ざしを避けてその日陰を拾って歩くようになると、もう夏だなと思う。反対に、陰になっている側を避けて日当たりのいいところを選って歩くようになると、そろそろ冬だなと思う。もっとも「片陰」は季語としては夏という約束だが、それよりも、いまどきそんな歩き方をしていると鋭い警笛に非難叱責されるかもしれないから(「叱声」に対する「叱笛」(しってき?)という言葉が出来て然るべきか)、片陰、などという言葉は日常語としては絶滅危惧語になりかねない。先ごろの朝ドラの『カムカムエヴリバディ』で(あれはなかなかよかった。朝ドラ近来の佳作だった)、ルイ・アームストロングのON THE SUNNY SIDE OF THE STREETがテーマになっていたが、あれは日本の冬の時代が舞台だったからという隠し味だったのだろうか。

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染五郎の好演で今月の歌舞伎座第二部『信康』がスター誕生の感を呈することとなった。評は木挽堂書店刊行の『劇評』第4号に載せるのでそちらをご覧願うとして、舞台を見ながらふと頭をかすめたのは、久しぶりにこういう芝居を見るという思いだった。むかし見慣れた景色に思いがけず出会ったような、一種なつかしいような気分と言おうか。

作者の田中喜三という名前を見るのも、思えば久しぶりである。よくその名を見たのは昭和も四、五十年ごろだったか。きちんとまとまった几帳面な作風という印象と共に記憶している。この『信康』もいかにもそうした作で、信康役の染五郎だけでなく、家康の白鸚も、家来の役の鴈治郎も錦之助もその他誰かれなく、真摯に、いわばそれぞれが役になり切っていて、隙とか遊びというものがない。それが、17歳にして自ら決意して退学し歌舞伎俳優として専念するという染五郎の強い思いと、劇中の信康と重なり合って、好演・好舞台を生んだわけだろうが、翻って思ったのは、昨今の、舞台にせよ映像にせよ、よく言えば遊び沢山の作劇が常識・常態となってからこっちの世代の観客に、こういう芝居がどう映っただろうかということだった。まあ今度の舞台では、染五郎のひたむきさは若い観客にもそくそくと伝わったであろうが、それにしても、こういう遊びのない、ひたすらリアルな劇の運びを、どう思って見ただろうという興味(と不安)は涌く。違和感、とは言わないまでも、勝手の違うような思いを抱いたとしても不思議はないのではあるまいか?

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テレビを見ても、大河ドラマでも朝ドラでも、作品の出来不出来、好感を覚えたか否かを問わず、ずいぶんドラマの作りが変わってしまったことに驚き、ときに呆れながら見るのが常となって久しい。よく言えば奇想縦横、裏返せばハッタリ沢山(と、私のような旧弊な人間には時として見える)。現在放送中の『ちむどんどん』にせよ『鎌倉殿の13人』にせよ、脚本の運びは手練れというか名人芸の域にすら達しているとも言えるが、とにかく絶えずめまぐるしく見る者の意表を突き、引っ張りまわす。ああまでしなくても、と私などは思ってしまうが、ああしなければイマドキノ視聴者はじっと見ていてくれないのかもしれないし、まず作者ご本人が不安でならないのかも、という気もしないでもない。演者の演技も、コントを見るような羽目の外し方をするのが当然、ドラマの演技というのはそういうもの、とされているようにも見える。

最近、夕方4時台という時間帯にNHKでしばらく昔の朝ドラを再放送するようになって、仕事の合間の一服がてら眺めていると、なんとも「古風」というか、マジメというか、時にカッタルイというか、ナツカシイと言えば懐かしい思いがする。昔と言っても、あの時間枠の第一作の、昭和36年だったかに「テレビ小説」と称して放送した獅子文六の『娘と私』ほどの大昔ではない(この「テレビ小説」というのも、それ以前に「ラジオ小説」と称して、名のある作家の有名作を朗読や放送劇(という言い方の方がラジオドラマというより普通だった)の形で定着していたのを踏襲してのネーミングだった筈だ。まさしくあれは、作者自身を思わせる「私」なる人物の独白の形で流れるナレーションで物語が進行する、即ちまさしく、目で見、耳で聞く「小説」だった。)その「テレビ小説」から「小説」の二文字が取れ、やがて「朝ドラ」という言い方が定着してからずい分長い年月が経つわけだが、最近夕方に放映されていたのは昭和の末か平成の初めごろと思しい作だから、われわれ年配者からすればそれほどの大昔というわけではない・・・筈なのだが、いま見ると、私から見てもたしかにちょいとカッタルイ感じがしないでもない。しかしおそらく当時はこういうものと思って見ていたのだろう。(朝ドラというのは、朝の小忙しい時間帯に合わせて、時計代わりに見るもので、ジッと画面を見ていなくとも凡そ見当がつくように作られているのだとよく言われていたものだったっけ。いまだってそういう条件は変わっていないだろうから、してみると、突如、羽目を外したようなオーバーアクションやギャグが飛び出すのは、視聴者の目を画面に呼び戻そうという試みとも見える。)

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『信康』から話が引込線に入り込んでしまったが、この作に限らず、ある時期までの歌舞伎の新作物といえば(北条秀司とか宇野信夫とかいった独自の作風をもった大家の作は格別として)、大なり小なりこうした感じのものが普通だった。つまり、突如話の風呂敷を広げれば、逍遥・綺堂以来の新歌舞伎というのは要するに西欧近代劇のリアリズムに準拠した作劇法を和風に馴化しつつ定着させ、その延長として戦後の新作歌舞伎にまで及んだものだったわけで、昭和も末ごろに活躍した田中喜三のような作者の作風も、そうした流れの一脈だったことになる。『鎌倉殿の13人』に登場する宮沢りえ演ずるところの北条時政夫人と、坪内逍遥がマクベス夫人を念頭に書いたという『牧の方』の主人公を並べて見ると,新歌舞伎とテレビドラマの差異を越えて、明治から令和へ、遥けくも来つるものかなと感慨無きを得ない。『牧の方』はたった一度、歌右衛門がしたのを見た切りだが、とにかく何やら物々しいものだった。『鎌倉殿の13人』の作者が如何に坪内逍遥の詰屈さから解放されているか、思い半ばを過ぎるものがあるが、その意味では、曾我の五郎・十郎が助六や白酒売り粕兵衛となって花の吉原に出没する歌舞伎十八番『助六』の自由闊達融通無碍の境地に比べれば、まだまだマジメ一途、進化?の途上にあるのかもしれない。

