随談第651回 雑誌『劇評』三代記

コロナの騒ぎが最早「騒ぎ」ではなく「常態」と心得るべきこととなった感のある一方、露国のウクライナ侵攻という一件は、なんとなく終末論的な要素すら孕んでいるやに覚える。そんなのに比べれば小せえ小せえと思うべきなのかもしれないが、話をわが歌舞伎に関わることどもに限っても、いろいろ波乱含みの事態が続いている。が、そんな中にも「いい話」もちゃんとある。

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「演劇界」の休刊のことは前々回に書いたが、それを受けての動きと言おうか。近々発行になるだろうが『劇評』という小冊子が創刊されることとなり、声が掛ったので私もトト交じりよろしく創刊号に一文を物したので、チンドンチンドンとクラリネットを吹いたり鉦や太鼓を叩く代わりに、自分のPRも兼ねてお知らせしておこう。知る人ぞ知る、歌舞伎座のいわば膝元を、築地方面へ向かってすぐの路を左へ折れてチョイのところに店を構えて10年余になる木挽堂書店の小林順一氏が発行人である。せめて歌舞伎の劇評の灯を絶やすまいとの思いからの「義挙」であろうと、私なりに理解している。15年前、『演劇界』が小学館の傘下に身を寄せることとなった時にも、三カ月ほど、空白の期間が生じたので、それまで編集の責任者であった秋山勝彦氏が自腹を切って小冊子を出して、歌舞伎劇評の灯を絶やさなかったという先例があったが、まこと歌舞伎という古川にはこうした形で水を絶やすまいという「義人」が、危急の際に現れるのである。

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『劇評』という誌名の雑誌は、実はこれまでに二回、と言うか、二種類存在した。ひとつは、前の歌舞伎座が開場した昭和20年代後期から30年代初めにかけて月刊として刊行され、その月の公演が終わらないうちに出るという迅速さと、劇評だけでなくグラビア入りというのが売りだった。読売の記者だった依光氏など当時新進の演劇記者等の手になるもので、相当の評判を得たと聞いているが、残念ながらまだ小中学生だった私には、後にバックナンバーを手にしてのことしか実感がない。

これを『劇評』と称した歌舞伎劇評誌の第一次とすれば、第二次に相当するのは、昭和53年の1978年から前世紀の末まで約20年間、野州宇都宮に在って歌舞伎から寄席芸から新劇から、目配り広く活動を展開していた清水一朗氏が個人誌として出していたのが、独特の存在として知られている。こちらは、『演劇界』にしても一つの公演について一人の評者の評しか掲載しないため、自分の意見感想と相容れない評者の見解に疑問や不満を抱くという、読者の誰しもが抱懐している思いに対する試みとして、必ず二人、ないし三人、複数の評を載せるところにユニークさがあり次第に評価を高めた。手作りの個人誌なので、年間数回程度の発行という限界から、全公演を対象というわけには行かない半面、これぞという公演については、数名の同人による合評会を掲載するなどユニークな試みが読者を獲得した。同人というのは、『演劇界』で隔年に行っていた新人発掘のための劇評募集や投稿欄、各大学の紀要などを足掛かりとして登場した書き手で、かくいう私もその一人だった。私の場合は、これも前々回に書いたように一等入選したのが昭和52年6月の新橋演舞場の花形公演の評だったが、同じその年の11月の顔見世興行に、東京の歌舞伎座と大阪の中座に東西の全歌舞伎俳優を結集して『仮名手本忠臣蔵』の通しを東西競演の形で上演するという記念碑的な公演があったのを機に、清水氏が『劇評』誌創刊を思い立ったという、偶然とはいえ絶妙のタイミングで奇しき縁に結ばれたのだった。

