随談第630回 不要不急の話ばかり

まず前回分の訂正から。訃報のところで、小林旭氏を亡くなったように書いてしまった。新聞の青山京子さん死去の記事に喪主は夫の小林旭氏とあったところから、ああ、めでたく添い遂げたんだと知ったうれしい思いが、時の経つうちに、梅宮辰夫氏死去の報などとも絡み合い、反転して錯覚を生じた結果、旭氏にはまことに失礼なことをしてしまった。氏はもちろん健在である。深くお詫びの上、謹んで訂正させていただく次第、これは今回のタイトルの不要不急の話とは別とご理解いただければ幸いである。

梅宮氏については、まだああいうキャラで当たりを取る前、『人生劇場』で青成瓢吉の初々しい青年ぶりがじつに爽やかであったのが忘れ難い。(月形龍之介の吉良常もよかったなあ。他の人のやる吉良常を見ると偽物のような気がするほどだ。)

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テレビをつければコロナコロナで、本来なら今頃は海老蔵の團十郎白猿襲名興行の第一月の最中の筈だが、7月まで向こう三ヵ月の予定が中止と決まって以後、公演その他についての発表・報道がぱったり途絶えている。「音沙汰」という言葉が、何とも言い得て妙であると、妙なところで感心する。

襲名を祝う会という集まりの通知が舞い込んだのがたしか1月末、会は3月末とのことだった。その時はまだ当たり前のことと受け取った。同じ3月末の、白猿襲名を祝う会より二日先んじて堂本正樹氏を偲ぶ会を開催という通知が来たのがほぼ一月余後の3月初旬、この頃にはもう、小・中・高の学校閉鎖が発令、マスクとトイレットペーパー不足のニュースがかまびすしいという事態になっていたから、こんな時にこりゃどうしたものじゃと不審に思う間もなく、團十郎白猿の会、堂本氏の会、いずれも中止・延期を知らせる葉書が相次いで届いた。三月興行の初日が延期、また延期を繰り返していたさなかだった。しかしこれも、いま思えば、刻々と「音沙汰」があったというだけでも、まだしも「活気」があったという言い方もできるというものだ。

歌舞伎座と国立劇場で無観客の中で演じられた三月公演の映像が、YouTube配信されたのは、舞台ぶりも素敵によかったが、各優・各関係者の思いと心意気が惻々と伝わってくるものがあった。明治座の出演者一同による「一本刀土俵入り」の座談会の映像配信もなかなか乙だった。これらが4月の出来事。その4月の舞台は夙に中止と決まっていたから、載せるべき写真も記事も種を失った『演劇界』が通常の刊行をやめて、6月7月合併号を5月末に刊行しますと伝えてきたのが4月末、その間に5・6・7月に予定の團十郎白猿襲名興行の中止も決まり、ここまでで、歌舞伎に関する発表・報道・連絡はぱったりと絶えた。つまり「音沙汰」がなくなった。

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大相撲は三月場所は無観客で決行、Jリーグも当初の数試合決行したが、以後はプロ・アマを問わず各競技一切なし、やっているのは競馬だけということとなった。競馬は馬券を居ながらにして買えるから無観客でも成り立つわけだ。(我々だって観客がいないと走りにくいや、と馬は思っているかもしれないが。)各種スポーツも無観客でやってやれないことはないが、舞台というものはそうはいかない、というところが最大のネックになる。特に歌舞伎は。(無観客の舞台でやる助六の股くぐりの場面というものを想像してみてください。)

