随談第118回 観劇偶談(その56)

新国立劇場で永井愛の新作『やわらかい服を着て』を見た。イラク攻撃反対を唱えるNGOのメンバーたちを、イラク開戦前夜から開戦3周年まで、活動や挫折、葛藤から再生をとおして描くというのが趣意である。

(1)イラク開戦直前の2003年2月16日、(2)三人の日本人人質事件のさなかの2004年4月12日、(3)昨秋の小泉劇場衆院選前の2005年9月10日、(4)イラク開戦3周年の今年3月20日の4場面を、途中休憩を一回入れるが暗転だけでつなぐ。場面は活動の場として借りているさる町工場の一室に終始する。つまり同じ場面で、月日だけが移ってゆく。登場人物も9人の活動メンバーと、場所を提供している工場経営者の計10人に限られるから、月日の経過とともに揺れ動き、変化する心境や環境が的確に映し出される。この構成が巧みである。

巧みなのはそればかりではない。群像劇としてメンバーたちを等間隔から、だれにも温かい目と辛らつな目と双方を平等に注ぐ永井愛独特の「相対性理論」はこの作品でも健在、どころかますます冴えている。俳優たちも、みなそれぞれに、いかにもいそうな人物の臨場感を感じさせる。成功作であり、秀作であることは疑いない。

だが見ていくうちに、よしとして見る一方で、妙な感慨が起こってきた。あまりにも見事な作者の「相対性理論」が、やがてラヴェルかなにかの音楽ではないが無窮動の中に入り込んでいくように思えてきたのだ。小島聖の演じる新子という女性をめぐって、吉田栄作演じるリーダーの夏原(NGO運動のために勤めていた一流商社を退社したという設定になっている)が偽善者といって責められる場面が、芝居としては山場であり、みんないい人、という前提で書かれているから観客は安心して見ているわけだが、私はここで、この劇はもしかしたら連合赤軍のパロディなのかもしれないという思いが頭をかすめたのだった。

作意としては、ひとつ間違えばそうならなかったとも限らない危機をもはらみながら、何とか乗り越えてゆく姿をえがくところにあるのは分かっている。しかし、『ボレロ』を演奏しながら、指揮者が、もうこの辺でいいだろうというあたりで、ジャンとオケを鳴らして曲を終わらせるように、作者も程のよいところで事態を収めたからそうならなかったのだ、ともいえる。

私は、この作の弱点を突きたくて言っているのではない。むしろ、作者の、登場人物たちを、繊細な気配りで包みながら、暖かくも辛らつに痛いところををも容赦なく突いてゆく、あまりにも絶妙な相対性が陥ってしまう、底なし沼のような、無窮動のような、自分で自分の尾をのむ怪魚ウロボロスのような、なんともいえない矛盾を思っただけである。

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