随談第670回 さよなら国立劇場

国立劇場がさよなら公演を終了し、閉場式を終えた。その開場から閉場迄を見た劇場を目の当たりにしたのは、また観客としての関りの深さを思いながらその終焉を見送るのは、これが初めてである。仕事柄いろいろなものの本などによって得た知識からすると、ひとつの劇場の「生涯」というものは、実はさほど長いものではないようだ。国立劇場の57年という「生涯」は、それからすると必ずしも短いわけではない。だが終わってみると思いのほかに感慨が沸いてくるのは、歌舞伎座とはまた違った様々な記憶の故であろう。漠然と思っていたよりはるかに多くの、また豊かな記憶を、この劇場に負っていたことを実感しないわけには行かない。... 続きを読む

随談第669回 遥かなる記憶の底で

猿翁追悼の文を1400字ほど朝刊の文化面に書いたが、もうちょっと私ごと風に書いておきたくなった。そもそも「二世猿翁」というネーミングは私にとっては100パーセント建前上の名前で、「彼」は三代目猿之助以外の何ものでもないし、記憶の中のその面影と言えば、団子(三代目である)時代の秀麗な若者の像がまず甦る。... 続きを読む

随談第668回 目にはさやかに見えねども

地球温暖化ではなく○○化であるという、最近言い出された説には同感するところ大いにあるけれど、が、それはそれとして、35度だ36度だという天気予報士諸氏に合いの手を打って猛暑ぶりをいやがうえにも強調する各局のアナウンサー諸氏の嬌声?にもかかわらず、この数日、やはり秋は忍び寄っているのだと実感している。数字で表わされる温度だけが季節のバロメーターではない。35度という猛暑の中にも秋の気配は肌に感じられる。秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる、という古歌はやはりいまなお健在なのだ。「涼」という感覚、ひいては概念は、気温という数字によって表されるべきものではないと、たしか寺田寅彦で読んだように覚えているが違ったかしらん。... 続きを読む

随談667回 ふたりの人間国宝

中村歌六が人間国宝に認定された。近ごろ嬉しいニュースである。実は私はずいぶん久し昔からこの人のひそかな贔屓だった。いまはゆっくり論じているゆとりがないので、せめてという思いで『劇評』の次号に短い「讃」を書いたからお読みいただければ幸いである。... 続きを読む

随談第665回 五月は長し

長い5月だった。明治座を見たのが初日の三日、歌舞伎座が六日、鶴澤津賀寿が人間国宝になったのを祝う会があったのが七日の日曜、そのあとに前進座の公演や文楽を見に国立劇場へ行く日が続くなど、まあ初めの二週間はいつもとさして変わらない足取りで日が過ぎていったのが、にわかに慌ただしく時が過ぎ、そのことが却って、振り返って日の経つのを長かったと感じさせる。理由はもちろん、例の一件である。しかし「あのこと」は、ここには書くまい。ここには、いつもと変わらぬ閑文字を連ねることにしよう。... 続きを読む

随談第664回 『噫! 左團次、仁は人なり』

というタイトルで今月のブログを書き始めたのだが、木挽堂書店の小林順一さんから『劇評』誌に左團次の追悼文を書いてくれないかと話があったので、そちらに振り替えることにして引き受けた。がまあ、折角書きかけたところでもあるし、予告PRの意味合いも含めて、書き出しの一節を引き写すことにしよう。... 続きを読む

随談第662回 雑学大学

正式名称は東京雑学大学、私が関わりを持つようになったのは20年ほど前からだがそのころ既に確固たる活動を続けていた。設立者は大正の昔の早稲田の名ランナーで箱根駅伝初期の頃に、いまの河野太郎大臣の祖父の河野一郎などという人達と共にメンバーであったそうな、という大変な人で、私の知った頃もまだ健在だった。その名の通り「雑学」だから、専門などという小せえことに捉われない。森羅万象、硬軟大小、興味深いことならあらゆることが学びの対象になる、それを学ぼうという、即ち「雑学」のための大学である。対象は、個々それぞれさまざまな仕事で世に何らかの貢献して既に現役から離れたが、まだまだ学ぶ気持は旺盛に持っている、といった年配の人たち男女を問わず、そういう人たちのための「大学」をこしらえて、詳しい経営方法は知らないが財源はおそらく参加費用だけだったのではあるまいか。講師はさまざまな分野から伝手を通して、その都度都度に声を掛けられて授業を引き受けるわけだが、講師料はゼロ、即ち無報酬。但し、授業終了後、会場近くの中華料理店で(と決まっていたわけでもなかろうが、中華料理のことが多かったような気がする)でスタッフ(というのも、会員からの有志であろう)と打ち上げの会食をする、その費用はタダ、つまりご馳走になる、というのが決まりだった。... 続きを読む