随談第607回 麗しの五月に

今回も余儀ない事情で月末になってしまった。芝居はとうに終わっている。間が抜けてしまったようだが、ま、お許しいただきたい。「麗しの五月に」というタイトルを取ってつけたように付けたのは、むかしむかし、大学に入って初めてのドイツ語の授業の時、ABCを教わる先に、先生が黒板にハイネの「麗しの五月に」という詩を書いたのを、何とはなしに思い出したからに過ぎない。あの先生、ゲルマニストとしてはあんまり名を成すこともなかったらしいが、ほとんど思い出すこともない教師たちの中で、ふと思い出すこともあるのは、こんな逸事のせいかもしれない。

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歌舞伎座は菊五郎一世一代?の弁天小僧に堪能した、と言えばほぼそれに尽きる。思えば50年の余、初役の時から見続けてきた弁天である。さすがに、二階堂信濃守の家中早瀬主水の息女ナニガシの姿で登場した時しばらくは、正直、内心ではウームという思いも抱かないでもなかったし、全体から言っても、5年前の現・歌舞伎座こけら落としの時以来の5年の歳月を思わなかったわけでもない。グルメ通がよくやるような言い方をするならば、さらにその5年前の『青砥稿』としての通しの時が極上であったろう。だがまあ、そんなことはこの際、大した問題ではない。誰だったかが誰だったかについて言ったように、「感動した!」というのが一番ふさわしい。52年前の初役からずっと見てきて(もちろん、全部を見ているわけではないが)、若い時は若いなりに、壮年の時は壮年なりに、長老となれば長老としてなりに、これほど「弁天小僧」であった弁天役者は他に知らない。10年前の『青砥稿』の通しの時は、弁天と南郷は今度と同じ菊五郎に左團次、赤星の時蔵は健在だが、南郷が三津五郎、駄右衛門が團十郎だったのだからうたた今昔の感を改めて実感せざるを得ない。左團次の南郷も久しいが、團十郎も先の辰之助も、現・楽善の薪水もと、南郷役者には事欠かなかったが、相棒変われど弁天小僧はずっと菊五郎だった。まさしく、遥けくも来つるものかはの思いである。 

極楽寺の立腹まで出すと聞いたときは驚いたが、これが流石である。気を付けて見ていると、菊五郎はほとんど動いていない。測定してみたらせいぜい幅一間ぐらいでしかないのではないか。(つまり約二メートルである。)それで、ちゃんと極楽寺屋根上の大立ち回りになっている。もちろん、捕り手役の面々の働きがあってのことだが、歌舞伎の立回りというのはあれでいいのである。(まだ平成になる前だったか、タテ師の八重之助が元気だったころ、国立劇場で京劇と歌舞伎の立回りの比較、といったテーマの企画公演があったのを思い出した。京劇では芯の役の役者自身が飛んだり跳ねたり宙返りをしたりめまぐるしく働くが、歌舞伎ではドンタッポのテンポが早くなっても芯の役者がめまぐるしく動くわけではない、ということが、こう並べてみるとよくわかった。)

海老蔵に駄右衛門をさせたのは團菊祭故でもあろうが、70有余翁の弁天・南郷を相手にそれなりに駄右衛門としての貫目を示しているのが海老蔵という役者の値打ちであって、これは天稟といってよい。『北山桜』の奮闘ぶり以上に、むしろこちらにこそ海老蔵の真価がある。

時蔵の虎蔵、松緑の智恵内に團蔵の鬼一と揃って、することにもそつがないにもかかわらず『菊畑』はどうもボルテージが高まらない。もっとも「奥殿」を出さないのが当たり前になって久しい今更、鬼一に魁偉を求めるのは木によって魚を求めるようなものかもしれないが、そうなるとこの『菊畑』という狂言は、いろいろな役柄の人物が標本のようにならぶ見本市みたいなことになるわけだ。

昭和41年4月、といえばさっき言った菊五郎が初役で弁天をした翌年のことだが、八代目團蔵が引退に当って鬼一をつとめ終え、四国巡礼の旅に出たまま瀬戸内の海に入水したという、つまり最後の舞台だった。このとき皆鶴姫をつとめたのが、つい前年五月に菊之助になったばかりの(つまり弁天小僧を初役でつとめたのが、その翌月の6月だった)現・菊五郎だった。今度の『菊畑』に現・團蔵が鬼一をするのにはこうしたことを踏まえた配慮が察しられる。(なおこの時、当時中学生だった孫銀之助、つまり現・團蔵に、八代目は序幕として『弁慶出立』という一幕を書いて与えたのだったが、残念ながらこのせっかくの祖父の置き土産は、まだ本興行の舞台に乗る機会を得ないままに半世紀の余が過ぎてしまっている。)

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住太夫が死去、玉助が誕生。その前に新しい呂太夫や織太夫が出来て、名前の上では私などには文楽を見始めた頃の懐かしい名前が甦ってきて、悪い気はしない。もう、先代玉助を見ている、というだけで、ヘエーと言われる時代になっているのだ。前の勘十郎でさえ、文楽について何かをしている人でさえ知らない人が大勢いるのだから、まして玉助に於いておや。オレ、赤バットの川上や青バットの大下を見ているぞ、というのと同じようなことなのだろう。私が文楽を見始めた頃、熊谷だの光秀だの、という人形は、もっぱら玉助の領分だった。『沼津』の平作、も見たと思う。肩幅と胸幅の厚いがっしりとした体格と言い、茫洋とした風貌・風格と言い、横綱の鏡里に似ている、というのがはじめて見た時の印象だった。鏡里もそうであったように、玉助みたいな感じの日本人を、そういえば見かけなくなって久しい。むずかしい理屈は言わないが、とにかく芸ががっちりと出来ていて小揺るぎもしない、という感じが、いかにも古典の世界の古強者にふさわしかった。優勝を何回しただの勝率が何割何分何厘だのはどうでもいいのであって、そういうことを超えて、鏡里がいかにも横綱らしい横綱であったように、先代玉助もいかにも、古典芸能などというしゃらくさい言葉をまだあんまり耳にしなかった頃からの、文楽の人形遣いという古く尊い芸を伝える立派な芸人という風格が忘れ難い。

