随談第619回 令和最初の愚挙

早くも月末である。畏き辺りの代替わりに倣ったわけではあるまいが、偶々新元号最初の月に巡り合わせた團菊祭は、やがて来る代替わりを睨んだかのようなプログラムである。「令和慶祝」と謳った『鶴寿千歳』と丑之助初舞台の『絵本牛若丸』が夜の部冒頭に並ぶのはお祝いの盃に続けてお祝いのお汁粉が出たようなもので、ま、何も言うことはないが、それにしても『鶴寿千歳』に出る梅枝以下花形四人の役名が「宮中の男」というのは如何にも散文的で、曲がないにも程があろうというもの、新作物のその他大ぜいの役みたいだ。

御大菊五郎が出る額面通りの大歌舞伎は『め組の喧嘩』だけで、その他は、やがて来る歌舞伎界「改元」へ向けた中堅・花形歌舞伎。もっともこれは必ずしも冷評ではない。4狂言それぞれに、規矩を守ってきちんとした好感の持てる舞台であったから、一日見終わって決して不満足は覚えなかった。

海老蔵・松緑・菊之助三人そろい踏みの『勧進帳』と菊之助の踊る『京鹿子娘道成寺』は、ちょうど20年前の1999年に(まだ前世紀だったのだ!)浅草歌舞伎で出して以来の「再現」だそうで、思い出した、海老蔵はこれがきっかけで新橋演舞場に進出、大ブレークということになったのだった。『勧進帳』は、三人それぞれに神妙につとめ、規矩正しく端正に仕上がっているところを採るが、半面(海老蔵の弁慶が「にらみ」を利かせるのが少々過剰なのが気になるのを除けば)、おとなしやかにまとめたという感があるのが、評価の分かれ目になるかもしれない。突兀とした北アルプスより、まろやかな南アルプスか八ヶ岳、いやむしろ若草山か。

『道成寺』についても同じことは言えば言えるが(事実、圧倒的な迫力が不足との評も見かけたが)、しかし私個人としては、これはこれで結構堪能した。そもそも『京鹿子娘道成寺』全曲をこんなにゆったりと楽しんだのは何年ぶりだろう? このところ、『奴道成寺』『男女道成寺』『二人道成寺』などのパロディ版「道成寺」はちょくちょく見るが、同じ曲でありながら、「道行」から「鐘入り」までの全曲を耳と目と、両々相俟ってうっとりと愉しむという快感は『娘道成寺』でなければ味わえない法悦境であり、全曲を一人で踊り抜く『京鹿子娘道成寺』には格別なものある。曲自体が、同じ長唄の名曲とは言っても『勧進帳』のますらをぶりや『鏡獅子』の明治趣味では味わえない、江戸伝来の長唄曲ならではの味と遊びに満ちている。

妄執から蛇(じゃ)と化して男を鐘ごと焼き尽くしたという「道成寺」伝説は、いわば額縁であり、中に納まった「絵」は若い女の恋の模様のさまざまを繰り出して見せる、つまりは長編の「組曲」であり、曲と踊りが渾然とした陶酔感に妙趣がある。かつて歌右衛門と梅幸が好対照の踊り振りを見せてくれたのが、もしかすると、「わが歌舞伎暦」のもっともおいしいところであったかもしれない。歌右衛門のは、「道成寺伝説」の妖気が全編を覆いつくし、くねくねと身をくねらせ、曲げた指の一本一本を伸ばすのにも数秒はかかろうかと思うほどの「執念」を感じさせる迫力に満場圧倒されたものだが、梅幸のは渓流を小舟で下るような快適さが心地よく、まだ一介のアアマチュア批評家だった若き頃、時に歌舞伎に倦むこともあったりしたとき、梅幸の踊る『娘道成寺』を心の救いのように思いながら見た日々があったのを、今も懐かしく思い出す。

今度の菊之助の花子が、それと同様の高みにあったというのではない。しかし、その踊りぶりを見ながら、そんな古い記憶を呼び起こされ、快い陶酔を覚えたのは確かである。向こうからは何も押し付けてこない、癖のない端正な踊りぶり。言葉にしてしまえばそれだけのことなのだが、そんな言葉の陰に、芳醇な銘酒の香りがほのかに漂っていたのも間違いない。願わくば、そのほのかな香りが、やがて、もっと芳醇な酔い心地へと誘ってくれる日を楽しみにすることにしよう。

松緑が、梅枝・萬太郎の十郎五郎、右近・米吉の虎・少将という(ついこの間まで浅草で見たような配役の)『対面』で工藤をする。なるほど、ちゃんと立派に「工藤」である。松緑もこういうポジションに座るような存在になったのであり、おそらく令和の歌舞伎の終わる頃まで、このままの配役で『対面』を見続けることになるかもしれないと思わせる。歌昇の朝比奈も、令和の終わるころにはおそらく「名物」になっているだろう。亀蔵の鬼王がちゃんと袴の股立ちを取った姿であったのも気持ちがよかった。あの人物は、兄弟がまだ幼かった、父の河津の三郎の代からの、忠義な郎党なのだ。(かつて寿海の工藤、一七代勘三郎に二世松緑の十郎五郎、歌右衛門の虎に我童の少将、八代目三津五郎の朝比奈という大顔合わせの時、十三代目仁左衛門が鬼王だったが、まるでいずれかの御家老のようだった。もちろん、そういう時はそれでよろしいのである。)

『対面』で虎をつとめた尾上右近が、『御所五郎蔵』では逢州をつとめる。梅枝の皐月と傾城姿で二枚揃ったところの古典美は、掛け値なしに「21世紀歌舞伎」の奇蹟と呼んで差し支えあるまい。あんな、草履みたいな(失礼!しかしこれは誉め言葉なのです!)長い顔をした女方が二人そろって、しかも傾城姿で並んだところは、三代目左團次と三代目時蔵以来かと思わせる。(そもそも『御所五郎蔵』などという芝居は、そういう美学の上に成り立っているものなのだ。)
 彦三郎の土右衛門は、予期にたがわず、これからはこの人のものと思わせた。何と言っても、あの調子の整ったセリフがいい。そもそも『御所五郎蔵』などという芝居は(と、敢えて繰り返す)、調子の整ったセリフの言える役者が揃って初めて、快く愉しむことができるのであって、そうでなければ、如何に黙阿弥の名文句名セリフといっても、あんなに美辞と麗句が散りばめられただけのものが延々と続くのには、なかなか耐えられるものではない。松也の五郎蔵の熱演は、与えられたこの機会を逃すまい、この期待に応えたいとの思いが伝わってきて感動させたが、それは今回限り、次の機会には、彦三郎の土右衛門と二人、セリフで私たちを酔わせてもらいたい。

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天王洲アイルの寺田倉庫というところで、獅童が『油地獄』をやるという案内があったので見に行った。寺田倉庫は、まあ、何とか探し当てることができたが、入り口がどこにあるのか分からずにまごまごしたために、事前の記者会見と、本番にも5分ほど遅刻をしてしまった。四階の倉庫の中央に張出し舞台を作って、正面奥(どうやらここに竹本がいるらしい)と、客席(椅子を置いただけ)の間の通路から人物が出入りする。まあ比較的似た形態のものに例えるなら、三方から見る能舞台、もしくは高めの土俵を見上げる地方巡業の相撲場というところか。配役は獅童の与兵衛に、壱太郎がお吉と小菊の二役、脇も橘三郎の徳兵衛に上村吉弥のおさわその他、相当なところがつとめるちゃんとしたものだ。荒川良々、赤堀雅秋など、一部に現代劇の俳優も使うが、コクーン歌舞伎などでもそうだがこういう配役にどれだけの意味があるのか、私にはいまだにあまりピンと来ない。がまあ、やっただけのことはあった、というのが第一の感想。原作を忠実に追って、大詰めの捕物まで、物語の全貌を見せようという演出の意図は正解であり、むしろ『油地獄』のような芝居は歌舞伎座などで偉い役者がやるよりこういう方が向いているとも言える。獅童は、ああいう扮装をすると、今更ながら延若によく似ているのが一得、いや二得、三得ぐらいはあるか。壱太郎がよくやって、功労賞をもらっていい。それにしても獅童は、つい二週間前には幕張メッセで初音ミクと共演の狐忠信で大奮闘をしたばかりだが、三年前にあれの初演を見て以来、私は獅童という人に一種畏敬の念(というと大袈裟のようだが、他に適当な言葉が見つからない)を抱くようになった。だってそうではないか。歌舞伎座の何倍もの幾千という人数を収容した会場に、おそらく九割方は歌舞伎座はおろか、浅草歌舞伎の敷居だってまたいだことはあるまいと思われる、学生が主体と思われる若い観衆の前で、初音ミクを相手役に、あんなに獅子粉塵の大奮闘をする歌舞伎俳優が他にいるだろうか? 文字通り、体を張っての舞台だった。あんなことは、よほどの覚悟と決意がなければ出来ることではない。

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一昨年の『仮名手本忠臣蔵』、昨年の『本朝廿四孝』、今年の『妹背山婦女庭訓』と、このところの文楽は、それこそ大河ドラマならぬ「大河文楽」の趣きだが、もはやかつてのような「名人」たちの「芸」を愉しむという時代は過去のものとなり、よく学び・研究した好技芸者たちの務める「作品鑑賞」をする時代となった今、名作全集を読むようなこうしたプログラムを組むのは、時宜にかなった結構なことに違いない。序段から二段目を昼の部、三・四段目を夜の部と、真っ正直に第一章から順に繙いていくような今度のような並べ方だと、どうしたって人気は夜の部に集中することになるが、しかし「芝六住家」「山の段」「道行」「入鹿御殿」と順を追って繰り広げられて行くのを見ていくと、なるほど、とこの壮大な戯曲の世界を眺望することになる。偉大なるかな近松半二、である。私は昔から、同じ近松さんでも門左衛門より半二の方がずーっと好きだが、研究者の方々はさておいて、映画や演劇など他ジャンルに携わる方々が、油屋の女房と滑った転んだする不良青年にばかり目を向けていないで、どうして半二の作に関心を持とうとしないのか、不思議で仕方がない。

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清の盛といってもパッとわかる人は、相撲ファンの中でも少なくとも白鵬時代前期より前から知っている高齢の人に限られるだろう。上位で取っていた記憶はほとんどない。というより、幕の内よりほぼ十両で取っていた力士である。昭和36年の夏場所、後の横綱で協会理事長にまでなった佐田の山が幕内下位で平幕優勝した時、下位だから十両の上位力士との取り組みも何番かあった中で、十両の清の盛との取り組みがあって清の盛の勝ちとなった。初日間もない頃だったので、まさかそのあと佐田の山が勝ち進み、平幕優勝までするとは思っていなかった上に、その清の森も勝ち進んで十両優勝をするという事態となって、某新聞に「清の盛、二階級制覇」という見出しが躍ったという笑い話が生まれた、その主人公となったのが生涯のハイライトという人である。もっとも引退後は、いまを時めく木瀬部屋をまだほんの小部屋だった時代に継承、いわばその中興の祖となったのだから、相撲人生を通してみれば決して凡庸の人ではなかったことになる。昭和36年夏場所と言えば、ちょうど一年前に栃錦が引退して、当分はひとり天下かと思われた初代若乃花が意外にも急速に衰えを見せ始め、と言って、次代を担うのが目前の大鵬と柏戸がまだ若さゆえの脆さを脱却できていなかった、いうなら「代替わり」の端境期だったので、こうした事態もあり得たのだった。世代交代の代替わり、朝の山の平幕優勝と、なにやらイメージが重なるときに逝ったのも、清の盛という人、只の鼠でなかったと見える。

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夏場所といえば、米大統領が千秋楽に相撲観戦という事態を巡るドタバタほど、相撲ファンから見て不愉快なことはなかった。見に来るなら来るで然るべき場所で(貴賓席という、そのための場所がある)、然るべき配慮の上でするべきで(昭和天皇だって平成上皇だって、近年では幕の内の取り組みの前半と後半の間の小休止のとき、かつては幕の内の全取組を土俵入りからご覧になった。取り組み途中に長々と中断させて入場、着席などということは、貴人としての礼節の問題であろう。もちろん、遠つ国の人の不明・不案内ということもあるから、この責任は当然、得々としてこの事態を承知で招いた「かの人」の側にある。もっとも、土俵そっちのけでスマホをかざして大統領を画中に収めようとはしゃぎ立てた観客のさまを見れば、国民も喜んで大歓迎だった、と「かの人」にぬけぬけと自画自賛されても文句は言えないわけか? おかげで我々は「令和最初の愚挙にして暴挙」を見させられる羽目となった。嫌なら見るな? こちらは相撲放送を尋常に見たかっただけである。(それにしても、「あの席」のチケットを苦労して手に入れた人たちは、そこのけそこのけと言われて唯々諾々と払戻金を受け取ったのだろうか? もしその中に「まつろわぬ民」がいたら、どうなっていただろう?)

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もうひとつ相撲のお噂。かの仁が一般社団法人「貴乃花道場」を開設というニュースが、中ぐらいの大きさの記事になった。「やはり参院選に出馬」などという大ニュースにならなかったのは幸いだった。(それほどバカでなかった、ということか?)前にもこの欄に書いたことがあるが、この人が自分の考え通りの「相撲」を組織化しようと思うなら、これしかないと私は前から思っていた。以前、協会内に多数いた支持者が行を共にしてくれたなら、かつての春秋園事件の天竜一派のように、別の相撲協会を作って独立、自分たちの理想とする相撲興行を行うのが一番よかったろうが、残念ながら孤立の道を採ってしまったのだから「道場」ぐらいで辛抱するしかないのは仕方がない。

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今月の訃報。京マチ子、ドリス・デイと華麗な名前が続いた中に、杉葉子の名前があった。『青い山脈』が記事になるのは常識から言ってそうだろうし、私も異論はないが、昭和20年代後半ともし限るなら、あの時代を最も輝かしく体現していたという意味で、杉葉子こそ最も時代を代表する女優と言えるに違いない。それにつけても、彼女が体現していたような「新しい時代の感覚」は、半分は実現して今日に至ったとして、後の、そしてそれこそが独特の輝きを放っていた「もう半分」は、どこへ行ってしまったのだろう?

