随談第261回 続・オリンピック異聞

こんなことになりゃしないかという気がしていた。今度のオリンピックでは、悪い予感がふたつも当ってしまった。ひとつは女子マラソンの野口選手。ああいう形とは思わなかったが、悲劇的な事態になりそうな予感がなぜかしていた。もうひとつが星野ジャパンである。こっちは、もう少しこだわりたくなるもやもやが残る。

ここで聞いた風なことを言ってもはじまらないが、気になっていたのは、監督自身が事前にあまりにもテレビやさまざまなイベントに出て(引っ張り出す方も悪いのだが)、いつしか、戦う前から凱旋将軍みたいな空気になっていたことだ。本来決してきらいな人ではないが、はっきり言って食傷した。金メダル以外いらないという言い方も、気になった。

選手選考の時に、稲葉選手に星野監督から直接電話があって、お前、出る気があるのかないのか、どうなんだ、と問うたという話を実況中にアナウンサーが披露していたが、もしアナの説明が正しいとすれば、私には理解しかねる質問の仕方である。選手は選考を待つしかない立場である。それに向かって、お前やる気がないのかと聞こえるような言い方は、理不尽ではないだろうか? 精神主義って、そういうことなのか?

作戦面について素人がエラそうなこというのはみっともないからよすが、素人目にもわかるのは、星野監督にかぎらず、最近金科玉条のようにいう「勝利の方程式」って、少なくともとも短期決戦には当てはまらないんじゃないかという疑問(果して、ダルビッシュなんか、戦艦大和の巨砲みたいにイザ決戦というときになって宝の持ち腐れになってしまった)と、普段四番打者を外人助ッ人に頼っているために、いまの日本にはスラッガーらしいスラッガーがいなくなってしまったということ。それと、サドンデスみたいな延長方式で、バントに警戒などと考えるのは日本人だけで、メリケン野球なら初球から引っ叩きに来るに決まってるのは、素人でも判ることではないだろうか。

それにつけても改めて思うのは、オリンピックというのは、究極のところ陸上競技にこそ、その本質が凝縮されているのだということである。古代オリンピックの起源がそうであったろう如く、誰が一番駆けっこが早いかを競う運動会なのだ。その単純明快さが、スポーツの原点なのだ。その意味で、これぞオリンピックと思ったのは、陸上の400メートルリレーだった。レース後のインタビュウで、末続選手が、これまで日本の幾多の陸上選手たちの努力の結実だと答えていたのは、走り終えた直後の言だけに、きれいごとではない、そのとおりのことを言ったと思う。あの銅メダルは、普通の金メダル数十個分にも相当するに違いない。それにしても、あのインタビュウはよかった。一番若い塚原が号泣しながら答えていたのも、ごく素直に聞くことが出来たし、解説者も言っていたように、みなそれぞれ、大人のメンバーでなければ聞かれない、味のある言葉を語っていた。

野球は、どう見てもオリンピックには向いていませんね。サッカーが中世から19世紀までの戦争を模した戦争ごっこなら、野球は集団と個を複雑に組み合わせた近代戦の戦争ごっこであり、そこによさも面白さもあるのだ。少なくとも、プロ野球にはオリンピックはなくていい。それより、WBCをもっともっと充実させ、将来文字通りの「世界選手権」になるようにした方が、よほど意味がある。そのためにも、もっと強くなきゃ。

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