随談第586回 舞台随想(その2)

吉右衛門が「七段目」の大星一役、菊五郎が「五・六段目」の勘平一役、仁左衛門が『御浜御殿』の綱豊卿一役(『連獅子』の間狂言の慶雲阿闍梨というのもあるが、あれはまあ、今この際はノー・カウントとしよう)という中で、幸四郎一人、『加賀鳶』の道玄に、芝翫襲名の披露演目『盛綱陣屋』で和田兵衛を勤めるという元気さである。今月に限った話ではない。このところ、こうした「現象」をしばしば目にするが、心身共に健康且つ若いのであろう。やがてXデーが来ても高麗屋ばかりは超高齢者として矍鑠として舞台に立ち続けるのではあるまいか? 舞台ぶりも、同世代の大家たちの中でもひと際、万年青年的な若さを感じさせる。レジェンドとなるのは、案外この人であるかもしれない。

『加賀鳶』の道玄を初めて演じたのは、もう60歳を過ぎてからだった。他にも次々と黙阿弥物を手掛け出し、『筆屋幸兵衛』などは没落士族だから身体にある役といえようが、円転滑脱の趣きからは遠い幸四郎が何故、柄にもない芸質にもない(と思われる)黙阿弥物を?と、真意を測りかねるところも、正直あった。しかしご当人は案外喜劇好きとおぼしく、演じ重ねて道玄も今度で五演目となると、それはそれなりに身について来て、ようやく我が物としたなと認めてよいだけの流露感が感じられるようになった。菊五郎も二度ほどつとめているが正直、如何に当代の兼ねる役者といはいえ、やはり根にある二枚目役者としての体質が、こういう役となるとどこかで邪魔をすることになるからおそろしい。となると、いまや高麗屋を以て担い手と認めるのが現実というものであろう。少なくとも、道玄のオトコとしての強面ぶりは本物である。(勘三郎は遂に一度も手掛けないまま逝ってしまったが、もしやっていたとして、果たしてどうだったろう?)

松蔵の梅玉というものは、これもいまやこの人を以て適任者と認めてよく、あの細身に程の良い量感を蓄えた感じがなかなかいい。鳶の恰好で踵を揃えて束に立った姿が、現在一番風情があるのはこの人だろう。

おさすりお兼を秀太郎がやっていて、このところ頓に、じゃらじゃらした、どこまでが役でどこからが地だかわからないような世話のセリフがすっかり堂に入って、いまやお兼役者として揺るぎがないが(秀太郎がまさかこういう風になろうとは、50年前の国立劇場開場の折の苅屋姫などからは想像もつかなかった)、夜の部の『盛綱陣屋』では微妙をつとめるという変幻自在ぶりを見せるが、こちらは、情の厚さに於いては申し分ないが、セリフのじゃらじゃらがわざわいしてどうも世話っぽくなるのが気になる。先頃の『道明寺』での覚寿もそうだったが、かつての苅屋姫が、覚寿や微妙以上にお兼の方がピッタリになってしまおうとは、まさに有為転変の世の中である。

それにしても、昼の部と夜の部ではお客が入れ替わるからいいのかもしれないが、一日の内にお兼と微妙を同じ役者が勤めるという配役は、どうも感心したことではない。もちろんこれは、秀太郎が望んでしたことではあるまい。東蔵は国立劇場で六段目のおかやをしているし、余儀ないこととはいえ如何なものか。

『加賀鳶』と言えば(通しで出たのは、国立劇場で一度切り、見たことがない)、「木戸前」の勢揃いを序幕とするのが定例となっている。いつぞや赤川次郎氏が、後の場面と筋の上の関係のない「勢揃い」不要論を唱えていたが、なるほど、外題は『加賀鳶』と言いながら鳶は松蔵ひとりしか活躍しない、つまりこの場合も、脇筋である道玄の筋の方が庇を借りて母屋を奪っているわけだ。しかし「勢揃い」のない『加賀鳶』というのも、入場式のないオリンピックみたいなものだろう。

