随談第645回 ながつきだより

この前、蔓延防止措置をマンボウと呼んだことから北杜夫の「どくとるマンボウ」を思い出したと書いたのを覚えておいでかどうか。こちらはそれから思い立って、マンボウではなく『楡家の人びと』を読むこととなった。いずれはもう一度読み直したいと思っていたことではあったが、半世紀の余を隔ててしばしの幸福に浸ることが出来たのだから、まったく禍福は糾える縄の如く、何が幸いするかわからない。

手元にあるのは昭和39年4月発行の初版で、発売と同時に買って読んだのを覚えている。上下二段組550頁という大作で、トーマス・マンに私淑していた作者が『ブッデンブロオク家の人びと』のような作を書こうという一念を果たしたものと聞こえていた。因みに『ブッデンブロオク家の人びと』は岩波文庫版では各冊★4つで全3巻だった筈である。新興ブルジョワジーの一族の興亡を物語る大河小説で、同じようなものにフランスではマルタン・デュ・ガールの『チボー家の人びと』(これは日本でもいっときかなり読まれたもので、『晩春』だったか『麦秋』だったか、横須賀線の北鎌倉駅のプラットホームで原節子が電車を待つ間に読んでいると「何を読んでるんです?」「チボーケの人びと」というやり取りがあったはずだ)、イギリスではゴールズワージ『フォーサイト・サーガ』というのがあり、こちらは美智子上皇后の学生時代の愛読書と聞いたおぼえがある。映画にもなって、フォーサイト家というタイトルを聞き覚えたのも大人たちが評判をしているのが小耳に入ったからだったと思うが、肝心の映画はまだ餓鬼、つまりイニシエーション未然の子供だった悲しさには残念ながら見ていない。

もっとも当時、つまり50年代60年代という時勢は、文学を論じていっぱし気の利いたことを物そうかという向きは、やれサルトルだカミユだ、ヘミングウェイだフォークナーだと血道をあげるのが通り相場だったから、この種の作を読むのは素人の読者だと見なされがちだった。そこを承知で畢生の大作を書いたところに北杜夫の身上があったことになる。我が『楡家の人びと』は青山に実在した脳病院を舞台に、創立者である初代、その女婿で作者の実父である歌人であり精神科医だった斎藤茂吉を二代目とするファミリーをモデルとする、明治末・大正から昭和20年の敗戦までほぼ半世紀にわたる、まさしく大河のごとき物語である。作者自身と思われる少年や、その兄でひところテレビ文化人としても知られた斎藤茂太氏の若き日と思われる人物も後半になって登場する。

この前に書いた『鞍馬天狗』や『父子鷹』もだが、半世紀余を隔てて若い頃に読んだものを再読するというのは、かつて読んだ時のさまざまな記憶が蘇ったり、それがまたさまざまに乱反射したりといった、作品自体を味読するというだけに留まらない面白さを誘発してくれる。買って未読のままの本、再読三読を待っている本が相当数、埃を冠って書棚に仮眠している。新刊書だって読まないわけではなし、まだ当分、死んでいる暇はない。
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初めて読んだ大人向けの本、というと前にも書いたように『鞍馬天狗』だが、(『鞍馬天狗』愛読者のご多聞に漏れず「鬼面の老女」「御用盗異聞」「小鳥を買う武士」「鞍馬天狗余燼」にはじまり、最後の作『地獄太平記』まで読み進んだわけだが(はじめの四作中でも『鞍馬天狗余燼』はその後も何度か読み返したが、去年コロナ禍の徒然に久しぶりに読んで、わが人生観はこの小説に随分と影響を受けていたのかもしれないと心づいた)、しかし一方、これと相前後して新聞の連載小説が視野に入ってきたから、時間差からするとむしろこちらの方が最初に読んだ大人向けの小説ということになるかもしれない。小学校6年の時に引っ越した家というのは、当時の町場の小住宅によくあった随分安直な作りで、玄関の格子戸の隙間から新聞配達が二つ折りにした新聞を差し込んでゆく。頁数の多い今の新聞だったら無理だろうが確か8ページ立ての当時の朝刊なら十分な隙間だった。小学6年生というのは、それまで目に入っていなかった大人の世界、つまり社会のさまざまな断片が俄かに視界の内に入ってくる。ちょうど読売新聞で石川達三の『悪の愉しさ』というのが連載を始めたのを、玄関の格子戸の隙間からインクの匂いも新しい朝刊を取ってきて寝床で寝そべって読んだ。兵隊帰りで今はしがない月給取の男がタクシーの運転手の首を絞めて強盗を仕出かすという筋だった。当時、タクシー強盗のニュースは小学生の耳にも頻繁に入っていた。いかにも昭和20年代という時世である。あまり子供に向いた内容ではない。が、面白いと思った。それからしばらくして今度は朝日に井上靖の『あした来る人』というのが始まった。これも、互いに気に染まぬ夫婦が別れるというのが主筋だから子供向きとは言えないが、文章の感じや全体の気分が何かすがすがしい感じがして気に入った。様々な登場人物も、大人の世界を垣間見るような魅力が感じられた。福田豊四郎の挿絵も素敵だった。後年、大分後になって,選集の一巻に入っていた端本がいい状態に保存されていたのを神保町を歩いていて見つけて買っておいたのを、『楡家の人びと』の余燼冷めやらぬ中、書棚に眠っていたのが目に入ったので取り出して読んだ。改めて思ったのは、『鞍馬天狗余燼』にせよ『あした来る人』にせよ、読み落としていたものが多々あるのは確かだが、勘どころとなるものは、小学生中学生なりにちゃんと読み取っていたのだということである。

