随談第654回 ON THE SHADOWY SIDE OF THE STREET

街を歩いていて「片陰」という言葉を思い浮かべる季節となった。日が高くなって、道の片側にしか日陰が出来ない。陽ざしを避けてその日陰を拾って歩くようになると、もう夏だなと思う。反対に、陰になっている側を避けて日当たりのいいところを選って歩くようになると、そろそろ冬だなと思う。もっとも「片陰」は季語としては夏という約束だが、それよりも、いまどきそんな歩き方をしていると鋭い警笛に非難叱責されるかもしれないから(「叱声」に対する「叱笛」(しってき?)という言葉が出来て然るべきか)、片陰、などという言葉は日常語としては絶滅危惧語になりかねない。先ごろの朝ドラの『カムカムエヴリバディ』で(あれはなかなかよかった。朝ドラ近来の佳作だった)、ルイ・アームストロングのON THE SUNNY SIDE OF THE STREETがテーマになっていたが、あれは日本の冬の時代が舞台だったからという隠し味だったのだろうか。

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染五郎の好演で今月の歌舞伎座第二部『信康』がスター誕生の感を呈することとなった。評は木挽堂書店刊行の『劇評』第4号に載せるのでそちらをご覧願うとして、舞台を見ながらふと頭をかすめたのは、久しぶりにこういう芝居を見るという思いだった。むかし見慣れた景色に思いがけず出会ったような、一種なつかしいような気分と言おうか。

作者の田中喜三という名前を見るのも、思えば久しぶりである。よくその名を見たのは昭和も四、五十年ごろだったか。きちんとまとまった几帳面な作風という印象と共に記憶している。この『信康』もいかにもそうした作で、信康役の染五郎だけでなく、家康の白鸚も、家来の役の鴈治郎も錦之助もその他誰かれなく、真摯に、いわばそれぞれが役になり切っていて、隙とか遊びというものがない。それが、17歳にして自ら決意して退学し歌舞伎俳優として専念するという染五郎の強い思いと、劇中の信康と重なり合って、好演・好舞台を生んだわけだろうが、翻って思ったのは、昨今の、舞台にせよ映像にせよ、よく言えば遊び沢山の作劇が常識・常態となってからこっちの世代の観客に、こういう芝居がどう映っただろうかということだった。まあ今度の舞台では、染五郎のひたむきさは若い観客にもそくそくと伝わったであろうが、それにしても、こういう遊びのない、ひたすらリアルな劇の運びを、どう思って見ただろうという興味(と不安)は涌く。違和感、とは言わないまでも、勝手の違うような思いを抱いたとしても不思議はないのではあるまいか?

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テレビを見ても、大河ドラマでも朝ドラでも、作品の出来不出来、好感を覚えたか否かを問わず、ずいぶんドラマの作りが変わってしまったことに驚き、ときに呆れながら見るのが常となって久しい。よく言えば奇想縦横、裏返せばハッタリ沢山(と、私のような旧弊な人間には時として見える)。現在放送中の『ちむどんどん』にせよ『鎌倉殿の13人』にせよ、脚本の運びは手練れというか名人芸の域にすら達しているとも言えるが、とにかく絶えずめまぐるしく見る者の意表を突き、引っ張りまわす。ああまでしなくても、と私などは思ってしまうが、ああしなければイマドキノ視聴者はじっと見ていてくれないのかもしれないし、まず作者ご本人が不安でならないのかも、という気もしないでもない。演者の演技も、コントを見るような羽目の外し方をするのが当然、ドラマの演技というのはそういうもの、とされているようにも見える。

