随談第643回 勝手にしやがれ

開催自明、というムードになったのに歩調を合わせる如く、東京のコロナ感染者の数字が日に日にじわりじわりと上がるという、綱渡りを見るような日が続く。勝手にしやがれ。もう、どうなったって知らないからね、と高みの見物を決め込んで眺めるなら、なかなかスリリングな日々である。一介の市井の民としては、せいぜいワクチンでも打って眺めているしか、本当になんにも仕様がない。五輪開催中にハルマゲドン到来となった時の、SさんやBさんの顔が見られるのはオリンピックの競技を見るより、いとおかしきものであるかもしれない。先ごろの国会で本当に五輪は開くのかと迫る野党議員に対して「私はさっきから何度もお答えしています。いいですか、よく聞いてください」と念を押した上で「安心安全」を唱えている。そう、かの仁の中では開催宣言は自ずから疾うになされているのである。紋切り型の念仏と言うが、同じことを訊かれるから同じことを答えているまでなのだ。

がまあ、こんな何の益にもならない文字を連ねていても仕様がない。それよりは、市井の老耄の呟きのごときものをそこはかとなく書きつけて、今回の随談ということにしよう。

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新しい朝ドラが始まって、まあ、見ているが、今回もまた、毎日冒頭に流れる主題歌の歌詞が何と言っているのか聞き取れない。今に始まったことではない。この何年来、ドラマは変われど同じことが繰り返され、続いている。何と言っているのだろうと耳を傾けるが、ところどころ、きれぎれに聞き取れるフレーズはあっても、歌詞全体として立ち上がってくるには程遠い。いつ頃からこうなったろうか、とにかく以前はこういうことはなかった。

曲の作り方、歌手の歌い方にも原因の一端があるのは確かで、とくにフレーズの切り方、息継ぎの仕方、アクセントの置き方,甘ったれたような発声等々、いろいろ考えられるが、どうやらそうしたことどもも含めて、より根元的には、音符に言葉を乗せる乗せ方が、以前とは大きく、もしかするとかなり根元的なところで、変わっているからに違いない。

もう大分昔になるが、ひところ、曲のフレーズと歌詞のフレーズを一致させるべきだという理論がしきりに唱えられたことがあった。なるほど、そうすれば歌詞の意味が明確にわかる。ポッポッポ、鳩ポッポ、という具合である。少し手が込むと、春の小川はさらさら行くよ、の「春」を「はある」と義太夫で言う産み字のようにして処理するという手もある。しかしこのやり方には当然限界があって、曲のフレーズの切れ目と歌詞の切れ目を常に一致させるのは時に齟齬を生じる。我が国家である「君が代」にしてからが、「さざれ石の巌となりて」というところが、「さざれー」で大方の者は息が続かなくなる。ひと頃、大相撲の千秋楽に観客も唱和する国家斉唱のとき、楽隊の演奏が「さーざーれー」だったか「いーしーのー」だったかというところで太鼓をドンドンドンと三連打していたものだが、あれはただの「石」ではなく「さざれ石」なのだから、「さざれ」を切り離して「石の」で太鼓を三つ叩くのは歌詞を無視した演奏ということになる。(それからぬか、最近はこの箇所での太鼓連打はしなくなったようだが。)もともとこの歌は、「君が代は千代に八千代に/さざれ石の巌となりて/苔のむすまで」と、七・五・七・五・七という七五調になっているわけだが、いまの国歌「君が代」の旋律だと、「きーみーがアーよーオーはー/ちーよーにーイイやーちーよーにさーざーれー/いーしーのー/いーわーおーとーなーりてー」と、よほど歌唱の訓練をした者でなければなってしまうように出来ているわけだ。

というわけで、そもそも単純素朴な一音符一音一文字主義を貫けるのは、せいぜい童謡か小学唱歌ぐらいまでが関の山だろうから、我々世代とは飛躍的に音楽の素養が進化した当節の若い音楽家たちが、歌詞の束縛から自由な曲を作りたがるようになったのは無理からぬところには違いない。そこまでは解る。翻って思うに、これは、作曲の仕方より、歌詞、ひいては現代日本語に対する感覚に関するかぎり、朝ドラの主題歌の製作者と私との間に大きな隔たりが出来てしまっているからに相違ない。と、そういう結論に、最近私は達しつつあるのである。

流行歌で言えば、美空ひばり、島倉千代子の時代はもちろん、五木ひろし、舟木一夫、森進一辺りまでは、歌詞がごく何の気なしに、他のことを考えながら聞いていても聞き取れた。いや、もっと近くまでそうであったろう。散文であっても、ある時期までの文章にはそれなりに一定の韻律というものが、たとえ新聞記事にでも、売薬の箱に書いてある効能書きにすら、どこかに潜んでいた。だから何の苦もなく読むことができた。だが近年の散文の文章となるとそうはいかないことがしばしばある。パソコンを買い替えるなどして説明書きを読んでも、内容以前に文意そのものが頭に入ってこない。不案内な用語や、機器の仕組みが理解を超えているというだけなら、当然のことだから不満も不安も覚えないが、それ以前に、文章そのものが無機的で、リズムも抑揚もなく、読む者を拒絶しているかのように感じられる。パソコンの効能書きならまだしも、新聞などで読む年若の識者の筆になる(いや、キーを叩く指先になる、か?)コラムなどにも、韻律を感じ取れない無機的な文章が多くなったような気がする。明晰と言えばそうともいえるが、機械の書いた文章のようで味気ないことおびただしい。

しかし翻って思うに、こういう文章を書き、またそれを読む人たちが、そこに何らかの快適さを感じていないということは(人間である以上)考えられないから、たぶん当節の読者諸氏諸嬢は、こういう無機的(と私には思われる)文章に何らかの「美」を感じ取っているに違いない。最近の朝ドラの主題歌も、あれをよしとし、愛する(ような感性を持った)人が、視聴者の多数を占めるようになっているのに違いない。その人たちには、私には聞き取れない歌詞も、はっきり聞き取れているに違いない。

        *

それとは違うが(しかしどこかで通底しているはずだという「疑念」も、じつは抱いているのだが)、もう今更、間違いだの、やめてくれだのと言っても間に合わないほど風靡してしまっているから、他人様が使うのを咎める気はないが、自分では絶対に使おうとは思わない「常套フレーズ」がある。

・(お待たせいたしました、こちらカキアゲソバ)になっております、(または)となります。
→さてはタヌキソバがカキアゲソバに化けたのか?

・(××宣言を発出)させていただきます。

・(総理、五輪開催中止)でいいですね?

・(五輪は絶対中止すべきだ)という風に思います。

・(うな重はうな丼より値段が高い)と承知しております。

等々、といったフレーズである。こうした、持って回った物の言い様が、街に出ても、テレビを見ていても、何回となく耳に飛び込んでくる。思うにこれは21世紀になってから以降の現象であろうと私は思っている。

        *

近ごろはNHKでも民放でも、アナウンサーにアクセント教育ということをしなくなったらしい。たしかに、以前のように「標準語」なるものを絶対視して、NHKのアナウンサーをお手本にすべし、などということを言わなくなったのはむべなるものがあるが、それにしても、同じアナウンサーがわずか数分の間に、さっきは「・・・と述べた」と頭にアクセントを置いて言ったと思うと、同じニュースの中で今度は「野豚」と同じアクセントで「述べた」と言う・・・と言ったことが当たり前になっている。

そういえば、往年の横綱大鵬の孫という若手力士が最近、十両に昇進して、それまで祖父と同じく本名の「納谷」を四股名としていたのが、新規に「王鵬」と名乗るようになった。が、ここではその新しい四股名ではなく、元の「納谷」という名前の読み方である。「ナヤ」と「玉」とか「球」などというのと同じくフラットに呼ばれてきたらしいのだが、さすがに古手のアナウンサー連から、横綱の大鵬の若手の頃、四股名の「納谷」は「納屋」というのと同じに頭にアクセントを置いて呼んでいたものだという声が上がったという。祖父が幕下力士だった昭和30年ごろと孫が幕下の平成30年ごろとでは、同じ名前が別の読まれ方をしていたという、これも同じ根から出ている現象に違いない。

        *

その一方で、NHKではしばらく前から、「各界」という言葉を「角界」と同じイントネーションで読むのが定例化しているのが、気になっている。「角界の名士たちが一堂に会して」というから、往年の名力士や何かが集まったのかと思うとそうではなく、元総理だのナントカホールディングス会長だのが集まったのだという。あれは、三蔵法師のお供をした孫悟空の同僚の猪の八戒と同じ読み方をするのではなかったろうか?
        ***

立花隆、原信夫、寺内タカシetc、etc・・・と言った人たちの訃報が目に入った。それぞれに、それぞれの盛んだった時代の匂いが、一瞬、立ち込めた。

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随談第642回 五月のもろもろ

このところ芝居の話をあまりしていなかったから、今回はそのお噂から始めよう。五月の歌舞伎座では、3部の中で売れ行きが一番良かったのは第一部であったらしい。松緑の『土蜘』が人気というか注目の的であったという。まあ、祖父の二代目が兵隊から帰ってすぐつとめたのが、六代目菊五郎から「後世畏るべし」と評されたという話が残っているほどだから、当代としても期するところあってつとめたのであろう。猿之助が頼光を付き合っていたが、芸はもちろんちゃんとしているがどうしてもいたずきにある人という感じがしないから、見ている内に時々、智籌を猿之助がしているような錯覚が起こる。つまり猿之助と錯覚するほどの僧智籌であり土蜘の精であったということになる。

今回は上演時間の制約上、間狂言を抜いているが、そうすると不思議なのは、間狂言がある時よりも長く感じた。この脚本は黙阿弥だが、さすがの黙阿弥もこの手の芝居の脚本は、長唄の文句を書いたり間狂言を書いたりするところに手腕があっても、全体の運びはお能の祖述みたいなものだから『髪結新三』や『十六夜清心』のような妙趣はない。前シテがあって、間狂言があって、後シテがあるというソナタ形式が首尾一貫してようやく納まる形に納まるのだということが、今更ながらよくわかった。コロナ禍の中、そんな贅沢は敵だろうが、思わぬ勉強にはなったというものだ。

もっとも私としては、第一部でのお目当ては尾上右近がお嬢をするという『三人吉三』だった。別に悪いわけではないのだが、夢見る如くに期待していたようなわけには行かないのが、ちともどかしい。ツラネを、歌うならもっと陶然とさせてくれなくては。歌うというより調子を張って言うのだが、落ちた夜鷹は厄落とし、と川面を見込んだり(意味もちゃんと考えて言っているんですよ、と言うつもりかもしれないが)素朴リアリズムが混在するので、ちょっとポキポキして、流れるようにというわけには行かない。考え過ぎが裏目に出たのかもしれない。

亡くなった梅幸が最晩年に一度、久しぶりに出したことがあったが、それをみて目からうろこが落ちる思いをしたことがあった。庚申丸を抜いて有象無象を追い払うと(仕種もリズムも)その流れですっと、右足を杭にかけて「月もおぼろに白魚の」とツラネを歌い始める、その呼吸にはっと目を開かれた。そのことをどこかに書いたのを、当時はまだ勘九郎だった十八代目勘三郎が読んだのかも知れない、それから間もないある時、たまたま二人で話をする折があった。と、梅幸のおじさんに教わったやり方だと言って、目の前で立ち上がってこのくだりをやって見せてくれたことがあった。「ね?」という感じで目顔で言って座に戻った。(だが勘三郎は、ついにお嬢をする機会がないままに逝ってしまった。コクーン歌舞伎で演じたのは和尚であり、それは全然別の文脈の話なってしまう。)もちろん、いまの菊五郎がするように、ひと呼吸あってからやおらアリアを歌い始めるやり方もあるわけだが、なるほどなあと、深く心に残るものがあった。(『浜松屋』の弁天小僧の「知らざあ言って聞かせやしょう」に掛かるところにも、共通する呼吸が合って、これにも十八代目との思い出があるのだが、前にこのブログに書いたこともあるし長くもなるから今は書かない。)右近が次の機会にどちらのやり方を選ぶにせよ、リアリズムの中の様式というところに、もう一工夫、思案があって然るべきではあるまいか?

