随談第87回 観劇偶談(その41)勘三郎の鏡獅子

伝統文化放送十周年記念新春特別舞踊公を見る機会があった。

まず富十郎が素踊りで『北州』。身体で空間に描く線の美しさ。その美しさは、もちろん身体の動きが作り出すのだが、それを美しいと感じさせるのは、呼吸であり間であり、それが生み出すスピード感であることが、富十郎を見ているとよく分かる。もちろん曲そのもののテンポがありリズムがあるわけだが、同じ曲を踊っても見る者が美しいと感じるか否かに違いが出来るのは、踊り手の身体の活動と相俟ってはじめて、踊りというものとして「実存」することになるからだろう。芸という瞬間に消えてゆくものゆえの美しさの意味を、つい思わずにはいられなかった。

そのことを最も痛感せずにはいられないのが、井上八千代師による京舞『弓流し物語』である。いろいろな舞の中でもとりわけ京舞は、もし芸のまずい者がやったらゼンマイ仕掛けの人形が動いているように見えかねないほど極端な動きと間から成り立っている。つまり人間が舞い踊る極限の形で、空間に線を描いてゆくその緊張感が、他の流儀にはないほとんど「魔力」といってよい魅力を持っている。

はじめて京舞をみたときの衝撃はいまに忘れない。国立劇場に京舞が東上しての公演だったが、先代の八千代師、小まめ師等々、出る人出る人ことごとく名手としか思えなかった中でもとりわけ忘れがたいのは、井上里春師の『椀久』だった。細い杖一本を腰に差して同じような動きが繰り返される中に、えもいわれぬ陶酔があった。正直に言って、これまで見たあらゆるジャンルの舞・踊り、ダンスの中で、私が最も心を奪われたのは、このときの里春師の『椀久』なのである。

勘太郎と七之助による『棒しばり』もよかった。十二月に歌舞伎座で踊った『猩々』と『三社祭』もそうだったが、この兄弟の踊りは、若々しい溌剌さと、きっちりしつけられた者にしかない端正さとが、ほとんど理想的といってもよいほど、見事なバランスの上に成り立っている。跳躍してふわっと下りる(落ちる)ときの間合いのよさが、求めても得られない快さをもっている。踊り自体はもっと完成度を高めてゆく余地があるにせよ、この間合いと気迫のバランスの上に成り立つ心持ちのよさは、既にかれら独自のものだ。

その、跳躍してふわっと下りる感覚を、ああこれだなと思いながら発見した一瞬が、この日のメインである勘三郎の『鏡獅子』にあった。かつて猿之助が旺盛な元気を誇っていたころ、いかにも高く跳躍して飛び降りるのを得意にしていたが、勘三郎のはそれとは違う。実際にどのようにしているのかはわからないが、見たさまの印象を言うと、フッと空間に浮かんだかと思うと、膝を畳んでそのまま、しかしある間合いを保って(つまり単に物が落ちるのとは明らかに違った間合いを保って)落下するという趣きである。その一瞬の間合いの中に、えも言われぬ充実感がある。

勘三郎の踊りは、かつてのように元気一杯踊りまくるというのとは、随分違ってきている。前シテの弥生の踊りなど、こんなにやわらかく娘の心を踊った人はいただろうかと思うほどだ。

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