随談第657回 木槿から金木犀へ

もう忘れている人、そもそも知らなかったという人の方が、今となっては大多数だろうが、昭和の昔のいっとき、吉右衛門と仁左衛門をライバル視するあまり両者のファンの間にかなり過熱した関係が生まれたひと頃があった。ご当人同士はどうであったかは知らないが二人とも丸本物を得意としたためもあって、当たり役が競合したことが、熊谷なら、盛綱なら、実盛なら、孝夫の方がいい、いや吉右衛門の方が、ということになったわけだろう。それから久しい時が経ち、仁・柄・芸風、それぞれの良さを認め合えば自ずから、時とともにめでたく棲み分けも出来、評価も安定したわけだが、一時は、双方のファンの間で一触即発のような空気さえあったものだった。まあそれだけ、熱烈な支持者がそれぞれにあったればこそで、歌舞伎がそれほど活気に包まれていたればこそであったとも言えるが、今はむかしの物語、秀山祭の一周忌に『七段目』の大星をつとめる仁左衛門を見ながらゆくりなくも思い出した。

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文楽はこのところ、三部制にぎっちり詰め込むという方針らしく、一日びっちり通して見ると疲労困憊ということが、このところ毎回続いている。もっとも、これは必ずしも悪口ではない。むしろ、文楽というものはこういう風に見る方がその本質に適っているのかもしれない、とすら思わぬでもない。歌舞伎は遊び、文楽は凝り固まるところに生命がある、とすれば、疲労困憊する愉しみ、ということもこの世にはあるのである。

とはいえ、今回は一部二部を『碁太平記白石噺』に充てるという劇場サイドの「意欲」は多とするものの、真実ひたすら疲労困憊した。同時にこれは、このアマチュアリズムが生んだ作ならではの故であろうということにも、改めて思い至った。机に向かって浄瑠璃の本文を読んでいても気が付かない、これは劇場の椅子に座って見て聴いて初めて気づくことかも知れない。「田植の段」「逆井村の段」「雷門の段」「揚屋の段」と(入れ替えをはさみ、二部の第一に『寿柱立万歳』という一服する救いの演目もあるものの)、通して見るには、作も曲も、耐え得るものではない(途中どうしても、疲労困憊の末、睡魔に襲われる!)ということを、「一挙通し上演」という劇場側の大奮発の企画のお陰で確認したというわけだ。

ということが分かっただけでも、今回の通し上演の意義はあったことになる。とは言え、何の彼のと言ったところで、自作の作品が二世紀の余も後まで永らえているのだから、豪商三井の四代目の当主と聞く紀上太郎なる作者、当節の三井物産や三井不動産の社長が逆立ちしても出来ないことをしていたわけで、あっぱれアマチュアリズムの権化、敬服に値するというものだろう。

でさて、その疲労困憊も、第三部まで見ると、今度は『奥州安達原』の三段目「朱雀堤」から「貞任物語」をたっぷりと、ヴォリュームからすればこっちの方がはるかに大きいにもかかわらず、疲労はむしろ解消された。作よし曲良し、演者も概ね好演で、こちらは眠るどころではなかった。思うにこれは、作の出来の良しあし以前に、作者の言葉に対するセンスの問題であろうと、これも今回気が付いた。言葉というものに対する感性の違い、それが言葉の選び方から、話の進め方云々、というものに恐ろしいほどの違いが出来てくるのだ。半二の作としてはごたごたしていると思われがちだが、むしろこのほどの良い「ごたごた感」が、時代物浄瑠璃の生命である雄渾さを生み出している。『白石噺』のごたごた感は、言葉が説明に終わっているからだが、『安達原』の方は、見る者聴く者の心をつかみ取り劇の世界へ運び去る力を有しているからだ。この上は、「一ツ家の段」を、死ぬまでにぜひもう一度見たいものだ。(久しく見ていないが、もう何年やっていないだろう? 野沢吉兵衛の雄渾な撥さばきが忘れ難く耳に残っている。この人のいかにも昔のらしい風貌風格が、私は好きだった。)

老婆が若い女の腹を裂くというこの「一ツ家」の段を、歌舞伎でも一度やったことがあるが、これも忘れ難い思い出で、国立劇場の歌舞伎公演50年の中でも屈指の舞台と言えるだろう。腹を裂く老女が17代目勘三郎、裂かれる女が当時澤村精四郎、すなわち後の澤村藤十郎。まあこれ以上の配役は望んでも無理だとしても、だ。(魁春と米吉で? さあ、どうだろう?)

