随談第110回 観劇偶談(その50)コクーン歌舞伎『東海道四谷怪談』

コクーン歌舞伎の『四谷怪談』は北番・南番ともそれぞれの初日に見たが、ひと月あいだを置いてから、北番だけだがもういちど見直してみた。

串田的演出を随所に施しながらも、下座も使い、運びも現在普通の定番「四谷怪談」に沿って進行する南番は、北番と並べて見ると、やや影が薄く感じられる。下座を廃し、ロック系の音楽を使い、串田的読みで脚本を解体・再構築し、もちろんそれに伴って演出も南番以上に「串田的」(この言葉、これですでに3回目だ)手法を全面的に、自在に駆使した北番の方がはるかに刺激的でおもしろい。このことは、コクーン歌舞伎にとってだけでなく、歌舞伎そのものについて考える上でも、暗示的であるかもしれない。

南番は、12年前に勘三郎がコクーンに初登場したときの台本に、そのときは芸術監督の立場に控えていた串田和美が、全面的に演出したものだという。12年前のときは、勘三郎自身が、在来普通のコンヴェンションに沿いつつも、コクーンという空間を活用するための方法を、現場主義的に、手探りでこしらえていったという新鮮さと活気が、刺激的なおもしろさを確実に生み出していた。その活力は、もう12年もたったとは信じられないほど、いまなお鮮度を保ちながら私の記憶の中に生きている。南番はそれを超えているだろうか?

もちろん、部分部分の演出の面白さは随所にあるし、客席の熱狂は間違いない。しかし、串田氏という歌舞伎の外側にいて、歌舞伎を外から見ている人に歌舞伎に関わってもらう意味は、北番の方がはるかに大きいのではないかというのが私の考えである。

現在普通のコンヴェンショナルな『四谷怪談』が、コンヴェンショナルであるがゆえのすぐれた魅力をもちつつも、そこだけに安住したくない思いからすると、さまざまな不満も感じずにはいられないのも、また事実だろう。以前は定番の内に入っていた「三角屋敷」が通し上演からはずされてから久しいのは誰でもいうことだが、じつは、原作に書かれていながら省かれてしまった場面や人物は「三角屋敷」だけではなく、しかもそれゆえに、南北の書いた戯曲『東海道四谷怪談』の全体像が見えてこないという事実は、だれも否定できないことだ。

北番では「三角屋敷」も「夢の場」も「小平内」も出る、というだけのことではない。伊藤喜兵衛の存在を際立たせて社会悪を形として象形させたり、喜兵衛とお熊と宅悦の三役を笹野高史に兼ねさせて、コンヴェンショナルな演出でお岩と与茂七と小平をひとりが兼ねる効果を裏返しにしたり、群像劇としての視点を導入したり、背景の巨大な仁王像と終幕の地獄の縄梯子を対応させたり、こうしたことこそ、歌舞伎の外側にいる者ならではの目であり、方法である。だがそれだけなら、新劇俳優を使って「新劇版四谷怪談」を作ればいいともいえる。それを歌舞伎俳優があくまで歌舞伎としてやる。そこにコクーン歌舞伎の意味があるのだとすれば、なによりも試されているのは、歌舞伎俳優の歌舞伎俳優としての身体だということになる。ここまで来てしまった以上、歌舞伎を歌舞伎たらしめるものといえば、それ以外にはないことになるであろうからだ。(つづく)

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