随談第641回 ワクチンと朝鮮人参

三度目の緊急事態宣言が発出となったが、彼れを見、此れを見、腰の定まらない手の内が見え見えで、いずれ期日が切れれば延長必至という情けない切り札である。本降りになって出てゆく雨宿り、という川柳がありましたっけ。大手町に自衛隊が出動、マンボウ実施地域から緊急事態宣言実施地域へと高齢者を移動させてワクチン接種をするというのは、英断といえば英断だろうが、ワクチンさえ何とかなればオリムピックも何とかなるかもしれないという実は神頼みの一手。そこで思い出すのが、かつての歌舞伎・講談・落語から時代小説・大衆劇等々によく出てきた朝鮮人参という不治の病も治すという特効薬である。親が不治の病にかかって明日をも知れぬ命、朝鮮人参さえ手に入れば、と医師に言われても及びもつかぬ高値(コウジキと読みます)、そこで孝行な娘が吉原に身を売って・・・という風にストーリーが展開するというのがお定まりであった。嗚呼、ワクチンさえ間に合ったなら!(嗚呼、朝鮮人参さえ手に入ったなら!)緊急事態宣言下のオリムピック開会式という光景は、世界史に残る“人類の英知の証し”となるであろう。本降りどころか、暴風になって出てゆく雨宿り、か?

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緊急事態宣言の実施開始日が文楽劇場の楽日と重なって、吉田蓑助師の引退が一日繰り上がるということとなった。私が文楽を見るようになった頃は、ちょうど蓑助師が期待の花形として脚光を浴びていたさなかであったから、一番長く見続けたのは蓑助師であったと言って差し支えないだろう。当時は女方遣いとして紋十郎と二代目栄三が健在だったし、若大夫も綱大夫も、寛治も喜左衛門も健在だったのだから、いま思えば、名人上手の時代はまだ続いていたわけだ。しかし経営・運営的には困難の極みにあったのだから、芸の良しあしと人気・景気とは別物と思い知るべきなのであろう。蓑助師には『千本桜』のお里を見せてもらったことを無上の幸せと思っている。

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宣言発出となって5月11日までの約2週間、外出の予定が奇麗さっぱりなくなった。〆た今こそ、とばかり取り出したのが、今を去る60年余年前に作った切り抜きである。昭和30年5月から翌31年8月まで全450回、読売新聞に連載された子母澤寛の『父子鷹』を、リアルタイムで毎日切り抜いては、当時わら半紙と呼んでいた粗末な(と言っても当時はそれが最も手近にある白紙だった)紙に、(新聞の連載小説は基本形は今も同じ上下2段の横長である)表に3回分、裏に3回分、糊で貼り、それを今度は用紙の端を糊で重ね貼りすると、糸で閉じるより堅牢な切抜き帖が出来上がる。もちろん連載終了後に上下二冊の単行本として刊行されたのがいまも書架にあるが、4年ほど前の夏(夏という季節は郷愁に駆られやすい。自然が身近に来るからだろうか)、ふと思い立って、死ぬまでにぜひ一度、あの切り抜きを探し出して心行くまで読み耽りたいと心に決めた。新聞連載だから、その時々のさまざまな記憶が伴われて甦る。石井鶴蔵の挿絵と併せて鑑賞・味読しようというのが眼目である。ところが、あそこにしまってある筈、と心当たりを探したが見つからない。思いつくところを探しに探して、ああ、そうかと気が付いてようやく探し当てるまでに1年近くかかった。(ナニ、そんな大邸宅に住んでいるわけではもちろんないのだが、探し物というのはそういうものなのである。)それから、折を見てと思いつつも、日々の暮らしに時を奪われ、且つ又、もう少し先まで楽しみを取っておこうという心から、今日まで来ていた。一年前、コロナ禍に見舞われて得た閑暇に、ふと心が動いて大佛次郎の『鞍馬天狗』を本棚から埃を払って読み耽って得るところが多々あったことは、当時書いたと思う。そのことがあったためもあろう、この度の宣言発出を天の声と聞き違えたことにして読み出したのだったが、何しろ60数年前のわら半紙だから、端の方が枯れ落葉のように茶色く劣化しているのが削げ落ちるからその対策も講じる必要がある。だがそんな面倒に阻喪するぐらいなら初めからこんな酔狂はしないのであって、達意にして簡潔、主人公勝小吉をめぐる人々を描き出す筆の妙、季節の移ろいから江戸の市井の有様や物の匂いまで描き出す描写の妙等々、一読三嘆しながら読み進める幸福に、目下、浸っている。こういう文章を書く作家は、もはや絶えて久しくなってしまったことがつくづく思われる。

