随談第640回 マンボウ騒ぎ

テレビのワイドショーやニュースを見ていると、マンボウマンボウと頻りに言う。魚のマンボウのことかと思うと、コロナ対応の話で「蔓延防止特別措置」の略称と知れた。それなら、「金棒」とか「願望」などと同じフラットなイントネーションになる筈だが、魚のマンボウと同じく頭にアクセントを置いている。私などの世代の者には、北杜夫の「どくとるマンボウ」を思い出したりしてちょっぴり懐かしくないこともないが…と、ここまで書いて、後は明日ゆっくり書こうと寝てしまい、一夜明けてテレビを見、新聞を開くと、このマンボウ一件のことが俄かに問題となっている。政府にとって重要なコロナ対応策を茶化したような言い方を政府関係者やマスコミまでが無自覚に使うのはおかしいではないか、というのが論調であるようだ。私はてっきりSNFかどこかで茶化したのが広まったのかと思っていたら、聞いているとどうやら言い出しっぺはかの専門委員会の尾身会長で、ご自身としては、若い人にも親しみやすいようにと、いいつもりで言い出した、ということであったらしい。おやおや、である。

とまあ、こういうわけで、今回は出だしからつまづいてしまったので、話題変更と行こう。

        *

とはいえ、すぐには頭が切り替わらないので、アクセントの話をもう一席お付き合い願うと、高校野球の放送を見ていると場内アナウンスが、「三番センター○○クン」などと放送する声が聞こえてくる。○○君、というのを独特のアクセントをつけて言うのが耳につく。近似の例を挙げると、「新潟県」とか「秋田県」などというのと同じ節回しである。かつての高校野球の場内アナウンスというと中年男性のだみ声で「四番ファ-スト××クン」とやっていたものだったのが、それがいつからか女性の声に変わって久しいにもかかわらず、この「○○クン、××クン」の一種独特のアクセントだけは、伝統演劇における「型」の伝承の如くに、見事に受け継がれているのだ。関西地方、とりわけ阪神地帯特有のアクセントなのか、それとも高校野球界という一地方特有の方言アクセントなのか、アズマエビスである私には判断しかねるが・・・

        ***

少しは歌舞伎の話をしよう。先月の歌舞伎座で仁左衛門が『熊谷陣屋』を出して健在ぶりを見せたが、この優らしく、細かいところにも気を配っていろいろ改変を施しているのが目に付いた。小次郎の首の扱いに関して、いろいろ新工夫を見せている。首実検がすみ、首を自ら相模に渡すのは以前からしていたが、今度はその前に、深く思いをこめ、と言って、いわゆる「思い入れ」をするのではなく、自身のふところに抱きしめ、しばし黙然としてから、相模にねんごろに手ずから渡す。相模のクドキの間に、首が置かれていた台(あれは、何というのだろう?)を、自らいざって取りに行き、さらに奥まった位置までいざって行って後見に手渡す(ように見えた)。・・・という具合に、首の扱いに細かく気を配って相模への心遣いを入念に見せる。(冒頭、陣屋に戻ってきて相模がいるのに気が付くと、通常の熊谷のように「ヤイ、女」などと言わずに(イマドキ、自分の奥さんに向かって「ヤイ、女」などと言ったら大変なことになったしまうであろう)、「やい、女房」と言っている。要するに相模への心遣いを、全体の流れを阻害することなしに可能な限り事細かに見せる、という配慮である。以前からいわゆる團十郎型への疑問として言われている、熊谷は自分の一存で小次郎を身代わりにして雲水になるのだからいいが、あれでは相模は浮かばれないではないか、という批判への、仁左衛門として考え抜いた回答とも読める。なるほどなるほど。が、しかしあそこまでするのならもう一歩進めて、幕外の引っ込みもやめてしまい、元々の浄瑠璃の通り、舞台中央の二重の上に義経、平舞台上手に藤の方と弥陀六、下手に相模と共に留まって幕にする方が、首尾一貫するのではあるまいか?という疑問も生じてくる。(花道七三で向こうからドンチャンが聞こえると、キッとなって手にした杖を太刀のように掻い込むところなど、確かに格好いいのだが・・・。)

        ***

先日、日本映画チャンネルで久しぶりに『ゴジラ』を見た。もちろん、1954年制作の元祖ゴジラである。いま改めて見ると、随分真面目に作った作であったことが今更のように思われる。言い尽くされていることながら、この年の春にあったビキニ環礁の水爆実験と第五福竜丸の事件が、仮に際物として作るにせよ、生半可なことでお茶を濁しリアリティをもって見せられなければ、際物としても支持を得られなかったであろう。ゴジラが遂に東京湾から上陸してきて、元の日劇や何かがぺしゃんこにされてしまい、実況中継のアナウンサーの身にも危険が迫り、「皆さん、さようなら」と悲壮な声で叫ぶ中、逃げ道を失って子供を二人抱えた中年の母親が「お父さまのところへ行きましょうね」と言い聞かせているのは、戦地で亡くなり天国にいる夫のことであろう。いま見ると驚くべきリアリティをもって刺さってくる。