隼人のお坊も仁はいいのだが(お嬢から、先ずそっちから名乗れと言われて、「こいつはア俺が悪かった。ひとに名を訊くその時はまずこっちから名乗るが礼儀」というセリフがぴったりくる、こういうところは天性か?)、やはり張った調子がポキポキするのは、二人で相談づくだったのかしらん?巳之助の和尚も、いいようでもう一つスカッとしない。何となく三すくみのような吉三たちだった。

第二部の「道行旅路の花聟」が気に入った。いかにも歌舞伎を見ている愉悦があって今月一番のいい気分だった。こういう愉悦は清元ならではでもあるが、梅枝のおかるが期待に応える良きものだったし、錦之助の勘平も、この段の勘平としてうまくはまっている。萬太郎の伴内といい、思えばみな、三代目歌六のひ孫たちである。

菊五郎の勘平以下の『六段目』はもちろん言わずもがな。左團次の不破、又五郎の千崎、もう何度つとめたことだろう。谷崎の『陰翳礼讃』ではないが、艶とは要するに手垢のことであるという、その通りの底光りがしている。左團次と言えば、前月の『小鍛冶』で橘ノ道成を付き合って一言も物を言わずただ座っているだけの役だったが、まさしく千金の重みがあって、猿之助の稲荷明神も中車の三条小鍛冶も立派に役をつとめているにもかかわらず、吹っ飛んだ。魁春のお才もいいなあ、東蔵のおかやは言わずもがな。当たり前のものが当たり前にそこにあることの嬉しさ有難さだ。

第三部、『八陣守護城』は松貫四補綴とある。吉右衛門は自分でやるつもりで台本に手を加えたのだろうか?湖水の場だけだと、鞠川玄蕃と轟軍次の二人の敵方のスパイが「ハテ面妖な」を繰り返し言うだけで清正が既に毒を食らっていることを観客に暗示するというミソが、毒饅頭の清正という、(戦前までなら)誰でも知っていた「常識」が常識でなくなった今日、ムズカシイ問題ということになる。吉右衛門代役の歌六はすること文句なし。この人、何をやっても失敗ということがない。雀右衛門の雛衣、これまた文句なし。

菊之助が『鑑獅子』を踊るのが眼目だが、良い意味での「今日歌舞伎」の典型であり代表という印象である。「好感度」といういかにも今日的な言葉がいつしか生まれ定着して既に久しいが、まさに好感度100パーセントの鏡獅子であり、むかし見た誰それのは、などと言い出すワクチン接種を優先してもらえるような高齢者といえども、ナンクセをつけようとはしないだろう。具足円満、西暦2021年にあって誰しもが受け容れることのできる『鏡獅子』である。

楽善が幕開きの老臣の役で出演。いいなあ。本当にその人がそこにいるようだ。彦三郎の用人、萬次郎の老女と橘屋一家の中に米吉の局というのは珍しい光景だが、老女と局というこの役は、かつて菊之助の祖父梅幸が『鏡獅子』もっぱらにしていた頃、多賀之丞に菊蔵の父子がもっぱら勤めていたのが今も目に残っている。

         *

片岡秀太郎逝去。78歳とか。フーム。この人を初めて見た舞台ははっきり覚えている。昭和39年10月、前回の東京オリンピックのさなか、東横ホールで、この時点で花形未満という状態だった若手を糾合して『仮名手本忠臣蔵』を通し上演するということがあった。大星だけは大先輩の渋谷の海老サマ三代目権十郎だったが、そのほかは現・菊五郎の判官、前・辰之助(もちろん三代目松緑だが、やはりこの人は私の中では辰之助として生きている。もっともこの時点ではまだ左近だった)の勘平、現・楽善の平右衛門、現・左團次の師直等々々と、菊五郎劇団の若手を主体に、現梅玉・魁春の「道行」のおかる勘平と、東京勢の売り出し目前の若手たちが揃ったところへ、上方から秀太郎と孝夫の兄弟が参加したのだった。我當はすでに菊五郎劇団にいたから知っていたが、秀太郎と孝夫を見たのはこの時が初めてだった。秀太郎は「八段目」の小浪を、これは特別参加の我童の戸無瀬と踊ったのだったが、この幕だけはもう大人の舞台のような気がした。(孝夫の役?『旅路の花聟』の伴内と『旅路の花嫁』の奴だった!)それから程なく、大相撲の中継放送のゲストに十三代目仁左衛門が出演したとき、秀太郎を連れていたのが今も印象的な記憶として、これまた目に残っている。

それからいろいろなことがあった。昭和の末の50~60年代頃が、この人の最も苦しい時期であったように思う。しかし初めて見た時から、この人は良くも悪くも若手につきものの「未熟」ということを感じさせなかった。我童以外には、先代富十郎は知らず、成太郎はほんの片鱗しか見たことのない私には、上方の女方と言えば坂田藤十郎とこの人しかないことになる。『吉田屋』の女房のような役を見ることが多く、またよきものと思っていたので、あるところでこの人の代表的な役のような言い方をしたのが目に留まったらしく、さりげなくだが指摘があって、不本意のような思いをさせてしまったことに気づいて、なるほど、と心に留めたことがある。それから年を経た晩年に、覚寿をつとめるのを見たとき、その時のことを思い出した。それにしても、コロナ蔓延寸前の昨年二月、三兄弟それぞれに、十三代目の追善狂言を受け持ってつとめ遂せたことは、松島屋兄弟の徳の表れというものであったろう。

        ***

次の作品がすでに滑り出した今、もう旧聞のような感じになってしまったが、朝ドラで浪花千栄子の一代記のようなのをやっていたのを、時々気になるところはあっても結構面白く見た。どこまで事実に基づいているのかはわからないが、お終いの方でやっていたラジオドラマ(当時は「放送劇」という言い方の方が普通に使われていたと思うが)が、大方の東京人が浪花千栄子の名を知った始めであったと思う。花菱アチャコと組んで、「お父さんはお人好し」の前に「アチャコ青春手帖」というのがあったように覚えているが、どちらが先か後か、この辺りは必ずしも確かでない。ともあれ、大方の東京人が大阪弁というものをシャワーの如くに浴びたのは、この二つの番組であったとは言えるだろう。アチャコの言う「むちゃくちゃでござりまするがな」という決まり文句とともに、東京の小学生にも広まったのは間違いない。(上方の落語や漫才が放送されることはもちろんあったが誰もが聞くというものではない。)感心するのは、千代役の女優が浪花千栄子の関西弁のイントネーションを(しゃべり方は、現代の若い女優らしく早口で激しいものではあったが)うまく写していたことで、古い録音を聴き込んでよほど研究したものに違いない。

ラジオで知った浪花千栄子が更に東京のファンの間にも根を据えたのは映画にも頻繁に出るようになったからで、木下恵介監督の、というより花形人気スターだった高峰秀子が一躍名優に変貌する端緒となった『二十四の瞳』で、高峰扮する大石先生が6年生を引率して金毘羅へ修学旅行に出かけた先の、参道沿いのうどん屋で、家が貧しくて小学校を中退したかつての教え子が働いているのに遭遇する場面で、そのうどん屋の女主人が浪花千栄子の役だった。はじめは愛想よく応対していたのが、ちょっとしたきっかけから、からりと態度が変わる。いかにもありそうなこすっからい様子が、「手の平を返すよう」という語釈をして見せるような演技に舌を巻いた。もう一つ、小津安二郎晩年の傑作『小早川家の秋』で、鴈治郎が出演(映画俳優鴈治郎としても、この作が最高傑作であろう)、ふと再開したむかしの愛人の元へいそいそと出かける場面が評判をとったが、その愛人役が浪花千枝子で、さっきの『二十四の瞳』とは対照的な人のいい老女ぶりはまさに妙技というべきであろう。この二作を以って代表作としよう。(初代錦之助、つまり萬屋錦之介の『宮本武蔵』では、本位田又八の母親で武蔵を付け狙うお杉婆をやっていたっけ。)

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田村正和氏逝去とあって、業績・ひととなり・逸話・思い出その他その他、その行き届いた報道ぶりである。私も好感こそ持っておれ悪く言う気持ちなどさらさらないから水を差す気はゆめさらないが、活躍した年代、とりわけその絶頂期をマスコミ人・一般人を問わず、誰しもの記憶のなかにほぼ完全に覆い尽くされているので、こういう水も漏らさぬ報道ぶりになったのであろう。これが、その光輝いていた姿を覚えている者が寥寥たるものになってからの死去であったりすると、仮にそれなりのスペースが割かれていたとしても資料に拠っての紋切り型の記事だったり、かつての栄光に比してごく小さな扱いであったり、といったことが往々にして起こる。「亡くなっていたことが分かった」などという記載を、相当のスターだった人の死亡記事に見ることも少なくない。仕方がないことと思いつつ、割り切れない気持ちになることも珍しくない。時たまだが、投稿欄に往年の活躍を知る年配の読者の投稿が載って、喝をいやすというより、救われたような気持になることもある。花柳小菊だったか、千原しのぶだったか、死去を伝えるほんのぽっちりの記事が載ってしばらくしてから、かつてファンだったという年配の女性の読者の投稿を見て心が和んだのを思い出す。

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江原達怡氏死去の記事を見たのは、田村氏に先立つこと何日前であったか。東宝の作品を見るとこの人が出てこないことはなかったと思うぐらいに、私など、東宝映画の熱心なファンだったわけでもない者でも、いろいろな作品でこの人を見ている。美空ひばり・雪村いづみ・江利チエミの三人娘のような作から、もっと地道な作品まで、まず必ず出ていたような気がする。気がする、というのは常に二番手、というより三番手ぐらいの位置にいる役だったからで、強い印象を残すわけではないのだが必要ではあるというのがポジションだった。そこに、幅広く且つ息長く、この世界で生き続けた根拠があったのだろうが、こういう人もいた、という意味で、死去の記事を見つけてしばし思いにふけった。

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夏場所は照ノ富士が全勝するかと思うような圧倒的強さだったが、妙義龍戦の反則負けと遠藤戦の物言いの判定で混戦となった。二番どちらも師匠の伊勢ケ浜親方が審判長だったのは偶然だが、照ノ富士に厳しい判定となったのに微妙な感じを抱くのはやむを得ないところだろう。まあ、それはとも角として、前から言われていることだが、髷を掴んだら負けという規則は釈然としないものが残る。故意に髷を掴むという者は普通いないのだから、ほとんどの場合、故意か否かより、運不運によるわけで、取り直しにすべきである。また遠藤戦は、遠藤の投げを照ノ富士が掛け投げを打ち返したために遠藤の体が裏返っていわゆる「死に体」となったのだから、行司が照ノ富士に軍配を上げたのは然るべき理由があっての見識である。ただ照ノ富士の方が付き手が早かったのは事実で、したがってこれも取り直しが至当だったと思う。

近年、再生映像が精密になったのはいいが、野球のアウトセーフは早いか遅いかだけの話だが(それだって、カメラの角度でかなり違って見えるのには驚くが)、相撲の場合は、技を仕掛けての結果か否かが重要であって、以前なら取り直しにしたと思われる勝負に意外な判定が下されるケースが少なくない。「もう一丁」という審判員(昔は「検査役」だった)の声がよく聞こえたものだったのが懐かしい。

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随談第641回 ワクチンと朝鮮人参

三度目の緊急事態宣言が発出となったが、彼れを見、此れを見、腰の定まらない手の内が見え見えで、いずれ期日が切れれば延長必至という情けない切り札である。本降りになって出てゆく雨宿り、という川柳がありましたっけ。大手町に自衛隊が出動、マンボウ実施地域から緊急事態宣言実施地域へと高齢者を移動させてワクチン接種をするというのは、英断といえば英断だろうが、ワクチンさえ何とかなればオリムピックも何とかなるかもしれないという実は神頼みの一手。そこで思い出すのが、かつての歌舞伎・講談・落語から時代小説・大衆劇等々によく出てきた朝鮮人参という不治の病も治すという特効薬である。親が不治の病にかかって明日をも知れぬ命、朝鮮人参さえ手に入れば、と医師に言われても及びもつかぬ高値(コウジキと読みます)、そこで孝行な娘が吉原に身を売って・・・という風にストーリーが展開するというのがお定まりであった。嗚呼、ワクチンさえ間に合ったなら!(嗚呼、朝鮮人参さえ手に入ったなら!)緊急事態宣言下のオリムピック開会式という光景は、世界史に残る“人類の英知の証し”となるであろう。本降りどころか、暴風になって出てゆく雨宿り、か?

