随談第649回 『演劇界』・吉右衛門、そして・・・

アルファ、ベータ、ガンマーぐらいまでなら大概の人が知っているギリシャの伊呂波文字も、オミクロンとなるとちょいとガクのある人でないと知らなかったろう。次々と新手が繰り出してくるさまはドロ沼永久戦争の様相。三年目を迎えたこの時期は、太平洋戦争であったら、既に一昨夏にミッドウェイで大敗を喫し、昨年には山本五十六大将の戦死だのアッツ島玉砕だのを経て、この年の秋には遂に特攻作戦が始まるという、じり貧の悪戦苦闘の真っ只中に相当するわけだ。してみるとワクチンは神風か。あーあ・・・

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なんてことは兎も角、『演劇界』が休刊となった。読者としては昭和30年代、書き手としては50年代からの縁だが、そもそも、原稿料を貰えるという形で自分の書いたものが活字になったはじめも『演劇界』なのだから、育ててもらった揺籃のようなものといって然るべきだろう。

昭和18年に、当時政府の指令で各分野についておこなわれた政策の一環として、雑誌統合によって誕生したのがはじまり。明治40年創刊の『演芸画報』が主体だが、『東宝』など演劇関係の数誌が合体しての誕生だったから、誌名も『歌舞伎界』ならぬ『演劇界』であって、事実、小学館の傘下に入って今の『演劇界』になるまでは、日比谷の芸術座や帝劇など東宝系の舞台や、明治座やその他、関西・中京の各座から、簡略ながら新劇まで、文字通り「演劇界」の情報を網羅していた。巻末に小さな活字で各劇場の上演記録を(歌舞伎などは小さな役に至るまで配役を載せていた)掲載していたのが、実はこの雑誌の使命であり生命で、この数ページこそが、昭和平成という、戦後の演劇界の動向を後世に伝え残す唯一と言うべき記録なのだった。

昭和25年に経営が立ち行かなくなり半年ほど休刊の時期があって、やがて利倉幸一さんが取り仕切るようになってからが、経営的には兎も角、演劇雑誌としてユニークな個性を発揮したグッド・オールド・デイズであった。さほど分厚くもないのに読みでがあって、読み終わるのに丸一日かかった。その世界での錚々たる方々が執筆者として名を連ねていたのだから、即ち当時の『演劇界』は私にとって歌舞伎を学ぶ教科書であり学校だった。それも、中学高校から大学レベルまで。この思いは私ばかりではなかったはずだ。土岐廸子さんと榎そのさんのコンビで楽屋探訪だのなんだの、軽いようで読み応えのある記事が始まったのも、ちょうど私が熱心な読者になって間もない頃だった。(下手な劇評より、などと言うと叱られそうだがその急所の押さえ方には端倪すべからざるものがあって、それこそ下手な授業よりタメニナル放課後の遊びのように、初心の私にとって有益な養分となった。)

利倉さんは、新しい書き手の発掘にも意を注いでいて、「見物席」という投稿欄もその意図を担っていたから、誰それさんのファンです、○○屋さんのごひいきの方、お手紙下さい、などというのではなく、意のある所を論じてこのページで名を知られた常連の投稿者も少なくなかった。また利倉さんは、初めは、折から世代交代の時節を迎えていた歌舞伎界の動向を汲んで「俳優論」を募集(第一回は八代目幸四郎、第二回は歌右衛門…という具合に何カ月か、数回にわたって実施したのだったから、いま思っても意気込みの程が知れる)、そこから有吉佐和子、利根川裕等々といった方々が登壇し、やがてそれぞれの活躍の場を大きくしてゆく足掛かりとなった。有吉さんと毎回のように首位を争った草壁知止子さんは映画評論家草壁久四郎夫人だった。しばらく間をおいてから今度は、二年ごとに「劇評」募集をはじめ、ここからもいろいろな人たちが登壇し、三宅周太郎だの戸板康二だのといった高名な劇評執筆者と同等に並ぶ形で誌面に名前を連ねた。志野葉太郎さんとか如月青子さん等々、常連の執筆者となった人材が輩出したが、かくいう私もその驥尾に付した一人だった。予め前の号に、何月の歌舞伎座なり国立劇場なりの歌舞伎公演を対象に劇評を募集と予告があって、当選作は当該の号の劇評として掲載する、という形で行われ、私の場合は昭和52年6月、新橋演舞場の花形公演でいまの仁左衛門の片岡孝夫が『実盛物語』をした時だった。まだ演舞場が、戦災後に再建した旧い建物だった時代で、孝太郎が太郎吉だったのだから思えば今はむかしだが、しかし私にとってはこれが、れっきとした誌面に自分の書いた文章と名前が載ったはじめである。次回からは編集部から執筆の依頼が来て、原稿料を貰うということになったわけだが、普段は三階席の片隅で見ている身が、こういう時には一階の、いわゆる「御社」の席にトト交じりよろしくの態で見るわけで、それもたび重なれば、あっぱれセミプロの劇評家として、『演劇界』の購読者という狭い範囲とはいえ、顔も知らない人たちに存在を覚えてもらうよすがになってゆく。すなわち『演劇界』は、わたしにとっては学校であったと同時に、物書きとしての揺籃であったということになる。