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それにしても、当時は新聞小説の最盛期で、各紙が第一線級の作家に次々と争って書かせていたのが、世上の話題となり評判となり、その作家にとっても代表作となるという盛況だった。スペースは現在と変わらないが、二段組で活字も一段に14文字という、いまから見ればコンサイス辞典みたいな小ささだったから、一回分がざっと400字詰め用紙3枚余はたっぷりあったろう。短くとも百数十回、長いのは1年有余も続いた。読売に連載していた海音寺潮五郎の『蒙古来る』などは、始まった時中学の一年生だったのが終わった時は3年生になっていたのではなかったかしらん。(と書いてから確かめて見たら、ナニ、実際は1年半で連載は終わったらしい。果てしなく続くかと思われたほどだったが。ともあれ『鞍馬天狗』とはまた趣きの違った、雄渾な歴史小説の醍醐味というものを、私はこれで知ったのだった。)

新聞に連載というのは、いまも言うように一回分が原稿用紙3枚余だから、話の筋にせよ人物の思弁にせよ一回の分で一定のまとまりができるから、おのずと、今日の分と次回の分の間に微妙な呼吸の間が生じる。作者もそれを意図的に利用して、場面転換や、話柄や人物の視点の変化などに利用したりする。そこらの微妙な呼吸が面白い。今度『あした来る人』を読みながら、たぶんここが一日分の変わり目だろうと想像しながら読む面白さを改めて思った。新聞小説はいまでも面白そうなら読むが、どうもこういう微妙な呼吸に心をつけて書いている作家は数少ないような気がする。

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前回のタイトルを「勝手にしやがれ」としたら、ジャン=ポール・ベルモンドが死んだというのも、マンボウではないがこれも一つの奇縁ろう。NHKのBSでは予定を切り替えて『勝手にしやがれ』を放映した。まさしく旬の時代のベルモンドとジーン・セバーグが、小道具や風俗が古びてもなおみずみずしいのにはウームと唸らされる。ジーン・セバーグ演ずるパリ留学中のアメリカ娘が、フォークナーを読んでいるというひとくさりがある。つまりこれも、1950~60年代のヌーベル・バーグの風俗なわけだ。

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秋場所で東昇龍が若隆景に一本背負いという大技を決めたのが目覚ましかった。同じような技でも柔道の背負い投げは膝をついて投げるが、相撲は膝をついては負けになってしまうから腰を入れた姿勢で投げる分、派手に決まる代わり、滅多に出る技ではない。今場所は珍しい技として、宇良が大栄翔に決めた「後ろ吊り出し」というのもあったが、画像を見るかぎりでは、あれは相手の体を後ろから抱え上げているのであって「吊り」とは言えないのではないだろうか?

