随談第660回 抜けば玉散る天秤棒

『劇評』第10号の團十郎襲名の『助六』評に、他の役役について書く余地が亡くなってしまったから、他の場に書こうか・・・と書いたものの、久しぶりに新聞にも書いたことだし、趣向を変えて、『助六』がらみの話題として「天秤棒」と「水入り」の話に絞ることにしよう。

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新・團十郎の『助六』に勘九郎が白酒売で出ているが、「抜けば玉散る天秤棒」というところで、腰に差した天秤棒をスーッと抜いて見せたので、ホオと、ちょいと感心した。父親の18代目勘三郎が抜いて見せたのを見覚えていてやったのだろうか。普通は、と言うか、他の人のやる白酒売りは大概、と言うよりほぼ誰しも、刀の柄に見立てた辺りにちょっと手を掛ける仕種をするだけだが、18代目は「子供の頃、勘弥の小父さんが本当に抜いて見せたのを見てから、ずーっと、何時か機会があったらやってみようと思っていたんだ」と語っていた。たしかに、勘弥の白酒売りは私は二度は見ているが二度とも、「抜けば玉散る天秤棒」と言ってすーっと抜いてみせたのを覚えている。あれは当然、抜いて見せるべきだと思うが他の誰もしないのは、何だか不精たらしくてつまらない。案外、(巧く抜けなかったり?)

むづかしいのかもしれない。ともかくそれを、子供の頃に見た18代目が、いつかやってみようと思っていてたのが、大人になってようやく白酒売りをする機会が巡ってきた時に念願を果たした、というのはいかにも18代目らしい佳話である。またそれを、勘九郎がおとッつぁんのしたのを見覚えていて、今回機会到来、天秤棒を抜いて見せたというのはまさしく蛙の子は蛙、父子二代にわたる近ごろのヒットで、こういうところがいかにも中村屋代々の役者気質というものであろう。

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天秤棒以もさることながら、そろそろ誰かがやってくれないと、やる方も見る側も、誰も知らなくなってしまうと心配になるのは「水入り」である。これは、いつもの幕切れの後にもう一幕つけないとならないから、上演時間に制限のある今は無理だが、いずれやがて旧に復した暁、誰でもない13代目團十郎白猿に、ぜひともやってもらいたいと思っている。(12代目は海老蔵時代にやっている。あの後、誰かやっただろうか?)

水入りを一番多くやっているのは17代目勘三郎だろう。あるとき公演途中で風邪をひき高熱を押して出演、その一日、満々と水を張ってあるはずの水桶にざんぶと(?)飛び込むと、何と中は空っぽ。一瞬、ムッとしたが、見ると桶の中に張り紙がしてあって、「お大事に」と書いてあったという話があったが、これはそれと別の時、八代目團蔵の引退記念の興行でも『助六』を出して、17代目の助六に團蔵が意休だった。ところが17代目が水入りを敢行したので、すると意休は白装束で助六と立回りの果てとどめを刺されることになる。つまり團蔵は引退公演の最後の幕で殺されることになる。だが、内心は知らず、いつものように淡々と舞台を終えると(つまり殺されると)、翌日には念願の四国巡礼の旅に出掛け、ひと月余り後、八十八箇所を巡り終えると、夜、連絡船の甲板からから人知れず瀬戸内海に水入りならぬ入水をしてしまった。古木のような枯淡の舞台ぶりが心惹かれる老優だった。

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今月はちょっとユニークな訃報がいくつかあった。

吉田喜重   89歳
江原真二郎  85歳
藤尾茂    87歳

ご当人たち相互にはあまり関係はなさそうだが、ちょいと目を惹いた三つの訃報が同じ日の新聞に載るという奇遇。棲んだ浮世はそれぞれだが、昭和30年代という空気感が満ち溢れる感じに心を惹かれる。それにしても、喪主として名が載った岡田茉莉子も中原ひとみも健在なんだなあ。何だかうれしい。

と、思っていたら中原ひとみが、他日、「徹子の部屋」に出演したのを見た。フーム、昭和30年代にスクリーンで見ていたあの目玉の大きな可憐にして素朴な少女が、60年の歳月をすっ飛ばして、見事な老女となって現れた。(若い時には目の大きいのが何よりの特徴だった人が歳を取るとさほど大きな目というわけでもない、ということがチョイチョイあるが、彼女の場合もそうだった。がまあ、そんなことはこの際どうでもよろしい。よかったのは話の内容である。)江原真二郎との結婚記念に片岡千恵蔵から貰ったという油絵が映ったが、そうだ、『黒田騒動』という内田吐夢監督の映画で千恵蔵が栗山大膳をしたとき、彼女も少し頭の弱い黒田家の姫の役で出ていたのだった。

