随談第651回 雑誌『劇評』三代記

コロナの騒ぎが最早「騒ぎ」ではなく「常態」と心得るべきこととなった感のある一方、露国のウクライナ侵攻という一件は、なんとなく終末論的な要素すら孕んでいるやに覚える。そんなのに比べれば小せえ小せえと思うべきなのかもしれないが、話をわが歌舞伎に関わることどもに限っても、いろいろ波乱含みの事態が続いている。が、そんな中にも「いい話」もちゃんとある。

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「演劇界」の休刊のことは前々回に書いたが、それを受けての動きと言おうか。近々発行になるだろうが『劇評』という小冊子が創刊されることとなり、声が掛ったので私もトト交じりよろしく創刊号に一文を物したので、チンドンチンドンとクラリネットを吹いたり鉦や太鼓を叩く代わりに、自分のPRも兼ねてお知らせしておこう。知る人ぞ知る、歌舞伎座のいわば膝元を、築地方面へ向かってすぐの路を左へ折れてチョイのところに店を構えて10年余になる木挽堂書店の小林順一氏が発行人である。せめて歌舞伎の劇評の灯を絶やすまいとの思いからの「義挙」であろうと、私なりに理解している。15年前、『演劇界』が小学館の傘下に身を寄せることとなった時にも、三カ月ほど、空白の期間が生じたので、それまで編集の責任者であった秋山勝彦氏が自腹を切って小冊子を出して、歌舞伎劇評の灯を絶やさなかったという先例があったが、まこと歌舞伎という古川にはこうした形で水を絶やすまいという「義人」が、危急の際に現れるのである。

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『劇評』という誌名の雑誌は、実はこれまでに二回、と言うか、二種類存在した。ひとつは、前の歌舞伎座が開場した昭和20年代後期から30年代初めにかけて月刊として刊行され、その月の公演が終わらないうちに出るという迅速さと、劇評だけでなくグラビア入りというのが売りだった。読売の記者だった依光氏など当時新進の演劇記者等の手になるもので、相当の評判を得たと聞いているが、残念ながらまだ小中学生だった私には、後にバックナンバーを手にしてのことしか実感がない。

これを『劇評』と称した歌舞伎劇評誌の第一次とすれば、第二次に相当するのは、昭和53年の1978年から前世紀の末まで約20年間、野州宇都宮に在って歌舞伎から寄席芸から新劇から、目配り広く活動を展開していた清水一朗氏が個人誌として出していたのが、独特の存在として知られている。こちらは、『演劇界』にしても一つの公演について一人の評者の評しか掲載しないため、自分の意見感想と相容れない評者の見解に疑問や不満を抱くという、読者の誰しもが抱懐している思いに対する試みとして、必ず二人、ないし三人、複数の評を載せるところにユニークさがあり次第に評価を高めた。手作りの個人誌なので、年間数回程度の発行という限界から、全公演を対象というわけには行かない半面、これぞという公演については、数名の同人による合評会を掲載するなどユニークな試みが読者を獲得した。同人というのは、『演劇界』で隔年に行っていた新人発掘のための劇評募集や投稿欄、各大学の紀要などを足掛かりとして登場した書き手で、かくいう私もその一人だった。私の場合は、これも前々回に書いたように一等入選したのが昭和52年6月の新橋演舞場の花形公演の評だったが、同じその年の11月の顔見世興行に、東京の歌舞伎座と大阪の中座に東西の全歌舞伎俳優を結集して『仮名手本忠臣蔵』の通しを東西競演の形で上演するという記念碑的な公演があったのを機に、清水氏が『劇評』誌創刊を思い立ったという、偶然とはいえ絶妙のタイミングで奇しき縁に結ばれたのだった。

その年の暮れも押し詰まった30日に、宇都宮在住の清水という未知の人から創刊号と称する『劇評』なる冊子が郵送されてきた、というのが馴れ初めである。明けて正月の松の取れる日、という心憎いタイミングで今度は清水氏ご本人から電話があって、同人として参加してほしい、ついては第二号に三月の国立劇場で菊五郎(もちろん、現・七代目である)が『浮世柄比翼稲妻』の権八をするのを見て6枚で劇評を書いてもらいたい、4月早々に同人の顔合わせをしたいからそのときに原稿を持参してくれという、否も応もない話だったが、こちらも否やはない話だったから、言われた通り、築地にあった中央区の区民会館の一室に原稿持参で赴いた、というのが事始めだった。

この席で、清水さんだけでなく藤巻透さんとか神山彰さん等と初の対面をしたのだったが、藤巻さんの名は夙に『演劇界』の、時には劇評欄、時には投稿欄で頻繁に見て知っていた。所謂「芝居通」としては大変な人で、この実年齢では10歳足らず年長の(萬屋錦之介と同年同日の生まれとの由だった)、知識・経験の量としては及びもつかない先達と親しくなったことが、歌舞伎についての雑学的知識から、「通」という人間存在の有り様から、築地明石町に住まって(幼時、初代猿翁一家と隣り同士、つまり現・猿翁とは幼なじみであった由)銀座八丁を我が庭の如くに闊歩するという日常の姿まで、如何ばかりの「開眼」を繰り返すことになったか計り知れない。まだまだという年齢で不幸な亡くなり方をしたのは気の毒というも愚かというべき人だった。
神山彰さんはまだ本当に初々しい青年という外貌にもかかわらず、すでに独自の見識を備えたいわゆる「畏友」として、今日に至るまで変わらぬ印象を抱かせた。程もなく国立劇場に勤務されることとなり劇評家としての筆を折ることになったので、再び親しく接するようになったのはかなり後年のこととなったが、しまった、先んじられたという思いをしばしばさせられる存在と言おうか。いま現在の活躍ぶりは、ここに書くまでもないだろう。