照ノ富士は横綱としての初優勝で念願を達した場所と言えようが、楽日を待つかのように白鵬が引退を声明するという歴史の綴じ目となるような場所となった。しかし民放のスポーツニュースでは大谷翔平でもちきりである。

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歌舞伎座は第一部に六世歌右衛門20年祭・七世芝翫10年祭というタイトルがついて成駒屋をめぐる一門の出演だが、梅玉と魁春の『須磨の写絵』を感に堪えて見た。魁春と児太郎の松風・村雨に梅玉の行平という配役で「行平名残の巻」というタイトルをつけた、つまり上の巻だけで、此兵衛の活躍する下の巻は出ないからやんやと沸かせるような場面はない。(かつて歌右衛門が再三演じたときは上下巻通して、此兵衛は延若が大傑作だった。延若というひとは所作ダテの名手だったから、此兵衛のような役は、延若としても指折りの代表作であった。『千本桜』の「鳥居前」の忠信でも、東京風の筋隈を取り仁王襷をつけた荒事でなく、取り手を相手に存分に所作ダテを見せるという演出で堪能せた。)私はこのところ、魁春を見るのが楽しみで、まるで歌右衛門のエッセンスを見るような思いで毎回、ひとりひそかに楽しんでいるが、今度はそれにもまさって梅玉の行平が、風情と言い、役者ぶりの大いなることと言い、これなるかなという思いで見入ることとなった。10月には国立劇場で『伊勢音頭』の貢をするらしいが、これでまた唸らせてくれたなら、あっぱれ当代に江戸和事の芸を伝える「最後の人」と言われることになるだろう。

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鳥居清光さんが亡くなって、歌舞伎座の絵看板の画風ががらりと変わった。あれはあれで絵看板としてひとつの画風だろうが、連綿と続いてきた鳥居派の絵看板はこれで終息したことになる(のだろうか?)

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九月は文楽がかかる月で、『双蝶々』と『伊賀越』に『卅間堂棟由来』に『日高川』と、こういう演目が今なお並ぶのは、文楽の観客が歌舞伎の観客より安定しているという表れと見ていいのか? それとも固定していると見るべきなのか? 『伊賀越』を「沼津」「伏見北国屋」「伊賀上野敵討」と出して、十兵衛が討たれる件を見せるなどは文楽ならではと言える。「北国屋」などは歌舞伎で出したら、せっかくの『沼津』での感銘に水を差されたようになりかねないが、浄瑠璃という語り物文芸として、つまりストーリイ・テリングを事とする文楽では、成程これで、伊丹屋十兵衛は男でござるという物語が完結することになるわけだ。

『卅間堂』の「平太郎内」を語った咲太夫も、高齢なりに健康も復した様子に見えるのは何よりである。

開幕に『寿式三番叟』が出るのは国立劇場として開場55周年の記念と同時にコロナ禍も厄払いの意味も込めてなそうな。『式三番叟』と言うと、国立劇場が出来る前、三越劇場で文楽をしていた頃、ある正月の開幕にこれが出て、終わって劇場に隣接した憚りへ行くと大変な混雑だったが、ふと気が付くと何と隣りで鶴澤寛治師が所用中だった、という何とも忘れ難い思い出がある。しばらく前に書いた、上手の床の真下の席で見ていたら、津大夫の唾が私の右の高頬にひらりと飛んできた時の嬉しさと共に、忘れ難い思い出となっている。

それにして天下の名人鶴澤寛治師と○○〇〇をしたなど、東横ホールに上方歌舞伎がかかった時、劇場内にあった小食堂で(八階の大食堂と別に、9階のホール内に劇場専用の小さな食堂があったのだ)ふと気が付くと、すぐ隣のテーブルで二代目の鴈治郎が何と(私と同じく)焼きそばを食べていたのと共に、立派な大劇場では考えられない体験であろう。

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このブログも、古くから継続して読んでくださっている方があって、そういう方から、以前そうしていたように新聞評の掲載日を予告してほしいという要望があった。熱心に読んでいて下さればこそで有難いことである。さしあたり10月は、14日(木)に国立劇場の『伊勢音頭』の通しの評を掲載予定だが、但しこの予定は本来、新聞社内のものだから、紙面上の都合で間際になって変更ということもちょいちょいあることを、悪しからずご承知おきいただかなければならない。