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その文楽で『廿四孝』の「筍掘り」が久しぶりに出て、疲労困憊する快感、というものを久しぶりに体感した。どこかの教室で五年がかりで浄瑠璃の原文を解読したとか聞いたが、ではその教室の解読作業に参加した人でないとこの芝居の 醍醐味が分からないのかと言えばそんなことはない筈で、たまにはこういう疲労困憊しながら見る芝居というのも悪くない。文楽では何年かごとには手すりにかかるが、わかりにくいものは遠ざけられる昨今の歌舞伎では、まして歌舞伎座では、もう見ることは叶わないかもしれない。(冗談ではない。国立劇場で、やるなら今でしょう! あの「岡崎」をやった意気を忘れない限り。)

歌舞伎では疾うにやらなくなった場だが「桔梗原の段」というのが私の好みで、槍弾正の越名弾正の突き出す槍へ、逃げ弾正の高坂弾正が「手練の槍先受けてはたまらぬ、そこで身どもは逃げ弾正」とさっさと逃げてしまう、あのセリフを実際の場でいつか使ってみたいと思っているのだが・・・

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西城秀樹だ星由里子だ朝丘雪路だ高畑勲だと、わずかの間にばたばたと聞こえてきた訃報の中でも、時期的にもやや離れて、一番先に聞いたのが、作曲家の木下忠司氏死去の報だった。百二歳とか。木下恵介監督の実弟で、最も人口に膾炙したのが「おいら岬の灯台守は」という『喜びも悲しみも幾年月』の主題歌だが、新聞によっては、テレビの『水戸黄門』の主題歌の方を見出しに掲げたところもあったらしい。人名事典の記述としては、木下恵介監督の一番盛りの頃の作品のほとんどすべての音楽を担当したのが真っ先に来るだろうが、私が初めて聞き覚えたのは『破れ太鼓』という、木下恵介でも比較的初期の作品で、あの阪東妻三郎、つまりバンツマが主演する現代劇の主題歌だった。(時代劇映画俳優中の王者とされる阪妻だが、不幸(と言っていいだろう)なことに時代劇ではいわゆる名画には恵まれず、代表作はということになると(『雄呂血』という無声映画時代の大殺陣を見せる作を別にすれば)、一に『無法松の一生』、二に『王将』、三に、と言ってよいかどうかは議論の余地はあるが、この『破れ太鼓』ということになる。現代劇と言っても近過去の時代を扱った『無法松』や『王将』と違い、『破れ太鼓』はバンツマが洋服を着て出てくる文字通りの現代劇である。私がこの映画を見た最初は、夜、小学校の校庭に白布のスクリーンを張って映写する映画会でだった。(裏側にまわると裏焼きになって見えるという、ある年配以上の方なら必ずや記憶がおありだろう。)あの中で忠司氏も、バンツマ演じる雷親父の息子の一人の役で出演、主題歌を自ら歌うのが、翌日、教室で皆が大声で歌っているというほど、子供心にも一度聴いたら覚えてしまう強烈な印象があった。もっとも、その息子役を演じていたのが忠司氏自身だったと知ったのは、はるか後年、名画座でリバイバル上映を見た時のことだったが。

だが人名辞典での記述は知らず、私にとっての忠司氏の作で最も愛好するのは、昭和二十九年、美空ひばりが主演作『伊豆の踊子』の中で歌う主題歌である。「三宅出るとき誰が来て泣いた、石のよな手で親様が」「まめで暮らせとほろほろ泣いた、椿ほろほろ散っていた」「江島生島別れていても、心大島(逢う島)燃ゆる島」「おらが親さま離れていても、今度逢うときゃ花も咲く」という短い曲で、歌詞を括弧書した短いフレーズを、同じメロディで繰り返すだけという、なんとも簡素な構成なのだが、舟歌か何かのようにゆったりと繰り返されるのがまるで永遠に続くかのように感じられる。十七歳のひばりが、出来上がってしまっているイメージからは思いがけないような高い声で歌うのが情感があってなかなかよろしいのだが、何故かこの曲のことを言う人にほとんど出会ったことがない。流行歌というのは、一番流行った誰でも知っている曲よりセカンドベストぐらいの曲の方が忘れ難いものだという説があるようだが、これなどはまさにそれに違いない。この曲は木下忠司氏の作詞・作曲だが、さっきの『破れ太鼓』にしても、氏は作詞家としても秀逸な詞を書いていて、同じ昭和二十九年にもうひとつ、これも美空ひばりの歌った『お針子ミミ―の日曜日』というシャンソンがあって、これは忠司氏の作詞で、作曲は黛敏郎である。第二フレーズが「お針子ミミーはパリジェンヌ、ダニー・ロバンが大好きで」と始まる。ダニー・ロバンというフランス女優を覚えている人も少なくなってしまったいま、こんなことを書いても、果たして興味を持って下さる方がどれほどあるものやら・・・

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もう少し、書くつもりでいた話題もないではなかったのだが、長くなったし夜も更けてきたし、明日は夏に備えて少しは部屋の模様替えをするのに精力を温存しておく必要もあるし、というわけで、栃ノ心の大関昇進を祝いつつ、本日はここ迄ということにさせていただきます。

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