随談第626回 ささやかなる終活 -ウィルス騒動のなかで-

じつはまたしてもパソコンの故障があって、今回も休載かとあきらめかけたのだったが、幸い、思ったより軽症で早く回復したので何とか間に合ったのはよかったが、いろいろ書く材料の心づもりをメモしておいたのが、野村監督もましてや喜多村六郎も、コロナ・ウィルス騒ぎの前には吹っ飛んでしまった。九年前の天災も春浅い3月、今回も3月に山場が来そうな形勢になっている。人間、時には災難に見舞われて高慢やらうぬぼれやらの鼻をへし折られたり、肝を冷やしたりすることも悪いことではない、とは思いはするものの、事態がここまでくると洒落どころではなくなって来る。

それにつけても、連日テレビのワイドショーで侃々諤々やっているのを見ていると、つくづく、日本人にもいろんな人種があるものだと感心することになる。大音声族・したり顔族・定番反応族・ひとひねり族その他その他・・・人類学ヒト科分類法の原材料に事欠かない。

初動対応に失敗したことへの挽回策かどうか知らないが、要請という名のお上の命令によって、各劇場の三月興行が軒並み初日を遅らせることとなった。国立劇場が15日まで、松竹・東宝系・明治座はほぼ10日まで、という微妙な差異は、それこそ阿吽の二字、によるものだろう。お陰で、三劇場に歌舞伎がかかるこの月、歌舞伎座と明治座に各一日、国立劇場に一日半、合わせて4日費やすことを予定していた三月第一週は、小学生並みに自宅でお勉強ということになった。まあ、遅れに遅れている原稿執筆を挽回するチャンスがこれだけまとまって到来したのは、コロナ・ウィルス大明神のお陰と思って精進することとしよう。

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なるべくならしないですませたいと思っていたマスクてふものを我もしてみむ、ということに遂に相成った。小学生の時以来だから、まあ、半世紀ぶりどころではない、絶えて久しい体験である。九州だったかで、マスクをするしないで乗客同士で諍いが始まり電車が緊急停車したというニュースを聞いて、恐ろしい世の中になったものだと怖くなった、というのもひとつの遠因かも知れない。

マスクというと思い出すのは、大学紛争盛んだった当時、ヘルメットにマスクというのがゲバ棒学生の定番スタイルだったが、そんなある時、山手線のどこの駅だったか忘れたが、前の電車が出て行ったあとしばらく閑散としていた隣のプラットホームに新たに電車が停車、ややあって発車して再び隣のホームが目に入った途端、こちらのホーム側からオーっと驚きのどよめきが起こった。何と、隣のホームにヘルメットにマスク姿の学生が鈴なりになってひしめいている。たぶん、どこかへ集団で移動する途中だったのだろうが、不思議な夢を見ているようだった。

これはわりに最近のことだが、テレビの番組で、もちろん平時の話だがマスクをしていないと不安だというのだったか、マスクをしていると安心だというのだったか、とにかくそういう人の意見というのを聞いたのが、なんとなく記憶に引っかかっている。マスクをしているのを格好いい、と考える人もあるらしい。ほんとに、人さまざまとはこのことである。まあ、鞍馬天狗の頭巾だってマスクと言えばマスクだろうし、なるほどあれは格好いい。「怪傑黒頭巾」というのもあったが、あれは鞍馬天狗が流行り出してから出来た亜流であろう。アラカンの鞍馬天狗の映画に御高祖頭巾というのをかぶった八丁礫のお喜代という女賊が出てくるのがあったが、あれは、冬の女性のファッションとして秀逸なものだったと思う。どなたか、現代によみがえらせ、流行らせてもいいのではあるまいか。

鞍馬天狗の頭巾はふつう宗十郎頭巾と呼んでいるが、『白浪五人男』の「浜松屋」の場で日本駄右衛門がかぶっているのが本来のもので、あれを基にアラカンの嵐寛寿郎が映画の写りがいいように工夫・改良したのだと、これはご本人が生前、テレビで喋っているのを見たことがある。なるほど、日本駄右衛門の頭巾では敏捷軽快な感じはないから鞍馬天狗には似合わないだろう。「浜松屋」の場の駄右衛門は、二階堂信濃守の家中の玉島逸当なる身分ある武士という触れ込みで浜松屋の客になっているのだから、いわば重役さんのお忍びの姿なわけだ。

ところでそのアラカンが亡くなってもう大分になるが、かつて少女のころに杉作の役で共演した松島トモ子さんが、しばらく前、アラカン宅へ焼香に赴いた時のことを新聞に書いていた小文が忘れ難い。晩年のアラカンが質素な暮らしをしていたのは知られていたが、タクシーに乗って探しても運転手にもわからない。大分ぐるぐる回った挙句にようやく見つけた家は本当に小さなもので、家具も何もない中に、ぽつんと、あの鞍馬天狗の頭巾が一つ、置いてあったという。

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ところで、と続けて書き出すことになるが、このほどふと思い立って、アラカンの映画ではなく、大佛次郎の小説の「鞍馬天狗」を読み返してみようと思い立って、電車の中でぼつぼつ読み始めている。奥付を見ると、昭和26年発行とある中央公論社版で、これはいかにも懐かしい。終戦後まだ間もない、今から見ると質素なものだが、中村岳陵装丁の趣味の良さはちょっとしたものだ。我が書棚に埃をうっすらかぶっていたこの本自体は、のちに古本で買ったものだが、この版本は、中学生の時に読みふけったバージョンそのもので、さまざまな記憶が伴われ蘇ってくる。私にとって、初めて読んだ大人向けの小説である。とまあ、こういうのも、我がささやかな終活の内だろうか。

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隋談第625回

遅ればせながら新年のご挨拶を申し上げ候。新元号第二年の「春」である。この前、新聞の電子版に載せる原稿に「新元号の新年」と書いたら、今年は令和二年だぞ、というような突っ込みが入るおそれもあるから「新年」と言わない方がよいのでは?という注意があった。む?と思いはしたが、余計なトラブル招くまい、と道成寺の坊さん達の舞い尽くしの教えに倣って、忠告に従うことにした。

さてその令和第二年の春芝居(もしくは初芝居)、東京での四座すべての評を載せる枠がないというので、どれの評を書くか、見てから決めようということにして、結果、歌舞伎座と浅草公会堂ということになった。それぞれについては掲載紙を見ていただくことにして、浅草歌舞伎のあのメンバーで『寺子屋』『太十』『七段目』とバリバリの丸本時代物を三本も出して、それぞれに相当の成績を上げたということは天晴れというものだろう。昨夏「朝日」紙上で梅枝が言ったという、歌舞伎役者がすれば何をしたって歌舞伎なのだ、とかつて初代白鸚さんが言ったという名言は今や過去のこと、という若手俳優としての率直な発言が、じわじわと若手たちに輪を広げ始めた表れと見るのは甘過ぎるか?

それと直接の関連はあるまいが、伝統歌舞伎保存会の研修発表会が今月一八日にあって、研修生上がりの若手たちで『五・六段目』をするのを見たら、これまたあっぱれの好舞台だった。エライ人たちでやると芸の面白さに隠れて見えなくなる芝居そのもの骨格が現われる。改めて『忠臣蔵五・六段目』というものが作品として如何に優れたものであるかを再認識したが、そう思わせた出演者たちの努力と好演を称えよう。と、もう一つ、教えも教え覚えも覚えである以上、教えるべきことが今もきちんと教えられているのだということを、再確認できたことも喜ぼう。
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浅草公会堂の花形歌舞伎は例によって日替わりの挨拶がある。私の見た日の担当は米吉だったが、いや喋ることしゃべること。水の流れるが如し。TALKという英語が日本語のトークとして定着したのはいつごろからだったろう。あの頃から日本人が、ひいては歌舞伎が変わってきたという言い方もできるに違いない。歌右衛門みたいに、小さな肺活量の胸をゼイゼイさせながら、三階席だとよく聞き取れない小音(という言葉もいつのころからか劇評でも使われなくなった)で、うねうねとセリフを言う役者はいなくなった。軽く、なめらかな歌舞伎。米吉は軽やかにトークを続ける途中、ちょっとごめんなさい、さっきから気になってしょうがないんですと言って立ち上がると、最前、幕の裾をまくって舞台中央に平伏した姿で登場した時、はずみで、敷き詰めた緋毛氈に大きな皺が寄ってしまったのをさっと直すと、またもとの位置へ直ってトークを續ける。現代っ子としての何というスマートさ。と同時に、女方としての何という細やかな心遣い。六段目のお軽が見てみたい。

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『五斗三番叟』を白鸚が出したのはびっくりしたが、そういえば『大蔵卿』を出したのはちょうど一年前の初芝居だったっけ。片や大酒飲み、片や阿呆に韜晦した人物だが、こういう役に興味をもつようになったのだろうか? つまり、大蔵卿も五斗兵衛も、韜晦の陰で一枚上を行く境地を楽しむかのような人物である。とすると、これはちょっと面白い。幸四郎の名を譲って白鸚という高等ご隠居となってなお、身体は健康、意欲は旺盛、心は高く、と三拍子そろってシルバーパス世代の最も良き終活ぶりではあるまいか?(尤も、ご自身シルバーパスを使って都バスで楽屋入りはなさるまいが。)

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その白鸚の今月の出し物『河内山』と『五斗三番叟』で、どちらも芝翫の暗君(松江候・義経)、歌六の忠臣(高木小左衛門・泉三郎)、錦吾の佞臣(北村大膳・錦戸太郎)と全く同じ構図の役どころで全く同じ顔ぶれが揃うのは、普通なら気が利かない配役と批判されるところだが、こう見事に揃ったところを通して見ると却って面白い効果がある。芝翫の松江候など、ご本人はべつに悪い人間ではなくただ生まれっぱなしのまま権力者になってしまったようで、しかもあの立派な役者ぶりが利いている。はまり役と言ったら気を悪くされるかもしれないが、近頃での松江候と言っていい。

それにしてもこの『義経腰越状』なる芝居、『五斗三番叟』は二世松緑という良き後継者がいたためにこうして辛うじて伝承されているが、肝心の『鉄砲場』が出ないと『千本桜三段目』を「椎の木」だけ出して「鮨屋」を出さないようなものだから、わけのわからない芝居となって久しい。冗談ではない、今の内に何とかしなければ。この際白鸚に『鉄砲場』の五斗兵衛も頑張ってもらうとして、吉右衛門に泉三郎を付き合わせ!関女を魁春というのは如何であろう?

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菊之助が「ナウシカ」での負傷も心配されたほどではなかった由なのは本当によかったし、『令和仇討』も国立恒例の菊一座の正月物としては作も面白く脚本もすっきり出来ていてこれもまずは重畳。菊五郎を王将に、菊之助と松緑の飛車角という布置もよく、確かに「菊一座」ではあった。

ところで旧聞ながら『風の谷のナウシカ』だが、私の見たのは菊之助の負傷の後だったのでまともな評はできないが、いろいろな方々の評判を聞くにつけ思うのは、劇化の方法としては(1)今回のようにできるだけ物語の要点をマメに辿って大筋を追うか、(2)原作の要所・作者の哲学を掴んでそれだけを圧縮して提示する。そのためには上演時間は短くて構わないという、そのいずれかしかないわけで、前者をよしとする人は拍手を送り、後者にすべしと思う人は鳴り響く喝采に眉をひそめながら家路についたことと思われる。昔から「戦争と平和」でも「アンナ・カレーニナ」でも、何度も映画化されているが、作者の哲学が盛り込まれた大長編を映画化なり劇化なりすると、どうしても主人公とヒロインの筋を追うメロデイドラマになってしまう、原作の味や本当の意味を知るには原作を読むべし、となるのが常道である。

『風の谷のナウシカ』を見ながら思ったのは、これは現代の生んだ『南総里見八犬伝』だということだった。作品の趣意とカタチ、双方から最も通底する。汚濁に満ちた世に理想の国を実現せむとする物語である。「風の谷」という小さな谷間の郷、南房総という、海上に半ば以上も突き出した半島という小国でこそ、雛型としての理想卿を実現し得る。いやそれすらも、実は夢想でしかないかもしれぬ。と、そういう曲亭馬琴の壮大な夢も、これもいくたびか映画化・ドラマ化された「八犬伝」物が、粗筋とヒーローたちの活躍を追うチャンバラ活劇となり、原作は読みもせず錦ちゃん千代ちゃんのチャンバラなど見向きもせぬ知識人たちから黙殺されてきたのに比べれば、今回の「ナウシカ劇」への世人一般の好意の寄せ方は以て瞑すべきであるかもしれない。もっとも、そうは言うものの、今度のような「良心的な」台本作りをしても物語を追うという形を取る限り、幕が開くごとに舞台に展開するのは戦いの場、つまりチャンバラ場面にならざるを得ないのは致し方ないところか。

見ていると菊之助のナウシカよりも七之助のクシャナの方が溌剌と輝いて見える。やはりここにも負傷の影が落ちているのかと思ったが、初日に見た人の言でも七之助の方が生き生きと見えたと言う。なるほど、こういう物語だと主役はどうしてもマジメな優等生にならざるを得ないのが常道だ。武蔵よりも小次郎の方が格好良く見えるのと同じデンであろう。八犬士でも信乃よりも悪の要素がある道節や毛野の方がチャーミングだ。

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同日の訃報欄に重光武雄・日下田実という二人の名前が載った。まるで関連のないようなお二人だが、私の遠い記憶を呼び覚ますにはどちらも充分な名前である。片やロッテの創業者。終戦直後、私がほんのガキだった頃に俄かにはやり出した、風船ガムという代物、子供心にもいかにも敗戦後の安っぽい戦後文化の象徴のように思えた。安菓子の背後に広がる社会というものを、小学校に上がったかどうかという程度の子供にも想像させた、もしかしたら最初の事例であったかもしれない。つまり、私にとってのイニシエーションのシンボルとして感慨なきを得ない。

