随談第636回 坂田藤十郎をめぐる不要不急の話

坂田藤十郎が亡くなった。昭和6年の大晦日の生まれということは前々から知っていたが、いつの間にか現役最年長となっていたことには今度改めて思い至った。芝翫・富十郎といった、昭和ひと桁でも5年より前の生まれの世代は、この二人の大物がちょうど歌舞伎座の建替えの間に相次いで逝ったのを最後にいなくなっていた。この世代は、戦後間もなくのまだ世の中が定まらない時期に世に出た人達で、歌舞伎界に限らず、映画界などでも取り分け女優にはこれといったスターは見当たらない。個々には懐かしい存在もあるのだが、「個性派」だの「清純派」などと体よくひとからげにされてしまいがちで、何かと損の卦があるように見える。(同じ昭和ひと桁でも6年以降だと、山本富士子だ有馬稲子だ岸恵子だと続々出てくる。登場するのが、やはり独立回復後の社会の安定というところが大きいのだろう。)

戦後の歌舞伎に最初に出てきた若手花形といえば、先代門之助の松蔦と岩井半四郎、それから大川橋蔵といった、みな昭和ひと桁前半の生まれの人たちで、歌舞伎俳優としてはどこか薄幸な翳がついて回った。芝翫はまだ福助で、秀才として認知されていたが三日月のようなしゃくれ顔が寂しげだった。それから、のちに4代目時蔵になった芝雀がいた。芝雀というと、ああ、あの綺麗な人、と時蔵になって亡くなった後まで、かなり長い間、歌舞伎にあまり詳しくない人の歌舞伎に関するわずかな知識の内に入っていたぐらい、その美貌は知られていた。

と、しばらくあって、まだ健在だった関西歌舞伎で「扇鶴」として売り出したのが扇雀の藤十郎と鶴之助の富十郎だが、まだ国鉄最速の特急「つばめ」か「はと」で東京大阪6時間、普通急行だと朝立って着くのは夕方という時代だから、尋常普通の暮らしをしている一般の歌舞伎ファンが東京からわざわざ見に行くということは考え及ばぬことだった。(当時「日曜娯楽版」というNHKラジオの人気番組があって三木鶏郎(トリロウと読ませた)という才人が、このつばめ号に当て込んで「僕は特急の機関士で」という歌を流行らせたことがあって、われわれ当時の小学生はみな歌ったものだ。「ボクは特急の機関士で、可愛い娘は駅ごとに、いるけど3分停車では、キスする暇さえありません」といった歌詞が戦後版鉄道唱歌のように延々と続くのだった。さらについでだが、昭和25年にプロ野球が二リーグ制になると同時に発足した「国鉄スワローズ」はこの「特急つばめ号」が命名の由来で、「ヤクルト」などという飲み物はまだ誰も知らなかった。

当時、家庭の主婦向けの雑誌として『主婦の友』と『主婦と生活』というのが二大雑誌で、そのどっちだったか、見開き2ページのグラビアに縦割りにして4人の花形役者の素顔を並べたのがあって、うろ覚えだがたしかスーツ姿の橋蔵、鶴之助に松蔦だったか、という中にはっきり覚えているのが、カーデガン姿で野球のグローブを頭上に振りかぶったポーズで写っている扇雀だった。女方にそういうポーズを取らせたのがミソだったのだろうが、これが私にとっての扇雀初見参である。藤十郎というと武智歌舞伎と判で押したように言うことになっているが、元々の武智歌舞伎というのは研究公演だから実際に見た人の数は関西人でも寥寥たるものだった筈で、先ごろ亡くなった堂本正樹さんのような人でもなければ、その存在を知って東京から見に行った人というのはいなかったろう。後に、普通の興行に「武智歌舞伎」とか「武智鉄二プロデュース」といった看板をつけた舞台は何度かあったが、それよりむしろ、昭和50年代のある盛夏の一日、歌舞伎座で武智氏を祝うという趣旨の会があって、歌右衛門をはじめ超豪華メンバーで谷崎の『恐怖時代』をしたりしたのが忘れ難い中に、延若が『俊寛』をしたのが、かつての武智歌舞伎の純粋な演出だということだった。冒頭、俊寛のあばら家へ訪ねてくる成経や康頼が崖を伝って下りてくるとか、前進座で売り物にしていた翫右衛門のと一脈通じるところがあった。武智歌舞伎はもともと、戦後の関西歌舞伎の若手連中を鍛え直そうというのが趣旨だったらしいから、延二郎だった延若も最年長メンバーとして一員だったのだ。あの時の延二郎の俊寛を見せたかったと武智氏はかねがね言っていたようだから、この時のがその機会だったのだろう。