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緊急事態宣言の実施開始日が文楽劇場の楽日と重なって、吉田蓑助師の引退が一日繰り上がるということとなった。私が文楽を見るようになった頃は、ちょうど蓑助師が期待の花形として脚光を浴びていたさなかであったから、一番長く見続けたのは蓑助師であったと言って差し支えないだろう。当時は女方遣いとして紋十郎と二代目栄三が健在だったし、若大夫も綱大夫も、寛治も喜左衛門も健在だったのだから、いま思えば、名人上手の時代はまだ続いていたわけだ。しかし経営・運営的には困難の極みにあったのだから、芸の良しあしと人気・景気とは別物と思い知るべきなのであろう。蓑助師には『千本桜』のお里を見せてもらったことを無上の幸せと思っている。

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宣言発出となって5月11日までの約2週間、外出の予定が奇麗さっぱりなくなった。〆た今こそ、とばかり取り出したのが、今を去る60年余年前に作った切り抜きである。昭和30年5月から翌31年8月まで全450回、読売新聞に連載された子母澤寛の『父子鷹』を、リアルタイムで毎日切り抜いては、当時わら半紙と呼んでいた粗末な(と言っても当時はそれが最も手近にある白紙だった)紙に、(新聞の連載小説は基本形は今も同じ上下2段の横長である)表に3回分、裏に3回分、糊で貼り、それを今度は用紙の端を糊で重ね貼りすると、糸で閉じるより堅牢な切抜き帖が出来上がる。もちろん連載終了後に上下二冊の単行本として刊行されたのがいまも書架にあるが、4年ほど前の夏(夏という季節は郷愁に駆られやすい。自然が身近に来るからだろうか)、ふと思い立って、死ぬまでにぜひ一度、あの切り抜きを探し出して心行くまで読み耽りたいと心に決めた。新聞連載だから、その時々のさまざまな記憶が伴われて甦る。石井鶴蔵の挿絵と併せて鑑賞・味読しようというのが眼目である。ところが、あそこにしまってある筈、と心当たりを探したが見つからない。思いつくところを探しに探して、ああ、そうかと気が付いてようやく探し当てるまでに1年近くかかった。(ナニ、そんな大邸宅に住んでいるわけではもちろんないのだが、探し物というのはそういうものなのである。)それから、折を見てと思いつつも、日々の暮らしに時を奪われ、且つ又、もう少し先まで楽しみを取っておこうという心から、今日まで来ていた。一年前、コロナ禍に見舞われて得た閑暇に、ふと心が動いて大佛次郎の『鞍馬天狗』を本棚から埃を払って読み耽って得るところが多々あったことは、当時書いたと思う。そのことがあったためもあろう、この度の宣言発出を天の声と聞き違えたことにして読み出したのだったが、何しろ60数年前のわら半紙だから、端の方が枯れ落葉のように茶色く劣化しているのが削げ落ちるからその対策も講じる必要がある。だがそんな面倒に阻喪するぐらいなら初めからこんな酔狂はしないのであって、達意にして簡潔、主人公勝小吉をめぐる人々を描き出す筆の妙、季節の移ろいから江戸の市井の有様や物の匂いまで描き出す描写の妙等々、一読三嘆しながら読み進める幸福に、目下、浸っている。こういう文章を書く作家は、もはや絶えて久しくなってしまったことがつくづく思われる。

(前回書いた北大路欣也氏のデビュー作がこの小説の映画化で、たまたま、先月時代劇チャンネルで放映されたのも60余年ぶりに懐かしく見た。惜しむらくは名作と呼ぶには微妙なところですれ違っているような感はあるが、市川右太衛門の小吉、長谷川裕見子の女房お信、月形龍之介の兄男谷彦四郎、志村喬の父男谷平蔵、薄田研二の爺や利平治等々、出演者の一人一人も懐かしく、且つ適役が揃って感概深く見た。この映画と再会したことも、この機を逸せずと、我が背を押すひとつの力となったことは疑いない。)

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榎そのさんの訃報を新聞で見てしばし思いに耽った。『演劇界』を購読し始めた頃が、ちょうど榎さんと土岐廸子さんがコンビを組んで活躍を始めた頃だったから、その業績のほぼ全貌を見てきたことになるだろう。土岐さんは、実際に接するとなかなかコワい方だったが、榎さんは、前からあなたのファンだったのよと、優しい言葉で迎えてくれた。お二人の果たした仕事は、なまなかの劇評よりはるかにすぐれた「批評」であったと思っている。

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私はひと頃、コンサート・ゴーアーでもあった時期がある。まだCDなどは存在せず、LPの時代だったから、当時買い集めたレコードで今なお、物置状態になった部屋の一隅が占領状態になっている。クリスタ・ルートヴィヒの訃を知って、久しぶりに彼女のシューベルト歌曲集という一枚を聴いた。こういう世界があったのだ。

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随談第640回 マンボウ騒ぎ

テレビのワイドショーやニュースを見ていると、マンボウマンボウと頻りに言う。魚のマンボウのことかと思うと、コロナ対応の話で「蔓延防止特別措置」の略称と知れた。それなら、「金棒」とか「願望」などと同じフラットなイントネーションになる筈だが、魚のマンボウと同じく頭にアクセントを置いている。私などの世代の者には、北杜夫の「どくとるマンボウ」を思い出したりしてちょっぴり懐かしくないこともないが…と、ここまで書いて、後は明日ゆっくり書こうと寝てしまい、一夜明けてテレビを見、新聞を開くと、このマンボウ一件のことが俄かに問題となっている。政府にとって重要なコロナ対応策を茶化したような言い方を政府関係者やマスコミまでが無自覚に使うのはおかしいではないか、というのが論調であるようだ。私はてっきりSNFかどこかで茶化したのが広まったのかと思っていたら、聞いているとどうやら言い出しっぺはかの専門委員会の尾身会長で、ご自身としては、若い人にも親しみやすいようにと、いいつもりで言い出した、ということであったらしい。おやおや、である。

とまあ、こういうわけで、今回は出だしからつまづいてしまったので、話題変更と行こう。

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とはいえ、すぐには頭が切り替わらないので、アクセントの話をもう一席お付き合い願うと、高校野球の放送を見ていると場内アナウンスが、「三番センター○○クン」などと放送する声が聞こえてくる。○○君、というのを独特のアクセントをつけて言うのが耳につく。近似の例を挙げると、「新潟県」とか「秋田県」などというのと同じ節回しである。かつての高校野球の場内アナウンスというと中年男性のだみ声で「四番ファ-スト××クン」とやっていたものだったのが、それがいつからか女性の声に変わって久しいにもかかわらず、この「○○クン、××クン」の一種独特のアクセントだけは、伝統演劇における「型」の伝承の如くに、見事に受け継がれているのだ。関西地方、とりわけ阪神地帯特有のアクセントなのか、それとも高校野球界という一地方特有の方言アクセントなのか、アズマエビスである私には判断しかねるが・・・

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少しは歌舞伎の話をしよう。先月の歌舞伎座で仁左衛門が『熊谷陣屋』を出して健在ぶりを見せたが、この優らしく、細かいところにも気を配っていろいろ改変を施しているのが目に付いた。小次郎の首の扱いに関して、いろいろ新工夫を見せている。首実検がすみ、首を自ら相模に渡すのは以前からしていたが、今度はその前に、深く思いをこめ、と言って、いわゆる「思い入れ」をするのではなく、自身のふところに抱きしめ、しばし黙然としてから、相模にねんごろに手ずから渡す。相模のクドキの間に、首が置かれていた台(あれは、何というのだろう?)を、自らいざって取りに行き、さらに奥まった位置までいざって行って後見に手渡す(ように見えた)。・・・という具合に、首の扱いに細かく気を配って相模への心遣いを入念に見せる。(冒頭、陣屋に戻ってきて相模がいるのに気が付くと、通常の熊谷のように「ヤイ、女」などと言わずに(イマドキ、自分の奥さんに向かって「ヤイ、女」などと言ったら大変なことになったしまうであろう)、「やい、女房」と言っている。要するに相模への心遣いを、全体の流れを阻害することなしに可能な限り事細かに見せる、という配慮である。以前からいわゆる團十郎型への疑問として言われている、熊谷は自分の一存で小次郎を身代わりにして雲水になるのだからいいが、あれでは相模は浮かばれないではないか、という批判への、仁左衛門として考え抜いた回答とも読める。なるほどなるほど。が、しかしあそこまでするのならもう一歩進めて、幕外の引っ込みもやめてしまい、元々の浄瑠璃の通り、舞台中央の二重の上に義経、平舞台上手に藤の方と弥陀六、下手に相模と共に留まって幕にする方が、首尾一貫するのではあるまいか?という疑問も生じてくる。(花道七三で向こうからドンチャンが聞こえると、キッとなって手にした杖を太刀のように掻い込むところなど、確かに格好いいのだが・・・。)

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先日、日本映画チャンネルで久しぶりに『ゴジラ』を見た。もちろん、1954年制作の元祖ゴジラである。いま改めて見ると、随分真面目に作った作であったことが今更のように思われる。言い尽くされていることながら、この年の春にあったビキニ環礁の水爆実験と第五福竜丸の事件が、仮に際物として作るにせよ、生半可なことでお茶を濁しリアリティをもって見せられなければ、際物としても支持を得られなかったであろう。ゴジラが遂に東京湾から上陸してきて、元の日劇や何かがぺしゃんこにされてしまい、実況中継のアナウンサーの身にも危険が迫り、「皆さん、さようなら」と悲壮な声で叫ぶ中、逃げ道を失って子供を二人抱えた中年の母親が「お父さまのところへ行きましょうね」と言い聞かせているのは、戦地で亡くなり天国にいる夫のことであろう。いま見ると驚くべきリアリティをもって刺さってくる。

この作の封切り当時のことはそのころ中学生だったなりによく覚えているが、同級生たちの反応は、級友の前では建前としてゲテモノだと笑って見せるが実は見たいのが本音、という辺りが大方であったと思う。私は封切りでは見なかったが、予告編を見たのははっきり覚えている。滝野川映画劇場という、東映の封切作二本立てに東宝の作品を一週遅れのを一本、全部で三本見られるというお得で割安の、この手の映画館が当時はよくあったものだった。ここで、片岡千恵蔵主演の『新選組鬼隊長』(その後いろいろ見た新選組映画の中でも出色のなかなか力作で、いまでも時どき思い出す)に東千代之介の『龍虎八天狗』という吉川英治の少年小説を映画化した併映用の五部作の最終回、それに宝塚映画製作・東宝配給の斎藤寅次郎監督『仇討ち珍道中』という(伴淳・花菱アチャコの仇討ち兄弟に益田キートンが敵役という抱腹絶倒の面白さで、ぜひ再会したいと今でも本気で願っている)三本立てで、日曜日に家族全員で出かけたのだったが、その時に予告編で見たのが、大友柳太朗の赤垣源蔵に月形龍之介の清水一角という『残月一騎打』という忠臣蔵外伝物と『ゴジラ』の予告編だったのだ。志村喬の原子力研究の老教授に河内桃子のその令嬢、という配役は、千恵蔵の近藤勇がそうであるのと同様に、この種の作品に絶対的にして欠かせないはまり役であった。老教授の助手で河内桃子の恋人役の宝田明は売り出して間もない新人で(この人は東ナントカさんという新人女優と「東宝ニューフェース」としてペアで売り出したのだった。「東」と「宝田」で「東宝」というわけだ)、志村教授のもう一人の弟子で、死を賭して研究に打ち込む少壮学者を平田昭彦というのも、不動の陣容と言うべきであろう。

ところでこの宝田・河内の恋人同士が、デートの約束をしていたコンサートに(ゴジラ問題のために宝田の方が)行かれなくなるという場面があって、チケットが大写し(いまでいうアップである)になると「ブダペスト四重奏団演奏会」と書いてあるのに、迂闊ながら今度初めて気が付いた。当時よくあった「ショパンの夕べ」などというのではない。ブダペスト四重奏団はこの時が二度目の来日だった筈だが、このハイブラウぶりは、なるほど伊福部昭が音楽を担当している作品だけのことはある。

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三月場所は照ノ富士の優勝に大関復帰が叶って私としては言うことない結果だが、三大関よりすでに実力が上であることは明らかだろう。貴景勝は押していても足が止まっているし、朝乃山はタイプとしては好きな力士だが、過信というか自分の力を思い違えている。正代もあの相撲の取り方では、いい時もあろうが今度のようなことがあっても不思議はない。
 活躍した若隆景が贔屓にしようかと思うような相撲ぶりでほれぼれしたが、あの若葉山の孫と聞いて懐かしさが蘇る。昭和20年代も終戦間もない頃から30年代半ばごろまで、かなり長く取った、技能派というより典型的な「手取り」力士として目に残っている。手近にある「相撲」昭和29年秋場所号という古雑誌で確かめると、身長5尺6寸8分、体重24貫400とあるから、170センチに92キロ、と言ったところか。当時としても小兵だが珍しいというほどでもない。今ならちょっと体格のいい若者にいくらもいるだろう。若葉山は小結が最高位だが、若隆景は地位より相撲ぶりから言って、すでに祖父まさりと言っていい。