決して彼女の代表作というわけではないが、逸せぬ珍品がある。昭和28年8月19日封切りの東宝映画、若き日の市川崑監督作品『青春銭形平次・天晴れ一番手柄』である。まだアマチュア目明しでヘマばかりしている青春時代の平次の役が大谷友右衛門、つまりかの名優先代中村雀右衛門の若き日で、わが杉葉子はもちろん、やがて女房になるお静、ガラッパチの八五郎が伊藤雄之助という配役、市川監督らしく冒頭、銀座通りを疾走してくる乗用車がビルに激突、という場面から始まる。どこかの新聞の映画評に、杉葉子のお静は男みたいだ、というのがあったが、いまならハラスメントの対象になるかもしれない。

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随談第618回 最後の「平成最後」

いよいよ、最後の「平成最後」である。新元号「令和」談義は、あれからひと月たった今なお、当初のテレビ・週刊誌からさまざまのレベルまで降りてきて足引きの山鳥の尾のしだり尾のごとく続いているが、「令和」そのものはまあいいとして、発表当日各局を足まめに巡って繰り広げたA氏の談話が鼻について、「品物」の良し悪し(これを「よしあし」でなく「よしわるし」と読む人が出てきたのは、まだ昭和の頃だったが、近ごろは「よしわるし」は耳立たなくなった代わり「よしあし」の方も滅多に耳にしなくなった。平成の民は、何と言っているのだろう?)よりも、セールスマンAの饒舌の押し売りが気に食わねえ、というところに落ち着こうとしているかに見える。それにしてもヘーエと思ったのは、新元号が発表された後、賛否いずれにせよ元号論めいたことを愚図愚図言っていたのは中高年以上の年配者だけで、若い連中はアッケラカンと受け容れているらしいことである。

二月、三月ごろ、「安」の字がつくらしいぞという噂がかなり耳に入ったが、「昭和」改元の折、公表直前に当時の東京日々新聞にスクープされたのを察知して急遽「昭和」に変替えしたという秘話が事実とすれば、今回、「安」の字がつくらしいという噂をばらまいたのは、誰の知恵か知らないが、牽制球としてちょいとした働きをしたことになる。「安」の字のついた元号といえば「安政」だの「慶安」だの、時代劇のネタには事欠かない不穏なのが多いのは面白い。

ところで私は、元号・西暦併用主義者である。昭和が終わったとき、年賀状をそれまで縦書きで日付も「昭和○○年元旦」という風にしていたのを、もうこれで自分が生まれ育ち人となった時代も終わったのだという思いから、日付も西暦、書式も横書きにするように改めて、以来ずっとそれを続けてきたが、今年に限り、横書きはそのままだが、日付だけ「平成31年」と元号にした。「平成」という時代にもまた、自分の生きた日々があり、ひとつの時代があったことに思いを致す気になったからだ。のっぺらぼうに延々と続く西暦の方が計算がしやすいことに基づく長所がいろいろあるのは確かだが、1945年といって世界という視野でものを見、考える長所の一方、昭和20年といって浮かんでくる様々な記憶や思いの曼荼羅模様にも、西暦では言い尽くせないものがある。地球の規模から割り出したメートル法の方が万国共通の長があるのは当然だが、身体や歩幅や、身の回りの実感を尺度にした尺だの寸だの(おそらくフィートだのヤードだのにも)、メートル法には代えがたい居心地の良さがるのも間違いない。いまだに私は、何平方メートルの家と言われるより、何坪の家と聞いた方がイメージがピンと来る。平方メートルはただの数字だが、一坪は畳二畳分という、視覚に直結する皮膚感覚があるからだ。

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平成最後の歌舞伎座は、何と言っても、菊吉競演の『鈴ヶ森』と仁左衛門の実盛が眼福であり、各優それぞれに、これが仕納めとの思いが犇々と伝わってくるのが胸に迫る感があった。前月の盛綱に続く仁左の生締役の良さは、今後もうこれだけのものは見られまいと思わせる。この春は(その前の『名月八幡祭』の船頭三次で玉三郎の美代吉との夫婦役者ぶりを、おまけとして加えて)、仁左衛門三絶と言うべきものを見たことになる。

『実盛物語』ではもうひとり、歌六の瀬尾が又とない傑作だった。前仕手の赤っ面の敵役ぶりはベリベリとあくまで手強くしながら、太郎吉への情愛をじっくりと見せる工夫に考え抜いたものがあって、モドリの演技に類型を抜けたものを示した。近頃とかく、後段のモドリとの整合性を意識してか、前段の赤っ面の演技がヤワになる傾向が見えるのが昨今の歌舞伎の由々しきことだと思っているが、歌六のは、それとは似て非なるものである。これだけの瀬尾を見せた以上、平馬返りをするしないなどさしたることではない。

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私事で恐縮だが、仁左衛門の『実盛』というと実は私にはちょいとした思いがあるので、それは昭和52年の6月、新橋演舞場で仁左衛門が実盛を(東京では)初演した時の劇評を書いて当時の『演劇界』の劇評募集に当選し、翌月号に掲載してもらったのが私にとっての劇評家スタートとなったという、仁左衛門の方はご存じあるまいが私の方は忘れがたい「ご縁」があるからだ。『演劇界』では何年も前から隔年ごとに「俳優論」や「劇評」の募集を続けていて、それをきっかけに名を成すようになったあの人この人は少なくないが、いうならその驥尾に付す一人となれた糸口が、仁左衛門の実盛だったというわけである。

もうひとつ、このときの実盛にはちょっとしたおまけがついていて、当時NHKの人気番組で(日曜のたしか夜の7時半だったか、つまり大河ドラマの前というこの上ないゴールデンアワーだったと思う)、三波伸介が司会をして、各界の有名人の子供を相手に、顔の形は四角か丸か、とか、目は大きいか細いか、とかいろいろ質問してはその場で、誰もが知る有名人である親の似顔を描いてゆく、描き上がったところで、当の父親なり母親なりが登場する、というのが趣向で、それが面白いというので当時なかなかの人気番組だった。で、ちょうどこの頃、孝玉ブームがまだ新鮮で人気の出盛りだった当時片岡孝夫が、小学生でこのとき太郎吉をしていたいまの孝太郎と親子で出演したのだった。実盛の顔を載せた『演劇界』7月号の表紙がアップで画面に出たのを、三波伸介が、ウームと唸ってしばし黙然と眺めていたのを覚えている。とまあ、それだけの話なのだが・・・

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ケーシー高峰の訃報を知って、ひとつの小さな記憶が甦った。まだ昭和も昭和、阿佐ヶ谷に住んでいた頃、同じ阿佐ヶ谷の住人として、へーえ、あそこの角を曲がって帰るのか、などという姿を見掛けたこともあるが、一度、駅近くの飲み屋で向こうから声をかけてきたことがあった。同じカウンターの向こう端とこっち端、その距離3メートル、といった位置取りで、ちょっと話し相手が欲しかったのだろう。折から漫才ブームと言われた時期で、「B&B(という人たちがいましたね)にやられちゃったよ」という一言だけを、覚えている。つまり、その日どこかの席で味わった苦い思いが、自宅間近の飲み屋で一杯やるという屈託となって、たまたま同じカウンターにいた見も知らぬ私に声をかけてきたのに違いない。

川久保潔、なんていう名前を、10行にも満たない訃報欄で見つけた。新聞に載ったのは、テレビの吹き替えをもっぱらにする「声優」としての知名度ゆえだろうが、同じ「声優」でも私がなつかしいのは、NHK放送劇団の一員としてラジオの放送劇で聴いていた時代の川久保潔氏である。草創期のテレビドラマを懐かしむ声は折々聞くが、「ラジオドラマ」のことが稀に話題になるとすれば、やれ「君の名は」の放送時間に銭湯の女湯が空っぽになったそうだ、だのといった、ものの本に書いてあることを調べて話題にしているだけでリアリティーの希薄なこと、情けなくて涙も出ないというやつだが、リアルタイムで聴いた人たちの懐かしむ声が滅多に聞こえてこないのは何故だろう? まだNHKの他には、ようやく後発の民放が一局か二局だけしかなく、ほとんど日本中が同じ番組を聴いていた時代、あれだけ皆が熱中して聴いていた「放送劇」のことを語る声が聞こえてこないのは不可解である。当時の視聴者がもう死に絶えてしまったから? まさか・・・

元関脇の黒姫山も平成終了間際に死んだ一人となった。横綱の三重ノ海と二人で淡々と仕切り直しを重ねる情景の古典美は、その風貌と相俟ってまさにニッポンの大相撲であった。三重ノ海の渋みのある端正な風貌に対し、黒姫山の、横から見ると額と顎より鼻の頭の方が低く見える愛嬌が醸し出すユーモア。黒姫山が三役の常連として活躍していた昭和50年頃だったか、真夏のことで林家正蔵が怪談噺をするというので新宿の末広亭に入ると、名前は憶えていないが女の漫才コンビが出てきて歌謡漫才を始めた。おへちゃの方が笑わし役で、男前で売っていた某歌手の真似をする。「そうでしょう、あたし、そっくりだって言われてるんだもん」「ナニよ、あんたがそっくりなのは黒姫山じゃないの」というやりとりで、場内大爆笑となった。つまり、寄席に来る客も、黒姫山そっくり、というだけでわかったのだから、まだまだ良き時代だったわけだ。文楽の一人遣いのツメ人形で腰元だの女中だのというと、黒姫山によく似た人形が出てくる。当節の歌舞伎では並び腰元に出るような女方が美女ぞろいで、少なくとも私が知るようになってから、いまほどこのクラスの女方に美形が揃っている時代はなかった。以前は、この人はどうして女方になったのだろう、と首をかしげたくなるような人もあったものだ。ところがよくしたもので、時が経ち年功を積んでくると、そういう女方がなかなかいい味わいのある役者顔になってくる。なまじな美女より、ずっと「いい女」になってくる、という例を、いくつも見てきた。この頃の大相撲で、なかなか顔がおぼわらない力士が何人もいる。こちらが歳を取ったせいもあるかも知れないが、顔だけでなく相撲振りも、誰も同じような印象だからだ。数年前、国技館の入場口を入ろうとすると、切符の掛かりが昔の黒姫山だった。味のあるいい顔をした年寄りになっていた。それにしても、昔の名力士にチケットをもぎってもらって入場する、などという贅沢ができるのは大相撲だけである。

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随談617回 なにごとも平成最後

何にでもくっつく万能接着剤のような「平成最後」もいよいよ大詰めとあって、昭和の終わりには各界の大物がまるで殉死でもするかのように物故者が相次いだものだったが、今回はご退位とあって、稀勢の里にイチローという斯界の大物が相次いでご退位あそばした。28年というイチローの野球人生は平成年間31年とほぼ同じ長さであり、これ以上平成時代を代表するにふさわしい存在はまず出てこないだろうが、実人生ではまだ45歳という若さなのもまた「平成的」といえる。

野球という競技は、すでに明治・大正という大むかしに、旧制高校や大学の学生という特権的階層に限られていたとはいえ、既に熱狂的な観客を生んでいたわけで、その意味では「文明開化」という古めかしいニュアンスすらをも背負っているわけだが、大衆化してからも、プロ野球はいかにも「昭和」の臭いを芬々とさせていたから、それだけで敬遠する向きが少なからずいたのももっともな面がある。サッカーのJリーグが平成の開始間もなく始まってすぐに、やれドーハの悲劇だ何だと世界の舞台との関わりが、さほどこの競技に馴染みのなかった人々の間でさえ関心事となったのは、いかにも平成新時代のシンボル競技として似つかわしかったからだろう。プロ野球のテレビのナイター中継が、団地の我が家に帰宅してシャワーを浴びステテコ姿で寝転んでビールを飲みながら観戦する亭主族という、まさしく昭和の情景と密接に結びついていたのに対し、カズ三浦に集約されるサッカーのカッコよさは、若い世代だけでなく、ナイター中継に熱中する亭主の姿にうんざりしていた中年主婦層にも支持されて然るべきであったわけで、その意味ではサッカーこそ最も平成的競技であるのは確かだろう。とはいえ、NだHだといった雷(らい)のごとくに耳にした斯界のビッグネームといえども、イチローが米球界に残したほどの足跡は、世界の蹴球界に残していないのは未だ発展途上競技だからで如何ともしがたいのは余儀ないことである。その一方、かつては雲の上のように手の届かないところにあった筈の、金メダルだの世界一だのというものを、昔を想えば「続々と」いろいろな(世間一般にはあまり知られていないような)人物が手にするようになったのも「平成的」であるわけで、それを誰よりもニクイやり方で、しかも長期間にわたって実現したのがイチローだということになる。イチローのような、必ずしも万人に愛されるとは限らないキャラクターの持ち主を、案外にも多くの人々が支持しているのも、日本人の感性がそれだけ「平成的」に成熟したということなのだろうか?(このことについては、もう少し時をかけて見極める必要があるかもしれない。)

Jリーグの始まったのと、野茂が大リーグで活躍を始めたのがほぼ同時期だが、イチローがドラフト4位というあまりパッとしない形でプロの世界に入り、鳴かず飛ばずの一時期を経て、振り子打法という風変わりな打法で一躍、破天荒な活躍で脚光を浴びたのも、ほぼ同時期である。つまりこれらこそ、平成新時代になってはじめて現実となった事象というべきで、前にもこのブログに書いたように、日本人の選手で本当にアメリカへ行った意味があったと言えるのは、今もって、野茂とイチローに如くはないと私は信じているが、トルネード投法に振り子打法という、いかにも自分で編み出したらしいスタイルを看板にしていたのも、昭和らしくないものを察知させた。松井その他の、それに続いた面々にはそうした新奇さはなく、昭和の臭いをまとい続けたまま、身につけた野球技術の水準の高さで米球界でも活躍したというまでで、イチローのような意味での面白さはない。(ひとり、新庄というヘンナヤツがいたが、彼はむしろ日本に帰ってきてからただのネズミではない存在感を感じさせる行動を示した。それにしても、彼は今、どうしているのだろう?)