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東京の歌舞伎好きがはじめて扇雀を見たのは、昭和28年の夏、父の鴈治郎と一緒に上京して新橋演舞場に出た時で、『曽根崎心中』を東京人が見たのもこの時が初めてだったはずだ。まだ築地川が流れていたので舟乗り込みをしたのはいいが既にヘドロだらけのどぶ川と化していたから、扇雀が「お父さん、臭い臭い」とぼやいたという話は、新聞で読んだのだったか? 一躍、扇雀ブームなるものが沸き上がったが、とにかくこのブームは大変なもので、私の知る限り、後に玉三郎が「出現」したときと、今の海老蔵の時と共に、歌舞伎のスター誕生が生んだ三大ブームだったと思う。私にとっての「坂田藤十郎」の原風景もここにある。「扇雀飴」という飴が売り出されて(これはブームが去った後までも店に並んでいた)、折から民放のラジオが次々と誕生した頃で、どこの局だったか、その「扇雀飴」の提供で幸四郎の弁慶に扇雀の義経という配役で『弁慶』という放送劇(「ラジオドラマ
とはまだ言わなかった)があった。ブームの渦中の扇雀の義経に、歌舞伎の弁慶役者の幸四郎の顔合せというわけだったろう。もちろんこの幸四郎は、初代白鸚になった八代目である。(富田常雄の小説のドラマ化のこの『弁慶』は、ずっと後、今の吉右衛門がテレビでやっていたのをいま思い出した。)

放送劇の義経といえば、同じころ、岩井半四郎がNHKで『源義経』を確か1年も続けたのを毎回聴いていた。(こちらは村上元三が朝日新聞に連載したのが原作だから、後にテレビの大河ドラマが始まって4作目ぐらいの、今の菊五郎がしたのと同じものである。この間、ほぼ10年だ。)ことほど左様に、一般にも名が売れていたという意味でなら半四郎は当時一番の花形だった。ほぼ同じころ、ある民放局で『雪之丞変化』を半四郎の雪之丞に、語り手と怪盗闇太郎を8代目中車がつとめるという配役で始めたのが、面白いの何の、我が家では毎週欠かさず家中で聴いたものだった。中車はそれより前、吉川英治の『宮本武蔵』を徳川夢声と競演していて、こちらも知名度抜群だった。(ついでだが、芦田伸介が門倉平馬で出ていたのが、私が芦田を知ったはじめだった。)

閑話休題。で、その半四郎と扇雀が、間もなくアーニーパイル劇場がGHQから返還となって東京宝塚劇場として東宝が演劇界に乗り出してくると、その波に巻き込まれることになる。扇雀にとってはこれが、以後の知名度を決定的なものにした一大飛躍の踏切版で、第一回の東宝歌舞伎で、歌右衛門・勘三郎・長谷川一夫と同格の扱いをされたり、ここから以降のことはよく知られている。小学校時代同級だった女姓が、扇雀扇雀と騒いでいるという噂を耳にした。一方半四郎にとっては、これがのちに大きく響く躓きとなるという、暗転のきっかけとなったと言われるが、こっちはまだ半大人の中学生だったからそんな難しい機微に触れるようなことは知らなかった。扇雀は映画でも活躍を始め(それが、あの結婚につながるわけだが。まったく、お雛様を並べたような新郎新婦だった)、『女殺油地獄』という名画を作ったりもしたが、しかし一介の中学生としては、それより『人斬り彦斎』などというたぐいの映画の方が覚えている。幕末のテロリストを白塗りのお小姓風俗のようにやるのだから、『恐怖時代』の映画版のようなものだ。父の鴈治郎も「映画俳優宣言」をして大映専属の俳優になるという、この頃のことは、ずっとのちに『一生青春』などの本であけすけに語っている。

