随談第648回 来年も宜しくお願い致します

吉右衛門逝去という大浪をかぶって、それに関わる原稿を書いたり、と思っていたら数え日となってから身近に葬儀があったり、何かと慌ただしくしているうちに(この「慌ただしい」の「慌」という字ほど、実情を穿った文字はあるまい。なるほど、「心」が「荒らされて」いるわけだ)早や、大三十日(おおみそか)である。慌ただしいとはいえそれなりに書くこうとしていたこともあったのだがもう時がない。

というわけで、今年はこれで幕引き。くる年が良き年となりますよう。

随談第647回 歳末PR

今年も早や師走を迎え、コロナ歴第二年も暮れなむとしている。ヤクルト・スワローズが制覇したり照ノ富士が全勝で連覇したり、贔屓ごころを満たしてくれた良きこともあったが、もうそろそろ下火かと思うと次々と新手の変異ウィルスが這い出して、マスクはこのまま21世紀風俗として定着してしまいそうな気配である。マスクという代物は、元来、西洋伝来のもので(宗十郎頭巾とか御高祖頭巾とか、お忍びやら防寒やらの目的で面を覆う優美な風俗はあったが、防菌という即物的且つ不粋なものではない)、100年前にスペイン風邪が猛威を振るった時がきっかけだったと言うが、西洋ではあくまで医療従事者の必要品に留まって一般人の間には定着しなかった模様だが、日本では(もしかすると西洋伝来というハイカラなものだとあこがれたのかもしれない)マスク好きという人種が誕生した。子供心に覚えているのは、正面から見ると正方形、横から見ると烏天狗みたいに真ん中がとんがっている黒いマスクをしている男性をよく見かけたものだった。おまけに黒いインバネスなど羽織っていると何とも陰気臭くて子供心にも恐ろし気で、気が滅入りそうだったのを思い出す。この戦前風の風俗は戦後しばらくまで存続したが時世の変化とともにやがて廃れ、代わって、インフルエンザだ花粉症だと理由をつけて、マスク愛好者が一定数、常に存在し続けてきたのが今日まで底流となってきたわけだろう。その間のひと頃、ゲバ学生という、いまや古語となった人達が武威を揮った時節があって(大学紛争華やかなりし昭和40年代だから、かれこれ何と半世紀の昔である!)、ヘルメットに手拭いで顔を覆った風俗が跋扈したのも一種のマスク文化史を担う一コマだったが、布製の白のマスクというオーソドクシイが改めて確立したのはコロナ禍下(発音しにくい!)に置いてと言える。やれやれ、というほかない。

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このひと月の間に聞えた訃報と言えば瀬戸内寂聴師もさることながら、それに比べるべくもない小さな記事で川柳川柳の死を知ったときは、いささかの感慨を抱いた。何と言ったって、かの古典派の泰斗三遊亭円生一門の最古参の弟子である。師のお気に入りの愛弟子だったかの先代円楽が、かかる不肖の兄弟子を持ったために自身が師の名跡を継ぐのに邪魔になると、本当に思っていたかどうかはともかく、傍目ではそう勝手に憶測していた。師から冷眼視されていたのは事実らしく、そういう師弟関係に立ち至った弟子の側の何とも言い難い思いというものは、私も、住んだ世界は違ったが身に沁みて体験した覚えがあるから実によくわかる。私の場合は結局自分の方から師弟の縁を返上してしまったが、川柳氏は、ソンブレロハットにギターを抱えて、かの名人の弟子にあるまじき高座を続けていた・・・。がまあ、そんなことより、数年前、国立演芸場の高座で久しぶりに見た(聴いた)川柳師の高座に、感銘というのとも違うが、ある種の感慨を抱いたのは事実で、いい歳の取り方をしたのだな、と、つくづく感じられて身に沁みるものを覚えたのだった。同じ日の高座に、かつて同じ円生一門の後輩で、秀才と自他ともに任じていたと思われる某師が出演していたが、川柳の方が間違いなく立派だった。(それよりさらに数年前、時の総理だった福田首相にそっくり、というのを売りにしていた当時の高座を見たことがあるが、幸か不幸か、福田政権が短命に終わったためにこのいささか辛辣なギャグもまた短命に終わったのも、川柳にふさわしい。)謹んで冥福を祈りたい。(野暮を承知で蛇足を加えておくと、川柳川柳と書いてカワヤナギ・センリュウと読みます。)

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シアターXの劇団若獅子の公演で「王将」を見た。立派な舞台だった。主宰の笠原章としては文字通り乾坤一番の舞台であったに違いない。前回書いた新派の「太夫さん」に続いて、北条秀司の傑作を見る巡り合わせだったわけだが、敢えて同じことを繰り返すが、こういうのが、かつて私たちが親しんだ「芝居」なのである。正直に言うまでもなく、劇団若獅子を、かつての新国劇とそのまま比較するわけには行かない。だが、(笠原自身としても既に数回演じ重ね、自らの芸をも深めたのももちろんだが)今度の舞台には、そうした諸々の条件を一旦止揚してしまうだけの、見事な感動があった。 一部と二部を一挙上演だから、出演者もおのずと多くなる。協力してくれる助演の俳優たちに渡す出演料の捻出から何から、一切を担い、年に一度の公演にすべてを託しているのだろう。それにつけても、これだけの舞台が、たったの5日間8公演しか上演の機会がないとは!

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前回にもちょっと書いたように、電子書籍というものを出すことになった。そういうものの存在すらろくに知らなかった私である、一切合切、好意から提案し、すべての作業を引き受けてくれた存在があってのことである。内容は、前回も書いたように、一年前、このブログに「抄」という形で載せた『眼中の役者たち』の決定版である。ごちゃごちゃいうより、「まえがき」の全文をPRコピーとして以下に載せることにするので、お読み願いたい。売り上げはすべて、協力者である吉田亜矢さんに献呈する心算なので、一冊でも多くの方に買っていたければと心から願っている。

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 眼中の歌舞伎役者-わが人生の歌舞伎-     上村以和於

  まえがき  

 わが目で見た、いまも眼中に生き続けている役者たち一人一人のことを書いておきたい。そう痛切に思うようになった。旧歌舞伎座の三階席の一見物人として始まった私の歌舞伎見聞歴もそろそろ終幕に近づいているが、幸運に恵まれて、新聞という社会に向かって開かれている場に劇評という形で歌舞伎についての文章を書くことを業とするようになってからでも、相応の歳月が経っている。

 新聞に歌舞伎評を書くとき、私は常に、歌舞伎を見る習慣を日常に持たない読者の存在を意識の一隅に置いてきた。その中には、紙面の片隅に載っている私の書いた劇評を目でひと舐めするだけの読者もあるだろう。歌舞伎自体に関心があるわけではないが、社会を彩るさまざまなピースのひとつとして目を通す。そういう読者にも、自分の書く歌舞伎評が読まれていると考えることは、私には愉快なことであった。歌舞伎の愛好者だけのために書いているのではないという思いが、三十年近い歳月、新聞評を書き続ける心の張りとなっていたことは疑いない。

 だがその一方で、劇評という形では掬い切れないものが、長い歳月のあいだに私の中に澱となって溜まっている。それは、永年見続けてきた役者たちへの思いであり、その俤や舞台ぶりの記憶である。世評高い著名の俳優の舞台だけが思い出ではない。世評や通評と、私の思いが必ずしも一致しない例も、決して少なくない。心惹かれる芸を持ちながら世間での知名度がそれに見合っているとは思われない役者もある。社会の側から歌舞伎へ開かれている窓がもうちょっと大きかったなら、彼らの名はそれだけ広く知られたかもしれないという無念の思いは、私の心の底に澱となって堆積している。また一方、非名優の非名演にも忘れ難い思い出があり、それはときに心の癒しですらある。それらは、私自身の人生のさまざまな記憶と結びついて、生きてきた証しとすらなってくれている。それらをひっくるめて書いておきたい、そういう思いである。

 すべては追憶の中にある。私がこの世を去るとき、それらの一切合切は、この世から消滅してしまう。また同時に、そうした舞台の記憶を書くことは私自身の人生を書くことに通じる。言うなら、わが人生の歌舞伎である。

 ここに書き連ねたのは、大きな役を演じる大立者から脇の小さな役に甘んじていた役者まですべて私の目にある人々ばかりだが、切りをつけるために私がその死を舞台を通じて見送った人たちに限ることとした。但し今も健在の澤村田之助、片岡我當、市川猿翁、澤村藤十郎、市川段四郎といった人たちは、私の眼中に残る舞台の記憶はここに記した同時代の諸優と共にした舞台にあるので、一緒に語りたいという思いから併せて載せることにさせてもらうことにした。どうか、諒としていただければ幸いである。

 ほぼ生年順に、長くて一人当たり、むかし風の言い方で原稿用紙三枚ないし四、五枚を目途とした。自ずから長短・深浅は生じたが、それは親疎や評価と比例するものではない。名鑑などによく見るような評伝式の客観的記述ではなく、あくまで私の眼鏡を通して見た、曰く「わが眼中の役者」たちである。Ⅰとして大名題クラス、Ⅱとして、つとめる役こそ小さいがそれぞれに「わが眼中」に忘れ難い存在を留めている人びととしたが、必ずしもそうと一概には決めかねるケースもあることもまた、諒としていただきたい。ひとつだけ、読者諸氏にご忠告申し上げておくと、仮にA優のことを読もうと思ったならA優の項だけ読んでも不十分で、B優やC優、時にはY優やZ優の項でもA優のこと語っているかもしれないから、拾い読みではなく、順に漏れなく読み進めることをお勧めしたい。

 これだけのことに三年の余も要してしまったのは、途中でパソコンの故障で書きかけの原稿がすべてフイになり、ゼロから書き直すなどのことも一度ならず、危うく流産の憂き目に会う寸前まで行ったこともあったからである。ようやく書き上げたものの、この種の文章はなかなか本になりにくい。まして、このご時世である。せめてその一端だけでもと、ほぼ四分の一のエッセンスとなる部分に切り詰めたのが、先に私のホームページに発表した『眼中の役者たち(抄)』だった。幸いに評判を得て、勧めてくれる声があったのを力に、全編を電子本として上梓することとなった。私にとっては初めての電子本だが、ここまで漕ぎつけられたのは一から十まで、かねてから私のホームページを管轄してくれている吉田亜矢さんのお陰で、彼女の力がなければ、こうして陽の目を見るのはあり得ないことだった。