思わぬ回り道をしてしまった。格別のファンというわけでもないのにイチローのことを書く気になったのは、こんなことをだらだらと言おうとてではなかった。そこで急転直下のサゲで終わりにするなら、イチロー奇人説というのが夙に言われていてそれは最後の記者会見でも縦横に顕われていたようだが、中でも面白かったのは、今後は日本の球界で監督として活躍を、と望む声に対して、自分は人望がないから監督はだめですよ、と答えた一言である。達人は己れを知る。記者たちの問いと、イチローの応える間合いの阿吽の呼吸と言い、汲めども尽きぬ面白い会見ではあった。

        *

前回に書くべきであった分も合わせて、かなりの数の訃報が目に触れた。メモをするのを怠ったせいで、いざといういま思い出せない幾人かも、実はいる。本当は、訃報欄にほんの数行載るだけのそんな人のことをこそ書いておくべきなのだがと悔やまれる。

一言コメント付きで、ザーット名前を挙げることにする。

高橋英夫~私はさほど熱心な読者ではなかったが、小林秀雄にはじまる文芸評論家列伝中でも「一流半」のような位置取りに、興味を抱かせる存在だった。漱石の『三四郎』に「偉大なる暗闇」として出てくる人物のモデルと言われた岩本禎に目をつけるというのも、それだった。亡くなったのは平成最後の年だが、むしろ昭和の人というべきだろう。

佐々木すみ江と織本順吉~佐々木は高校生のころから見ているが、娘役をしたのを見たことがない。終始、中年女を演じ続けた人。二人とも、いかにも戦後の一時期を風靡した「新劇」で身につけた芸で、映画・テレビと戦い抜いたという点で共通する。特に織本は、青年座という、いかにも昭和20年代の「青年」新劇俳優たちの作った「座」で、『真昼の暗黒』を最も典型とするたぐいの映画で、まず世間に知られた。まだ冷房もなく天井に取りつけた大きなプロペラを回すのがせいぜいという、うだるような真夏の映画館で、ジーっと映写機の回る音が暑さを増幅するかのように聞こえてくる中、岡田英次とか木村功とかがスクリーンに写っている。この二人が一座のスターでメロドラマなど娯楽作品にもしばしば買われて出ていたが、織本順吉や内藤武敏はその次ぐらいにいい役にありついていたとはいえ、その存在はぐっと地味になる。ちょうどいいところへテレビというものが出現して活動の場が増えたという例は同世代の新劇人にたくさんあるが、二人とも、そういう中での代表的というか典型的というか、茶の間の知名人として全うできた例だろう。つい先ごろ、老いたる織本順吉の日常を追ったBSの番組を見たばかりだった。映画作家という娘さんだからこそ撮れた、老残の模様をつぶさに追った鬼気迫る作だった。

ドン・ニューカム~ニグロ・リーグからメジャー・リーガーになった「偉大なる黒人選手」の一人。戦後、神様の集団のように思われた大リーグチームの一員として日本にやってきた。ジャッキー・ロビンソンとかロイ・キャンパネラとかと並んで、片仮名で書かれた名前を見るだけで、当時のことが甦ってくる。(片仮名だって、表意文字になり得るのだ。)

森山加代子~昭和34年の8月、我が家でもテレビを買った。四月の皇太子ご成婚の時はまだ我が家にはテレビがなかったから、母は大塚から幡ヶ谷まで電車に乗って、ひと足ふた足先にテレビを買って持っていた親類の家にご成婚の放送を見に行った。4か月遅れで我が家の四畳半の茶の間の一角に鎮座することとなったテレビでは、その年開局したばかりのフジテレビが「遠くて近きは第8チャンネル」というキャッチフレーズを頻繁に流していた。なぜ第8チャンネルが「遠くて近い」のか、イマドキノワカイモンには容易にわかるまい。その第8チャンネルで毎日昼過ぎの5分間、「大人の漫画」というのをやっていた。いかにもチャチな感じが、ああ、これがテレビなんだなと実感させた。クレイジー・キャッツを見た、あれが最初だった。森山加代子が頻繁に画面に映るようになったのは、それから1年ほどしてからだったと思う。テレビ草創期の独特の安手な感覚が、名前を見ただけで甦る。その意味で、どんな大物タレントより彼女の方が時代を雄弁に語っている。

花柳幻舟~新聞でこの4文字を訃報欄に見つけたとき、何故か懐かしく感じた。まだ生きていたんだ、とあれからの後半生を思い遣った。もっとも、まだ78歳というから、それほど遠い昔の人間というわけではない。しかし彼女もまた、昭和の人に違いない。それにしても「幻舟」という名の、いかにふさわしい波乱万丈ぶりであったことか。

吉沢久子~享年101歳という。一度、朝日カルチャーの講師控室で引き合わされて、ほんの短時間、言葉を交わしたことがあったがあのときもう90歳を超えていたわけだ。その明晰な感じは見事なものだった。古谷綱武とか綱正と言っても、知る人はもう少なくなってしまったろうが、はじめは、彼女が古谷綱武夫人であったのが、やがて古谷綱武が吉沢久子のダンナさん、と変わっていった過程に、昭和も年闌けていく在り様が反映されていた。彼女の死は、これらいかにも昭和の文化人ジャーナリストの醸し出していた匂いの残渣をも、一緒に持って行ってしまった。

内田裕也~この人自身のことについては私にはほとんどがここに書くほどの知識がない。私にとっては、小坂一也、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎、尾藤イサオ等々といった名前と共に甦る「あの時代」への記憶がもたらす感傷がすべてと言っていい。この中で一番衝撃的だったのは、一番おとなしやかな、はっきり言えば軟弱な、小坂一也の登場だった。ナンダコリャ、と思った。あそこで昭和20年代が終わって30年代が始まった、そのシンボルとして、小坂一也はもっと語られて然るべきである。マスコミや識者は紋切型のように「もはや戦後ではない」という経済白書の文言を引用するが、小坂一也みたいなあんな歌い方をする歌手は、謡曲や義太夫や長唄清元俗曲から演歌・歌謡曲に至る日本の歌謡史上、一人もいなかったのではあるまいか。彼を追うように次々と出てきた上記の面々の誰より、私にとっては小坂一也のあの軟弱ぶりこそ、衝撃的だったと思う。少なくともあれは(彼等をも含めて)、戦前を引きずらない戦後のはじまりのシンボルとして、もはや戦後ではないことの表徴だったのだ。それぞれの後半生もいい。平尾昌晃があんな「大御所」になろうとも、ミッキー・カーチスがあんな爺さんになろうとも、夢にも思わなかった。小坂一也も、しばらく前に一度テレビで見たが、なかなかダンディーは老紳士になっていた。その意味で、皆さんお見事というべきであろう。内田裕也は、中では一番玄人っぽく、その分私にとっての興味は薄かった。

近藤昭仁の訃報が今日の朝刊に載っていた。横浜ベイスターズになる前の末期の大洋ホエールズの監督をしたり、いくつもの球団でコーチをしたりしたせいで、現役記者にも馴染みがあると見え、相応のスペースを割いて懇篤な記事が書いてあるからそれで十分なようなものだが、昭和30年代の現役時代には、やはり郷愁をそそられるものがある。「昭仁」という名前がすでに「昭和」の子であることを物語っているが、早稲田を出てホエールズに入った新人の頃、テレビの解説者で出ていたかの猛虎軍ミスター・タイガースの藤村冨美男が「コンドウ・テル」と何度も間違い続けていたのを思い出す。「近藤」だけで済まないのは、同じころ明治を出て同じ大洋に入ってきた、奇妙なバッティング・フォームが評判だった近藤和彦と区別するためで、コンドウ・アキとコンドウ・カズ、もしくは身体の大小からチビ近と呼ばれたりもした。その年の日本シリーズに6年連続セ・リーグで最下位だった太洋が出場、それだけでも大番狂わせのところへ、ミサイル打線と言われた強打が売り物のパ・リーグの覇者大毎オリオンズにすべて1点差で4タテを食わせて日本一になり、シリーズわずか3安打のわがコンドウ・アキがMVPとなった。三原監督の采配を「三原魔術」と呼ぶようになったのはこのときからではなかったかと思うが、それよりもその三原監督が、この時の近藤昭仁を評して「超二流」と呼んだのが三原魔術以上の名言で、一流ではないがときに一流以上の価値がある、という意味であったのだが、その真意に気づかぬ世間は、それから「超一流」という言葉を生み出したのだった。まあ、これも便利な言い方だから、私も時には使うが、じつは「超一流」では面白味はゼロであって、「超二流」というところに深い含蓄があるのだ。という、日本語表現にひとつの新造語をもたらす大元となったのが、この人なのですという一席。

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随談第616回 今月の舞台から

今回も、前回と同じ訳合いの遅れの言い訳をする羽目になりました。ともかくも、今月の芝居のお噂で取り敢えずの責めを果たすこととさせていただくことにします。

        *

まず歌舞伎座。これはもう、何といっても『盛綱陣屋』が必見である。先月の吉右衛門の熊谷と、今月の仁左衛門の盛綱と、丸本物の頂点を示す作が二ヵ月続きで揃ったことになる。この二役、仁・吉互いに交換してもそれぞれにいいものだが、やはり吉の熊谷、仁の盛綱と、絶妙の形で棲み分けが出来ていることになる。白塗りの生締役がぴたりとはまる風姿、挙措の優美さと軽み、品格、といった仁左衛門の外面の美点がそのまま、役の盛綱と、演じる仁左衛門の芸の深まりとに、ものの見事に通い合っている。軽みがそのまま深みに通じている。これでこそ、歌舞伎は見たさまがすべてである、と躊躇なく断言することができる。取り分け終局、時政が帰ったあと女たちを呼び出して小四郎と別れを告げさせるところ、わずかな身の捌きひとつがそのまま、盛綱の胸の内を見る者にたなごころを指すように得心させる。仁左衛門一代の名品というべきである。

また、この種の丸本物の大曲はすべての主立った役に人が揃っていないと、世界がくっきりと浮かび上がってこないが、今度の配役は、その点ほとんど理想的と言っていい。秀太郎微妙、雀右衛門篝火、孝太郎早瀬という女方三人が役にはまっている。歌六の時政と左団次の和田兵衛は、この逆もあり得るが左團次の柄の良さがはまってこの方がいい。勘太郎の小四郎は大あっぱれ、寺嶋真秀(つまり寺嶋しのぶの子の方である)の小三郎も、かなりの長時間、胡坐している間ピクリともしないのは、教えも教えたろうが、本人がよほどしっかりしていないとなかなかあゝは行くものではない。錦之助と猿弥のあばれとチャリの御注進もいいし、錦吾や秀調の渋さも年功だし・・・という中で、種之助はまだしも米吉まで四天王に狩り出されるのは、若い時はこれも修行の内ということだろうが、ちょっと気の毒な気がしないでもない。

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今に始まったことではないが、幸四郎と猿之助を競わせるのが今月の目玉となっていて、われわれ古きを想うものには、60年の昔の昭和30年代、それぞれの名前の先代同士が、早慶戦などともてはやされ何かと好対照と目されていた頃が偲ばれる。あの頃は、団子の方が「お利口坊ちゃん」などと楽屋雀に囁かれるような穏健派の優等生と見られていて、既にハムレットだミュージカルだとバタ臭いことに色気を見せたり何かと世の耳目を引く行動に出る染五郎の方が革新派と見られていたものだったのだ。さて今月の当代同士、目玉は弁天小僧の日替わり競演だが、これは「猿」の方がパリッとして生きがいいだけ、やや先行する。14代目勘弥から猿翁を通じて覚えた行き方という、生意気を鼻の先にぶら下げたようなヤンキーが洒落で女に化けていたずらをしに来た、という、つまり「男」を前面に出しながら、それでいて「娘ぶり」の目が詰んでいるのは、昼の部の『吃又』で白鸚の又平におとくをつとめてなかなかの女房ぶりを見せているように、修業時代若女形と目されていた頃に身につけたものが、こういうところで物を言っている。「幸」の方はすべてに穏当な行き方で、どこと言って悪いわけではないが、弁天だけ取れば「猿」の優勢、もっとも、「幸」は「猿」の弁天に南郷をつき合うという合わせ技でポイントを稼ぐから、めでたく引き分けということにしよう。