日下田氏は、日本隊によるマナスル初登頂のメンバーの由。実はこの方の名前は知らなかった。こちらは1956年だから私は高校生だった。イギリス隊によるエベレスト初登頂が3年前のことで、新聞に登山隊の隊長の登頂日記が連載されていたのを子供なりに読んでいた。今みたいに、ほいほいと登頂する人が出てくるなど夢にも思えない至難の事業のように思われた。日本隊のマナスル征服はそういう時期のことだから大変な快挙だったわけだが、隊長の槙有恒という人はオールド・アルピニストして一般にも知られた瀟洒な紳士で、登山とは山に上って下ることである、という名言を吐いたのはこの人であったと覚えている。通っていた高校でこの方を招いて全校生徒を相手に講演をしてもらうということがあった。そのときに実際に登頂した隊員を一人連れてきたのだったが、つまりそれが、もしかするとこの日下田氏であったかもしれないという、なんとも回りくどいお話である。ヘイ、ご退屈様、という格好だが、数年を隔てているとはいえお二方の名前が同じ紙面に仲良く並んで記事になったというのは、ちょっぴり感慨深いものがある。

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田淵の野球殿堂入りのニュースが大きく報道された裏ニュースのように、特別表彰として 前田裕司・石井連蔵の両氏が殿堂入りという報にはやはり感慨がある。いまからみれば、六大学野球が大きなニュースになり得た、ともかくも古き良き昔という言い方が出来た頃の早慶両大学の野球チームの監督である。早慶六連戦という言い方で、これは今でも伝説的にかなり知られているが、実感を伴って覚えている世代となるとこれまたシルバーパス世代ということになる。前田・石井両氏はその六連戦の時の両校監督であったわけだ。1960年昭和35年というのは、4月に入学するとすぐ安保騒動があり、秋に野球の六連戦があった、と年表風の記述にすればなるであろう。ま、かくいう私もその年の入学生ということになる。つい先ごろ、石原裕次郎と芦川いづみ主演の「あいつと私」という翌62年制作の日活映画を懐かしさにつられて日本映画チャンネルで見たが、これがこの60年安保の年の新入生という設定になっている。映画はお定まりの石坂洋次郎ものだが、芦川いづみの女子学生が語り手で、「あいつ」というのが裕次郎で「私」というのが芦川自身ということになっている。もっとも、映画には安保反対のデモは出てくるが野球の話は出てこない。

あの頃の神宮球場はまだ学生野球だけのものだったから今のようにフェンスや鉄塔に広告というものは一切なく、外野席も芝生だった。野球見物よりデートに利用する男女の姿もよくあった。プロの球団が本拠地にするようになったのは、当時の東映フライヤーズが本拠の駒沢球場をオリンピックの競技場にするというので召し上げられたために引っ越してきたからで、玉突きの理屈で東都大学リーグが半ば追い出されたため、隣接してあった野天の相撲場をつぶして第二球場を作ったのだった。この相撲場は本来アマ相撲のためのものだが、終戦間もなく、旧両国国技館が進駐軍に接収されメモリアルホールとなってしまったために、大相撲が本場所を開催したのを見に行ったのをかなり鮮明に覚えている。金剛力士のようと例えられた羽黒山と相撲人形のように優美な照国が東西の横綱だった。二人とも、今なお、私にとっての横綱というもののイメージの原点となっている。

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さてその相撲だが、徳勝龍という伏兵が一躍、躍り出して、普段相撲など見向きもしない民放でも騒ぎ出している。じつは二日目に遠藤が白鵬に勝った瞬間の舌なめずりのことを書こうと思っていたのだが、どうでもよくなってしまった。

徳勝龍は今場所は突き落としの方が話題になったが、これまではむしろ「とったり」で勝つ相撲が目立つ力士だった。相手が差しに来るか、前まわしを狙って伸ばした手を取るとあの肥満体で引っ張り込んで振り回す。と、相手は、あの巨体だから挟み込まれた手を容易に抜くことができず、振り回されてしまう。これが結構うまくきまるのが善し悪しで、取り口が消極的になりがちで星が上がらない、というのがこれまで徳勝龍だった。5年ほど前になるが、安美錦がこの「とったり」に引っかかって怪我をして途中休場に追い込まれたことがあった。前日まで8勝1敗と快調だったところでもあったから、以後私は徳勝龍憎しの念が頭から離れずに来たのだったが、まあ、こんな手に引っかかった安美錦の方も不覚であったわけで徳勝龍に責任があったわけではない。ご覧のように見た目も相撲取りらしい愛嬌があって、見た目も取り口もどれがどれやら何年見ていても区別がつかない同じタイプばかりの近頃の力士の中では特徴がある方だから、これを機に人気者になっても不思議はない。

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この場所の十四日目に新天皇ご一家の天覧があったが、幕の内の後半からということだった。つまりこの日の眼目、徳勝龍と正代の一戦は(控室のテレビには写っていたかもしれないが)ご覧にならなかったわけだ。先ごろの上皇ご夫妻の時もそうだった。かつて昭和天皇の頃は、中入りの際に着席され、土俵入りから幕の内の取組みすべてを上覧に供していたと思う。これは、どうしてこうなったのだろう? 

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豪栄道が引退したが、この人で一番いいと思うのは体形の良さで、縦横の均整がひと世代ふた世代前の力士のようで、200キロも珍しくない今様の巨漢と違っていたことだった。精神力の強さが言われるが、私はこの人、じつは案外小心なのではないかと思っていた。徳勝龍の「とったり」ではないが、この人の「裏の」得意技は「首投げ」でこれがまたよく決まりもしたが墓穴を掘る元凶ともなった。たまたま見に行った日に白鵬を「得意の」首投げで鮮やかに土俵下に投げ飛ばしたことがあった。起き上がった白鵬は、花道に突っ立ったままいつまでも土俵に戻ろうとしない。呆然と、というより、現実を認めたくない、といった風にも見えた。行司の判定に不服があって、物言いのつくのを暗に求めていたのかもしれない。白鵬の態度言動に、私が時折疑問を覚えるようになった最初でもあった。

本来押し相撲ひと筋の取り口、横綱に手が届くだけの戦績をあげられなかったが努力型の真面目が好感を招く元であった点等々、昭和30年代後半に大関を張った栃光に共通点を見る。大関のままで引退した引き際も同じである。好力士であったことは間違いない。

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国立劇場で「出雲神楽」の公演を見たのは、偶然だが初場所の十四日目、徳勝龍がまさかの優勝を目前にしたのと同日だったが、演目のひとつに「野見ノ宿祢」があった。宿祢は出雲、相手の當麻ノ蹴早は大和、つまり徳勝龍の国の先輩というわけだ。この一戦で野見ノ宿祢が當麻ノ蹴早に勝ったのが相撲の発祥ということになっている。ここでは蹴早はいわば敵役だが、見ていると野見ノ宿祢より格好いいのは、ナウシカよりクシャナの方が格好いいという原理がここにも働いているということか。

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ところでこの出雲神楽の番組の中で、囃子方が踊り手の所作の間合いを計っては「せーの」という掛け声をかける。なるほど、「せーの」という掛け声はここから来るのか。少なくとも、この人たちがこうした場で使う「せーの」という掛け声にはそれ相応の味わいがあって悪くない。

ところで、実は私はいまもって、この「せーの」という掛け声をしたことがない。東京に生まれ育った者として、子供のころ「せーの」という掛け声は聞いたことがなかった。それが(それほど遠くない)いつのころからか、世の中誰かれなく「せーの」一点張りになってしまい、子供のころから使ってきた「イチ、ニッ、サン」もしくは「イチ、ニノ、サン」、大勢でゆっくり声をそろえる場合には「イチ、ニイのぉ、サン」という掛け声はとんと耳にしなくなってしまった。私と同世代以下の誰かれなく、みなみな「せーの」派になってしまったのだろうか。相撲界では、横綱の綱打ちのとき、関取衆からふんどし担ぎまでみんな揃って綱を編むのに、太鼓をトントントンと叩くのに合わせて「ヒノ、フノ、ミ」と言うのだと覚えているが、今もそうなのだろうか。「ひー・ふー・みい」という、「一、二、三」というのよりもう一つ古風な数え方も聞かなくなってしまったいま、危うい限りだ。

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書こうと思ってメモをしておいた話題はまだ何項目かあるのだが、長くもなるし今更そう急ぐこと

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随談第624回 歳末便り

あっという間に歳末、とはいかにも平凡な物の言いようだが、今年はひと際その感が強いのは、歳のせいとか世の中の動向とかの以前に、何度も書いたから今更のようだが、わがPC(という略称をいま初めて使った、これも後遺症のひとつかも知れない)の不調が何度も繰り返されたために、仕事がいくらも捗らなかったためである。これだけのことをせめてやってしまおう、という事柄を先回しにして、さてようやく、このブログに取り掛かろうとすると、早や世の中も、我が身辺も、すっかり年越しモード。今回もまたも簡略版とさせていただくほかない。

尤も、悪いことばかりではない。PC入院の時期が長かったお陰で、夏以来半ばはやむなく取り掛かったわが仕事部屋のミニ断捨離がそれなりに進んだおかげで、夜中に強い地震があってもベッドの上にどさどさとパンフレットの類が落ちてくる心配が軽減されたり、書棚のスペースが足りないままに何年分も積み重ねたままだった『演劇界』の山が、解消とは行かないまでも、ヨーロッパのアルプスから日本アルプス程度には縮小されたこととか(なにしろ歌舞伎座改築より前から堆積が始まっていたのだ)、それだけでも悪い気はしない。
とはいえ、この回の分として書こうと思っていた、身辺雑事やら世の動きやら、それをめぐってのわが想いやら回想やらを書いている時間がなくなってしまったのは残念としか言いようがないが、とりあえず今は諦めるより仕方がない。あんなようなことでも、読んでくださる方があるのだということは、このブログを続けているうち次第に、有難いことだとしみじみ思うようになった。

新聞の訃報欄で見つけた小さな死亡記事ひとつからも、その幾層倍のことどもが思いなされてくる。そうしてその、泡沫のような、記憶や連想や寸感や感慨やその他さまざまなことがらは、いまここの書き留めておかなければ、たぶん永遠にうたかたとなってしまうであろう。そういうものを、せめてこういう場に書きとどめておきたいという思いが、このブログを書き続けているうちに次第に強くなってきている。たとえば今月は緒方貞子とか中村哲というような人が亡くなった。このお二人について私の知るところは、新聞やテレビに報道されさまざまな方が述べられたこと以上に私が持ち合わせているものは何もない。またお二人の業績や生き方について多くの方が述べられていること以上の感懐を抱いたわけでもない。しかしわが連想は、そうしたメジャーの記事の伝えるような事柄とは別の方へと飛ぶかもしれない。訃報欄に関心が行く理由の一つは、亡くなった方そのものへの思いのほかに、それ自体が、記憶という大きな広がりの中へ抜け出る坑道でもあるからかもしれない。

 訃報に限らない。たとえばラグビーへの俄かの関心の高まりは、私にとってはそのこと自体より、小学生の時のある記憶へと連想を誘う。その年の12月の第一日曜の冬晴れの日、家族6人そろって青山墓地へ出かけたのは、その夏に死んだ祖母の納骨のためだったが、それを済ませた後、まだ一面の焼け跡だった青山通りを散策する内、秩父宮ラグビー場の前へ出た。12月の第一日曜の午後のこと、早明戦がちょうど試合開始の時刻だった。明大出身の父に初めからそのつもりがあったのかどうかはわからないが、私の印象では、オオちょうどよかった,見て行こう、ということになって私はその日、生まれて初めてラグビーの試合というものを見たのだった。その頃のラグビーの選手は、いまのようなレスラーのような巨漢ではなく、一見普通人と大差ないような体で、そもそも、半袖ではなくワイシャツの上に長袖のユニフォームを着ていたが、これはかなり後までそうだったと思う。(なにしろラグビーはウィンタースポーツだから半袖などは着ないのだ、というのがかつての常識だった。)ところでその試合のこともだが、スタンドから目をやると、向こうの(その時は知らなかったがもちろん、国立競技場である)大きなスタンドにスウェーデンのあの青地に薄い黄色の十字の国旗が翻っているのが見えた。小学生の私の目に、それはじつに印象的だった。因みにその年は秋にサンフランシスコ講和条約が締結され、翌春に日本の独立が実現するというタイミングの、師走の冬晴れの日曜日というのが、この話の急所である。国立競技場では、その日、まだ独立前の日本にスウェーデンのサッカーのチームがやってきて、国際試合がおこなわれていたのである。それがどういう意味を持つものであったのか、それを私が知ったのは、それからはるかのちの話であるのだが、この話は、まず本日はこれ切り、としておこう。興味をお持ちになった方は調べてみてください。因みに私は、その後、ラグビーには多少の親近感を持ち、たまたまテレビでいい試合をやっていれば見る程度のファンになったが、サッカーには馬耳東風の状態が続いて今日に至っているが、そのことはこの話と別に因果関係はない。

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歌舞伎の話は、今回は敢えて触れないことにした。書き出せば、時間切れになってしまうであろうから。
今年はこれでおしまい。来年もよろしくお付き合い下さい。

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随談第623回 簡略版御免

又してもパソコン入院という事態があったが、今回は、これまでのとは患部が違い10日ほどで退院してきたのでこのブログも休載ということにはならずにすんだ。尤も、その間の作業が押せ押せとなるなど時間的な窮迫は避けられないので、この回は簡略版とさせていただくことにしたい。