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朝ドラと大河ドラマの話が出たついでに、毎回冒頭に出るスタッフと配役の出し方について、以前から一言したいと思っていたことがある。いや、一言では済まないから、箇条書き風に書こう。

その1)まず役名と役者名の出し方。背景に凝るのはいいが、木洩れ日だとか霧だとか白砂だとかの背景の上に白っぽい文字で役名と俳優名が次々と出ては変わる。しかもかなりの速度で切り替わるケースがちょいちょいある。当然ながら、逆光や白っぽい地の上に白い文字は読みにくい。外国映画などでは昔からままあったことだが、昔の映画のクレジットは画面いっぱいに大きい文字で出たから格別読みにくいというほどではなかった。要するに、視聴者の見やすさより自分の美学を優先する「芸術家」が担当者に多いのだろう。

その2)『鎌倉殿の13人』の配役紹介は覚える暇がない速さで次々に切り替わる。出演者の人数が多いせいでもあろうが、馴染みのない俳優の名前が目まぐるしく流れては消え、消えては流れするのは、担当者は、すべての視聴者が出演者の顔と名前を熟知していることを前提にしているのではあるまいか?(せめて、その補いの意味からも、その人物が劇中に登場した時に役名をテロップで出してくれれば!あれは誰だと判って見るのと、何者か判然しないまま見ているのとでは、興味の有無に大きな差異が生まれる。特にこの手の「歴史劇」?の場合、役名と結びつけて覚えないと感興を殺ぐことにつながる。

その3)現代劇の場合、小さな役の人物が劇中で名前で呼ばれる場面があるわけでもないのに、「原小百合」とか「小谷翔平」とかいった風に役名だけを出されても、その「小百合さん」や「翔平氏」がいつどの場面に登場したどの役の人物なのか見当がつかない…ということがしばしば、いや必ずのようにある。

以前、芥川比呂志のエッセイを読んでいたら、どんな端役でもそれぞれ一人の人間なのだから、作者は「役人A」とか「兵隊B」などとしないで名前をつけてもらいたいと書いていたのを思い出す。なるほど、と小さな役をつとめる無名の俳優を思いやるその床しさに感じ入ったものだが、これではせっかく名前を付けても、どこに出ていたどの役だか、観客・視聴者にはわからない。「吉永節子(魚屋のおばさん)」とか「小谷翔平(区役所の窓口のおにいさん)」と書くだけの、いま一歩の配慮を何故してくれないだろう?

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訃報(その1)沢本忠雄86歳。この人とか川地民男とか、日活映画を見ているといつも出てきた。かくべつ上手いと思ったこともないが、いろんな作品である種の役どころをソツなく勤めてかなり長いこと働き、テレビや舞台に移ってからも結構息が長かった。ああいうポジションというのは、長く俳優人生を続けるのになかなかよさそうに見えるが、どうなのだろう?7番か8番を打って打率2割3分か4分、という選手がいるが、一試合に一安打、いいところでチームに貢献する安打を打てれば、3割も打たなくとも、本塁打を20本も30本も打たなくとも、その道で息長くやっていけるのと同じかもしれない。

その2)マヒナスターズの松平直樹88歳 「愛して愛して愛しちゃったのよ」という大ヒット曲はいわゆる名曲ならぬ名曲というべきものだった。果然、はるか後年の、皇室を揺るがしたあの恋を先取りしていたのである? まさか!

その3)ジャン=ルイ・トランティニャン。特に言うこともないが、、、まあ、記憶に残りやすい役者ではあった。

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と、ここまで書いてきたところで、歌舞伎界から二つの訃報が届いた。

改めてその1)坂東竹三郎 この人の真価を知ったのはじつは晩年に至ってから、それも東京にいてはなかなか触れる折がなく、まめに関西まで足を運ばないと機会も多くはなかったが、それでも『有馬猫』は見逃したが『女團七』を見たのがせめてもだった。その存在を知ったはじめは、『演劇界』のグラビアで坂東薪車の名で関西での活躍ぶりが紹介されていたのを見たことで、昭和30~40年代という関西の歌舞伎の状況の中で、自主的な公演などを催して気を吐いている様子だった。昭和ひと桁生まれ(田之助と生年から誕生日まで、即ち同年同月同日の生まれということは、短い間に相次いだそれぞれの没後に知った)という、不運な巡り合わせにもかかわらず奮闘していて、二桁生まれの秀太郎・孝夫の松島屋兄弟に先んじているかに思われた。師であり養父であった尾上菊次郎は先代富十郎の実弟だから、われわれのよく知るあの富十郎の叔父にあたるわけだが、この人を初めて見たのも、富十郎が坂東鶴之助から市村竹之丞になった興行に、久々に東上、「口上」の席で「東京のお客様、お久しぶりにございます」と挨拶したのがその声を聞いた初めだった。東京オリンピックのあった年の春のことだから,まだ新幹線は開通していない。その同じ興行で、竹之丞と同時に、由次郎から田之助への襲名が行われたのだから、誕生日だけでなく、妙なところでご縁があった同士ということになる。

改めてその2)田之助についての思い出はいろいろある。その存在を知ったのは、東横ホールで由次郎と名乗るぽっちゃりと可愛い、とは私が言ったのではない、年配が由次郎と相前後すると思われる、私からすれば姉世代の女性ファンの間でじわじわと注目を集めていた頃だった。つまり、東横ホールの菊五郎劇団の花形公演で売り出した、ある意味では代表的な一人と言える。(この辺りのことは、旧「演劇界」に2001年から07年まで連載し、後に『田之助むかし語り』と題する自伝風の一書につぶさに語られている。編集を手伝ったから言うのではないが、数ある歌舞伎俳優の自著の中でもユニークな一書であることは疑いない。田之助の舞台を見たことのない人でも意表を突かれる、歌舞伎俳優なるものへの先入観の蒙を啓かれるという意味からも、お読みいただいて損はないとお勧めしたい。

こういったからと言って、田之助が変わり者でも異端児だったわけではない。むしろ良識家であり、会って話していてこの人ほど、いわゆる「役者」の臭みを感じさせなかった人もなかったというべきだろう。地下鉄の東西線に九段下(だったか)の駅から目の前に乗ってきて、オオ、ということがあったり、中央線の四谷から高円寺まで並んで吊革につかまったままお喋りを続けた、なんてこともあった。(新幹線のグリーン車ではない。)