 もうひとつお願いしたいことがある。1994年4月から日本経済新聞に書き続けた歌舞伎劇評が、この3月で満27年となった。それもいずれ、一本にまとめられればと思っているが、彼れを姉、此れを妹とする姉妹編として併せてお読みいただけるなら、幸いこれにまさるものはない。もっとも、姉よりも妹の方が、こういう形で先に誕生することになったのは、これもまた、ままならぬ浮世のならいというものであろう。

   2021年10月

随談第646回 新派公演『太夫さん』

10月の各座で最も感慨深く見たのは新橋演舞場の新派だった。国立の梅玉の『伊勢音頭』の貢もよかったが、梅玉のことはこの前『須磨の写絵』の行平の時に書いたから今回は措くことにして、新派公演で『太夫さん』を見ながらつくづく思ったのは、こういうのが、我々がかつて親しんできた芝居だったのだということである。セリフのやり取りをじっくり聴きながら、大局から微細な綾までを味わい、且つ辿りつつ、大役脇役端役に至るまで、役者一人一人の芸を愉しむという、敢えて繰り返すがこういうのが、かつて私たちが親しんできた「お芝居」というものだったのだ。大声でわめきながら舞台上を駆け回る昨今の「演劇」と、こうも変わってきたものかと、改めて思いを致さざるを得ない。

第一幕の設定が昭和23年、開幕早々、島原の遊郭にインターナショナルの歌声が響き渡り、花魁たちがストライキを策動しているという、ショッキングにして滑稽、且つ往時の廓の雰囲気を濃縮して醸し出すというのからして、いきなり観客を掴んでしまう導入の手際の卓抜さは、『東海道四谷怪談』の序幕「浅草額堂から裏田圃」における鶴屋南北に匹敵し、しかもこちらは、中・高齢の観客にとっては目に耳に、人によっては身にも覚えのある、体験はないとしても実感としての記憶の中にある(つまり「現代劇としての実感を持つ)近過去、中年以下の観客にとっても現代にひと流れにつながる(「半時代劇としての関心を引き出される)近過去だから、その親密度は南北劇の比ではない。けだし、北条秀司最高の傑作であろう。

これを書いた当時のことは作者自身が『演劇太平記』につぶさに書いているが、相当の苦心苦労、且つ島原に長逗留してのお愉しみの産物であったらしい。北条秀司という人は、岡本綺堂の門から出てまず新国劇から出発し、やがて新派、更には歌舞伎にも数々の佳作・秀作を物したが、マッチョな感覚からして一番ウマの合う新国劇に数々の佳作・名作を書いたのはもちろんとして(即ち、かの『王将』その他である)、それにまさる傑作を新派に書いたところが面白い。『京舞』にしても『太夫さん』にしても、花柳章太郎という名女形がいたからでもあるが、それを初代水谷八重子から『京舞』は当代八重子、『太夫さん』は波乃久里子へと受け継がれ今なおこれだけの水準を保っているところ、それ自体が無形文化財のようなものだ。まだ初代健在の頃、たまたま見に行った日に八重子が病気休演で、老巧な脇の女形として知られていた成田菊雄がお栄の役をつとめたのを見たことがある…などと言っても、ああ、とわかってもらえる人があるだろうか? 「太夫」と書いて「こったい」と読ませる、などということも、今こうした形で見ることができてこそであって、この芝居がなかったら、ただの雑知識に過ぎなくなってしまうであろう。(さてこののちは? というところだが、見終わった今しばらくは、それよりも、こういうものがあったのだという感慨の方が大きくわが胸を浸している。)

久里子演ずる宝永楼の女将おえいと、田村亮演じる輪違屋の善吉が微妙な仲の昔がたりに身を任せていると、近くを通っている山陰本線の汽笛が聞こえてくる。SLなどという言葉などまだなかったころの夜更けに聞こえてくる汽車の汽笛の物悲しくも懐かしいような感覚というものも、生きてなお伝えるのはこの芝居だけであろう。

それにつけても田村亮は、いい俳優になったものだ。若い頃は、セリフがレロレロして何とも頼りがなかったものだったが。大夫さんこときみ子役は、今回は藤山直美だが、この役、初演はかの京塚昌子であったのだ。京塚昌子と聞いて、テレビのホームドラマのお母さん役者、と知る人さえ、いま何歳から上だろう? すべては、命あればこその記憶という他はない。

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白鵬の引退とか、小三治の死去とか、書くことはいろいろあるのだが、今回はこれ切りとさせていただく。いずれ何かの折に話題に出すこともあるだろうから、それでお許しいただきたい。

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前回お約束した来月の新聞評の掲載予定ですが、国立の『熊谷陣屋』評が18日(金)掲載予定です。

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最後にPRをひとつ。近々、電子本というものを生まれて初めて出します。発案から実際の作業管轄その他、すべてはおんぶにだっこの形ですが、わが「まなこ」で見、わが「まなこ」のなかにいまなお生き続けている役者たちの記憶を、一人づつの小エッセイとして書いたもので、題して『眼中の歌舞伎役者たち』。詳細は次回以降になりますが、形が見えてきたところで先ずは予告のお知らせという次第。

随談第645回 ながつきだより

この前、蔓延防止措置をマンボウと呼んだことから北杜夫の「どくとるマンボウ」を思い出したと書いたのを覚えておいでかどうか。こちらはそれから思い立って、マンボウではなく『楡家の人びと』を読むこととなった。いずれはもう一度読み直したいと思っていたことではあったが、半世紀の余を隔ててしばしの幸福に浸ることが出来たのだから、まったく禍福は糾える縄の如く、何が幸いするかわからない。

手元にあるのは昭和39年4月発行の初版で、発売と同時に買って読んだのを覚えている。上下二段組550頁という大作で、トーマス・マンに私淑していた作者が『ブッデンブロオク家の人びと』のような作を書こうという一念を果たしたものと聞こえていた。因みに『ブッデンブロオク家の人びと』は岩波文庫版では各冊★4つで全3巻だった筈である。新興ブルジョワジーの一族の興亡を物語る大河小説で、同じようなものにフランスではマルタン・デュ・ガールの『チボー家の人びと』(これは日本でもいっときかなり読まれたもので、『晩春』だったか『麦秋』だったか、横須賀線の北鎌倉駅のプラットホームで原節子が電車を待つ間に読んでいると「何を読んでるんです?」「チボーケの人びと」というやり取りがあったはずだ)、イギリスではゴールズワージ『フォーサイト・サーガ』というのがあり、こちらは美智子上皇后の学生時代の愛読書と聞いたおぼえがある。映画にもなって、フォーサイト家というタイトルを聞き覚えたのも大人たちが評判をしているのが小耳に入ったからだったと思うが、肝心の映画はまだ餓鬼、つまりイニシエーション未然の子供だった悲しさには残念ながら見ていない。

もっとも当時、つまり50年代60年代という時勢は、文学を論じていっぱし気の利いたことを物そうかという向きは、やれサルトルだカミユだ、ヘミングウェイだフォークナーだと血道をあげるのが通り相場だったから、この種の作を読むのは素人の読者だと見なされがちだった。そこを承知で畢生の大作を書いたところに北杜夫の身上があったことになる。我が『楡家の人びと』は青山に実在した脳病院を舞台に、創立者である初代、その女婿で作者の実父である歌人であり精神科医だった斎藤茂吉を二代目とするファミリーをモデルとする、明治末・大正から昭和20年の敗戦までほぼ半世紀にわたる、まさしく大河のごとき物語である。作者自身と思われる少年や、その兄でひところテレビ文化人としても知られた斎藤茂太氏の若き日と思われる人物も後半になって登場する。

この前に書いた『鞍馬天狗』や『父子鷹』もだが、半世紀余を隔てて若い頃に読んだものを再読するというのは、かつて読んだ時のさまざまな記憶が蘇ったり、それがまたさまざまに乱反射したりといった、作品自体を味読するというだけに留まらない面白さを誘発してくれる。買って未読のままの本、再読三読を待っている本が相当数、埃を冠って書棚に仮眠している。新刊書だって読まないわけではなし、まだ当分、死んでいる暇はない。
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初めて読んだ大人向けの本、というと前にも書いたように『鞍馬天狗』だが、(『鞍馬天狗』愛読者のご多聞に漏れず「鬼面の老女」「御用盗異聞」「小鳥を買う武士」「鞍馬天狗余燼」にはじまり、最後の作『地獄太平記』まで読み進んだわけだが(はじめの四作中でも『鞍馬天狗余燼』はその後も何度か読み返したが、去年コロナ禍の徒然に久しぶりに読んで、わが人生観はこの小説に随分と影響を受けていたのかもしれないと心づいた)、しかし一方、これと相前後して新聞の連載小説が視野に入ってきたから、時間差からするとむしろこちらの方が最初に読んだ大人向けの小説ということになるかもしれない。小学校6年の時に引っ越した家というのは、当時の町場の小住宅によくあった随分安直な作りで、玄関の格子戸の隙間から新聞配達が二つ折りにした新聞を差し込んでゆく。頁数の多い今の新聞だったら無理だろうが確か8ページ立ての当時の朝刊なら十分な隙間だった。小学6年生というのは、それまで目に入っていなかった大人の世界、つまり社会のさまざまな断片が俄かに視界の内に入ってくる。ちょうど読売新聞で石川達三の『悪の愉しさ』というのが連載を始めたのを、玄関の格子戸の隙間からインクの匂いも新しい朝刊を取ってきて寝床で寝そべって読んだ。兵隊帰りで今はしがない月給取の男がタクシーの運転手の首を絞めて強盗を仕出かすという筋だった。当時、タクシー強盗のニュースは小学生の耳にも頻繁に入っていた。いかにも昭和20年代という時世である。あまり子供に向いた内容ではない。が、面白いと思った。それからしばらくして今度は朝日に井上靖の『あした来る人』というのが始まった。これも、互いに気に染まぬ夫婦が別れるというのが主筋だから子供向きとは言えないが、文章の感じや全体の気分が何かすがすがしい感じがして気に入った。様々な登場人物も、大人の世界を垣間見るような魅力が感じられた。福田豊四郎の挿絵も素敵だった。後年、大分後になって,選集の一巻に入っていた端本がいい状態に保存されていたのを神保町を歩いていて見つけて買っておいたのを、『楡家の人びと』の余燼冷めやらぬ中、書棚に眠っていたのが目に入ったので取り出して読んだ。改めて思ったのは、『鞍馬天狗余燼』にせよ『あした来る人』にせよ、読み落としていたものが多々あるのは確かだが、勘どころとなるものは、小学生中学生なりにちゃんと読み取っていたのだということである。