清水さんは、私より何代か前の一等入選者だったが、私がそれを知らなかったのは、当時の私は、幾度かに及んで、もう歌舞伎など見るまいと思い定めてはしばらく劇場に足を向けずにいるということを繰り返していたので、たぶん、そうした間歇的な空白時に当っていたのだろう。歌舞伎以上に落語界に深く接していて、円生・正蔵・小さん・馬生から志ん朝・談志といった人たちの強い信用を勝ち得ていて(これらはもちろん、すべて当時この名前であった人たちである)、毎月地元宇都宮で主宰していた落語会にはこうした当時錚々たる人たちが快く出演するという按排だった。私が馬生が好きだと言ったら、落語界の会報に馬生についての一文を書かせてくれたが、こういうとき、「書かせてくれる」のでなく「書いてくれませんか」という言い方をする人だった。

同人は常時数人いたが、いくばくかの会費を負担するのと、何カ月かごとに会合を開いて次号の企画や劇評執筆の担当を決める(つまり、何時いつに歌舞伎座なり国立劇場なりで誰それが何をするのを扱うこととしよう、ついては誰と誰がどの評を書くことにするか、といったことを相談ずくで決めてゆく)のと、合評会の校正をするぐらいで、それを終えた後の雑談の方が時間的にはるかに長かった。それを愉しみに参加しているような向きもないではなかったが、やがて愛読者と言おうか、常連の熱心な購読者も参加しての集まりもするようになり、これらをいっときの足場としてやがて他方面で名を成すようになった人たちも、一人や二人ではない。聞けばへーッと驚く名前もあるのは間違いないが、この際はそれは内緒。最終号を出して活動を終わりにしたのが前世紀末だから、すでに四半世紀の昔だが、その後もこうした集まりは新年会のような形で永く続き、いまもまだ、必ずしも終わったわけではない。

これが第二次の『劇評』で、私にとっては、『演劇界』と共に劇評家としての出発点であり、下地を作る土台でもあったわけだが、そうこうするうちに、やがて日経新聞から声がかかって今に至るという履歴になる。新しく船出をする、いわば第三次の『劇評』は、また全く別種の経緯や事情のもとに計画されたわけだが、資本力より個人の手作り感覚という点では、一脈、相通じるところもあるような気もする。

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訃報として、大町陽一郎90歳、川津祐介86歳、宝田明87歳、佐藤忠雄91歳等々の名前を見た。親疎の程はさまざまだが、それぞれに、ムム、と胸に響くものがあった。

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照ノ富士が玉鷲の押しに土俵下へ仰向けに転落するという信じ難い負け方は、膝に加えて踵の負傷の深刻さを物語る、今後に不安を残したという、その一点を別にすれば、若隆景の惚れ惚れするすまいぶり(相撲ぶり)に留飲を下げた春場所だった。とりわけ優勝決定戦で高安の押しを膝が地につきそうなほどこらえた足腰の強靭さは、最近の相撲では絶えて久しく見なかった醍醐味である。昭和36年の初場所、内掛け名人として名高かった琴ケ浜が柏戸の猛烈なのど輪攻めを、俵にかかった足を「くの字
に曲げてしのいだ姿が蘇った。琴ケ浜はついにそのまま押し潰されたが、若隆景が土俵の内のりを辿って回り込んで残したのは琴ケ浜以上と言える。若隆景のことはしばらく前にも書いたが、これで相撲を見続ける意欲が沸いたというものだ。

お陰で祖父の若葉山のことが話題になったのも懐かしさがこみ上げる。力士としては孫の方が上等で、足取り名人の典型的な手取り力士だったが、24,5貫といえば80キロ台という小兵ぶりで、その後に現われたあまたの曲者力士の中でもとりわけ記憶に残っている。解説の北の富士氏が、付き人をしていた横綱の千代の山のところへよく油を売りに来ていたものだと思い出を語っていたが、おそらく、初土俵が同じころであったはずだ。戦中派で、活躍したのが戦後まだ日の浅い20年代から30年代初めにかけて、30数歳までかなり永いこと幕内で取っていた。若隆景は福島の出身とのことだが,若葉山は確か埼玉と言っていたと覚えている。関取になってからもしばらく「岩平」という本名で取っていたのは、幼くした別れた親類に会いたいが故だったという話が伝わっていたが、孫の本名は別の姓のようだ。かくべつ贔屓にしていたわけでもないのにこんな細かいことまで覚えているのは、それだけ印象に残るものがあったわけだが、『相撲』というベースボール・マガジン社で出していた月刊誌を読んで得た知識でもあった。『相撲』にせよ『ベースボールマガジン』にせよ、『演劇界』にせよ、はたまた『映画の友』にせよ、それぞれのジャンルで果たした役割というものは、実に計り知れないものがあった。翻って言うなら、こうした雑誌が健在なうちは、そのジャンルは健全であり安心であると言っても過言ではない。

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ウラジミール大公の建設したキエフ公国がスラヴ世界の始原であるというのが「かの仁」の「信念」の根源にあるとすれば、米国の大統領がいくら「戦争犯罪人」だなどと非難したところで蛙の面に水というものだろう。あっちの非もさることながら、こっちの底の浅さもどっこいどっこいなのにため息が出る。

がまあ、まず今月はこれ切りとしよう。