のちの萬屋錦之介の初代中村錦之助や大川橋蔵と言った面々が子役から中供(ちゅうども)時代の同窓生、六代目菊五郎に可愛がられ巡業に連れていかれたといった戦中の日々を語る件の面白さもさることながら、戦争が終わったが、小学校を出ても算数の二桁の計算もわからないという現実に気が付くと、歌舞伎から足を洗って、中高生時代を全くの一少年として送ったという辺りに、余人にないこの人ならではの生き方が窺われる。その空白を取り戻すための、歌舞伎に復帰してからの努力の程が察しられるが、むしろそれ以上に、この辺りにこの稀有な一書の読みどころがある。

昭和14年春場所(と、かつては一月場所のことを呼んでいた)4日目、というのはかの双葉山が70連勝目に安芸ノ海に一敗地にまみれたという、近代相撲史上最も多く語られている日だが、この一番を7歳にして六代目菊五郎の膝に抱かれて国技館の桟敷で見ていた、という話は知る人ぞ知る逸話として、角通としての見識から北の湖理事長に請われて横綱審議委員になったことも知られているが、この本が出た時に、相撲解説の北の富士氏から、いろいろな人に読ませたいからと、版元に二十部ほど注文があったという。以て、その横審委員としての存在の有り様のほどが窺われるであろう。

七代目宗十郎の孫として、後の九代目宗十郎の訥升とひとつ違いの従兄弟だったわけだが、もうひとりの従兄弟の澤村藤十郎と合わせ三人の俊才が、もう見られないということになる。名門紀ノ国屋が、目の前でこういうことになろうとは思いも寄らなかったことである。晩年に膝の痼疾のために女方の役が困難になって立役を勤めるようになり(『入谷』の丈賀までやって、それがまた楽々と(という風に見える)やってしまう。三代目左團次や十三代目仁左衛門ような大家がつとめる丈賀も見たことがあるが、『矢口渡』のお舟で襲名したという人が勤めたのは初めて見ることだった。爺もやれば婆もやる。「六段目」のおかやもやった。これだって、錦祥女や尾上も勤めたという人が、普通ならやる役ではない。

その『国姓爺』の錦祥女や『加賀見山』の尾上をつとめた平成になって間もなくの頃が、身上としては盛りであったか。同じころ宗十郎が自主公演の「宗十郎の会」で『濡れ髪お関』という南北物の稀曲を出したとき、宗十郎の濡髪お関に田之助が放駒お関(つまり『双蝶々』の穴を行く芝居である)をしたのが、この現代歌舞伎において稀有な風を持っていた従兄弟同士二人でした最も実り多い精華だったと思っている。

だがもうひとつ田之助の真骨頂を語るうえで、私には忘れ難い記憶がある。まだ昭和の頃の中堅と言われた当時のことだが、歌右衛門が復活して当時レパートリーになっていた『二人夕霧』が出て、歌右衛門と芝翫の二人の夕霧に延若の伊左衛門という絶対の布陣の中に、田之助が吉田屋のおきさの役で出た時のことだった。終幕、二人の夕霧と伊左衛門が三人手踊りのようになってのひとくさりに、田之助のおきさが加わった途端の、得も言われぬ模様というものはなかった。クヮルテットのヴィオラ奏者の趣きだった。つまりそれが、古き良き昭和の歌舞伎に、わが田之助の占めていたポジションだった。

随談第653回 あれこれ

マスクをしなくてもよい場合、というのを政府が決めたというニュースがあったが、それなりの反響に留まっている感じだ。例によってテレビのワイドショーの識者が、同調圧力だの、個人の自主性だのと言った声を発している。これまたいかにも日本的な「景色」であろう。マスクは第二のワクチンである、と力説していたお医者さんもいたはずだが、歯痛から緑内障まで、私はいま現在罹っている医療に関することは一切、専門医の言うことをそのまま信用することにしている。

もっとも、私がマスクをするようになった動機の第一は、コロナ初期の頃、国電の車内でマスクの有無をめぐって乗客同士で諍いとなり、緊急停止させてノーマスクの乗客を降ろしてしまったというニュースを聞いて、オソロシイ世の中になったものだと思ったことだった。触らぬ神に祟りなしという、極めて「日本人的な」理由である。

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キッシンジャーなんて人がまだ生きていたのをウクライナ関連のニュースで見て驚いたのは私ばかりではないだろう。しかもまだ100歳にもなっていないというのも、ウームと唸らされる。この人が活躍したのはニクソン大統領時代の1970年代だから半世紀前だが、つまり半世紀というのは、事件出来事としては「大昔」だが、それに関わった者の人生としては、ひと流れの内に過ぎないのだ。(と、思ったら、今度は重信房子が釈放という。服役していたのは帰国してからこっちの20年間だが、「時代の中の人物」としては、これも1970年代、半世紀前の存在である。

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彼らよりもっと古い昔に活躍していた俳優などで、いまなお死亡その他の消息をとんと聞かないままのあの人この人が幾人か思い当たる。思うに相当以上の高齢に達している筈にもかかわらずだ。特にそれが、その美しさや風情によって、あるいはその知的な風貌やたたずまいによって、それぞれの時代で輝かしかった女優であったりすると一倍気になる。平安な余生を送っていてくれるようにと願わずにはいられない。

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私にとって、個人史の観点からすれば70年代というのはそれほど大きな過去ではない。「私という人間を作り上げていると思うのは、もっと前の時代である。つまり、いま振り返って懐かしい、というのは決して単に懐旧的抒情的な「思い出」の対象としてだけではないということである。

私に興味があるのは過去の事件・ニュースではない。有名無名・活躍の大小多寡ではなく、その人その人の人生の意味である。例えば「70年代」という言葉から、いわゆる識者がああまたかというようなあの事件この人物を挙げて決まりきった「時代」を論じるのを聞くとうんざりする。

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訃報欄に高橋よしこ、85歳、新派女優、という記事を見つけた。初代水谷八重子の弟子とある。85歳という年齢は、こういう経歴をもつおそらく最後の人、ということだろう。ところでこの高橋よしこだが、当時としては背が高くてちょっとバタ臭い、つまり新派の女優としてはちょっと異色なところがユニークで、私はちょっぴりファンだった。何という役がよかったというより、その存在の有り様で、ちょっと立ったところがある役者だった。

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夏場所は、初日を見てもうこれはもう相撲が取れない状態かと暗然となった照ノ富士が「何とか立派に締めくくってくれたのは何よりだったが、もう一つ、佐田の海なる力士が見せた相撲ぶりが爽快だった。その風貌・体躯・取り口、いまどきこれほど、かつての(昭和3,40年代ごろの)力士の姿・有り様を彷彿させてくれる存在はない。という意味で、かねてひそかに注目しているのだが、なかなか上位で取る、どころか、上位と当たる地位にまで届かない存在だった。(数年前、解説の舞の海氏が、佐田の海を上位陣に一枚加えたいですね、といった趣旨のことを言うのを聞いて、ひそかに敬服したことがある。)