 猿・幸競演にはもう一杯、お代わりの『雷船頭』があって、こちらは「幸」の方がすっきりした男前で、この小曲の曲想に合っている。三井不動産の日本橋再開発のCMの「江戸の男」と同じ行き方だが、何という狂言の何という役、でなく、何とはなしに万人のイメージにある「江戸の男」で、こういうことをさせると、「幸」は「猿」に勝ること数等上であり、『雷船頭』のような「イメージの江戸」を描いて見せるのが眼目の小品のツボにうまくはまるのだ。「猿」の方は、藤間紫の型(?)とかいう、女船頭で行くやり方なのはいいとして(せっかくの競演なのだから、別の行き方でやろうという気働きは結構なことだ)、土手のお六ばりの立回りがあったりサービス盛り沢山でその分ちょいと野暮ったくなるのが玉に疵だが、もっともそこが「澤瀉屋流」というもので、現・猿翁が今日の大をなしたのも、何と言われようとその手の「野暮」を押し通した故なのだから、猿之助たるもの、これでいいのだ。この手の踊りは、動かすべからざる振りがあるわけではない、むしろ小ピースであるところが生命で、17代目の勘三郎が、舟の上に落ちて気絶している雷のヘソを取ろうと笑わせたのを思い出す。

        *

猿之助の『吃又』のおとくのことはさっき言ったが、今度は久しぶりに「序幕」として「高嶋館」をつけ狩野四郎二郎が負傷した自分の血で描いた虎が抜け出すという場面を見せる。こういうことにも、かつて猿翁がしておいた仕事がものをいうわけだが、その四郎二郎を幸四郎がするという、気配りのよさというより、目配りの良さというべきか、これも幸四郎の芸の内と考えるのが至当であろう。なかなかこうはできないものだ。

そのあとが「土佐将監閑居の場」、つまりいつもの『吃又』になるわけだが、この一幕は六代目菊五郎以来の、若き芸術家の苦悩という近代的解釈と緻密な演出が出来上がっているから、こう続けてみると、「高嶋館」の浪漫的な奇跡劇のトーンと水と油の感もある。ま、それはそれとして、今は「高嶋館」の久々の上演を喜び、後事は当代の猿・幸らの今後に託すべきであろう。

白鸚の又平は30年ぶりとやら。へえ、と驚く。師から賜った裃の襟を得意げにしごいて見せる(こういうのもドヤ顔というのだろうか)、この人独特の「愛嬌」を見せる「白鸚ぶり」を、ついこないだ見たばっかりのような気がしていたのだが。

さてこの上に、幸四郎は昼の部の中幕に、何と『傀儡師』を踊る。これはかつては、七代目三津五郎の神品と言われたもので、「踊りの神様」と言われた根拠のような作であり、上演記録を見ればわかるが、代々の三津五郎しか踊っていない。十代目は遂に踊らないままあの世へ行ってしまった。私は七代目は知らず、八代目のを見たのが最初だった。歌舞伎座で、とは言うものの、何とこれが「山本富士子公演」の一幕だった。一年十二ヵ月を歌舞伎で開ける今の歌舞伎しかご存じない方々には信じ難いかもしれないが、当時、というのはこの場合、昭和40年3月のことだが、当時は歌舞伎座で歌舞伎をしない(できない)月が年に何回かあったのである。八代目三津五郎は、師直とか意休といえばこの人に決まっていたように、重鎮として遇されてはいたが、自分の出し物を出す機会はめったに巡ってこなかったから、山本富士子公演などに助演する機会に、中幕で『傀儡師』みたいなハイブラウなものを出したりしたのである。この時は、このほかに、綺堂の『頼豪阿闍梨』などというのもやっているのだが、私はこれは見なかったから、遂に今もって、この狂言は見ずじまいのままだ。山本富士子公演などと馬鹿にして見なかったからで、こうした理由で見損なった逸品、珍品が、じつは幾つもある。思えば残念なことをしたものだ。ところで幸四郎の踊る『傀儡師』は、三津五郎がどうの、といったことはさておけば、中幕舞踊としてこれはこれで悪くない。勘三郎・三津五郎亡き今、こうした形で踊りで一幕出せるのは、今の歌舞伎では貴重な存在である。

今月はこのほかに『女鳴神』という珍品が出ているが、しかしこの芝居、歌右衛門みたいな圧倒的な存在が鳴神尼をするのでなければ面白さが見えてこない。今度の孝太郎は、まずは無難につとめ遂せたというところか。

        *

国立劇場で菊之助が『関の扉』の関兵衛をする。如何なものかと取り越し苦労をしたが、結構しっかり整っている。まあ、決して尻尾を出すようなへまはやらない人間とはわかっているが、花道からトントントンとのめって行って木戸に額をぶっつけて「アイタッ」となるところなど、体がよく動けるだけ老名優よりきっちりやるだけ面白さもある。とは言え、これが菊之助の役でないことは明らかであり、おそらく、将来ともこの役を持ち役にしようと思っているわけではあるまい。考えられることと言えば、岳父から教われることは何でも教わっておこうということか。もうひとつ、次代に岳父の芸を伝えるためにも、まず自分がしっかり習っておこう、ということもあるかもしれない。

小町姫と墨染は梅枝がやるが、古風でいい、と決まり文句を言って済ませるのは簡単だが、これまではそれでよかったとして、さてもう一段上がって第一線に立つ役者として、何かもう一歩二歩、歩を進めて、売りになるものを見つけたい。宗貞は萬太郎、いろいろな役が回ってくるが、二男坊役者の宿命、で終わらない何かを察知させる。

『御浜御殿』は扇雀の綱豊、歌昇の富森でまず相当以上の舞台ぶりなのはめでたい。大役お喜代に虎之介が取り組んで健闘しているが、素顔に白粉を塗ったような顔をしている。まだ役者としての顔をもっていないからだ。文字通りの第一歩というところ。

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随談第615回 年始代わりに立春大吉

今年最初の随談が2月にずれ込んでしまった。この数か月、毎回同じような言い訳から始めているような気がする。年賀状の代わりに立春の挨拶を下さる方があるが、それに倣って今年は「立春大吉」というご挨拶にさせていただくことにしたい。

こういう仕儀となった理由は、例のごとく月末月初めの約二週間をある原稿の準備執筆のために費やしてしまったからだが、まあその代わりには面白い「発見」に出会ったりもする。百年前の一年分の古雑誌のページを繰っていると、調べる目当ての記事もさることながら、何と言っても面白いのは広告で、デパートはまだことごとく、三越呉服店、白木屋呉服店、松坂屋などは「松坂屋いとう呉服店」だし、資生堂は「福原資生堂」、鳩居堂は「熊谷鳩居堂」である。『熊谷陣屋』の幔幕に染め抜いてある向い鳩の紋章が、伊達でないことがわかる。面白いのは、その「福原資生堂」は別格として、白粉だの白髪染めだの、化粧品や薬の広告主がみな個人商店であることで、大規模な会社組織を備えた企業というものがまだ幾らもなかったことを改めて知ることになる。ナニ、松竹だってこの時点ではまだ「松竹合名会社」なのだ。それにしても、広告の内容までつぶさに見ていくと(そんなことをしているから仕事が長引くのだが、しかしこういうことをして時代の感覚を知っておくことが肝心なのだ)、百年前も今も人間のすることはちっとも変わってないなあ、というのも真実だし、百年前というとまだこんなものか、と感に堪えるのもまた真実、という平凡きわまる感慨を抱くことにもなる。


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今月の歌舞伎は歌舞伎座一軒。くだくだしく述べるまでもない、十三日掲載予定の日経夕刊を見てくださいと言えば済むようなものだが、それではあまりに愛想がないからちらりと案内すると、『名月八幡祭』の玉三郎・仁左衛門の美代吉・三次が、もしかするとご両人のコンビ中これが一番の傑作かという面白さだというのがひとつ(半世紀の余、いろいろな夫婦役や愛人役をやってきたのが、もちろん、下地になっていればこその面白さなわけだが)、『熊谷陣屋』を吉右衛門が、もうあれより先には進みようがあるまいというところまで行っていた感があったのを、もう一度、壮年の熊谷に戻して(つまり若返って)演じることで、またひとつの展望が開けたという面白さがひとつ、さらにもう一つ、辰之助追善として『暗闇の丑松』を菊五郎が気を入れてやっているのが、故人への思いが溢れて感慨深いものがあったこと、この三つを書いておこう。見るこちらもまた、半世紀余のむかし、楽善と三人、丑之助改め菊之助、左近改め辰之助、亀三郎改め薪水と、同時襲名した舞台を思い遣って感慨無量であった。

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新橋演舞場の新派と新喜劇の合同芝居が面白かった。新派と新喜劇の定評ある名作2本をタイトル(敢えて題名とは言わない)を変えて立てているので、はじめ予告の広告を見たときはもっと軽い芝居をするのかと思ったら、どうして、北条秀司の『太夫さん』と館直志の『船場の子守唄』のことだった。(つまりこれをそれぞれ『華の太夫道中』『おばあちゃんの子守唄』と変えたのは、こうしないと客が来ないと考えたからなのだろうか? 『華の太夫道中』は喜美太夫役を藤原紀香がするのが、観客動員の上では今月の肝だろうから、そんなことも絡んでのことなのだろうか? その紀香も、さすがに神妙に且つ懸命に勤めていて印象は悪くない。それにしても、大詰、眼目の花魁道中であの格好をすると何とも顔の小さいこと! まるで十頭身どころか十二頭身ぐらいに見える。)

まあ、それはそれとして、『太夫さん』を十年ぶりに見ながら、こういうのが芝居なのだと改めて思うことになった。さりげない中に濃密な時間が舞台に流れている。何でもないようなセリフひとつ、立ち居ひとつ振舞いひとつに、それぞれの人物たちの思いがあり、暮らしがありその背後に人生がある。こういう芝居を当たり前のように、かつては見ていたのだ。

見ながら北条秀司三傑というのを考えた。『太夫さん』はやはり入るだろう。それから『京舞』と、残る一本はやはり『王将』か。新国劇から出発して男っぽいイメージの作者だが、新派の作が三傑の二本を占めるように、新派に書いたものに名作佳作が一番多いのが面白い。(歌舞伎でも、北条源氏と呼ばれた「源氏物語」の諸作が、近ごろ忘れられたようになっているが、誰かやらないものだろうか。)


         ***

と、ここまででおしまい、のつもりだったが、本来一月中に書くべきだったことで、またと言ってもよい折もなさそうな話題をいくつか、落穂拾いのように拾っておこう。

年が明けてからわがアンテナにかかった訃報の中で、梅原猛や市原悦子は今更だが、天地総子とか栗本尊子などという名前には、それぞれの時代を思い出させる何かがある。市原悦子だって、テレビでああいう風になる前、日生劇場が開場して間もなく俳優座の出演で『ハムレット』を出した時のオフィーリア女優なのだが、あれだけテレビに氾濫した訃を伝える番組の中で、そのことに触れたのはあったのだろうか? つまり、それまでの可憐清楚なお姫様風でない、従来の通念を破ったオフィーリアとして、その当時、演劇界だけでなく一般のレベルまで、かなりの話題を攫ったのだった。まあ、そうした彼女の「仁」の中にある要素が、後年の家政婦シリーズにつながることになるのだが・・・


         *

一月場所の稀勢の里引退については、いまさら出遅れた幽霊みたいになってしまうから今はよすことにするが、それにつけても思うのは、稀勢の里にあの引退につながる怪我を負わせたのが日馬富士であり、翌日の千秋楽、怪我を押して出場し優勝決定戦を争った相手が照の富士で、その一年前に稀勢の里を抜き去って横綱目前だった照ノ富士が膝を痛めたのが稀勢の里との一番であり(この一番は私も現場を目撃したから忘れがたい)、更に日馬富士の引退の導火線となったのが貴ノ岩であり、その貴ノ岩の断髪式に日馬富士が・・・と、めぐる因果のようにそれからそれとつながって行く。


         *

NHKの相撲放送の中日はゲストを招くのが恒例で、人によっては面白いが、先場所のゲストの三遊亭好楽は、さすがに年の功で(久しぶりに顔を見たが、当たり前だが齢を取ってもっともらしくなっていたのは同慶の至りである)、ひいき力士に往年の信夫山を挙げていたのは流石だった。おかげで対・東富士戦と対・若乃花戦の映像を見ることができたのは眼福だった。と、そこまではいいのだが、対・若乃花戦の映像に、控え力士として千代の山が映っているのを好楽が、あゝ千代の山がいる、てなことを言うと、アナウンサーが「千代の富士の師匠です」と応じたのは、何たることか。千代の山の愛弟子は北の富士であり、その北の富士の愛弟子が千代の富士であることぐらい知らないはずはないのに、現代の視聴者にもわかりやすいようにと配慮したとすれば、それはそれで、解説者北の富士氏に失礼ではあるまいか?


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それでもうひとつ。例の「ファミリー・ヒストリー」で伊東四朗の先祖調べで、伊豆の伊東の領主というので伊東祐親の名前まで出しておきながら、曽我兄弟のことにはまったく触れないで終ったが、番組担当者は、現代の視聴者に曽我兄弟などと言ったってどうせ興味がない(あるいは、知らない)だろうと思ったのだろうか?