今度の入院は、音声が出ないことで、じつは前回(9月末)に退院後間もなくに気がついていたのだが差し当たっての必要はなし、いずれ手すきの折を見てちょっと見てもらえば簡単にすむことと思っていたのが、それではすまず、入院の上「ドライバの入れ直し」という「加療手当」をする結果となったのだった。どうも今度の機器は蒲柳の質であるらしい。

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11月の各座の歌舞伎については、新聞評と「演劇界」にそれぞれ書いたから、勘どころを一口評にする。歌舞伎座は菊五郎の『髪結新三』に尽きる。前月の『お祭佐七』と併せ、よき「江戸の夕映え」を見せてもらった。シルバーパス世代も幾人かいそうな高年齢の脇役たちも、今日望めるかぎりでの素敵なもので、團蔵が前月の倉田伴平につづいて弥太五郎源七、この種の役の安手でありながら存在感があってなかなかいい味なのは、この人も無駄に年を取っていなかったという証しである。左團次の家主以下の面々も、それぞれのポジションにベストナイン級を並べたようで、もう今後はこれだけの粒を揃えるのはまずむずかしいであろう。(そういう中にひとり、梅枝のお熊だけが適齢期というのも効いている。)

歌舞伎座ではもう一つ、幸四郎が『砥辰の討たれ』を木村錦花版で出して相当の成功を収めたことに我が意を得た。野田版隆盛以来、もう錦花版をやる人はないでしょうよ、などという勇ましい声も聞いたが、そうかなあ、と呟いていたところだった。が、幸四郎の喜劇志向については、12月国立で『蝙蝠の安さん』を見てから書くことにしよう。

国立の『嬢景清』は悪くはないのだがどうも気勢が上がらないのは、吉右衛門の体調のこともあるかもしれないが、「日向島」を下の巻、「花菱屋」を中の巻として、それに別作品から「大仏供養」をすげて上の巻として、通し上演の結構を整えようとした国立劇場らしい方針(自体は悪いわけではないが)に、やや誤算があった、ということであろう。しばらく前に吉右衛門が歌舞伎座で松貫四の名で脚本を「日向島」一幕にまとめて出したことがあったが、少々とっつきにくさはあったとはいえ、あの方が景清劇として正攻法であったことを今回見て改めて悟った。「日向島」の難しいのは、終局、頼朝に下ることとなり、大船に乗って重盛の位牌を海に投げ捨てるところで、文楽だとそこが語り物の強みで、最後を「大団円」として締めくくるという「結構」の趣意がわかるのだが、いかに名優と言っても生身の役者がする歌舞伎では、どうも釈然としない憾みが残る。今度はその上に「大仏供養」の場をつけて頼朝の大腹中ぶりを見せ、それにもかかわらず景清が両眼を抉り取る場を見せるのだから、観客はますます、景清WHY? という疑問を抱くことになる。(最後の船の場面を見て、紀ノ国屋文左衛門みたいだと言った人がいる。なるほど、と思った。)しかも頼朝襲撃の件を三保谷との相撲の勝負という趣向の遊びにしたから、木に竹を接いだことになる。別作品を組み合わせること自体は昔からあることだから一概にいけないわけではないが、三幕目の「日向島」が渋い場面だから、序幕はお相撲の場面にして愉しい導入部にしようとの目論見は計算違いであったと言わざるを得ない。それにつけても、「孤高勇士」というお生な現代語を、「嬢景清」という凝った浄瑠璃の外題に強力接着剤で貼り付けたような今回のタイトルは、何やらこんどの上演台本の無理を暗示しているようにも見える。トロにマヨネーズをかけたようであまり良き趣味とは言いかねる。

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もう時間が無くなってしまった。『トトロ』については「演劇界」に8枚分書いたからそちらを見てください。そのほか、天皇ご即位やら、京舞の東上公演やらラグビーの思い出やら、さまざまな訃報やら、書こうと思っていたことはいろいろあるのだが、すべて次回にまとめて書くことにして、まず今回はこれ切りとさせていただくことにします。

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随談第622回 出そびれた化け物の弁

またしても随分とご無沙汰をする羽目となった。9月1日の午後、この第622回のブログを書いている最中、チチチ、といった音がしたかと思うと、パソコンがエンコしてしまったのである。直ちに入院、(我が家から徒歩で6~7分という近間にほどほどの規模のヤマダ電機があるのが天の助けで何かといえばそこに持ち込むことにしている。あれが、いわゆる量販店という規模だったら、店内に入っただけで、入鹿の御殿に迷い込んだお三輪のような状態になるに違いない)、無事退院してきたのが9月ももう末、ところがそれからの約3週間、一日の欠けもなく外出、その中には沖縄まで行ってくるというような椿事があったり、歌舞伎座の『三人吉三』と新橋演舞場の『オグリ』がダブルキャストなので二度足を運ばなければならないということがあったり(新聞の歌舞伎座評が出るのが23日と、楽日近くになってしまうのは、新聞の方の紙面の都合もあったが、松也と梅枝と、ダブルキャストのお嬢吉三を見るにも一週間も間が空いてしまったからである)、その間、それほど長いものではないとはいえ4種類の原稿をが重なったり、その他何やかや、体が休まる折とてなかったからだ。パソコンが入院してから6週間、退院してきてからでも3週間、ようやく、この原稿を書いている。書きかけたものは出そびれた幽霊みたいになってしまったし、さて、どう仕切り直しをしたものか。

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がまあ、せっかく途中まで書きかけたことでもあるし、8月9月10月、3か月間のことが抜けてしまうのもナニだから、簡略に続けることにしよう。

で、まず8月の諸舞台のお噂から。「音の会」(ねのかい)というのは、正確に書くと「国立劇場歌舞伎音楽既成者研修発表会」という。要するに長唄鳴物、竹本、常磐津、清元など歌舞伎の音楽を担当する演奏家の若手の発表会で、今年で21回を数える。例年八月初旬の二日間と日数も少ないし、観客も多いとは言いかねるが、この会に実は隠れたミソがある。毎回、三つ四つのプログラムが並ぶのだが、舞台に演奏者が居並ぶという、たしかにあまり一般受けはしないような形が続く中に一つ、役者が出て本格の舞台を見せるのだが、これが毎回、ちょいと味な配役なのである。今回は「義太夫舞踊」と角書きを付けて『妹背山婦女庭訓・道行恋苧環』、お三輪が京妙、求女が京純、橘姫が京由という配役、この京妙のお三輪が素敵な出来であった。誰かさんの言い草ではないが「感動した!」と叫びたくなったほど。求女役と橘姫役がはるか後輩で型をきちんとなぞっているという段階なのが、却ってお三輪の置かれている状況をくっきりと浮き彫りにするという効果もあって恋心と妬心を一層精彩あるものに見せたということもあるが、お偉方やスター役者のとはまた違う、質実で手触りのよさが生命である。歌舞伎座の納涼歌舞伎も含め今月はこれが一番の白眉、一番の眼福であった。以前にも、京蔵のおとくに又之助の又平で『吃又』とか、雁之助の玉手に京蔵の俊徳丸、京妙の浅香姫に新蔵の合邦道心で『合邦』などというのを見たのも、この「音の会」だった。年に一度の夏の夢、なまじ有名になってあまりわいわい押しかけてもらいたくないといった、穴場ファンのようなケチくさい根性もないではないが、ラーメン屋の品評ではあるまいし、こういうものをきちんと評価しないのはよろしくないし、知らずにいるのはもったいない、やはり書いておくべきであろうと思い直した次第。
          *

歌舞伎座の納涼芝居。第一部と第二部は新聞に書いた通りでまずよろしいと思うが、第三部は、まあ、何と申しましょうかと、またしても往年の小西徳郎さんの野球解説の口真似をするしか知恵が回らない。40年来の知人でT&T応援団の頃からの玉さんごひいきの女性が、一幕目のすんだところで、これで帰りますと言い残して帰ってしまったのに、フーム、と唸った。後日、長文のメールを頂戴、いろいろ感想が述べられていたが、それをここに書き写すのはしのびない。

まあ、これが歌舞伎座の本興行でなく、いまはなくなってしまったが、かつての銀座セゾン劇場あたりで「玉三郎特別公演」とでも題した公演だったなら、また違った目で見ることも出来たかも知れないのだが・・・。少なくとも、三階席からでは肝心の映像が下半分しか見えなかった、といった声は聞かれずにすんだだろう。

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「音の会」もそうだし、恒例の「稚魚の会・歌舞伎会合同公演」もだが、8月から9月にかけ、尾上右近の「研の会、鷹之資の「翔の会」など、既に回数も重ね知る人ぞ知る存在になっているものに加え、梅玉一門の「高砂会、九團次と広松の会などの新規参入もあり、歌昇・種之助兄弟の「双蝶会」は今年は休会であったにもかかわらず、この夏はこうした自主公演や勉強会を見て回るのに幾日かを費やした。かれこれ20年ほど前の前世紀末の頃にも似たような現象がもっと盛んにあったのが、その後、真夏にも納涼歌舞伎など本興行だけでなく、地方公演やなにやかや、盛んに行われるようになり、そうなると、下回りの役者たちはそうした公演にお供をしたり、実際に役が付いたりで真夏でも体が空くことがなくなり、おのずと、こうした会もなくなっていたのが、この数年来、次第に盛んになってきたものである。


目指すところはそれぞれだから、「翔の会」のように今回で一旦お仕舞いという会もある。今回は、初代富十郎300年祭と謳って、妹の愛子が『京鹿子娘道成寺』を全曲踊り、鷹之資自身は『英執着獅子』を踊った。勉強会でこんなことができるのは亡き父の余光というものだが、まだ10代の文字通りの娘さんが踊る『娘道成寺』というのは何とも言いようのない面白さがあった。「恋の手習」のくだりは文字通り「娘」として踊るのだが、こういう会ならではの愉しさ面白さだ。『英執着獅子』は、本当は『鏡獅子』を踊りたいところを、その前に、ということか。獅子になってからは結構なのだが、前段の姫の間、肩がこんもりと怒(いか)っているのが、ちとおやおやと思った。古典劇俳優としての基礎勉強というのがこの会の趣旨、今回でひとまずお開きというのは当初の目標達成ということだろう。まずはおめでとうだが、「双蝶会」が今年は休み、「研の会」が明年は休みというのも、一人前(以上か)の役者としての階梯を上って来たればこそのこと、「高砂会」の発足は梅丸が莟玉襲名を迎え、足場を固めようとのことだろうか。

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秀山祭が、三世歌六百回忌追善と謳った演目を昼夜に並べたに留まったのは、あくまで秀山祭という枠内でという趣旨であろうが、50年前の昭和46年に、50回忌追善というのを17代目勘三郎が祭主となって、鳴り物入りの大興行として行なったことがあった。あれがもう50年前だというのも驚きだが、今度と同じ『沼津』に『松浦の太鼓』を出して17代目が平作に松浦候をした。当時東宝在籍中の8代目幸四郎(つまり初代白鸚である)を引っ張り出して十兵衛をつきあわせた上、『口上』の席にも連ならせ、7代目梅幸、13代目仁左衛門に我童から二代目又五郎から、現吉右衛門はたしか日比谷の芸術座で若尾文子と『雪国』をやっていたのを掛け持ちをさせたり(朝幕で『大蔵卿』をしたのだった。私としてはこの時が初見参だった)、現白鸚の染五郎は(そうだ覚えている、この時だったのだ!)『ラ・マンチャの男』をブロードウェイでやっている最中だったからまさかこれは掛け持ちというわけにはいかず・・・といったようなことが面白おかしく伝えられ、『口上』の幕では、得意満面の17代目が「ここに並び居ります者はすべて親類でございます」と挨拶し(これが言いたかったのだ)、その間柄を説明して、幸四郎と吉右衛門は父子かと思うと義理の兄弟でもあります、てなことを言って笑わせたり、といった中で、13代目仁左衛門が下手の留めの席並んでいたが、17代目の系図説明に憮然とした面持ちの白鸚と対照的に、なぜ片岡家と播磨屋・中村屋が親類関係なのかを8代目仁左衛門と初代歌六の代にまで遡って説明、本日はこの席に「倅・片岡孝夫を召し連れまして馳せ参じましてござりまする」という口上の、声音がいまも耳に残っている。その召し連れられた倅の孝夫(という存在が東京ではようやく知られ始めたころだった)の現・仁左衛門は、父の隣りの心もち下がった位置に控えていた。この時の17代目の平作(この時が初役だった)がぎょっとするほど三代目歌六に似ていたと、三代目左團次が語っているが、昭和46年からさかのぼること50年の大正8年の1919年といえば、まだ見覚えている人も少なくなかったわけだ。(それはそうですよね、現に私も50年前のむかし話を、いまこうして書いているのだから。)

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10月の歌舞伎座は、『お祭左七』で見せた菊五郎の思いの深さと気迫、また心意気と、『三人吉三』の歌六の土左衛門伝吉の落魄の老盗賊ぶりの二つに尽きる。『お祭佐七』は名作か愚作か。思い様によってどちらでもあるだろう。作者の三世新七は、『籠釣瓶』に見る如くまた『番隨長兵衛』序幕「山村座舞台」に見る如く、作劇のテクニックは師匠譲りの老巧者だが師匠黙阿弥のような詩魂も人間観照も持っていない。だがそういう作者だからこそ書けた名作がこの『お祭左七』なのだ。明治31年は西暦1898年、明治はすでにふた昔の過去となり、再来年はもう20世紀という時になって『お祭左七』のような作品を書いた。もちろん新七とて、時代の推移というものを思うこともあったろうし、そこになにがしかの感慨を抱きもしただろう。しかし彼は、そうした時代の潮流とか時世とかいったものを芝居に反映させるような才覚は持ち合わせなかった、そんなことは考えもしなかった。彼はただ、過ぎ去った江戸を、江戸の人々を、つまりは江戸というひとつの文明が醸成した「気分」とか、そこに生きている人々の「気質」とかを、習熟した、もはや時代遅れとなりつつある手法で書いたのだ。江戸っ子は皐月の鯉の吹き流し威勢ばかりで腸(はらわた)はなし。五月の空に威勢よく泳ぐ鯉のぼりに、いや江戸の人間に、思想も哲学もありはしない。あるとすれば、気っ風だけだ。その、江戸育ちの気っ風を、これほど、ひとつの類型として描いた作は他にはない。とすれば、これはやはり、名作というべきではないだろうか? 個性などというものを、この作者は考えたこともなかったろう。そういう作者だからこそ、一文明の生み出した「典型」を描き出すことが出来たのだ。