それで思い出したのは大正の昔、浜村米蔵という劇評家が(この人は戦後も昭和50年ごろまで現役で活躍していたが)、理想の歌舞伎劇場というのを提唱したことがあった。要するに、理想的な歌舞伎上演のためにはまず演目を厳選、きちんとした上演台本を作り、役者も型など正当なものを研究して演じる、舞台と客席も然るべき規模にする、入場料も心ある観客が負担できる適正な価格にする、当然大観衆を集めることは期待してはならないから運営(経営ではない)は理解ある有志に応分の資金を提供してもらって行う、ミーちゃんハーちゃん(という言葉も、そういえばこの頃聞かなくなった。もはや絶滅したか? まあね、こんな「上から目線」丸出しのような言葉はなくなって当然か、な?)がワーワー押しかけるのを避けるために劇場は繁華の地ではなく都塵を離れた場所に建てる、云々というもので、これを洒落でも冗談でもなく大真面目に論じたのだった。つまりこの人は、「理想の歌舞伎」を実現するためには「理想の観客」が不可欠と考えたわけだが、この論法を押し進めてゆくと、もしかすると「理想の劇場」というのは結局「無観客の劇場」ということになるのかもしれない。(それにしても、仮に私が入場を認めてもらえたとして、こういう劇場で助六の股くぐりの場など、どういう顔をして見ればいいのだろうか? 大向こうの掛け声も禁じる、という条項もたしか入っていたはずである。)

もっともスポーツだって、プロスポーツは興行だから観客なしでは立ち行かないが、学生スポーツは本来、母校の応援団以外には観客を前提としないものであったはずで、甲子園の春の選抜・夏の全国大会を何故春休みと夏休みにやるのかといえば、斯様なものは「学業の余暇」にすべきものというのが前提であったからである。六大学野球リーグ戦が土曜と日曜の午後にするのも同じく「学業の余暇」にするものであったからで、夏の甲子園は酷暑のさなかにするより初夏か秋の気候温暖の時期にするべきだ、などという当節ノ識者共ハ一体何ヲ考エトルノカ、ソモソモ、ベンキョウハ何時ヤルノダ!と設立者たちが聞いたら言うかもしれない。(それはそれとしてだが、夏の大会は地方予選を公平に実施するのは土台無理であろうから中止はやむを得ないが、春の選抜は、無観客、但し母校の応援団のみ人数を限り、ソーシャルだかフィジカルだかのディスタンシングを確実にすれば、まだ3月の段階だったら開催不可能ではなかったろう。)

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逆の現象もある。かつては、両親やおじいちゃんおばあちゃん、近所のおじさんおばさんも応援に来られるようにと、日曜日にするのが当たり前だった小学校の運動会が、この頃は平日にするようになっているらしい。もっともこれは、どうやら先生の方の都合らしいが。

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さっき書いた、『演劇界』が6月・7月合併号を出すというのを聞いて、一種懐かしいような思いに襲われた。終戦間もない紙不足の時代、各種の雑誌がよく二か月分をまとめて合併号を出したものだった。『ベースボールマガジン』なども、プロ野球は冬のシーズンオフになるとどうせ書くネタがあまりないから、2月・3月合併号などとのを出した。粗末な紙に小さな活字で5段組み総ページ50頁もないようなぺらぺらの合併号を見ると、子供心にも情ないような気がしたものだ。

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大相撲の勝武士(ショウブシ、と読むのだそうだ)という三段目の力士がコロナの犠牲者になったのがかなり大きなニュ-スとして民放各局のワイドショーの取り上げるところとなったが、司会者がしきりに「力士さん」と言っているのが耳につく。ワイドショーの司会者というその道のプロ連中にこの不可思議な言い方が不可思議とも感じられなくなっているという現実に、改めて釈然としない思いでいたところ、しばらく前からコロナ問題に関する論客としてテレビでよく見かけるようになっていた宇都宮の病院のお医者さん(これだって、「お医者さん」であって「医師さん」ではないよね)が、「若いお相撲さんが・・・」と言っているのを聞いて何やらほっとした。そういえばこのお医者さんは、コロナ問題についても傾聴に値する発言をする人とお見受けしている。