褒めすぎを承知で言うと、かつて初代若乃花キラーとして鳴らした信夫山と重なるものがある。信夫山は関脇を最上位に常時上位で相撲を取ったが、しかしそれ以前の数年は中堅どころに留まっていたのが、ある時からひと皮むけてもろ差し名人・二本差し名人の「りゃんこの信夫」として名を成すようになったのだった。足駄を履き吊革につかまらずに山の手線を二周だか三周だかしたとか、いろいろな「芸談」を持っていた。みちのくのしのぶ文字摺りの福島は信夫郡の出身で、この点、若隆景とも通じ合う。その祖父という若葉山とほぼ同年配かと察するが、取り口の卓抜さ・地位、若葉山より一枚上の存在だった。体躯・出足早やに攻め立てる速攻の呼吸等々、佐田の海に面影の幾分かを偲ぶのが私の密かな愉しみだが、さてこれを機にひと化けできるかどうかだ・・・

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海老蔵が久しぶりに歌舞伎座に出演した。某紙の劇評に、「ほかに海老蔵の『暫』がある」とだけで済ませているのを見て、ヘーエと感服?した。と思ったら、スカイツリーの上から「睨んで御覧にいれる」様子がテレビのニュースに流れた。・・・というただそれだけの「二題噺」である…と、ここまで書いたら、團十郎襲名興行が本決まりになったというニュースが流れた。ホオ、という感じか。ここらで本街道に戻って、しっかりと歩み出してくれるなら言うことはないわけだが。

随談第652回 富士尽くし

濃厚接触者なるものになって、幸い陰性で済んだものの、月初めの7日間は外出自粛となり前売りで買っておいたチケットはフイになった。お払い戻しは致しませんという約束だから、丸損である。改めて中日過ぎの切符を買って無事見物はしたが、何だか不戦敗のような気がしないでもない。黙阿弥の芝居などで耳にする、三百落としたような心持ちとはここらのことを言ったものか。劇評は、先月から始まった木挽堂書店発行の『劇評』第二号に書いたのでそちらをご覧いただきたい。

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緊急事態もマンボウも政府が「発出」しないので、連休に日帰りで、久しぶりに箱根に出かけ大涌谷から桃源台までロープウェイに乗って富士を眺めた。思いのほかに高く聳えて見えるのは、まだ雪に覆われてはいるがあちこち雪が解けて「はだら」になっているために豪快な趣きが増している故か。考えて見ると、この季節にこうした姿の富士山を見るのは初めてのことだった。九年前の晩秋、桃源台から「海賊船」で元箱根へと渡って、湖水越しに真っ白に冠雪した秀麗な姿の富士を眺めて堪能したものだった。これで思い残すことはないとさえいうつもりになったものだが、いま改めてこうして新たな富士の姿を見ると、思い残すことはないなどと言ったって、未知のことはいくらもあることに気づかされる。(当たり前の話だが。)

山歩きというものを、学生時代にほんの真似事をした以外、したことがない私は、槍だの穂高だのはもちろん、上高地だのなんだのといった所へ行ったことがない。富士山も登ったことはないが、小学一年の冬休みに、当時沼津の千本松原に戦火を避けて疎開したまま住まっていた祖父に連れられて、そのころ沼津にあった御用邸を見物にかなりの道のりを歩いて行った折に、道々、振り返るとすぐ間近に雪を冠った富士が雄大な裾野を引いた全容を見ることができたのが、70余年も経ったいまなお目に焼き付いている。手前に裾を引くように連なっている山があって、あれは愛鷹山というのだと教わった。「愛鷹山」と書いて「あいたかやま」でなく「あしたかやま」と読むのだという。沼津からだと宝永の噴火でできた宝永山が手前に瘤のように張り出して見える。『忠臣蔵』の映画で大石東下りの場面で、宝永山が映っている富士を背景に大石の一行が江戸へ急ぐショットが良くあるが、元禄にはまだ宝永山はなかったのに、などというこましゃくれた知恵を身に着けたのは、もう少し後のことである。

それよりも、毎年夏休みに祖父の家へきょうだい揃って泊りがけで行き、千本松原の海岸で泳ぎを覚えたのがいい思い出だが、『伊賀越』の『沼津』のラスト、十兵衛と平作がこの世の別れをする有名な場面を見るたびに、石浜の海岸に寝そべって眺めた景色がそのまま舞台に再現されるのを愉しむのが、今でも、更なる情趣を覚えるよすがとなっている。『道行旅路の花聟』おかる勘平の戸塚の山中の道行の、一面菜の花畑の向こうに桜の並木が連なり、その上に雪を冠った富士が描かれる舞台の光景は、大正年間に大道具の担当者が当時の戸塚の山の上のスケッチをしたのに基づいていると聞いたが、『沼津』のラストの千本松原の舞台装置も、実際の情景のスケッチに基づいているに相違ないと、私は勝手に信じている。だってそうでもなければ、あんなに実際そっくりな情景が舞台装置として再現されるとは思われないからだ。

とまあ、今回は不急不要のお話ばかり。(今回も、か?)

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訃報欄に、山本圭81歳とあった。フーム、と小さく唸った。

随談第651回 雑誌『劇評』三代記

コロナの騒ぎが最早「騒ぎ」ではなく「常態」と心得るべきこととなった感のある一方、露国のウクライナ侵攻という一件は、なんとなく終末論的な要素すら孕んでいるやに覚える。そんなのに比べれば小せえ小せえと思うべきなのかもしれないが、話をわが歌舞伎に関わることどもに限っても、いろいろ波乱含みの事態が続いている。が、そんな中にも「いい話」もちゃんとある。

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「演劇界」の休刊のことは前々回に書いたが、それを受けての動きと言おうか。近々発行になるだろうが『劇評』という小冊子が創刊されることとなり、声が掛ったので私もトト交じりよろしく創刊号に一文を物したので、チンドンチンドンとクラリネットを吹いたり鉦や太鼓を叩く代わりに、自分のPRも兼ねてお知らせしておこう。知る人ぞ知る、歌舞伎座のいわば膝元を、築地方面へ向かってすぐの路を左へ折れてチョイのところに店を構えて10年余になる木挽堂書店の小林順一氏が発行人である。せめて歌舞伎の劇評の灯を絶やすまいとの思いからの「義挙」であろうと、私なりに理解している。15年前、『演劇界』が小学館の傘下に身を寄せることとなった時にも、三カ月ほど、空白の期間が生じたので、それまで編集の責任者であった秋山勝彦氏が自腹を切って小冊子を出して、歌舞伎劇評の灯を絶やさなかったという先例があったが、まこと歌舞伎という古川にはこうした形で水を絶やすまいという「義人」が、危急の際に現れるのである。

