随談第643回 勝手にしやがれ

開催自明、というムードになったのに歩調を合わせる如く、東京のコロナ感染者の数字が日に日にじわりじわりと上がるという、綱渡りを見るような日が続く。勝手にしやがれ。もう、どうなったって知らないからね、と高みの見物を決め込んで眺めるなら、なかなかスリリングな日々である。一介の市井の民としては、せいぜいワクチンでも打って眺めているしか、本当になんにも仕様がない。五輪開催中にハルマゲドン到来となった時の、SさんやBさんの顔が見られるのはオリンピックの競技を見るより、いとおかしきものであるかもしれない。先ごろの国会で本当に五輪は開くのかと迫る野党議員に対して「私はさっきから何度もお答えしています。いいですか、よく聞いてください」と念を押した上で「安心安全」を唱えている。そう、かの仁の中では開催宣言は自ずから疾うになされているのである。紋切り型の念仏と言うが、同じことを訊かれるから同じことを答えているまでなのだ。

がまあ、こんな何の益にもならない文字を連ねていても仕様がない。それよりは、市井の老耄の呟きのごときものをそこはかとなく書きつけて、今回の随談ということにしよう。

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新しい朝ドラが始まって、まあ、見ているが、今回もまた、毎日冒頭に流れる主題歌の歌詞が何と言っているのか聞き取れない。今に始まったことではない。この何年来、ドラマは変われど同じことが繰り返され、続いている。何と言っているのだろうと耳を傾けるが、ところどころ、きれぎれに聞き取れるフレーズはあっても、歌詞全体として立ち上がってくるには程遠い。いつ頃からこうなったろうか、とにかく以前はこういうことはなかった。

曲の作り方、歌手の歌い方にも原因の一端があるのは確かで、とくにフレーズの切り方、息継ぎの仕方、アクセントの置き方,甘ったれたような発声等々、いろいろ考えられるが、どうやらそうしたことどもも含めて、より根元的には、音符に言葉を乗せる乗せ方が、以前とは大きく、もしかするとかなり根元的なところで、変わっているからに違いない。

もう大分昔になるが、ひところ、曲のフレーズと歌詞のフレーズを一致させるべきだという理論がしきりに唱えられたことがあった。なるほど、そうすれば歌詞の意味が明確にわかる。ポッポッポ、鳩ポッポ、という具合である。少し手が込むと、春の小川はさらさら行くよ、の「春」を「はある」と義太夫で言う産み字のようにして処理するという手もある。しかしこのやり方には当然限界があって、曲のフレーズの切れ目と歌詞の切れ目を常に一致させるのは時に齟齬を生じる。我が国家である「君が代」にしてからが、「さざれ石の巌となりて」というところが、「さざれー」で大方の者は息が続かなくなる。ひと頃、大相撲の千秋楽に観客も唱和する国家斉唱のとき、楽隊の演奏が「さーざーれー」だったか「いーしーのー」だったかというところで太鼓をドンドンドンと三連打していたものだが、あれはただの「石」ではなく「さざれ石」なのだから、「さざれ」を切り離して「石の」で太鼓を三つ叩くのは歌詞を無視した演奏ということになる。(それからぬか、最近はこの箇所での太鼓連打はしなくなったようだが。)もともとこの歌は、「君が代は千代に八千代に/さざれ石の巌となりて/苔のむすまで」と、七・五・七・五・七という七五調になっているわけだが、いまの国歌「君が代」の旋律だと、「きーみーがアーよーオーはー/ちーよーにーイイやーちーよーにさーざーれー/いーしーのー/いーわーおーとーなーりてー」と、よほど歌唱の訓練をした者でなければなってしまうように出来ているわけだ。

というわけで、そもそも単純素朴な一音符一音一文字主義を貫けるのは、せいぜい童謡か小学唱歌ぐらいまでが関の山だろうから、我々世代とは飛躍的に音楽の素養が進化した当節の若い音楽家たちが、歌詞の束縛から自由な曲を作りたがるようになったのは無理からぬところには違いない。そこまでは解る。翻って思うに、これは、作曲の仕方より、歌詞、ひいては現代日本語に対する感覚に関するかぎり、朝ドラの主題歌の製作者と私との間に大きな隔たりが出来てしまっているからに相違ない。と、そういう結論に、最近私は達しつつあるのである。