「お医者さん」「お相撲さん」「お巡りさん」。親しみと敬意とが渾然としたいい言葉ではないか。誰が言い出したのでもなく、おのずと民間から生まれた詞であり、語感といい語呂といい、音調といい、言葉としてよく慣れている。(この「慣れている」という「慣れ」は、たとえば「馴れ鮨」などという「慣れ」である、念のため。)「医師さん」「力士さん」「警官さん」では、そもそも言葉として体をなさない。(昔は「兵隊さん」というのもあって、「鉄砲かついだ兵隊さん・・・」という国民学校唱歌があったっけ。もちろん私は戦後の小学校の入学生だが、兄姉の世代の習った歌として耳についている。戦後も昭和30~40年代頃までに出た『カルメン』の翻訳では訳者の如何を問わず、カルメンが初対面のドン・ホセにむかって「兵隊さん」と呼んでいたものだった。これも「兵士さん」ではサマにならない。)力士を相撲取り、警官をお巡り、歌手を歌うたい、サラリーマンを月給取り(変換したら「月給鳥」と出てきた! これも言い得て妙か)という風に動詞の連用形止めにした言い方は、いわゆる上から目線の蔑視も感じられるが(かつては掏摸を「巾着切り」といったが、これはさすがに時代劇以外では使われなくなったのは、紙幣の流通と共に財布の形態が変わったからであろう)、しかしそうした「反面」も含めて、こうした言葉の語感の自然さは、日本人一般が自然に体得していた日常語(SPOKENつまり日常茶飯の「口語」、即ち「世話」のことば)の中に泥んでいるからだろう。

テレビという媒体でワイドショーなる「しゃべくり番組」の司会者という、しゃべくりのプロたちが「お相撲さん」より「力士さん」という言い方の方が自然に出てくるのは(相撲というものが以前ほど馴染みがなくなったということもひとつにはあるだろうが、それ以上に)テレビ言葉に代表される「現代日本語口語」即ちSPOKEN JAPANESEというものが、本来ならWRITTEN JAPANESEに属していたはずの言葉・用語を大量に含みこむようになったせいだろう。私は、この「現代日本語口語」に大変化が生じた分水嶺を昭和40~50年代と推定しているのだが、そのころ、新聞の投稿欄でこういうのを読んだのを覚えている。五十代ぐらいの「大学教員」と肩書のついた人の投稿で、大学生の甥と小旅行をしたとき、たまたま泊った宿屋の洗面所の水道が出ない。「オヤ、故障かな?」とその人が言うと、くだんの甥が「いや、これは構造上の欠陥だ」と応じたというのだった。折から大学紛争たけなわで難解な用語が飛び交っていた頃である。まあ、「故障」だって本来はSPOKENではないだろうが、その程度の「新語」を日常語の中に取り込んでゆくのは時勢に対応した「変化」の内だろうが、たかが水道の蛇口をひねっても水が出ないぐらいのことを「構造上の欠陥」という物々しい言い方を当然のように使うのは、「変化」などというものではなく、それこそ現代日本語の「構造上の変質」というべき事態であろう。昭和40年代の大学生は、健在なら今頃はたぶん「前期高齢者」になっているであろうから、今日のワイドショー司会者諸氏はまだ生まれてもいなかったに違いない。こんなことを言っても、エッ、どうしていけないんですか?とキョトンとされるのがオチであろう。いまは日常の会話でも「のどが渇いたから水を飲もう」というところを、「のどが渇いたから水分を補強しよう」という人が珍しくない。一杯やろうよという誘いの洒落かと思うと、ペットボトルを取り出してごくごく飲むのである。

(まだまだ言いたいことはいろいろあるが、話が理に落ちてきたようなので、この件は先ずはこの辺でお仕舞いとしよう。)