長谷川一夫との東宝歌舞伎が恒例となってその後永く何年も続くが、松竹の大歌舞伎にも出るようになったのは30年代も末になったころで、その頃から、歌舞伎俳優中村扇雀の姿が私の視野にはっきりと入ってくる。昭和38年9月の歌舞伎座の「松緑奮闘公演」と銘打った興行は、松緑が『千本桜』を権太の筋を除いた半通しで出して知盛と忠信をした思い出深い公演だが、そこで静をしたのが目の覚めるような印象だったのが、本当の意味での私にとっての「藤十郎事始め」だったと言える。日生劇場が開場したのが同じその年の10月で(このときが初来日のカール・ベームのベルリン・フィルがこけら落とし公演だった)、翌年の正月から猿之助、竹之丞(つまり富十郎)、訥升の9代目宗十郎に(まだ田之助でなく)扇雀で日生歌舞伎がはじまり、ここで猿之助が『冥途の飛脚』の忠兵衛で羽織落としをしたりしたが、扇雀では『天守物語』と『博多小女郎浪枕』で宗七をしたのを覚えている。(たしかこれが武智鉄二プロデュースとあった最初ではなかったかしらん。)

昭和40~50年代ごろから、つまり今の菊五郎らの三之助の台頭とともに、その親たちとの中間層が「谷間の世代」とよばれるようになった。誰それとはっきり決まっていたわけではないが、概ね大正末から昭和ひと桁、10年代の初めごろまでの生まれの面々、最終の名前でいうと、延若、雀右衛門、芝翫、富十郎、門之助、宗十郎、田之助などに、猿之助も数えられることがあったが、扇雀も数の内に入った。この人たちを集めた公演が時々(忘れた頃に!)行われたが、延若・雀右衛門の『時雨の炬燵』や宗十郎の『傾城道成寺』、延若の上野、雀右衛門の初花、猿之助の勝五郎、富十郎の筆助で『躄の仇討』などという傑作秀作もあったし、大宅壮一原作で延若が乃木将軍になる『炎は流れる』などという懐かしの珍品も見た。(羽左衛門が明治天皇で特別出演し、テレビの番組で、『明治天皇と日露大戦争』という一世を風靡した映画で明治帝を演じて評判だった嵐寛寿郎と対談したのを見たことがある。)川口松太郎作『寒紅梅』というのもあった。これは長いこと結婚するしないの状態が続いていた猿之助と浜木綿子が遂に結ばれることになったのを祝って、二人を共演させるために作った作品で、夜の追い出しだった。この年の暮れ愛児が誕生する。誰のことかは言わずもがな。こうした状況の中から、猿之助は50年代に入ると、例年4月は明治座(まだ前の建物である)を本拠に復活物を次々と手がけ(かの『伊達の十役』がその中の最大の当り狂言である)、その少し前から毎年7月の歌舞伎座をわがものとし(これは病いで倒れるまで続いた)、さらにスーパー歌舞伎を始めるなど、幾つもの路線を確立して、谷間の世代グループから抜け出し、また扇雀も、近松座を始めるなど「藤十郎への道」を驚くべき長大な展望を以って歩み始め、これもいつしか谷間の世代の色を薄れさせた。

と、この辺までくれば、あとはみなさんご存知の話ばかりになる。代表作は何か、というより、一番充実感を感じさせたのは、三代目鴈治郎を期間限定で名乗っていた、前世紀末から今世紀初頭にかけてのほぼ10年余で、つまり『一生青春』を出版したころではなかったろうか。心技体揃ったあの頃は、何をさせても凄かった。

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藤十郎以外にも訃報があった。尾上菊十郎、この人も昭和ひと桁生まれだ。前名をたしか尾上梅五郎といって、『高時』の終幕に登場して高時を翻弄する烏天狗をしていた時に目に留まったのが、その存在を認識したはじめだった。さっきちょっと書いた、菊五郎が若き日に主演した大河ドラマの『源義経』で、奥州を指して落ちてゆく義経一行を追捕しようとする追手の役で出ていたのを覚えている。(と、『演劇界』の最近号で、菊五郎が菊十郎を追悼する思い出話の中に、この役のことに触れているのを読んで、オオ、と思わず声に出た。)『暗闇の丑松』の湯屋番とか『髪結新三』の鰹売りのことは皆さんご承知とは言え、私の見た内ではやっぱりこの人のが一番、けざやかに記憶に残っている。

新派の小泉まち子さん。こういう人たちが健在であるうちは、新派はその存在を自信を持って主張することができるという、そういう一人だった。

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野球では訃報ではなく、馴染みの選手の引退が毎年この季節に出ると、一瞬、フームとため息が漏れる。藤川球児、岩隈久志、五十嵐亮太。ソフトバンクの内川は現役続行の意思と新聞で読んだが・・・。岩隈の引退で旧・近鉄の残党は現在ヤクルトの坂口と近藤の二人となった。その近藤は戦力外を通告されたというが・・・