(前回書いた北大路欣也氏のデビュー作がこの小説の映画化で、たまたま、先月時代劇チャンネルで放映されたのも60余年ぶりに懐かしく見た。惜しむらくは名作と呼ぶには微妙なところですれ違っているような感はあるが、市川右太衛門の小吉、長谷川裕見子の女房お信、月形龍之介の兄男谷彦四郎、志村喬の父男谷平蔵、薄田研二の爺や利平治等々、出演者の一人一人も懐かしく、且つ適役が揃って感概深く見た。この映画と再会したことも、この機を逸せずと、我が背を押すひとつの力となったことは疑いない。)

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榎そのさんの訃報を新聞で見てしばし思いに耽った。『演劇界』を購読し始めた頃が、ちょうど榎さんと土岐廸子さんがコンビを組んで活躍を始めた頃だったから、その業績のほぼ全貌を見てきたことになるだろう。土岐さんは、実際に接するとなかなかコワい方だったが、榎さんは、前からあなたのファンだったのよと、優しい言葉で迎えてくれた。お二人の果たした仕事は、なまなかの劇評よりはるかにすぐれた「批評」であったと思っている。

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私はひと頃、コンサート・ゴーアーでもあった時期がある。まだCDなどは存在せず、LPの時代だったから、当時買い集めたレコードで今なお、物置状態になった部屋の一隅が占領状態になっている。クリスタ・ルートヴィヒの訃を知って、久しぶりに彼女のシューベルト歌曲集という一枚を聴いた。こういう世界があったのだ。

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随談第640回 マンボウ騒ぎ

テレビのワイドショーやニュースを見ていると、マンボウマンボウと頻りに言う。魚のマンボウのことかと思うと、コロナ対応の話で「蔓延防止特別措置」の略称と知れた。それなら、「金棒」とか「願望」などと同じフラットなイントネーションになる筈だが、魚のマンボウと同じく頭にアクセントを置いている。私などの世代の者には、北杜夫の「どくとるマンボウ」を思い出したりしてちょっぴり懐かしくないこともないが…と、ここまで書いて、後は明日ゆっくり書こうと寝てしまい、一夜明けてテレビを見、新聞を開くと、このマンボウ一件のことが俄かに問題となっている。政府にとって重要なコロナ対応策を茶化したような言い方を政府関係者やマスコミまでが無自覚に使うのはおかしいではないか、というのが論調であるようだ。私はてっきりSNFかどこかで茶化したのが広まったのかと思っていたら、聞いているとどうやら言い出しっぺはかの専門委員会の尾身会長で、ご自身としては、若い人にも親しみやすいようにと、いいつもりで言い出した、ということであったらしい。おやおや、である。

とまあ、こういうわけで、今回は出だしからつまづいてしまったので、話題変更と行こう。

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とはいえ、すぐには頭が切り替わらないので、アクセントの話をもう一席お付き合い願うと、高校野球の放送を見ていると場内アナウンスが、「三番センター○○クン」などと放送する声が聞こえてくる。○○君、というのを独特のアクセントをつけて言うのが耳につく。近似の例を挙げると、「新潟県」とか「秋田県」などというのと同じ節回しである。かつての高校野球の場内アナウンスというと中年男性のだみ声で「四番ファ-スト××クン」とやっていたものだったのが、それがいつからか女性の声に変わって久しいにもかかわらず、この「○○クン、××クン」の一種独特のアクセントだけは、伝統演劇における「型」の伝承の如くに、見事に受け継がれているのだ。関西地方、とりわけ阪神地帯特有のアクセントなのか、それとも高校野球界という一地方特有の方言アクセントなのか、アズマエビスである私には判断しかねるが・・・