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『劇評』という誌名の雑誌は、実はこれまでに二回、と言うか、二種類存在した。ひとつは、前の歌舞伎座が開場した昭和20年代後期から30年代初めにかけて月刊として刊行され、その月の公演が終わらないうちに出るという迅速さと、劇評だけでなくグラビア入りというのが売りだった。読売の記者だった依光氏など当時新進の演劇記者等の手になるもので、相当の評判を得たと聞いているが、残念ながらまだ小中学生だった私には、後にバックナンバーを手にしてのことしか実感がない。

これを『劇評』と称した歌舞伎劇評誌の第一次とすれば、第二次に相当するのは、昭和53年の1978年から前世紀の末まで約20年間、野州宇都宮に在って歌舞伎から寄席芸から新劇から、目配り広く活動を展開していた清水一朗氏が個人誌として出していたのが、独特の存在として知られている。こちらは、『演劇界』にしても一つの公演について一人の評者の評しか掲載しないため、自分の意見感想と相容れない評者の見解に疑問や不満を抱くという、読者の誰しもが抱懐している思いに対する試みとして、必ず二人、ないし三人、複数の評を載せるところにユニークさがあり次第に評価を高めた。手作りの個人誌なので、年間数回程度の発行という限界から、全公演を対象というわけには行かない半面、これぞという公演については、数名の同人による合評会を掲載するなどユニークな試みが読者を獲得した。同人というのは、『演劇界』で隔年に行っていた新人発掘のための劇評募集や投稿欄、各大学の紀要などを足掛かりとして登場した書き手で、かくいう私もその一人だった。私の場合は、これも前々回に書いたように一等入選したのが昭和52年6月の新橋演舞場の花形公演の評だったが、同じその年の11月の顔見世興行に、東京の歌舞伎座と大阪の中座に東西の全歌舞伎俳優を結集して『仮名手本忠臣蔵』の通しを東西競演の形で上演するという記念碑的な公演があったのを機に、清水氏が『劇評』誌創刊を思い立ったという、偶然とはいえ絶妙のタイミングで奇しき縁に結ばれたのだった。

その年の暮れも押し詰まった30日に、宇都宮在住の清水という未知の人から創刊号と称する『劇評』なる冊子が郵送されてきた、というのが馴れ初めである。明けて正月の松の取れる日、という心憎いタイミングで今度は清水氏ご本人から電話があって、同人として参加してほしい、ついては第二号に三月の国立劇場で菊五郎(もちろん、現・七代目である)が『浮世柄比翼稲妻』の権八をするのを見て6枚で劇評を書いてもらいたい、4月早々に同人の顔合わせをしたいからそのときに原稿を持参してくれという、否も応もない話だったが、こちらも否やはない話だったから、言われた通り、築地にあった中央区の区民会館の一室に原稿持参で赴いた、というのが事始めだった。

この席で、清水さんだけでなく藤巻透さんとか神山彰さん等と初の対面をしたのだったが、藤巻さんの名は夙に『演劇界』の、時には劇評欄、時には投稿欄で頻繁に見て知っていた。所謂「芝居通」としては大変な人で、この実年齢では10歳足らず年長の(萬屋錦之介と同年同日の生まれとの由だった)、知識・経験の量としては及びもつかない先達と親しくなったことが、歌舞伎についての雑学的知識から、「通」という人間存在の有り様から、築地明石町に住まって(幼時、初代猿翁一家と隣り同士、つまり現・猿翁とは幼なじみであった由)銀座八丁を我が庭の如くに闊歩するという日常の姿まで、如何ばかりの「開眼」を繰り返すことになったか計り知れない。まだまだという年齢で不幸な亡くなり方をしたのは気の毒というも愚かというべき人だった。
神山彰さんはまだ本当に初々しい青年という外貌にもかかわらず、すでに独自の見識を備えたいわゆる「畏友」として、今日に至るまで変わらぬ印象を抱かせた。程もなく国立劇場に勤務されることとなり劇評家としての筆を折ることになったので、再び親しく接するようになったのはかなり後年のこととなったが、しまった、先んじられたという思いをしばしばさせられる存在と言おうか。いま現在の活躍ぶりは、ここに書くまでもないだろう。

清水さんは、私より何代か前の一等入選者だったが、私がそれを知らなかったのは、当時の私は、幾度かに及んで、もう歌舞伎など見るまいと思い定めてはしばらく劇場に足を向けずにいるということを繰り返していたので、たぶん、そうした間歇的な空白時に当っていたのだろう。歌舞伎以上に落語界に深く接していて、円生・正蔵・小さん・馬生から志ん朝・談志といった人たちの強い信用を勝ち得ていて(これらはもちろん、すべて当時この名前であった人たちである)、毎月地元宇都宮で主宰していた落語会にはこうした当時錚々たる人たちが快く出演するという按排だった。私が馬生が好きだと言ったら、落語界の会報に馬生についての一文を書かせてくれたが、こういうとき、「書かせてくれる」のでなく「書いてくれませんか」という言い方をする人だった。

同人は常時数人いたが、いくばくかの会費を負担するのと、何カ月かごとに会合を開いて次号の企画や劇評執筆の担当を決める(つまり、何時いつに歌舞伎座なり国立劇場なりで誰それが何をするのを扱うこととしよう、ついては誰と誰がどの評を書くことにするか、といったことを相談ずくで決めてゆく)のと、合評会の校正をするぐらいで、それを終えた後の雑談の方が時間的にはるかに長かった。それを愉しみに参加しているような向きもないではなかったが、やがて愛読者と言おうか、常連の熱心な購読者も参加しての集まりもするようになり、これらをいっときの足場としてやがて他方面で名を成すようになった人たちも、一人や二人ではない。聞けばへーッと驚く名前もあるのは間違いないが、この際はそれは内緒。最終号を出して活動を終わりにしたのが前世紀末だから、すでに四半世紀の昔だが、その後もこうした集まりは新年会のような形で永く続き、いまもまだ、必ずしも終わったわけではない。

これが第二次の『劇評』で、私にとっては、『演劇界』と共に劇評家としての出発点であり、下地を作る土台でもあったわけだが、そうこうするうちに、やがて日経新聞から声がかかって今に至るという履歴になる。新しく船出をする、いわば第三次の『劇評』は、また全く別種の経緯や事情のもとに計画されたわけだが、資本力より個人の手作り感覚という点では、一脈、相通じるところもあるような気もする。