岡田茉莉子は、吉田喜重氏などと結ばれるより前、小津安二郎のたしか『秋日和』だったっけ、司葉子の一種の引き立て役のような役回りで佐分利信だの中村伸郎だの小父様連をを引っ?き回す役を一番思い出すが、それより前、東宝にいた頃、題名は今ちょっと思い出せないが、これも東宝にいた当時の有馬稲子などと共演したいた頃のユニークなキャラが、いま思い出すとじつによかった。『芸者小夏』などという二流のシリーズで屈託のない明るいキャラを見せていたのも懐かしい。いまになって当時の出演作を見ると、いいなあと思う。

藤尾茂は、話変わって野球の選手である。俗にいう巨人軍第二次黄金時代の後期、川上だ千葉だ青田だ別所だといった大物連が齢を食って(青田はホエールズに移っていたっけ)、さしもの常勝巨人軍も勢いに陰りを見せだした端境期、水原監督に見い出されてアレヨという間に売り出して、強打の捕手としていっときは大変な勢いだった。売り出した若手の先頭だったが、やがて捕手の座を森昌彦(後に西武の常勝監督になって何やら難しい名前に変わったが)に追い抜かれる形で影が薄くなった。語られることも滅多に、どころかほとんどなくなって久しいが、それだけにひとしお、思いがけなく名前を見ると感慨なきを得ない。

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坂本博士 なんて人もいましたっけね。クラシック畑から出てテレビの人気者になった歌手が(立川澄人なんて人がその先駆けだった)いろいろ出た、その一人だった。まだ白黒テレビの時代だ。

松原千秋 私にとっては原健策の娘としてのみの存在だ(デビューした頃、ヘーエ。原健策にこんな娘がいたのかと、しばし眺め入ったものだった)が、父親の原健策の方なら何度見たか知れない。(一番数多く見た映画俳優の一人かも知れない。とにかく、当時東映の時代劇を見れば二本に一本は出てくる感じだった)。マンネリの仕事もあったが玄人筋には評価の高かったバイプレイヤーで、たしかに、忘れることはない役者ぶりではあった。またも千恵蔵が出てくるが、『新選組鬼隊長』という映画で千恵蔵の近藤勇に土方の役をしていたのが今もよく覚えている。いまどきの妙にカッコイイ土方でなく、昔風の武骨な土方役として、改めて評価されても然るべきではあるまいか。(売り出して間もない錦之助が沖田総司役で出ていた。やや重くるしい難はあったが、子母澤寛の『新選組始末記』を原作とする、新撰組ものとして上等な作だったと思う。もう一遍、見てみたいなあ。)

ほかにもいろいろな訃報があったが、それにしても、「亡くなっていたことが分かった」といった報道が多いのが、近年ますます増えているのが、現代という時代をさまざまに語っているようだ。ま、いろいろな事情や理由があるのだろうが。
        
        
        
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本年はここまで。よい年になることを願いつつ、良い年をお迎えください。