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相撲解説の北の富士氏が、NHKの放送文化賞を受賞したという話になって、授賞式で同じく受賞した北大路欣也氏から挨拶され、むかし話を交わしたという佳話があった。昭和33年というから、北の富士は入門間もなくで横綱千代の山の付け人、北大路氏はデビュー間もない(たぶん)まだ中学生であろう。(折から時代劇チャンネルでデビュー作の「父子鷹」が放映になった。歌舞伎でやる真山青果の『天保遊侠録』と同じ題材の、当時読売新聞に連載された子母澤寛の傑作小説の映画化で、私にとっても懐かしの逸品である。)相撲に関心があるので支度部屋を見学したいという申し出を、協会でも特別に計らった、というのであったか。「ああ、これが市川右太衛門の息子か」と思って見ていたという北の富士氏の思い出話がよきものであった。

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その「父子鷹」だが、この言葉は以後、広く世間一般でも「この父にしてこの子あり」という意味で使われるようになった。とりわけ、現・巨人監督の原辰徳氏が高校野球のスターとして売り出したとき、父親が東海大相模の野球部の名監督として著名であったというところから、この「父子鷹」が流行語のように広まったことがあった。まあ、それはそれとして結構ではあるけれども、原作者の子母澤寛がこの言葉に籠めた意図は、逆に薄れ、忘れられてしまうことになった。「父子」の「子」の方は後の勝海舟だから金箔付きの「鷹」に違いないが、この作の主人公である父親の勝小吉は、生涯無役の幕臣で,放蕩無頼の一生を送った人物である。それにもかかわらず、その人となりその生き様(という言葉は、こういう場合にこそ使うべきであろう。間違っても「恩師○○教授の生きざま」などと同窓会雑誌などに書くべき言葉ではない)によって、これもまた天晴れ一個の「鷹」であったというのが真意であったはずだった。つまりそこに、人生の機微や、人の世の哀歓やら、さまざまなものが潜んでいるわけだが、父も子もどちらも凄い、というのではストレートで面白くも何ともない。

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随談第639回 遅なわりしは不調法

月末月鼻に締切りその他が重なって、今回は大幅遅れとなった。遅なわりしは不調法、お許しを願います。

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久しぶりに歌舞伎座の三階席から魁春の八重垣姫を見た。新開場前に下見をさせてもらった折に三階まで上がって坐ってみたことはあるが、新しい歌舞伎座で正規の舞台を三階から見るのは初めてだ。やはり、いい。最前列は空きがなかったので、花道の出入りを真正面から見る二列目。かつては前の歌舞伎座でよく見ていた席だ。(もっとも、厳密にいえば前の歌舞伎座は三階席最前列と三階ロビーの床が同じ平面だったが、新しい歌舞伎座の三階席は、ロビーから場内に入り、最前列へは六列分階段を下りるようになっているのが、以前の三階席の空間とちょっと勝手が違うが。)

三階席から見る良さは、額縁舞台のフレームが視野の中にきちんと入ることだ。フレームの中に大道具の全容がはまり、人物の配置があり、舞台の寸法というものが、一望の視野の中に納まる。これが肝要である。一階の舞台に近い席が上席とされるのは役者を間近に見られる臨場感ゆえだろうが、それも確かにいいには違いないが、そればかりが能ではない。殊に踊りなどは、あまり真近から見るよりある程度距離を取った方が、全身の動きの均衡と共にテンポやリズムが良くわかる。オペラグラスというのは、ほんの何秒間か顔を見れば充分なので、踊りの面白さというものは減殺されてしまう。今回の『十種香』のような芝居も、舞台中央の勝頼と、上手下手の八重垣姫と濡衣の配置の妙趣が三階からだとじつによくわかる。下手の濡衣は、死んだ偽の勝頼を思いつつ、眼前に蓑作が勝頼となって現れた姿に幻覚を見、上手の姫は、絵姿に見ていた勝頼そのままの男を目前にして幻覚を見る、という作意の趣向が、三階席に座ってみると実に的確に一望できるのが新鮮であった。

魁春の八重垣姫はやはりいい。これでこそ丸本時代物の姫である。孝太郎の濡衣も現在の最適任者だろうし、門之助の勝頼だって、不足に感じるものがあるとしたら、いまにして初役という外的条件がそう思わせるのであって、あれでもう何度か場数を重ね(る機会を与えられ)さえすれば解決されることである。錦之助の謙信もブラヴォーだ。つくづく思うに、こういうクラスの顔ぶれで打つ機会が当今ほとんどなくなってしまったことで、今回の「十種香」はコロナ禍のもたらした思わぬ一得かも知れない。

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文楽は3部制で夜8時までに終らせようというので何と10時半始まりである。入れ替えの時間も随分寸が詰まったから、『先代萩』の「竹の間」「御殿」と『菅原』の「寺入り・寺子屋」、『冥途の飛脚』を「淡路町・封印切・道行相合いかご
とみっちり聞くと耐久レースの感もある。間に挟まっての『曲輪?』がオアシス効果を発揮するが、しかし文楽というのはこうして耐久レース張りの苦行をへとへとになりながら聞くものであるともいえる。
『御殿』の「前」を弾く鶴澤清治文化功労者顕彰記念と謳ってある。私が知ったころは十代の生意気盛りでいろいろ物議を醸すようなこともあったのを思い出すが、長老の風格を備えるようになったいまでも、その風貌は、おそらく、激しい物は失っていないに違いないと感じさせる。

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オリムピック開催予定を間近にして舌禍のために退いたM氏というと思い出すのが、氏がまだ中堅議員であった頃、国会議員野球大会というのを言い出し兵衛となって実施したことがあった。当時公明党の古参の議員で、元東急フライヤーズの名投手だった白木義一郎氏がいたが、白木投手といえども怖るるに足らずと言って、見事、左前安打を放ったという記事を読んだのを覚えている。まあ、白木議員の方が年齢も当選回数もはるか上だったとはいえ、プロ野球史に名を残すほどの名投手だった人物からヒットを打ったのだから自慢するだけの価値はあったというものだろう。

白木投手はその盛りの頃をこちらは小学生で何度も見ている。子供心にも印象的な選手で、顎の長いので一度見れば覚えてしまう上、相手打者がピッチャーゴロを打つと矢のような球をキャッチャーに投げ、捕手からファーストに転送してアウトにするという人を食ったプレイで面白がらせた。奇人という意味では十指に入る選手だった。たしか連続イニング無四球記録というのの記録を持っていたほどコントロールのいい投手として知られたが、その記録を破ったというので名を挙げた安田猛の訃報がついこのほどあった。一昨年の夏、その折にも書いたヤクルトOB戦にも出ていたのがいい見納めとなったわけだ。

しかし訃報と言えば、テニスの宮城淳の名を見た時は、ああ、と目の前で大きく動く時の流れを見るような思いだった。野球に比べれば、私はテニスへの興味も知識もほんの指先ほどしか持ち合わせないが、姉の宮城黎子とか、ダブルスの相棒だった加茂公成とかいう名前と共に蘇ってくる時代の光景には格別のものがある。昭和30年前後という時代と、私自身のイニシエーションとしての季節とが重なり合って、さまざまな記憶を呼び起こすからだろう。

田園調布の駅を東横線の電車が発車すると間もなく、丘の上の教会の反対側の眼下に田園コロシウムというテニスのスタジアムがあって、昭和30年代、ここで毎年デヴィスカップの東洋ゾーンの試合が行われた。宮城を筆頭とする日本選手の前にクリシュナンと言ったっけ、宮城の倍もありそうなインドの選手が文字通り壁のように立ちはだかって、テレビで見ていても、なかなか突破することが出来そうになかった。

と、ここまで書いたところで、三宅秀史の名前が出た。そのいかにも玄人好みのする名手ぶりのことは私がここに書くまでもなく、蘊蓄を傾ける方々が大勢いるであろうから私の出る幕などはないが、練習中のボールが目に当るという選手生命を絶たれる不祥事で信州だったかのどこかで再起のためのトレーニングをしていた頃、横綱の柏戸も肩に再起不能かと言われた大怪我をして、そのトレーニング先で三宅と出会い、励ましあっていたという記事を当時読んだことがあった。宮城89歳、三宅86歳との由。

        *

もう一人、本当は昨年暮れの内に書くべきだったが講談の一柳斎貞水のことも書き忘れっぱなしというわけには行かない。今の人たちがどうのという意味ではなく、最後の人だったという感が深い。この人とはひとつ思い出があって(もっとも、あちらは疾うに忘れたまま逝ってしまったに違いないが)、数年前、国立劇場で歌舞伎と文楽と双方で『伊賀越道中双六』を出したときの企画の一環として、貞水師とペリー荻野氏と小劇場の舞台上で鼎談をしたことがあったが、こういう時の常として、本番よりも事前の楽屋での雑談の方が面白い。どういう脈絡でだったか話題が映画の荒木又右衛門のことになり、貞水師が、大友柳太朗という人が戦後カムバックしてまだ敵役めいた役をしていた頃がいいと思った、と言ったのが、さすが目の付け所がお見事と深く頷いたことがある。

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東急フライヤーズつながりの話題。朝ドラ「エール」で知らぬ人のなくなった古関裕而氏が東急フライヤーズの応援歌を作曲していたという噂はあったが、その楽譜が発見されたという記事が載った。昭和25年というから二リーグ制発足の年である。おそらくそれが契機となったのだろう。まさに白木義一郎全盛の時代である。タイガースの「六甲おろし」が夙に戦前に出来ていたのは驚くべき例外で、当時エースの若林投手の働きかけがあったと何かで見た覚えがあるが、東急フライヤーズの場合にせよ、前にも書いたがまだ組織的な応援団などなかった時代である。これはプロ野球史にとっても、社会世相史としても、ささやかだがしかし意義のあるニュースであろう。

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という次第で、前回、予告めいたことを書いたのはそのまま、次回送りとさせていただきたい。悪しからずご了承をお願い申し上げます。

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随談第638回 閉店・訃報、しかし・・・

今月も訃報や閉店の話ばかりだが、すべてが必ずしもよろしくない話ばかりとも限らない。

かつて、大学受験予備校というのに3カ月だけ通ったことがある。中学時代、英語の勉強というものを一切しなかったので、都立高校としてそれなりに名の通ったところに入学したものの、寒い・冷たいという形容詞のCOLDと、助動詞CANの過去形のCOULDの区別も知らなかった。英語という科目は、当時、文部省の規定では選択科目という建前だったから、我々の前年度までは都立高校の入試科目に英語は入っていなかった(というのは、嘘のような本当の話である)、我々の年度から入試科目に入ったのだったが、初年度だから多分出題も手加減があったのだろう、それでうまく滑り込めたのはよかったが、入ってからが悲惨なものだった。しかし相変わらず、関心は時代劇映画や大相撲やプロ野球、歌舞伎も視野の内に入っていたか、何よりも、曲亭馬琴のような大長編の時代小説を書こうと目指していたので、それにはまず「南総里見八犬伝」を原文で読んだ(つもりになった)り、等々、お陰で今もそれで世を渡っている「基礎力」を養っていたようなものだが、もちろんそんなことで大学に入れるわけはないから、一年間受験浪人して中学一年の第一歩、I am a boyから全部独力でやり直す考えだった。しかし受験浪人の一年間を独学などもってのほかと心配してくれる(親切な?)親戚の叔父さんなどがいて、親も本人任せにして大丈夫という保証があるわけでもなし、というわけで七月までの三か月だけ受験予備校に通うことにしたのだった。中学英語も出来ない者に無用であるのは明らかだったにもかかわらず・・・と、書き出し早々、大道草を食ってしまったがここからが本題で、その予備校で一つだけ、いいことを教わった。

あいにく名前は忘れたが年配の古文の先生が、その予備校に英語の講師で来ている某東大教授のご母堂が亡くなったと聞いて、おいくつでした?と尋ねたところ、80何歳だかの高齢という返事だったので、それはおめでとうございますと挨拶したら、くだんの東大教授が色を成して「先生、それは冗談でおっしゃるのですか」と叱られてしまった。しかしそれはその教授の方がまだお若いからものを知らないので、高齢で亡くなるというのはめでたいことであり、おめでとうございますという挨拶は決して礼を失することではない、というのだった。無益な授業料を払って通った受験予備校の三か月間に一つだけ、いいことを教わったと今も覚えている、というお話。

