随談第662回 雑学大学

正式名称は東京雑学大学、私が関わりを持つようになったのは20年ほど前からだがそのころ既に確固たる活動を続けていた。設立者は大正の昔の早稲田の名ランナーで箱根駅伝初期の頃に、いまの河野太郎大臣の祖父の河野一郎などという人達と共にメンバーであったそうな、という大変な人で、私の知った頃もまだ健在だった。その名の通り「雑学」だから、専門などという小せえことに捉われない。森羅万象、硬軟大小、興味深いことならあらゆることが学びの対象になる、それを学ぼうという、即ち「雑学」のための大学である。対象は、個々それぞれさまざまな仕事で世に何らかの貢献して既に現役から離れたが、まだまだ学ぶ気持は旺盛に持っている、といった年配の人たち男女を問わず、そういう人たちのための「大学」をこしらえて、詳しい経営方法は知らないが財源はおそらく参加費用だけだったのではあるまいか。講師はさまざまな分野から伝手を通して、その都度都度に声を掛けられて授業を引き受けるわけだが、講師料はゼロ、即ち無報酬。但し、授業終了後、会場近くの中華料理店で(と決まっていたわけでもなかろうが、中華料理のことが多かったような気がする)でスタッフ(というのも、会員からの有志であろう)と打ち上げの会食をする、その費用はタダ、つまりご馳走になる、というのが決まりだった。

「大学」だから、まして聞き手(つまり学生)は上記のような大人たちばかりだから、そういう意味では普通の大学の学生よりむしろレベルは高い、というより、相手は大人である、ということである。何カ月かごとに、各講師それぞれ、こんな話をしたというレジュメみたいなものが会報に載るので見ると、さすがにその道で通った人たちだから大変なものである。私の場合は歌舞伎に関する話を、と言うだけの注文なので、まあ、名人上手が揃った寄席で、間に挟まってやる奇術だの音曲だのと同じく、色物と心得てつとめることにしたが、また次も、とお呼びがかかるのが続くことになったところを見ると、評判は悪くはなかったのだろう。いつの間にか出演ならぬ出講回数の多い方になっていた。実は歌舞伎より大相撲の方が小さい時から知っている。「菊吉」は見ていないが、双葉山は(見ているはずだが)記憶にないのは兎も角として、羽黒山・照国以降なら知っているといったところ、それでは大相撲の話も是非ということになって二回か三回はやっただろうか。

コロナになってしばらく中断したが、再開となって去年の二月に久しぶりでやったのが、結果として最後ということになった。創立者の方は大分前に亡くなり、その後は奥方が跡を引き継いでからも隆盛は続いていると見えていたのだが、閉学のやむなきに至りましたという挨拶状が届いたのが昨年の秋も末であったか。やはりコロナ禍故の諸々の事情が原因であったらしい。年改まってから、賀状に代えて寒中見舞いをお送りしたが返信がなかった。

とまあ、無慮20年余、ごまめの魚交じりのような講師としてのお付き合いだったが、こういう「大学」もあったのだということをせめてこの場に書き残して、最後のご奉公としよう。

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訃報数種

三枝佐枝子 久しく忘れていた名前である。「婦人公論」編集長という肩書で訃報が載ったが、私もそれ以上のことは知らない。但しこれに「女性初の」という冠がついたところに、かつてニュースになった理由があった。その折のインタビュー記事に、忙しい仕事の合間を縫って「ちょっと歌舞伎座を覗いてきました」と「この余裕!」という感じで報道されたのを読んだのを覚えている、というそれだけの細い糸のつながりである。

永井路子 杉本苑子と共に当時あまりいなかった女性の歴史小説作家として、年配・キャリア等々もほぼ相似ていたところから、当時はよくテレビでも見た顔だった。鎌倉物を本領とし大河ドラマにもなったはずだが、この程の大河ドラマ二作目の鎌倉物を最終回まで見た(かどうかは知らねども)すぐ後で逝去、というのも奇縁というものであろう。

辻村寿三郎と(おそらく本名で)新聞に載ったが、活躍していた頃は「ジュサブロー
と片仮名で書いていた。かなり前から見聞きしていた名だが、何といってもNHK(としても歴史に残る好番組であったろう)で毎夕、かなりの長期にわたって放送した『八犬伝』で、その面白さを、それも人形師としての立場から多くの現代人に知らしめたのが、大天晴れというものだった。あれ迄『八犬伝』などと言うと、知識人(というほどでなくとも、インテリを以って自認しているような人たち)はふふんと鼻であしらって見向きもしないのが通例だった。

われわれ世代には、ともにデビュー間もない中村錦之助の犬飼現八に東千代之介の犬塚志乃という映画があったが(ジャリ、と当時業界用語で言った、つまり子供ファン向けの安上がりの映画で、一回一時間足らずで5部作の二本立ての当て馬、つまり当たれば五週続けて見に来てくれるから「小人料金」(と当時は表記した)でも馬鹿にならない収益になるわけだった)、それはそれとして、私は中3のとき、リライトでは飽き足らず馬琴の書いた原作で読んでやろうと一念発起、学校の図書室から有朋堂文庫の6冊本を借り出して読んだものだった。(こういう大長編の小説を書くような作家になるつもりだったのだ!)受験勉強などそっちのけだったから、お陰で高校に入ってから悲惨な目に遭ったものだが、しかしまあ、受験勉強などにかまけるよりあの時原文であれを読んだのは、いま思ってもどれだけよかったことか。