その年の暮れも押し詰まった30日に、宇都宮在住の清水という未知の人から創刊号と称する『劇評』なる冊子が郵送されてきた、というのが馴れ初めである。明けて正月の松の取れる日、という心憎いタイミングで今度は清水氏ご本人から電話があって、同人として参加してほしい、ついては第二号に三月の国立劇場で菊五郎(もちろん、現・七代目である)が『浮世柄比翼稲妻』の権八をするのを見て6枚で劇評を書いてもらいたい、4月早々に同人の顔合わせをしたいからそのときに原稿を持参してくれという、否も応もない話だったが、こちらも否やはない話だったから、言われた通り、築地にあった中央区の区民会館の一室に原稿持参で赴いた、というのが事始めだった。

この席で、清水さんだけでなく藤巻透さんとか神山彰さん等と初の対面をしたのだったが、藤巻さんの名は夙に『演劇界』の、時には劇評欄、時には投稿欄で頻繁に見て知っていた。所謂「芝居通」としては大変な人で、この実年齢では10歳足らず年長の(萬屋錦之介と同年同日の生まれとの由だった)、知識・経験の量としては及びもつかない先達と親しくなったことが、歌舞伎についての雑学的知識から、「通」という人間存在の有り様から、築地明石町に住まって(幼時、初代猿翁一家と隣り同士、つまり現・猿翁とは幼なじみであった由)銀座八丁を我が庭の如くに闊歩するという日常の姿まで、如何ばかりの「開眼」を繰り返すことになったか計り知れない。まだまだという年齢で不幸な亡くなり方をしたのは気の毒というも愚かというべき人だった。
神山彰さんはまだ本当に初々しい青年という外貌にもかかわらず、すでに独自の見識を備えたいわゆる「畏友」として、今日に至るまで変わらぬ印象を抱かせた。程もなく国立劇場に勤務されることとなり劇評家としての筆を折ることになったので、再び親しく接するようになったのはかなり後年のこととなったが、しまった、先んじられたという思いをしばしばさせられる存在と言おうか。いま現在の活躍ぶりは、ここに書くまでもないだろう。

清水さんは、私より何代か前の一等入選者だったが、私がそれを知らなかったのは、当時の私は、幾度かに及んで、もう歌舞伎など見るまいと思い定めてはしばらく劇場に足を向けずにいるということを繰り返していたので、たぶん、そうした間歇的な空白時に当っていたのだろう。歌舞伎以上に落語界に深く接していて、円生・正蔵・小さん・馬生から志ん朝・談志といった人たちの強い信用を勝ち得ていて(これらはもちろん、すべて当時この名前であった人たちである)、毎月地元宇都宮で主宰していた落語会にはこうした当時錚々たる人たちが快く出演するという按排だった。私が馬生が好きだと言ったら、落語界の会報に馬生についての一文を書かせてくれたが、こういうとき、「書かせてくれる」のでなく「書いてくれませんか」という言い方をする人だった。

同人は常時数人いたが、いくばくかの会費を負担するのと、何カ月かごとに会合を開いて次号の企画や劇評執筆の担当を決める(つまり、何時いつに歌舞伎座なり国立劇場なりで誰それが何をするのを扱うこととしよう、ついては誰と誰がどの評を書くことにするか、といったことを相談ずくで決めてゆく)のと、合評会の校正をするぐらいで、それを終えた後の雑談の方が時間的にはるかに長かった。それを愉しみに参加しているような向きもないではなかったが、やがて愛読者と言おうか、常連の熱心な購読者も参加しての集まりもするようになり、これらをいっときの足場としてやがて他方面で名を成すようになった人たちも、一人や二人ではない。聞けばへーッと驚く名前もあるのは間違いないが、この際はそれは内緒。最終号を出して活動を終わりにしたのが前世紀末だから、すでに四半世紀の昔だが、その後もこうした集まりは新年会のような形で永く続き、いまもまだ、必ずしも終わったわけではない。

これが第二次の『劇評』で、私にとっては、『演劇界』と共に劇評家としての出発点であり、下地を作る土台でもあったわけだが、そうこうするうちに、やがて日経新聞から声がかかって今に至るという履歴になる。新しく船出をする、いわば第三次の『劇評』は、また全く別種の経緯や事情のもとに計画されたわけだが、資本力より個人の手作り感覚という点では、一脈、相通じるところもあるような気もする。