         *

更にもう一つ。これもNHKだが、「大河ドラマ」という言葉の由来を詮索した中で、当時、つまり昭和三十年代、「大河小説」という言葉がしきりにつかわれていたことに全く触れていなかったのは、アレレ、という感じだった。あの時代、各出版社から各種の「世界文学全集」が競い合って出され、今では信じられないほど売れ(読まれ?)、中でも(これこそまさに時世を物語るものだが)ロシア文学が相当の人気だった。あの長い長いロシア文学の大長編小説の数々、ドストエフスキー、トルストイから、中でも当時しきりに読まれたのが、ショーロホフの『静かなドン』で、上・中・下の三冊本という、まさに大河のごとき大長編だった。そうです、昭和三十八年の『花の生涯』にはじまる「大河ドラマ」は、こうした「大河小説」隆盛の時代のさなかに始まり、誰言うともなく「大河ドラマ」と呼ばれるようになったのです。誰か特定の命名者を突き止めることはできないとしても、「大河小説」のことに全く触れなかったのは、オヤオヤオヤ、であった。

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隋談第614回 平成最後の歳末に

何事にも「平成最後の」という枕詞がつくこの頃だが、文字通り平成最後の天皇誕生日にあたっての天皇の談話はなかなか印象的だった。戦後日本における象徴天皇の在り様を語る内容と、語る人(すなわち天皇自ら)の語り口とが、あれほどぴったり重なった文体というものはないだろう。まさに形影相添うごとく、あれほど平易な、誰でもが使う言葉だけで成り立っている文章というものはまたとない。その意味で、戦後70年かけて出来上がった口語を主体とした現代日本語の文章の達成ともいえる。あれを、昭和天皇が語ったとしたら!まずそれは考え難い。あの独特の節のついた昭和天皇の語り口は、勅語を朗読するための音調が、いくら平易な言葉で民草へ語り掛けようとしても抜きがたくついて回る文語を根に持つ「天皇語」であって、戦前と戦後の天皇の在り方の、いうなら裂け目の上に立った、昭和天皇以外にはあり得ないものだった。あの語り口では、このほどの天皇の談話の言葉を、その意味するところを、語ることは不可能だろう。天皇誕生日の翌日のNHKテレビで、戦後人間宣言をした昭和天皇の全国巡行の映像が映し出され、行く先々で人々に語り掛ける天皇の声が流れたが、あれと、被災地を訪れた平成の天皇の声と口調の自然さとでは、実に興味深いまでに違いが際立っている。父と子と、二人の天皇の在り方の違いが、まさに端的にそこに顕われていた。今回の天皇の談話は、その意味で、天皇が象徴としての在り方を模索した果てに自ら完成した「新・天皇語」の姿であり、その意味で、現代日本語のひとつの達成ともいえる。

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天皇誕生日の翌日のNHK番組で、少年時代からご成婚の頃までの映像が流れたのが実に面白かった。あゝ、と見ていて思わず声が漏れた映像がいくつもあったが、その中にひとつ、その時の現場を私自身、肉眼で見た光景があった。学習院の中学生のころの映像で、あの学習院独特の詰襟服を着た姿から、ひとつの記憶がよみがえった。後楽園球場のネット裏席から満場の観客に手を振って歓呼に応える姿である。その幾万という満場の観客の一人として、一塁側内野席スタンドに小学生の私もいたのだった。私が現天皇の姿を実際に見たのはこの時と、それから10年余ののち、東京駅のプラットホームでこちらは数メートルの間近に見た夏服姿で、これから高校野球の開会式のために甲子園へ行くのだという声が、どこからともなく耳に入った。もっともこちらは、もう誰もの記憶にある、成人してのちの皇太子時代だから、特別の感慨というものはない。

同じ番組で講和条約発効当時の画像に美空ひばりの「お祭りマンボ」をかぶせたのは、担当者のヒットとほめていいだろう。「お祭りマンボ」を歌うひばりの声は昭和27年4月を象徴する歌声だった。4月28日がサンフランシスコ講和条約発効の日、5月1日が皇居前広場のメーデー事件という、時代の折り目であり、もちろん全くの偶然だがその講和条約発効の日に鷺ノ宮から西巣鴨に引っ越したお向かいの家のラジオから、「お祭りマンボ」の歌声が筒抜けのような音量で聞こえてきたのが、当時小学6年生という子供心に強烈に焼き付いている。

翌年、エリザベス女王戴冠式に出席のため渡英、アメリカまで太平洋を幾日もかけて渡る船旅の模様が、連日一面を飾る記事となった。(あの記事は、おそらく伝書鳩が運んだものだったに違いない。そういえば当時は、鳩を飼っている家をちょいちょい見かけたものだが、今はついぞ見なくなった。)それにしても、見送りの埠頭に吉田茂の姿が映っていたり、英国でのエピソードの人物としてチャーチルが出てきたり役者も揃っているが、戴冠式の現場の映像の、かなり末席と思われる席に座っている皇太子の姿も、往時の記憶を呼び覚ますのに充分である。まだテレビなど一般にはあってなきがごとき時代にもかかわらず、鮮明な記憶となっているのは、新聞に載った写真がが映像となって記憶されているためか、それとも、当時のニュース映画で見た光景の記憶なのか、ともあれ、列席した皇太子の席の序列がいかにも新・女王から遠い、後ろの方だったことを、当時、周囲の大人たちがぼやいていたのも、ついでに思い出した。(つまり、こういうところで敗戦国の悲哀を実感したというわけだった。)

        ***

少しは歌舞伎のことも書いておかなくては。

国立劇場の『増補双級巴』は「壬生村治左衛門内」の復活は、如何なものかと案じたが、まずはしたたけのことはあった。大詰の「五右衛門内」と合わせ、五右衛門の「実像」として一貫させたのは、復活の実を上げたといってよく、国立劇場としてよい仕事をしたといえる。但し、こちらも折角復活した大詰の「五右衛門内」の継子いじめ、「藤ノ森捕物」と出しながら「七条河原釜茹」を出さなかったのは九仞の候を一簣に欠くというもので、釜茹でになりながら我が子を頭上高くさしあげるという、人間五右衛門を物語るエピソードとして五右衛門伝説中でも最も親しまれた場面なのに、もし「残酷」といった批判を恐れてのことだとすれば、世情への忖度の行き過ぎというべきである。

それにつけても、歌六の治左衛門の明き盲ぶりには感服した。俊徳丸でも『朝顔日記』の深雪でも、芝居の盲人役は大概目をつむっているが、治左衛門は目を開けたままだ。歌六の治左衛門は、どう見ても盲人の目であり、それが技巧上のことにとどまらず、この人物の、ひいてはこの場面、さらにひいてはこの物語の通奏低音というべき悲哀の度を深くしていた。日経新聞年末恒例の「本年度ベストスリー」は今回は「趣向」として長老級?から選ぶことにしたために、残念ながら外れてしまったが、せめてここに書いておくことにしよう。

        *

歌舞伎座の今月は一切、玉三郎の手の内にある。壱太郎に、春の『滝の白糸』に続き『お染の七役』を伝授し、自ら演じる『阿古屋』を梅枝と児太郎にも伝授し加えて三人日替わりで見せ、更には、若い二人が阿古屋を勤める日には自ら、何と岩永を演じ、更にさらに『傾城雪吉原』なる「新作歌舞伎舞踊」(と、わざわざ勘亭流で添書きまでつけている)を見せ、梅枝・児太郎には『二人藤娘』を躍らせるという、サービスぶりというか何という・・・。(こういう時こそ、往年の野球解説の「小西節」なら、何と申しましょうか、というところだ。)

でさて、梅枝の曽祖父三代目時蔵ばりの古風、元ラグビー部(なそうな)で培った根性が傾城の意気地に通じる児太郎の気魂と、それぞれに長所を見せてファンを安堵させたのは重畳であったが、さて問題の玉三郎演じる岩永こそ、まさに「何と申しましょうか」というより言葉が浮かばない。見終わった後、二階のトイレでたまたま連れション状態となった某大先達に、「ねえねえ、いまの岩永、本当に玉三郎だった?」と訊かれたが、まあ、そりゃそうでしょうねえ、と返事をしたものの、質問のココロはよくわかった。文楽のやり方をよく調べ(吉田玉男に教わったと聞いたが)た上での工夫はよくわかるが、まさに凝っては思案に能わず、あそこまでシガを隠すと同時に玉三郎自身の個性まで隠してしまっては、あれが本当に玉三郎だったとはいまもって狐につままれた状態のままなのは、如何とも仕様がない。

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昼の部の第一に松也と中車で『幸助餅』が出て、中車が相撲取りになるが、せりふの上手いのはたいしたものだが、いかにも関取ぶりに歌舞伎の相撲らしい色気がない。こういう、相撲取りなら相撲取り、奴なら奴、といった役柄としての「紋切型」が身に添わないというのは、もうそろそろ、中車たるもの心しなければならない時期なのではあるまいか。香川照之との二刀流は、これからもずっと続けるのだろうか?

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まあともあれ、これが「平成最後」の年の暮。どうぞ良い年をお迎えください。

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随談613回 1+1=1.3

判じ物みたいなタイトルで恐縮だが、前回はあれっぱかりでお茶を濁して勘弁していただいたので、今度は早めにと思いながら、そういう時に限って次々とやらなければならない仕事が目の前に現れる、という日が続いて気がつけば早や霜月下旬、勝頼が八重垣姫に口説かれた頃である。(因みに、我が家の夕顔はさすがに霜月も下旬になってからは咲かなくなった)、というわけで今回も、先月分と今月分と合わせて1+1=2とするつもりだったが、1+1=1.5か1.3ぐらいのところでご了解願うことにしたい。

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輪島、古川清蔵、スタンカ、手塚明治、森下整鎮、江波杏子、三上真一郎・・・と続いたこの約二か月間に私のアンテナに引っかかった訃報の中で、マスコミが盛大に取り上げたのは輪島ひとり、まあ江波杏子も近過去マスコミ人と同世代だから相応の扱いをしてもらえたが、昭和30年代半ば頃、南海ホークスのエースだったスタンカとなると、いかにも調べて書いたとおぼしい記事を散見したぐらい。でもまあ、この辺までは今のマスコミのアンテナに掛かり得るものと見える。同じ南海で晩年にスタンカとようやく重なり合ったかという世代差のある森下となると、ほんの数行の死亡記事が出たぐらい。巨人の三塁手だった手塚明治も同じくだが、まあ、これは仕方がないか。新聞が記事を載せてくれただけでもありがたいと思うべきか。

森下の盛りは昭和20年代後半から30年代中頃、三塁の蔭山と共にやさ男揃いの南海でもとりわけてのやさ男だった。(ああいう、スマートボーイの名手ばかり揃えていた当時の南海ホークスのようなチームというのも、その後も含めてちょっとないだろう。14代目の守田勘彌が、当時、大の南海ファンとして知られていたが、なるほど、昭和20年代、別所を巨人に引き抜かれた後の南海を支えたエースの柚木進など、いかにも勘彌ばりの生締物が似合いそうなハンサムだった。しかし与三郎や直侍やピントコナばかりではチームとしては非力なので、パ・リーグでは3連覇しても日本シリーズでは第二次黄金時代の巨人に跳ね返されたのに鑑み鶴岡監督はチーム改造を決意、数年がかりで野村克也のような非・二枚目を増強して遂に巨人に四タテを食わせて夢に見た御堂筋のパレードを実現したのだった。(もっともそのころの巨人は、黄金時代の面影はもう疾うになくなっていたが。) 話のついでだが、蔭山などは、同じ名三塁手として鶴岡監督の秘蔵っ子として育てられ、後継者として監督に指名されたと思ったら、自分は監督に値するだろうかと悩み死にをするという、死に方まで繊細なやさ男だった。銀行員がばくち打ちの親分になったようなもの、とその死を報じた新聞があったっけ。

手塚明治という名前は、明治大学の出身だからというわけではもちろんないが覚えやすいので子供たちも「手塚明治」と上下一対、揃えて覚えていた。大柄でスケールの大きい好選手だったが、結局のところ、長嶋茂雄の出現まで転変した、戦後の巨人の三塁手列伝の一人ということになる。広岡達郎が早稲田を出て巨人に入って最初に三遊間を共に守ったのが手塚だった。その夏の初ナイターの夜の対中日戦の情景が鮮やかに思い出される。昭和29年、川上と千葉の一、二塁は変わらないが、宇野と平井に代わって三塁が手塚で遊撃が広岡、外野もレフト与那嶺にライト南村は変わらないがセンターの青田が前年大洋ホエールズへ去って、早稲田から入った岩本堯が守るという風に、同じ第二次黄金時代といっても少しずつ様変わりを始めていた頃だった。(このころの私は巨人ファンの中学生だったから、こういうメンバーはいまでも空で言えるのだ。)

古川清蔵となると、私などでも幼いころのかすかな印象しかない。実際には、このプロ野球草創期の強打者(戦前に二度、ホームラン王になっている。その一度は年間4本という、最少記録の保持者でもある)の現役生活は意外に長く30年代にまでかかっているのだが、記憶としては戦後間もない後楽園球場で阪急ブレーブズの黒に島の入ったユニフォームを着た姿がほぼすべてである。古川以外にもこうした形で今も眼中に残っている、戦後まで活躍した戦前以来の選手たちの誰彼の名前は、百人とは言うまいが、挙げ出せばたちどころに数十人は出てくるだろう。みんな、当時にあっては一騎当千の強者である。そうした選手はいまもなお次々と出現して、そのときどきのファンの眼中に何十年後迄、留まることになるのだ。見た限りの観客一人一人が、生きている間だけは。

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訃報は訃報でも全くの別口で、元楯の会の会員で三島事件のメンバーという人の死亡記事が目に留まった。服役後は妻の実家に引っ込み、民主党の事務局に勤めていたという。フーム、楯の会から民主党ねえ。若い時の夢から醒めれば、その辺りに落ち着いたということなのであろうか。享年70歳とある。まさしくツワモノどもが夢の跡だが、あの月は松竹75周年というので大顔合わせの『先代萩』が出たのと結びついて記憶している。あれが私の「先代萩体験」中の最大のものであったかも知れない。