この作は、歌舞伎座の筋書巻末の上演記録を見れば解るように、戦後70余年に数えるほどしか上演されていない。終戦直後にまだ男女蔵時代の三代目左團次がしたのは見ていないから、昭和戦後歌舞伎の手練家の演じる佐七を見たのは十一代團十郎と勘彌と三世権十郎の三人だけである。この中で、最も佐七らしかったのは権十郎だった。とりわけ昭和62年の歌舞伎座で雀右衛門の小糸で演じた時のは、まさに江戸の残照を見る思いだった。今度の菊五郎は、海老蔵よ、菊之助よ、松緑よ、見ておけよ、という一心だったに違いない。その気概が惻々と伝わってくるようだった。


歌六の土左衛門伝吉は、私の見た限りの誰のよりも、その人物らしく思われた。私の見た『三人吉三』で最も忘れ難いのは昭和四十一年二月の歌舞伎座、二世松緑の和尚に梅幸のお嬢、十七代勘三郎のお坊というのが一番濃い味だったが、その時の伝吉は八代目三津五郎だった。その後の伝吉でまだ多くの人が覚えているのは十七代羽左衛門だろうが、控えめに言っても、今回の歌六はこれらのビッグたちと並べられて然るべきだと思う。お坊吉三に向かって「小僧、言うことはそれ切りか」というセリフを、俺も言ってみたいと思う人は、したり、と胸中叫んだに違いない。

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『オグリ』のことは「演劇界」に書いたのでそちらを見て下さい。国立の『天竺徳兵衛』は、ノーコメントとさせてもらいます。

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ここからは雑報。

ずいぶんと旧聞になってしまったが、入江洋祐、白石奈緒美などという名前を訃報欄で見つけた。どちらも84歳とあった。昭和も30年代に入って民放ラジオが盛んになり、NHKの「放送劇」とはかなり違ったテイストの「ラジオドラマ」 が盛んに聞こえてくるようになった、と思うと今度はテレビがようやく普及しはじめ、アメリカ製のテレビドラマが次々とブラウン管から流れ出して「ニホン語を上手にしゃべるアメリカ人の役者」が茶の間を席捲するようになった。声の吹替え、という新しいジャンルの俳優が誕生したのだ。それ以前からあったNHKの東京放送劇団・大阪放送劇団といったものとは一線を画するように「声優」という新語が出来るまで、若干のタイムラグがあったと思うが、実際にはどのぐらいだったろう。まあ二人とも、その名前を聞くだけで、あの時代の妙に白じらした空気がいまはなつかしく思い出される。

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昭和天皇「拝謁記」なる田島道治初代宮内庁長官という方の手になる詳細なメモがこの夏公表されて話題となったが、ちょうど孝太郎が歌舞伎座で『勧進帳』の義経をしているさ中、このメモが書かれてゆく過程を一種のドキュメンタリー仕立てにした番組がNHKで作られ、放映された。何も知らずに、何となくテレビをつけたら、見たことのあるような俳優が天皇の役をしている、ハテ誰だろうと目を凝らすと、なんと孝太郎だった。橋爪功が田島長官役で、講和条約が発効となった昭和27年までの数年間、新憲法の下での天皇の在り方についての二人の話し合いが、淡々と続くのだが、内容への興味もさることながら、孝太郎のつとめる昭和天皇ぶりから目が離せない面白さだった。芝居のようであって芝居ではない、もちろんドラマの演技とは非なるものなわけだが、演技であることもまた間違いない。ふと眉を曇らせて黙考したり、抑制された中にも気持ちが高ぶったり、といった心の揺れや、照り陰りが、いかにも的確に(と思われるかに)「演じられる」 のが、じつに面白い。あっぱれの名演技というべきであろう。折から歌舞伎座で演じている義経とおのずから二重写しのように見えてくるのが、これは制作者の感知しない妙趣と言える。

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東京新聞の「私の東京物語」という連載に、中日ドラゴンズの杉下茂氏の文章が載ったのが面白くて10回分全部、切り抜きを作ることにした。戦前の昭和10年代から戦中を挟んで、戦後20年代、といったあたりの東京の風景が、簡潔にしかし鮮明に語られる。戦中戦後の後楽園球場、神宮球場が進駐軍に接収されて六大学野球が西武線沿線の上井草球場で行われたこと(私はこれを、父と兄とにくっついて見に行ったのを鮮明に覚えている。東明戦で、東大が勝ったのだった。このシーズンの東大は、後にも先にもたった一度、二位になったのだった)、それからゲーリッグ球場や、これはずっと後だが、三ノ輪にできた東京球場など、いまは跡形もなくなくなってしまった野球場のこととか。明大出の清水秀雄投手の名前が出てきたのには、オオと思わず声が出た。私が見たのは、もちろん、戦後中日で投げていた時代の清水だが、実に綺麗な投球フォームでひとり他の選手と違うものを感じさせていた。(その頃の中日のユニフォームは、胸にCHUBU NIPPONとローマ字で二段に書いてあった。「中部日本」、つまり「中日」というのは本当は略語なのだ、ということを私は小学校低学年にしてドラゴンズのユニフォームに教えてもらって知ったのだった。)

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バドゥラ・スコダ、バッキ―、逆鉾等々といった訃報に接して、本当はいろいろ語っておくべきものを思うのだが、そろそろくたびれたので、いまは名前を挙げるにとどめ、いずれ別の機会に何らかの形で語る機会を作ろうと思う。澤村大蔵が亡くなって、葬儀委員長澤村田之助代理由次郎、と訃報欄にあった。フーム、とため息をつく。田之助さんは、この前「東横ホール」のことを本にしたとき、喜んでわざわざ電話をくれたのだったが、いずれ、と言ったままになっているのだ。

金田正一。何と言ったって抜群の人だった。往年の投球フォームの映像がテレビの画面に流れたが、あの調子で、キャッチャーからボールが返ってくるのを受けるとそのまま、振りかぶって投球に入る。まるでキャッチボールのようだった。長々とサインをのぞき込んで、もたもたしている姿を見たことがない。投げる、球が返ってくる、受け取る動作がそのまま投球フォームになる、スイスイ投げるリズムが何とも言えない快感を与えた。NHKの追悼番組として、昭和の末頃だったか金田をゲストに迎えた番組の録画を流したのを見た。この番組は当時リアルタイムで見た記憶がある。一つ覚えていたのは、かつて国鉄スワローズでバッテリーを組んでいた谷田捕手がいいおじさんになって出てきて、会場のホールの客席の最後尾にミットを構えるのへ、舞台の上から見事にストライクを投げ込む情景だったが、追悼の録画では、何故か、投げる瞬間だけで谷田捕手のミットへボールが収まる瞬間は映らなかったのが残念だった。

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随談第621回 13團、児太郎、安美錦

7月の歌舞伎座は、まだ初舞台もすませていない勸玄坊やの『外郎売』がお目当てで昼の部が即日完売、こちらはめでたく演じ切ったが、夜の部の「成田千本桜」の海老蔵十三團が中途でエンスト、幾日間かが休演という椿事出来(しゅったい)となった。「千本桜」から13役をやろうというのは、かの『伊達の十役』の先例あり、忠臣蔵の7役だか8役だかの早変わりの先例もあり、要はその内容と質のことである。海老蔵の構想としては、「千本桜」という長編物語の全体像を示そうという目論見があったと思われる。こうした構想の立て方は、基本的にはかつて猿翁が「川越上使」を出したり、大詰に「花矢倉」を出すなどした先例に「まねぶ」ところがあったかに推測される。昨年の『出世太閤記』のごとき佳作もあるが、猿之助は当然としても幸四郎にせよ海老蔵にせよ、次代の歌舞伎は俺がと思っている「大望家」(などという言葉があるかしらん)が、大なり小なり、昭和の昔に三代目猿之助の求めたところを求めるという思いから、我知らずの内に猿翁というお釈迦様の手のひらの内を飛び回っている(かに私には見える)。が、それはそれでよろしいとして、要はそのやり方であり中身である。

ここで抜き差しならず絡み合うのが、こうした大義名分の一方、来年と決まった十三代目襲名と絡めた13團という、もう一つの趣向である。大義名分と13團という私事から生まれた洒落(のつもり)の趣向と、どちらが先にあったのかは知らないが、とにかく「千本桜」から13役を一人でやろうという「大望」だ。さてその13役をどう選ぶかだが、劇全体の黒幕である左大臣朝方を登場させ(るからには、もちろん海老蔵自身で演じ)る。知盛・教経・敦盛の首が偽首で三人の平家方が実は生きていたという作者の立てた趣向も明示して、この3役ももちろん海老蔵みずから演じる。さらに、知盛・権太・忠信の三役を兼ねようという意欲も野心も当然あるから、これですでに6役だが、ここまでなら、補綴・演出に名を連ねている諸先生方のお知恵を借りてまあ何とか、格好がつくかもしれない。だがそれでは13團にはまだまだ程遠いとなると、海老蔵たるもの我慢がなるまい。

発端の「大内」と序幕「堀川御所」で朝方と川越太郎に卿の君も芋洗いの弁慶もと欲張るあたりまでは微笑ましいともいえる。が、「大物浦」で知盛のほかに、知盛入水のあとに弁慶で鎮魂の法螺貝を吹いてあっと言わせたい、敵方の武者とみずから芋刺しとなって入水する入江丹蔵の格好良さもやってみたい、というあたりから無理が二乗三乗し始める。がまあ、ここまでは無難の内としよう。ストーリイはともかくも通るからだ。したが三幕目で権太に弥助維盛に加え弥左衛門、さらに小金吾まで欲張るとなると、扮装としては弥助維盛をベースにせざるを得ないから(まさか赤い面をした平家の公達というわけにもいくまい)、なまっちろい顏をした権太がいかにお得意の目力を利かせて睨んで御覧に入れて下さったところで違和感は拭いようがないし、弥左衛門が権太を刺すのは『お染の七役』の早変わりの立ち回りとはわけが違うから、早変わりの面白さよりも話の無理が先に立つ。(定九郎と余市兵衛を早変わりするのと手順はほぼ同じでも、わけが違う。)せっかく権太と小金吾を変わっても、肝心の金を巻き上げる件が満足にできないのでは権太のワルの魅力も減殺されることになる。万次郎の妙林尼がピンチヒッターよろしくいかに妙趣を発揮したところで穴は埋まるものではない。(猿翁もいろいろ破天荒なことをやったが、筋を通すことにはこだわったからこの手の無理はしなかった。)

大詰「川連法眼館の場」とあるが法眼夫妻は完全にオミット、幕が開くと梅玉の義経が板付きで座っている。(この梅玉の立派なこと!)さては法眼館は空き家か? ま、それは目をつむるとして、肝心の狐言葉だが、あれはどうしたことだろうか? 如何に早変わりを見せるのが眼目としても、いやしくも『義経千本桜』の「四の切」を踏まえた上のことである以上、押さえるべきところはしっかり押さえた上でのことでないと大人の鑑賞に堪える芝居にはならない。猿翁は、「四の切」を演じるに当って狐言葉を八代目の竹本綱大夫という当時の名人に教わっている。猿翁の狐忠信がよかったのは、ケレンや宙乗りには批判的な評者にも指を指されないだけ狐言葉がしっかりしていたからこそであり、いまとなってみると、宙乗りやケレン以上に、義経に訴える狐言葉が一番思い出される。海老蔵は13役をつとめながら、結局どれがよかったろうと振り返って印象に残った役というものが思い当たらない。海老蔵の名誉のため、というより、かつて衝撃的な大ブレークをした折、その光源氏や助六や鎌倉権五郎に驚嘆し賛辞を呈した自分自身の名誉のためにも、是非ともこれしきのところで満足して終わってもらいたくない私としては、権太はきちんとした形でやれば良き権太であり得るであろうし、知盛だってあの丈高い役者ぶりから言っても夢はまだ捨てたくないとだけは、書き添えておこう。

        *

昼の部に、活歴・新歌舞伎・松羽目の狂言物に、昭和に復活した十八番物と、明治・大正・昭和歌舞伎の見本市みたいなプログラムが並んだのは企画したことではあるまいが、夜の部の13團も含め全演目に児太郎が出ている。なかでも『素襖落』で姫御寮をつとめる児太郎に目を瞠った。その凛としたたたずまい、気品と風情。若い人をやたらに持ち上げるのは慎むべきかもしれないが、親まさり、いやひょっとすると祖父まさりかと、筆を滑らせたくなる。

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訃報欄で明日待子という名前を見つけた。本当のところは、この人のことを語れるのは少なくとも昭和も10年代にすでに人となっていた年代の人たちで、辛うじて名前は知っているという程度の私などが聞いた風のことをいうのはおこがましいのだが、それでも、時代の風の匂いのなにがしかぐらいは嗅ぐことができる。

