随談第153回 スポーツ随談(その2)新庄剛志論

日本シリーズがプロ予想家の大外れで、新庄が長嶋引退以来の「時の英雄」となって終わった。今回はこれでいいのである。落合の「オレ流」というのは、私は興味も共感するところも少なからず持っているが、今回に関する限り、悪い時に悪い相手に当ったと考えるほかない。新庄流とは対蹠的であるだけに、逆風になってしまった。こういうときは、静かにしているに如くはない。(一言だけいえば、セ・リーグ優勝の時点で泣いてしまったのが、ほかならぬ落合としては一失だった。あそこで、何かが終わってしまったのだ。しかもその涙も、結果的に新庄のあの涙滂沱に浚われてしまった。)

ところで私は新庄にも興味をもっている。嘘でない証拠に、昨春このブログを始めて間もない5月、随談第8回に既に新庄論を書いている。そこでも言ったが、アメリカを経験したことで、新庄は人間として脱皮したのだ。もちろん、新庄の中では一筋につながっているものがある筈だが、対社会的に、ある客観性をもって現われたひとりの人間としては、アメリカ前とアメリカ後とでは、新庄は別人である。

普通はこういう場合、「成長した」というのだろうが、私は敢えて「変わった」と言おう。すなわち、君子は豹変したのだ。と同時に新庄は、イチローや松井や、その他の野球選手たちとは、別なものを見ている人間である。その意味で、日本の野球人としては変わり者である。偉いのは、よく洋行帰りにあるようなアメリカナイズではなく、アメリカを体験することで男を磨いたことにある。

ヒーロー・インタビューの選手たちが、みんな判で押したように「あしたも頑張りますので応援よろしくお願いしまーす」としか言わないのが、なぜだろうと不思議だった、と新庄はいう。こういう発想は、通常の野球人にはない。そういえば落合もいつだったか、野球のユニフォームなんていい大人のする格好じゃないよね、と言っていたことがある。全然別な問題だが、誰も疑わないことをまったく別の視点から見る「目」を持っている人間、という一点で共通する。「オレ流」に生きている者の目である。

ただ違うのは、落合が、やや孤高に傾く日本的なダンディズムの流れに立つのに対し、アメリカで変身した新庄のダンディズムは、それとはまったくの異種だということである。そこに、新庄の日本の社会での新しさがあり、プロ野球の在り様を変える力としての可能性があり得る。(むかし村山監督に土下座させられたことがあったが、村山にしてみれば、「新庄的」なるものはまったく理解の外だったに違いない。その「村山的」なるものが、日本の野球を支えてきたムードなのだ。)

日ハムが札幌に移ったことについても、私は前々から、札幌に進出することを何故考えないのだろうと不思議でならなかった。札幌はいまや大阪をしのぐ人口をもつ大都市であり、東京ドームに借家住まいなどしているより、新天地で斬新なチームを作った方がいいに決まっているのに、その発想が生まれない。玄人をもって任じる人間の盲点、想像力の欠如である。その英断をした日ハムという球団にも興味を感じるが、その札幌移転と新庄が日本に帰ってきたのが同時だったということは、まさに天の配剤である。(つづく)

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