最近、夕方4時台という時間帯にNHKでしばらく昔の朝ドラを再放送するようになって、仕事の合間の一服がてら眺めていると、なんとも「古風」というか、マジメというか、時にカッタルイというか、ナツカシイと言えば懐かしい思いがする。昔と言っても、あの時間枠の第一作の、昭和36年だったかに「テレビ小説」と称して放送した獅子文六の『娘と私』ほどの大昔ではない(この「テレビ小説」というのも、それ以前に「ラジオ小説」と称して、名のある作家の有名作を朗読や放送劇(という言い方の方がラジオドラマというより普通だった)の形で定着していたのを踏襲してのネーミングだった筈だ。まさしくあれは、作者自身を思わせる「私」なる人物の独白の形で流れるナレーションで物語が進行する、即ちまさしく、目で見、耳で聞く「小説」だった。)その「テレビ小説」から「小説」の二文字が取れ、やがて「朝ドラ」という言い方が定着してからずい分長い年月が経つわけだが、最近夕方に放映されていたのは昭和の末か平成の初めごろと思しい作だから、われわれ年配者からすればそれほどの大昔というわけではない・・・筈なのだが、いま見ると、私から見てもたしかにちょいとカッタルイ感じがしないでもない。しかしおそらく当時はこういうものと思って見ていたのだろう。(朝ドラというのは、朝の小忙しい時間帯に合わせて、時計代わりに見るもので、ジッと画面を見ていなくとも凡そ見当がつくように作られているのだとよく言われていたものだったっけ。いまだってそういう条件は変わっていないだろうから、してみると、突如、羽目を外したようなオーバーアクションやギャグが飛び出すのは、視聴者の目を画面に呼び戻そうという試みとも見える。)

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『信康』から話が引込線に入り込んでしまったが、この作に限らず、ある時期までの歌舞伎の新作物といえば(北条秀司とか宇野信夫とかいった独自の作風をもった大家の作は格別として)、大なり小なりこうした感じのものが普通だった。つまり、突如話の風呂敷を広げれば、逍遥・綺堂以来の新歌舞伎というのは要するに西欧近代劇のリアリズムに準拠した作劇法を和風に馴化しつつ定着させ、その延長として戦後の新作歌舞伎にまで及んだものだったわけで、昭和も末ごろに活躍した田中喜三のような作者の作風も、そうした流れの一脈だったことになる。『鎌倉殿の13人』に登場する宮沢りえ演ずるところの北条時政夫人と、坪内逍遥がマクベス夫人を念頭に書いたという『牧の方』の主人公を並べて見ると,新歌舞伎とテレビドラマの差異を越えて、明治から令和へ、遥けくも来つるものかなと感慨無きを得ない。『牧の方』はたった一度、歌右衛門がしたのを見た切りだが、とにかく何やら物々しいものだった。『鎌倉殿の13人』の作者が如何に坪内逍遥の詰屈さから解放されているか、思い半ばを過ぎるものがあるが、その意味では、曾我の五郎・十郎が助六や白酒売り粕兵衛となって花の吉原に出没する歌舞伎十八番『助六』の自由闊達融通無碍の境地に比べれば、まだまだマジメ一途、進化?の途上にあるのかもしれない。

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朝ドラと大河ドラマの話が出たついでに、毎回冒頭に出るスタッフと配役の出し方について、以前から一言したいと思っていたことがある。いや、一言では済まないから、箇条書き風に書こう。

その1)まず役名と役者名の出し方。背景に凝るのはいいが、木洩れ日だとか霧だとか白砂だとかの背景の上に白っぽい文字で役名と俳優名が次々と出ては変わる。しかもかなりの速度で切り替わるケースがちょいちょいある。当然ながら、逆光や白っぽい地の上に白い文字は読みにくい。外国映画などでは昔からままあったことだが、昔の映画のクレジットは画面いっぱいに大きい文字で出たから格別読みにくいというほどではなかった。要するに、視聴者の見やすさより自分の美学を優先する「芸術家」が担当者に多いのだろう。

その2)『鎌倉殿の13人』の配役紹介は覚える暇がない速さで次々に切り替わる。出演者の人数が多いせいでもあろうが、馴染みのない俳優の名前が目まぐるしく流れては消え、消えては流れするのは、担当者は、すべての視聴者が出演者の顔と名前を熟知していることを前提にしているのではあるまいか?(せめて、その補いの意味からも、その人物が劇中に登場した時に役名をテロップで出してくれれば!あれは誰だと判って見るのと、何者か判然しないまま見ているのとでは、興味の有無に大きな差異が生まれる。特にこの手の「歴史劇」?の場合、役名と結びつけて覚えないと感興を殺ぐことにつながる。

