随談第230回 観劇偶談(その111) 杉村歌舞伎と玉三郎歌舞伎

歌舞伎座今月の『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を見ていて、ある感慨に襲われた。それはまず見事な(と言って然るべきであろう)玉三郎歌舞伎である。すでに杉村春子の面影は、玉三郎がその芸を「盗んだ」、たとえばその口調や声音(むしろ「音遣い」と呼ぶべきか!)に偲ばれるだけで、舞台自体は、もし何の予備知識もない人がいきなり今度の舞台を見たなら、こういう歌舞伎の作品もあるのだと、なんの疑いもなく思い込んだに違いない。『妹背山』の「吉野川」で定高の「太宰の家が立ちませぬ」というところとか『忠臣蔵六段目』の勘平が「ずんと些細な内緒ごと。お構いなくともいざまずあれへ」というところは三代目菊五郎の「声色」を使うのが型になっている、といった「芸談」と同じように、あそこのところは杉村先生の声色でやるのよ、などと玉三郎が言ったとしても少しも不思議ではない。つまり『ふるあめりかに袖はぬらさじ』における杉村春子は、「吉野川」や「六段目」における三代目菊五郎と同じく、その演技の「風(ふう)」が「杉村屋の型」として伝えられる存在となったのである。

勘三郎が岩亀楼の亭主でお弁当をたっぷりつける大御馳走で観客を喜ばせ、引付座敷で福助のマリア以下御曹司連の扮する唐人口の遊女が過剰なばかりにサービスにこれつとめるのは、『助六』でいえば白酒売りの登場から本筋が大きくワープし、股くぐりの通人だの国侍だのが続々登場する饗宴ぶりによく似ている。まったく、妙な奴らでござりましたなあ。『助六』が、わけても白酒売りや股くぐりの国侍や通人が活躍するくだりこそが、歌舞伎以外の演劇にありうべからざるものであるという意味で、あれこそ歌舞伎ならではの歌舞伎の華ともいうべく、その伝でいうなら、第二幕「岩亀楼引付座敷扇の間」の場こそ、歌舞伎狂言『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を歌舞伎たらしめている場ということになる。

『助六』もしかし、満江が登場し引け過ぎごろの宴果てての寂びしみの中を十郎を連れて帰るあたりから、深々とした風情が漂いだすように、『ふるあめりか』も藤吉が去り亀遊の死がある。その後のお園の虚実皮膜の間を往来する独り舞台は玉三郎オン・パレードであり、これあってこその玉三郎歌舞伎なわけだが、終幕、三津五郎・勘太郎以下の思誠塾の面々に引見されての愁嘆は、打て叩け、いくらも打てよ髭の意休、と助六が愁いの肚で言うセリフに似ていないこともない。大曲輪、大一座で大童の長丁場の大芝居でありながら、結局は助六ひとりでさらってしまうように、『ふるあめりか』もまた、大曲輪大一座、大童の長丁場でありながら、最後は玉三郎の独り舞台で終る。女形冥利に尽きるにちがいない。どんなに活躍しても最後に幕を切るのは立役に持っていかれてしまう歌舞伎古典の狂言と違い、これこそは女形玉三郎の独擅場で幕を切る。

そういえば、つい十月に出した『怪談牡丹灯篭』も、元は大西信行が杉村春子にお峰をさせるために書いた「新劇」だったのを、玉三郎がわがものとしたのである。思えば『女の一生』にはじまり『華々しき一族』だろうと『三人姉妹』だろうと、杉村がやれば新劇にあっても「杉村歌舞伎」たり得たわけだが、そういう見地から見れば、杉村歌舞伎がつぎつぎと玉三郎歌舞伎に塗り替えられていくのも、なかなかの見ものといえる。

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