随談第638回 閉店・訃報、しかし・・・

今月も訃報や閉店の話ばかりだが、すべてが必ずしもよろしくない話ばかりとも限らない。

かつて、大学受験予備校というのに3カ月だけ通ったことがある。中学時代、英語の勉強というものを一切しなかったので、都立高校としてそれなりに名の通ったところに入学したものの、寒い・冷たいという形容詞のCOLDと、助動詞CANの過去形のCOULDの区別も知らなかった。英語という科目は、当時、文部省の規定では選択科目という建前だったから、我々の前年度までは都立高校の入試科目に英語は入っていなかった(というのは、嘘のような本当の話である)、我々の年度から入試科目に入ったのだったが、初年度だから多分出題も手加減があったのだろう、それでうまく滑り込めたのはよかったが、入ってからが悲惨なものだった。しかし相変わらず、関心は時代劇映画や大相撲やプロ野球、歌舞伎も視野の内に入っていたか、何よりも、曲亭馬琴のような大長編の時代小説を書こうと目指していたので、それにはまず「南総里見八犬伝」を原文で読んだ(つもりになった)り、等々、お陰で今もそれで世を渡っている「基礎力」を養っていたようなものだが、もちろんそんなことで大学に入れるわけはないから、一年間受験浪人して中学一年の第一歩、I am a boyから全部独力でやり直す考えだった。しかし受験浪人の一年間を独学などもってのほかと心配してくれる(親切な?)親戚の叔父さんなどがいて、親も本人任せにして大丈夫という保証があるわけでもなし、というわけで七月までの三か月だけ受験予備校に通うことにしたのだった。中学英語も出来ない者に無用であるのは明らかだったにもかかわらず・・・と、書き出し早々、大道草を食ってしまったがここからが本題で、その予備校で一つだけ、いいことを教わった。

あいにく名前は忘れたが年配の古文の先生が、その予備校に英語の講師で来ている某東大教授のご母堂が亡くなったと聞いて、おいくつでした?と尋ねたところ、80何歳だかの高齢という返事だったので、それはおめでとうございますと挨拶したら、くだんの東大教授が色を成して「先生、それは冗談でおっしゃるのですか」と叱られてしまった。しかしそれはその教授の方がまだお若いからものを知らないので、高齢で亡くなるというのはめでたいことであり、おめでとうございますという挨拶は決して礼を失することではない、というのだった。無益な授業料を払って通った受験予備校の三か月間に一つだけ、いいことを教わったと今も覚えている、というお話。

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とんだ長々しいマクラを振ってしまったが、柴又の川甚が閉店というのが、またしてもコロナ禍の犠牲、というニュースとして話題になっている。まだ昭和だった末つ方、高校の同窓会をあそこでしたことがあって一度切りだが行ったことがある。鯉料理の美味い、いい店だった。帝釈天も風格のある寺で(これは寅さん映画でおなじみだが)、客殿のぐるりを取り巻く庭園もいい風情だった。ああいうのが、本来の意味での東京近郊の風情というものであったのだろう。寅さんは江戸っ子か否か、という議論がかつてあったが、本郷も兼安までが江戸の内という基準からすれば葛飾の果てが江戸であるはずがないというリクツになる。しかし葛飾の江戸っ子もいれば練馬の江戸っ子も世田谷の江戸っ子もいる、江戸川べりの矢切の渡しも多摩川べりの矢口の渡しも江戸の内というのが、昭和も戦後の風景というものであろう。矢切の渡しと聞いて、連れて逃げてよという歌が思い浮かぶ人、伊藤左千夫の小説を思い出す人、同じ「野菊の墓」の映画でも木下惠介版を思い浮かべる人、後のバージョンを思う人、世代の違いだけでは尽くせない、世の変動が、大仰に言えば近代日本の激動がその間に横たわっている。

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安野光雅氏のことでは私の出る幕はないが、同じ出る幕ではないことに違いはなくとも、坂本スミ子死去、などという活字を見ると、ひとつの時代の匂いが蘇る。死去を伝えるテレビのニュースで、まだ白黒画面で旺盛に歌う人気華やかだった頃、中高年頃の映画の画面、なんと幼稚園の園長さんだったという晩年の画像と、次々に見せたのが、図らずも女の一生さながらに、見るこちらにも感慨があった。

