随談第639回 遅なわりしは不調法

月末月鼻に締切りその他が重なって、今回は大幅遅れとなった。遅なわりしは不調法、お許しを願います。

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久しぶりに歌舞伎座の三階席から魁春の八重垣姫を見た。新開場前に下見をさせてもらった折に三階まで上がって坐ってみたことはあるが、新しい歌舞伎座で正規の舞台を三階から見るのは初めてだ。やはり、いい。最前列は空きがなかったので、花道の出入りを真正面から見る二列目。かつては前の歌舞伎座でよく見ていた席だ。(もっとも、厳密にいえば前の歌舞伎座は三階席最前列と三階ロビーの床が同じ平面だったが、新しい歌舞伎座の三階席は、ロビーから場内に入り、最前列へは六列分階段を下りるようになっているのが、以前の三階席の空間とちょっと勝手が違うが。)

三階席から見る良さは、額縁舞台のフレームが視野の中にきちんと入ることだ。フレームの中に大道具の全容がはまり、人物の配置があり、舞台の寸法というものが、一望の視野の中に納まる。これが肝要である。一階の舞台に近い席が上席とされるのは役者を間近に見られる臨場感ゆえだろうが、それも確かにいいには違いないが、そればかりが能ではない。殊に踊りなどは、あまり真近から見るよりある程度距離を取った方が、全身の動きの均衡と共にテンポやリズムが良くわかる。オペラグラスというのは、ほんの何秒間か顔を見れば充分なので、踊りの面白さというものは減殺されてしまう。今回の『十種香』のような芝居も、舞台中央の勝頼と、上手下手の八重垣姫と濡衣の配置の妙趣が三階からだとじつによくわかる。下手の濡衣は、死んだ偽の勝頼を思いつつ、眼前に蓑作が勝頼となって現れた姿に幻覚を見、上手の姫は、絵姿に見ていた勝頼そのままの男を目前にして幻覚を見る、という作意の趣向が、三階席に座ってみると実に的確に一望できるのが新鮮であった。

魁春の八重垣姫はやはりいい。これでこそ丸本時代物の姫である。孝太郎の濡衣も現在の最適任者だろうし、門之助の勝頼だって、不足に感じるものがあるとしたら、いまにして初役という外的条件がそう思わせるのであって、あれでもう何度か場数を重ね(る機会を与えられ)さえすれば解決されることである。錦之助の謙信もブラヴォーだ。つくづく思うに、こういうクラスの顔ぶれで打つ機会が当今ほとんどなくなってしまったことで、今回の「十種香」はコロナ禍のもたらした思わぬ一得かも知れない。

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文楽は3部制で夜8時までに終らせようというので何と10時半始まりである。入れ替えの時間も随分寸が詰まったから、『先代萩』の「竹の間」「御殿」と『菅原』の「寺入り・寺子屋」、『冥途の飛脚』を「淡路町・封印切・道行相合いかご
とみっちり聞くと耐久レースの感もある。間に挟まっての『曲輪?』がオアシス効果を発揮するが、しかし文楽というのはこうして耐久レース張りの苦行をへとへとになりながら聞くものであるともいえる。
『御殿』の「前」を弾く鶴澤清治文化功労者顕彰記念と謳ってある。私が知ったころは十代の生意気盛りでいろいろ物議を醸すようなこともあったのを思い出すが、長老の風格を備えるようになったいまでも、その風貌は、おそらく、激しい物は失っていないに違いないと感じさせる。

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オリムピック開催予定を間近にして舌禍のために退いたM氏というと思い出すのが、氏がまだ中堅議員であった頃、国会議員野球大会というのを言い出し兵衛となって実施したことがあった。当時公明党の古参の議員で、元東急フライヤーズの名投手だった白木義一郎氏がいたが、白木投手といえども怖るるに足らずと言って、見事、左前安打を放ったという記事を読んだのを覚えている。まあ、白木議員の方が年齢も当選回数もはるか上だったとはいえ、プロ野球史に名を残すほどの名投手だった人物からヒットを打ったのだから自慢するだけの価値はあったというものだろう。