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それにしても、当時は新聞小説の最盛期で、各紙が第一線級の作家に次々と争って書かせていたのが、世上の話題となり評判となり、その作家にとっても代表作となるという盛況だった。スペースは現在と変わらないが、二段組で活字も一段に14文字という、いまから見ればコンサイス辞典みたいな小ささだったから、一回分がざっと400字詰め用紙3枚余はたっぷりあったろう。短くとも百数十回、長いのは1年有余も続いた。読売に連載していた海音寺潮五郎の『蒙古来る』などは、始まった時中学の一年生だったのが終わった時は3年生になっていたのではなかったかしらん。(と書いてから確かめて見たら、ナニ、実際は1年半で連載は終わったらしい。果てしなく続くかと思われたほどだったが。ともあれ『鞍馬天狗』とはまた趣きの違った、雄渾な歴史小説の醍醐味というものを、私はこれで知ったのだった。)

新聞に連載というのは、いまも言うように一回分が原稿用紙3枚余だから、話の筋にせよ人物の思弁にせよ一回の分で一定のまとまりができるから、おのずと、今日の分と次回の分の間に微妙な呼吸の間が生じる。作者もそれを意図的に利用して、場面転換や、話柄や人物の視点の変化などに利用したりする。そこらの微妙な呼吸が面白い。今度『あした来る人』を読みながら、たぶんここが一日分の変わり目だろうと想像しながら読む面白さを改めて思った。新聞小説はいまでも面白そうなら読むが、どうもこういう微妙な呼吸に心をつけて書いている作家は数少ないような気がする。

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前回のタイトルを「勝手にしやがれ」としたら、ジャン=ポール・ベルモンドが死んだというのも、マンボウではないがこれも一つの奇縁ろう。NHKのBSでは予定を切り替えて『勝手にしやがれ』を放映した。まさしく旬の時代のベルモンドとジーン・セバーグが、小道具や風俗が古びてもなおみずみずしいのにはウームと唸らされる。ジーン・セバーグ演ずるパリ留学中のアメリカ娘が、フォークナーを読んでいるというひとくさりがある。つまりこれも、1950~60年代のヌーベル・バーグの風俗なわけだ。

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秋場所で東昇龍が若隆景に一本背負いという大技を決めたのが目覚ましかった。同じような技でも柔道の背負い投げは膝をついて投げるが、相撲は膝をついては負けになってしまうから腰を入れた姿勢で投げる分、派手に決まる代わり、滅多に出る技ではない。今場所は珍しい技として、宇良が大栄翔に決めた「後ろ吊り出し」というのもあったが、画像を見るかぎりでは、あれは相手の体を後ろから抱え上げているのであって「吊り」とは言えないのではないだろうか?

照ノ富士は横綱としての初優勝で念願を達した場所と言えようが、楽日を待つかのように白鵬が引退を声明するという歴史の綴じ目となるような場所となった。しかし民放のスポーツニュースでは大谷翔平でもちきりである。

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歌舞伎座は第一部に六世歌右衛門20年祭・七世芝翫10年祭というタイトルがついて成駒屋をめぐる一門の出演だが、梅玉と魁春の『須磨の写絵』を感に堪えて見た。魁春と児太郎の松風・村雨に梅玉の行平という配役で「行平名残の巻」というタイトルをつけた、つまり上の巻だけで、此兵衛の活躍する下の巻は出ないからやんやと沸かせるような場面はない。(かつて歌右衛門が再三演じたときは上下巻通して、此兵衛は延若が大傑作だった。延若というひとは所作ダテの名手だったから、此兵衛のような役は、延若としても指折りの代表作であった。『千本桜』の「鳥居前」の忠信でも、東京風の筋隈を取り仁王襷をつけた荒事でなく、取り手を相手に存分に所作ダテを見せるという演出で堪能せた。)私はこのところ、魁春を見るのが楽しみで、まるで歌右衛門のエッセンスを見るような思いで毎回、ひとりひそかに楽しんでいるが、今度はそれにもまさって梅玉の行平が、風情と言い、役者ぶりの大いなることと言い、これなるかなという思いで見入ることとなった。10月には国立劇場で『伊勢音頭』の貢をするらしいが、これでまた唸らせてくれたなら、あっぱれ当代に江戸和事の芸を伝える「最後の人」と言われることになるだろう。

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鳥居清光さんが亡くなって、歌舞伎座の絵看板の画風ががらりと変わった。あれはあれで絵看板としてひとつの画風だろうが、連綿と続いてきた鳥居派の絵看板はこれで終息したことになる(のだろうか?)

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九月は文楽がかかる月で、『双蝶々』と『伊賀越』に『卅間堂棟由来』に『日高川』と、こういう演目が今なお並ぶのは、文楽の観客が歌舞伎の観客より安定しているという表れと見ていいのか? それとも固定していると見るべきなのか? 『伊賀越』を「沼津」「伏見北国屋」「伊賀上野敵討」と出して、十兵衛が討たれる件を見せるなどは文楽ならではと言える。「北国屋」などは歌舞伎で出したら、せっかくの『沼津』での感銘に水を差されたようになりかねないが、浄瑠璃という語り物文芸として、つまりストーリイ・テリングを事とする文楽では、成程これで、伊丹屋十兵衛は男でござるという物語が完結することになるわけだ。

『卅間堂』の「平太郎内」を語った咲太夫も、高齢なりに健康も復した様子に見えるのは何よりである。

開幕に『寿式三番叟』が出るのは国立劇場として開場55周年の記念と同時にコロナ禍も厄払いの意味も込めてなそうな。『式三番叟』と言うと、国立劇場が出来る前、三越劇場で文楽をしていた頃、ある正月の開幕にこれが出て、終わって劇場に隣接した憚りへ行くと大変な混雑だったが、ふと気が付くと何と隣りで鶴澤寛治師が所用中だった、という何とも忘れ難い思い出がある。しばらく前に書いた、上手の床の真下の席で見ていたら、津大夫の唾が私の右の高頬にひらりと飛んできた時の嬉しさと共に、忘れ難い思い出となっている。

それにして天下の名人鶴澤寛治師と○○〇〇をしたなど、東横ホールに上方歌舞伎がかかった時、劇場内にあった小食堂で(八階の大食堂と別に、9階のホール内に劇場専用の小さな食堂があったのだ)ふと気が付くと、すぐ隣のテーブルで二代目の鴈治郎が何と(私と同じく)焼きそばを食べていたのと共に、立派な大劇場では考えられない体験であろう。

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このブログも、古くから継続して読んでくださっている方があって、そういう方から、以前そうしていたように新聞評の掲載日を予告してほしいという要望があった。熱心に読んでいて下さればこそで有難いことである。さしあたり10月は、14日(木)に国立劇場の『伊勢音頭』の通しの評を掲載予定だが、但しこの予定は本来、新聞社内のものだから、紙面上の都合で間際になって変更ということもちょいちょいあることを、悪しからずご承知おきいただかなければならない。

随談第644回 休載の弁

先月末、ちょうどこのブログを書く時期に、わがPCのメール送受信の機能に原因不明のトラブル発生、余儀なく休載ということになった。だからこの第644回は二カ月ぶりということになる。ワープロとしての機能は無事だったから、8月10日締切りの『演劇界』の10月号特集に載せる原稿を仕上げ、メールでは送れないからFAXでと思ったら、これも何故か「送信できませんでした」という機械音に冷酷にも送信拒否され、ならばと、速達郵便という最も古典的にして最も確実な手段で原稿を送ってから、近所のYAMADA電機に二泊三日で検査入院させて、どうやら無事、退院してきたのが終戦記念日の二日前だった。一介のフリーランスの老いぼれ物書きから大手銀行のATMのトラブルと、事の大小を問わず、通信からマネーの流通その他その他、コンピューターという神サマに世の中のありとあらゆる手段をこんなにおんぶにだっこをさせてしまって大丈夫なのかという疑念を、私は今もって拭えずにいる。

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7月の又五郎の『千本桜』狐忠信のことは新聞評にも『演劇界』の劇評にも書いたからよしとすると、他の旧聞に属することをいまさら出し遅れの証文よろしく書く気にもならないからすべて割愛させていただく。(照ノ富士の横綱ぶりについては、間もなく始まる九月場所で書けばよい。)

オリムピックが終わり、静かになったと思ったら、パラリンが始まってまたぞろテレビから「かーぜーがふけーばー」という歌声が流れ出すと、食傷もいいところでげんなりする。オリンピックも競技そのものは嫌いではないからそれなりに見たし、見れば面白くもあるし、パラリンピックなどは選手たちの信じがたい働きには驚嘆驚愕以外の何物でもないが、実況アナウンサーの絶叫と解説者の饒舌、それにもまして司会者やコメンテーターたちのハイテンションのお喋りにはうんざりする。社会の状況下、盛り上げたいという善意とお役目大事の職業意識のなせる表れなのだろうが、過ぎたるは及ばざるがごとし、逆効果ということも、たまには考えてもらいたい。

また、これも毎度のことながら、報道は日本選手の活躍ばかりを追いかけるので、ヘビー級の重量挙げのような日本は出場しないが興味深い種目は、よほど放送予告を舐めるように探さない限り見ることが出来ないのも、いつもながら寂しいことである。オリンピックを見る愉しみの一つは、世界には普段滅多に見る機会のないこんな選手がいるのだということを知ることでもある。当節の日本のマスコミのオリンピックの報道は、外国旅行をしながら日本料理の店ばかり漁っているようなものだ。