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少しは歌舞伎の話をしよう。先月の歌舞伎座で仁左衛門が『熊谷陣屋』を出して健在ぶりを見せたが、この優らしく、細かいところにも気を配っていろいろ改変を施しているのが目に付いた。小次郎の首の扱いに関して、いろいろ新工夫を見せている。首実検がすみ、首を自ら相模に渡すのは以前からしていたが、今度はその前に、深く思いをこめ、と言って、いわゆる「思い入れ」をするのではなく、自身のふところに抱きしめ、しばし黙然としてから、相模にねんごろに手ずから渡す。相模のクドキの間に、首が置かれていた台(あれは、何というのだろう?)を、自らいざって取りに行き、さらに奥まった位置までいざって行って後見に手渡す(ように見えた)。・・・という具合に、首の扱いに細かく気を配って相模への心遣いを入念に見せる。(冒頭、陣屋に戻ってきて相模がいるのに気が付くと、通常の熊谷のように「ヤイ、女」などと言わずに(イマドキ、自分の奥さんに向かって「ヤイ、女」などと言ったら大変なことになったしまうであろう)、「やい、女房」と言っている。要するに相模への心遣いを、全体の流れを阻害することなしに可能な限り事細かに見せる、という配慮である。以前からいわゆる團十郎型への疑問として言われている、熊谷は自分の一存で小次郎を身代わりにして雲水になるのだからいいが、あれでは相模は浮かばれないではないか、という批判への、仁左衛門として考え抜いた回答とも読める。なるほどなるほど。が、しかしあそこまでするのならもう一歩進めて、幕外の引っ込みもやめてしまい、元々の浄瑠璃の通り、舞台中央の二重の上に義経、平舞台上手に藤の方と弥陀六、下手に相模と共に留まって幕にする方が、首尾一貫するのではあるまいか?という疑問も生じてくる。(花道七三で向こうからドンチャンが聞こえると、キッとなって手にした杖を太刀のように掻い込むところなど、確かに格好いいのだが・・・。)

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先日、日本映画チャンネルで久しぶりに『ゴジラ』を見た。もちろん、1954年制作の元祖ゴジラである。いま改めて見ると、随分真面目に作った作であったことが今更のように思われる。言い尽くされていることながら、この年の春にあったビキニ環礁の水爆実験と第五福竜丸の事件が、仮に際物として作るにせよ、生半可なことでお茶を濁しリアリティをもって見せられなければ、際物としても支持を得られなかったであろう。ゴジラが遂に東京湾から上陸してきて、元の日劇や何かがぺしゃんこにされてしまい、実況中継のアナウンサーの身にも危険が迫り、「皆さん、さようなら」と悲壮な声で叫ぶ中、逃げ道を失って子供を二人抱えた中年の母親が「お父さまのところへ行きましょうね」と言い聞かせているのは、戦地で亡くなり天国にいる夫のことであろう。いま見ると驚くべきリアリティをもって刺さってくる。

この作の封切り当時のことはそのころ中学生だったなりによく覚えているが、同級生たちの反応は、級友の前では建前としてゲテモノだと笑って見せるが実は見たいのが本音、という辺りが大方であったと思う。私は封切りでは見なかったが、予告編を見たのははっきり覚えている。滝野川映画劇場という、東映の封切作二本立てに東宝の作品を一週遅れのを一本、全部で三本見られるというお得で割安の、この手の映画館が当時はよくあったものだった。ここで、片岡千恵蔵主演の『新選組鬼隊長』(その後いろいろ見た新選組映画の中でも出色のなかなか力作で、いまでも時どき思い出す)に東千代之介の『龍虎八天狗』という吉川英治の少年小説を映画化した併映用の五部作の最終回、それに宝塚映画製作・東宝配給の斎藤寅次郎監督『仇討ち珍道中』という(伴淳・花菱アチャコの仇討ち兄弟に益田キートンが敵役という抱腹絶倒の面白さで、ぜひ再会したいと今でも本気で願っている)三本立てで、日曜日に家族全員で出かけたのだったが、その時に予告編で見たのが、大友柳太朗の赤垣源蔵に月形龍之介の清水一角という『残月一騎打』という忠臣蔵外伝物と『ゴジラ』の予告編だったのだ。志村喬の原子力研究の老教授に河内桃子のその令嬢、という配役は、千恵蔵の近藤勇がそうであるのと同様に、この種の作品に絶対的にして欠かせないはまり役であった。老教授の助手で河内桃子の恋人役の宝田明は売り出して間もない新人で(この人は東ナントカさんという新人女優と「東宝ニューフェース」としてペアで売り出したのだった。「東」と「宝田」で「東宝」というわけだ)、志村教授のもう一人の弟子で、死を賭して研究に打ち込む少壮学者を平田昭彦というのも、不動の陣容と言うべきであろう。