NHKのファミリーヒストリーで仲代達矢のを見ていたら、有木山太という名前がヒョイと出てきたのに思わず声を上げた。しかも仲代の叔父さんだという。こういうことがあるから人のつながりというのは面白い。ほとんど忘れていたような名前だが、アッと、一瞬にして記憶が蘇った。と言っても、これとまとまって話ができるほどのものはない。しかしエノケンだのロッパだのというビッグネームの脇っちょに、有馬是馬だの如月寛太だの山田周平だの(他にもまだまだいたが)といったちょっぴりマイナー感を漂わせた名前のひとつとして、有木山太の名もまぎれもなく存在したのは、その風貌とともにはっきり覚えている。こうした名前に共通するのは、戦前・戦中の匂いをどこかに漂わせながら、戦後、それも昭和20年代を蘇らせてくれることである。

仲代達矢といえば、この人を初めて見た映画というのが江利チエミの『サザエさん』でノリスケの役で出ていた。人気シリーズとして10作以上も作られた第一作で、マスオさんが小泉博、お父さんが藤原釜足、お母さんが清川虹子というあたりは不動のメンバーだったが、仲代のノリスケはたぶんこの一作だけだったろう。あっという間に大きな存在になっていったからだが、この時には、あのどんぐり眼が喜劇向きだと思われたのかもしれない。二週遅れで東映と松竹と東宝の作品が三本立てで見られる映画館だった。

高島忠夫のことは前回書いたが、その後たまたま、日本映画チャンネルで昭和28年6月封切りの新東宝映画『戦艦大和』を見ていたら、高島忠夫が青年士官の役で、それもちょいといい役で出てきた。この映画は前にも見ているのだが、高島のことはすっかり忘れていた。浪花のボンボンとからかわれながらじつはなかなか骨のある人物という設定で、のちにスターになってからの高島より私にはよほど興味ある風貌を見せている。前年4月に講和条約が発効して日本が独立回復、復古調と言われた潮流の中で作られたこの映画には、私なりにいろいろな思いが甦るが、たまたま1年前の講和条約発効の日に引っ越したのが、一望焼け野が原だった西巣鴨、といっても大塚駅と池袋駅のほぼ中間、急坂の傾斜面に癌研究所が(ちょうど広島の原爆ドームと同じように外壁を残しただけの残骸となって)立っているのが大塚駅の高架のプラットホームから一望された。中央に眺楼のような塔のある姿が戦艦を思わせたので、同級生たちが「癌研大和」と呼ぶようになったのは、この映画の故だった。私が6年生の途中で転校する前の学校は中野区立大和小学校といったが、鞄だの物差しだの持ち物に書いてある「大和」という字の読み方を転校先の級友たちは知らず、「これ、だいわ小学校と読むのか?」と訊かれたものだったが、この映画のおかげで子供たちは皆「大和」と書いて「やまと」と読むのだと知ったのである。少年時代の私の体験した、終戦以来の「平和日本」から「復古調」への転換の、ささやかな思い出の記録でもある。

もうひとつ、この季節になると古い戦争映画がよく放映になるが、昭和32年の東宝映画『最後の脱走』というのを見た。実はこんな映画がこの時期に作られていたことも私は知らなかったが、日本の敗戦後中国の奥地に取り残された日本の女学生の話で、原節子が引率の女教師、鶴田浩二が元軍医という、こういう顔合わせというのも、ヘーエ、こんなのがあったのかという興味で見たようなものだが、昭和32年といえば、原節子は小津作品三部作などですでに名女優として名声を確立していた筈だが、この映画ではオヤオヤと思うような演技を見せている。どんな名優も台本が悪いと三割方は大根に見えるというのが私の考えだが、そういえば原節子大根説というのは実は昔からあって、小津安二郎や成瀬巳喜男の時以外の原節子というのはこんなものだったともいえる。不器用な人なのだろう。笠智衆も出ていて、こんなところで二人が顔を合わせているのも不思議なような光景である。考えてみれば同じ年の少し前に、二人は小津の『東京暮色』で父娘になっているのだから、俳優の仕事というのは。それはそれこれはこれ、と思うべきものなのだ。もっともこの映画も、監督は谷口千吉で結構面白い作だった。

        ***

安美錦がついに引退した。3年前に土俵上で(相手は栃ノ心だった! その栃ノ心がその後の怪我で苦闘を続けている姿を見るにつけ、どうもこういう因果というのは巡るものと思わざるを得ない)アキレス腱断絶で休場二場所で十両に落ち、一年余かかって再入幕を果たしたが、踏ん張りもそこまでであったろう。力の衰えが次第に見えてくるのがわかった。十両も後ろの方になると取組みが3時からの放送開始前にすんでしまうからBSで見ることになる。足の踏ん張りがきかないからどうしても引き技が多くなる。そこをついてくる十両の力士というのは、ある意味で幕の内の力士よりもこすっからいように見えた。本来なら格の違う相手にむざむざ負けを取る姿を見るのはしのびなかった。通算の戦績が907勝908敗というのは、晩年に負けが込んだが故には違いないが、一点の負け越しというのが洒落ていて安美錦にふさわしいともいえる。これは一種の勲章だろう。そういえば昭和30年代から40年代、灰色のチームと呼ばれ下位に低迷していた頃の阪急のエースだった梶本の通算成績が254勝255敗だった筈だ。これもあっぱれの勲章といえる。安美錦はまた、通算場所数がこの場所で大関の魁皇と並んで歴代一位となったところだった。もうひと場所出れば新記録だったわけだが、昭和20年代のプロ野球に林義一という味な投手がいて、この人は通算成績が98勝98敗だったが、100勝しないうちにやめたいと言って引退したという話が伝わっている。こういう話は何故か聞くと嬉しくなる。そういえば柏戸も、幕の内の通算勝ち星が599勝というところで引退したのだった。

安美錦が新進として上位に上がってきて、貴乃花に初顔で勝ったのがこの横綱の最後の土俵となったという話はかなり知られているが、その次の東京場所で、たまたま升席のいいところで見せてもらうという機会があって、鮮やかな内掛けで勝ったのを見たのが贔屓になった始まりだった。足技は、宿痾となり最後のとどめを刺すことになった右膝を痛めてからも見られたが、やがて左膝も痛めてからは影をひそめてしまった。記録に拘泥するのは感心しないが、安美錦ならもう少し高いレベルでないと、という理由で技能賞が見送りになったことが何度かあったのだけは、すこしこだわりが残る。

        *

今シーズンの前半が終了してすぐの一夜、まだ梅雨のさなかの雨天の中だったが、ヤクルトのOB戦というのを見た。松岡だの安田猛だの、かなり古いむかしの選手も出たので見た甲斐があったが、なんといってもスターは野村で、すっかり歳を取って、代打で出場というので打席に入るのにも古田と真中に両脇から支えられる有様だったが、バットを構えた一瞬、南海ホークスの4番打者だった往年の打撃フォームが見事に再現されたのに胸を突かれた。むかし読んだ講談本の『笹野権三郎』で、御前試合の相手として80歳を過ぎた宮本武蔵が杖にすがってよぼよぼと出てきたのが、サアと剣を構えた途端、背筋も伸びて見事な構えになったというのがあったっけ。

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随談第620回 三谷かぶき・魁春・サニブラウン

歌舞伎座は昼の部が名作特集、夜の部が「三谷かぶき」。昼の部は吉右衛門の『石切梶原』に仁左衛門の『封印切』という、十八番と見られる大物を二つも並べるという「豪華版」だが、普通なら昼・夜と別々に「目玉」として出すところだろう。吉・仁、二人並べて三谷とつっかうということか?

『石切梶原』はよく出る芝居だからいろんな人のを見てきたが、昭和54年正月(今度改めて筋書の上演記録で確かめた)、折からめきめき役者ぶりを上げていた30歳代の吉右衛門が東京での初役で演じた梶原を、この芝居こんなに面白いものだったか、と目を洗われる思いで見た驚きをいまも鮮明に覚えている。以来、梶原は吉右衛門の極め付きのひとつとなったわけだが、今度改めて見て、そろそろやり尽くしたか、という感もないでもない。先ごろの『熊谷陣屋』では、度重ねてもまだこれまでにない熊谷を見せてくれたという驚きと感銘があったが、『石切梶原』という狂言にはそれほどの奥行はないということでもあるだろう。芸の切っ先が余って少々遊んでいる気味がないでもない。(誤解のないように付け加えると、この場合の「遊び」とは、「手抜き」とか何とか、そういう意味での遊びではなく、器具だとか機器などについていう「遊び」、つまり目いっぱいにしないでわざとゆとりを余しておくような場合に言う、あの「遊び」に近いと思っていただきたい。)歌六の六郎太夫、米吉の梢、又五郎の大庭、歌昇の俣野に錦之助の奴と脇も手揃いで、第一級の舞台であることは間違いない。

『封印切』も、仁左衛門の忠兵衛が、身についた上方和事の味わいと言い芸と言い、(坂田藤十郎がもう二十年も若返ってこない限り)当代随一であることは疑う余地はないのだが、やっぱりこの人は「七百貫目の借財背負うてもびくともせぬ藤屋伊左衛門」といった丈高いセリフがよく似合う人で、八右衛門ごときに焚きつけられて逆上するような阿呆な飛脚屋の養子風情とは、どこかすれ違ってしまうところがある。(『油地獄』の与兵衛? あれは一種の新歌舞伎だから話は別である。)筋書の出演者の弁で自身でも八右衛門の方が好きだと語っている通り、まだ孝夫・扇雀だった仁左衛門の八右衛門と藤十郎の忠兵衛の掛け合いの面白さというものはなかった。(上演記録で見ると昭和58年12月の南座とある。もちろんその後も、いろいろな忠兵衛を相手に何度もやっているが。)忠兵衛は平成元年以来との由、なるほどと頷ける。それから30年経った令和元年の今回、いま一度やっておこうとした意気を買おう。梅川が孝太郎、八右衛門が愛之助でどちらもきちんとしているが、仁左衛門とでは役者が違い過ぎて位負けがするのは是非もない。まあ、そういうことも一因ではあるだろう。

もっとも、お陰でひとついいことを思い出した。上演記録によると昭和58年4月、国立劇場で孝夫の忠兵衛に雀右衛門の梅川、我童のおえんに我當の八右衛門、さらに十三代目仁左衛門の孫右衛門という配役で「封印切」から「新口村」まで出したとき、前夜祭の形で、仁左衛門・雀右衛門・孝夫の三人にNHKの後藤美代子アナウンサーが聞き手で座談会をしたことがあった。事実は十三代目の独演会で、封印を切るやり方だけでもこれだけあります、などと六通りだったか七通りだったか、仕方話でやってくれるのだから面白いのなんの、その蘊蓄の豊かさと話術の妙に文字通り堪能したが、この時の公演が、これだけの顔ぶれで小劇場の公演だったことが、そうだったっけと記憶に甦った。

        *

令和慶祝第二弾の含みとも見える『寿式三番叟』と『女車引』が冒頭に並ぶが、『女車引』がちょっと味なものだった。魁春の千代、雀右衛門の春、児太郎の八重という配役の取り合わせがよく、この曲の高踏的な趣味と趣向がほのかに伝わってくる。とりわけ魁春の千代の踊りぶりを見ていると、膝の折り方、腰の構えや折り具合、身のくねらせ方から指先を一本一本、付け根から爪の先まで丁寧に伸ばしてゆくような細かなしぐさに至るまで、さながら歌右衛門を見ているようで、なつかしさも懐かしし、何とも面白かった。思えば加賀屋橋之助から中村松江といった若手の頃、この人は歌右衛門をコピーのように真似をするといって、批評家からよくくさされていたものだった。しかし、子供のお習字から始まって、日本の古来の芸事・習い事というのは、偉い先生のお手本をなぞってなぞってなぞり抜くことから始まったのではなかったか。たいがいは、どこかで自分流を入れようとするものだが、この人は、それを律義に「一所懸命」に守り通し、その果てに、ついに我が物としたのだ。いまやそれは「魁春ぶり」として、今日の歌舞伎で珍重すべき「一芸」として昇華されるに至ったと言える。まだまだ元気に動ける今のうちに、私はこの人の政岡や白拍子花子をぜひとも見てみたいと思っている。

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さて三谷かぶきだが、私は事前から、これはわりにうまくいくのではないかという気がしていたが、まあ幸いにして、その予測は外れなかった。私は三谷氏の作をそれほど熱心に見ているわけではないから、むしろ直観だが、この人の歌舞伎に対する姿勢・態度にわりに好感を覚えていた。少なくとも、頭の高さが感じられないのがその理由である。悪乗りをしなければいいが、という心配もないではなかったが、舞台が歌舞伎座だし、幸四郎の後ろには白鸚も控えていることだし、それぐらいの良識はありそうに思えたし、というわけである。

みなもと太郎の原作漫画は読んだことはないが、これも直観で、悪くなさそうな感触を覚えていた。大黒屋光太夫という題材も、これが「昭和の昔」だったら井上靖の小説から脚色して重々しい新作物にしたところだろうが、みなもと太郎→三谷幸喜、と来るところが「令和の今」というものなのだ。この軽いノリ。

アリューシャンの孤島に漂着した光太夫ら17人が、次第次第に帝政ロシアの奥深くへと日本から遠ざからざるを得ない運命の中、幕が開くたびに人数が減ってゆく過程で、17人それぞれについて、猿之助、愛之助から男女蔵だ廣太郎だ種之助だ、宗之助だ松之助だ、さらには千次郎だ幸蔵だ松十郎だと、みなそれぞれに、あゝあの人、と観客に覚えてもらえるだけのキャラと仕どころを与えてもらって、それがうまく生かされているのと、艱難辛苦の果て帰り着けたのは二人だけ、という大筋が一本通っているところが成功の因で、犬橇の犬(あれは『ラマンチャの男』のラバで使った手の借用か)とか竹本を使った愁嘆場等々のお遊びも、サービスの程を弁えて嫌味にならずに収めているのも賢いところ。しかし何といっても、猿之助のエカテリナ女帝に白鸚のポチョムキン公爵、ロシア人姿になった幸四郎の光太夫と三福対揃った見せ場が見事に「歌舞伎」になっていたのが、私が成功と見做す最大の理由である。

        *

国立劇場の歌舞伎鑑賞教室は壱太郎のお舟に鴈治郎の頓兵衛という『矢口渡』で、聡明な壱太郎らしく、「成駒家」流として大詰めを人形振りで見せるなど、ソツのないまとめ方で、「鑑賞教室」としてお手本のような舞台だった。全体としては猿之助に教わったというが、猿之助は当然、田之助から教わったはずで、もう今ではこの流れのやり方だけになってしまったということか。かつて我童が襲名披露に演じたり、歌右衛門や梅幸だって大家になる前には(といっても戦後である)やっているのだが、どういうやり方だったのだろう? 一度、澤村藤十郎が、頓兵衛を追って、落ちている櫂を拾って花道まで行くというやり方をしたのを見たことがあるが、17代目勘三郎が青年歌舞伎時代にやった時の型らしい。今度の人形振りは、祖父(つまり坂田藤十郎)の映像を参考にしたとの由だが、それ以来の変り型だったことになる。それにしても先の芝翫と雀右衛門という近年での二大女方が二人ともお舟をしなかったのは、何か理由があったのだろうか?