この作の封切り当時のことはそのころ中学生だったなりによく覚えているが、同級生たちの反応は、級友の前では建前としてゲテモノだと笑って見せるが実は見たいのが本音、という辺りが大方であったと思う。私は封切りでは見なかったが、予告編を見たのははっきり覚えている。滝野川映画劇場という、東映の封切作二本立てに東宝の作品を一週遅れのを一本、全部で三本見られるというお得で割安の、この手の映画館が当時はよくあったものだった。ここで、片岡千恵蔵主演の『新選組鬼隊長』(その後いろいろ見た新選組映画の中でも出色のなかなか力作で、いまでも時どき思い出す)に東千代之介の『龍虎八天狗』という吉川英治の少年小説を映画化した併映用の五部作の最終回、それに宝塚映画製作・東宝配給の斎藤寅次郎監督『仇討ち珍道中』という(伴淳・花菱アチャコの仇討ち兄弟に益田キートンが敵役という抱腹絶倒の面白さで、ぜひ再会したいと今でも本気で願っている)三本立てで、日曜日に家族全員で出かけたのだったが、その時に予告編で見たのが、大友柳太朗の赤垣源蔵に月形龍之介の清水一角という『残月一騎打』という忠臣蔵外伝物と『ゴジラ』の予告編だったのだ。志村喬の原子力研究の老教授に河内桃子のその令嬢、という配役は、千恵蔵の近藤勇がそうであるのと同様に、この種の作品に絶対的にして欠かせないはまり役であった。老教授の助手で河内桃子の恋人役の宝田明は売り出して間もない新人で(この人は東ナントカさんという新人女優と「東宝ニューフェース」としてペアで売り出したのだった。「東」と「宝田」で「東宝」というわけだ)、志村教授のもう一人の弟子で、死を賭して研究に打ち込む少壮学者を平田昭彦というのも、不動の陣容と言うべきであろう。

ところでこの宝田・河内の恋人同士が、デートの約束をしていたコンサートに(ゴジラ問題のために宝田の方が)行かれなくなるという場面があって、チケットが大写し(いまでいうアップである)になると「ブダペスト四重奏団演奏会」と書いてあるのに、迂闊ながら今度初めて気が付いた。当時よくあった「ショパンの夕べ」などというのではない。ブダペスト四重奏団はこの時が二度目の来日だった筈だが、このハイブラウぶりは、なるほど伊福部昭が音楽を担当している作品だけのことはある。

        **

三月場所は照ノ富士の優勝に大関復帰が叶って私としては言うことない結果だが、三大関よりすでに実力が上であることは明らかだろう。貴景勝は押していても足が止まっているし、朝乃山はタイプとしては好きな力士だが、過信というか自分の力を思い違えている。正代もあの相撲の取り方では、いい時もあろうが今度のようなことがあっても不思議はない。
 活躍した若隆景が贔屓にしようかと思うような相撲ぶりでほれぼれしたが、あの若葉山の孫と聞いて懐かしさが蘇る。昭和20年代も終戦間もない頃から30年代半ばごろまで、かなり長く取った、技能派というより典型的な「手取り」力士として目に残っている。手近にある「相撲」昭和29年秋場所号という古雑誌で確かめると、身長5尺6寸8分、体重24貫400とあるから、170センチに92キロ、と言ったところか。当時としても小兵だが珍しいというほどでもない。今ならちょっと体格のいい若者にいくらもいるだろう。若葉山は小結が最高位だが、若隆景は地位より相撲ぶりから言って、すでに祖父まさりと言っていい。

        *

相撲解説の北の富士氏が、NHKの放送文化賞を受賞したという話になって、授賞式で同じく受賞した北大路欣也氏から挨拶され、むかし話を交わしたという佳話があった。昭和33年というから、北の富士は入門間もなくで横綱千代の山の付け人、北大路氏はデビュー間もない(たぶん)まだ中学生であろう。(折から時代劇チャンネルでデビュー作の「父子鷹」が放映になった。歌舞伎でやる真山青果の『天保遊侠録』と同じ題材の、当時読売新聞に連載された子母澤寛の傑作小説の映画化で、私にとっても懐かしの逸品である。)相撲に関心があるので支度部屋を見学したいという申し出を、協会でも特別に計らった、というのであったか。「ああ、これが市川右太衛門の息子か」と思って見ていたという北の富士氏の思い出話がよきものであった。

        *

その「父子鷹」だが、この言葉は以後、広く世間一般でも「この父にしてこの子あり」という意味で使われるようになった。とりわけ、現・巨人監督の原辰徳氏が高校野球のスターとして売り出したとき、父親が東海大相模の野球部の名監督として著名であったというところから、この「父子鷹」が流行語のように広まったことがあった。まあ、それはそれとして結構ではあるけれども、原作者の子母澤寛がこの言葉に籠めた意図は、逆に薄れ、忘れられてしまうことになった。「父子」の「子」の方は後の勝海舟だから金箔付きの「鷹」に違いないが、この作の主人公である父親の勝小吉は、生涯無役の幕臣で,放蕩無頼の一生を送った人物である。それにもかかわらず、その人となりその生き様(という言葉は、こういう場合にこそ使うべきであろう。間違っても「恩師○○教授の生きざま」などと同窓会雑誌などに書くべき言葉ではない)によって、これもまた天晴れ一個の「鷹」であったというのが真意であったはずだった。つまりそこに、人生の機微や、人の世の哀歓やら、さまざまなものが潜んでいるわけだが、父も子もどちらも凄い、というのではストレートで面白くも何ともない。