ところでこの宝田・河内の恋人同士が、デートの約束をしていたコンサートに(ゴジラ問題のために宝田の方が)行かれなくなるという場面があって、チケットが大写し(いまでいうアップである)になると「ブダペスト四重奏団演奏会」と書いてあるのに、迂闊ながら今度初めて気が付いた。当時よくあった「ショパンの夕べ」などというのではない。ブダペスト四重奏団はこの時が二度目の来日だった筈だが、このハイブラウぶりは、なるほど伊福部昭が音楽を担当している作品だけのことはある。

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三月場所は照ノ富士の優勝に大関復帰が叶って私としては言うことない結果だが、三大関よりすでに実力が上であることは明らかだろう。貴景勝は押していても足が止まっているし、朝乃山はタイプとしては好きな力士だが、過信というか自分の力を思い違えている。正代もあの相撲の取り方では、いい時もあろうが今度のようなことがあっても不思議はない。
 活躍した若隆景が贔屓にしようかと思うような相撲ぶりでほれぼれしたが、あの若葉山の孫と聞いて懐かしさが蘇る。昭和20年代も終戦間もない頃から30年代半ばごろまで、かなり長く取った、技能派というより典型的な「手取り」力士として目に残っている。手近にある「相撲」昭和29年秋場所号という古雑誌で確かめると、身長5尺6寸8分、体重24貫400とあるから、170センチに92キロ、と言ったところか。当時としても小兵だが珍しいというほどでもない。今ならちょっと体格のいい若者にいくらもいるだろう。若葉山は小結が最高位だが、若隆景は地位より相撲ぶりから言って、すでに祖父まさりと言っていい。

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相撲解説の北の富士氏が、NHKの放送文化賞を受賞したという話になって、授賞式で同じく受賞した北大路欣也氏から挨拶され、むかし話を交わしたという佳話があった。昭和33年というから、北の富士は入門間もなくで横綱千代の山の付け人、北大路氏はデビュー間もない(たぶん)まだ中学生であろう。(折から時代劇チャンネルでデビュー作の「父子鷹」が放映になった。歌舞伎でやる真山青果の『天保遊侠録』と同じ題材の、当時読売新聞に連載された子母澤寛の傑作小説の映画化で、私にとっても懐かしの逸品である。)相撲に関心があるので支度部屋を見学したいという申し出を、協会でも特別に計らった、というのであったか。「ああ、これが市川右太衛門の息子か」と思って見ていたという北の富士氏の思い出話がよきものであった。

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その「父子鷹」だが、この言葉は以後、広く世間一般でも「この父にしてこの子あり」という意味で使われるようになった。とりわけ、現・巨人監督の原辰徳氏が高校野球のスターとして売り出したとき、父親が東海大相模の野球部の名監督として著名であったというところから、この「父子鷹」が流行語のように広まったことがあった。まあ、それはそれとして結構ではあるけれども、原作者の子母澤寛がこの言葉に籠めた意図は、逆に薄れ、忘れられてしまうことになった。「父子」の「子」の方は後の勝海舟だから金箔付きの「鷹」に違いないが、この作の主人公である父親の勝小吉は、生涯無役の幕臣で,放蕩無頼の一生を送った人物である。それにもかかわらず、その人となりその生き様(という言葉は、こういう場合にこそ使うべきであろう。間違っても「恩師○○教授の生きざま」などと同窓会雑誌などに書くべき言葉ではない)によって、これもまた天晴れ一個の「鷹」であったというのが真意であったはずだった。つまりそこに、人生の機微や、人の世の哀歓やら、さまざまなものが潜んでいるわけだが、父も子もどちらも凄い、というのではストレートで面白くも何ともない。