        ***

私の小学生時代は、古橋だの橋爪だのという選手たちが活躍していたさ中だったので水泳の方に目が行ったが、ある頃から、スポーツというものはやはり陸上競技というものが根元にあるのだと感じるところがあって、オリンピックなどでも日本選手の活躍如何に関わらず陸上競技に興味が行く。大相撲やプロ野球とはまた別な面白味がある。今度の日本選手権は、100メートル、200メートルで俄か陸上ファンも含め話題殺到だが、サニブラウン、桐生、小池という順で騒がれるのを見ているうちに、俄然、小池を応援する気になった。こういうのは、どうも性癖であるらしい。それにしても、サニブラウンにせよ、篭球で俄かに大騒ぎされている八村にせよ、アフリカ人を父に日本人を母に持つという選手がこの何年かであれよという間に、各分野に登場したのはどういうわけなのだろう。皆が皆、母親の方が日本人で、その逆は今のところ耳に入ってこないのは、現代の日本人は女性の方がそれだけ「人間力」が強いのだろうか。もうひとつ、インタビューを聞いていると、彼らの言葉遣いも発音も、大方の日本人選手たちよりきちんとしていることに気づく。

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今月目に入った死亡記事にピアニストの宮沢明子、田辺聖子、高島忠夫といった名前があった。特に熱心に聴いたわけではなくとも、宮沢明子などという名前を聞くと、かつてのある一つの季節が甦ってくるような感覚がある。つい先ごろ、深夜にテレビをつけると大野亮子がピアノを弾いていたのでオゝと驚いた。同じような懐かしさだが、こちらはまだ健在と見える。

高島忠夫は、宇津井健と一緒に新東宝の子飼いの新人として久保菜穂子とか日比野恵子とかいった女優となんとなく安手な感じのメロドラマに出ていた時代がまず思い出される。高島、宇津井に次ぐ位置にいた中山昭二が、何と、歌右衛門の影身に沿う如く引き抜きの名手として知られた加賀屋歌江の兄であったと知ったのは、それから随分のちのことであったが。

        *

こちらはまだ健在であることを知った話。ご覧になった方も多いと思うが、加藤登紀子が美空ひばりを語るというNHKの番組を見ていたら、チャーリー石黒が瀟洒な老紳士になって出てきたのにフームと思わず唸った。こういう、日系二世めいた芸名をつけること自体が時代を強烈に物語っているわけだが、忘れるともなく念頭にから消えて久しい名前だった。当時から芸人の臭みのない人だったが、あか抜けた風情がただの素人にしては、と思わせはするものの、まったく芸人臭のない紳士になっていた。一方、去年の評判に乗って始まった「安らぎの郷」の続編に、つぎつぎとかつての売れっ子がおやおやと思う老人になって登場するのは、まあ、なんというか・・・

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随談第619回 令和最初の愚挙

早くも月末である。畏き辺りの代替わりに倣ったわけではあるまいが、偶々新元号最初の月に巡り合わせた團菊祭は、やがて来る代替わりを睨んだかのようなプログラムである。「令和慶祝」と謳った『鶴寿千歳』と丑之助初舞台の『絵本牛若丸』が夜の部冒頭に並ぶのはお祝いの盃に続けてお祝いのお汁粉が出たようなもので、ま、何も言うことはないが、それにしても『鶴寿千歳』に出る梅枝以下花形四人の役名が「宮中の男」というのは如何にも散文的で、曲がないにも程があろうというもの、新作物のその他大ぜいの役みたいだ。

御大菊五郎が出る額面通りの大歌舞伎は『め組の喧嘩』だけで、その他は、やがて来る歌舞伎界「改元」へ向けた中堅・花形歌舞伎。もっともこれは必ずしも冷評ではない。4狂言それぞれに、規矩を守ってきちんとした好感の持てる舞台であったから、一日見終わって決して不満足は覚えなかった。

海老蔵・松緑・菊之助三人そろい踏みの『勧進帳』と菊之助の踊る『京鹿子娘道成寺』は、ちょうど20年前の1999年に(まだ前世紀だったのだ!)浅草歌舞伎で出して以来の「再現」だそうで、思い出した、海老蔵はこれがきっかけで新橋演舞場に進出、大ブレークということになったのだった。『勧進帳』は、三人それぞれに神妙につとめ、規矩正しく端正に仕上がっているところを採るが、半面(海老蔵の弁慶が「にらみ」を利かせるのが少々過剰なのが気になるのを除けば)、おとなしやかにまとめたという感があるのが、評価の分かれ目になるかもしれない。突兀とした北アルプスより、まろやかな南アルプスか八ヶ岳、いやむしろ若草山か。

『道成寺』についても同じことは言えば言えるが(事実、圧倒的な迫力が不足との評も見かけたが)、しかし私個人としては、これはこれで結構堪能した。そもそも『京鹿子娘道成寺』全曲をこんなにゆったりと楽しんだのは何年ぶりだろう? このところ、『奴道成寺』『男女道成寺』『二人道成寺』などのパロディ版「道成寺」はちょくちょく見るが、同じ曲でありながら、「道行」から「鐘入り」までの全曲を耳と目と、両々相俟ってうっとりと愉しむという快感は『娘道成寺』でなければ味わえない法悦境であり、全曲を一人で踊り抜く『京鹿子娘道成寺』には格別なものある。曲自体が、同じ長唄の名曲とは言っても『勧進帳』のますらをぶりや『鏡獅子』の明治趣味では味わえない、江戸伝来の長唄曲ならではの味と遊びに満ちている。

妄執から蛇(じゃ)と化して男を鐘ごと焼き尽くしたという「道成寺」伝説は、いわば額縁であり、中に納まった「絵」は若い女の恋の模様のさまざまを繰り出して見せる、つまりは長編の「組曲」であり、曲と踊りが渾然とした陶酔感に妙趣がある。かつて歌右衛門と梅幸が好対照の踊り振りを見せてくれたのが、もしかすると、「わが歌舞伎暦」のもっともおいしいところであったかもしれない。歌右衛門のは、「道成寺伝説」の妖気が全編を覆いつくし、くねくねと身をくねらせ、曲げた指の一本一本を伸ばすのにも数秒はかかろうかと思うほどの「執念」を感じさせる迫力に満場圧倒されたものだが、梅幸のは渓流を小舟で下るような快適さが心地よく、まだ一介のアアマチュア批評家だった若き頃、時に歌舞伎に倦むこともあったりしたとき、梅幸の踊る『娘道成寺』を心の救いのように思いながら見た日々があったのを、今も懐かしく思い出す。

今度の菊之助の花子が、それと同様の高みにあったというのではない。しかし、その踊りぶりを見ながら、そんな古い記憶を呼び起こされ、快い陶酔を覚えたのは確かである。向こうからは何も押し付けてこない、癖のない端正な踊りぶり。言葉にしてしまえばそれだけのことなのだが、そんな言葉の陰に、芳醇な銘酒の香りがほのかに漂っていたのも間違いない。願わくば、そのほのかな香りが、やがて、もっと芳醇な酔い心地へと誘ってくれる日を楽しみにすることにしよう。

松緑が、梅枝・萬太郎の十郎五郎、右近・米吉の虎・少将という(ついこの間まで浅草で見たような配役の)『対面』で工藤をする。なるほど、ちゃんと立派に「工藤」である。松緑もこういうポジションに座るような存在になったのであり、おそらく令和の歌舞伎の終わる頃まで、このままの配役で『対面』を見続けることになるかもしれないと思わせる。歌昇の朝比奈も、令和の終わるころにはおそらく「名物」になっているだろう。亀蔵の鬼王がちゃんと袴の股立ちを取った姿であったのも気持ちがよかった。あの人物は、兄弟がまだ幼かった、父の河津の三郎の代からの、忠義な郎党なのだ。(かつて寿海の工藤、一七代勘三郎に二世松緑の十郎五郎、歌右衛門の虎に我童の少将、八代目三津五郎の朝比奈という大顔合わせの時、十三代目仁左衛門が鬼王だったが、まるでいずれかの御家老のようだった。もちろん、そういう時はそれでよろしいのである。)

『対面』で虎をつとめた尾上右近が、『御所五郎蔵』では逢州をつとめる。梅枝の皐月と傾城姿で二枚揃ったところの古典美は、掛け値なしに「21世紀歌舞伎」の奇蹟と呼んで差し支えあるまい。あんな、草履みたいな(失礼!しかしこれは誉め言葉なのです!)長い顔をした女方が二人そろって、しかも傾城姿で並んだところは、三代目左團次と三代目時蔵以来かと思わせる。(そもそも『御所五郎蔵』などという芝居は、そういう美学の上に成り立っているものなのだ。)
 彦三郎の土右衛門は、予期にたがわず、これからはこの人のものと思わせた。何と言っても、あの調子の整ったセリフがいい。そもそも『御所五郎蔵』などという芝居は(と、敢えて繰り返す)、調子の整ったセリフの言える役者が揃って初めて、快く愉しむことができるのであって、そうでなければ、如何に黙阿弥の名文句名セリフといっても、あんなに美辞と麗句が散りばめられただけのものが延々と続くのには、なかなか耐えられるものではない。松也の五郎蔵の熱演は、与えられたこの機会を逃すまい、この期待に応えたいとの思いが伝わってきて感動させたが、それは今回限り、次の機会には、彦三郎の土右衛門と二人、セリフで私たちを酔わせてもらいたい。

        *

天王洲アイルの寺田倉庫というところで、獅童が『油地獄』をやるという案内があったので見に行った。寺田倉庫は、まあ、何とか探し当てることができたが、入り口がどこにあるのか分からずにまごまごしたために、事前の記者会見と、本番にも5分ほど遅刻をしてしまった。四階の倉庫の中央に張出し舞台を作って、正面奥(どうやらここに竹本がいるらしい)と、客席(椅子を置いただけ)の間の通路から人物が出入りする。まあ比較的似た形態のものに例えるなら、三方から見る能舞台、もしくは高めの土俵を見上げる地方巡業の相撲場というところか。配役は獅童の与兵衛に、壱太郎がお吉と小菊の二役、脇も橘三郎の徳兵衛に上村吉弥のおさわその他、相当なところがつとめるちゃんとしたものだ。荒川良々、赤堀雅秋など、一部に現代劇の俳優も使うが、コクーン歌舞伎などでもそうだがこういう配役にどれだけの意味があるのか、私にはいまだにあまりピンと来ない。がまあ、やっただけのことはあった、というのが第一の感想。原作を忠実に追って、大詰めの捕物まで、物語の全貌を見せようという演出の意図は正解であり、むしろ『油地獄』のような芝居は歌舞伎座などで偉い役者がやるよりこういう方が向いているとも言える。獅童は、ああいう扮装をすると、今更ながら延若によく似ているのが一得、いや二得、三得ぐらいはあるか。壱太郎がよくやって、功労賞をもらっていい。それにしても獅童は、つい二週間前には幕張メッセで初音ミクと共演の狐忠信で大奮闘をしたばかりだが、三年前にあれの初演を見て以来、私は獅童という人に一種畏敬の念(というと大袈裟のようだが、他に適当な言葉が見つからない)を抱くようになった。だってそうではないか。歌舞伎座の何倍もの幾千という人数を収容した会場に、おそらく九割方は歌舞伎座はおろか、浅草歌舞伎の敷居だってまたいだことはあるまいと思われる、学生が主体と思われる若い観衆の前で、初音ミクを相手役に、あんなに獅子粉塵の大奮闘をする歌舞伎俳優が他にいるだろうか? 文字通り、体を張っての舞台だった。あんなことは、よほどの覚悟と決意がなければ出来ることではない。

        *

一昨年の『仮名手本忠臣蔵』、昨年の『本朝廿四孝』、今年の『妹背山婦女庭訓』と、このところの文楽は、それこそ大河ドラマならぬ「大河文楽」の趣きだが、もはやかつてのような「名人」たちの「芸」を愉しむという時代は過去のものとなり、よく学び・研究した好技芸者たちの務める「作品鑑賞」をする時代となった今、名作全集を読むようなこうしたプログラムを組むのは、時宜にかなった結構なことに違いない。序段から二段目を昼の部、三・四段目を夜の部と、真っ正直に第一章から順に繙いていくような今度のような並べ方だと、どうしたって人気は夜の部に集中することになるが、しかし「芝六住家」「山の段」「道行」「入鹿御殿」と順を追って繰り広げられて行くのを見ていくと、なるほど、とこの壮大な戯曲の世界を眺望することになる。偉大なるかな近松半二、である。私は昔から、同じ近松さんでも門左衛門より半二の方がずーっと好きだが、研究者の方々はさておいて、映画や演劇など他ジャンルに携わる方々が、油屋の女房と滑った転んだする不良青年にばかり目を向けていないで、どうして半二の作に関心を持とうとしないのか、不思議で仕方がない。