その3)現代劇の場合、小さな役の人物が劇中で名前で呼ばれる場面があるわけでもないのに、「原小百合」とか「小谷翔平」とかいった風に役名だけを出されても、その「小百合さん」や「翔平氏」がいつどの場面に登場したどの役の人物なのか見当がつかない…ということがしばしば、いや必ずのようにある。

以前、芥川比呂志のエッセイを読んでいたら、どんな端役でもそれぞれ一人の人間なのだから、作者は「役人A」とか「兵隊B」などとしないで名前をつけてもらいたいと書いていたのを思い出す。なるほど、と小さな役をつとめる無名の俳優を思いやるその床しさに感じ入ったものだが、これではせっかく名前を付けても、どこに出ていたどの役だか、観客・視聴者にはわからない。「吉永節子(魚屋のおばさん)」とか「小谷翔平(区役所の窓口のおにいさん)」と書くだけの、いま一歩の配慮を何故してくれないだろう?

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訃報(その1)沢本忠雄86歳。この人とか川地民男とか、日活映画を見ているといつも出てきた。かくべつ上手いと思ったこともないが、いろんな作品である種の役どころをソツなく勤めてかなり長いこと働き、テレビや舞台に移ってからも結構息が長かった。ああいうポジションというのは、長く俳優人生を続けるのになかなかよさそうに見えるが、どうなのだろう?7番か8番を打って打率2割3分か4分、という選手がいるが、一試合に一安打、いいところでチームに貢献する安打を打てれば、3割も打たなくとも、本塁打を20本も30本も打たなくとも、その道で息長くやっていけるのと同じかもしれない。

その2)マヒナスターズの松平直樹88歳 「愛して愛して愛しちゃったのよ」という大ヒット曲はいわゆる名曲ならぬ名曲というべきものだった。果然、はるか後年の、皇室を揺るがしたあの恋を先取りしていたのである? まさか!

その3)ジャン=ルイ・トランティニャン。特に言うこともないが、、、まあ、記憶に残りやすい役者ではあった。

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と、ここまで書いてきたところで、歌舞伎界から二つの訃報が届いた。

改めてその1)坂東竹三郎 この人の真価を知ったのはじつは晩年に至ってから、それも東京にいてはなかなか触れる折がなく、まめに関西まで足を運ばないと機会も多くはなかったが、それでも『有馬猫』は見逃したが『女團七』を見たのがせめてもだった。その存在を知ったはじめは、『演劇界』のグラビアで坂東薪車の名で関西での活躍ぶりが紹介されていたのを見たことで、昭和30~40年代という関西の歌舞伎の状況の中で、自主的な公演などを催して気を吐いている様子だった。昭和ひと桁生まれ(田之助と生年から誕生日まで、即ち同年同月同日の生まれということは、短い間に相次いだそれぞれの没後に知った)という、不運な巡り合わせにもかかわらず奮闘していて、二桁生まれの秀太郎・孝夫の松島屋兄弟に先んじているかに思われた。師であり養父であった尾上菊次郎は先代富十郎の実弟だから、われわれのよく知るあの富十郎の叔父にあたるわけだが、この人を初めて見たのも、富十郎が坂東鶴之助から市村竹之丞になった興行に、久々に東上、「口上」の席で「東京のお客様、お久しぶりにございます」と挨拶したのがその声を聞いた初めだった。東京オリンピックのあった年の春のことだから,まだ新幹線は開通していない。その同じ興行で、竹之丞と同時に、由次郎から田之助への襲名が行われたのだから、誕生日だけでなく、妙なところでご縁があった同士ということになる。

改めてその2)田之助についての思い出はいろいろある。その存在を知ったのは、東横ホールで由次郎と名乗るぽっちゃりと可愛い、とは私が言ったのではない、年配が由次郎と相前後すると思われる、私からすれば姉世代の女性ファンの間でじわじわと注目を集めていた頃だった。つまり、東横ホールの菊五郎劇団の花形公演で売り出した、ある意味では代表的な一人と言える。(この辺りのことは、旧「演劇界」に2001年から07年まで連載し、後に『田之助むかし語り』と題する自伝風の一書につぶさに語られている。編集を手伝ったから言うのではないが、数ある歌舞伎俳優の自著の中でもユニークな一書であることは疑いない。田之助の舞台を見たことのない人でも意表を突かれる、歌舞伎俳優なるものへの先入観の蒙を啓かれるという意味からも、お読みいただいて損はないとお勧めしたい。