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朝ドラの『エール』が絶叫だくさんのドタバタ過剰が気に障ると前回書いたが、見ているうちに、なるほどそういうことかと心づくところがあった。進行中の話は昭和初年と思しいから、つまりざっと90年前という勘定になる。昭和ひと桁というのは、私などにとっては、叔父叔母よりもう少し若く兄姉か従兄弟の中の年長者の世代だが、おそらく現在のタレント諸氏諸嬢にとってはもはや時代劇ほどの時間的距離のある世界なわけだ。明治元年1868年から昭和元年1926年までが何とわずか58年である。(白虎隊の最後の生き残りという人物が死んだのが昭和2年と聞いたことがある。)それから2020年の現代までの方がタイムスパンははるかに長いのだ。(バンツマだのアラカンだのといった時代劇俳優たちが、幕末物のチャンバラ映画で隆盛を誇ったのも昭和初年。机竜之介や鞍馬天狗が活躍したのも同様だ。)つまり、大道具・小道具・風俗の類で当時の時代色を出すのは考証をすればある程度は可能だが、出演者の演技で(しぐさや表情やセリフの口調や言葉遣いなどで)自然にリアルに当時の人物を演じるのはどだい無理…ということを考えてのあのドタバタ演出と考えれば、あれも演出上のひとつの便法と容認できるというものだ。

(そういえば森光子が亡くなった後、『放浪記』を一度だけ、若返った配役で上演したことがあったが、その際一番どうにもならなかったのは、主役の女優の演技がどうこうより、主人公を取り巻く男たちが、演技の巧拙以前に、昭和初期(つまり「エール」とほぼ同時代であろう)の人物に見えない、時代の匂いがまるでしない、ということだった。ヒロインをとりまく男どもを演じていた山本学だの大出俊だの米倉斉加年だのといった脇役連中が、いかに森光子を助けていたかが改めて痛感されたものだった。)

ところでつい今しがた、なかなかよく調べて凝って作っているとほめたばかりの小道具だが、ひとつ大チョンボがあった。コロンビアならぬコロンブス・レコードなるレコード会社の場面で、レコードの青レーベルは西洋音楽、赤レーベルは日本の歌謡曲、というようなセリフがあって画面に青レーベルの円盤がアップになったのを見ると、「越後獅子」とレーベルに書いてあった! 小道具係のファンブルであろうが、主人公が洋楽にこだわって赤レーベルの曲が書けないという場面が場面である。野手がフライをお手玉する間に手痛い失点、というところか?

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散歩以外の外出ということがなくなったが、もともと出不精の質(たち)のせいか、することは沢山あるので時間を持て余すということが全くない。前に書いたように、滞っていた原稿を書き上げたのが三月末、少し気持ちに余裕が出来たためか書棚を見回すとまだ読んでない本、むかし読んだ切りでもう一度読みたい本が次々目に飛び込んでくる。余命がどれほどあるのかも知らぬが仏、毎日終日これにかかりきりになっても到底読み切れそうにない。ああ、こんな本があったっけ、という再発見も次々出てくる。再発見とは言っても、どれも覚えてはいるのだが、長い間に念頭から外れていたわけだ。

『鞍馬天狗』を電車の中で読み直し始めた、と書いたのは二月末、まだ緊急事態宣言は出ていなかったから車中図書館での読書だった。緊急事態宣言以後は、もっぱら午後のひと時、むかし買いそろえてあったのを次々に書棚から引き出しては埃を払って読んでいる。小説としての中身もさることながら、大佛次郎という人の文章が好きで読んでいたという面が元々強い。『天皇の世紀』とか『帰郷』とかいった知識人の読者に定評のある作よりも、『鞍馬天狗』に描かれた京の洛中洛外の情景や、隅田川界隈、新開地だった当時の横浜や鎌倉の情景を読むだけで気持ちがいい。(むかし、文庫版の『帰郷』の巻末の解説に、『鞍馬天狗』を書いた同じ作者の文章とは思われないとあったのを思い出す。この解説者は、そもそも『鞍馬天狗』など頭から読む気も、読んだこともなかったのは間違いない。)当分はまだ『鞍馬天狗』だが、書棚を眺めるたびに、次はあれだこれだというのが見つかるので、昨今話題のカミユの『ペスト』も書棚にあるのだが、いつ埃を払う番になるのかまだ分らない。その前に、もう7週間行っていない床屋にまず行くことにしよう。

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