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BSのお茶の間劇場で『お茶漬の味』を久しぶりに見た。この作は小津作品の中ではあまり評価が高くないが、それは商社マンである主人公が社命で急に外国へ出張することになるのが、冷えていた夫婦の縒りが戻る契機となるという設定に無理があるからだということになっている。しかしいかにも小津的世界が充満しているという意味では、なかなか捨てがたい作で、私は愛好している。昭和27年の作だから、この年の四月限りでGHQ 撤が撤退、進駐軍が帰って行ったという、微妙な時代が画面に溢れている。五所平之助『朝の波紋』、成瀬巳喜男『銀座化粧』、千葉泰樹『東京の恋人』、佐伯清『浅草四人姉妹』などと共に、いずれも昭和27年という興味深い年の東京の小市民の生活から「戦後」を捕らえている、私の愛好する佳作たちである。佐分利信の商社の幹部社員が鶴田浩二の甥の高等ルンペン(警察予備隊にでも入るか、という会話が交わされる)に誘われてパチンコ屋に入って、玉をひとつづつ穴に入れて弾く、オーイ玉が出ないぞとドンドン叩くと顔を出したパチンコ屋の主人が笠智衆で、軍隊時代の部下だったり、木暮実千代の女房が遊び友達の淡島千景たちと後楽園球場にナイターを見に行くと、ちょうど毎日オリオンズの攻撃中で「4番センター別当」というアナウンスと共に、あの別当薫が打席に入って素振りをくれる。そのワンショットだけでも、オオと声を発したくなる。この年から、後楽園の公式戦でナイターが試合日程の中に組まれるようになったのだから、このワンショットは実に雄弁に時代を証言しているのだ。観戦中、また場内アナウンスがあって、「〇〇さま、お宅からのお電話でございます、至急お帰り下さいませ」と放送する。そうだった。当時の野球場ではこんなサービスまでしていたのだったっけ。(私も実際に、「〇〇様、お宅が火事だそうです。至急お帰り下さい」というアナウンスを聞いたのを覚えている。この時は流石に、内外野のスタンド中が大笑いだった。)電話を掛ける。自宅用だからもちろん壁掛け式である。電話口の向こうの交換手に「ウナで願います」という。もちろん至急電報を打つのだ。佐分利がデスクで仕事をするとき計算尺を使っているのには、アッと思い出した。そうだった! この当時は算盤に代って計算尺がかなり使わていて、たしか、算盤日本一と同じように、計算尺日本一を競う大会などもあったのだった。家では卓袱台でめしを食う。箸箱から箸を取り出して喰い終われば湯呑でちゃちゃっと洗って箸箱にしまう。ラーメン屋に入ればラジオから『サンフランシスコのチャイナタウン』が流れている…と、切りがないからこのぐらいにしておこう。

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ところでこの当時、どころか30年代になってからでも、後楽園に限らず野球場の座席は仕切りのない木のベンチだった。新聞紙を畳んで尻に敷くのが自ら確保する一人分の座席で、小用に立ったりして戻ってくると席が亡くなっていてもおかしくない。もちろん、尻も腰も痛くなるから、7回の表裏の攻撃が始まる前、場内アナウンスが「読売ジャイアンツ(阪神タイガース)、ラッキーセブンでございます」と言うと、巨人なり阪神なりを応援している者は立ち上がって、アーアと伸びをする。風船を飛ばしたり、チアガールやマスコット人形が出てきて踊ったり、などと言うことはいうことは、一切、ありよう筈もなかった・・・

ということが、思い出話として話題となったのは、今月勘三郎追善で久しぶりに平成中村座の座席に座って、腰と尻の痛さに思わずも往年の野球場のスタンドの様子を思い出すこととなったからだった。中村座には申し訳のような背もたれがつけてあるが(あれは確か、初めはなかった筈だ)、長い板を渡しただけの野球場の座席にはもちろんそんなものはなかった。

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勘三郎追善は、十月十一月と歌舞伎座・平成中村座と続いてどちらも好感の持てる舞台だったが、歌舞伎座夜の部の『助六』で玉三郎が曽我満江になったのが秀逸だった。T&Tなどといって大童だった昔ながらに、仁左衛門の助六がさすがに齢はとったと思いはするものの優美な姿は変わらないところへ、揚巻を七之助にゆずり、勘九郎に白酒売をさせ、自身は満江にまわるという(おそらく玉三郎みずからの発案であろう)配役が絶妙で、そのために今度の『助六』は、喧嘩沙汰や股くぐりなどより、満江の出ている場面が眼目となった。おかげで、平素は裏になっている曽我の世界が立ち現れた、というのは表向きのほめ言葉、七之助には芸ゆずりの趣もあるし、白酒売りが「抜けば玉散る天秤棒」と本当に天秤棒を抜いて見せたのは、かつて14代目勘彌がしたのを若き日の父18代目が見て自分もやってみたいと念願、後年ようやく実現したという逸話を、亡き父に代わって勘九郎が玉三郎の前でやってみせたというミソがあったり、何かと興味津々のユニークな『助六』であった。

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11月の顔見世は、菊の清心に吉の白蓮、吉の五右衛門に菊の久吉という、昼夜にわたる菊吉共演が圧巻だった。先々月の『河内山』といい、それにつけても思うのは『天衣紛上野初花』でも『十六夜清心』でも、菊吉健在の間に是非、今ひとたび、通しで見せてもらいたいということである。今生の見納め、悔いはないという気さえする。

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歌舞伎座の夜の部で猿之助が『法界坊』を出したのは出るべくして出た、というところだろうが、まずはオーソドックスにと言いながら、聞くところによると、伝承の間に積もり積もったギャグの類を出来るだけ切るようにとの方針であった由。そうなるとどうしても、ハードボイルド風のタッチになるのはいいが、これを更に進めるとこの狂言の地金にある陰惨な要素が露呈してくることになり、勘三郎二代のような愛嬌が体にあるわけではない猿之助としては己れを知る業とも言えようが、一方そうなると、既に勘三郎が串田歌舞伎でやった線に重なることになりはしまいか?

まあ、今からそれを心配するのは取越し苦労として、切り捨てたギャグの中でひとつ、白髭鳥居前の場で、桜餅の折を「しめたぞしめた、〆このうさうさ」とぐるぐる巻きにする、あの卓抜なギャグまで捨ててしまったのは残念である。その前におくみを乗せた駕籠をぐるぐる巻きにする、駕籠と桜餅の折が相似形であるという視覚の連想がもたらす可笑しみは、キャンディーの箱の少女が手にした箱に自分が描かれているという不思議と同じく、なかなか「哲学的」であって捨てがたい妙趣がある。

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その『法界坊』の大詰の「双面」で、前の「大七」のおくみが案外で、ちょっぴり失望させた尾上右近が、この場に至って俄然、大化けする。こういう「変身」の秘儀こそ、この種の芝居の根源にある魅惑であって、たとえ「名優」だからといって皆が必ずしも出来るわけではない。逆に猿之助は、ここでの隈取が妙にのっぺりと綺麗に描いてあったのは頷けない。

それにしても、今度の若手花形が中心の一座では序幕「向島大七」の鯉魚の一軸をめぐるドタバタのおかしみが、まるで芝居にならないのに、大袈裟のようだが少々ショックを受けた。ドリフターズみたいで面白かった、という声もあった由だが(往年の「エノケンの法界坊」を知る人はいまどき後期高齢者だけだろうが、ドリフターズを知っている人だってもはや相当のご年配であろう)、後半、歌六の甚三が登場してようやく芝居になったというのは、一見華やいでいるようで、実はそろそろお寒くなってきている「歌舞伎のいま」を垣間見たようでもある。

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国立劇場の『大岡越前』が意気上がらぬ中で、ただ一人、楽善の水戸老公が見事だった。亀三郎時代から見てきたこの人の越し方を思うと、いわば隠居名の楽善を名乗るようになってからの風格と舞台の冴えには、我がことのように胸に迫るものを覚える。こういう役者人生もあるのだ。こういう、「名優」としての在り方もあるのだ、と改めて思う。

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今度の『名高大岡越前裁』と銘打った天一坊劇がとかく起伏に乏しいのは、この狂言が実は、芯の役は大岡であっても働くのは天一坊であるというところにあるのだが(その意味では、ひところ「天一坊と越前守」などといった映画の題名みたいな外題がはやったのにも理由があったのだ)、戦前、この芝居を当たり役にしていた十五世羽左衛門は天一坊と池田大助の二役を兼ねるのを常としていたというが、なるほど、それでこそ面白い実録大衆劇になるのだ。

池田大助というのは、今度は彦三郎がやった役だが、「無常門」「紀州調べ」「切腹」という一番儲かる場面で活躍する(今度はその「紀州調べ」を出さないので、出る幕出る幕、奉行所だ役宅だという固い場面ばかりで気が変わらないのが今回最大の誤算である)越前守側近の若侍中でもひと際の儲け役であり、戦前戦後のひと頃まで、歌舞伎を見ない子供たちにまで知られた名前だった。今も時々出る綺堂の『権三と助十』にも登場し(あれも実は大岡政談劇である)、最後の方に越前守の使いで褒美を渡しにやって来て、二人に向かって「やるじゃあねえか」と砕けて言ってワッと沸かせる場面があるが、野村胡堂に『池田大助捕物帖』という、『銭形平次捕物控』と並ぶシリーズ小説があり、かなり読まれたものだった。ラジオの連続放送劇になったりもしたが、昭和40年に初代として襲名、売出し中だった辰之助が、NHKの連続テレビドラマで『池田大助捕物帖』を主演したのが今となってしきりに懐かしい。後に病気をしてげっそり痩せてしまったが、このころはいかにも松緑の息子らしい恰幅の良さで前途洋々を思わせる好青年だった。

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かなりガタピシした九州場所だったが貴景勝の優勝はよかった。高安は、よく言えば豪快だが、腰高で力任せの取り口で墓穴を掘るところ、小型稀勢の里ぶりを長短共に見せて、兄貴分の稀勢の里の穴を八分目埋めたところで最後に自滅した。あのままでは横綱にはなれまいし、なったところで兄貴分と同様、取りこぼしが多いだろう。稀勢の里は、期待と抜群の人気といい、取り口は違うが腰高で力任せの相撲っぷりといい、待たせに待たせてようやく横綱になった挙句、怪我続きで短命に終わった往年の吉葉山を連想してしまう。

貴景勝はいまのところ、生真面目なところなど、師の貴乃花のいいとところだけ似たようで、このまままっすぐ、余計な屈折をしないで伸びれば大成するかもしれない。そのためにもくれぐれも、「不借身命なんどという、かつての軍人が好んで使ったような難語をひねくりまわす趣味に耽る真似までは師に学ばないでもらいたい。短躯肥満の横綱というと照国だが、今のところは取り口が違う。取り口に幅が出来て、前捌きと差し身のよさが身につくようになればだが、それはいま急に考えなくていいだろう。それにしても、昨年来のああいう事態、こういう事情を考え合わせると、今場所の貴景勝の優勝というのは、協会側・貴乃花側双方を睨み合わせた相撲の神様の絶妙の捌きというべきか。

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貴景勝優勝一点張りの相撲報道のおかげで鵜の毛ほども報道されないが、千秋楽結び前の一番の栃ノ心=松鳳山戦は奇妙なものだった。私に言わせればあれは栃ノ心一勝、松鳳山一勝の、言うなら預かり相撲である。一度目は審判長、二度目は行司が、立ち合い不十分で止めてやり直したわけだが、一度目などは両者審判の声に気づかず勝負がついてしまってからの取り直しという見苦しい措置だった。(その上での相撲が、松鳳山が口を切って顔面血まみれ、返り血で栃ノ心も胸が血だらけ、おまけに物言いのつくもつれた勝負だったというのも因縁めいている。)
 この一番に限らず、呼吸が合っていると思われるのに行司が止めて立ち合いをやり直させるということが、最近やたらに多い。審判部の方針に沿ってのことだろうが、見ていて白けることも少なくない。あまりに神経質と思われる行司も何人かいる。(つまり、行司によって差異があるという不公平も生じている。)

それと密接に関連していると思われるのは、仕切りに入る前にぐずぐず時間をかける力士が近頃頓に多くなっている。腰を割って蹲踞に入る前に、自分の都合で隙取るのだが、どうも見苦しい。栃煌山辺りから目立ち始めて、一番重症なのが石浦、遠藤にもその気味があるがもちろん彼等だけのことではない。審判や行司は、むしろそこから注意を促すべきで、その方が根本ではないか。

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随談第612回 神無月の夕顔

今月もまた月をまたいでしまった。余儀なく簡略版と行こう。

窓に這わせている夕顔がこのところになってよく咲く。大輪だと開けば直径10センチは優に超える、薔薇や何かのようなギラギラしたところが少しもなく、これほど清楚な花もないだろう。本来なら、夏もそろそろ終わり涼風が立つ頃に咲くのだが、今年の秋は夏のごとき熱気が続いたので少しも咲かず、今年はダメかと思っていたら、今になって、例年以上によく咲く。夕方に花開いて、翌朝にはしぼんでしまうという、あとくされのないところがいい。日付が変わるぐらいの時刻が一番の盛りで、もうひと仕事という前に夕顔を見るために外に出るのがこのところの日課となっている。

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という前口上を書いたのが10月末。それだに随分遅いのだが、そのまま、書き足す暇の出来ないままに早や11月も一週間。というわけで思い切って今回はこれまで、次回、今回書くつもりでいたことも併せ、載せることにします。ご了解ねがわしう。