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国立劇場が、しばらく前から改築が言われてはいたが、アララという隙に、向こう一年間の舞台に「さよなら公演」という文字が添えられることとなった。昭和46年11月が開場だったから、来年10月までさよなら公演が続くことになる理屈だが、さてまだそこまでは発表がない。

それにしても、国立劇場よりひと月先んじた昭和46年10月が帝劇の開場、さらにその3年前の昭和38年10月が日生劇場の開場で、その日生劇場が、現在東京で最古の劇場ということになるというのは、当時を目の当たりに見ていたものとしては不思議でしょうがないが、真実の話らしい。

さてその帝劇のこけら落としが二代目吉右衛門襲名公演だったというのは、当代の高名な歌舞伎役者の中で歌舞伎座で襲名をしなかった人があります。サテ誰でしょう?というクイズの問題になり得るような話だったが、果たしてそういうクイズが実際にあったかどうかは知らない。披露の役が『金閣寺』の東吉に、父八代目幸四郎の関兵衛に歌右衛門の小町姫で宗貞をしたのだったが、狂言半ばで「口上」となり、赤姫姿の歌右衛門の口上に続いて新・吉右衛門の挨拶の開口一番、「ただいまは成駒屋の叔父さまよりご懇篤なるお言葉をいただきまして」と言った途端、場内に笑いの渦が広がった。なるほど、このお姫様が「おじさま」であったことに満場改めて気が付いた、というわけである。

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記念すべき舞台とか勝負、というものに巡り合って、「オレ、誰それの○○を見たぞー」と言いたくなる心理というものは、おそらく、ヒトという生物にだけあるものだろう。亡くなった澤村田之助が、7歳の砌り、しかも六代目菊五郎の膝に抱かれて、双葉山が70連勝目に安芸ノ海に敗れた一番を見た嬉しさを繰り返し語っていたことは先ごろもこの欄に書いたが、この「双葉破る!」という一戦を目撃したことこそ、当時の日本人の自慢話として最も普遍性を持った自慢の種であったであろう。(当今の大相撲に対する一般人の関心の度合いとは天地の差があった時代である。)

と、前置きが長くなったが、ヤクルトスワローズの村上が一試合に54,55号の二本のホームランを打った試合を見てきました。55号が王貞治氏の記録と並んだという、例の一発ですが、54号の方が美的には快適な一打だった。こういう一銭にもならない(という言い草がかつてあったが)無邪気な喜びというものは、何物にも代えがたい。その意味を理解する者である限り、小学生も八十歳九十歳の老いぼれも、これほど平等に分かち持てる物はないだろう。老耄の記憶の中で、この村上の一打は、小学生の時(よりも前だったかも)に見た青バットの大下のホームランに記憶の奥底で繋がっている。すなわち、わが人生の喜びに、結構深いところでつながっている。かるが故に、こういう埒もない記憶というものは、ヒトにとって深甚な意味を持つのである。

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訃報

その1)元西鉄の池永~この人については私などが出る幕がないほど、多くのことが語られている。池永は無実であったわけだが、その奥には、ああいう事態がわだかまっていたわけで、かつての興行ものとつながっていた闇こそ恐ろしい物はない。

その2)三遊亭圓窓~さる事情があって、この人のために新作落語を一篇作ったことがあった。もっとも、いまひとつご本人の気に入らなかったためにボツになってしまったが。

その3)佐藤忠男(旧聞へ遅ればせながら)~高校生の頃から名前は知っていた。格別ファンにはならなかったが、偏りのない姿勢や、高等ぶった難解な理屈を振り回すことなく(非常に真面目であるにもかかわらず)いわゆるプログラム・ピクチャーと十把ひとからげにされるような映画にも(いかにも真摯に)目を配っているところに好感を抱いていた。