琴奨菊。相撲取りらしい風格がよかった。前にも書いた気がするが、本当は少し先輩なのだが栃錦などと同時期に大関だった三根山という力士がいた。便々たる太鼓腹(と、昔のアナンサーはよく言ったものだ)、がぶり寄り、非力、大関から下がっても悪びれず長く相撲を取ったこと、等々々、琴奨菊と重なり合うところの多い力士だった。優勝が何回とか、連勝がどうとかではなく、こうした存在も名大関というべきだろう。

そうだ、把瑠都も引退したのだなあ…。最近はむしろ外人力士の方に、相撲取りらしい風格・風情を覚えることがよくある。気質、気っ風、気は優しくて力持ちという感覚。これも時代か・・・、近頃の、特に大学出の力士の物の言い様の尤もらしいこと。

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朝ドラ『エール』が終わったが,モデルの古関裕而への興味から最後まで見てしまった。ところで前にも何回か、駄目出しめいたことを書いたが、実際に自分が知っている「近過去」を舞台にするドラマにはどうしても、何じゃコリャ、と言いたくなることが目に付いてしまう。まあ、やむを得ないかと思えることと、もう少し注意すれば何とかなる筈と気になることとがある。最終週、JOCか何かの使者が主人公宅へオリンピックの開会式の入場行進曲の作曲を依頼に来た場面で、スーツに身を固めた使者3人が3人とも、(その1)帽子をかぶったまま玄関に入っている。他人の家に入る際は(まして、重要なことを依頼に来たのならなおのこと)、玄関先で帽子を脱いでから入るのが礼儀である。帽子をかぶったまま他人の家の中へずかずか入るのは、戦前の特高の刑事ぐらいなものだろう。(その2)しかもそのかぶり方が、3人が3人とも、阿弥陀にかぶっている。一杯機嫌で、よほど気を許した相手の前でもなければしないことで、ましてこんな場でする筈がない。他にも、長髪の軍人とか、今風の髪型の放送局のスタッフとか、挙げ出せば切りがないが、昭和30年代はもはや時代劇同様、時代考証が必要なのだろう。とすると、こんな繰り言を言うテメエはもはや時代劇時代の人間ということか。

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最後にお知らせをひとつ。近日、別枠で『眼中の役者たち(抄)』という文章を掲載することにします。歌舞伎を見るようになった昭和30年代以降、私の見た、文字通り「眼中」にいまも生きている役者たちを回想するエッセイ集です。本にしたいと思って書き始めたものですが、このご時世、棒ほど願って針ほど叶えるのも難しく、それならいっそと、かくなることとなったものです。ご愛読を賜れば幸いです。

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随談第635回 簡略版御免

月末に至って小忙しいことが重なったので、今回はごく簡略版(簡潔版?)とさせていただくことにしたい。

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国立劇場の歌舞伎は毎年10月が新年度スタートのようなものだから、今月の大歌舞伎は理屈から言えば「再開」というわけではないが、まあ、コロナ騒動以後初という意味で、再開のような気分だ。古典一本に小品がついて一部二演目で二部制、幕間があるわけだがそういうことができるのも、あの広いロビーがあればこそだろう。国立ならではの一得か。

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昨今の世の中の空気が何やらゆるんできている中で、歌舞伎座の一部一演目というやり方についていろいろな声を聞くが、世の中がゆるんできたのは政治的判断やら一般のコロナ疲れやら、人間の側の事情や都合によるもので、コロナそのものの客観情勢はじつは何も変わっているわけではない以上、固くこの方式を守り続けているのもまた、一見識というものだろう。正解は神ならぬ身の誰にもわからない。

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先月の『双蝶々・角力場』で濡髪・放駒の一番が終わった後、木戸口から一人も観客が出てこなかったのは、あの場所は無観客の興行だったに相違ない。察するに原因はコロリの流行か?

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コロナに対するスタンスは国立劇場の方が歌舞伎座よりもゆるい。新国立は更にゆるい。これは如何なる儀にや、事のついでに問い申さむ、か?

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百年前のスペイン風邪は、最も猛威を振るったのは秋からの第二波であったそうな。島村抱月が感染して死んだのは11月、松井須磨子の後追い自殺は明けて正月早々のことだった。

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縁起でもない話をしてしまった。くわばらくわばら。(と言って、イマドキの方々にもおわかりいただけるだろうか?) 

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というわけでもないが、今回はこれでおしまいにさせていただきます。次回以降、またご愛読願えれば感謝します

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