随談第130回 観劇偶談(その63)

俳優座劇場でマキノノゾミ作『東京原子核クラブ』を見た。つい前の週には新国立劇場で井上ひさし作『夢の痂』を見たばかりである。どちらも敗戦を軸にした芝居である。対外強硬論を得意気に唱える種族が俄かに繁殖したり、サッカーでは大本営発表みたいな勝ち戦予報を繰り返す内に負けてしまったり(ブラジル戦を前に、こうすれば勝てるなどと、本土決戦を前に竹槍戦術を唱えるような解説者もいたっけ)、応援しない奴は非国民だなどとマジで言う人種が出現したり、アヤウイカナと思いたくなる時勢の、これも反作用的反映かもしれない。

そういう時勢の中で、どれだけ平静を保てるか。頭を冷やし、面を洗って来いと、静かな声で言うことができるか。いつの間にか、自身が声高になったり、肩を怒らせて紋切り型を繰り返す、当の相手と相似形になってしまわずに、言うべきことを伝えるスベを身に添わせていられるか。

そういう観点からいうなら、芝居としては『原子核クラブ』の方が安心して見ていられる。安心して、というのはこっちの方が芝居になっている、という意味である。どうも井上さんの東京裁判劇は、テーマがテーマだから無理もないとはいえ、つとめて肩の力が抜けている風を装いながら、実は肩に力が入って力みかえっているので、見ていてはらはらしてしまい、ひどくくたびれる。横綱を目前にした先場所の栃東が、気にしていませんよと言いながら実はガチガチになって、ろくろく相撲が取れなかったのと似ている。

むかし照国という博多人形みたいに美しい横綱がいて、叩かれても引かれても決して前に落ちない安定度抜群の相撲を取った。この人がユルフンという評判を立てられたことがある。ユルフン、つまり褌がゆる過ぎるというのである。しかし実際は、この人のつきたてのお餅みたいに柔らかな身体には、締込さえもきつく締められなかったのだ。

マキノノゾミさんは、ユルフンで相撲を取るのがうまい人とお見受けする。少なくとも、『東京原子核クラブ』のユルフンぶりはなかなかのものだ。昭和七年ごろから敗戦後の昭和23年ごろまでの、舞台は一貫して本郷あたりの下宿宿でのデキゴトをスケッチを連ねるかのように重ねてゆく。ちょっとあざと過ぎて、この種の芝居では一番大切な糞リアリズムには陥らない写実が、若干ゆがむ部分もあるが(たとえば箕面富佐子という女の扱い方のような。あれは、よくない意味でのコンニチ風の漫画の影響だと思う)、しかし若き日の朝永振一郎を思わせる友田晋一郎役の田中壮太郎や、仁科芳雄を思わせる西田義雄役の山本龍二など、いかにもその時代の匂いを漂わせた人物になっていて感心する。幕間までは、見ていて楽しいけれどもこの芝居何を言いたいのかと思わせておきながら、時代が昭和十五,六年ごろに進むあたりから、にわかに焦点がフォーカスされてくる。そのあたりの計算が、さりげないが、かなりうまくされている。

井上さんの主張するところは、じつによくわかるし、その意見・見解にもかなりの部分、共感する。しかしなんだか、作者のコケノイチネンを鑑賞させられるような気分になってくるのは避けられない。

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