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随談第639回 遅なわりしは不調法

月末月鼻に締切りその他が重なって、今回は大幅遅れとなった。遅なわりしは不調法、お許しを願います。

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久しぶりに歌舞伎座の三階席から魁春の八重垣姫を見た。新開場前に下見をさせてもらった折に三階まで上がって坐ってみたことはあるが、新しい歌舞伎座で正規の舞台を三階から見るのは初めてだ。やはり、いい。最前列は空きがなかったので、花道の出入りを真正面から見る二列目。かつては前の歌舞伎座でよく見ていた席だ。(もっとも、厳密にいえば前の歌舞伎座は三階席最前列と三階ロビーの床が同じ平面だったが、新しい歌舞伎座の三階席は、ロビーから場内に入り、最前列へは六列分階段を下りるようになっているのが、以前の三階席の空間とちょっと勝手が違うが。)

三階席から見る良さは、額縁舞台のフレームが視野の中にきちんと入ることだ。フレームの中に大道具の全容がはまり、人物の配置があり、舞台の寸法というものが、一望の視野の中に納まる。これが肝要である。一階の舞台に近い席が上席とされるのは役者を間近に見られる臨場感ゆえだろうが、それも確かにいいには違いないが、そればかりが能ではない。殊に踊りなどは、あまり真近から見るよりある程度距離を取った方が、全身の動きの均衡と共にテンポやリズムが良くわかる。オペラグラスというのは、ほんの何秒間か顔を見れば充分なので、踊りの面白さというものは減殺されてしまう。今回の『十種香』のような芝居も、舞台中央の勝頼と、上手下手の八重垣姫と濡衣の配置の妙趣が三階からだとじつによくわかる。下手の濡衣は、死んだ偽の勝頼を思いつつ、眼前に蓑作が勝頼となって現れた姿に幻覚を見、上手の姫は、絵姿に見ていた勝頼そのままの男を目前にして幻覚を見る、という作意の趣向が、三階席に座ってみると実に的確に一望できるのが新鮮であった。

魁春の八重垣姫はやはりいい。これでこそ丸本時代物の姫である。孝太郎の濡衣も現在の最適任者だろうし、門之助の勝頼だって、不足に感じるものがあるとしたら、いまにして初役という外的条件がそう思わせるのであって、あれでもう何度か場数を重ね(る機会を与えられ)さえすれば解決されることである。錦之助の謙信もブラヴォーだ。つくづく思うに、こういうクラスの顔ぶれで打つ機会が当今ほとんどなくなってしまったことで、今回の「十種香」はコロナ禍のもたらした思わぬ一得かも知れない。

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文楽は3部制で夜8時までに終らせようというので何と10時半始まりである。入れ替えの時間も随分寸が詰まったから、『先代萩』の「竹の間」「御殿」と『菅原』の「寺入り・寺子屋」、『冥途の飛脚』を「淡路町・封印切・道行相合いかご
とみっちり聞くと耐久レースの感もある。間に挟まっての『曲輪?』がオアシス効果を発揮するが、しかし文楽というのはこうして耐久レース張りの苦行をへとへとになりながら聞くものであるともいえる。
『御殿』の「前」を弾く鶴澤清治文化功労者顕彰記念と謳ってある。私が知ったころは十代の生意気盛りでいろいろ物議を醸すようなこともあったのを思い出すが、長老の風格を備えるようになったいまでも、その風貌は、おそらく、激しい物は失っていないに違いないと感じさせる。

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オリムピック開催予定を間近にして舌禍のために退いたM氏というと思い出すのが、氏がまだ中堅議員であった頃、国会議員野球大会というのを言い出し兵衛となって実施したことがあった。当時公明党の古参の議員で、元東急フライヤーズの名投手だった白木義一郎氏がいたが、白木投手といえども怖るるに足らずと言って、見事、左前安打を放ったという記事を読んだのを覚えている。まあ、白木議員の方が年齢も当選回数もはるか上だったとはいえ、プロ野球史に名を残すほどの名投手だった人物からヒットを打ったのだから自慢するだけの価値はあったというものだろう。