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訃報として、大町陽一郎90歳、川津祐介86歳、宝田明87歳、佐藤忠雄91歳等々の名前を見た。親疎の程はさまざまだが、それぞれに、ムム、と胸に響くものがあった。

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照ノ富士が玉鷲の押しに土俵下へ仰向けに転落するという信じ難い負け方は、膝に加えて踵の負傷の深刻さを物語る、今後に不安を残したという、その一点を別にすれば、若隆景の惚れ惚れするすまいぶり(相撲ぶり)に留飲を下げた春場所だった。とりわけ優勝決定戦で高安の押しを膝が地につきそうなほどこらえた足腰の強靭さは、最近の相撲では絶えて久しく見なかった醍醐味である。昭和36年の初場所、内掛け名人として名高かった琴ケ浜が柏戸の猛烈なのど輪攻めを、俵にかかった足を「くの字
に曲げてしのいだ姿が蘇った。琴ケ浜はついにそのまま押し潰されたが、若隆景が土俵の内のりを辿って回り込んで残したのは琴ケ浜以上と言える。若隆景のことはしばらく前にも書いたが、これで相撲を見続ける意欲が沸いたというものだ。

お陰で祖父の若葉山のことが話題になったのも懐かしさがこみ上げる。力士としては孫の方が上等で、足取り名人の典型的な手取り力士だったが、24,5貫といえば80キロ台という小兵ぶりで、その後に現われたあまたの曲者力士の中でもとりわけ記憶に残っている。解説の北の富士氏が、付き人をしていた横綱の千代の山のところへよく油を売りに来ていたものだと思い出を語っていたが、おそらく、初土俵が同じころであったはずだ。戦中派で、活躍したのが戦後まだ日の浅い20年代から30年代初めにかけて、30数歳までかなり永いこと幕内で取っていた。若隆景は福島の出身とのことだが,若葉山は確か埼玉と言っていたと覚えている。関取になってからもしばらく「岩平」という本名で取っていたのは、幼くした別れた親類に会いたいが故だったという話が伝わっていたが、孫の本名は別の姓のようだ。かくべつ贔屓にしていたわけでもないのにこんな細かいことまで覚えているのは、それだけ印象に残るものがあったわけだが、『相撲』というベースボール・マガジン社で出していた月刊誌を読んで得た知識でもあった。『相撲』にせよ『ベースボールマガジン』にせよ、『演劇界』にせよ、はたまた『映画の友』にせよ、それぞれのジャンルで果たした役割というものは、実に計り知れないものがあった。翻って言うなら、こうした雑誌が健在なうちは、そのジャンルは健全であり安心であると言っても過言ではない。

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ウラジミール大公の建設したキエフ公国がスラヴ世界の始原であるというのが「かの仁」の「信念」の根源にあるとすれば、米国の大統領がいくら「戦争犯罪人」だなどと非難したところで蛙の面に水というものだろう。あっちの非もさることながら、こっちの底の浅さもどっこいどっこいなのにため息が出る。

がまあ、まず今月はこれ切りとしよう。

随談第650回 最後のラ・マンチャ

オミクロン株に変容して以来、コロナ感染の噂は俄かにあちこちで耳にするようになったが、この月の演劇界も、文楽は早々と全面休演してしまったが、あちこちで出演者に陽性反応が出て休演、再開、また休演と、間を縫ってのジグザグ公演を余儀なくされている。東宝ではこの二月、『笑う男』を帝劇で、「ファイナル公演」と角書き?のついた白鸚一世一代の『ラ・マンチャの男』を日生劇場で興行を行なったが、当初、同日の昼と夜に報道関係者に予定されていた観劇招待日が休演となって数日後、帝劇を昼の部に招待、夜の日生の方は満席なのでロビーで映像をご覧になることになりますというので、ウームと一瞬迷ったが劇場にいながら生の舞台を見られないのも皮肉な話とやめにしたら、また二、三日後、今度は席を作りましたという知らせを貰ったので早速出かけた。とにかくこれが、白鸚として最後の『ラ・マンチャの男』である。その心境や、思い遣らざるべしである。