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ハンク・アーロンにもやっぱり懐かしさを覚える。来日しての王とのホームラン競争はやはりよかった。あれは一本差と言っても実はアルファ付きだということを書いた人が、確かいたのを思い出した。たしか20球づつ打つ決まりで、先ず王が10本打った後、アーロンが19球目に11本目を打ってあと一球を残して勝ちと決まった途端、バットを放り出して駆け出した画面を覚えている。

それにしても、アーロンがニグロ・リーグ出身だったことは今度知った。まだこの世代までは、既にメジャーでプレイする黒人選手は大勢出ていた筈だが、新人がマイナーリーグからという体制が出来ていなかったのか。ルースの記録を破るときの騒ぎは知られているが、それより前に(いま名前が出てこない、これは齢のせいである)白人の選手がルースの記録を破りかけた時にもいろいろ悶着があったが、ああいうのはアメリカ独特の英雄崇拝の生んだ差別であったろう。

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栃ノ海の訃報も感慨をもたらすものだ。28歳で引退して82歳で逝去と言えば駄洒落めくが、つまり横綱としては短命だったが、その後の人生としては長命であったわけだ。小兵の横綱で、100キロ程度だったろう。大鵬・柏戸の両横綱の間に割って入ったのだからたいしたものだったが、その二人より若干だが齢も行っていたところに苦しさがあった。同じ小兵の横綱でも、栃錦や初代若乃花のような強さ・豪快さはなく、鋭い切れ味が身上だったから、薄刃の剃刀で名刀や大鉈に立ち向かうような痛々しさがあった。

一度、立ち合いの変化からもろ差しになって大鵬を寄り切った一番を見たことがある。もちろん当時は蔵前の国技館で、ひところはNHKに民放4局、どこにチャンネルを回しても(こんな表現をイマドキノ方々は理解できるだろうか?)大相撲中継をしていたのが、毎場所大鵬ばかりが優勝するというのでやや人気に陰りが出来たころで、(もちろん自分で買った席ではないからだが)一階席の後部に各局の放送席があったのを、撤退した局の席を指定席に転用したという上等の席だったが、簡単な間仕切り越しにふと隣りを覗くと、こちらはどこかの局が放送中で、後の田中角栄首相がゲストとして呼ばれていたらしく、上機嫌で何やら喋っていたのを覚えている。その間ほんの2メートルぐらいだったか。昭和40年の秋場所、歌舞伎座で昼の部の最後の演目に、歌右衛門と梅幸の踊る『蝶の道行』を見てから駆け付けたのだったっけ。

栃ノ海は風貌と言い、体形と言い、日馬富士がよく似ていた。日馬富士も絶好調で、巧くはまった時には白鵬をも見事に仕留めたが、ああいう調子で毎場所毎場所というわけには行かない、それと同じ苦しさが栃ノ海にもあった。横綱になってからは怪我のためにはかばかしい戦績は挙げていないが、非凡な技を持った名力士であったことは間違いない。北の富士氏にぜひ思い出を語ってもらいたい。

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先週、一日おきで新国立のオペラパレスで『アイーダ』を見、国立能楽堂で能を見たが、入り口で熱を測り、両掌をアルコール消毒し、チケットの半券をもぎるのは同じだが、劇場によって、三密への規制や、終了後の退席の方法等々、劇場によってかなり厳しさに差異がある。オペラパレスは、先ず一階席の方どうぞ、次に二階席の方、というやり方だが、一階席と言ったって何百という数だろう。能楽堂も、まず正面席の方どうぞ、というのだからオペラパレスに比べれば少数とはいえ、かなり大束なやり方だ。もっと厳重なところもあれば、さらに大雑把なところもあるとも聞く。がさて、いかがなものであろう。

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最後に一つお知らせ。旧臘に『眼中の役者たち(抄)』をこの公式サイトに載せたましたが、近々、「抄」の字の取れた、いわば完全版を電子書籍として出す予定です。次回にはもう少し具体的な情報をお知らせできると思います。

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