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訃報として、大町陽一郎90歳、川津祐介86歳、宝田明87歳、佐藤忠雄91歳等々の名前を見た。親疎の程はさまざまだが、それぞれに、ムム、と胸に響くものがあった。

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照ノ富士が玉鷲の押しに土俵下へ仰向けに転落するという信じ難い負け方は、膝に加えて踵の負傷の深刻さを物語る、今後に不安を残したという、その一点を別にすれば、若隆景の惚れ惚れするすまいぶり(相撲ぶり)に留飲を下げた春場所だった。とりわけ優勝決定戦で高安の押しを膝が地につきそうなほどこらえた足腰の強靭さは、最近の相撲では絶えて久しく見なかった醍醐味である。昭和36年の初場所、内掛け名人として名高かった琴ケ浜が柏戸の猛烈なのど輪攻めを、俵にかかった足を「くの字
に曲げてしのいだ姿が蘇った。琴ケ浜はついにそのまま押し潰されたが、若隆景が土俵の内のりを辿って回り込んで残したのは琴ケ浜以上と言える。若隆景のことはしばらく前にも書いたが、これで相撲を見続ける意欲が沸いたというものだ。

お陰で祖父の若葉山のことが話題になったのも懐かしさがこみ上げる。力士としては孫の方が上等で、足取り名人の典型的な手取り力士だったが、24,5貫といえば80キロ台という小兵ぶりで、その後に現われたあまたの曲者力士の中でもとりわけ記憶に残っている。解説の北の富士氏が、付き人をしていた横綱の千代の山のところへよく油を売りに来ていたものだと思い出を語っていたが、おそらく、初土俵が同じころであったはずだ。戦中派で、活躍したのが戦後まだ日の浅い20年代から30年代初めにかけて、30数歳までかなり永いこと幕内で取っていた。若隆景は福島の出身とのことだが,若葉山は確か埼玉と言っていたと覚えている。関取になってからもしばらく「岩平」という本名で取っていたのは、幼くした別れた親類に会いたいが故だったという話が伝わっていたが、孫の本名は別の姓のようだ。かくべつ贔屓にしていたわけでもないのにこんな細かいことまで覚えているのは、それだけ印象に残るものがあったわけだが、『相撲』というベースボール・マガジン社で出していた月刊誌を読んで得た知識でもあった。『相撲』にせよ『ベースボールマガジン』にせよ、『演劇界』にせよ、はたまた『映画の友』にせよ、それぞれのジャンルで果たした役割というものは、実に計り知れないものがあった。翻って言うなら、こうした雑誌が健在なうちは、そのジャンルは健全であり安心であると言っても過言ではない。

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ウラジミール大公の建設したキエフ公国がスラヴ世界の始原であるというのが「かの仁」の「信念」の根源にあるとすれば、米国の大統領がいくら「戦争犯罪人」だなどと非難したところで蛙の面に水というものだろう。あっちの非もさることながら、こっちの底の浅さもどっこいどっこいなのにため息が出る。

がまあ、まず今月はこれ切りとしよう。

随談第650回 最後のラ・マンチャ

オミクロン株に変容して以来、コロナ感染の噂は俄かにあちこちで耳にするようになったが、この月の演劇界も、文楽は早々と全面休演してしまったが、あちこちで出演者に陽性反応が出て休演、再開、また休演と、間を縫ってのジグザグ公演を余儀なくされている。東宝ではこの二月、『笑う男』を帝劇で、「ファイナル公演」と角書き?のついた白鸚一世一代の『ラ・マンチャの男』を日生劇場で興行を行なったが、当初、同日の昼と夜に報道関係者に予定されていた観劇招待日が休演となって数日後、帝劇を昼の部に招待、夜の日生の方は満席なのでロビーで映像をご覧になることになりますというので、ウームと一瞬迷ったが劇場にいながら生の舞台を見られないのも皮肉な話とやめにしたら、また二、三日後、今度は席を作りましたという知らせを貰ったので早速出かけた。とにかくこれが、白鸚として最後の『ラ・マンチャの男』である。その心境や、思い遣らざるべしである。

出かけてみると、なるほど、私の席は最前列のいわゆる「かぶりつき」。『ラ・マンチャ』の舞台設営特有の、人物が地下?の扉を開けて登場し、退場するさまが手を伸ばせば届きそうな目の前で展開する。普通だったら平舞台であるべきところがその上に張り出した形になっているから、白鸚のセルバンテス/ドン・キホーテがよろけたはずみに足を踏み外しやしないかとひやひやする。他人ごとではない。こんなところに私事を持ち出して恐縮だが、私なども昨今は、股関節が固くなった(つまり体全体を支える蝶番が錆びついた)ためとやらで、駅のプラットホームなどで、エスカレーターやら何やらで幅が狭くなっている個所など、うっかりよろめいて線路へ転落しやしないかとひやひやする有様だから、白鸚氏の演技とは別に、同世代人として他人ごとと思って見ていられないのである。だが、白鸚は見事、あの法廷へと上り下りする長い階段でもいささかの不安を感じさせなかった。鍛えてもいるだろうがそれ以上に、気力であろう。

いや、足元の話をしている時ではない。舞台ぶりも気迫充実、今度ほど気魂のこもったラ・マンチャは見なかったと言って過言ではない。実はこれまで、私は『ラ・マンチャ』よりむしろ『アマデウス』の方が、白鸚の仁にも芸風にも似つかわしいと思っていたのだが、今度の舞台を見て認識を改めた。というか、この作の良さを、今回の白鸚の舞台ぶりによって、改めて知ったというべきか。「狂気とは何だ。現実のみを追って夢を持たぬのも狂気かも知れぬ。夢におぼれて現実を見ないのも狂気かも知れぬ」という有名なセリフも、今度ばかりは強く心に沁みて聞いた。

だが仄聞するところによれば、この翌日の舞台はまたしても休演となったという。まあ、あれだけの人数の出演者が舞台上に、舞台裏に楽屋にひしめいているのだから、ソーシャルディスタンスどころの話ではない。ファイナル公演がこうしてコロナと「折り合いをつけた」形になったのは残念と言う他はないが、こればかりはセルバンテスでも如何ともしがたかろうというものだ。