白木投手はその盛りの頃をこちらは小学生で何度も見ている。子供心にも印象的な選手で、顎の長いので一度見れば覚えてしまう上、相手打者がピッチャーゴロを打つと矢のような球をキャッチャーに投げ、捕手からファーストに転送してアウトにするという人を食ったプレイで面白がらせた。奇人という意味では十指に入る選手だった。たしか連続イニング無四球記録というのの記録を持っていたほどコントロールのいい投手として知られたが、その記録を破ったというので名を挙げた安田猛の訃報がついこのほどあった。一昨年の夏、その折にも書いたヤクルトOB戦にも出ていたのがいい見納めとなったわけだ。

しかし訃報と言えば、テニスの宮城淳の名を見た時は、ああ、と目の前で大きく動く時の流れを見るような思いだった。野球に比べれば、私はテニスへの興味も知識もほんの指先ほどしか持ち合わせないが、姉の宮城黎子とか、ダブルスの相棒だった加茂公成とかいう名前と共に蘇ってくる時代の光景には格別のものがある。昭和30年前後という時代と、私自身のイニシエーションとしての季節とが重なり合って、さまざまな記憶を呼び起こすからだろう。

田園調布の駅を東横線の電車が発車すると間もなく、丘の上の教会の反対側の眼下に田園コロシウムというテニスのスタジアムがあって、昭和30年代、ここで毎年デヴィスカップの東洋ゾーンの試合が行われた。宮城を筆頭とする日本選手の前にクリシュナンと言ったっけ、宮城の倍もありそうなインドの選手が文字通り壁のように立ちはだかって、テレビで見ていても、なかなか突破することが出来そうになかった。

と、ここまで書いたところで、三宅秀史の名前が出た。そのいかにも玄人好みのする名手ぶりのことは私がここに書くまでもなく、蘊蓄を傾ける方々が大勢いるであろうから私の出る幕などはないが、練習中のボールが目に当るという選手生命を絶たれる不祥事で信州だったかのどこかで再起のためのトレーニングをしていた頃、横綱の柏戸も肩に再起不能かと言われた大怪我をして、そのトレーニング先で三宅と出会い、励ましあっていたという記事を当時読んだことがあった。宮城89歳、三宅86歳との由。

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もう一人、本当は昨年暮れの内に書くべきだったが講談の一柳斎貞水のことも書き忘れっぱなしというわけには行かない。今の人たちがどうのという意味ではなく、最後の人だったという感が深い。この人とはひとつ思い出があって(もっとも、あちらは疾うに忘れたまま逝ってしまったに違いないが)、数年前、国立劇場で歌舞伎と文楽と双方で『伊賀越道中双六』を出したときの企画の一環として、貞水師とペリー荻野氏と小劇場の舞台上で鼎談をしたことがあったが、こういう時の常として、本番よりも事前の楽屋での雑談の方が面白い。どういう脈絡でだったか話題が映画の荒木又右衛門のことになり、貞水師が、大友柳太朗という人が戦後カムバックしてまだ敵役めいた役をしていた頃がいいと思った、と言ったのが、さすが目の付け所がお見事と深く頷いたことがある。

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東急フライヤーズつながりの話題。朝ドラ「エール」で知らぬ人のなくなった古関裕而氏が東急フライヤーズの応援歌を作曲していたという噂はあったが、その楽譜が発見されたという記事が載った。昭和25年というから二リーグ制発足の年である。おそらくそれが契機となったのだろう。まさに白木義一郎全盛の時代である。タイガースの「六甲おろし」が夙に戦前に出来ていたのは驚くべき例外で、当時エースの若林投手の働きかけがあったと何かで見た覚えがあるが、東急フライヤーズの場合にせよ、前にも書いたがまだ組織的な応援団などなかった時代である。これはプロ野球史にとっても、社会世相史としても、ささやかだがしかし意義のあるニュースであろう。

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という次第で、前回、予告めいたことを書いたのはそのまま、次回送りとさせていただきたい。悪しからずご了承をお願い申し上げます。