隋談第659回 噫! 忠臣蔵

11月の国立劇場の歌舞伎公演は、国立劇場察するに余りある苦心の企画「歌舞伎&落語・コラボ忠臣蔵」というので、春風亭小朝の『殿中でござる』と『中村仲蔵』のあと芝翫が『五段目・六段目』の勘平をやったが、(これだと実は、小朝と競演したのは歌六の定九郎ということになるわけだが・・・)、いわば「小朝流忠臣蔵論」ともいうべき『殿中でござる』は菊池寛の短編を小朝流に?み砕いたものらしいが、釈台を置いての、つまり「講釈」である。討入がテロと見做されるようになった今日、『忠臣蔵』を演じる機会は少なくなるだろうというあたりが、菊池寛×小朝÷2、というところか。大佛次郎が『赤穂浪士』を書いたのが昭和初年、池宮彰一郎が『四十七人の刺客』を書いたのが平成初年、大河ドラマで忠臣蔵を出した最後が西暦2000年、即ち20世紀最後の年(大河版忠臣蔵としてこれが何作目だったろう? すなわちそれまでは、「忠臣蔵物」は戦国物、幕末維新物と並んで大河ドラマの常連メニューだったのだ。)つまり、昭和から平成、さらに20世紀末までの4分の3世紀の間に「義士」が「浪士」となり、遂には「刺客」となったわけである。今日、日常的レベルで「赤穂義士」という言葉はほぼ絶滅、すなわち「死語」と化し、「赤穂浪士」という言い方が、大佛次郎がかつてそこに籠めた暗喩は雲散霧消、何の批判も感傷もないフラットな用語として、何気に(!)使われるようになったのが昭和末期以降、さらにそれを「刺客」と呼ぶに至ったのが平成初年、すなわち20世紀末ということになる。(因みに、10月歌舞伎座で松緑が講釈種の新作として演じた『荒川十太夫』は、堀部安兵衛を「義士」として見る上に成り立っているわけだが、『劇評』第8号の狂言作者竹柴潤一氏の言によると、言い出しっぺにして主演者である松緑から「『元禄忠臣蔵』が通しがあったとして『大石最後の一日』の後につけて上演してもおかしくないようにしたい」と注文があったという。フーム。「義士」と「浪士」さらには「刺客」との間に、こういう間隙があったということか。

ところで肝心の芝翫演じる『五・六段目』だが・・・長くもなったし、まあ、預かりとさせていただこう。

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ところでその小朝の二席の間に、つまり釈台を前に忠臣蔵の講釈をした小朝が、衣裳を変え座布団一枚で『中村仲蔵』を語るつなぎに太神楽が出た。鏡味・翁家・丸一の三組が交互出演のようだが(私の見た日は翁家社中の出演だった)、私はむかしから、寄席のさまざまな色物の中でもこの太神楽というものが大好きで、寄席からだいぶ足が遠のいている今、久しぶりで大いに楽しんだ。へたな落語より、などと言ったら??られるが、さまざまな曲芸が、下座で「千鳥」等々を寄席流に崩して弾く中、繰り広げられるのをぼんやり眺めているときほど、浮世の憂さを忘れてくつろげるひとときはない。かりにかのプーチンをいまここに連れてきて太神楽を見せたとしても、一ミリ、いや3ミリぐらいは頬をゆるめるに違いない。(ベートーベンを聴かせようと『仮名手本忠臣蔵』を見せようと、そうはいくまい。)

それにしても、見る側は他愛もなく笑い、する側にとってはあれほどごまかしの利かないものはないだろう。世代から言って、私などが一番数多く見たのは染之助染太郎兄弟だが、更にベテランで東富士夫という人もよく見た。この人はいつも一人芸で、平素は黒のスーツに蝶ネクタイというスタイルなのだが、何かの拍子に和装でたっつけ袴という姿のこともあった。この使い分けの理由は分からないが、ご本人には使い分ける根拠があったのかもしれない。で、ある時、曲芸がなかなかうまくいかない。失敗に次ぐ失敗。だが下座の鳴物は何事もないように続き、芸も何度となく繰り返す。ハラハラしながら見守る中、とやがて、見事成功。にっこり笑顔を見せて一礼、満場の拍手を背に退場、ということがあった。太神楽というのは、こういうこともあり得る芸なのである。

九代目の三津五郎が、出し物を出す機会に恵まれるごくたまさかの折に見せた『どんつく』という踊りも、太神楽の社中が芸をして見せる風俗舞踊で、親方が曲毬を舞台でして見せるくだりがあるが、役者がつとめるのだからそうはうまくいかない。あるとき十七代目羽左衛門が親方の役で、なかなかうまくいかずにようやく成功、ほっと破顔一笑したので万雷の拍手だったのを思い出す。

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訃報
白木みのる 昭和8年生まれ、かつて『てなもんや三度笠』で共演した藤田まこととは一歳違いとであったとか。毎週あれを見ていた頃、我が家の受像機はまだ白黒テレビだった。
村田兆治 この死については何とも言いようがない。私より若いのだが、その言動・察するところのその人となり・その風情風格等々、10歳も年長のような気がする人だった。

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團十郎白猿襲名については、12月の公演を見てからということにしたい。差し当たっては、11月公演の評を『劇評』第9号に書いたのでそれをご覧願いたい。