その4)町田博子(さらに遅ればせながら)~大映映画を見るといつもこの人の顔を見ていたが名前は知らない、という人は多かったと思う。「おはなはん」という、NHKの朝ドラ草創期の何作目かで、大ヒットして朝ドラの存在を「国民的規模」に飛躍させた作で、この人が相当の活躍をした。映画で見ていたあの人だ、と思った人は多かったろう。町田博子っていうんだってさ、ということになった。それから以後については、私などが語るまでもない。96歳だって? ム、映画時代を計算に入れれば、まあそうだろうなあ。

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九月も末。気象の変動が言われる中、今年も、二十年前いまの家に越してきたときに部屋の窓の前に植えた木槿が、夏中にしきりに咲かせた花を終らせようとしている。わたしはこの、ほのかに野趣のある木が好きなので、庭というもののない、従って門も塀とか垣根というものもない今の家に越してきた時、幅一メートルあるかなきかという余地に木槿を植えた。うまく土に馴染んだかしてよく育った。実に几帳面な植物で、7月から9月までの3か月間、朝一杯に花を咲かせ、夕方にはしぼんで落ちてしまうのを繰り返す。まこと、

   道の辺のむくげは馬に喰はれけり

という句の通りである。(この句、芭蕉なそうな。季語としては秋である。)厳密にいうと、6月の28~9日ごろに最初の花を咲かせ、10月の2~3日ごろに最後の花をつける。前後にささやかな「おまけ」をつけるところが、昔の駄菓子屋や肉屋さんの「お愛想」のようで面白い。

と、この話には注釈が必要かもしれないのでちょいと脱線すると、駄菓子屋でお菓子を買うにも、肉屋で肉を買うにも、カリントウならカリントウ、牛のコマ切れならコマ切れを50匁なら50匁買う時(当時はまだ尺貫法だった)、店の小父さんが客の目の前に置いてある秤で見計らいでカリントウなりコマ切れなりを量って売ってくれるわけだが、ここで売り手の商人(アキンド、と読んでください)としての器量が分かる。目分量でカリントウなり牛のコマ切れなりを秤に乗せてゆくわけだが、50匁のちょっと手前で秤の針が揺れる、と、売り手の小父さんが二つ三つ、二タ切れ三切れ、ひょいと足してくれる。と、50匁をちょいと越えて針が振れる。その頃合いを見計らって、カリントウなら紙袋、牛のコマ切れなら経木なり竹の皮に包んで、ハイ、お待ちどうさまと渡してくれるという寸法である。買う側は、ちょっぴり得をした気分になる。量り売りという商法がなくなってしまった現代、あの子供心にも分る商売の機微、阿吽の呼吸の面白さというものも忘れられてしまった。

横道の話が長くなったが、朝に咲いて夕べにはしぼむという木槿が、季節に二、三日先立って咲き出し、二、三日遅れて咲き終わるという「オマケ」の精神を几帳面に持ち続けているのも、何か不憫な思いを抱かせる。

ところで九月も末となって木槿の咲き方にも勢いが薄れてくると、入れ替わって、玄関脇に立っている金木犀が、あれは何色というのだろう(試しに広辞苑を見たら、うまい言葉がないのかして「赤黄色」などという不粋な説明しか載っていない。まあ、当世風に言えばオレンジ色の範疇に入れるしかあるまいが)、強い香りを放つ小さな花を咲かせては散り、咲かせて散りを繰り返す。こちらはおそらく前の住人が植えたのが長い歳月を経てちょいとした大木となったものと思われる。年中葉を繁らせている常緑樹だから、少々の雨降りなら、その下陰に入れば傘がいらない。帰宅して傘を畳むひまに濡れるのを気にしないですむのがありがたいが、その反面ということもあるわけで、盛りになると、散らす花の量も馬鹿にならない。玄関前は私道とは言えそんなことは知らないで通行する人も少なからずあるから、なおのこと、盛りになるとちょっとした絨毯並みに散り敷くのを放っておくわけにいかない。この掃除が、これからしばらく、馬鹿にならない作業となる。木槿も、毎夕、しぼんだ花のまま落ちるのを、盛りの時期にはマメに掃除するのが日課となるのだが、量と、それに要する時間と労力は比較にならない。まあこれが、私にとっての、秋の音連れのしるしということになる。

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今月はこれ切り。海老蔵白猿の襲名が近づいてきましたね。さて・・・・