        *

それにつけても思い出す。当時市川染五郎だった白鸚がブロードウェイで『ラ・マンチャ』を演じたのは1970年、昭和45年5月のことだが、この月歌舞伎座では十七代目勘三郎が一世一代の大奮発で「三代目歌六50回忌追善」という興行を行なっていた。長兄の初代吉右衛門ゆかりの役者と言えば八代目幸四郎、二代目吉右衛門(既に吉右衛門になっていた)に先代又五郎等々という一家一門、次兄の三代目時蔵ゆかりと言えば当代の時蔵やら歌六やら又五郎やらがまだ梅枝だったり米吉だったり光輝だったり、どころか萬屋錦之介も出演して一幕受け持ったり、6代目菊五郎とつながる縁で梅幸が出るのは不思議はないが、何と文政年間以来の縁というので十三代目仁左衛門に片岡孝夫等々等、出演者すべて親類縁者ばかりというのが十七代目が鼻高々という一座だった。「口上」の挨拶で、誰それとはかくかくしかじかというつながりで、と客席に向かって説明する十七代目の満足顔というものはなかった。「これに居りまする八代目幸四郎は、隣に座っておりまする吉右衛門の父でありますがまた同時にこの両名は義理の兄弟でもござりまして・・・」等々という辺りがミソ中のミソで、十七代目の得意顔、後の初代白鸚の複雑微妙な苦笑を見比べるのも面白かったが、その中で、「まだこのほかに染五郎がいるのでございますが、彼は(という言い方を確かしたと覚えている)なかなか勇気のある男でいまはラ・マンチャの方に行っております」と言ったのが忘れ難い。十三代目仁左衛門が、文政年間以来の縁という片岡家と三代目歌六の一族との関係を懇切に説明したのも、いかにも「大松島」らしい律義さだったが、最期に、隣に平伏している若き日の十五代目を顧みながら「このめでたい席に倅(せがれ)片岡孝夫を召し連れまして馳せ参じましてござりまする」と締めくくった声音は今も耳に残っている。

あれもこれも、もう五十年の余の昔である。さっきテレビのニュースで、今日は浅間山荘事件からちょうど50年目に当たりますと言っていたが、そうか、あれよりもさらに2年むかしのことなのだった。

随談第649回 『演劇界』・吉右衛門、そして・・・

アルファ、ベータ、ガンマーぐらいまでなら大概の人が知っているギリシャの伊呂波文字も、オミクロンとなるとちょいとガクのある人でないと知らなかったろう。次々と新手が繰り出してくるさまはドロ沼永久戦争の様相。三年目を迎えたこの時期は、太平洋戦争であったら、既に一昨夏にミッドウェイで大敗を喫し、昨年には山本五十六大将の戦死だのアッツ島玉砕だのを経て、この年の秋には遂に特攻作戦が始まるという、じり貧の悪戦苦闘の真っ只中に相当するわけだ。してみるとワクチンは神風か。あーあ・・・

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なんてことは兎も角、『演劇界』が休刊となった。読者としては昭和30年代、書き手としては50年代からの縁だが、そもそも、原稿料を貰えるという形で自分の書いたものが活字になったはじめも『演劇界』なのだから、育ててもらった揺籃のようなものといって然るべきだろう。

昭和18年に、当時政府の指令で各分野についておこなわれた政策の一環として、雑誌統合によって誕生したのがはじまり。明治40年創刊の『演芸画報』が主体だが、『東宝』など演劇関係の数誌が合体しての誕生だったから、誌名も『歌舞伎界』ならぬ『演劇界』であって、事実、小学館の傘下に入って今の『演劇界』になるまでは、日比谷の芸術座や帝劇など東宝系の舞台や、明治座やその他、関西・中京の各座から、簡略ながら新劇まで、文字通り「演劇界」の情報を網羅していた。巻末に小さな活字で各劇場の上演記録を(歌舞伎などは小さな役に至るまで配役を載せていた)掲載していたのが、実はこの雑誌の使命であり生命で、この数ページこそが、昭和平成という、戦後の演劇界の動向を後世に伝え残す唯一と言うべき記録なのだった。

昭和25年に経営が立ち行かなくなり半年ほど休刊の時期があって、やがて利倉幸一さんが取り仕切るようになってからが、経営的には兎も角、演劇雑誌としてユニークな個性を発揮したグッド・オールド・デイズであった。さほど分厚くもないのに読みでがあって、読み終わるのに丸一日かかった。その世界での錚々たる方々が執筆者として名を連ねていたのだから、即ち当時の『演劇界』は私にとって歌舞伎を学ぶ教科書であり学校だった。それも、中学高校から大学レベルまで。この思いは私ばかりではなかったはずだ。土岐廸子さんと榎そのさんのコンビで楽屋探訪だのなんだの、軽いようで読み応えのある記事が始まったのも、ちょうど私が熱心な読者になって間もない頃だった。(下手な劇評より、などと言うと叱られそうだがその急所の押さえ方には端倪すべからざるものがあって、それこそ下手な授業よりタメニナル放課後の遊びのように、初心の私にとって有益な養分となった。)

利倉さんは、新しい書き手の発掘にも意を注いでいて、「見物席」という投稿欄もその意図を担っていたから、誰それさんのファンです、○○屋さんのごひいきの方、お手紙下さい、などというのではなく、意のある所を論じてこのページで名を知られた常連の投稿者も少なくなかった。また利倉さんは、初めは、折から世代交代の時節を迎えていた歌舞伎界の動向を汲んで「俳優論」を募集(第一回は八代目幸四郎、第二回は歌右衛門…という具合に何カ月か、数回にわたって実施したのだったから、いま思っても意気込みの程が知れる)、そこから有吉佐和子、利根川裕等々といった方々が登壇し、やがてそれぞれの活躍の場を大きくしてゆく足掛かりとなった。有吉さんと毎回のように首位を争った草壁知止子さんは映画評論家草壁久四郎夫人だった。しばらく間をおいてから今度は、二年ごとに「劇評」募集をはじめ、ここからもいろいろな人たちが登壇し、三宅周太郎だの戸板康二だのといった高名な劇評執筆者と同等に並ぶ形で誌面に名前を連ねた。志野葉太郎さんとか如月青子さん等々、常連の執筆者となった人材が輩出したが、かくいう私もその驥尾に付した一人だった。予め前の号に、何月の歌舞伎座なり国立劇場なりの歌舞伎公演を対象に劇評を募集と予告があって、当選作は当該の号の劇評として掲載する、という形で行われ、私の場合は昭和52年6月、新橋演舞場の花形公演でいまの仁左衛門の片岡孝夫が『実盛物語』をした時だった。まだ演舞場が、戦災後に再建した旧い建物だった時代で、孝太郎が太郎吉だったのだから思えば今はむかしだが、しかし私にとってはこれが、れっきとした誌面に自分の書いた文章と名前が載ったはじめである。次回からは編集部から執筆の依頼が来て、原稿料を貰うということになったわけだが、普段は三階席の片隅で見ている身が、こういう時には一階の、いわゆる「御社」の席にトト交じりよろしくの態で見るわけで、それもたび重なれば、あっぱれセミプロの劇評家として、『演劇界』の購読者という狭い範囲とはいえ、顔も知らない人たちに存在を覚えてもらうよすがになってゆく。すなわち『演劇界』は、わたしにとっては学校であったと同時に、物書きとしての揺籃であったということになる。

