随談第50回 番外・野球噺

今年はついに球場に足を運ぶことなしにシーズンが終わるのかとちょっとさびしく思っていたら、ひょんなきっかけからヤクルト=横浜戦を見る機会ができた。最終戦のひとつ前の神宮球場である。ネット裏の二階席でかなり涼しい夜だったので、生ビールも一杯だけ。おかわりをする気にはならなかった。... 続きを読む

随談第48回 観劇偶談(その20)

新国立劇場で唐十郎の『盲導犬』と『黒いチューリップ』の二日にわたる二本立てを見ながら、つくづく思ったのは「時」ということである。もともと唐は「時」にこだわる作者である。時の状況を作り出すために、舞台の上の時間をしきりに動かす。めまぐるしく「あの時」になったり「この時」になったりする間に、それぞれの「時」を語る言葉が発射される。... 続きを読む

随談第47回 上村以和於映画噺(その4)

ずいぶん間遠になってしまった映画噺だが、まだ当分続けるつもりである。続けるも何も、下手な噺家よろしく、まだ本題に入らずにマクラを振っている状態なのだ。もっとも、昔の三平みたいにマクラがすなわち本題みたいな噺家もあることだから、これも本題の内と思って読んでくださっても一向に構わない。... 続きを読む

隋談第45回 観劇偶論(その18)

異常残暑に見合わせたようなふしぎな取り合わせの今月の歌舞伎座だが、ひとつ書いておこうと思うのは『勧進帳』での吉右衛門の弁慶である。というと、今さらでもないようだが、実を言うと、私はこれまで吉右衛門の弁慶でとりわけ感服したということはなかった。さりとて悪いとも思わない。吉右衛門ならこのぐらい出来て当り前だろう、まあそんな感じで見ていることが多かった。やり方も、父の八代目幸四郎などと同じ、現代で最もオーソドックスとされている実事本位の、風格ある知勇兼備の英雄的弁慶で、そういう点からいっても、つまり良くも悪くもあまり特徴のない、何かと論じたりする対象になりにくかったということもある。... 続きを読む

隋談第44回 上村以和於映画噺(その3)

前回までに書いた「わが映画前史」状態から抜け出して、自分の小遣いで自分の考えで見に行くものを決めて、つまり自主的に見るようになるのは時代劇映画にはまってからだが、その前のグレイゾーンみたいな感じで、大人といっしょに見に行った現代劇映画の、いまとなっては貴重な思い出がある。『晩春』だの『ジャコ万と鉄』だの『自由学校』だのといった名だたる名画や有名作もその中にあるのだが、さほどの「名画」ならざる「普通作」も、単になつかしいというだけでない、わが感性形成の上で貴重な財産になっていることに、近頃気がつくようになった。... 続きを読む