        *

とんだ長々しいマクラを振ってしまったが、柴又の川甚が閉店というのが、またしてもコロナ禍の犠牲、というニュースとして話題になっている。まだ昭和だった末つ方、高校の同窓会をあそこでしたことがあって一度切りだが行ったことがある。鯉料理の美味い、いい店だった。帝釈天も風格のある寺で(これは寅さん映画でおなじみだが)、客殿のぐるりを取り巻く庭園もいい風情だった。ああいうのが、本来の意味での東京近郊の風情というものであったのだろう。寅さんは江戸っ子か否か、という議論がかつてあったが、本郷も兼安までが江戸の内という基準からすれば葛飾の果てが江戸であるはずがないというリクツになる。しかし葛飾の江戸っ子もいれば練馬の江戸っ子も世田谷の江戸っ子もいる、江戸川べりの矢切の渡しも多摩川べりの矢口の渡しも江戸の内というのが、昭和も戦後の風景というものであろう。矢切の渡しと聞いて、連れて逃げてよという歌が思い浮かぶ人、伊藤左千夫の小説を思い出す人、同じ「野菊の墓」の映画でも木下惠介版を思い浮かべる人、後のバージョンを思う人、世代の違いだけでは尽くせない、世の変動が、大仰に言えば近代日本の激動がその間に横たわっている。

        *

安野光雅氏のことでは私の出る幕はないが、同じ出る幕ではないことに違いはなくとも、坂本スミ子死去、などという活字を見ると、ひとつの時代の匂いが蘇る。死去を伝えるテレビのニュースで、まだ白黒画面で旺盛に歌う人気華やかだった頃、中高年頃の映画の画面、なんと幼稚園の園長さんだったという晩年の画像と、次々に見せたのが、図らずも女の一生さながらに、見るこちらにも感慨があった。

        *

ハンク・アーロンにもやっぱり懐かしさを覚える。来日しての王とのホームラン競争はやはりよかった。あれは一本差と言っても実はアルファ付きだということを書いた人が、確かいたのを思い出した。たしか20球づつ打つ決まりで、先ず王が10本打った後、アーロンが19球目に11本目を打ってあと一球を残して勝ちと決まった途端、バットを放り出して駆け出した画面を覚えている。

それにしても、アーロンがニグロ・リーグ出身だったことは今度知った。まだこの世代までは、既にメジャーでプレイする黒人選手は大勢出ていた筈だが、新人がマイナーリーグからという体制が出来ていなかったのか。ルースの記録を破るときの騒ぎは知られているが、それより前に(いま名前が出てこない、これは齢のせいである)白人の選手がルースの記録を破りかけた時にもいろいろ悶着があったが、ああいうのはアメリカ独特の英雄崇拝の生んだ差別であったろう。

        *

栃ノ海の訃報も感慨をもたらすものだ。28歳で引退して82歳で逝去と言えば駄洒落めくが、つまり横綱としては短命だったが、その後の人生としては長命であったわけだ。小兵の横綱で、100キロ程度だったろう。大鵬・柏戸の両横綱の間に割って入ったのだからたいしたものだったが、その二人より若干だが齢も行っていたところに苦しさがあった。同じ小兵の横綱でも、栃錦や初代若乃花のような強さ・豪快さはなく、鋭い切れ味が身上だったから、薄刃の剃刀で名刀や大鉈に立ち向かうような痛々しさがあった。

一度、立ち合いの変化からもろ差しになって大鵬を寄り切った一番を見たことがある。もちろん当時は蔵前の国技館で、ひところはNHKに民放4局、どこにチャンネルを回しても(こんな表現をイマドキノ方々は理解できるだろうか?)大相撲中継をしていたのが、毎場所大鵬ばかりが優勝するというのでやや人気に陰りが出来たころで、(もちろん自分で買った席ではないからだが)一階席の後部に各局の放送席があったのを、撤退した局の席を指定席に転用したという上等の席だったが、簡単な間仕切り越しにふと隣りを覗くと、こちらはどこかの局が放送中で、後の田中角栄首相がゲストとして呼ばれていたらしく、上機嫌で何やら喋っていたのを覚えている。その間ほんの2メートルぐらいだったか。昭和40年の秋場所、歌舞伎座で昼の部の最後の演目に、歌右衛門と梅幸の踊る『蝶の道行』を見てから駆け付けたのだったっけ。

栃ノ海は風貌と言い、体形と言い、日馬富士がよく似ていた。日馬富士も絶好調で、巧くはまった時には白鵬をも見事に仕留めたが、ああいう調子で毎場所毎場所というわけには行かない、それと同じ苦しさが栃ノ海にもあった。横綱になってからは怪我のためにはかばかしい戦績は挙げていないが、非凡な技を持った名力士であったことは間違いない。北の富士氏にぜひ思い出を語ってもらいたい。

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先週、一日おきで新国立のオペラパレスで『アイーダ』を見、国立能楽堂で能を見たが、入り口で熱を測り、両掌をアルコール消毒し、チケットの半券をもぎるのは同じだが、劇場によって、三密への規制や、終了後の退席の方法等々、劇場によってかなり厳しさに差異がある。オペラパレスは、先ず一階席の方どうぞ、次に二階席の方、というやり方だが、一階席と言ったって何百という数だろう。能楽堂も、まず正面席の方どうぞ、というのだからオペラパレスに比べれば少数とはいえ、かなり大束なやり方だ。もっと厳重なところもあれば、さらに大雑把なところもあるとも聞く。がさて、いかがなものであろう。

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最後に一つお知らせ。旧臘に『眼中の役者たち(抄)』をこの公式サイトに載せたましたが、近々、「抄」の字の取れた、いわば完全版を電子書籍として出す予定です。次回にはもう少し具体的な情報をお知らせできると思います。

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随談第637回 本年最後の不要不急の話

あっという間の歳末である。齢のせいだけでなく、時の経ち方が今年は何かイレギュラーに感じられる。原因はもちろん、コロナ騒動のためである。去年の今頃、歌舞伎界では何が話題だったかといえば、菊之助が『ナウシカ』をやっていて、舞台上で大けがをしたという一件だった。これを遠い昔のことのように思うか、それとも、ついこの間のことと思うか、人さまざまに違いない。いや、同じ人間が、遠い過去のように思えたり、最近のことのように思えたりするのだ。

歌舞伎学会の行事で、いつもはゲストを招いて話を聞く集まりが、今年はオンラインですることになったというもどかしさはあったものの、林与一氏の話が抜群に面白かった。78歳という。十代の頃がちょうど関西歌舞伎の壊滅期に当っていたわけだが、当時の関西の様子は概括的に伝えられていること以上はほとんど知るところがなかったので、目からうろこのような話柄が次々に出てくる。話すこと、話したいことが山ほどあって、次々と繰り出されてくる面白さ、それを語る饒舌なうちにも自ずから端正な言葉つき、挙措の美しさ。つい時のたつのを忘れて見惚れていた。それにつけて思い出すのは、大河ドラマの『赤穂浪士』の堀田隼人で売り出した与一氏が次々と映画テレビで活躍し始めた頃のこと、どこのテレビ局だったかで与一氏を主賓にした番組があって、二、三のゲストの一人として今の仁左衛門が出演したことがあった。もちろんまだ片岡孝夫で、東京では知る人ぞ知るといった当時のことだが、上方の和事の芸を伝える人は与一さんしかありません、ぜひ歌舞伎に戻ってきていただきたいと、遠慮がちながら真摯に訴えていた姿を印象深く覚えている。(ご本人は、もうたぶん忘れているだろうが。)

訃報もいろいろあった中に、幸田弘子さんの名前があった。一葉などの文芸作品の朗読で評価も高く、知る人も少なくない人だが、今ここに書こうと思うのはそのこと故ではない。昭和30年前後、この人がNHKの東京放送劇団の新人として売り出したころ、私はこの人のファンだった。東京放送劇団というのは、まだラジオの時代、放送劇や朗読をする声優(という言葉はあったが、今の人がこの言葉から思い浮かべるイメージとはかなり違う)として養成していたもので、テレビというものが存在しなかった当時は、かなり知名度も高い名優や人気者も輩出している。それこそ、「鐘の鳴る丘」だ「君の名は」だといった番組はこの人たちが主力として活躍していたのだ。第五期生まであったと思うが、巌金四郎、小山源喜、加藤道子(いまもつづいている「ラジオ名作座」という番組で、長いこと森繁久彌と名コンビだったのをまだ覚えている人は少なくない筈だ)といった人たちが第一期生で、確かなことは解らないがもしかしたらすでに戦時中から活躍していたのではないかと思う。その後も、臼井正明(白鸚の『アマデウス』の初期のころ常連の出演者だった)、名古屋章、七尾玲子といった名前も、ラジオというメディアの限界はあるが全国区規模で知名度があった。幸田弘子さんたちの第五期生は、既にテレビが放送を始めていたのでその含みもあった一段と華やかで、そのシンボル的存在が今も活躍中の黒柳徹子氏なわけだ(彼女の売り出した『ヤン坊ニン坊トン坊』という放送劇は、当時知らぬ者はないという勢いだった。(里見京子さんとか横山道代さんとか、なつかしいなあ。)幸田弘子さんは、そうした中で、着実に我が道を歩み続けた人だと思う。(「朗読」というのは、テレビよりもラジオでこそ、長所も魅力も発揮される。私は俳優が芝居気たっぷりに読むのより、加賀美幸子とか広瀬修子といったベテランのアナウンサーの抑制した読み方の方が、聞く側のイメージが抑制されないので好きだが、これはまあ、この際はついででの話。)

訃報の中に浅香光代の名前もあった。この人の「勧進帳」を私は見ている。所も新橋演舞場で、れっきとした長唄囃子連中で本格に演じたのである。立派なものだった。

新聞のスポーツ欄の隅っこに、かつてのニグロリーグの記録がメジャーリーグの記録として扱われることになったという小さな記事が載った。1920年から、第二次大戦後ジャッキー・ロビンソンを皮切りに黒人選手が大リーグに加入が認められるまでの20数年間、全米に存在した黒人だけのプロ野球である。ジョシュ・ギブソンというスラッガーが、ベーブ・ルースとほぼ同時代にニグロリーグで活躍し、ルースよりも多くの本塁打を打ったと言われている。私はひと頃、翻訳で生計の何割かをしのいでいたことがあるが、その当時、このギブソンの伝記を訳して出版したことがある。ちょうど王貞治氏が800号を打った当時だったので『800号を打ったもう一人の男』というタイトルで、私の訳書としてはちょいと評判になった。

本年はこれまで。よいお年をお迎えください。

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随談第636回 坂田藤十郎をめぐる不要不急の話

坂田藤十郎が亡くなった。昭和6年の大晦日の生まれということは前々から知っていたが、いつの間にか現役最年長となっていたことには今度改めて思い至った。芝翫・富十郎といった、昭和ひと桁でも5年より前の生まれの世代は、この二人の大物がちょうど歌舞伎座の建替えの間に相次いで逝ったのを最後にいなくなっていた。この世代は、戦後間もなくのまだ世の中が定まらない時期に世に出た人達で、歌舞伎界に限らず、映画界などでも取り分け女優にはこれといったスターは見当たらない。個々には懐かしい存在もあるのだが、「個性派」だの「清純派」などと体よくひとからげにされてしまいがちで、何かと損の卦があるように見える。(同じ昭和ひと桁でも6年以降だと、山本富士子だ有馬稲子だ岸恵子だと続々出てくる。登場するのが、やはり独立回復後の社会の安定というところが大きいのだろう。)

戦後の歌舞伎に最初に出てきた若手花形といえば、先代門之助の松蔦と岩井半四郎、それから大川橋蔵といった、みな昭和ひと桁前半の生まれの人たちで、歌舞伎俳優としてはどこか薄幸な翳がついて回った。芝翫はまだ福助で、秀才として認知されていたが三日月のようなしゃくれ顔が寂しげだった。それから、のちに4代目時蔵になった芝雀がいた。芝雀というと、ああ、あの綺麗な人、と時蔵になって亡くなった後まで、かなり長い間、歌舞伎にあまり詳しくない人の歌舞伎に関するわずかな知識の内に入っていたぐらい、その美貌は知られていた。