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人生には人それぞれにイニシエーションの時期というものがあるから、私にとっては、一番思い出深いオリンピックと言うと、前回の東京大会より、小学6年生の時にラジオで聞いたヘルシンキ大会ということになる。地球の裏側から聞こえてくる和田信賢とか志村正順とかいった高名なアナウンサーの声が、ザーザーゴーゴーという雑音の合間を縫うように聞こえてくる。この雑音はじつは音波の関係で起こるのであろうが、高くなったり低くなったりするのがまるで波涛のように聞こえるので、本当に波の音が聞えてくるのだと思っていた人が(大人でも)いたものだった。この大会では、大方の日本人にとっては、全盛期をとうに過ぎた水泳の古橋選手が400mの決勝に辛うじて進んだものの一番端っこの第8コースという「屈辱」で、果たして結果も8着、つまりビリだったというのが忘れ難い記憶となったのだったが、この大会の大ヒーローはチェコの陸上長距離選手のザトペックで、五千㍍と一万㍍に優勝した余勢をかって、それまで走ったことのないマラソンにも出場して金メダルを取ってしまったというのだから、東京大会の時のアベベの上を行ったことになる。当時盛んに出版されていた講談本の『赤穂義士銘々伝』を呼んでいたら、中山安兵衛が伯父の敵討ちに深川の裏長屋から高田馬場へと駆けつけるくだりで、「安兵衛はザトペックのように駆けましたが間に合いません」という一節があったのをいまもありありと覚えている。ザトペックの走り方が喘ぎ喘ぎ走る蒸気機関車のようだというので「人間機関車」と異名が付き、それから数年後、阪神タイガースの投手として売り出した村山が、ダイナミックな投球フォームがザトペックを連想させるというので「ザトペック投法」と仇名されたが、ヘルシンキ大会が昭和27年、村山が関大から阪神に入ったのが昭和34年だからその間7年ものタイムラグがあったことになる。以て、ザトペックの超人ぶりとその走法の印象が、当時の日本人の脳裏にいかに強く、且つ長期間にわたって刻まれていたかが分かるというものだろう。(ヘルシンキ大会のあった昭和27年1952年はサンフランシスコ講和条約発効の年、村山がプロ入り早々大活躍を始めた昭和34年1959年は日米安保騒動の前年である。当時の日本人にとっての7年の歳月は、現代人にとっての7年とは比較にならないほど長かったはずである。)

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パラリンから画面を切り替えると第2チャンネルで甲子園の高校野球をやっている。何となく懐かしいような気持になる。しばらく眺めているうちに、次々に登場する選手たちの名前に目が止った。姓名の「名」の方である。男の子のネーミングが想像以上に様変わりしていることに、今更ながら驚く。女の子の命名法が、時に日本語の破壊ではないかと心配になるほど様変わりしていることは前から知っていたが、こうして見ていると、男の子の命名法も負けていない。何と読めばいいのか、判じ物のようなネーミング(と当て字)の多様なのに感じ入るほかはない。以前なら同級に一人や二人は必ずいた「清クン」だの「正男クン」だのという名前の選手は、私の見ていたかぎりでは一人も出てこなかった。

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このひと月、二タ月の間に目に留まった訃報。順不同で、伊藤京子、サトウサンペイ、中島弘子、千葉真一、笑福亭仁鶴、坂上弘、山内静夫、ジェリー藤尾等々等。中島弘子さんと山内静夫さんは私よりも大分年長の方だが(伊藤京子さんもそうか)、ほとんどは、若干の年上に過ぎず、社会的に知名の人となったのは、私がある程度成人してからの人がほとんどである。つまり、大概の方々の売り出しの頃を知っていことになる。感慨なきを得ない。

随談第643回 勝手にしやがれ

開催自明、というムードになったのに歩調を合わせる如く、東京のコロナ感染者の数字が日に日にじわりじわりと上がるという、綱渡りを見るような日が続く。勝手にしやがれ。もう、どうなったって知らないからね、と高みの見物を決め込んで眺めるなら、なかなかスリリングな日々である。一介の市井の民としては、せいぜいワクチンでも打って眺めているしか、本当になんにも仕様がない。五輪開催中にハルマゲドン到来となった時の、SさんやBさんの顔が見られるのはオリンピックの競技を見るより、いとおかしきものであるかもしれない。先ごろの国会で本当に五輪は開くのかと迫る野党議員に対して「私はさっきから何度もお答えしています。いいですか、よく聞いてください」と念を押した上で「安心安全」を唱えている。そう、かの仁の中では開催宣言は自ずから疾うになされているのである。紋切り型の念仏と言うが、同じことを訊かれるから同じことを答えているまでなのだ。

がまあ、こんな何の益にもならない文字を連ねていても仕様がない。それよりは、市井の老耄の呟きのごときものをそこはかとなく書きつけて、今回の随談ということにしよう。

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新しい朝ドラが始まって、まあ、見ているが、今回もまた、毎日冒頭に流れる主題歌の歌詞が何と言っているのか聞き取れない。今に始まったことではない。この何年来、ドラマは変われど同じことが繰り返され、続いている。何と言っているのだろうと耳を傾けるが、ところどころ、きれぎれに聞き取れるフレーズはあっても、歌詞全体として立ち上がってくるには程遠い。いつ頃からこうなったろうか、とにかく以前はこういうことはなかった。

曲の作り方、歌手の歌い方にも原因の一端があるのは確かで、とくにフレーズの切り方、息継ぎの仕方、アクセントの置き方,甘ったれたような発声等々、いろいろ考えられるが、どうやらそうしたことどもも含めて、より根元的には、音符に言葉を乗せる乗せ方が、以前とは大きく、もしかするとかなり根元的なところで、変わっているからに違いない。

もう大分昔になるが、ひところ、曲のフレーズと歌詞のフレーズを一致させるべきだという理論がしきりに唱えられたことがあった。なるほど、そうすれば歌詞の意味が明確にわかる。ポッポッポ、鳩ポッポ、という具合である。少し手が込むと、春の小川はさらさら行くよ、の「春」を「はある」と義太夫で言う産み字のようにして処理するという手もある。しかしこのやり方には当然限界があって、曲のフレーズの切れ目と歌詞の切れ目を常に一致させるのは時に齟齬を生じる。我が国家である「君が代」にしてからが、「さざれ石の巌となりて」というところが、「さざれー」で大方の者は息が続かなくなる。ひと頃、大相撲の千秋楽に観客も唱和する国家斉唱のとき、楽隊の演奏が「さーざーれー」だったか「いーしーのー」だったかというところで太鼓をドンドンドンと三連打していたものだが、あれはただの「石」ではなく「さざれ石」なのだから、「さざれ」を切り離して「石の」で太鼓を三つ叩くのは歌詞を無視した演奏ということになる。(それからぬか、最近はこの箇所での太鼓連打はしなくなったようだが。)もともとこの歌は、「君が代は千代に八千代に/さざれ石の巌となりて/苔のむすまで」と、七・五・七・五・七という七五調になっているわけだが、いまの国歌「君が代」の旋律だと、「きーみーがアーよーオーはー/ちーよーにーイイやーちーよーにさーざーれー/いーしーのー/いーわーおーとーなーりてー」と、よほど歌唱の訓練をした者でなければなってしまうように出来ているわけだ。

というわけで、そもそも単純素朴な一音符一音一文字主義を貫けるのは、せいぜい童謡か小学唱歌ぐらいまでが関の山だろうから、我々世代とは飛躍的に音楽の素養が進化した当節の若い音楽家たちが、歌詞の束縛から自由な曲を作りたがるようになったのは無理からぬところには違いない。そこまでは解る。翻って思うに、これは、作曲の仕方より、歌詞、ひいては現代日本語に対する感覚に関するかぎり、朝ドラの主題歌の製作者と私との間に大きな隔たりが出来てしまっているからに相違ない。と、そういう結論に、最近私は達しつつあるのである。

流行歌で言えば、美空ひばり、島倉千代子の時代はもちろん、五木ひろし、舟木一夫、森進一辺りまでは、歌詞がごく何の気なしに、他のことを考えながら聞いていても聞き取れた。いや、もっと近くまでそうであったろう。散文であっても、ある時期までの文章にはそれなりに一定の韻律というものが、たとえ新聞記事にでも、売薬の箱に書いてある効能書きにすら、どこかに潜んでいた。だから何の苦もなく読むことができた。だが近年の散文の文章となるとそうはいかないことがしばしばある。パソコンを買い替えるなどして説明書きを読んでも、内容以前に文意そのものが頭に入ってこない。不案内な用語や、機器の仕組みが理解を超えているというだけなら、当然のことだから不満も不安も覚えないが、それ以前に、文章そのものが無機的で、リズムも抑揚もなく、読む者を拒絶しているかのように感じられる。パソコンの効能書きならまだしも、新聞などで読む年若の識者の筆になる(いや、キーを叩く指先になる、か?)コラムなどにも、韻律を感じ取れない無機的な文章が多くなったような気がする。明晰と言えばそうともいえるが、機械の書いた文章のようで味気ないことおびただしい。

しかし翻って思うに、こういう文章を書き、またそれを読む人たちが、そこに何らかの快適さを感じていないということは(人間である以上)考えられないから、たぶん当節の読者諸氏諸嬢は、こういう無機的(と私には思われる)文章に何らかの「美」を感じ取っているに違いない。最近の朝ドラの主題歌も、あれをよしとし、愛する(ような感性を持った)人が、視聴者の多数を占めるようになっているのに違いない。その人たちには、私には聞き取れない歌詞も、はっきり聞き取れているに違いない。

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それとは違うが(しかしどこかで通底しているはずだという「疑念」も、じつは抱いているのだが)、もう今更、間違いだの、やめてくれだのと言っても間に合わないほど風靡してしまっているから、他人様が使うのを咎める気はないが、自分では絶対に使おうとは思わない「常套フレーズ」がある。

・(お待たせいたしました、こちらカキアゲソバ)になっております、(または)となります。
→さてはタヌキソバがカキアゲソバに化けたのか?

・(××宣言を発出)させていただきます。

・(総理、五輪開催中止)でいいですね?