こういったからと言って、田之助が変わり者でも異端児だったわけではない。むしろ良識家であり、会って話していてこの人ほど、いわゆる「役者」の臭みを感じさせなかった人もなかったというべきだろう。地下鉄の東西線に九段下(だったか)の駅から目の前に乗ってきて、オオ、ということがあったり、中央線の四谷から高円寺まで並んで吊革につかまったままお喋りを続けた、なんてこともあった。(新幹線のグリーン車ではない。)

のちの萬屋錦之介の初代中村錦之助や大川橋蔵と言った面々が子役から中供(ちゅうども)時代の同窓生、六代目菊五郎に可愛がられ巡業に連れていかれたといった戦中の日々を語る件の面白さもさることながら、戦争が終わったが、小学校を出ても算数の二桁の計算もわからないという現実に気が付くと、歌舞伎から足を洗って、中高生時代を全くの一少年として送ったという辺りに、余人にないこの人ならではの生き方が窺われる。その空白を取り戻すための、歌舞伎に復帰してからの努力の程が察しられるが、むしろそれ以上に、この辺りにこの稀有な一書の読みどころがある。

昭和14年春場所(と、かつては一月場所のことを呼んでいた)4日目、というのはかの双葉山が70連勝目に安芸ノ海に一敗地にまみれたという、近代相撲史上最も多く語られている日だが、この一番を7歳にして六代目菊五郎の膝に抱かれて国技館の桟敷で見ていた、という話は知る人ぞ知る逸話として、角通としての見識から北の湖理事長に請われて横綱審議委員になったことも知られているが、この本が出た時に、相撲解説の北の富士氏から、いろいろな人に読ませたいからと、版元に二十部ほど注文があったという。以て、その横審委員としての存在の有り様のほどが窺われるであろう。

七代目宗十郎の孫として、後の九代目宗十郎の訥升とひとつ違いの従兄弟だったわけだが、もうひとりの従兄弟の澤村藤十郎と合わせ三人の俊才が、もう見られないということになる。名門紀ノ国屋が、目の前でこういうことになろうとは思いも寄らなかったことである。晩年に膝の痼疾のために女方の役が困難になって立役を勤めるようになり(『入谷』の丈賀までやって、それがまた楽々と(という風に見える)やってしまう。三代目左團次や十三代目仁左衛門ような大家がつとめる丈賀も見たことがあるが、『矢口渡』のお舟で襲名したという人が勤めたのは初めて見ることだった。爺もやれば婆もやる。「六段目」のおかやもやった。これだって、錦祥女や尾上も勤めたという人が、普通ならやる役ではない。

その『国姓爺』の錦祥女や『加賀見山』の尾上をつとめた平成になって間もなくの頃が、身上としては盛りであったか。同じころ宗十郎が自主公演の「宗十郎の会」で『濡れ髪お関』という南北物の稀曲を出したとき、宗十郎の濡髪お関に田之助が放駒お関(つまり『双蝶々』の穴を行く芝居である)をしたのが、この現代歌舞伎において稀有な風を持っていた従兄弟同士二人でした最も実り多い精華だったと思っている。

だがもうひとつ田之助の真骨頂を語るうえで、私には忘れ難い記憶がある。まだ昭和の頃の中堅と言われた当時のことだが、歌右衛門が復活して当時レパートリーになっていた『二人夕霧』が出て、歌右衛門と芝翫の二人の夕霧に延若の伊左衛門という絶対の布陣の中に、田之助が吉田屋のおきさの役で出た時のことだった。終幕、二人の夕霧と伊左衛門が三人手踊りのようになってのひとくさりに、田之助のおきさが加わった途端の、得も言われぬ模様というものはなかった。クヮルテットのヴィオラ奏者の趣きだった。つまりそれが、古き良き昭和の歌舞伎に、わが田之助の占めていたポジションだった。