と、しばらくあって、まだ健在だった関西歌舞伎で「扇鶴」として売り出したのが扇雀の藤十郎と鶴之助の富十郎だが、まだ国鉄最速の特急「つばめ」か「はと」で東京大阪6時間、普通急行だと朝立って着くのは夕方という時代だから、尋常普通の暮らしをしている一般の歌舞伎ファンが東京からわざわざ見に行くということは考え及ばぬことだった。(当時「日曜娯楽版」というNHKラジオの人気番組があって三木鶏郎(トリロウと読ませた)という才人が、このつばめ号に当て込んで「僕は特急の機関士で」という歌を流行らせたことがあって、われわれ当時の小学生はみな歌ったものだ。「ボクは特急の機関士で、可愛い娘は駅ごとに、いるけど3分停車では、キスする暇さえありません」といった歌詞が戦後版鉄道唱歌のように延々と続くのだった。さらについでだが、昭和25年にプロ野球が二リーグ制になると同時に発足した「国鉄スワローズ」はこの「特急つばめ号」が命名の由来で、「ヤクルト」などという飲み物はまだ誰も知らなかった。

当時、家庭の主婦向けの雑誌として『主婦の友』と『主婦と生活』というのが二大雑誌で、そのどっちだったか、見開き2ページのグラビアに縦割りにして4人の花形役者の素顔を並べたのがあって、うろ覚えだがたしかスーツ姿の橋蔵、鶴之助に松蔦だったか、という中にはっきり覚えているのが、カーデガン姿で野球のグローブを頭上に振りかぶったポーズで写っている扇雀だった。女方にそういうポーズを取らせたのがミソだったのだろうが、これが私にとっての扇雀初見参である。藤十郎というと武智歌舞伎と判で押したように言うことになっているが、元々の武智歌舞伎というのは研究公演だから実際に見た人の数は関西人でも寥寥たるものだった筈で、先ごろ亡くなった堂本正樹さんのような人でもなければ、その存在を知って東京から見に行った人というのはいなかったろう。後に、普通の興行に「武智歌舞伎」とか「武智鉄二プロデュース」といった看板をつけた舞台は何度かあったが、それよりむしろ、昭和50年代のある盛夏の一日、歌舞伎座で武智氏を祝うという趣旨の会があって、歌右衛門をはじめ超豪華メンバーで谷崎の『恐怖時代』をしたりしたのが忘れ難い中に、延若が『俊寛』をしたのが、かつての武智歌舞伎の純粋な演出だということだった。冒頭、俊寛のあばら家へ訪ねてくる成経や康頼が崖を伝って下りてくるとか、前進座で売り物にしていた翫右衛門のと一脈通じるところがあった。武智歌舞伎はもともと、戦後の関西歌舞伎の若手連中を鍛え直そうというのが趣旨だったらしいから、延二郎だった延若も最年長メンバーとして一員だったのだ。あの時の延二郎の俊寛を見せたかったと武智氏はかねがね言っていたようだから、この時のがその機会だったのだろう。

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東京の歌舞伎好きがはじめて扇雀を見たのは、昭和28年の夏、父の鴈治郎と一緒に上京して新橋演舞場に出た時で、『曽根崎心中』を東京人が見たのもこの時が初めてだったはずだ。まだ築地川が流れていたので舟乗り込みをしたのはいいが既にヘドロだらけのどぶ川と化していたから、扇雀が「お父さん、臭い臭い」とぼやいたという話は、新聞で読んだのだったか? 一躍、扇雀ブームなるものが沸き上がったが、とにかくこのブームは大変なもので、私の知る限り、後に玉三郎が「出現」したときと、今の海老蔵の時と共に、歌舞伎のスター誕生が生んだ三大ブームだったと思う。私にとっての「坂田藤十郎」の原風景もここにある。「扇雀飴」という飴が売り出されて(これはブームが去った後までも店に並んでいた)、折から民放のラジオが次々と誕生した頃で、どこの局だったか、その「扇雀飴」の提供で幸四郎の弁慶に扇雀の義経という配役で『弁慶』という放送劇(「ラジオドラマ
とはまだ言わなかった)があった。ブームの渦中の扇雀の義経に、歌舞伎の弁慶役者の幸四郎の顔合せというわけだったろう。もちろんこの幸四郎は、初代白鸚になった八代目である。(富田常雄の小説のドラマ化のこの『弁慶』は、ずっと後、今の吉右衛門がテレビでやっていたのをいま思い出した。)

放送劇の義経といえば、同じころ、岩井半四郎がNHKで『源義経』を確か1年も続けたのを毎回聴いていた。(こちらは村上元三が朝日新聞に連載したのが原作だから、後にテレビの大河ドラマが始まって4作目ぐらいの、今の菊五郎がしたのと同じものである。この間、ほぼ10年だ。)ことほど左様に、一般にも名が売れていたという意味でなら半四郎は当時一番の花形だった。ほぼ同じころ、ある民放局で『雪之丞変化』を半四郎の雪之丞に、語り手と怪盗闇太郎を8代目中車がつとめるという配役で始めたのが、面白いの何の、我が家では毎週欠かさず家中で聴いたものだった。中車はそれより前、吉川英治の『宮本武蔵』を徳川夢声と競演していて、こちらも知名度抜群だった。(ついでだが、芦田伸介が門倉平馬で出ていたのが、私が芦田を知ったはじめだった。)

閑話休題。で、その半四郎と扇雀が、間もなくアーニーパイル劇場がGHQから返還となって東京宝塚劇場として東宝が演劇界に乗り出してくると、その波に巻き込まれることになる。扇雀にとってはこれが、以後の知名度を決定的なものにした一大飛躍の踏切版で、第一回の東宝歌舞伎で、歌右衛門・勘三郎・長谷川一夫と同格の扱いをされたり、ここから以降のことはよく知られている。小学校時代同級だった女姓が、扇雀扇雀と騒いでいるという噂を耳にした。一方半四郎にとっては、これがのちに大きく響く躓きとなるという、暗転のきっかけとなったと言われるが、こっちはまだ半大人の中学生だったからそんな難しい機微に触れるようなことは知らなかった。扇雀は映画でも活躍を始め(それが、あの結婚につながるわけだが。まったく、お雛様を並べたような新郎新婦だった)、『女殺油地獄』という名画を作ったりもしたが、しかし一介の中学生としては、それより『人斬り彦斎』などというたぐいの映画の方が覚えている。幕末のテロリストを白塗りのお小姓風俗のようにやるのだから、『恐怖時代』の映画版のようなものだ。父の鴈治郎も「映画俳優宣言」をして大映専属の俳優になるという、この頃のことは、ずっとのちに『一生青春』などの本であけすけに語っている。

長谷川一夫との東宝歌舞伎が恒例となってその後永く何年も続くが、松竹の大歌舞伎にも出るようになったのは30年代も末になったころで、その頃から、歌舞伎俳優中村扇雀の姿が私の視野にはっきりと入ってくる。昭和38年9月の歌舞伎座の「松緑奮闘公演」と銘打った興行は、松緑が『千本桜』を権太の筋を除いた半通しで出して知盛と忠信をした思い出深い公演だが、そこで静をしたのが目の覚めるような印象だったのが、本当の意味での私にとっての「藤十郎事始め」だったと言える。日生劇場が開場したのが同じその年の10月で(このときが初来日のカール・ベームのベルリン・フィルがこけら落とし公演だった)、翌年の正月から猿之助、竹之丞(つまり富十郎)、訥升の9代目宗十郎に(まだ田之助でなく)扇雀で日生歌舞伎がはじまり、ここで猿之助が『冥途の飛脚』の忠兵衛で羽織落としをしたりしたが、扇雀では『天守物語』と『博多小女郎浪枕』で宗七をしたのを覚えている。(たしかこれが武智鉄二プロデュースとあった最初ではなかったかしらん。)

昭和40~50年代ごろから、つまり今の菊五郎らの三之助の台頭とともに、その親たちとの中間層が「谷間の世代」とよばれるようになった。誰それとはっきり決まっていたわけではないが、概ね大正末から昭和ひと桁、10年代の初めごろまでの生まれの面々、最終の名前でいうと、延若、雀右衛門、芝翫、富十郎、門之助、宗十郎、田之助などに、猿之助も数えられることがあったが、扇雀も数の内に入った。この人たちを集めた公演が時々(忘れた頃に!)行われたが、延若・雀右衛門の『時雨の炬燵』や宗十郎の『傾城道成寺』、延若の上野、雀右衛門の初花、猿之助の勝五郎、富十郎の筆助で『躄の仇討』などという傑作秀作もあったし、大宅壮一原作で延若が乃木将軍になる『炎は流れる』などという懐かしの珍品も見た。(羽左衛門が明治天皇で特別出演し、テレビの番組で、『明治天皇と日露大戦争』という一世を風靡した映画で明治帝を演じて評判だった嵐寛寿郎と対談したのを見たことがある。)川口松太郎作『寒紅梅』というのもあった。これは長いこと結婚するしないの状態が続いていた猿之助と浜木綿子が遂に結ばれることになったのを祝って、二人を共演させるために作った作品で、夜の追い出しだった。この年の暮れ愛児が誕生する。誰のことかは言わずもがな。こうした状況の中から、猿之助は50年代に入ると、例年4月は明治座(まだ前の建物である)を本拠に復活物を次々と手がけ(かの『伊達の十役』がその中の最大の当り狂言である)、その少し前から毎年7月の歌舞伎座をわがものとし(これは病いで倒れるまで続いた)、さらにスーパー歌舞伎を始めるなど、幾つもの路線を確立して、谷間の世代グループから抜け出し、また扇雀も、近松座を始めるなど「藤十郎への道」を驚くべき長大な展望を以って歩み始め、これもいつしか谷間の世代の色を薄れさせた。

と、この辺までくれば、あとはみなさんご存知の話ばかりになる。代表作は何か、というより、一番充実感を感じさせたのは、三代目鴈治郎を期間限定で名乗っていた、前世紀末から今世紀初頭にかけてのほぼ10年余で、つまり『一生青春』を出版したころではなかったろうか。心技体揃ったあの頃は、何をさせても凄かった。

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藤十郎以外にも訃報があった。尾上菊十郎、この人も昭和ひと桁生まれだ。前名をたしか尾上梅五郎といって、『高時』の終幕に登場して高時を翻弄する烏天狗をしていた時に目に留まったのが、その存在を認識したはじめだった。さっきちょっと書いた、菊五郎が若き日に主演した大河ドラマの『源義経』で、奥州を指して落ちてゆく義経一行を追捕しようとする追手の役で出ていたのを覚えている。(と、『演劇界』の最近号で、菊五郎が菊十郎を追悼する思い出話の中に、この役のことに触れているのを読んで、オオ、と思わず声に出た。)『暗闇の丑松』の湯屋番とか『髪結新三』の鰹売りのことは皆さんご承知とは言え、私の見た内ではやっぱりこの人のが一番、けざやかに記憶に残っている。

新派の小泉まち子さん。こういう人たちが健在であるうちは、新派はその存在を自信を持って主張することができるという、そういう一人だった。

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野球では訃報ではなく、馴染みの選手の引退が毎年この季節に出ると、一瞬、フームとため息が漏れる。藤川球児、岩隈久志、五十嵐亮太。ソフトバンクの内川は現役続行の意思と新聞で読んだが・・・。岩隈の引退で旧・近鉄の残党は現在ヤクルトの坂口と近藤の二人となった。その近藤は戦力外を通告されたというが・・・

琴奨菊。相撲取りらしい風格がよかった。前にも書いた気がするが、本当は少し先輩なのだが栃錦などと同時期に大関だった三根山という力士がいた。便々たる太鼓腹(と、昔のアナンサーはよく言ったものだ)、がぶり寄り、非力、大関から下がっても悪びれず長く相撲を取ったこと、等々々、琴奨菊と重なり合うところの多い力士だった。優勝が何回とか、連勝がどうとかではなく、こうした存在も名大関というべきだろう。

そうだ、把瑠都も引退したのだなあ…。最近はむしろ外人力士の方に、相撲取りらしい風格・風情を覚えることがよくある。気質、気っ風、気は優しくて力持ちという感覚。これも時代か・・・、近頃の、特に大学出の力士の物の言い様の尤もらしいこと。