入来ナニガシ 兄弟でプロ野球の投手としてそれなりに知られた選手となったのだからちょいとしたものと言っていいだろう。今度の訃報はその兄の方だが、選手としての戦績人で投げていた弟の方が上だった。兄は最晩年にヤクルトに移った一年だけ、なかなかの活躍を見せ、その年の日本シリーズで好投したのをたまたま見ている。と言って、解説者やコーチなどになるほどではなく、引退後は大分苦労しているらしきことを聞いたことがあった。それにしても交通事故死とは気の毒な話である。「入来」という、この兄弟以外には聞いたことのない名前は、「入り来たる」という意味で天孫降臨にまつわる苗字だと、誰かが言っていたのをヘーエと思って聞いたことがあるが本当かどうかは確かめていない。何でも猿田彦に関わりを持つ由来があるというのだが・・・

豊田章二郎 この手の人物について書くような材料は持ち合わせ皆無なのだが、何故ここに書く気になったのかと言うと、それこそ蜘蛛の絲のように細い細い縁(と、やはり言ってもいいだろう)が繋がっているからだが、これはもちろんあちら様のあずかり知らぬ話である。小学校5年生の時だった。社会科の授業か何かで、担任の先生が「皆が偉人だと思う人の名前を一人づつ言ってごらん」でなことを言ったことがあって、やれエジソンだ野口英世だとやっている中で、当時私が岡惚れをしていた女子生徒が「ハイ」と手を挙げると「トヨダサキチ」と答えたのである。トヨダサキチWHO?と思ったのが、この偉大なる一族を知った始まりであったというお粗末の一席。他のクラスメートが言ったのだったらそれきりで忘れてしまったのは間違いない。

伊藤絹子死す と聞いて、ああ、と思ったのは後期高齢者だけかもしれない。だがミス・ユニバース日本人初の第三位(というところが奥ゆかしい。オリンピックでも、金メダル続々獲得などというえげつない!ことは昭和20年代にはないことだった)という快挙!を伝えたニュースによって、それからしばらくの間に大人になった世代までを下限として、この名を知らない日本人はいなかった。だが彼女が時代に果たした意義はそれだけにとどまらない。「八頭身美人」、すなわち短躯短足の在来の日本女性の体格から抜け出して、長身で脚線美が売りの新しい型の美女の在り様を初めて身を以って導入したところに、彼女の果たした「快挙」の意味があった。「日本人初」である以上、これは余人にはできないまさに偉業であったと言える。つまり、戦後日本において様々な分野で「時代を変えた」人物列伝中の、彼女もその一人であったわけだ。90歳だったとか。

西山太吉 この人の果たした仕事についてはこんなところで私などが口を出す要はあるまいが、この名前を見ると、政権にある存在と渡り合うことの怖ろしさというものを思わないわけには行かない。どんな手を使ってでもつぶそうと思えば潰すことも、民主主義だのなんだのと言ったところで権力の座にある者にはできるのだということを、まざまざと知ったのはこの人の「あの一件」を通じてだった。つい近年にもあった「あの一件
にしても、いささか奇妙な学校ではあったが、その奇妙さ故に時の話題を引き起こしたあの経営者夫婦は、いまも獄中にあるのだ。

松本零士(の父) 劇画というものについぞ親しまなかった私は、かの高名なこの人のあの作も読んだ(と言うのか、見たというのか分からないが)ことがないが、この人の、かつて戦闘機乗りだったという父親の戦後の生き方を知って、せめてここにその名だけでも遺す気になった。

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二月の歌舞伎座は三部それぞれに落ちこぼれなく良かったと思うのだが、誰に言わせてもガラガラだったという。(なるほど、三部とも三階B席が簡単に買えたわけだ。)今更ながら、歌舞伎の興行の難しさを思わないわけにいかない。(コロナ禍中といえども)一年12カ月、歌舞伎を上演するのが今では当り前ようになっているが、これはじつはたかだかこの30年来のことなのだ。それまでは、歌舞伎で開ける月は、最悪の時は年に8カ月などという年すらあったのだが、ところが、そうしたどん底にあった昭和40年代50年代というのは、芸の上から言えば戦後歌舞伎の最も充実した時期でもあったのだから、客の入りの良しあしというのはまたそれとは別のことと思わなければない。

当時の歌舞伎座の三階席と言えば、ことに夜の部など、外国人観光客を乗せたはとバスが「夜の東京観光コース」の一環に歌舞伎座も入っていたと見え、芝居の途中であろうとバスが到着すればぞろぞろ団体で入ってくる。たまたま、舞台では人物が坐ったままセリフのやり取り、時にはチョボ(というのが竹本の通称だった)が入ったり、といった場面が続く。初めて見るカブキ(と、そのころは新聞などでは表記していた)をどう思ったか、凡そ想像がつくというものだ。やがて予定の時間が来ると、舞台の進行に関わりなくざわざわ音を立てて席を立ちぞろぞろ廊下へ出てゆく。その間こちらはじっと耐えていなければならない・・・というのが、かつての客席風景だった。それから思えば・・・?

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今月はこれ切り。またよろしく。