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随談第638回 閉店・訃報、しかし・・・

今月も訃報や閉店の話ばかりだが、すべてが必ずしもよろしくない話ばかりとも限らない。

かつて、大学受験予備校というのに3カ月だけ通ったことがある。中学時代、英語の勉強というものを一切しなかったので、都立高校としてそれなりに名の通ったところに入学したものの、寒い・冷たいという形容詞のCOLDと、助動詞CANの過去形のCOULDの区別も知らなかった。英語という科目は、当時、文部省の規定では選択科目という建前だったから、我々の前年度までは都立高校の入試科目に英語は入っていなかった(というのは、嘘のような本当の話である)、我々の年度から入試科目に入ったのだったが、初年度だから多分出題も手加減があったのだろう、それでうまく滑り込めたのはよかったが、入ってからが悲惨なものだった。しかし相変わらず、関心は時代劇映画や大相撲やプロ野球、歌舞伎も視野の内に入っていたか、何よりも、曲亭馬琴のような大長編の時代小説を書こうと目指していたので、それにはまず「南総里見八犬伝」を原文で読んだ(つもりになった)り、等々、お陰で今もそれで世を渡っている「基礎力」を養っていたようなものだが、もちろんそんなことで大学に入れるわけはないから、一年間受験浪人して中学一年の第一歩、I am a boyから全部独力でやり直す考えだった。しかし受験浪人の一年間を独学などもってのほかと心配してくれる(親切な?)親戚の叔父さんなどがいて、親も本人任せにして大丈夫という保証があるわけでもなし、というわけで七月までの三か月だけ受験予備校に通うことにしたのだった。中学英語も出来ない者に無用であるのは明らかだったにもかかわらず・・・と、書き出し早々、大道草を食ってしまったがここからが本題で、その予備校で一つだけ、いいことを教わった。

あいにく名前は忘れたが年配の古文の先生が、その予備校に英語の講師で来ている某東大教授のご母堂が亡くなったと聞いて、おいくつでした?と尋ねたところ、80何歳だかの高齢という返事だったので、それはおめでとうございますと挨拶したら、くだんの東大教授が色を成して「先生、それは冗談でおっしゃるのですか」と叱られてしまった。しかしそれはその教授の方がまだお若いからものを知らないので、高齢で亡くなるというのはめでたいことであり、おめでとうございますという挨拶は決して礼を失することではない、というのだった。無益な授業料を払って通った受験予備校の三か月間に一つだけ、いいことを教わったと今も覚えている、というお話。

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とんだ長々しいマクラを振ってしまったが、柴又の川甚が閉店というのが、またしてもコロナ禍の犠牲、というニュースとして話題になっている。まだ昭和だった末つ方、高校の同窓会をあそこでしたことがあって一度切りだが行ったことがある。鯉料理の美味い、いい店だった。帝釈天も風格のある寺で(これは寅さん映画でおなじみだが)、客殿のぐるりを取り巻く庭園もいい風情だった。ああいうのが、本来の意味での東京近郊の風情というものであったのだろう。寅さんは江戸っ子か否か、という議論がかつてあったが、本郷も兼安までが江戸の内という基準からすれば葛飾の果てが江戸であるはずがないというリクツになる。しかし葛飾の江戸っ子もいれば練馬の江戸っ子も世田谷の江戸っ子もいる、江戸川べりの矢切の渡しも多摩川べりの矢口の渡しも江戸の内というのが、昭和も戦後の風景というものであろう。矢切の渡しと聞いて、連れて逃げてよという歌が思い浮かぶ人、伊藤左千夫の小説を思い出す人、同じ「野菊の墓」の映画でも木下惠介版を思い浮かべる人、後のバージョンを思う人、世代の違いだけでは尽くせない、世の変動が、大仰に言えば近代日本の激動がその間に横たわっている。

        *

安野光雅氏のことでは私の出る幕はないが、同じ出る幕ではないことに違いはなくとも、坂本スミ子死去、などという活字を見ると、ひとつの時代の匂いが蘇る。死去を伝えるテレビのニュースで、まだ白黒画面で旺盛に歌う人気華やかだった頃、中高年頃の映画の画面、なんと幼稚園の園長さんだったという晩年の画像と、次々に見せたのが、図らずも女の一生さながらに、見るこちらにも感慨があった。