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朝ドラ『エール』が終わったが,モデルの古関裕而への興味から最後まで見てしまった。ところで前にも何回か、駄目出しめいたことを書いたが、実際に自分が知っている「近過去」を舞台にするドラマにはどうしても、何じゃコリャ、と言いたくなることが目に付いてしまう。まあ、やむを得ないかと思えることと、もう少し注意すれば何とかなる筈と気になることとがある。最終週、JOCか何かの使者が主人公宅へオリンピックの開会式の入場行進曲の作曲を依頼に来た場面で、スーツに身を固めた使者3人が3人とも、(その1)帽子をかぶったまま玄関に入っている。他人の家に入る際は(まして、重要なことを依頼に来たのならなおのこと)、玄関先で帽子を脱いでから入るのが礼儀である。帽子をかぶったまま他人の家の中へずかずか入るのは、戦前の特高の刑事ぐらいなものだろう。(その2)しかもそのかぶり方が、3人が3人とも、阿弥陀にかぶっている。一杯機嫌で、よほど気を許した相手の前でもなければしないことで、ましてこんな場でする筈がない。他にも、長髪の軍人とか、今風の髪型の放送局のスタッフとか、挙げ出せば切りがないが、昭和30年代はもはや時代劇同様、時代考証が必要なのだろう。とすると、こんな繰り言を言うテメエはもはや時代劇時代の人間ということか。

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最後にお知らせをひとつ。近日、別枠で『眼中の役者たち(抄)』という文章を掲載することにします。歌舞伎を見るようになった昭和30年代以降、私の見た、文字通り「眼中」にいまも生きている役者たちを回想するエッセイ集です。本にしたいと思って書き始めたものですが、このご時世、棒ほど願って針ほど叶えるのも難しく、それならいっそと、かくなることとなったものです。ご愛読を賜れば幸いです。

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随談第635回 簡略版御免

月末に至って小忙しいことが重なったので、今回はごく簡略版(簡潔版?)とさせていただくことにしたい。

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国立劇場の歌舞伎は毎年10月が新年度スタートのようなものだから、今月の大歌舞伎は理屈から言えば「再開」というわけではないが、まあ、コロナ騒動以後初という意味で、再開のような気分だ。古典一本に小品がついて一部二演目で二部制、幕間があるわけだがそういうことができるのも、あの広いロビーがあればこそだろう。国立ならではの一得か。

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昨今の世の中の空気が何やらゆるんできている中で、歌舞伎座の一部一演目というやり方についていろいろな声を聞くが、世の中がゆるんできたのは政治的判断やら一般のコロナ疲れやら、人間の側の事情や都合によるもので、コロナそのものの客観情勢はじつは何も変わっているわけではない以上、固くこの方式を守り続けているのもまた、一見識というものだろう。正解は神ならぬ身の誰にもわからない。

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先月の『双蝶々・角力場』で濡髪・放駒の一番が終わった後、木戸口から一人も観客が出てこなかったのは、あの場所は無観客の興行だったに相違ない。察するに原因はコロリの流行か?

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コロナに対するスタンスは国立劇場の方が歌舞伎座よりもゆるい。新国立は更にゆるい。これは如何なる儀にや、事のついでに問い申さむ、か?

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百年前のスペイン風邪は、最も猛威を振るったのは秋からの第二波であったそうな。島村抱月が感染して死んだのは11月、松井須磨子の後追い自殺は明けて正月早々のことだった。

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縁起でもない話をしてしまった。くわばらくわばら。(と言って、イマドキの方々にもおわかりいただけるだろうか?) 

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というわけでもないが、今回はこれでおしまいにさせていただきます。次回以降、またご愛読願えれば感謝します

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随談第634回 人間万事マスクの世の中

バスに乗り合わせた50年配のおばさん風の女性が花柄のワンピースと共布のマスクをしていたり、マスク風俗も堂に入ってきた感のある一方、ノーマスクの乗客が騒いだために飛行機が緊急着陸をするというニュースがあったり、地下鉄の中でノーマスクに入墨の強面のオッサンが辺りを睥睨しながらエヘンエヘンオッホンとやっていたりする。この手の反抗族が現れるのも、マスク風靡が時代風俗として定着しつつある逆証明のようにも見える。

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九月の歌舞伎座は今回も「大歌舞伎」の看板を掲げた。吉右衛門に玉三郎、それに梅玉も出ているのだから、微塵も偽りはない。『引窓』などは、「秀山祭ゆかりの演目」と謳っている。白秋九月は、世が世ならば秀山祭の月なのだ。十月には国立劇場に菊五郎が出、歌舞伎座に白鸚が出、仁左衛門が出る。国立には菊五郎と一緒に時蔵も左團次も出るから、この三カ月でほぼ顔が出揃うことになる。(そうか、海老蔵がまだ出ていなかったっけ!)

と、これを書いているさ中に、政府から措置緩和の方針が出て、野球場は収容人数の半数まで、コンサート、歌舞伎、映画館など、観客が無言でいるたぐいのホール、劇場はフル収容でよろしいということになったが(歌舞伎の掛け声はどうするのだ? 尤も、クラシックのコンサートで曲が終わるか終わらぬかにブラボー!と絶叫する観客がこれを機になくなるのは結構なことかもしれぬ)、急にそんなことを言われたって、現に今月の興行は今まで通りソーシャルディスタンス厳守の態勢を前提としてチケットを販売しているのだし、4部制はどうするのだとか食事はどうする等等等と、そう俄かには急カーブを切るわけには行かない問題がいろいろ絡んでいる。コロナウィルス諸氏がいつ大人しくなってくれるのか、先が見えない限り如何ともし難いわけで、舞台に役者が大勢居並ぶ大曲輪の芝居には当分お目にかかれそうもない。今月第一部の『曽我対面』なども本来その手の狂言であるわけだが、いつもはずらりと居並ぶ大名連が6人しか出ないのはソーシャルディスタンス故であろう。大どころの面々はともかく、いわゆる下回りの役者たちの出番が縮小されるという光景を、すでに再開以来、いろいろな形で目にしているが、番付(例の無料のリーフレットである)の出演者連名を見ると、その割にはかなり大勢の名前が載っている。楽屋での仕事等々、それなりの配慮がなされてのことと推察される。

さてこの『曽我対面』だが、役者の粒が小さめとは言え好配役を揃え、梅玉の工藤、魁春の虎、歌六の鬼王、又五郎の朝比奈、錦之助の十郎など当代での一級品として賞翫に値する。松緑の五郎も高音がきれいに出るようになって結構だが、セリフ尻に駄目押しでもするような不思議なアクセントが付くのが耳障り、玉に瑕というものだ。ところで歌六の鬼王が袴の股立ちを取って出る。もう今後は、白鸚や吉右衛門が大ご馳走で出るということでもあれば格別、これを規範にするべきであろう。

第二部の『かさね』が思いのほかの好舞台だった。猿之助のかさねが、若い時に身につけた女方のこなしが良き頃合いに熟れてきているのに加え、いまとなっては加役としての女方ならではの、こしらえてかかった濃厚な色気がうまい具合に熟成して、とろみの具合が絶妙のシチューのような味わいだ。本来長く複雑な筋を持った狂言の一幕ならではの「よき不純物」をうまく発酵させている。何が何だかよくわからないような背景にある物語が、それ自体はどうでもいいようなものながら、不気味な背景となって効いている。それを引き出したのは猿之助の加役としての女方の芸である。(そういえばかれこれもう10年余の以前、海老蔵の与右衛門とロンドンへこれをもって出かけて、ちょいとした評判を取ったことがあったのを思い出した。当時はまだ亀治郎で、海老蔵よりひと回り小さい扱いだったが、見せてもらった現地の新聞評は亀治郎の記事の方が多かったように覚えている。)幸四郎の与右衛門の色悪ぶりもなかなかのもので、してみると先月の与三郎の期待外れは一体どういうわけだったのだろう? ところでこの『かさね』には、尾上右近ならぬ清元栄寿大夫が「出演」しているという、観客にとっては余禄がある。
第3部が「秀山祭ゆかり」の『引窓』である。吉右衛門が濡髪に回って菊之助が与兵衛、雀右衛門のお早、東蔵のお幸という水も漏らさぬ布陣で、コロナ禍以来ひさびさの丸本狂言である。ようやく「芝居」を見たという思いがする。新聞評にも書いたが、菊之助の与兵衛が、つい先ごろまで廓に出入りして遊女を引かして女房にした男という軽さと甘さがあるのが面白い。

さて第4部が「映像×舞踊特別公演」と銘が打たれて『口上』に『鷺娘』と番付にある。所要時間60分の由。『鷺娘』はそれほど長い踊りではない。ハテ如何なる儀にや、と思ったら、まあ何のことはない、前半の「口上」というのは、玉三郎ご本人がある時は生身で、またあるときは映像中に登場して、バックステージツアーよろしく歌舞伎座の奈落を案内してくれるというもの。後半の『鷺娘』は、白無垢の衣裳の前段と後段の部分は実演(という言い方も妙なものだが)、中段の、衣裳を引き抜いて町娘の姿で踊る華やかな場面は「平成17年5月歌舞伎座にて収録」とある映像でつなぐ。当然ながら、杵屋直吉・杵屋勝国以下の長唄・三味線・鳴物も映像の内だから生の演奏ではない(この落差もひっかかる)。幕切れは生身の玉三郎が瀕死の白鳥式に倒れ伏して幕となるのだが、と、いったん下りた緞帳がまた上がって、半身起き上がった玉三郎が満場に向かって手を振る。と、万雷の拍手の中、再び緞帳が下りるが拍手鳴りやまず、また緞帳が上がる、今度は立ち身で玉三郎が手を振る。と、三たび緞帳が下りて打出し、という次第。これを何とや言わむ? 新聞には「玉三郎リサイタル」と書いたが・・・。ただひとつ、「口上」の冒頭で玉三郎が、私は『道成寺』も『鷺娘』も、旧歌舞伎座の舞台で舞い納めた心算でおりますと述べていたことを、聞き逃すべきでない一言として書き添えておくべきであろう。もう一つ、観客の入り、満場の拍手、いずれも今月4部の内で一番であったことも。

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今月はもう一つ、国立劇場の文楽が、二月以来の半年ぶりの公演である。二月は、何とか楽日まで無事終えたところで、各劇場閉鎖という事態となったのだった。最近あまり耳にしなくなった言い草でいえば、滑り込みセーフというやつである。で、五月は緊急事態宣言中だったから、今回は半年ぶりということになる。それかあらぬか、各演目各演者、溜まっていた鬱憤を晴らそうというかのような熱演又熱演である。中でも、呂勢太夫・清治、呂太夫・清介の『絵本太功記』尼ヶ崎の段がこれぞ文楽と言うべく、就中、大詰の清介のタタキの凄まじさは往年の先代寛治を偲ばせる快演で、お陰でこちらも溜飲が下がった。第二部の『鑓の権三重帷子』は随分久しぶりのような気がするが、いま見るといかにも戦後の近松礼賛ブームの中で陽の目を見た作ということが改めて思われる。「数寄屋の段」で咲太夫が休演、思えばこの人もかれこれ八十翁のわけだ。4部制とは言い条、第4部の『壷坂観音霊験記』には「文楽入門」となっていて解説がつく。鑑賞教室とは別の、大人の初心者向けらしい。つまり今月の文楽は、正しくは三部制+初心者講座という構成である。なお、太夫・三味線はマスクその他一切なし、文楽の義太夫なのだから、これは見識というべきであろう。その代わりもちろん、床の真近の席には客は入れていない。

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国立の能楽公演で袴能があった。喜多流の『忠度』で、シテ・ワキその他の演者、地謡、囃子すべて紋付袴である。地謡は、再開した7月の公演では黒の覆いをつけていたが今回はなし、人数も八人と正規の人数だった。面も衣裳もつけない袴能には独特の良さがあるが、それだけに「言葉」に頼る面が多くなる。普段はさほど気にならない、シテの声が大鼓・小鼓の掛け声に消されがちになるのが玉に瑕である。しかし今回、『忠度』以上に感嘆したのは山本東次郎の狂言小舞『住吉』、わずか6分に神髄があった。

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以前からひそひそ囁かれていたものの、ああやっぱりあの噂には根も葉もあったのだということを証明するような事態で退陣劇があったり、寝業師の暗躍があったりの幾幕かの芝居があった末に新首相が誕生した。まあ要は、先人にべったりの腹心と見えていた人物が、胸中密かに「俺ならああはするまい」「俺ならこうするが」といった目をどれだけ秘め、養っていたか、であろう。木下藤吉郎が、信長に「愛い奴」と思われるために200パーセント服従、300パーセント以上の忖度・献身をして出世双六を躍進しながら、俺ならああするこうする、という目を養っていたように、である。