ところでその「勢揃い」を見るとき私がいつも気にかけていることがあって、それは、いざ引き上げと決まって舞台下手に二列に並んだ鳶たちがセリフを言いながら半纏を畳む時の、素早く脱いでビシッと四角く畳む、その手際である。これがなかなかうまく行かないことが多く、中には遂に間に合わず、レインコートみたいにぐしゃぐしゃに持ったまま引き上げる羽目になるのが、大概、一人二人出る。はじめに脱ぐときに袂が引っ掛ると後に響くことになるわけだが、要は気働きの有無であって、今月私の見た日に限って言うと、うまくいかなかった某君の名前は伏せるとして、断トツに手際が鮮やかだったのは右近だった。

この「勢揃い」で、冒頭、押し出して来た鳶たちが花道に並んでツラネを言うのがいわばセレモニーの入場行進みたいなものだが、先頭の春木町巳之助が一同の兄貴分、次の昼っ子尾之吉というのが、ひとりだけ前髪をつけた未成年なのが目につく、この二人がとりわけいい役ということになっている。今度は春木町巳之助が染五郎でこれは顔ぶれから言って順当、役者の格と役の格が重なって結構だが、昼っ子尾之吉に襲名三兄弟の末弟歌之助が、お兄ちゃん二人を差し置いて抜擢されているのがオッと言わせる。声変わりの真っ最中、意気の良さが身上というところだが。

その染五郎だが、自分でも『口上』で笑わせている通り昼夜5役の大奮闘だが、よかったのはこの春木町巳之助と『盛綱陣屋』の暴れの注進といった付合い役、『御浜御殿』の富森は健闘を認めてよいが、実はあの役、作者の指定によると、江戸勤番の都会人が国詰めの田舎侍を装っているのだ、とある。もっとも、そういう富森を演じたのは…などと言い出すと、八代目三津五郎に富十郎に、後は…ということになってしまうが、染五郎に限らず当今の富森は皆、その辺りの含みがどこかへ行ってしまっているような気がする。まあ、それは措いておくとすれば、当節の富森として好演と言ってよいだろうが、肝心の自身の出し物である『毛抜』の粂寺弾正が、思ったほどでなかったのが気になる。喉で発声する昔の癖が戻って、せっかく、懸案だった『勧進帳』で弁慶をあれだけにやってのけ、役者ぶりだけでなく、役どころ、つまり役者としてのフィールドを大きく開拓するゆとりを身に着けたかと期待した折だけに、おやおやというところなのが残念である。

ついでだが、『御浜御殿』で、綱豊に突き放されて富森が吉良を討とうと焦るのをお喜世が必死で止めようともみ合っているさなか、舞台奥の縁先を吉良とおぼしき老人が腰元に案内されて通るのが開いている障子の間から見える、という演出を、何故か今度は採っていない。これは染五郎の責任ではないと思うが、仁左衛門の意向だろうか?

11月の初日を目前に、彦三郎が楽善になり、長男の亀三郎が彦三郎に、次男の亀寿が亀蔵になるということが発表になった。楽善という名前は不勉強で知らなかったが、三代目が隠居名として名乗った名前の由。

彦三郎は、この月の時政でも目についた体の具合から察するとやむを得ないところなのかもしれないが、それでも、「口上」の席に連なってのいかにも渋い、風格ある役者ぶりは、キラキラ役者がもてはやされる当節、滋味のある風情でウムと唸らされる。それにしてもこの人、亀三郎に始まって薪水、亀蔵、彦三郎、そして今度の楽善と、私の見ている前で五つの名前を名乗ることになる。私としても、こんな例は初体験である。(光伸、八十助、簑助、(九代目)三津五郎というのがこれまでの最多改名記録だが、尤も私は光伸時代は見ていない。)

亀三郎といった子役時代に映画に出演している。昭和30年、山本有三の小説の映画化で原研吉監督の松竹映画『路傍の石』で、今も変わらない、生真面目でまっすぐな風貌・演技が主人公の吾一少年にぴったりだった。