そんな頃、いま考えてもどうして?と不思議に思うようなことがあった。先の劇評募集入選ということがあってから一年後の夏、その間二度ほど、歌舞伎座と新橋演舞場の公演の劇評を書かせてもらっただけが全キャリアであったところへ、来月は歌舞伎の公演がゼロなので歌舞伎十八番をテーマに特集を組む、ついては貴君にそのトップとなるものを書いてもらうと言って何と25枚という原稿依頼があったのである。(当時は、歌舞伎人気がどん底の時代で、日本中に歌舞伎の興行がひとつもないということも本当にあったのだ。昭和50年代といえば、十一代目團十郎はすでになかったが、初代白鸚の八代目幸四郎は東宝から帰ってきていたし、歌右衛門も十七代勘三郎も二代目松緑も梅幸もみな元気で、芸の上では戦後歌舞伎の一つのピークを迎えつつあったのだったが、それと興行としての人気とはまた別物なのだ。)まあびっくりはしたがともかくも書いて出したところ、数日後、利倉さん御自身の自筆でお褒めの言葉を書いた葉書を頂戴した上に、掲載号の巻末にわざわざ推奨の一文まで載せて下さった。こういうことは何年経っても忘れないものだが、あれから半世紀近くの月日が流れたことになるのに今更のように驚く。

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この夏までに岩波ホールが閉館し、駿河台下の三省堂が、これは建て替えのためだがやはり姿を消すという。昭和30年代、私が知った当時の神保町のメルクマールを基点とすると、これで二代目がなくなり、やがて三代目の時代になるわけだが、思えば「演劇界」も私が知ってからこっちは、小学館の傘下に入って以降もずっと神保町にあったわけだから、これもまた、この町から一つの灯が消える中に数えられることにもなるわけだ。もっとも、かつては手書きの原稿を編集部に持参していたことを思えば、パソコンで打ってひょいと送信すれば済むようになった当今は、そうした感慨も薄くなったが・・・

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吉右衛門の訃報は、勘三郎や團十郎の時とはまた異なるさまざまな思いを喚起させられたが、幸いにも、追悼の形で幾つかの場に思いを述べる機会が与えられた。死の報を聞いて間なしの12月3日付の日経新聞朝刊と時事通信を通じての各地方紙に書いた追悼文の外に、今年に入ってから、「月間FACTA」の二月号(1月20日発売)、2月早々に出る予定の『演劇界』三月号にも、それぞれの観点から吉右衛門の追想を書くことができた。殊に「月刊FACTA」は、政治経済外交など現実社会の「いま」を切るのが売りの、歌舞伎ファンとは縁の薄い雑誌だが、そうした場で吉右衛門を語るのはやりがいのある仕事だった。お読みいただければ幸いである。

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お互いさま高齢となってくると、永年年賀状をやり取りしてきた方々から、今年で賀状をやめにしますという通知をいただくことが増えてくる。もっとも至極なことなのだが、やや思うところがあって、今年から、年賀状ではなく「寒中見舞い」を差し上げることにした。これまでにも、身内に不幸があった際などに「喪中欠礼」の代わりに「寒中見舞い」の形にしたこともあったが、今回からは毎年、その「寒中見舞い」を恒例としようというわけである。もっとも、宛名書きをする負担は変わらないわけだが、寒中に出せばよいという時間的なゆとりもさることながら、それももはや出来ないということになるまでは、欠礼が縁の切れ目みたいなことになるのを避けたいからである。例年年末になると、幾人かの方から「喪中欠礼」の挨拶をいただくが、うっかりしているとそのまま音信が途絶えてしまうということもままありがちなのが、前から気になっていたということもある。

年賀状虚礼説や無用説を唱える向きも昔からあるが、また一方、こんなこともある。大学に入学して最初の一年間、語学の授業で同じクラスになったというだけの縁で、野球の応援で一緒になった帰りに飲んだり、という程度のことはあったがそれ以上の深い付き合いのあったわけでもない相手と、いまだに年に一度、賀状を通じて音信が繋がっているという間柄を、一体どう考えればいいだろう? 卒業して当初は、幾人かいた同じような関係だった友人たちが、時が経つうちにいつしか賀状のやり取りも絶え、そのままになってしまうのが普通なわけだが、この友人との場合は、こちらが出し忘れても向こうが賀状を寄こせば返信を書く、と言ったことを繰り返しているうちに、何時しか互いに歳を取り、こうした間柄というのも何かの意味があるように(おそらく向こうも)感じるようになったのだった。これもまた、賀状が取り持って生まれた間柄、ちょいと乙な人生の機微というものではあるまいか。

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訃報欄で次のような人たちの名前を見つけた。

片岡宏雄。ヤクルトスワローズの名スカウトとして鳴らしたが、プロ選手としての戦績は実働6年で2安打だったとある。思い出す。この選手は六大学野球で立教大学の名捕手だったが、プロ入りしてすぐのオープン戦だったかで、二塁に送球しようとしたボールをポトリと肩から落とすという予期せぬ不祥事が、選手としての寿命を定めてしまったのだった。

大相撲から元関脇安念山。栃若時代後期から柏鵬時代前期にかけて上位力士として長く取った。本名が安念なので安念山(あんねんやま)という四股名がめずらかでおもしろいので、負けて引き揚げてくると悪ガキどもから「ざんねんやまー」と声援が上がったそうな。

同じく大相撲界から、呼び出し三郎94歳。この人は相撲甚句の名手で、大川橋蔵を渋くしたような端正な好男子だったが、入門が遅かったために序列は幕内格でなかったので、本場所の土俵では、箒で土俵を掃き清めたり土俵下で介添えをしたりする風情ある姿が懐かしいが、幕内の取組で力士を呼びあげる姿は見られなかった。

川田孝子86歳という記事もあった。「童謡歌手」というジャンルが歴として存在していた頃、川田正子、孝子、もうひとり名前を失念したが妹がいて、三姉妹で鳴らしていた。たいした人気だった。

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朝ドラの『カムカムエブリバディ』が近過去を扱って、なかなか面白い隠し味が気が利いているのを書くつもりだったが、長くなったので次回まわしにして、今回はこれ切りとよう。