        ***

清の盛といってもパッとわかる人は、相撲ファンの中でも少なくとも白鵬時代前期より前から知っている高齢の人に限られるだろう。上位で取っていた記憶はほとんどない。というより、幕の内よりほぼ十両で取っていた力士である。昭和36年の夏場所、後の横綱で協会理事長にまでなった佐田の山が幕内下位で平幕優勝した時、下位だから十両の上位力士との取り組みも何番かあった中で、十両の清の盛との取り組みがあって清の盛の勝ちとなった。初日間もない頃だったので、まさかそのあと佐田の山が勝ち進み、平幕優勝までするとは思っていなかった上に、その清の森も勝ち進んで十両優勝をするという事態となって、某新聞に「清の盛、二階級制覇」という見出しが躍ったという笑い話が生まれた、その主人公となったのが生涯のハイライトという人である。もっとも引退後は、いまを時めく木瀬部屋をまだほんの小部屋だった時代に継承、いわばその中興の祖となったのだから、相撲人生を通してみれば決して凡庸の人ではなかったことになる。昭和36年夏場所と言えば、ちょうど一年前に栃錦が引退して、当分はひとり天下かと思われた初代若乃花が意外にも急速に衰えを見せ始め、と言って、次代を担うのが目前の大鵬と柏戸がまだ若さゆえの脆さを脱却できていなかった、いうなら「代替わり」の端境期だったので、こうした事態もあり得たのだった。世代交代の代替わり、朝の山の平幕優勝と、なにやらイメージが重なるときに逝ったのも、清の盛という人、只の鼠でなかったと見える。

        ***

夏場所といえば、米大統領が千秋楽に相撲観戦という事態を巡るドタバタほど、相撲ファンから見て不愉快なことはなかった。見に来るなら来るで然るべき場所で(貴賓席という、そのための場所がある)、然るべき配慮の上でするべきで(昭和天皇だって平成上皇だって、近年では幕の内の取り組みの前半と後半の間の小休止のとき、かつては幕の内の全取組を土俵入りからご覧になった。取り組み途中に長々と中断させて入場、着席などということは、貴人としての礼節の問題であろう。もちろん、遠つ国の人の不明・不案内ということもあるから、この責任は当然、得々としてこの事態を承知で招いた「かの人」の側にある。もっとも、土俵そっちのけでスマホをかざして大統領を画中に収めようとはしゃぎ立てた観客のさまを見れば、国民も喜んで大歓迎だった、と「かの人」にぬけぬけと自画自賛されても文句は言えないわけか? おかげで我々は「令和最初の愚挙にして暴挙」を見させられる羽目となった。嫌なら見るな? こちらは相撲放送を尋常に見たかっただけである。(それにしても、「あの席」のチケットを苦労して手に入れた人たちは、そこのけそこのけと言われて唯々諾々と払戻金を受け取ったのだろうか? もしその中に「まつろわぬ民」がいたら、どうなっていただろう?)

        *

もうひとつ相撲のお噂。かの仁が一般社団法人「貴乃花道場」を開設というニュースが、中ぐらいの大きさの記事になった。「やはり参院選に出馬」などという大ニュースにならなかったのは幸いだった。(それほどバカでなかった、ということか?)前にもこの欄に書いたことがあるが、この人が自分の考え通りの「相撲」を組織化しようと思うなら、これしかないと私は前から思っていた。以前、協会内に多数いた支持者が行を共にしてくれたなら、かつての春秋園事件の天竜一派のように、別の相撲協会を作って独立、自分たちの理想とする相撲興行を行うのが一番よかったろうが、残念ながら孤立の道を採ってしまったのだから「道場」ぐらいで辛抱するしかないのは仕方がない。

        ***

今月の訃報。京マチ子、ドリス・デイと華麗な名前が続いた中に、杉葉子の名前があった。『青い山脈』が記事になるのは常識から言ってそうだろうし、私も異論はないが、昭和20年代後半ともし限るなら、あの時代を最も輝かしく体現していたという意味で、杉葉子こそ最も時代を代表する女優と言えるに違いない。それにつけても、彼女が体現していたような「新しい時代の感覚」は、半分は実現して今日に至ったとして、後の、そしてそれこそが独特の輝きを放っていた「もう半分」は、どこへ行ってしまったのだろう?

決して彼女の代表作というわけではないが、逸せぬ珍品がある。昭和28年8月19日封切りの東宝映画、若き日の市川崑監督作品『青春銭形平次・天晴れ一番手柄』である。まだアマチュア目明しでヘマばかりしている青春時代の平次の役が大谷友右衛門、つまりかの名優先代中村雀右衛門の若き日で、わが杉葉子はもちろん、やがて女房になるお静、ガラッパチの八五郎が伊藤雄之助という配役、市川監督らしく冒頭、銀座通りを疾走してくる乗用車がビルに激突、という場面から始まる。どこかの新聞の映画評に、杉葉子のお静は男みたいだ、というのがあったが、いまならハラスメントの対象になるかもしれない。

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随談第618回 最後の「平成最後」

いよいよ、最後の「平成最後」である。新元号「令和」談義は、あれからひと月たった今なお、当初のテレビ・週刊誌からさまざまのレベルまで降りてきて足引きの山鳥の尾のしだり尾のごとく続いているが、「令和」そのものはまあいいとして、発表当日各局を足まめに巡って繰り広げたA氏の談話が鼻について、「品物」の良し悪し(これを「よしあし」でなく「よしわるし」と読む人が出てきたのは、まだ昭和の頃だったが、近ごろは「よしわるし」は耳立たなくなった代わり「よしあし」の方も滅多に耳にしなくなった。平成の民は、何と言っているのだろう?)よりも、セールスマンAの饒舌の押し売りが気に食わねえ、というところに落ち着こうとしているかに見える。それにしてもヘーエと思ったのは、新元号が発表された後、賛否いずれにせよ元号論めいたことを愚図愚図言っていたのは中高年以上の年配者だけで、若い連中はアッケラカンと受け容れているらしいことである。

二月、三月ごろ、「安」の字がつくらしいぞという噂がかなり耳に入ったが、「昭和」改元の折、公表直前に当時の東京日々新聞にスクープされたのを察知して急遽「昭和」に変替えしたという秘話が事実とすれば、今回、「安」の字がつくらしいという噂をばらまいたのは、誰の知恵か知らないが、牽制球としてちょいとした働きをしたことになる。「安」の字のついた元号といえば「安政」だの「慶安」だの、時代劇のネタには事欠かない不穏なのが多いのは面白い。

ところで私は、元号・西暦併用主義者である。昭和が終わったとき、年賀状をそれまで縦書きで日付も「昭和○○年元旦」という風にしていたのを、もうこれで自分が生まれ育ち人となった時代も終わったのだという思いから、日付も西暦、書式も横書きにするように改めて、以来ずっとそれを続けてきたが、今年に限り、横書きはそのままだが、日付だけ「平成31年」と元号にした。「平成」という時代にもまた、自分の生きた日々があり、ひとつの時代があったことに思いを致す気になったからだ。のっぺらぼうに延々と続く西暦の方が計算がしやすいことに基づく長所がいろいろあるのは確かだが、1945年といって世界という視野でものを見、考える長所の一方、昭和20年といって浮かんでくる様々な記憶や思いの曼荼羅模様にも、西暦では言い尽くせないものがある。地球の規模から割り出したメートル法の方が万国共通の長があるのは当然だが、身体や歩幅や、身の回りの実感を尺度にした尺だの寸だの(おそらくフィートだのヤードだのにも)、メートル法には代えがたい居心地の良さがるのも間違いない。いまだに私は、何平方メートルの家と言われるより、何坪の家と聞いた方がイメージがピンと来る。平方メートルはただの数字だが、一坪は畳二畳分という、視覚に直結する皮膚感覚があるからだ。

          *

平成最後の歌舞伎座は、何と言っても、菊吉競演の『鈴ヶ森』と仁左衛門の実盛が眼福であり、各優それぞれに、これが仕納めとの思いが犇々と伝わってくるのが胸に迫る感があった。前月の盛綱に続く仁左の生締役の良さは、今後もうこれだけのものは見られまいと思わせる。この春は(その前の『名月八幡祭』の船頭三次で玉三郎の美代吉との夫婦役者ぶりを、おまけとして加えて)、仁左衛門三絶と言うべきものを見たことになる。

『実盛物語』ではもうひとり、歌六の瀬尾が又とない傑作だった。前仕手の赤っ面の敵役ぶりはベリベリとあくまで手強くしながら、太郎吉への情愛をじっくりと見せる工夫に考え抜いたものがあって、モドリの演技に類型を抜けたものを示した。近頃とかく、後段のモドリとの整合性を意識してか、前段の赤っ面の演技がヤワになる傾向が見えるのが昨今の歌舞伎の由々しきことだと思っているが、歌六のは、それとは似て非なるものである。これだけの瀬尾を見せた以上、平馬返りをするしないなどさしたることではない。

          *

私事で恐縮だが、仁左衛門の『実盛』というと実は私にはちょいとした思いがあるので、それは昭和52年の6月、新橋演舞場で仁左衛門が実盛を(東京では)初演した時の劇評を書いて当時の『演劇界』の劇評募集に当選し、翌月号に掲載してもらったのが私にとっての劇評家スタートとなったという、仁左衛門の方はご存じあるまいが私の方は忘れがたい「ご縁」があるからだ。『演劇界』では何年も前から隔年ごとに「俳優論」や「劇評」の募集を続けていて、それをきっかけに名を成すようになったあの人この人は少なくないが、いうならその驥尾に付す一人となれた糸口が、仁左衛門の実盛だったというわけである。

もうひとつ、このときの実盛にはちょっとしたおまけがついていて、当時NHKの人気番組で(日曜のたしか夜の7時半だったか、つまり大河ドラマの前というこの上ないゴールデンアワーだったと思う)、三波伸介が司会をして、各界の有名人の子供を相手に、顔の形は四角か丸か、とか、目は大きいか細いか、とかいろいろ質問してはその場で、誰もが知る有名人である親の似顔を描いてゆく、描き上がったところで、当の父親なり母親なりが登場する、というのが趣向で、それが面白いというので当時なかなかの人気番組だった。で、ちょうどこの頃、孝玉ブームがまだ新鮮で人気の出盛りだった当時片岡孝夫が、小学生でこのとき太郎吉をしていたいまの孝太郎と親子で出演したのだった。実盛の顔を載せた『演劇界』7月号の表紙がアップで画面に出たのを、三波伸介が、ウームと唸ってしばし黙然と眺めていたのを覚えている。とまあ、それだけの話なのだが・・・

          *

ケーシー高峰の訃報を知って、ひとつの小さな記憶が甦った。まだ昭和も昭和、阿佐ヶ谷に住んでいた頃、同じ阿佐ヶ谷の住人として、へーえ、あそこの角を曲がって帰るのか、などという姿を見掛けたこともあるが、一度、駅近くの飲み屋で向こうから声をかけてきたことがあった。同じカウンターの向こう端とこっち端、その距離3メートル、といった位置取りで、ちょっと話し相手が欲しかったのだろう。折から漫才ブームと言われた時期で、「B&B(という人たちがいましたね)にやられちゃったよ」という一言だけを、覚えている。つまり、その日どこかの席で味わった苦い思いが、自宅間近の飲み屋で一杯やるという屈託となって、たまたま同じカウンターにいた見も知らぬ私に声をかけてきたのに違いない。

川久保潔、なんていう名前を、10行にも満たない訃報欄で見つけた。新聞に載ったのは、テレビの吹き替えをもっぱらにする「声優」としての知名度ゆえだろうが、同じ「声優」でも私がなつかしいのは、NHK放送劇団の一員としてラジオの放送劇で聴いていた時代の川久保潔氏である。草創期のテレビドラマを懐かしむ声は折々聞くが、「ラジオドラマ」のことが稀に話題になるとすれば、やれ「君の名は」の放送時間に銭湯の女湯が空っぽになったそうだ、だのといった、ものの本に書いてあることを調べて話題にしているだけでリアリティーの希薄なこと、情けなくて涙も出ないというやつだが、リアルタイムで聴いた人たちの懐かしむ声が滅多に聞こえてこないのは何故だろう? まだNHKの他には、ようやく後発の民放が一局か二局だけしかなく、ほとんど日本中が同じ番組を聴いていた時代、あれだけ皆が熱中して聴いていた「放送劇」のことを語る声が聞こえてこないのは不可解である。当時の視聴者がもう死に絶えてしまったから? まさか・・・