白木投手はその盛りの頃をこちらは小学生で何度も見ている。子供心にも印象的な選手で、顎の長いので一度見れば覚えてしまう上、相手打者がピッチャーゴロを打つと矢のような球をキャッチャーに投げ、捕手からファーストに転送してアウトにするという人を食ったプレイで面白がらせた。奇人という意味では十指に入る選手だった。たしか連続イニング無四球記録というのの記録を持っていたほどコントロールのいい投手として知られたが、その記録を破ったというので名を挙げた安田猛の訃報がついこのほどあった。一昨年の夏、その折にも書いたヤクルトOB戦にも出ていたのがいい見納めとなったわけだ。

しかし訃報と言えば、テニスの宮城淳の名を見た時は、ああ、と目の前で大きく動く時の流れを見るような思いだった。野球に比べれば、私はテニスへの興味も知識もほんの指先ほどしか持ち合わせないが、姉の宮城黎子とか、ダブルスの相棒だった加茂公成とかいう名前と共に蘇ってくる時代の光景には格別のものがある。昭和30年前後という時代と、私自身のイニシエーションとしての季節とが重なり合って、さまざまな記憶を呼び起こすからだろう。

田園調布の駅を東横線の電車が発車すると間もなく、丘の上の教会の反対側の眼下に田園コロシウムというテニスのスタジアムがあって、昭和30年代、ここで毎年デヴィスカップの東洋ゾーンの試合が行われた。宮城を筆頭とする日本選手の前にクリシュナンと言ったっけ、宮城の倍もありそうなインドの選手が文字通り壁のように立ちはだかって、テレビで見ていても、なかなか突破することが出来そうになかった。

と、ここまで書いたところで、三宅秀史の名前が出た。そのいかにも玄人好みのする名手ぶりのことは私がここに書くまでもなく、蘊蓄を傾ける方々が大勢いるであろうから私の出る幕などはないが、練習中のボールが目に当るという選手生命を絶たれる不祥事で信州だったかのどこかで再起のためのトレーニングをしていた頃、横綱の柏戸も肩に再起不能かと言われた大怪我をして、そのトレーニング先で三宅と出会い、励ましあっていたという記事を当時読んだことがあった。宮城89歳、三宅86歳との由。

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もう一人、本当は昨年暮れの内に書くべきだったが講談の一柳斎貞水のことも書き忘れっぱなしというわけには行かない。今の人たちがどうのという意味ではなく、最後の人だったという感が深い。この人とはひとつ思い出があって(もっとも、あちらは疾うに忘れたまま逝ってしまったに違いないが)、数年前、国立劇場で歌舞伎と文楽と双方で『伊賀越道中双六』を出したときの企画の一環として、貞水師とペリー荻野氏と小劇場の舞台上で鼎談をしたことがあったが、こういう時の常として、本番よりも事前の楽屋での雑談の方が面白い。どういう脈絡でだったか話題が映画の荒木又右衛門のことになり、貞水師が、大友柳太朗という人が戦後カムバックしてまだ敵役めいた役をしていた頃がいいと思った、と言ったのが、さすが目の付け所がお見事と深く頷いたことがある。

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東急フライヤーズつながりの話題。朝ドラ「エール」で知らぬ人のなくなった古関裕而氏が東急フライヤーズの応援歌を作曲していたという噂はあったが、その楽譜が発見されたという記事が載った。昭和25年というから二リーグ制発足の年である。おそらくそれが契機となったのだろう。まさに白木義一郎全盛の時代である。タイガースの「六甲おろし」が夙に戦前に出来ていたのは驚くべき例外で、当時エースの若林投手の働きかけがあったと何かで見た覚えがあるが、東急フライヤーズの場合にせよ、前にも書いたがまだ組織的な応援団などなかった時代である。これはプロ野球史にとっても、社会世相史としても、ささやかだがしかし意義のあるニュースであろう。

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という次第で、前回、予告めいたことを書いたのはそのまま、次回送りとさせていただきたい。悪しからずご了承をお願い申し上げます。

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