その新内閣人事の下馬評をあれこれするテレビ番組で、二階幹事長が「続投」といった言辞が飛び交ったが、二階氏はいつ野球の選手になったのだろう? 「登板」「降板」「続投」どれも野球用語だと思っていたら、民放のワイドショーならまだしも、NHKのニュースでも「××氏続投」と分別顔でキャスターが言っている。もはやそれは、「比喩」という域をはるかに逸脱している。もしかすると、比喩とすら思って、いや感じていないのかもしれない。

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その野球の話だが、中日ドラゴンズが1月に死去した元監督の高木守道氏の追悼試合をするという小さな記事を見つけた。そうだった。2月に野村・関根といった往年の名選手のことを書いた際に、うっかり名二塁手高木死去のニュースをド忘れしていたのである。
 私などの世代の者が小学生のころ後楽園球場でプロ野球を知るようになった当時、名二塁手といえば巨人の千葉茂ということになっていたが、戦前からの大人の野球通には苅田久徳という名前の方が近しかったろう。こういう喰い違いは、時代時代、また世代世代で如何ともし難いことで、むしろこうしたことの繰り返しこそが、プロ野球でも歌舞伎でも大相撲でも、伝統ある「芸」の世界らしいともいえる。高木守道は、昭和30~40年代、つまりテレビ中継で野球を知るようになったファンが急増した時代に、二塁手という、いかにも「通好み」のする「味な」ポジションのイメージを植え付けた名手だったというべきだろう。もっとも今度の追悼試合は、長嶋巨人と優勝を争った中日監督としての高木氏を偲ぶものであるらしい。

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プロ野球各球団のユニフォームが何種類もあるのは、かつてホームチーム用とビジター用と2種類だけだった昔を思うと隔世の感だが、そのくせ、中日・ヤクルト戦などでは、両チームとも、上がブルーに下が白のツーピース、もちろん色合いに違いがあるとは言え、パッと見には同じように見える。本来、敵と味方を一目瞭然で識別できるためのユニフォームなのだから、気が利かない話だ。巨人ならオレンジ、広島カープなら赤という具合にチームカラーを使ったのが各球団にあるが、何故か概して感心しないデザインが多い。阪神の黄色いのなど、虎がバターになってしまいましたという『ちびくろサンボ』のラストみたいでいかにも弱そうだ。縦縞模様にしてこそのタイガースではあるまいか。

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野球の選手が何かの拍子に帽子を脱ぐと、オヤ、この選手はこんな顔だったのかと意外の感に襲われることがよくある。今シーズン限りで引退を表明した藤川球児の素顔は、今度初めて知ったわけではないが、しかしやはり、改めて、ヘーエと思わされた。素顔で引退の弁を語る藤川を見ていると、発言の内容といい話しぶりといい、威勢のいい快速球を投げるだけの人物でないことを物語っている、ように見える。

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コロナ後はじめて国立演芸場に出向いた。特別企画公演として林家正雀が「彦六ばなし」と題して、師匠の林家彦六となって死んだ八代目正蔵ゆかりの噺をする会である。一時開演、4時15分ごろ終演というのが演芸場本来のカタチだが、一時開演2時半ごろ終演とある。(もっとも実際には、眼目の『梅若礼三郎』が長講50分で、20分ほどはみ出したが。)やはり入り口でシュッと吹きかけられた手をもみもみし、体温測定を施され、自分でちぎった半券を箱に入れ、プログラムは各自お取りください、席も前後左右には人なく、お陰で前の人の頭が邪魔にならず安心して聴ける、というところはご多聞に漏れない方式である。もちろんマスク着用は言うにや及ぶで、日本的完璧主義はいまや完全に徹底、定着している。

正雀を聴くのは随分久しぶりだ。師匠彦六について芝居噺をするというので早くから注目はされていたが、口跡が固くてお世辞にもうまいとは言えなかった。しかしケレン味のまったくない真摯な姿勢には好感を覚えていた。久しぶりに見る高座は、綺麗な銀髪に風格も感じさせ、芸風は変わらない中にもゆとりが出来て、見事ひとかどの噺家になり遂せている。特に師匠に似せているわけではないにもかかわらず、『梅若礼三郎』という古風な人情噺を語り込んで行くうちに芸の姿がかつての正蔵の芸と重なり合う具合は、こういうあり方こそ、芸の継承として本物というべきであろうと思わされる。近ごろ稀な、静かで快い感銘を覚えた。

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神保町シアターで原節子特集をやっていて「東京の恋人」が上映されるというので見に行きたかったが、上映時間がうまく都合がつかず断念した。ここ数年、何年かごとに出ているので再会はすでに何度か果たしているのだが、見る機会はそうあるわけではないから残念には違いはない。この映画は昭和27年7月の封切りの時に小学生だった夏休みに見ていて、同じ年5月の高峰秀子の『朝の破紋』と共に私にとってはこよなく愛惜置く能わざる作品なのだ。映画史上の定番の評価としては、まあ中の中かせいぜい中の上という作なのだろうが、諸人知らぬものない大家名匠の手になる名作とはまた違った、いとおしさがある。もっとも『朝の波紋』は五所平之助監督だが、『東京の恋人』の方は千葉泰樹という手練れの職人監督で、二年前の『山の彼方に』などと共に、多少落ちつきを取り戻しながらも戦争の後遺症が傷口を開いたまま、という時世を、問題作話題作の重苦しさをすらりと避けた娯楽作に仕立てているところがミソである。

『朝の波紋』もそうだが日本が独立を回復した年に作られたこの二作には、戦前には高級住宅街(お屋敷町と言ってもいい)であったところが焼け跡のままになっている情景が映し出される。(終戦から7年経った東京の街の実態はまだそんなものだったことがわかる。)そこに掘立て小屋を建ててやもめ暮らしをしている三船敏郎が、バリっとした白の麻服にパナマの中折れ帽という紳士然とした夏姿で銀座に現われる。十朱久雄と沢村貞子の夫婦が経営する宝石店に、ウィンドウに飾るためのコピーの指輪を製造、納めに来るのを業としている。その店の前に画架を立てて道行く人の似顔を描いて暮らしを立てているのが原節子という設定で(街角の似顔絵描きというのも、当時の都会風俗のひとつである)、チェック柄のシャツにズボンといういで立ちである。(スラックスなどという言葉は当時の日本人はまだ知らなかった。)その宝石店の二階にオフィスを構える、折から流行り出したパチンコの玉の製造でちょい成金になった会社の社長が、まだ「名優」になる前の森繁久彌、その女房が清川虹子、行きつけの飲み屋の女将が藤間紫、不幸にもまだ夜の女の境涯から抜け出せずにいる娘が杉葉子(つまり銀座にまだその手の女性が徘徊していたわけだ)・・・といった配役で、三船の住む元お屋敷町の焼け跡以外は、銀座と、勝鬨橋を渡った先の(原節子や杉葉子の住まう)貧しいが人情味ある街からカメラは外に出ない。(それにしてもみんなまだ若いこと! 小泉博が靴磨きの少年役で、その弟分の役の井上大助という当時人気の少年俳優もなつかしい。)私は原節子の格別のファンでもなければ、まして女神の如くに拝跪する好みも持たないが、小津作品でいえばこの前年が『麦秋』で翌年が『東京物語』という、彼女の一番盛りの狭間に作られた、人のあまり知らない谷間に咲く花として、このチェックのシャツにズボンをはいた彼女を一番好ましく思っている。三船敏郎も定評ある時代劇の剣豪も悪くないが、こうした現代劇で少々マッチョな都会紳士を演じているときが一番格好いい。もうひとつ、最後にして最小ならずに言い忘れてはならないのは、この映画の一番の主役が勝鬨橋であることで、時間になると遮断機で都電・車・歩行者を止めて橋の開閉をする様子を見るだけでも、一見の価値は充分ある。東京タワーの出来た昭和33年を基点に30年代を「昭和レトロ」一色に塗りこめてしまうのが、いつのまにか世の「定番」になってしまっているが、サンフランシスコ講和条約が発効しGHQが帰って行った昭和27年をもっと注目すべきだというのが私の「戦後昭和論序説」で、美空ひばりの「お祭りマンボ」がこの年のシンボル曲である。(因みにあの曲では、お神輿を担ぐ掛け声は「ワッショイワッショイ」であり、「セーヤセーヤ」ではない。)

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本当はもうしばらく前に書くべきだったが、訃報欄にウィリー沖山という文字を見つけた。特に関心があったわけではないが、こういう名前は、いかにもある時代をささやかながら体現しているから、ほんの数秒間にせよ、ある種の感概を引き起こされる。藤木孝などはひと頃駒込にあった三百人劇場でシェイクスピアなどやっていたのを何回か見ているから、多少の感概を呼び覚まされるが、もっとももうこちらが一定の年齢に達していたせいもあって、その名と共に蘇る同時代性という意味では、ウィリー沖山に及ばない。岸辺シローとなると更にそれだ。もっとも守屋浩となると、テレビが電気紙芝居といわれていた頃の安手な感覚が、昭和30年代という、ある種の半端な、かるが故に時代性を強烈に宿していた時代の表層を彩った多くの名前のひとつとして、今となっては奇妙な懐かしさがある。ついこの間死んだ弘田三枝子などと共通の時代の匂いである。

山本寛斎は、ようやく売り出してテレビでちらほら顔を見かけるようになった当時、山手線の同じ車両に乗り合わせたことがある。人目を集めるための奇抜なヘアスタイルや服装で売り出しに努めていた頃で、エラくなってからの寛斎氏より妙にいとおしい。

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ジュリエット・グレコの訃報か。ふーむ。グレコ自身はいいと思うが、それを取り巻くおパリ・おフランス人士が気になるなあ。

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訃報とは違うが、貴景勝が北天祐の娘と婚約というニュースがあって、久しく名を聞かなかった北天祐という名前が紙面に載った。北天祐はいかにも大物らしいムードを漂わせた強豪大関だったが、当時年末のテレビの恒例の番組で、各界の人気の運動選手(アスリート、などという聞いた風な言い方はまだ普及していなかった)が、何段もの跳び箱をしたり綱引きをしたり、大騒ぎをする番組に出演して思わぬ大怪我をしたのが元で引退することになったのだったと覚えている。それにしても、千代の山→北の富士→千代の富士→北天祐と、あのころまでは相撲大国北海道の出身の強豪力士の系譜がくっきりと連なっていたことが思われる。

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朝ドラの『エール』がいよいよ軍歌作曲の時代にテーマが移り、「露営の歌」と「暁に祈る」をめぐる件が既に放送になった。ここらがこのドラマのヘソの部分だろうが、「露営の歌」を長調の曲にという当局の要望を押し切って短調で作曲したという件があった。それで思い出すのは、近年忘れられたかのような名前だが、ひところテレビ文化人として知らぬものもない存在だった高木東六という音楽家が、この人は戦争協力を避け軍歌もやむを得ず一曲だけ、それも短調の陰々滅々を嫌って長調で作曲した、というのをしばしば広言していたものだったが、古関裕而を念頭に置いて言っていたのかどうかまでは分からない。

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IOCが、何が何でも来年にオリンピックをやる気らしい。「人類がコロナウィルスに打ち勝った証し」というのを錦の御旗とするのだろう。ウィルスは人間が藪をつついたから出てきたまでで、向こうから戦いを挑んでいるわけではないが、ワクチンができるか否かに関わらず開催するというのだから、ま、そんなことはどうでもいいのだろう。戦時中、「この一戦、この一戦、何が何でも勝ち抜くぞ」という歌があったのを思い出した。あの手の歌は軍歌とはまた別に、銃後の国民を鼓舞するために、戦中無数に作られたのだった。

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信号待ちのこちら側に老夫婦、対岸に自転車にまたがった巡査が二人。老夫婦は共にマスク着用、巡査は、一人はしているがもう一人はノーマスク。そこで老夫婦の会話。「オヤ、お巡りさんはマスクがなくてもいいのかな」と、これは私がとある街角での実見である。

大相撲千秋楽の優勝力士表彰式に先立つ『君が代』斉唱にあたって、「皆さまマスクをしたまま声を出さず、心の中でご唱和ください」と場内アナウンスが言っている。

マスクかな 嗚呼マスクかな、マスクかな・・・ですかね。

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前回、8月に映像配信された吉右衛門の『須磨浦』の評を本紙夕刊に掲載の予定と書いたが、その後、事情で9月8日付の電子版掲載となった。ちょっとお詫びを申し上げる次第。

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