出かけてみると、なるほど、私の席は最前列のいわゆる「かぶりつき」。『ラ・マンチャ』の舞台設営特有の、人物が地下?の扉を開けて登場し、退場するさまが手を伸ばせば届きそうな目の前で展開する。普通だったら平舞台であるべきところがその上に張り出した形になっているから、白鸚のセルバンテス/ドン・キホーテがよろけたはずみに足を踏み外しやしないかとひやひやする。他人ごとではない。こんなところに私事を持ち出して恐縮だが、私なども昨今は、股関節が固くなった(つまり体全体を支える蝶番が錆びついた)ためとやらで、駅のプラットホームなどで、エスカレーターやら何やらで幅が狭くなっている個所など、うっかりよろめいて線路へ転落しやしないかとひやひやする有様だから、白鸚氏の演技とは別に、同世代人として他人ごとと思って見ていられないのである。だが、白鸚は見事、あの法廷へと上り下りする長い階段でもいささかの不安を感じさせなかった。鍛えてもいるだろうがそれ以上に、気力であろう。

いや、足元の話をしている時ではない。舞台ぶりも気迫充実、今度ほど気魂のこもったラ・マンチャは見なかったと言って過言ではない。実はこれまで、私は『ラ・マンチャ』よりむしろ『アマデウス』の方が、白鸚の仁にも芸風にも似つかわしいと思っていたのだが、今度の舞台を見て認識を改めた。というか、この作の良さを、今回の白鸚の舞台ぶりによって、改めて知ったというべきか。「狂気とは何だ。現実のみを追って夢を持たぬのも狂気かも知れぬ。夢におぼれて現実を見ないのも狂気かも知れぬ」という有名なセリフも、今度ばかりは強く心に沁みて聞いた。

だが仄聞するところによれば、この翌日の舞台はまたしても休演となったという。まあ、あれだけの人数の出演者が舞台上に、舞台裏に楽屋にひしめいているのだから、ソーシャルディスタンスどころの話ではない。ファイナル公演がこうしてコロナと「折り合いをつけた」形になったのは残念と言う他はないが、こればかりはセルバンテスでも如何ともしがたかろうというものだ。

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それにつけても思い出す。当時市川染五郎だった白鸚がブロードウェイで『ラ・マンチャ』を演じたのは1970年、昭和45年5月のことだが、この月歌舞伎座では十七代目勘三郎が一世一代の大奮発で「三代目歌六50回忌追善」という興行を行なっていた。長兄の初代吉右衛門ゆかりの役者と言えば八代目幸四郎、二代目吉右衛門(既に吉右衛門になっていた)に先代又五郎等々という一家一門、次兄の三代目時蔵ゆかりと言えば当代の時蔵やら歌六やら又五郎やらがまだ梅枝だったり米吉だったり光輝だったり、どころか萬屋錦之介も出演して一幕受け持ったり、6代目菊五郎とつながる縁で梅幸が出るのは不思議はないが、何と文政年間以来の縁というので十三代目仁左衛門に片岡孝夫等々等、出演者すべて親類縁者ばかりというのが十七代目が鼻高々という一座だった。「口上」の挨拶で、誰それとはかくかくしかじかというつながりで、と客席に向かって説明する十七代目の満足顔というものはなかった。「これに居りまする八代目幸四郎は、隣に座っておりまする吉右衛門の父でありますがまた同時にこの両名は義理の兄弟でもござりまして・・・」等々という辺りがミソ中のミソで、十七代目の得意顔、後の初代白鸚の複雑微妙な苦笑を見比べるのも面白かったが、その中で、「まだこのほかに染五郎がいるのでございますが、彼は(という言い方を確かしたと覚えている)なかなか勇気のある男でいまはラ・マンチャの方に行っております」と言ったのが忘れ難い。十三代目仁左衛門が、文政年間以来の縁という片岡家と三代目歌六の一族との関係を懇切に説明したのも、いかにも「大松島」らしい律義さだったが、最期に、隣に平伏している若き日の十五代目を顧みながら「このめでたい席に倅(せがれ)片岡孝夫を召し連れまして馳せ参じましてござりまする」と締めくくった声音は今も耳に残っている。