元関脇の黒姫山も平成終了間際に死んだ一人となった。横綱の三重ノ海と二人で淡々と仕切り直しを重ねる情景の古典美は、その風貌と相俟ってまさにニッポンの大相撲であった。三重ノ海の渋みのある端正な風貌に対し、黒姫山の、横から見ると額と顎より鼻の頭の方が低く見える愛嬌が醸し出すユーモア。黒姫山が三役の常連として活躍していた昭和50年頃だったか、真夏のことで林家正蔵が怪談噺をするというので新宿の末広亭に入ると、名前は憶えていないが女の漫才コンビが出てきて歌謡漫才を始めた。おへちゃの方が笑わし役で、男前で売っていた某歌手の真似をする。「そうでしょう、あたし、そっくりだって言われてるんだもん」「ナニよ、あんたがそっくりなのは黒姫山じゃないの」というやりとりで、場内大爆笑となった。つまり、寄席に来る客も、黒姫山そっくり、というだけでわかったのだから、まだまだ良き時代だったわけだ。文楽の一人遣いのツメ人形で腰元だの女中だのというと、黒姫山によく似た人形が出てくる。当節の歌舞伎では並び腰元に出るような女方が美女ぞろいで、少なくとも私が知るようになってから、いまほどこのクラスの女方に美形が揃っている時代はなかった。以前は、この人はどうして女方になったのだろう、と首をかしげたくなるような人もあったものだ。ところがよくしたもので、時が経ち年功を積んでくると、そういう女方がなかなかいい味わいのある役者顔になってくる。なまじな美女より、ずっと「いい女」になってくる、という例を、いくつも見てきた。この頃の大相撲で、なかなか顔がおぼわらない力士が何人もいる。こちらが歳を取ったせいもあるかも知れないが、顔だけでなく相撲振りも、誰も同じような印象だからだ。数年前、国技館の入場口を入ろうとすると、切符の掛かりが昔の黒姫山だった。味のあるいい顔をした年寄りになっていた。それにしても、昔の名力士にチケットをもぎってもらって入場する、などという贅沢ができるのは大相撲だけである。

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随談617回 なにごとも平成最後

何にでもくっつく万能接着剤のような「平成最後」もいよいよ大詰めとあって、昭和の終わりには各界の大物がまるで殉死でもするかのように物故者が相次いだものだったが、今回はご退位とあって、稀勢の里にイチローという斯界の大物が相次いでご退位あそばした。28年というイチローの野球人生は平成年間31年とほぼ同じ長さであり、これ以上平成時代を代表するにふさわしい存在はまず出てこないだろうが、実人生ではまだ45歳という若さなのもまた「平成的」といえる。

野球という競技は、すでに明治・大正という大むかしに、旧制高校や大学の学生という特権的階層に限られていたとはいえ、既に熱狂的な観客を生んでいたわけで、その意味では「文明開化」という古めかしいニュアンスすらをも背負っているわけだが、大衆化してからも、プロ野球はいかにも「昭和」の臭いを芬々とさせていたから、それだけで敬遠する向きが少なからずいたのももっともな面がある。サッカーのJリーグが平成の開始間もなく始まってすぐに、やれドーハの悲劇だ何だと世界の舞台との関わりが、さほどこの競技に馴染みのなかった人々の間でさえ関心事となったのは、いかにも平成新時代のシンボル競技として似つかわしかったからだろう。プロ野球のテレビのナイター中継が、団地の我が家に帰宅してシャワーを浴びステテコ姿で寝転んでビールを飲みながら観戦する亭主族という、まさしく昭和の情景と密接に結びついていたのに対し、カズ三浦に集約されるサッカーのカッコよさは、若い世代だけでなく、ナイター中継に熱中する亭主の姿にうんざりしていた中年主婦層にも支持されて然るべきであったわけで、その意味ではサッカーこそ最も平成的競技であるのは確かだろう。とはいえ、NだHだといった雷(らい)のごとくに耳にした斯界のビッグネームといえども、イチローが米球界に残したほどの足跡は、世界の蹴球界に残していないのは未だ発展途上競技だからで如何ともしがたいのは余儀ないことである。その一方、かつては雲の上のように手の届かないところにあった筈の、金メダルだの世界一だのというものを、昔を想えば「続々と」いろいろな(世間一般にはあまり知られていないような)人物が手にするようになったのも「平成的」であるわけで、それを誰よりもニクイやり方で、しかも長期間にわたって実現したのがイチローだということになる。イチローのような、必ずしも万人に愛されるとは限らないキャラクターの持ち主を、案外にも多くの人々が支持しているのも、日本人の感性がそれだけ「平成的」に成熟したということなのだろうか?(このことについては、もう少し時をかけて見極める必要があるかもしれない。)

Jリーグの始まったのと、野茂が大リーグで活躍を始めたのがほぼ同時期だが、イチローがドラフト4位というあまりパッとしない形でプロの世界に入り、鳴かず飛ばずの一時期を経て、振り子打法という風変わりな打法で一躍、破天荒な活躍で脚光を浴びたのも、ほぼ同時期である。つまりこれらこそ、平成新時代になってはじめて現実となった事象というべきで、前にもこのブログに書いたように、日本人の選手で本当にアメリカへ行った意味があったと言えるのは、今もって、野茂とイチローに如くはないと私は信じているが、トルネード投法に振り子打法という、いかにも自分で編み出したらしいスタイルを看板にしていたのも、昭和らしくないものを察知させた。松井その他の、それに続いた面々にはそうした新奇さはなく、昭和の臭いをまとい続けたまま、身につけた野球技術の水準の高さで米球界でも活躍したというまでで、イチローのような意味での面白さはない。(ひとり、新庄というヘンナヤツがいたが、彼はむしろ日本に帰ってきてからただのネズミではない存在感を感じさせる行動を示した。それにしても、彼は今、どうしているのだろう?)

思わぬ回り道をしてしまった。格別のファンというわけでもないのにイチローのことを書く気になったのは、こんなことをだらだらと言おうとてではなかった。そこで急転直下のサゲで終わりにするなら、イチロー奇人説というのが夙に言われていてそれは最後の記者会見でも縦横に顕われていたようだが、中でも面白かったのは、今後は日本の球界で監督として活躍を、と望む声に対して、自分は人望がないから監督はだめですよ、と答えた一言である。達人は己れを知る。記者たちの問いと、イチローの応える間合いの阿吽の呼吸と言い、汲めども尽きぬ面白い会見ではあった。

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前回に書くべきであった分も合わせて、かなりの数の訃報が目に触れた。メモをするのを怠ったせいで、いざといういま思い出せない幾人かも、実はいる。本当は、訃報欄にほんの数行載るだけのそんな人のことをこそ書いておくべきなのだがと悔やまれる。

一言コメント付きで、ザーット名前を挙げることにする。

高橋英夫~私はさほど熱心な読者ではなかったが、小林秀雄にはじまる文芸評論家列伝中でも「一流半」のような位置取りに、興味を抱かせる存在だった。漱石の『三四郎』に「偉大なる暗闇」として出てくる人物のモデルと言われた岩本禎に目をつけるというのも、それだった。亡くなったのは平成最後の年だが、むしろ昭和の人というべきだろう。

佐々木すみ江と織本順吉~佐々木は高校生のころから見ているが、娘役をしたのを見たことがない。終始、中年女を演じ続けた人。二人とも、いかにも戦後の一時期を風靡した「新劇」で身につけた芸で、映画・テレビと戦い抜いたという点で共通する。特に織本は、青年座という、いかにも昭和20年代の「青年」新劇俳優たちの作った「座」で、『真昼の暗黒』を最も典型とするたぐいの映画で、まず世間に知られた。まだ冷房もなく天井に取りつけた大きなプロペラを回すのがせいぜいという、うだるような真夏の映画館で、ジーっと映写機の回る音が暑さを増幅するかのように聞こえてくる中、岡田英次とか木村功とかがスクリーンに写っている。この二人が一座のスターでメロドラマなど娯楽作品にもしばしば買われて出ていたが、織本順吉や内藤武敏はその次ぐらいにいい役にありついていたとはいえ、その存在はぐっと地味になる。ちょうどいいところへテレビというものが出現して活動の場が増えたという例は同世代の新劇人にたくさんあるが、二人とも、そういう中での代表的というか典型的というか、茶の間の知名人として全うできた例だろう。つい先ごろ、老いたる織本順吉の日常を追ったBSの番組を見たばかりだった。映画作家という娘さんだからこそ撮れた、老残の模様をつぶさに追った鬼気迫る作だった。

ドン・ニューカム~ニグロ・リーグからメジャー・リーガーになった「偉大なる黒人選手」の一人。戦後、神様の集団のように思われた大リーグチームの一員として日本にやってきた。ジャッキー・ロビンソンとかロイ・キャンパネラとかと並んで、片仮名で書かれた名前を見るだけで、当時のことが甦ってくる。(片仮名だって、表意文字になり得るのだ。)

森山加代子~昭和34年の8月、我が家でもテレビを買った。四月の皇太子ご成婚の時はまだ我が家にはテレビがなかったから、母は大塚から幡ヶ谷まで電車に乗って、ひと足ふた足先にテレビを買って持っていた親類の家にご成婚の放送を見に行った。4か月遅れで我が家の四畳半の茶の間の一角に鎮座することとなったテレビでは、その年開局したばかりのフジテレビが「遠くて近きは第8チャンネル」というキャッチフレーズを頻繁に流していた。なぜ第8チャンネルが「遠くて近い」のか、イマドキノワカイモンには容易にわかるまい。その第8チャンネルで毎日昼過ぎの5分間、「大人の漫画」というのをやっていた。いかにもチャチな感じが、ああ、これがテレビなんだなと実感させた。クレイジー・キャッツを見た、あれが最初だった。森山加代子が頻繁に画面に映るようになったのは、それから1年ほどしてからだったと思う。テレビ草創期の独特の安手な感覚が、名前を見ただけで甦る。その意味で、どんな大物タレントより彼女の方が時代を雄弁に語っている。

花柳幻舟~新聞でこの4文字を訃報欄に見つけたとき、何故か懐かしく感じた。まだ生きていたんだ、とあれからの後半生を思い遣った。もっとも、まだ78歳というから、それほど遠い昔の人間というわけではない。しかし彼女もまた、昭和の人に違いない。それにしても「幻舟」という名の、いかにふさわしい波乱万丈ぶりであったことか。

吉沢久子~享年101歳という。一度、朝日カルチャーの講師控室で引き合わされて、ほんの短時間、言葉を交わしたことがあったがあのときもう90歳を超えていたわけだ。その明晰な感じは見事なものだった。古谷綱武とか綱正と言っても、知る人はもう少なくなってしまったろうが、はじめは、彼女が古谷綱武夫人であったのが、やがて古谷綱武が吉沢久子のダンナさん、と変わっていった過程に、昭和も年闌けていく在り様が反映されていた。彼女の死は、これらいかにも昭和の文化人ジャーナリストの醸し出していた匂いの残渣をも、一緒に持って行ってしまった。

内田裕也~この人自身のことについては私にはほとんどがここに書くほどの知識がない。私にとっては、小坂一也、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎、尾藤イサオ等々といった名前と共に甦る「あの時代」への記憶がもたらす感傷がすべてと言っていい。この中で一番衝撃的だったのは、一番おとなしやかな、はっきり言えば軟弱な、小坂一也の登場だった。ナンダコリャ、と思った。あそこで昭和20年代が終わって30年代が始まった、そのシンボルとして、小坂一也はもっと語られて然るべきである。マスコミや識者は紋切型のように「もはや戦後ではない」という経済白書の文言を引用するが、小坂一也みたいなあんな歌い方をする歌手は、謡曲や義太夫や長唄清元俗曲から演歌・歌謡曲に至る日本の歌謡史上、一人もいなかったのではあるまいか。彼を追うように次々と出てきた上記の面々の誰より、私にとっては小坂一也のあの軟弱ぶりこそ、衝撃的だったと思う。少なくともあれは(彼等をも含めて)、戦前を引きずらない戦後のはじまりのシンボルとして、もはや戦後ではないことの表徴だったのだ。それぞれの後半生もいい。平尾昌晃があんな「大御所」になろうとも、ミッキー・カーチスがあんな爺さんになろうとも、夢にも思わなかった。小坂一也も、しばらく前に一度テレビで見たが、なかなかダンディーは老紳士になっていた。その意味で、皆さんお見事というべきであろう。内田裕也は、中では一番玄人っぽく、その分私にとっての興味は薄かった。

近藤昭仁の訃報が今日の朝刊に載っていた。横浜ベイスターズになる前の末期の大洋ホエールズの監督をしたり、いくつもの球団でコーチをしたりしたせいで、現役記者にも馴染みがあると見え、相応のスペースを割いて懇篤な記事が書いてあるからそれで十分なようなものだが、昭和30年代の現役時代には、やはり郷愁をそそられるものがある。「昭仁」という名前がすでに「昭和」の子であることを物語っているが、早稲田を出てホエールズに入った新人の頃、テレビの解説者で出ていたかの猛虎軍ミスター・タイガースの藤村冨美男が「コンドウ・テル」と何度も間違い続けていたのを思い出す。「近藤」だけで済まないのは、同じころ明治を出て同じ大洋に入ってきた、奇妙なバッティング・フォームが評判だった近藤和彦と区別するためで、コンドウ・アキとコンドウ・カズ、もしくは身体の大小からチビ近と呼ばれたりもした。その年の日本シリーズに6年連続セ・リーグで最下位だった太洋が出場、それだけでも大番狂わせのところへ、ミサイル打線と言われた強打が売り物のパ・リーグの覇者大毎オリオンズにすべて1点差で4タテを食わせて日本一になり、シリーズわずか3安打のわがコンドウ・アキがMVPとなった。三原監督の采配を「三原魔術」と呼ぶようになったのはこのときからではなかったかと思うが、それよりもその三原監督が、この時の近藤昭仁を評して「超二流」と呼んだのが三原魔術以上の名言で、一流ではないがときに一流以上の価値がある、という意味であったのだが、その真意に気づかぬ世間は、それから「超一流」という言葉を生み出したのだった。まあ、これも便利な言い方だから、私も時には使うが、じつは「超一流」では面白味はゼロであって、「超二流」というところに深い含蓄があるのだ。という、日本語表現にひとつの新造語をもたらす大元となったのが、この人なのですという一席。

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