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随談第611回

あれよという間に9月が終わってしまう。慌てて随談その611回。

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九月の歌舞伎座は、秀山祭という看板の元に、じつは三つの興行が鼎立するかのようだった。ひとつはもちろん秀山祭。昼の部の『河内山』に夜の部の『俊寛』と、この部分については揺るぎがない。もうひとつは昼の部第一の『金閣寺』。これは福助舞台復帰の慶寿院が衆目を集める眼目で、児太郎が歌舞伎座で雪姫をするという瞠目すべき配役に、梅玉が藤吉をつとめ、上手屋台の雪姫に付き添う腰元を歌女之丞と梅花がつとめるという、成駒屋一門配慮を尽くしての格別の一幕である。これはしかし、秀山祭という大きな翼の下に翼賛されているかに見えるから違和感はない。

第三は夜の部の過半の時間を使っての新作歌舞伎舞踊『幽玄』で、あれこれロビー雀たちの話題を集めたのは、内容・出来不出来の可否については措くとしても、ここがどうも別世界のようになるということだった。『俊寛』までと、それ以後と。ここに紹介するのは、歌舞伎は興味があるから切符を貰ったりすれば喜んで見に行くがそれ以上ではない、という程度には歌舞伎を見ているというさる知人が、夜の部を見てきてメールを寄越しての感想だが、私は『幽玄』も舞台が奇麗なので興味を持って見ましたけれど、前や後ろ、隣の席の人たちは、途中で次々に席を立ってしまいました、という。どうでした?とこちらから訊ねたわけでもないのに、わざわざこういうことを知らせてきたのが面白い。つまりこの人は、太鼓芸能集団鼓童出演、玉三郎演出による新作舞踊『幽玄』をそれなりに興味を持って見たが、なんだか普通の歌舞伎とは違うなあ、と感じた一方、周囲の客が席を立つのを、歌舞伎通の人にはきっと面白くないのだろうなあ、と察知したのであるらしい。この人とて、歌舞伎に全く無知なのではない。

「歌舞伎は興味があるから切符を貰ったりすれば喜んで見に行くがそれ以上ではないという程度には歌舞伎を見ている」と、言葉でいえばややこしいようだが、実はこういう人たちが歌舞伎座の座席のかなりの部分を占めていると想像される。常連客の予備軍とも、外縁部分とも言えるこういう層の人たちの言うことが、案外、歌舞伎需要(受容)の実態を語っているのかもしれない。おそらくこの新作歌舞伎舞踊『幽玄』一幕は、たとえば12月の三部制公演などの折に、これ一本で第三部あたりの演目として出したなら、落ち着くべきところにすんなりと坐り場所を見つけられたのではあるまいか。

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『河内山』を見ながらつくづく思ったことが二つある。ひとつは、元気なうちにもう一度、吉右衛門に通し上演『天衣紛上野初花』を是非やってもらいたいということ。いつもの「質見世」「松江邸」と直侍の「蕎麦屋」「大口寮」に加えて「大口楼廻し部屋」「三千歳部屋」「田圃」と出し、大詰の「妾宅」まで出すのは、吉右衛門は昭和60年12月以来やっていない。これを菊吉でやってくれたなら、私にとっては、今生の見納めのようなものだ。

もうひとつは、吉右衛門一座と呼びたくなるほどに揃った脇の充実ぶりだ。魁春の後家おまき、歌六の和泉屋清兵衛は元より、吉三郎の番頭、京妙の女中と揃う「質見世」は、むかしの誰それ云々と言い出すなら知らぬこと、現代の歌舞伎でもうこれ以上のものは望めまいというレベルに達している。「松江邸」でも、幸四郎の出雲守、歌昇・米吉の数馬・浪路というのはそれぞれそれらしくてなかなかの好配役だし(数馬・浪路というのは、実際には当人たちの言う通りナンデモナイのだが大膳に不義密通と言われて観客にもそう見えるぐらいでないとダメなのだ)、種之助・隼人に又之助・梅蔵・左升・吉兵衛という近習、京蔵・芝のぶ・春花・梅乃・蔦之助・春之助という腰元と揃ったところは水も漏らさぬ布陣というべきであろう。

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それにしても幸四郎は、今月大方の出演者が一役、二役のなか、『鬼揃い紅葉狩』に『操り三番叟』と自分の出し物二つに、松江候に狩野之介と、ひとり四役を受け持つ張り切りボーイぶりと付き合いの良さが好感度をますます高めている。こういう幸四郎の在り方というのはなかなか興味深いものがある。

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今まで気がつかなかったら、おそらくこの月からのことであろうと思うが、歌舞伎座の正面ロビーの、上手寄りと下手寄りの左右対称に当たる見当の壁面に、小さな額が掛かっていて、見ると英文のメッセージが、邦文タイプで打った、昔なつかしいような独特の字体の和訳付きで、それぞれ一通ずつ、飾ってある。近づいてみると、メッセージにはそれぞれ自筆に相違ない署名があって、上手寄りのがダグラス・マッカーサー、下手寄りのが(ナントカ)・リッジウェイとある。マッカーサーの方の日付が1951年1月2日、リッジウェイの方は同年の4月何日だったか、とにかくまだ一桁の日付である。アッ、そうか、と思い出した。つまりこの月、昭和26年1月と言えば前の第4期歌舞伎座開場の月であり、くだんのメッセージはGHQの総大将のマ元帥(と、その当時よくそういう言い方をしたものだ)からの祝辞であるわけだが、ところがその三か月後、この時点ではまだ夢にも思わなかったトルーマン大統領による電撃的なマッカーサー解任ということがあり、朝鮮戦争真っ只中の戦場から戦闘服姿で後任のリッジウェイが着任、ということがあったのだった。(その新聞一面を飾った写真がありありと瞼に甦ってきた。)それでさっそく、着任早々のリ将軍からも頂戴に及んだのが、下手寄りの方の額装のメッセージというわけなのであろう。いままで松竹本社のどこかに眠っていたのが(もしかしたら「発見」されて?)、このたび額装されて正面ロビーに飾られたものと思われる。

ところで、文字通りの立ち読みながら読んでみると、リッジウェイの方はまあ型通りの挨拶だが、マッカーサーの文章に、ム?と目を凝らした一節があった。メモをするまではしなかったからうろ覚えだが、なんでも、かつての歌舞伎には好もしからぬ思想に基づく内容のものもあったが、そういうものは旧歌舞伎座の瓦礫と共に葬り去られ、新しい歌舞伎座にはそうした要素は一切なくなった云々、といったような趣旨であったと思う。(正確に知りたい方は、ご自身で歌舞伎座一階ロビーへ行ってご覧になってください。)ウームと思った。それにしても、秀山祭の今月、67年ぶりに陽の目を見たこの文書、歳月によるシミひとつにさえ、実物ならではの迫力を感じたのは私だけだろうか。

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文楽の九月公演を前に鶴澤寛治が亡くなった。若いころというか、私などが知ったのはもう中年だったが、さほど似ているとは思わなかった先代に、老来瓜二つのように、風貌だけでなく、芸の上でもそっくりになってきて、親子というものの不思議さを思わせた。私は先代が、芸・風格ともに、三業を通じ、あまた見た文楽の名人たちの中でも一番好きだったが、当代が、外見だけでなく先代を偲ばせてくれるのが、近年の文楽見物の楽しみだった。

咲太夫が『本蔵下屋敷』を語って、うまいものだと思わせたのと、吉田蓑助が『夏祭浪花鑑』の「三婦内」のお辰を遣って、とかく前に出過ぎると非難されながら、色っぽいこと水も垂れるようだった若い頃を思い出せる元気さだったのが、私にとって今回公演の二つの楽しみだった。

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芝翫が『オセロ』をやろうと思った動機は知らないが、むかし松緑が途中で倒れて急遽、先代の権十郎が代ったときのことを思い浮かべながら見た。権十郎の生涯に59役という代役の中でも、珍なるものの代表であったろう。いや、こういう言い方は誤解があるといけない。私に言わせれば、この時のオセロ、珍どころか、権十郎の方がよかったと思う。権十郎は「時代」でやったのに、松緑は、歌舞伎っぽくなるのを避けようとてか、「世話」とまではいわないが、ナチュラルにやろうとして水っぽくなったからだ。この辺に、歌舞伎俳優にシェイクスピア(のごときもの)をさせようと企画・依頼する側と、(少なくとも松緑の時代の)歌舞伎俳優が「新しいもの」をしようとする際の思い込みのすれ違いがある。少なくとも、かつてはあった。権十郎はそんなことには構わず、突然代役を引き受けて膨大なセリフを詰め込んで自分に出来るやり方でやったのだろう。そうしてそれが、歌舞伎役者ならではできないオセロを、見事やってのけることにつながったのだ。芝翫のオセロは、黒く塗った顔に目と歯の白さが浮き立って見え、健康的でいい男であるのがよかったと思う。

演出家がいろいろ理屈をこね回して台本を裏読みの上に裏読みして(眼光、紙背に徹する如き達人が、当節の演出家にはうじゃうじゃいるらしい)、原作者もびっくりという演出に出くわすのは、むしろそうでないのにぶつかることの方が稀な近頃だが、今度の『オセロ』でも、幕切れ、これで一件落着となったところへ突如、何者とも知れぬ暴漢の群れが来襲、舞台の上は死人の山となって幕となるという、シェイクスピアもびっくりという演出だった。多分いろいろ小難しい(ゲンダイテキな)リクツがあるのだろうが、やれやれとため息をつくより、こちらはすべがない。そういえばイヤーゴーがもてあそぶ絵地図も地球儀も、亜米利加も亜細亜も阿弗利加もちゃんと描かれている現代の世界地図だったっけ。(それにしても、イヤーゴーが年々歳々、ガキっぽくなってくるのは、現代演劇の在り様を考える上で、結構イミのあることかもしれない。かつて先代白鸚がした、いまとなっては伝説的『オセロ』のときのイヤーゴーは森雅之だったのだ。これこそまさに今昔の感というものだろう。)

閑話休題、現代的演出に話を戻すと、もうだいぶ前になるが、スウェーデンの映画監督のベルイマンが演出したスウェーデン語による『ハムレット』を見たことがある。これは徹底した現代劇としての『ハムレット』で、幕切れに登場するノルウェイ王子フォーティンブラスはかのベトナム戦争で覇を鳴らしたグリーンベレーで、(『ハムレット』だから当然とはいえ)舞台上の人物は全員掃討されてしまうという結末だったが、これは実に面白かった。少しも違和感を覚えなかった。この違いはどこからくるのだろう?

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樹木希林が亡くなって各紙・各局大わらわで、元より私の出る幕などないが、悠木千帆という芸名で文学座の研究生上がりだった頃を見覚えているというのは、小指の先程度の自慢の種になるかもしれない。芥川比呂志以下の、座の創立者岸田國士の愛娘岸田今日子を含む中堅どころがごっそり抜けて劇団「雲」というのを始めた時、口さがない演劇ジャーナリズムから、あれでは文学座ならぬ杉村春子一座だと揶揄されるほど手薄になり、杉村女史が悔し涙を流して地団駄を踏んだりという状況だったさなか、男でござるとばかり義侠心を発揮した森雅之が参加して、紀伊国屋ホールだったかで『三人姉妹』をやったことがある。(もっともそのころは、まだ荒木道子もいたし北城真紀子もいたし、文字通り杉村一座になったのは、次に中村伸郎や賀原夏子らのベテラン勢が抜けてからだが。)ところでその『三人姉妹』のときの上演パンフに、おでこに前髪を垂らしてにっこり微笑む新人悠木千帆の顔写真が、幹部俳優よりひとまわり小さく載っている。中堅級がごっそり抜けて、その下のクラスが大量に抜擢されていい役を与えられた驥尾に付して、悠木千帆も順送りに繰り上げられた一人だったわけだろうが、それでもまだ、舞台よりもパンフの顔写真で覚えている程度の端役だった。とはいえ、他の同程度の連中のことはまったく記憶にないのに彼女だけが印象に残っているというのは、やはり栴檀ハ双葉ニシテただ者ではなかったことを証明するものだろうか。昨年だったかどこかの新聞に、文学座の研究生になったといっても、それまでいわゆる新劇というものはろくに見たこともなく、映画も錦之助・千代之介のナントカ童子みたいなものしか見ていなかったと書いているのをたまたま読んで、フームと思った。さもありなん、やがてユニークな仕事をする人間というのは、そういうものなのだ。

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貴乃花がまたやりましたね。ワイドショーなどの論調を見ても、もう大方の論客にもそろそろ見えてきつつあるようだが、相撲協会がもっと、貴乃花擁護の識者たちが主張するようにやっていたとしても、結局は、協調して行くことは難しかったに違いない。今度の件で私が見たテレビの中では、「サンデイジャポン」が一番いいところを突いていたようだ。もうひとつ、「トクダネ」におにいちゃんの元若乃花が出て、弟は入門した時からずーっと今までやって来て、今度初めて引退するつもりなんだろうと笑っていたのが、引退か辞職かでテレビ識者があれこれ聞いた風なことを論じ合っていた中で、一番急所を突く見方であったかも知れない。

第二相撲協会を画策しているといった噂もあるらしいが、冗談ではなく、もし貴乃花が本当に自分の信じる相撲を実現しようと思うのならそれしかないだろうと私は思う。それで連想するのは、昭和7年、当時関脇の天龍が中心になって同志を率いて相撲協会を脱退、自前で組織を作って独自の興行をした春秋園事件と呼ばれる一件である。髷を切った散切り頭で、星取りの仕方も合理的(と自分たちが考えた)な方法で行い、心意気に応じて応援してくれるファンもあったが、数年で刀折れ矢尽きて解散した。要するに近代的で合理的な運営を実施したのだったが、歌舞伎界で門閥外の俳優たちが前進座を作ったのとほぼ同時期、共通する一面もあるような気がする。尤も貴乃花は、相撲は神事であり国体であるとするのが信条のようだから、方向としてはむしろ正反対だが。