あれもこれも、もう五十年の余の昔である。さっきテレビのニュースで、今日は浅間山荘事件からちょうど50年目に当たりますと言っていたが、そうか、あれよりもさらに2年むかしのことなのだった。

随談第649回 『演劇界』・吉右衛門、そして・・・

アルファ、ベータ、ガンマーぐらいまでなら大概の人が知っているギリシャの伊呂波文字も、オミクロンとなるとちょいとガクのある人でないと知らなかったろう。次々と新手が繰り出してくるさまはドロ沼永久戦争の様相。三年目を迎えたこの時期は、太平洋戦争であったら、既に一昨夏にミッドウェイで大敗を喫し、昨年には山本五十六大将の戦死だのアッツ島玉砕だのを経て、この年の秋には遂に特攻作戦が始まるという、じり貧の悪戦苦闘の真っ只中に相当するわけだ。してみるとワクチンは神風か。あーあ・・・

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なんてことは兎も角、『演劇界』が休刊となった。読者としては昭和30年代、書き手としては50年代からの縁だが、そもそも、原稿料を貰えるという形で自分の書いたものが活字になったはじめも『演劇界』なのだから、育ててもらった揺籃のようなものといって然るべきだろう。

昭和18年に、当時政府の指令で各分野についておこなわれた政策の一環として、雑誌統合によって誕生したのがはじまり。明治40年創刊の『演芸画報』が主体だが、『東宝』など演劇関係の数誌が合体しての誕生だったから、誌名も『歌舞伎界』ならぬ『演劇界』であって、事実、小学館の傘下に入って今の『演劇界』になるまでは、日比谷の芸術座や帝劇など東宝系の舞台や、明治座やその他、関西・中京の各座から、簡略ながら新劇まで、文字通り「演劇界」の情報を網羅していた。巻末に小さな活字で各劇場の上演記録を(歌舞伎などは小さな役に至るまで配役を載せていた)掲載していたのが、実はこの雑誌の使命であり生命で、この数ページこそが、昭和平成という、戦後の演劇界の動向を後世に伝え残す唯一と言うべき記録なのだった。

昭和25年に経営が立ち行かなくなり半年ほど休刊の時期があって、やがて利倉幸一さんが取り仕切るようになってからが、経営的には兎も角、演劇雑誌としてユニークな個性を発揮したグッド・オールド・デイズであった。さほど分厚くもないのに読みでがあって、読み終わるのに丸一日かかった。その世界での錚々たる方々が執筆者として名を連ねていたのだから、即ち当時の『演劇界』は私にとって歌舞伎を学ぶ教科書であり学校だった。それも、中学高校から大学レベルまで。この思いは私ばかりではなかったはずだ。土岐廸子さんと榎そのさんのコンビで楽屋探訪だのなんだの、軽いようで読み応えのある記事が始まったのも、ちょうど私が熱心な読者になって間もない頃だった。(下手な劇評より、などと言うと叱られそうだがその急所の押さえ方には端倪すべからざるものがあって、それこそ下手な授業よりタメニナル放課後の遊びのように、初心の私にとって有益な養分となった。)