そんな頃、いま考えてもどうして?と不思議に思うようなことがあった。先の劇評募集入選ということがあってから一年後の夏、その間二度ほど、歌舞伎座と新橋演舞場の公演の劇評を書かせてもらっただけが全キャリアであったところへ、来月は歌舞伎の公演がゼロなので歌舞伎十八番をテーマに特集を組む、ついては貴君にそのトップとなるものを書いてもらうと言って何と25枚という原稿依頼があったのである。(当時は、歌舞伎人気がどん底の時代で、日本中に歌舞伎の興行がひとつもないということも本当にあったのだ。昭和50年代といえば、十一代目團十郎はすでになかったが、初代白鸚の八代目幸四郎は東宝から帰ってきていたし、歌右衛門も十七代勘三郎も二代目松緑も梅幸もみな元気で、芸の上では戦後歌舞伎の一つのピークを迎えつつあったのだったが、それと興行としての人気とはまた別物なのだ。)まあびっくりはしたがともかくも書いて出したところ、数日後、利倉さん御自身の自筆でお褒めの言葉を書いた葉書を頂戴した上に、掲載号の巻末にわざわざ推奨の一文まで載せて下さった。こういうことは何年経っても忘れないものだが、あれから半世紀近くの月日が流れたことになるのに今更のように驚く。

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この夏までに岩波ホールが閉館し、駿河台下の三省堂が、これは建て替えのためだがやはり姿を消すという。昭和30年代、私が知った当時の神保町のメルクマールを基点とすると、これで二代目がなくなり、やがて三代目の時代になるわけだが、思えば「演劇界」も私が知ってからこっちは、小学館の傘下に入って以降もずっと神保町にあったわけだから、これもまた、この町から一つの灯が消える中に数えられることにもなるわけだ。もっとも、かつては手書きの原稿を編集部に持参していたことを思えば、パソコンで打ってひょいと送信すれば済むようになった当今は、そうした感慨も薄くなったが・・・

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吉右衛門の訃報は、勘三郎や團十郎の時とはまた異なるさまざまな思いを喚起させられたが、幸いにも、追悼の形で幾つかの場に思いを述べる機会が与えられた。死の報を聞いて間なしの12月3日付の日経新聞朝刊と時事通信を通じての各地方紙に書いた追悼文の外に、今年に入ってから、「月間FACTA」の二月号(1月20日発売)、2月早々に出る予定の『演劇界』三月号にも、それぞれの観点から吉右衛門の追想を書くことができた。殊に「月刊FACTA」は、政治経済外交など現実社会の「いま」を切るのが売りの、歌舞伎ファンとは縁の薄い雑誌だが、そうした場で吉右衛門を語るのはやりがいのある仕事だった。お読みいただければ幸いである。

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お互いさま高齢となってくると、永年年賀状をやり取りしてきた方々から、今年で賀状をやめにしますという通知をいただくことが増えてくる。もっとも至極なことなのだが、やや思うところがあって、今年から、年賀状ではなく「寒中見舞い」を差し上げることにした。これまでにも、身内に不幸があった際などに「喪中欠礼」の代わりに「寒中見舞い」の形にしたこともあったが、今回からは毎年、その「寒中見舞い」を恒例としようというわけである。もっとも、宛名書きをする負担は変わらないわけだが、寒中に出せばよいという時間的なゆとりもさることながら、それももはや出来ないということになるまでは、欠礼が縁の切れ目みたいなことになるのを避けたいからである。例年年末になると、幾人かの方から「喪中欠礼」の挨拶をいただくが、うっかりしているとそのまま音信が途絶えてしまうということもままありがちなのが、前から気になっていたということもある。

年賀状虚礼説や無用説を唱える向きも昔からあるが、また一方、こんなこともある。大学に入学して最初の一年間、語学の授業で同じクラスになったというだけの縁で、野球の応援で一緒になった帰りに飲んだり、という程度のことはあったがそれ以上の深い付き合いのあったわけでもない相手と、いまだに年に一度、賀状を通じて音信が繋がっているという間柄を、一体どう考えればいいだろう? 卒業して当初は、幾人かいた同じような関係だった友人たちが、時が経つうちにいつしか賀状のやり取りも絶え、そのままになってしまうのが普通なわけだが、この友人との場合は、こちらが出し忘れても向こうが賀状を寄こせば返信を書く、と言ったことを繰り返しているうちに、何時しか互いに歳を取り、こうした間柄というのも何かの意味があるように(おそらく向こうも)感じるようになったのだった。これもまた、賀状が取り持って生まれた間柄、ちょいと乙な人生の機微というものではあるまいか。

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訃報欄で次のような人たちの名前を見つけた。

片岡宏雄。ヤクルトスワローズの名スカウトとして鳴らしたが、プロ選手としての戦績は実働6年で2安打だったとある。思い出す。この選手は六大学野球で立教大学の名捕手だったが、プロ入りしてすぐのオープン戦だったかで、二塁に送球しようとしたボールをポトリと肩から落とすという予期せぬ不祥事が、選手としての寿命を定めてしまったのだった。

大相撲から元関脇安念山。栃若時代後期から柏鵬時代前期にかけて上位力士として長く取った。本名が安念なので安念山(あんねんやま)という四股名がめずらかでおもしろいので、負けて引き揚げてくると悪ガキどもから「ざんねんやまー」と声援が上がったそうな。

同じく大相撲界から、呼び出し三郎94歳。この人は相撲甚句の名手で、大川橋蔵を渋くしたような端正な好男子だったが、入門が遅かったために序列は幕内格でなかったので、本場所の土俵では、箒で土俵を掃き清めたり土俵下で介添えをしたりする風情ある姿が懐かしいが、幕内の取組で力士を呼びあげる姿は見られなかった。

川田孝子86歳という記事もあった。「童謡歌手」というジャンルが歴として存在していた頃、川田正子、孝子、もうひとり名前を失念したが妹がいて、三姉妹で鳴らしていた。たいした人気だった。

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朝ドラの『カムカムエブリバディ』が近過去を扱って、なかなか面白い隠し味が気が利いているのを書くつもりだったが、長くなったので次回まわしにして、今回はこれ切りとよう。