・(五輪は絶対中止すべきだ)という風に思います。

・(うな重はうな丼より値段が高い)と承知しております。

等々、といったフレーズである。こうした、持って回った物の言い様が、街に出ても、テレビを見ていても、何回となく耳に飛び込んでくる。思うにこれは21世紀になってから以降の現象であろうと私は思っている。

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近ごろはNHKでも民放でも、アナウンサーにアクセント教育ということをしなくなったらしい。たしかに、以前のように「標準語」なるものを絶対視して、NHKのアナウンサーをお手本にすべし、などということを言わなくなったのはむべなるものがあるが、それにしても、同じアナウンサーがわずか数分の間に、さっきは「・・・と述べた」と頭にアクセントを置いて言ったと思うと、同じニュースの中で今度は「野豚」と同じアクセントで「述べた」と言う・・・と言ったことが当たり前になっている。

そういえば、往年の横綱大鵬の孫という若手力士が最近、十両に昇進して、それまで祖父と同じく本名の「納谷」を四股名としていたのが、新規に「王鵬」と名乗るようになった。が、ここではその新しい四股名ではなく、元の「納谷」という名前の読み方である。「ナヤ」と「玉」とか「球」などというのと同じくフラットに呼ばれてきたらしいのだが、さすがに古手のアナウンサー連から、横綱の大鵬の若手の頃、四股名の「納谷」は「納屋」というのと同じに頭にアクセントを置いて呼んでいたものだという声が上がったという。祖父が幕下力士だった昭和30年ごろと孫が幕下の平成30年ごろとでは、同じ名前が別の読まれ方をしていたという、これも同じ根から出ている現象に違いない。

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その一方で、NHKではしばらく前から、「各界」という言葉を「角界」と同じイントネーションで読むのが定例化しているのが、気になっている。「角界の名士たちが一堂に会して」というから、往年の名力士や何かが集まったのかと思うとそうではなく、元総理だのナントカホールディングス会長だのが集まったのだという。あれは、三蔵法師のお供をした孫悟空の同僚の猪の八戒と同じ読み方をするのではなかったろうか?
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立花隆、原信夫、寺内タカシetc、etc・・・と言った人たちの訃報が目に入った。それぞれに、それぞれの盛んだった時代の匂いが、一瞬、立ち込めた。

随談第642回 五月のもろもろ

このところ芝居の話をあまりしていなかったから、今回はそのお噂から始めよう。五月の歌舞伎座では、3部の中で売れ行きが一番良かったのは第一部であったらしい。松緑の『土蜘』が人気というか注目の的であったという。まあ、祖父の二代目が兵隊から帰ってすぐつとめたのが、六代目菊五郎から「後世畏るべし」と評されたという話が残っているほどだから、当代としても期するところあってつとめたのであろう。猿之助が頼光を付き合っていたが、芸はもちろんちゃんとしているがどうしてもいたずきにある人という感じがしないから、見ている内に時々、智籌を猿之助がしているような錯覚が起こる。つまり猿之助と錯覚するほどの僧智籌であり土蜘の精であったということになる。

今回は上演時間の制約上、間狂言を抜いているが、そうすると不思議なのは、間狂言がある時よりも長く感じた。この脚本は黙阿弥だが、さすがの黙阿弥もこの手の芝居の脚本は、長唄の文句を書いたり間狂言を書いたりするところに手腕があっても、全体の運びはお能の祖述みたいなものだから『髪結新三』や『十六夜清心』のような妙趣はない。前シテがあって、間狂言があって、後シテがあるというソナタ形式が首尾一貫してようやく納まる形に納まるのだということが、今更ながらよくわかった。コロナ禍の中、そんな贅沢は敵だろうが、思わぬ勉強にはなったというものだ。

もっとも私としては、第一部でのお目当ては尾上右近がお嬢をするという『三人吉三』だった。別に悪いわけではないのだが、夢見る如くに期待していたようなわけには行かないのが、ちともどかしい。ツラネを、歌うならもっと陶然とさせてくれなくては。歌うというより調子を張って言うのだが、落ちた夜鷹は厄落とし、と川面を見込んだり(意味もちゃんと考えて言っているんですよ、と言うつもりかもしれないが)素朴リアリズムが混在するので、ちょっとポキポキして、流れるようにというわけには行かない。考え過ぎが裏目に出たのかもしれない。

亡くなった梅幸が最晩年に一度、久しぶりに出したことがあったが、それをみて目からうろこが落ちる思いをしたことがあった。庚申丸を抜いて有象無象を追い払うと(仕種もリズムも)その流れですっと、右足を杭にかけて「月もおぼろに白魚の」とツラネを歌い始める、その呼吸にはっと目を開かれた。そのことをどこかに書いたのを、当時はまだ勘九郎だった十八代目勘三郎が読んだのかも知れない、それから間もないある時、たまたま二人で話をする折があった。と、梅幸のおじさんに教わったやり方だと言って、目の前で立ち上がってこのくだりをやって見せてくれたことがあった。「ね?」という感じで目顔で言って座に戻った。(だが勘三郎は、ついにお嬢をする機会がないままに逝ってしまった。コクーン歌舞伎で演じたのは和尚であり、それは全然別の文脈の話なってしまう。)もちろん、いまの菊五郎がするように、ひと呼吸あってからやおらアリアを歌い始めるやり方もあるわけだが、なるほどなあと、深く心に残るものがあった。(『浜松屋』の弁天小僧の「知らざあ言って聞かせやしょう」に掛かるところにも、共通する呼吸が合って、これにも十八代目との思い出があるのだが、前にこのブログに書いたこともあるし長くもなるから今は書かない。)右近が次の機会にどちらのやり方を選ぶにせよ、リアリズムの中の様式というところに、もう一工夫、思案があって然るべきではあるまいか?

隼人のお坊も仁はいいのだが(お嬢から、先ずそっちから名乗れと言われて、「こいつはア俺が悪かった。ひとに名を訊くその時はまずこっちから名乗るが礼儀」というセリフがぴったりくる、こういうところは天性か?)、やはり張った調子がポキポキするのは、二人で相談づくだったのかしらん?巳之助の和尚も、いいようでもう一つスカッとしない。何となく三すくみのような吉三たちだった。

第二部の「道行旅路の花聟」が気に入った。いかにも歌舞伎を見ている愉悦があって今月一番のいい気分だった。こういう愉悦は清元ならではでもあるが、梅枝のおかるが期待に応える良きものだったし、錦之助の勘平も、この段の勘平としてうまくはまっている。萬太郎の伴内といい、思えばみな、三代目歌六のひ孫たちである。

菊五郎の勘平以下の『六段目』はもちろん言わずもがな。左團次の不破、又五郎の千崎、もう何度つとめたことだろう。谷崎の『陰翳礼讃』ではないが、艶とは要するに手垢のことであるという、その通りの底光りがしている。左團次と言えば、前月の『小鍛冶』で橘ノ道成を付き合って一言も物を言わずただ座っているだけの役だったが、まさしく千金の重みがあって、猿之助の稲荷明神も中車の三条小鍛冶も立派に役をつとめているにもかかわらず、吹っ飛んだ。魁春のお才もいいなあ、東蔵のおかやは言わずもがな。当たり前のものが当たり前にそこにあることの嬉しさ有難さだ。

第三部、『八陣守護城』は松貫四補綴とある。吉右衛門は自分でやるつもりで台本に手を加えたのだろうか?湖水の場だけだと、鞠川玄蕃と轟軍次の二人の敵方のスパイが「ハテ面妖な」を繰り返し言うだけで清正が既に毒を食らっていることを観客に暗示するというミソが、毒饅頭の清正という、(戦前までなら)誰でも知っていた「常識」が常識でなくなった今日、ムズカシイ問題ということになる。吉右衛門代役の歌六はすること文句なし。この人、何をやっても失敗ということがない。雀右衛門の雛衣、これまた文句なし。

菊之助が『鑑獅子』を踊るのが眼目だが、良い意味での「今日歌舞伎」の典型であり代表という印象である。「好感度」といういかにも今日的な言葉がいつしか生まれ定着して既に久しいが、まさに好感度100パーセントの鏡獅子であり、むかし見た誰それのは、などと言い出すワクチン接種を優先してもらえるような高齢者といえども、ナンクセをつけようとはしないだろう。具足円満、西暦2021年にあって誰しもが受け容れることのできる『鏡獅子』である。

楽善が幕開きの老臣の役で出演。いいなあ。本当にその人がそこにいるようだ。彦三郎の用人、萬次郎の老女と橘屋一家の中に米吉の局というのは珍しい光景だが、老女と局というこの役は、かつて菊之助の祖父梅幸が『鏡獅子』もっぱらにしていた頃、多賀之丞に菊蔵の父子がもっぱら勤めていたのが今も目に残っている。

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片岡秀太郎逝去。78歳とか。フーム。この人を初めて見た舞台ははっきり覚えている。昭和39年10月、前回の東京オリンピックのさなか、東横ホールで、この時点で花形未満という状態だった若手を糾合して『仮名手本忠臣蔵』を通し上演するということがあった。大星だけは大先輩の渋谷の海老サマ三代目権十郎だったが、そのほかは現・菊五郎の判官、前・辰之助(もちろん三代目松緑だが、やはりこの人は私の中では辰之助として生きている。もっともこの時点ではまだ左近だった)の勘平、現・楽善の平右衛門、現・左團次の師直等々々と、菊五郎劇団の若手を主体に、現梅玉・魁春の「道行」のおかる勘平と、東京勢の売り出し目前の若手たちが揃ったところへ、上方から秀太郎と孝夫の兄弟が参加したのだった。我當はすでに菊五郎劇団にいたから知っていたが、秀太郎と孝夫を見たのはこの時が初めてだった。秀太郎は「八段目」の小浪を、これは特別参加の我童の戸無瀬と踊ったのだったが、この幕だけはもう大人の舞台のような気がした。(孝夫の役?『旅路の花聟』の伴内と『旅路の花嫁』の奴だった!)それから程なく、大相撲の中継放送のゲストに十三代目仁左衛門が出演したとき、秀太郎を連れていたのが今も印象的な記憶として、これまた目に残っている。

それからいろいろなことがあった。昭和の末の50~60年代頃が、この人の最も苦しい時期であったように思う。しかし初めて見た時から、この人は良くも悪くも若手につきものの「未熟」ということを感じさせなかった。我童以外には、先代富十郎は知らず、成太郎はほんの片鱗しか見たことのない私には、上方の女方と言えば坂田藤十郎とこの人しかないことになる。『吉田屋』の女房のような役を見ることが多く、またよきものと思っていたので、あるところでこの人の代表的な役のような言い方をしたのが目に留まったらしく、さりげなくだが指摘があって、不本意のような思いをさせてしまったことに気づいて、なるほど、と心に留めたことがある。それから年を経た晩年に、覚寿をつとめるのを見たとき、その時のことを思い出した。それにしても、コロナ蔓延寸前の昨年二月、三兄弟それぞれに、十三代目の追善狂言を受け持ってつとめ遂せたことは、松島屋兄弟の徳の表れというものであったろう。