利倉さんは、新しい書き手の発掘にも意を注いでいて、「見物席」という投稿欄もその意図を担っていたから、誰それさんのファンです、○○屋さんのごひいきの方、お手紙下さい、などというのではなく、意のある所を論じてこのページで名を知られた常連の投稿者も少なくなかった。また利倉さんは、初めは、折から世代交代の時節を迎えていた歌舞伎界の動向を汲んで「俳優論」を募集(第一回は八代目幸四郎、第二回は歌右衛門…という具合に何カ月か、数回にわたって実施したのだったから、いま思っても意気込みの程が知れる)、そこから有吉佐和子、利根川裕等々といった方々が登壇し、やがてそれぞれの活躍の場を大きくしてゆく足掛かりとなった。有吉さんと毎回のように首位を争った草壁知止子さんは映画評論家草壁久四郎夫人だった。しばらく間をおいてから今度は、二年ごとに「劇評」募集をはじめ、ここからもいろいろな人たちが登壇し、三宅周太郎だの戸板康二だのといった高名な劇評執筆者と同等に並ぶ形で誌面に名前を連ねた。志野葉太郎さんとか如月青子さん等々、常連の執筆者となった人材が輩出したが、かくいう私もその驥尾に付した一人だった。予め前の号に、何月の歌舞伎座なり国立劇場なりの歌舞伎公演を対象に劇評を募集と予告があって、当選作は当該の号の劇評として掲載する、という形で行われ、私の場合は昭和52年6月、新橋演舞場の花形公演でいまの仁左衛門の片岡孝夫が『実盛物語』をした時だった。まだ演舞場が、戦災後に再建した旧い建物だった時代で、孝太郎が太郎吉だったのだから思えば今はむかしだが、しかし私にとってはこれが、れっきとした誌面に自分の書いた文章と名前が載ったはじめである。次回からは編集部から執筆の依頼が来て、原稿料を貰うということになったわけだが、普段は三階席の片隅で見ている身が、こういう時には一階の、いわゆる「御社」の席にトト交じりよろしくの態で見るわけで、それもたび重なれば、あっぱれセミプロの劇評家として、『演劇界』の購読者という狭い範囲とはいえ、顔も知らない人たちに存在を覚えてもらうよすがになってゆく。すなわち『演劇界』は、わたしにとっては学校であったと同時に、物書きとしての揺籃であったということになる。

そんな頃、いま考えてもどうして?と不思議に思うようなことがあった。先の劇評募集入選ということがあってから一年後の夏、その間二度ほど、歌舞伎座と新橋演舞場の公演の劇評を書かせてもらっただけが全キャリアであったところへ、来月は歌舞伎の公演がゼロなので歌舞伎十八番をテーマに特集を組む、ついては貴君にそのトップとなるものを書いてもらうと言って何と25枚という原稿依頼があったのである。(当時は、歌舞伎人気がどん底の時代で、日本中に歌舞伎の興行がひとつもないということも本当にあったのだ。昭和50年代といえば、十一代目團十郎はすでになかったが、初代白鸚の八代目幸四郎は東宝から帰ってきていたし、歌右衛門も十七代勘三郎も二代目松緑も梅幸もみな元気で、芸の上では戦後歌舞伎の一つのピークを迎えつつあったのだったが、それと興行としての人気とはまた別物なのだ。)まあびっくりはしたがともかくも書いて出したところ、数日後、利倉さん御自身の自筆でお褒めの言葉を書いた葉書を頂戴した上に、掲載号の巻末にわざわざ推奨の一文まで載せて下さった。こういうことは何年経っても忘れないものだが、あれから半世紀近くの月日が流れたことになるのに今更のように驚く。

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この夏までに岩波ホールが閉館し、駿河台下の三省堂が、これは建て替えのためだがやはり姿を消すという。昭和30年代、私が知った当時の神保町のメルクマールを基点とすると、これで二代目がなくなり、やがて三代目の時代になるわけだが、思えば「演劇界」も私が知ってからこっちは、小学館の傘下に入って以降もずっと神保町にあったわけだから、これもまた、この町から一つの灯が消える中に数えられることにもなるわけだ。もっとも、かつては手書きの原稿を編集部に持参していたことを思えば、パソコンで打ってひょいと送信すれば済むようになった当今は、そうした感慨も薄くなったが・・・