前進座は今も存続しているが天竜一派は結局、一敗地にまみれて解散した。同志の中には、天龍の先輩で、名大関と謳われていた大ノ里という名力士もいて、この人が遠征先の満州で客死したとき『大関大ノ里』という新派の脚本が作られ明治座で上演されている。大ノ里を演じたのは名優井上正夫、妻の役が初代水谷八重子、天龍は柳永二郎という堂々たる配役である。

この天龍氏は、戦後もう一度活躍している、昭和30年頃、それまでNHKだけだった大相撲放送に、新興の民放の先駆けとしてラジオ東京、つまりTBSが乗り出し、当時まだ相撲ファンの記憶に赫々としていた天龍を解説者として担いだのだった。小坂秀治という秀抜なアナウンサーと共に、神風・玉の海・大山親方の解説に志村・河原・野瀬アナといったNHKとはまた別な面白さがあった。ラジオ時代に始まり、テレビになってからもかなり長く続いたと思う。

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折からの台風襲来の報道で埋め尽くされた合間に、日馬富士の断髪式のニュースが流れた。これから世界各地を廻っていろいろ勉強するつもり、というようなことを明るい顔で語っていた。それにしても、貴乃花と日馬富士が時を一にして協会を去るというのは、巡り合わせの皮肉を思わないわけにはいかない。

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栃ノ心が大関の座を維持できたのが、私にとっての今場所の欣事の第一、安美錦の後を追うかのようにアキレス腱を断絶して、こちらは幕下までおちてしまった豊ノ島が、ようやく十両復帰を確実にしたのが欣事の第二。安美錦が序盤の快調を維持できず、来場所の再入幕をフイにしてしまったのは・・・。

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西武ライオンズの源田が捕殺最多記録を作ったという小さな記事の中に、記憶の底に沈んでいた往年の名選手の名前が出てきた。つまり源田が今シーズン達成した捕殺510個という新記録は、1948年、中日の杉浦清の502捕殺という記録を更新したという記事なのだが、それを読んだ途端、当時実際にこの目で見た、ショートを守りながら中日の監督を兼任していた杉浦の姿が瞼の底から甦ったというわけだ。杉浦清といっても、長嶋茂雄と立教黄金時代を作り、1959年の日本シリーズで巨人に4連勝した南海のエース杉浦忠の名さえ耳にすることがなくなってきた近年、よほどのマニアでなければ知る人もないだろう。しかし人の名前ひとつで、幼時に見た「動く姿」がまるで映像のように蘇ってくるのだから、記憶というものは不思議なものだ。

古い名前といえば、今シーズン、ヤクルトの中尾輝という若手のピッチャーが活躍したが、この名前も子供の頃に見た巨人の中尾輝三を連想させてくれて、ひそかに楽しんでいる。中尾という投手は、200勝投手であり無安打試合を二度もするとか、凄い記録をいろいろ作っているのだが、その割には、戦前ではスタルヒン、戦後は藤本英雄とか別所とか、人気の点でも上越すエースが同時期に常に同じチームにいたせいもあって、印象がくすんでしまう損な立場にあった人だった。それにしても、東京ドームより後楽園球場の方が懐かしい、などとうそぶく絶滅危惧人種がやがて現実に絶滅する日が来たら、こうした選手や力士たちの英姿というものは、瞼の底からも死に絶えてしまうことになるのだろうか。

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随談第610回 お熱うございます(遅ればせの挨拶)

締め切りの優先順位がめまぐるしく変動するという事態のために8月の随談を9月になってようやく書き始めるという始末である。今月の初日が開いてしまった今更、先月の話をするのも難儀だから簡略に済ませることにしよう。

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歌舞伎座の三部制の内、第一部と第二部の「弥次喜多」までが幕見席まで完売、第二部第二の「雨乞其角」と第三部の『盟三五大切』がガラガラ、という話を聞いたが、どういうことなんだろう、とも思うし、そりゃそうだろう、とも思う。ふーむ、そうですか、と取り敢えずは相槌を打つより知恵が浮かばない。ホントウニ、ドウナッテルノダロウ?

『花魁草』は既に菊五郎にはなっていたがまだ若かった頃、梅幸がまだ健在で父子共演した初演を思い出しながら見た。当時は、流石の北条秀司も晩年で、北条さんとしてはまあまあの作かなという感じで見たものだが、いま改めて見ると、ちゃんと抑えるべきツボは押さえてあるのだなあと、むかしの作者の確かな腕というものを再認識する。上演時間90分の中に人生の機微が過不足なく盛ってあって、11時に始まり、終わると12時半、ちょうどお食事時間という頃合いになっている。今度は菊五郎の役を獅童、梅幸の役を扇雀がやっているが、なかなか悪くない。ある意味では、こういう二人の方が向いているともいえる。一、二塁感を転々と転がるゴロで抜いたシングルヒットというところ。(二塁手が広島の菊池だったら捕られていたか・・・?)

『龍虎』を見ながら、先月の『源氏物語』の明石の龍神の宙乗りの場面を連想した。次に、八代目三津五郎の随筆に、初演のときまだ健在だった七代目に見せたら、なんだか気違いみたいなものだね、と言われたとあったのを思い出した。七代目の感想の言はいまなら「配慮すべき言葉」というパージに引っ掛かることになるわけだ。私が初めて見たのは八代目としては最後の、のちの九代目の、当時蓑助と踊ったときだが、八代目の時はいつも文楽座出演だったのだから相当の意気込みと権威があったのだろう。

『心中月夜星野屋』の原典の落語の「星野屋」はむかし桂文楽のを聴いたのを思い出す。この名人はなぜか手拭いでなくハンカチを使うのだが、端を糸切り歯で噛んでキーっとしごいて「悔やしい―っ」と泣いた姿が目に残っている。今回は中車、七之助に獅童の女方という配役が効を奏した。中車もこういう芝居を違和感なくやれるようになったのだから、歌舞伎役者として身についてきたのだろう。婆ア役とはいえ獅童の女方も悪くない。『三五大切』の三五郎も悪くないから、つまり今月の獅童は三安打、猛打賞である。

第二部は『弥次喜多』『雨乞其角』併せて、新橋演舞場の『NARUTO』組を除いて次世代若手花形総動員で(中には随分久しぶりの顔も見える)、幸四郎・猿之助の座頭としての目配りの良さがすべてと言って過言ではない。猿之助に至っては『NARUTO』への応援出演との掛け持ちだが、なにはともあれその目配りは大したものだ。『弥次喜多』では門之助のキリストが珍芸賞、これも歌舞伎役者の芸の内である。

『三五大切』を見ながら思ったのは、この芝居は偉い役者の大顔合わせなどより、むしろこういう顔ぶれでやるのが一番ふさわしいのだということである。幸四郎の源五兵衛は仁も柄も違うが念願叶って気を入れてやっている良さ、七之助の小万は玉三郎とも共通しつつそれとはまた一風違う独自の風を見せ(つまり、単なるエピゴーネンではないという)最適任、獅童の三五兵衛も、仁左衛門よりむしろ、あのザラザラ感に於いて最適任だろう。狂言の規模・内容と主役三人の芸の身の丈が、今までのどの顔合わせよりもハマっている。つまり今日的なのだが、にも関わらず、第三部がガラガラだったというのは、当節のカブキ・ゴーアーには「大作者南北作の古典」という堅苦しいイメージで敬遠されたということなのだろうか?

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夏の自主公演・勉強会研究会から収穫いろいろ。

まず歌昇・種之助兄弟の「双蝶会」から。歌昇の関兵衛・黒主、種之助の宗貞、客演の児太郎の小町姫に薄墨という『関の扉』がアッと言わせた。とりわけ黒主には驚いた。もう吉右衛門も幸四郎も体力的にやらないとすれば、これだけの黒主を他に誰が見せてくれるだろう?(と言うほどのものである。)

「音の会」で『寿式三番叟』を素踊りで踊るというのも初めて見る珍しさだったが、新十郎の三番叟がよく踊った。(本当は項を改めて書くべきことだが、先月末、国立能楽堂で野村万作師が『釣狐』を面・装束を付けず紋付袴姿で演じる「袴狂言」として演じるという舞台に出会うことが出来た。87歳の名人の超絶的な芸と並べるわけではないが、稀有な体験ではあった。)

尾上右近の「研の会」で、右近が壱太郎の梅川で『封印切』の忠兵衛をしたのが、なかなか面白かった。詳しくは『演劇界』に書いたが、藤十郎を捨て台詞の末まで「模写」するというのは只事ではない。

鷹之資の「翔の会」で妹の愛子と『吉野山』を素踊りで踊ったが、踊りもさることながら、まさに父ゆずりの素晴らしい声に感じ入った。18歳、今春大学に入学したという。行く末を祈らずにはいられない。

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7月の日経の「私の履歴書」は吉右衛門だったが、何回目だったか、高校生になる前から銀座のクラブ通いをしたという思い出話の中に、指南役は松竹スター森美樹だったというのを読んで、アッと思うと同時に記憶が甦った。いま森美樹と聞いて、オオとすぐわかる人はそうはいないだろうが、昭和30年代初頭の数年、売り出してかなり重用されたスターである。長身で、日本人離れした風貌だったが、むしろ時代劇で重用された。当時は、東映・大映だけでなく松竹も時代劇を盛んに作っていたから、春の連休をゴールデンウィークと名付けて大船の撮影所で現代劇の大作を、秋の文化の日を中心にした頃をシルバーウィークと名付けて京都の撮影所で時代劇の大作を、というのが方針で(シルバーウィークは定着しなかったが、ゴールデンウィークの方はすっかり定着した代り、元は松竹映画の宣伝から始まった用語だったことは忘れられてしまった)、八代目幸四郎、即ち初代白鸚を引っ張り出すのが恒例だった。で、昭和31年秋のシルバーウィークの大作は『京洛五人男』というのを、幸四郎が近藤勇、高田浩吉が月形半平太、田村高広が坂本龍馬(父親のバンツマが死んで、サラリーマンをしていたのを無理やりバンツマ二世として売り出そうと映画俳優に転向させ、現代劇ならともかく時代劇は、と尻込みするのをやらせたのだった。この時が初の時代劇であったかも)等々、という中で森美樹もかなりいい役で出ていたが、たぶんこの『京洛五人男』あたりが縁の端ではなかったろうかと推測できる。そういえば当時、映画雑誌の記事で(そのころ私は、それまで読んでいた『平凡』をやめて、ワンランク上げたつもりで『近代映画』というのを購読していた)、森美樹が「毎日一度は銀座を歩かないと気がすまない」と言っているのを読んだ覚えがある。まさにドンピシャリではないか。おそらく森美樹氏は幸四郎に気に入られ、当時中学生の萬之助少年のよき「おにいさん」であったのだろう。(たしかそれから程なく、不慮のことがあって早世したのだったと覚えている。)

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津川雅彦氏の訃報と共に随分多くの声が聞こえてきたが、それはそれとして、ごく若い時から見ていた者として、ある種の感慨が私にもある。名子役として鳴らしていた兄の陰になっていた少年期を持つ、次男坊の屈折が柔構造の面白いキャラクターを醸成したという、これも良き事例だろう。つい先ごろ、『お転婆三人娘・踊る太陽』に『ジャズ娘誕生』などという昭和32年制作の日活映画を絶えて久しく再見する機会があったが、実に懐かしかった。どちらも、売り出したばかりの裕次郎が、『ジャズ娘誕生』では江利チエミの、『お転婆三人娘・踊る太陽』ではペギー葉山、芦川いづみ、浅丘ルリ子の三人姉妹の引き立て役をつとめつつ、自身も売り出そうというもので、何ともチャチなものなのだが、そこが時代を雄弁に物語っていて、実にいい。監督が『ジャズ娘誕生』は春原政久、『お転婆三人娘・踊る太陽』が井上梅次で、その井上梅次が、もうその年の内に『鷲と鷹』とか『嵐を呼ぶ男』といったアクションものの裕次郎映画を作り始める、その前夜の作なのだが、さてその『お転婆三人娘・踊る太陽』の方に、これも売り出したばかりの、まだ15,6歳ぐらいの津川雅彦が出ていて、なんとも涙が出そうなほど情けなくも懐かしく、しばし感慨に耽った。引き立て役の裕次郎の、いうならそのまた引き立て役なのだが、大を成してからの津川については私などの出る幕ではないとして、こういう話はあまりする人もなさそうなので(『狂った果実』だと、多くの人が語り出すのだが)、ちょいとお目を汚す次第である。

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むかし「月面宙返り」という技で名を成していまは体操界のボスになっている人物が、アマ・スポーツ界汚染の新手の話題の標的となっている。もっとも、その話をするのが目的ではない。この人が選手として活躍したころは、もうあまりオリンピックなどを子供の頃のように熱心に見なくなっていたので、おのずと耳に入ってくる声名しか馴染みがないが、「月面宙返り」などと言う、少年活劇物のような名称が大真面目でつくようになったハシリとして記憶に残っている。もう少し前の、東京オリンピックでエースだった遠藤とか、もっと前から高名だった小野とかいった人たちの頃は、大変な名人上手ではあったが、鉄棒から飛び降りるときはごく真っ当に飛び下りていたから、子供だましのような格別な呼び名がついたりはしなかった。つまり、なんであんなわざとらしい「技のための技」をしなければならないのだろう?という、体操という競技に一種の違和感を覚えた初めが、かの「月面宙返り」だった。フィギュアスケートなどにも同じことが言えるが、おもしろうてやがて虚しさをおぼゆる「技」を競い合う競技の行き着くところなのだろう。

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