随談第172回 観劇偶談(その80)METライブビューイング公演の『魔笛』

昨年末に歌舞伎座でやったMETライブビューイング公演『魔笛』のアンコール上演があったので見てきた。いろいろ羨ましいようなところもあり、なかなか面白かったが、もっともその批評をここでやろうというのではない。

『ライオンキング』で一躍高名を得たジュリー・テイモアーの演出で、歌手たちの歌も悪くないがそれよりも演出が前面に出ている。そこが面白いのだし、なかなかよく出来てもいるのだが、アンコールの様子を見ても歌手たちよりも、指揮者のジェイムズ・レヴァインすらよりも、演出者の方が尊重されているかに見える。歌舞伎座で似たような経験を思い出すとすれば、『十二夜』のときの蜷川幸雄ぐらいなものか。

だから見た様や芝居があまり面白みがない役や歌手は、どうも見映えがしないことになる。パパゲーノが儲け役なのはいつだってそうだが、ジュリー・テイモアーの演出だと一層の儲け役ということになる。タミーノ役は琉球物の時代劇みたいな髷をつけた扮装が似合わない分、損の卦だったかも知れない。メークや扮装や所作やら、動きの処理や黒衣の扱いやら、歌舞伎や文楽からふんだんに盗んでいることは、いまさら言うまでもない。

見ながらしきりに思ったのは、こうした演出が、在来の東洋趣味だのジャポニズムだのとは違う次元でなされているということである。だから背中がむずがゆくなったりすることもなければ、(ザラストロがちょっと財津一郎を連想させたり、といったことはあるけれど)、逆に妙なナショナリズムをくすぐられることもない。テイモアーの卓抜なところはそうした異文化に対するスタンスが在来の常識を超えているところにある。

とっぴな連想のようだが、見ながら思い浮かべていたのは、つい何日か前、テレビでソフトバンクの王監督が、有力な日本人選手がメジャーへ流出する問題について、日本のプロ野球が本当にアメリカのメジャーと対等になるためには必要なことだと思うと語っていたことである。直接比較すべき接点があるわけではない。しかし異文化に対するスタンスに、常識や通念を超える発想があるという一点で、重なり合うものを感じたのだった。

アカデミー賞の授賞式では、渡辺謙がカトリーヌ・ドヌーヴと並んでスピーチをしたのが話題になったが、一面からいえば、あれなどもアメリカ側の異文化に対するスタンスがわずかながらも変わりつつあることの反映でもあるだろう。アカデミー賞と野球のワールド・シリーズは、自国の祭典なのか国際的な祭典なのか、突き詰めて行くと判然としないところが共通しているのだが、しだいに国際主義へと傾斜してゆくことになるに違いない。そうしてそれは、一応は、いいことなのだろうが、半面、ちょいとオソロシイことをもはらんでいる。政治の面ではとうの昔からアメリカはそれをやっているわけだから。

さて歌舞伎だが、去年海老蔵と亀治郎がロンドンで踊った『累』がオリビエ賞の受賞を逸したらしい。栄誉とか何とかいう話とは別に、いまのこの文脈で考えると、この賞は取らせたかったなという気がする。つまり、異文化の目にさらされ、あちらサイドの基準で測られるという土俵(リングというべきか?)に立って、歌舞伎がどう評価されるかを知る、ひとつの機会だと思うからだ。

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