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次の作品がすでに滑り出した今、もう旧聞のような感じになってしまったが、朝ドラで浪花千栄子の一代記のようなのをやっていたのを、時々気になるところはあっても結構面白く見た。どこまで事実に基づいているのかはわからないが、お終いの方でやっていたラジオドラマ(当時は「放送劇」という言い方の方が普通に使われていたと思うが)が、大方の東京人が浪花千栄子の名を知った始めであったと思う。花菱アチャコと組んで、「お父さんはお人好し」の前に「アチャコ青春手帖」というのがあったように覚えているが、どちらが先か後か、この辺りは必ずしも確かでない。ともあれ、大方の東京人が大阪弁というものをシャワーの如くに浴びたのは、この二つの番組であったとは言えるだろう。アチャコの言う「むちゃくちゃでござりまするがな」という決まり文句とともに、東京の小学生にも広まったのは間違いない。(上方の落語や漫才が放送されることはもちろんあったが誰もが聞くというものではない。)感心するのは、千代役の女優が浪花千栄子の関西弁のイントネーションを(しゃべり方は、現代の若い女優らしく早口で激しいものではあったが)うまく写していたことで、古い録音を聴き込んでよほど研究したものに違いない。

ラジオで知った浪花千栄子が更に東京のファンの間にも根を据えたのは映画にも頻繁に出るようになったからで、木下恵介監督の、というより花形人気スターだった高峰秀子が一躍名優に変貌する端緒となった『二十四の瞳』で、高峰扮する大石先生が6年生を引率して金毘羅へ修学旅行に出かけた先の、参道沿いのうどん屋で、家が貧しくて小学校を中退したかつての教え子が働いているのに遭遇する場面で、そのうどん屋の女主人が浪花千栄子の役だった。はじめは愛想よく応対していたのが、ちょっとしたきっかけから、からりと態度が変わる。いかにもありそうなこすっからい様子が、「手の平を返すよう」という語釈をして見せるような演技に舌を巻いた。もう一つ、小津安二郎晩年の傑作『小早川家の秋』で、鴈治郎が出演(映画俳優鴈治郎としても、この作が最高傑作であろう)、ふと再開したむかしの愛人の元へいそいそと出かける場面が評判をとったが、その愛人役が浪花千枝子で、さっきの『二十四の瞳』とは対照的な人のいい老女ぶりはまさに妙技というべきであろう。この二作を以って代表作としよう。(初代錦之助、つまり萬屋錦之介の『宮本武蔵』では、本位田又八の母親で武蔵を付け狙うお杉婆をやっていたっけ。)

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田村正和氏逝去とあって、業績・ひととなり・逸話・思い出その他その他、その行き届いた報道ぶりである。私も好感こそ持っておれ悪く言う気持ちなどさらさらないから水を差す気はゆめさらないが、活躍した年代、とりわけその絶頂期をマスコミ人・一般人を問わず、誰しもの記憶のなかにほぼ完全に覆い尽くされているので、こういう水も漏らさぬ報道ぶりになったのであろう。これが、その光輝いていた姿を覚えている者が寥寥たるものになってからの死去であったりすると、仮にそれなりのスペースが割かれていたとしても資料に拠っての紋切り型の記事だったり、かつての栄光に比してごく小さな扱いであったり、といったことが往々にして起こる。「亡くなっていたことが分かった」などという記載を、相当のスターだった人の死亡記事に見ることも少なくない。仕方がないことと思いつつ、割り切れない気持ちになることも珍しくない。時たまだが、投稿欄に往年の活躍を知る年配の読者の投稿が載って、喝をいやすというより、救われたような気持になることもある。花柳小菊だったか、千原しのぶだったか、死去を伝えるほんのぽっちりの記事が載ってしばらくしてから、かつてファンだったという年配の女性の読者の投稿を見て心が和んだのを思い出す。

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江原達怡氏死去の記事を見たのは、田村氏に先立つこと何日前であったか。東宝の作品を見るとこの人が出てこないことはなかったと思うぐらいに、私など、東宝映画の熱心なファンだったわけでもない者でも、いろいろな作品でこの人を見ている。美空ひばり・雪村いづみ・江利チエミの三人娘のような作から、もっと地道な作品まで、まず必ず出ていたような気がする。気がする、というのは常に二番手、というより三番手ぐらいの位置にいる役だったからで、強い印象を残すわけではないのだが必要ではあるというのがポジションだった。そこに、幅広く且つ息長く、この世界で生き続けた根拠があったのだろうが、こういう人もいた、という意味で、死去の記事を見つけてしばし思いにふけった。

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夏場所は照ノ富士が全勝するかと思うような圧倒的強さだったが、妙義龍戦の反則負けと遠藤戦の物言いの判定で混戦となった。二番どちらも師匠の伊勢ケ浜親方が審判長だったのは偶然だが、照ノ富士に厳しい判定となったのに微妙な感じを抱くのはやむを得ないところだろう。まあ、それはとも角として、前から言われていることだが、髷を掴んだら負けという規則は釈然としないものが残る。故意に髷を掴むという者は普通いないのだから、ほとんどの場合、故意か否かより、運不運によるわけで、取り直しにすべきである。また遠藤戦は、遠藤の投げを照ノ富士が掛け投げを打ち返したために遠藤の体が裏返っていわゆる「死に体」となったのだから、行司が照ノ富士に軍配を上げたのは然るべき理由があっての見識である。ただ照ノ富士の方が付き手が早かったのは事実で、したがってこれも取り直しが至当だったと思う。

近年、再生映像が精密になったのはいいが、野球のアウトセーフは早いか遅いかだけの話だが(それだって、カメラの角度でかなり違って見えるのには驚くが)、相撲の場合は、技を仕掛けての結果か否かが重要であって、以前なら取り直しにしたと思われる勝負に意外な判定が下されるケースが少なくない。「もう一丁」という審判員(昔は「検査役」だった)の声がよく聞こえたものだったのが懐かしい。

随談第641回 ワクチンと朝鮮人参

三度目の緊急事態宣言が発出となったが、彼れを見、此れを見、腰の定まらない手の内が見え見えで、いずれ期日が切れれば延長必至という情けない切り札である。本降りになって出てゆく雨宿り、という川柳がありましたっけ。大手町に自衛隊が出動、マンボウ実施地域から緊急事態宣言実施地域へと高齢者を移動させてワクチン接種をするというのは、英断といえば英断だろうが、ワクチンさえ何とかなればオリムピックも何とかなるかもしれないという実は神頼みの一手。そこで思い出すのが、かつての歌舞伎・講談・落語から時代小説・大衆劇等々によく出てきた朝鮮人参という不治の病も治すという特効薬である。親が不治の病にかかって明日をも知れぬ命、朝鮮人参さえ手に入れば、と医師に言われても及びもつかぬ高値(コウジキと読みます)、そこで孝行な娘が吉原に身を売って・・・という風にストーリーが展開するというのがお定まりであった。嗚呼、ワクチンさえ間に合ったなら!(嗚呼、朝鮮人参さえ手に入ったなら!)緊急事態宣言下のオリムピック開会式という光景は、世界史に残る“人類の英知の証し”となるであろう。本降りどころか、暴風になって出てゆく雨宿り、か?

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緊急事態宣言の実施開始日が文楽劇場の楽日と重なって、吉田蓑助師の引退が一日繰り上がるということとなった。私が文楽を見るようになった頃は、ちょうど蓑助師が期待の花形として脚光を浴びていたさなかであったから、一番長く見続けたのは蓑助師であったと言って差し支えないだろう。当時は女方遣いとして紋十郎と二代目栄三が健在だったし、若大夫も綱大夫も、寛治も喜左衛門も健在だったのだから、いま思えば、名人上手の時代はまだ続いていたわけだ。しかし経営・運営的には困難の極みにあったのだから、芸の良しあしと人気・景気とは別物と思い知るべきなのであろう。蓑助師には『千本桜』のお里を見せてもらったことを無上の幸せと思っている。

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宣言発出となって5月11日までの約2週間、外出の予定が奇麗さっぱりなくなった。〆た今こそ、とばかり取り出したのが、今を去る60年余年前に作った切り抜きである。昭和30年5月から翌31年8月まで全450回、読売新聞に連載された子母澤寛の『父子鷹』を、リアルタイムで毎日切り抜いては、当時わら半紙と呼んでいた粗末な(と言っても当時はそれが最も手近にある白紙だった)紙に、(新聞の連載小説は基本形は今も同じ上下2段の横長である)表に3回分、裏に3回分、糊で貼り、それを今度は用紙の端を糊で重ね貼りすると、糸で閉じるより堅牢な切抜き帖が出来上がる。もちろん連載終了後に上下二冊の単行本として刊行されたのがいまも書架にあるが、4年ほど前の夏(夏という季節は郷愁に駆られやすい。自然が身近に来るからだろうか)、ふと思い立って、死ぬまでにぜひ一度、あの切り抜きを探し出して心行くまで読み耽りたいと心に決めた。新聞連載だから、その時々のさまざまな記憶が伴われて甦る。石井鶴蔵の挿絵と併せて鑑賞・味読しようというのが眼目である。ところが、あそこにしまってある筈、と心当たりを探したが見つからない。思いつくところを探しに探して、ああ、そうかと気が付いてようやく探し当てるまでに1年近くかかった。(ナニ、そんな大邸宅に住んでいるわけではもちろんないのだが、探し物というのはそういうものなのである。)それから、折を見てと思いつつも、日々の暮らしに時を奪われ、且つ又、もう少し先まで楽しみを取っておこうという心から、今日まで来ていた。一年前、コロナ禍に見舞われて得た閑暇に、ふと心が動いて大佛次郎の『鞍馬天狗』を本棚から埃を払って読み耽って得るところが多々あったことは、当時書いたと思う。そのことがあったためもあろう、この度の宣言発出を天の声と聞き違えたことにして読み出したのだったが、何しろ60数年前のわら半紙だから、端の方が枯れ落葉のように茶色く劣化しているのが削げ落ちるからその対策も講じる必要がある。だがそんな面倒に阻喪するぐらいなら初めからこんな酔狂はしないのであって、達意にして簡潔、主人公勝小吉をめぐる人々を描き出す筆の妙、季節の移ろいから江戸の市井の有様や物の匂いまで描き出す描写の妙等々、一読三嘆しながら読み進める幸福に、目下、浸っている。こういう文章を書く作家は、もはや絶えて久しくなってしまったことがつくづく思われる。