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吉右衛門の訃報は、勘三郎や團十郎の時とはまた異なるさまざまな思いを喚起させられたが、幸いにも、追悼の形で幾つかの場に思いを述べる機会が与えられた。死の報を聞いて間なしの12月3日付の日経新聞朝刊と時事通信を通じての各地方紙に書いた追悼文の外に、今年に入ってから、「月間FACTA」の二月号(1月20日発売)、2月早々に出る予定の『演劇界』三月号にも、それぞれの観点から吉右衛門の追想を書くことができた。殊に「月刊FACTA」は、政治経済外交など現実社会の「いま」を切るのが売りの、歌舞伎ファンとは縁の薄い雑誌だが、そうした場で吉右衛門を語るのはやりがいのある仕事だった。お読みいただければ幸いである。

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お互いさま高齢となってくると、永年年賀状をやり取りしてきた方々から、今年で賀状をやめにしますという通知をいただくことが増えてくる。もっとも至極なことなのだが、やや思うところがあって、今年から、年賀状ではなく「寒中見舞い」を差し上げることにした。これまでにも、身内に不幸があった際などに「喪中欠礼」の代わりに「寒中見舞い」の形にしたこともあったが、今回からは毎年、その「寒中見舞い」を恒例としようというわけである。もっとも、宛名書きをする負担は変わらないわけだが、寒中に出せばよいという時間的なゆとりもさることながら、それももはや出来ないということになるまでは、欠礼が縁の切れ目みたいなことになるのを避けたいからである。例年年末になると、幾人かの方から「喪中欠礼」の挨拶をいただくが、うっかりしているとそのまま音信が途絶えてしまうということもままありがちなのが、前から気になっていたということもある。

年賀状虚礼説や無用説を唱える向きも昔からあるが、また一方、こんなこともある。大学に入学して最初の一年間、語学の授業で同じクラスになったというだけの縁で、野球の応援で一緒になった帰りに飲んだり、という程度のことはあったがそれ以上の深い付き合いのあったわけでもない相手と、いまだに年に一度、賀状を通じて音信が繋がっているという間柄を、一体どう考えればいいだろう? 卒業して当初は、幾人かいた同じような関係だった友人たちが、時が経つうちにいつしか賀状のやり取りも絶え、そのままになってしまうのが普通なわけだが、この友人との場合は、こちらが出し忘れても向こうが賀状を寄こせば返信を書く、と言ったことを繰り返しているうちに、何時しか互いに歳を取り、こうした間柄というのも何かの意味があるように(おそらく向こうも)感じるようになったのだった。これもまた、賀状が取り持って生まれた間柄、ちょいと乙な人生の機微というものではあるまいか。

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訃報欄で次のような人たちの名前を見つけた。

片岡宏雄。ヤクルトスワローズの名スカウトとして鳴らしたが、プロ選手としての戦績は実働6年で2安打だったとある。思い出す。この選手は六大学野球で立教大学の名捕手だったが、プロ入りしてすぐのオープン戦だったかで、二塁に送球しようとしたボールをポトリと肩から落とすという予期せぬ不祥事が、選手としての寿命を定めてしまったのだった。

大相撲から元関脇安念山。栃若時代後期から柏鵬時代前期にかけて上位力士として長く取った。本名が安念なので安念山(あんねんやま)という四股名がめずらかでおもしろいので、負けて引き揚げてくると悪ガキどもから「ざんねんやまー」と声援が上がったそうな。

同じく大相撲界から、呼び出し三郎94歳。この人は相撲甚句の名手で、大川橋蔵を渋くしたような端正な好男子だったが、入門が遅かったために序列は幕内格でなかったので、本場所の土俵では、箒で土俵を掃き清めたり土俵下で介添えをしたりする風情ある姿が懐かしいが、幕内の取組で力士を呼びあげる姿は見られなかった。

川田孝子86歳という記事もあった。「童謡歌手」というジャンルが歴として存在していた頃、川田正子、孝子、もうひとり名前を失念したが妹がいて、三姉妹で鳴らしていた。たいした人気だった。

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朝ドラの『カムカムエブリバディ』が近過去を扱って、なかなか面白い隠し味が気が利いているのを書くつもりだったが、長くなったので次回まわしにして、今回はこれ切りとよう。