地球温暖化ではなく○○化であるという、最近言い出された説には同感するところ大いにあるけれど、が、それはそれとして、35度だ36度だという天気予報士諸氏に合いの手を打って猛暑ぶりをいやがうえにも強調する各局のアナウンサー諸氏の嬌声?にもかかわらず、この数日、やはり秋は忍び寄っているのだと実感している。数字で表わされる温度だけが季節のバロメーターではない。35度という猛暑の中にも秋の気配は肌に感じられる。秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる、という古歌はやはりいまなお健在なのだ。「涼」という感覚、ひいては概念は、気温という数字によって表されるべきものではないと、たしか寺田寅彦で読んだように覚えているが違ったかしらん。... 続きを読む
随談667回 ふたりの人間国宝
中村歌六が人間国宝に認定された。近ごろ嬉しいニュースである。実は私はずいぶん久し昔からこの人のひそかな贔屓だった。いまはゆっくり論じているゆとりがないので、せめてという思いで『劇評』の次号に短い「讃」を書いたからお読みいただければ幸いである。... 続きを読む
随談第660回
今回は都合で休みます。お詫び多謝。... 続きを読む
随談第665回 五月は長し
長い5月だった。明治座を見たのが初日の三日、歌舞伎座が六日、鶴澤津賀寿が人間国宝になったのを祝う会があったのが七日の日曜、そのあとに前進座の公演や文楽を見に国立劇場へ行く日が続くなど、まあ初めの二週間はいつもとさして変わらない足取りで日が過ぎていったのが、にわかに慌ただしく時が過ぎ、そのことが却って、振り返って日の経つのを長かったと感じさせる。理由はもちろん、例の一件である。しかし「あのこと」は、ここには書くまい。ここには、いつもと変わらぬ閑文字を連ねることにしよう。... 続きを読む
随談第664回 『噫! 左團次、仁は人なり』
というタイトルで今月のブログを書き始めたのだが、木挽堂書店の小林順一さんから『劇評』誌に左團次の追悼文を書いてくれないかと話があったので、そちらに振り替えることにして引き受けた。がまあ、折角書きかけたところでもあるし、予告PRの意味合いも含めて、書き出しの一節を引き写すことにしよう。... 続きを読む
随談第663回 縁は異なもの・ホットなニュースとむかし話
随談第663回 縁は異なもの・ホットなニュースとむかし話... 続きを読む
随談第662回 雑学大学
正式名称は東京雑学大学、私が関わりを持つようになったのは20年ほど前からだがそのころ既に確固たる活動を続けていた。設立者は大正の昔の早稲田の名ランナーで箱根駅伝初期の頃に、いまの河野太郎大臣の祖父の河野一郎などという人達と共にメンバーであったそうな、という大変な人で、私の知った頃もまだ健在だった。その名の通り「雑学」だから、専門などという小せえことに捉われない。森羅万象、硬軟大小、興味深いことならあらゆることが学びの対象になる、それを学ぼうという、即ち「雑学」のための大学である。対象は、個々それぞれさまざまな仕事で世に何らかの貢献して既に現役から離れたが、まだまだ学ぶ気持は旺盛に持っている、といった年配の人たち男女を問わず、そういう人たちのための「大学」をこしらえて、詳しい経営方法は知らないが財源はおそらく参加費用だけだったのではあるまいか。講師はさまざまな分野から伝手を通して、その都度都度に声を掛けられて授業を引き受けるわけだが、講師料はゼロ、即ち無報酬。但し、授業終了後、会場近くの中華料理店で(と決まっていたわけでもなかろうが、中華料理のことが多かったような気がする)でスタッフ(というのも、会員からの有志であろう)と打ち上げの会食をする、その費用はタダ、つまりご馳走になる、というのが決まりだった。... 続きを読む
随談第661回 嗚呼!自己責任
自己責任という妙にガチガチした言葉が日常に入ってきたのが今世紀になってからなのは確かだろう。中東などの戦闘地域に入るのは自己責任においてなすべきである、というようなことがしきりに言われたのがかれこれ20年の「昔」だから、自己責任なる語が日常語となったのもむべなるかなとも言えるわけだが、われわれ旧弊人には異物が混入したような感がいつまでもつきまとう。... 続きを読む
随談第660回 抜けば玉散る天秤棒
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隋談第659回 噫! 忠臣蔵
11月の国立劇場の歌舞伎公演は、国立劇場察するに余りある苦心の企画「歌舞伎&落語・コラボ忠臣蔵」というので、春風亭小朝の『殿中でござる』と『中村仲蔵』のあと芝翫が『五段目・六段目』の勘平をやったが、(これだと実は、小朝と競演したのは歌六の定九郎ということになるわけだが・・・)、いわば「小朝流忠臣蔵論」ともいうべき『殿中でござる』は菊池寛の短編を小朝流に?み砕いたものらしいが、釈台を置いての、つまり「講釈」である。討入がテロと見做されるようになった今日、『忠臣蔵』を演じる機会は少なくなるだろうというあたりが、菊池寛×小朝÷2、というところか。大佛次郎が『赤穂浪士』を書いたのが昭和初年、池宮彰一郎が『四十七人の刺客』を書いたのが平成初年、大河ドラマで忠臣蔵を出した最後が西暦2000年、即ち20世紀最後の年(大河版忠臣蔵としてこれが何作目だったろう? すなわちそれまでは、「忠臣蔵物」は戦国物、幕末維新物と並んで大河ドラマの常連メニューだったのだ。)つまり、昭和から平成、さらに20世紀末までの4分の3世紀の間に「義士」が「浪士」となり、遂には「刺客」となったわけである。今日、日常的レベルで「赤穂義士」という言葉はほぼ絶滅、すなわち「死語」と化し、「赤穂浪士」という言い方が、大佛次郎がかつてそこに籠めた暗喩は雲散霧消、何の批判も感傷もないフラットな用語として、何気に(!)使われるようになったのが昭和末期以降、さらにそれを「刺客」と呼ぶに至ったのが平成初年、すなわち20世紀末ということになる。(因みに、10月歌舞伎座で松緑が講釈種の新作として演じた『荒川十太夫』は、堀部安兵衛を「義士」として見る上に成り立っているわけだが、『劇評』第8号の狂言作者竹柴潤一氏の言によると、言い出しっぺにして主演者である松緑から「『元禄忠臣蔵』が通しがあったとして『大石最後の一日』の後につけて上演してもおかしくないようにしたい」と注文があったという。フーム。「義士」と「浪士」さらには「刺客」との間に、こういう間隙があったということか。... 続きを読む