(前回書いた北大路欣也氏のデビュー作がこの小説の映画化で、たまたま、先月時代劇チャンネルで放映されたのも60余年ぶりに懐かしく見た。惜しむらくは名作と呼ぶには微妙なところですれ違っているような感はあるが、市川右太衛門の小吉、長谷川裕見子の女房お信、月形龍之介の兄男谷彦四郎、志村喬の父男谷平蔵、薄田研二の爺や利平治等々、出演者の一人一人も懐かしく、且つ適役が揃って感概深く見た。この映画と再会したことも、この機を逸せずと、我が背を押すひとつの力となったことは疑いない。)

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榎そのさんの訃報を新聞で見てしばし思いに耽った。『演劇界』を購読し始めた頃が、ちょうど榎さんと土岐廸子さんがコンビを組んで活躍を始めた頃だったから、その業績のほぼ全貌を見てきたことになるだろう。土岐さんは、実際に接するとなかなかコワい方だったが、榎さんは、前からあなたのファンだったのよと、優しい言葉で迎えてくれた。お二人の果たした仕事は、なまなかの劇評よりはるかにすぐれた「批評」であったと思っている。

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私はひと頃、コンサート・ゴーアーでもあった時期がある。まだCDなどは存在せず、LPの時代だったから、当時買い集めたレコードで今なお、物置状態になった部屋の一隅が占領状態になっている。クリスタ・ルートヴィヒの訃を知って、久しぶりに彼女のシューベルト歌曲集という一枚を聴いた。こういう世界があったのだ。

随談第640回 マンボウ騒ぎ

テレビのワイドショーやニュースを見ていると、マンボウマンボウと頻りに言う。魚のマンボウのことかと思うと、コロナ対応の話で「蔓延防止特別措置」の略称と知れた。それなら、「金棒」とか「願望」などと同じフラットなイントネーションになる筈だが、魚のマンボウと同じく頭にアクセントを置いている。私などの世代の者には、北杜夫の「どくとるマンボウ」を思い出したりしてちょっぴり懐かしくないこともないが…と、ここまで書いて、後は明日ゆっくり書こうと寝てしまい、一夜明けてテレビを見、新聞を開くと、このマンボウ一件のことが俄かに問題となっている。政府にとって重要なコロナ対応策を茶化したような言い方を政府関係者やマスコミまでが無自覚に使うのはおかしいではないか、というのが論調であるようだ。私はてっきりSNFかどこかで茶化したのが広まったのかと思っていたら、聞いているとどうやら言い出しっぺはかの専門委員会の尾身会長で、ご自身としては、若い人にも親しみやすいようにと、いいつもりで言い出した、ということであったらしい。おやおや、である。

とまあ、こういうわけで、今回は出だしからつまづいてしまったので、話題変更と行こう。

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とはいえ、すぐには頭が切り替わらないので、アクセントの話をもう一席お付き合い願うと、高校野球の放送を見ていると場内アナウンスが、「三番センター○○クン」などと放送する声が聞こえてくる。○○君、というのを独特のアクセントをつけて言うのが耳につく。近似の例を挙げると、「新潟県」とか「秋田県」などというのと同じ節回しである。かつての高校野球の場内アナウンスというと中年男性のだみ声で「四番ファ-スト××クン」とやっていたものだったのが、それがいつからか女性の声に変わって久しいにもかかわらず、この「○○クン、××クン」の一種独特のアクセントだけは、伝統演劇における「型」の伝承の如くに、見事に受け継がれているのだ。関西地方、とりわけ阪神地帯特有のアクセントなのか、それとも高校野球界という一地方特有の方言アクセントなのか、アズマエビスである私には判断しかねるが・・・

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少しは歌舞伎の話をしよう。先月の歌舞伎座で仁左衛門が『熊谷陣屋』を出して健在ぶりを見せたが、この優らしく、細かいところにも気を配っていろいろ改変を施しているのが目に付いた。小次郎の首の扱いに関して、いろいろ新工夫を見せている。首実検がすみ、首を自ら相模に渡すのは以前からしていたが、今度はその前に、深く思いをこめ、と言って、いわゆる「思い入れ」をするのではなく、自身のふところに抱きしめ、しばし黙然としてから、相模にねんごろに手ずから渡す。相模のクドキの間に、首が置かれていた台(あれは、何というのだろう?)を、自らいざって取りに行き、さらに奥まった位置までいざって行って後見に手渡す(ように見えた)。・・・という具合に、首の扱いに細かく気を配って相模への心遣いを入念に見せる。(冒頭、陣屋に戻ってきて相模がいるのに気が付くと、通常の熊谷のように「ヤイ、女」などと言わずに(イマドキ、自分の奥さんに向かって「ヤイ、女」などと言ったら大変なことになったしまうであろう)、「やい、女房」と言っている。要するに相模への心遣いを、全体の流れを阻害することなしに可能な限り事細かに見せる、という配慮である。以前からいわゆる團十郎型への疑問として言われている、熊谷は自分の一存で小次郎を身代わりにして雲水になるのだからいいが、あれでは相模は浮かばれないではないか、という批判への、仁左衛門として考え抜いた回答とも読める。なるほどなるほど。が、しかしあそこまでするのならもう一歩進めて、幕外の引っ込みもやめてしまい、元々の浄瑠璃の通り、舞台中央の二重の上に義経、平舞台上手に藤の方と弥陀六、下手に相模と共に留まって幕にする方が、首尾一貫するのではあるまいか?という疑問も生じてくる。(花道七三で向こうからドンチャンが聞こえると、キッとなって手にした杖を太刀のように掻い込むところなど、確かに格好いいのだが・・・。)

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先日、日本映画チャンネルで久しぶりに『ゴジラ』を見た。もちろん、1954年制作の元祖ゴジラである。いま改めて見ると、随分真面目に作った作であったことが今更のように思われる。言い尽くされていることながら、この年の春にあったビキニ環礁の水爆実験と第五福竜丸の事件が、仮に際物として作るにせよ、生半可なことでお茶を濁しリアリティをもって見せられなければ、際物としても支持を得られなかったであろう。ゴジラが遂に東京湾から上陸してきて、元の日劇や何かがぺしゃんこにされてしまい、実況中継のアナウンサーの身にも危険が迫り、「皆さん、さようなら」と悲壮な声で叫ぶ中、逃げ道を失って子供を二人抱えた中年の母親が「お父さまのところへ行きましょうね」と言い聞かせているのは、戦地で亡くなり天国にいる夫のことであろう。いま見ると驚くべきリアリティをもって刺さってくる。

この作の封切り当時のことはそのころ中学生だったなりによく覚えているが、同級生たちの反応は、級友の前では建前としてゲテモノだと笑って見せるが実は見たいのが本音、という辺りが大方であったと思う。私は封切りでは見なかったが、予告編を見たのははっきり覚えている。滝野川映画劇場という、東映の封切作二本立てに東宝の作品を一週遅れのを一本、全部で三本見られるというお得で割安の、この手の映画館が当時はよくあったものだった。ここで、片岡千恵蔵主演の『新選組鬼隊長』(その後いろいろ見た新選組映画の中でも出色のなかなか力作で、いまでも時どき思い出す)に東千代之介の『龍虎八天狗』という吉川英治の少年小説を映画化した併映用の五部作の最終回、それに宝塚映画製作・東宝配給の斎藤寅次郎監督『仇討ち珍道中』という(伴淳・花菱アチャコの仇討ち兄弟に益田キートンが敵役という抱腹絶倒の面白さで、ぜひ再会したいと今でも本気で願っている)三本立てで、日曜日に家族全員で出かけたのだったが、その時に予告編で見たのが、大友柳太朗の赤垣源蔵に月形龍之介の清水一角という『残月一騎打』という忠臣蔵外伝物と『ゴジラ』の予告編だったのだ。志村喬の原子力研究の老教授に河内桃子のその令嬢、という配役は、千恵蔵の近藤勇がそうであるのと同様に、この種の作品に絶対的にして欠かせないはまり役であった。老教授の助手で河内桃子の恋人役の宝田明は売り出して間もない新人で(この人は東ナントカさんという新人女優と「東宝ニューフェース」としてペアで売り出したのだった。「東」と「宝田」で「東宝」というわけだ)、志村教授のもう一人の弟子で、死を賭して研究に打ち込む少壮学者を平田昭彦というのも、不動の陣容と言うべきであろう。

ところでこの宝田・河内の恋人同士が、デートの約束をしていたコンサートに(ゴジラ問題のために宝田の方が)行かれなくなるという場面があって、チケットが大写し(いまでいうアップである)になると「ブダペスト四重奏団演奏会」と書いてあるのに、迂闊ながら今度初めて気が付いた。当時よくあった「ショパンの夕べ」などというのではない。ブダペスト四重奏団はこの時が二度目の来日だった筈だが、このハイブラウぶりは、なるほど伊福部昭が音楽を担当している作品だけのことはある。

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三月場所は照ノ富士の優勝に大関復帰が叶って私としては言うことない結果だが、三大関よりすでに実力が上であることは明らかだろう。貴景勝は押していても足が止まっているし、朝乃山はタイプとしては好きな力士だが、過信というか自分の力を思い違えている。正代もあの相撲の取り方では、いい時もあろうが今度のようなことがあっても不思議はない。
 活躍した若隆景が贔屓にしようかと思うような相撲ぶりでほれぼれしたが、あの若葉山の孫と聞いて懐かしさが蘇る。昭和20年代も終戦間もない頃から30年代半ばごろまで、かなり長く取った、技能派というより典型的な「手取り」力士として目に残っている。手近にある「相撲」昭和29年秋場所号という古雑誌で確かめると、身長5尺6寸8分、体重24貫400とあるから、170センチに92キロ、と言ったところか。当時としても小兵だが珍しいというほどでもない。今ならちょっと体格のいい若者にいくらもいるだろう。若葉山は小結が最高位だが、若隆景は地位より相撲ぶりから言って、すでに祖父まさりと言っていい。