        *

ハンク・アーロンにもやっぱり懐かしさを覚える。来日しての王とのホームラン競争はやはりよかった。あれは一本差と言っても実はアルファ付きだということを書いた人が、確かいたのを思い出した。たしか20球づつ打つ決まりで、先ず王が10本打った後、アーロンが19球目に11本目を打ってあと一球を残して勝ちと決まった途端、バットを放り出して駆け出した画面を覚えている。

それにしても、アーロンがニグロ・リーグ出身だったことは今度知った。まだこの世代までは、既にメジャーでプレイする黒人選手は大勢出ていた筈だが、新人がマイナーリーグからという体制が出来ていなかったのか。ルースの記録を破るときの騒ぎは知られているが、それより前に(いま名前が出てこない、これは齢のせいである)白人の選手がルースの記録を破りかけた時にもいろいろ悶着があったが、ああいうのはアメリカ独特の英雄崇拝の生んだ差別であったろう。

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栃ノ海の訃報も感慨をもたらすものだ。28歳で引退して82歳で逝去と言えば駄洒落めくが、つまり横綱としては短命だったが、その後の人生としては長命であったわけだ。小兵の横綱で、100キロ程度だったろう。大鵬・柏戸の両横綱の間に割って入ったのだからたいしたものだったが、その二人より若干だが齢も行っていたところに苦しさがあった。同じ小兵の横綱でも、栃錦や初代若乃花のような強さ・豪快さはなく、鋭い切れ味が身上だったから、薄刃の剃刀で名刀や大鉈に立ち向かうような痛々しさがあった。

一度、立ち合いの変化からもろ差しになって大鵬を寄り切った一番を見たことがある。もちろん当時は蔵前の国技館で、ひところはNHKに民放4局、どこにチャンネルを回しても(こんな表現をイマドキノ方々は理解できるだろうか?)大相撲中継をしていたのが、毎場所大鵬ばかりが優勝するというのでやや人気に陰りが出来たころで、(もちろん自分で買った席ではないからだが)一階席の後部に各局の放送席があったのを、撤退した局の席を指定席に転用したという上等の席だったが、簡単な間仕切り越しにふと隣りを覗くと、こちらはどこかの局が放送中で、後の田中角栄首相がゲストとして呼ばれていたらしく、上機嫌で何やら喋っていたのを覚えている。その間ほんの2メートルぐらいだったか。昭和40年の秋場所、歌舞伎座で昼の部の最後の演目に、歌右衛門と梅幸の踊る『蝶の道行』を見てから駆け付けたのだったっけ。

栃ノ海は風貌と言い、体形と言い、日馬富士がよく似ていた。日馬富士も絶好調で、巧くはまった時には白鵬をも見事に仕留めたが、ああいう調子で毎場所毎場所というわけには行かない、それと同じ苦しさが栃ノ海にもあった。横綱になってからは怪我のためにはかばかしい戦績は挙げていないが、非凡な技を持った名力士であったことは間違いない。北の富士氏にぜひ思い出を語ってもらいたい。

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先週、一日おきで新国立のオペラパレスで『アイーダ』を見、国立能楽堂で能を見たが、入り口で熱を測り、両掌をアルコール消毒し、チケットの半券をもぎるのは同じだが、劇場によって、三密への規制や、終了後の退席の方法等々、劇場によってかなり厳しさに差異がある。オペラパレスは、先ず一階席の方どうぞ、次に二階席の方、というやり方だが、一階席と言ったって何百という数だろう。能楽堂も、まず正面席の方どうぞ、というのだからオペラパレスに比べれば少数とはいえ、かなり大束なやり方だ。もっと厳重なところもあれば、さらに大雑把なところもあるとも聞く。がさて、いかがなものであろう。

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最後に一つお知らせ。旧臘に『眼中の役者たち(抄)』をこの公式サイトに載せたましたが、近々、「抄」の字の取れた、いわば完全版を電子書籍として出す予定です。次回にはもう少し具体的な情報をお知らせできると思います。

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