流行歌で言えば、美空ひばり、島倉千代子の時代はもちろん、五木ひろし、舟木一夫、森進一辺りまでは、歌詞がごく何の気なしに、他のことを考えながら聞いていても聞き取れた。いや、もっと近くまでそうであったろう。散文であっても、ある時期までの文章にはそれなりに一定の韻律というものが、たとえ新聞記事にでも、売薬の箱に書いてある効能書きにすら、どこかに潜んでいた。だから何の苦もなく読むことができた。だが近年の散文の文章となるとそうはいかないことがしばしばある。パソコンを買い替えるなどして説明書きを読んでも、内容以前に文意そのものが頭に入ってこない。不案内な用語や、機器の仕組みが理解を超えているというだけなら、当然のことだから不満も不安も覚えないが、それ以前に、文章そのものが無機的で、リズムも抑揚もなく、読む者を拒絶しているかのように感じられる。パソコンの効能書きならまだしも、新聞などで読む年若の識者の筆になる(いや、キーを叩く指先になる、か?)コラムなどにも、韻律を感じ取れない無機的な文章が多くなったような気がする。明晰と言えばそうともいえるが、機械の書いた文章のようで味気ないことおびただしい。

しかし翻って思うに、こういう文章を書き、またそれを読む人たちが、そこに何らかの快適さを感じていないということは(人間である以上)考えられないから、たぶん当節の読者諸氏諸嬢は、こういう無機的(と私には思われる)文章に何らかの「美」を感じ取っているに違いない。最近の朝ドラの主題歌も、あれをよしとし、愛する(ような感性を持った)人が、視聴者の多数を占めるようになっているのに違いない。その人たちには、私には聞き取れない歌詞も、はっきり聞き取れているに違いない。

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それとは違うが(しかしどこかで通底しているはずだという「疑念」も、じつは抱いているのだが)、もう今更、間違いだの、やめてくれだのと言っても間に合わないほど風靡してしまっているから、他人様が使うのを咎める気はないが、自分では絶対に使おうとは思わない「常套フレーズ」がある。

・(お待たせいたしました、こちらカキアゲソバ)になっております、(または)となります。
→さてはタヌキソバがカキアゲソバに化けたのか?

・(××宣言を発出)させていただきます。

・(総理、五輪開催中止)でいいですね?

・(五輪は絶対中止すべきだ)という風に思います。

・(うな重はうな丼より値段が高い)と承知しております。

等々、といったフレーズである。こうした、持って回った物の言い様が、街に出ても、テレビを見ていても、何回となく耳に飛び込んでくる。思うにこれは21世紀になってから以降の現象であろうと私は思っている。

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近ごろはNHKでも民放でも、アナウンサーにアクセント教育ということをしなくなったらしい。たしかに、以前のように「標準語」なるものを絶対視して、NHKのアナウンサーをお手本にすべし、などということを言わなくなったのはむべなるものがあるが、それにしても、同じアナウンサーがわずか数分の間に、さっきは「・・・と述べた」と頭にアクセントを置いて言ったと思うと、同じニュースの中で今度は「野豚」と同じアクセントで「述べた」と言う・・・と言ったことが当たり前になっている。

そういえば、往年の横綱大鵬の孫という若手力士が最近、十両に昇進して、それまで祖父と同じく本名の「納谷」を四股名としていたのが、新規に「王鵬」と名乗るようになった。が、ここではその新しい四股名ではなく、元の「納谷」という名前の読み方である。「ナヤ」と「玉」とか「球」などというのと同じくフラットに呼ばれてきたらしいのだが、さすがに古手のアナウンサー連から、横綱の大鵬の若手の頃、四股名の「納谷」は「納屋」というのと同じに頭にアクセントを置いて呼んでいたものだという声が上がったという。祖父が幕下力士だった昭和30年ごろと孫が幕下の平成30年ごろとでは、同じ名前が別の読まれ方をしていたという、これも同じ根から出ている現象に違いない。

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その一方で、NHKではしばらく前から、「各界」という言葉を「角界」と同じイントネーションで読むのが定例化しているのが、気になっている。「角界の名士たちが一堂に会して」というから、往年の名力士や何かが集まったのかと思うとそうではなく、元総理だのナントカホールディングス会長だのが集まったのだという。あれは、三蔵法師のお供をした孫悟空の同僚の猪の八戒と同じ読み方をするのではなかったろうか?
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立花隆、原信夫、寺内タカシetc、etc・・・と言った人たちの訃報が目に入った。それぞれに、それぞれの盛んだった時代の匂いが、一瞬、立ち込めた。

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