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相撲解説の北の富士氏が、NHKの放送文化賞を受賞したという話になって、授賞式で同じく受賞した北大路欣也氏から挨拶され、むかし話を交わしたという佳話があった。昭和33年というから、北の富士は入門間もなくで横綱千代の山の付け人、北大路氏はデビュー間もない(たぶん)まだ中学生であろう。(折から時代劇チャンネルでデビュー作の「父子鷹」が放映になった。歌舞伎でやる真山青果の『天保遊侠録』と同じ題材の、当時読売新聞に連載された子母澤寛の傑作小説の映画化で、私にとっても懐かしの逸品である。)相撲に関心があるので支度部屋を見学したいという申し出を、協会でも特別に計らった、というのであったか。「ああ、これが市川右太衛門の息子か」と思って見ていたという北の富士氏の思い出話がよきものであった。

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その「父子鷹」だが、この言葉は以後、広く世間一般でも「この父にしてこの子あり」という意味で使われるようになった。とりわけ、現・巨人監督の原辰徳氏が高校野球のスターとして売り出したとき、父親が東海大相模の野球部の名監督として著名であったというところから、この「父子鷹」が流行語のように広まったことがあった。まあ、それはそれとして結構ではあるけれども、原作者の子母澤寛がこの言葉に籠めた意図は、逆に薄れ、忘れられてしまうことになった。「父子」の「子」の方は後の勝海舟だから金箔付きの「鷹」に違いないが、この作の主人公である父親の勝小吉は、生涯無役の幕臣で,放蕩無頼の一生を送った人物である。それにもかかわらず、その人となりその生き様(という言葉は、こういう場合にこそ使うべきであろう。間違っても「恩師○○教授の生きざま」などと同窓会雑誌などに書くべき言葉ではない)によって、これもまた天晴れ一個の「鷹」であったというのが真意であったはずだった。つまりそこに、人生の機微や、人の世の哀歓やら、さまざまなものが潜んでいるわけだが、父も子もどちらも凄い、というのではストレートで面白くも何ともない。

随談第639回 遅なわりしは不調法

月末月鼻に締切りその他が重なって、今回は大幅遅れとなった。遅なわりしは不調法、お許しを願います。

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久しぶりに歌舞伎座の三階席から魁春の八重垣姫を見た。新開場前に下見をさせてもらった折に三階まで上がって坐ってみたことはあるが、新しい歌舞伎座で正規の舞台を三階から見るのは初めてだ。やはり、いい。最前列は空きがなかったので、花道の出入りを真正面から見る二列目。かつては前の歌舞伎座でよく見ていた席だ。(もっとも、厳密にいえば前の歌舞伎座は三階席最前列と三階ロビーの床が同じ平面だったが、新しい歌舞伎座の三階席は、ロビーから場内に入り、最前列へは六列分階段を下りるようになっているのが、以前の三階席の空間とちょっと勝手が違うが。)

三階席から見る良さは、額縁舞台のフレームが視野の中にきちんと入ることだ。フレームの中に大道具の全容がはまり、人物の配置があり、舞台の寸法というものが、一望の視野の中に納まる。これが肝要である。一階の舞台に近い席が上席とされるのは役者を間近に見られる臨場感ゆえだろうが、それも確かにいいには違いないが、そればかりが能ではない。殊に踊りなどは、あまり真近から見るよりある程度距離を取った方が、全身の動きの均衡と共にテンポやリズムが良くわかる。オペラグラスというのは、ほんの何秒間か顔を見れば充分なので、踊りの面白さというものは減殺されてしまう。今回の『十種香』のような芝居も、舞台中央の勝頼と、上手下手の八重垣姫と濡衣の配置の妙趣が三階からだとじつによくわかる。下手の濡衣は、死んだ偽の勝頼を思いつつ、眼前に蓑作が勝頼となって現れた姿に幻覚を見、上手の姫は、絵姿に見ていた勝頼そのままの男を目前にして幻覚を見る、という作意の趣向が、三階席に座ってみると実に的確に一望できるのが新鮮であった。

魁春の八重垣姫はやはりいい。これでこそ丸本時代物の姫である。孝太郎の濡衣も現在の最適任者だろうし、門之助の勝頼だって、不足に感じるものがあるとしたら、いまにして初役という外的条件がそう思わせるのであって、あれでもう何度か場数を重ね(る機会を与えられ)さえすれば解決されることである。錦之助の謙信もブラヴォーだ。つくづく思うに、こういうクラスの顔ぶれで打つ機会が当今ほとんどなくなってしまったことで、今回の「十種香」はコロナ禍のもたらした思わぬ一得かも知れない。

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文楽は3部制で夜8時までに終らせようというので何と10時半始まりである。入れ替えの時間も随分寸が詰まったから、『先代萩』の「竹の間」「御殿」と『菅原』の「寺入り・寺子屋」、『冥途の飛脚』を「淡路町・封印切・道行相合いかご
とみっちり聞くと耐久レースの感もある。間に挟まっての『曲輪?』がオアシス効果を発揮するが、しかし文楽というのはこうして耐久レース張りの苦行をへとへとになりながら聞くものであるともいえる。
『御殿』の「前」を弾く鶴澤清治文化功労者顕彰記念と謳ってある。私が知ったころは十代の生意気盛りでいろいろ物議を醸すようなこともあったのを思い出すが、長老の風格を備えるようになったいまでも、その風貌は、おそらく、激しい物は失っていないに違いないと感じさせる。

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オリムピック開催予定を間近にして舌禍のために退いたM氏というと思い出すのが、氏がまだ中堅議員であった頃、国会議員野球大会というのを言い出し兵衛となって実施したことがあった。当時公明党の古参の議員で、元東急フライヤーズの名投手だった白木義一郎氏がいたが、白木投手といえども怖るるに足らずと言って、見事、左前安打を放ったという記事を読んだのを覚えている。まあ、白木議員の方が年齢も当選回数もはるか上だったとはいえ、プロ野球史に名を残すほどの名投手だった人物からヒットを打ったのだから自慢するだけの価値はあったというものだろう。

白木投手はその盛りの頃をこちらは小学生で何度も見ている。子供心にも印象的な選手で、顎の長いので一度見れば覚えてしまう上、相手打者がピッチャーゴロを打つと矢のような球をキャッチャーに投げ、捕手からファーストに転送してアウトにするという人を食ったプレイで面白がらせた。奇人という意味では十指に入る選手だった。たしか連続イニング無四球記録というのの記録を持っていたほどコントロールのいい投手として知られたが、その記録を破ったというので名を挙げた安田猛の訃報がついこのほどあった。一昨年の夏、その折にも書いたヤクルトOB戦にも出ていたのがいい見納めとなったわけだ。

しかし訃報と言えば、テニスの宮城淳の名を見た時は、ああ、と目の前で大きく動く時の流れを見るような思いだった。野球に比べれば、私はテニスへの興味も知識もほんの指先ほどしか持ち合わせないが、姉の宮城黎子とか、ダブルスの相棒だった加茂公成とかいう名前と共に蘇ってくる時代の光景には格別のものがある。昭和30年前後という時代と、私自身のイニシエーションとしての季節とが重なり合って、さまざまな記憶を呼び起こすからだろう。

田園調布の駅を東横線の電車が発車すると間もなく、丘の上の教会の反対側の眼下に田園コロシウムというテニスのスタジアムがあって、昭和30年代、ここで毎年デヴィスカップの東洋ゾーンの試合が行われた。宮城を筆頭とする日本選手の前にクリシュナンと言ったっけ、宮城の倍もありそうなインドの選手が文字通り壁のように立ちはだかって、テレビで見ていても、なかなか突破することが出来そうになかった。

と、ここまで書いたところで、三宅秀史の名前が出た。そのいかにも玄人好みのする名手ぶりのことは私がここに書くまでもなく、蘊蓄を傾ける方々が大勢いるであろうから私の出る幕などはないが、練習中のボールが目に当るという選手生命を絶たれる不祥事で信州だったかのどこかで再起のためのトレーニングをしていた頃、横綱の柏戸も肩に再起不能かと言われた大怪我をして、そのトレーニング先で三宅と出会い、励ましあっていたという記事を当時読んだことがあった。宮城89歳、三宅86歳との由。

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もう一人、本当は昨年暮れの内に書くべきだったが講談の一柳斎貞水のことも書き忘れっぱなしというわけには行かない。今の人たちがどうのという意味ではなく、最後の人だったという感が深い。この人とはひとつ思い出があって(もっとも、あちらは疾うに忘れたまま逝ってしまったに違いないが)、数年前、国立劇場で歌舞伎と文楽と双方で『伊賀越道中双六』を出したときの企画の一環として、貞水師とペリー荻野氏と小劇場の舞台上で鼎談をしたことがあったが、こういう時の常として、本番よりも事前の楽屋での雑談の方が面白い。どういう脈絡でだったか話題が映画の荒木又右衛門のことになり、貞水師が、大友柳太朗という人が戦後カムバックしてまだ敵役めいた役をしていた頃がいいと思った、と言ったのが、さすが目の付け所がお見事と深く頷いたことがある。

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東急フライヤーズつながりの話題。朝ドラ「エール」で知らぬ人のなくなった古関裕而氏が東急フライヤーズの応援歌を作曲していたという噂はあったが、その楽譜が発見されたという記事が載った。昭和25年というから二リーグ制発足の年である。おそらくそれが契機となったのだろう。まさに白木義一郎全盛の時代である。タイガースの「六甲おろし」が夙に戦前に出来ていたのは驚くべき例外で、当時エースの若林投手の働きかけがあったと何かで見た覚えがあるが、東急フライヤーズの場合にせよ、前にも書いたがまだ組織的な応援団などなかった時代である。これはプロ野球史にとっても、社会世相史としても、ささやかだがしかし意義のあるニュースであろう。

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という次第で、前回、予告めいたことを書いたのはそのまま、次回送りとさせていただきたい。悪しからずご了承をお願い申し上げます。