亀三郎時代の思い出深い役といえばもう一つ、昭和ひと桁世代を中心に始まった東横ホールの若手歌舞伎が開場10周年を目前にした1964年10月(といえば東京オリンピックがまさに開催中である)、亀三郎等の当時の新世代を主力にした『仮名手本忠臣蔵』通し上演が行われ、現・菊五郎の丑之助の判官におかる、後の初代辰之助の左近の勘平、といった中で亀三郎の役は若狭助に平右衛門だった。とりわけ平右衛門は、その後に見た父親世代の大家たちを含めても、いかにも妹思いの実意のこもった、好もしいものとして今なお甦ってくる。

(蛇足ながら、24歳だった現・左團次の男女蔵が、このとき既に、52年前となる先月の国立劇場と全く同じ師直と石堂をつとめている! 尤も、吉田の兼好を吉田の松陰などと言い間違えたりはしなかったが。)

これを受けて翌40年五月、歌舞伎座で六代目菊五郎十七回忌という特大の興行が行われ(この時に『保名』を踊ったのが11代目團十郎の最後の舞台となったという因縁の公演だった。そのころ何かとトラブルメーカー的行動が続いていた團十郎は、この時も途中休演して物議を醸したりしたが、私の見た日は再出場してからだったのは幸いだった)、丑之助改め菊之助、左近改め辰之助、亀三郎改め薪水という、菊五郎劇団三巨頭の長男3人の同時襲名という晴れ舞台だった。華やかな人気では他の二人に一籌を輸しても、芸が一番しっかりしているのはむしろ薪水だ、という声も少なくなかった。つまりこの時点での亀三郎改め薪水は、菊之助・辰之助と同列に並んでいたのである。

(ついでながら、いわゆる「三之助」なるものは、この時点ではまだ存在していなかった。後の12代目團十郎の新之助は、先の東横ホールの花形揃いの『忠臣蔵』にも、三人同時襲名の公演にも、「学業優先」という理由で出ていなかった。)

好事魔多しという決まり文句が、まもなく薪水を襲った難病の場合ほど、身に染みて思われることはないだろう。東北巡業中の夜行列車の車中だった、と聞いたように覚えているが確かなことは知らない。ともあれ非運はこの時に始まった。身体的なハンディキャップが、それ以後この人の役者人生について回ることになったのだ。長らく病気・保養の時期が続き、やがて亀蔵と改名する。心機一転の心算であったのだろうが、亀蔵時代の舞台は正直、印象が薄い。また数年して彦三郎となって、役どころ・地位、今日に至る歩みを続けてきたが、芯になる役をつとめる機会はほぼなくなった。気の毒、という言い方は却って非礼かも知れないが、薪水襲名前後の、爽やかな舞台ぶりをいま改めて思い起こすとき、何とも言えぬ懐かしさと共に、胸が熱くなるのを覚えないわけには行かない。

彦三郎の名前の先代は、実父の十七代目羽左衛門の前名であり、事情があってのことではあったが、彦三郎という大名跡から羽左衛門という、座元名に由来するまた別な大名跡に変わったのは異例と言われたものだった。新・彦三郎になる亀三郎は、その爽やかで清潔感のある風姿が、父の薪水時代を彷彿させる。良き彦三郎として、父の果たせなかった域に達する「いい役者」になってもらいたい。

弟の亀寿が、薪水でなく亀蔵になるのは、父が病魔に侵されたのが薪水を名乗っていた時期だったのを嫌ったのだろうか? それも分らないではないが、しかし薪水という名は祖父十七世羽左衛門も若き日に名乗った名前でもあるのだし、この際蘇らせてほしいという思いが正直する。この亀蔵は彦三郎家の名前なので坂東亀蔵だが、片岡家にも、現に片岡亀蔵が活躍中だし、羽左衛門家の名跡として市村亀蔵という名前もある(戦前のことだが十五代目羽左衛門の養子に亀蔵という人がいた)。

昭和三十年代から四十年代、中村福助が二人いて、成駒屋福助と高砂屋福助と呼んで区別していたものだが(時には、東京福助と大阪福助と呼ぶこともあったが、これはいかにも艶消しだった。言うまでもないが、この「東京福助」が新・芝翫の父の七代目芝翫のことである)、同名が二人、同時に存在するという事態は、なるべくなら避けた方がよい。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください