随談第629回 落穂集

咋秋来のパソコンのトラブルに続くコロナウィルス騒動で、訃報その他、その間にメモをしておいたさまざまな話題が、書くタイミングを見失ったままになっている。時と共に鮮度が落ち、感興が薄れてしまったものもあるが、記録としても残しておきたいもの、やはり書いておきたいもの、さまざまあるので、それらをかき集めこの回は落穂集とすることにしよう。このご時世に不要不急の話ばかりで恐縮だが。

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まず訃報で、近いところからだと大林宣彦監督に志村けん氏ということになるが、この方々については皆さん疾うにご存知の以上のトリビアを持ち合わせているわけではなし、しゃしゃり出る資格はないから、慎んでご冥福を祈るに留めることにしよう。ただ、大林監督の場合はあちらの方が若干年長とは言えほぼ同世代、戦争の記憶を幼な心なりに持つものとして、抜き差しならぬものを覚えていたことだけ書いておきたい。志村氏については、ジャンケンをするときに、いつしか誰もが「最初はグー」と言って始めるようになったのが氏の発案になるものだという事実は、民俗学上、重要な事案ではあるまいか?

関根潤三。私の知る限りの野球人で一番のやさおとこである。晩年の姿は皆さんも知るとおりで、ああいうキャラだということを知ったのは引退後のことだが、体つきから、投手だった頃の投球フォームから、よくあれでプロ選手としてあれだけの活躍が出来たものと思う。チビということなら、一リーグ時代の東急フライヤーズだったかのショートの皆川とか、阪急の外野手でポケットキャッチの名手でヘソ伝という仇名の山田伝とかの方がもっと小さかったかもしれないが、やさおとこというのは、寸法よりその風情や「とりなり」が決め手となる。すなわち和事師である。法政のエースで、セ・パ二リーグ制となった第一年の昭和25年に、立教のエースだった五井と一緒に新球団の近鉄パールズに入団した。その時の『ベースボールマガジン』だったか『ホームラン』だったかのグラビアに、二人並んで振りかぶったポーズで納まった写真が載り、「昨日の敵は今日の友」とキャプションにあったのを覚えている。ずっと後に、「昨日の敵は今日の味方」という『義経千本桜』大物浦の知盛のせりふを聞いた時、あゝ、これだ、と感じ入ったが、本当のところは(当時の野球雑誌の記者の常識から推して)、文部省唱歌「水師営の会見」の乃木大将とステッセル将軍会見の歌詞から取ったものであったろう。コントロール抜群の関根と対照的に、五井の方は荒れ球で、ビーンボールという言葉を初めて知ったのはこの人についてではなかったか。こちらは関根のように選手としては長命でなく、いつのまにか消えてしまった。そういえば、晩年の関根の姿を歌舞伎座の客席に一度ならず見かけたことがある。

金田敏子と言ってもピンとこない、先に亡くなった金田正一夫人、と言ってもまだあまりピンとこないだろう。つまりもう疾うに時効となってしまった昔の話なわけだが、この人は金田にとっては二人目の夫人で、先の夫人は芸名を榎本美佐江と言って、日本調の歌手(という言い方を当時はよくしたものだった。つまり、日本髪で(鬘だろうが)芸者のお座敷姿のようななりで和洋合奏のバンドで、いまなら演歌に分類をされるであろう、和風のムードの歌を歌う流行歌手、と、現代の人に説明しようとするとずいぶん手間をかける必要がある)として、人気も実力もあった人で、良き姉さん女房だったのだが、まあ、いろいろあった末、美佐江さんが気の毒なことになって事が終わったのだったが、当時はかなり世を騒がせた一件だった。しかし私が今回訃報を知って、ああと思ったのは、そのことの故ではない。それより前、芸名を雅章子といって、宝塚から映画に出て姐御役でちっとは鳴らした姿に思い出があるからだ。当時は、宝塚映画製作東宝配給、と謳った時代劇映画がよくあったが、これもその一つで、大佛次郎原作の『照る日くもる日』という幕末物で、雅章子扮する姉御役が、ちょっとバタ臭いがそこに一風あるところがなかなかよかった(などと、当時中学生であったワタシは思ったのだった)。主人公の青年の名が細木年尾という、新時代を予感させる時代劇の人物らしからぬネーミングなのは、作者の大佛次郎が、学校友達だった高浜年尾から思いついたのだと書いているが、これをやっていた中川晴彦という俳優はその後どうしたろう。その年尾を庇護する白雲堂という易者でじつは勤皇派の志士の役が嵐寛寿郎アラカンで、年尾の恋人が宝塚在籍中の扇千景、それを妻にした若侍が長門裕之、その父親で佐幕派の巨頭が大河内伝次郎という配役でなかなか面白い映画だった。松竹や大映や東映の時代劇とひと味違うところに、東宝の時代劇の妙味があった。アラカンと大河内の、チャンチャン切り結ばずにじっと相正眼で睨み合う殺陣の場面は、時代劇映画通の推奨するところだった。扇千景という人をはじめて見た(知った)のもこの映画でだった。まさか参院議長として位人臣を極わめることになろうとは、お釈迦様でも気が付かなかったであろうような、お人形のような可愛らしい女優だった。長門裕之もまだ十代かと思しく、童顔が坊やみたいだった。

さて野村克也氏だが、亡くなったのが2月11日、その後の数日間というもの、テレビをつければ野村のことをやっていた。コロナウィルスの報道も今から見ればまだまだのんびりしたものだったのを痛感する。横浜港の埠頭にクルーズ船が係留したのが二月の始め、夜景がきれいですねえ、などと言っている内は呑気なものだったが、何やらいつまでもぐずぐず手間取っている、これはおかしいぞ、という感じになり始めてはいたものの、話が俄かに深刻になるにはまだ間があった。翻って、野村追悼に充分時間を割けたわけだ。

野村の現役のころのパシフィック・リーグというものは人気の上ではどん底時代で、人気のセ・実力のパ、ということが半ば負け惜しみめいて言われていた。野村のホームランといえば、大飛球が外野席にどすっと落ちると、ほとんど無人のようなスタンドをコロン、コロンとボールが転がり落ちてくる、王のホームランボールが満員の右翼スタンドにライナーで飛び込むと大きく人垣が割れた中に吸い込まれるのと、いかにも対照的だった光景がまず思い出される。王の打ったホームラン数が八百何十本で断然一位なのに対し、野村が六百数十本で、これまた三位以下を大きく引き離して二位、という数字の描く絶対/相対の在り様が、野村という存在の在り様をいかにも象徴しているように私には見える。あれが、華々しい王者として一位では野村ではないし、3位以下の群雄であっても野村ではない。

眼鏡だの腕時計だのにも宝石の類がキラキラしている、本当の金持ちはこんなものはつけませんよと語っている映像があったが、大分前のことだが、国立劇場で毎月出していた小冊子に歌舞伎の裏方の人の談話を連載で載せるページがあって、こんな記事を読んだことがある。その人も高校生の頃、京都の田舎で野球に打ち込んでいたが家が貧しかったので、グローブだの何だのを買うのにも事欠きがちだった。ある時、ライバル校の上級生がやってきて、俺はもう卒業だからこのユニフォームは必要なくなる、少々破れがあるが継ぎを当てればまだ使えるからよかったら貰ってくれないか、と言って譲ってくれた。今でも家宝のように大切に持っています、といった内容だった。記憶だけで書くのだから多少の間違いはあるかもしれないが、野村という名前は出さず、読めば一読、それとわかるような話しぶりにもその人の謙虚な人柄が偲ばれて忘れ難い記事だった。昭和20年代という時代の空気まで甦るような話である。

昨年の夏、ヤクルト・スワローズのOB戦を見に行った時のことは、その折このブログにも書いたし、古田と真中に両脇から抱えられながら打席に立って、ほんの一瞬、往年の打撃フォームを蘇らせて見せた時のショットは、その折のニュースでも、死去の折のさまざまな映像の一コマとしても放映されたから、見た人もあるだろう。金田が死に、関根が死んで、これで野村より古い野球人と言えば、中日の杉下一人ということになった。昭和も20年代は記憶の中だけの世界になろうとしている。

この他にも別役実、真帆志ぶき、宍戸錠、青山京子・小林旭夫妻等々といった人たちの訃報がアンテナにかかっている。秋山祐徳太子、などというのもあったっけ。そうだ、太宰治の娘さんの園子さんも亡くなったのだった。太宰はこれでも昔、全集を全巻読んでいるのだ。別役氏については私の出る幕はないであろう。よくもまあ、同じような芝居をあれだけたくさん、飽きずに書いた(書けた)ものだと感心するばかりだが、そこに不条理劇のトラップがあるのかもしれない。二人の日活のアクションスターが相次いで逝ったのもウームという感じだが、宍戸錠については、日活が昭和29年6月から映画製作を復活した当初は文芸路線で、ニュフェースの宍戸が、もちろんまだ豊頬手術などしていないから頬も痩せ、芥川龍之介みたいに前髪をはらりと長く垂らした昔の文学青年みたいだったのや、小林旭もまだ高校生ぐらいの少年でなかなかの演技派だったという、それぞれの原点のような姿が懐かしく思い出される。青山京子は何と言っても三島の「潮騒」の最初の映画化の時のヒロインだ。相手役だった久保明はどうしているだろう?

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これは訃報ではなく、引退のニュースだが、豊ノ島がついに刀折れ矢尽きてしまった。2016年のことだからあれからもう4年も経っているのに驚くが、その夏場所二日目に安美錦がこちらは本場所の土俵上で、それから二カ月と経たない名古屋場所前に豊ノ島がこちらは稽古中に、それぞれアキレス腱を断裂するという事態となった。前も書いたことがあるが私は一に安美錦、二に豊ノを贔屓にしてきた。要するに、昭和も20年代から、途中そのときどきで熱の入れように起伏や濃淡はあったがずっと相撲を見続けてきて、その相撲ぶり、相撲取りとしての風情、存在としての興深さ、プロフェッショナルとしてのたたずまい等々、私が大切と思うめがねに適ったのである。それにしても、負傷以後の両者の苦闘ぶりは想像以上のものだった。安美錦は十両の下位まで下がったが踏みとどまり、8場所かけて幕の内に戻り敢闘賞を受けたとき、いつも飄々としているのが涙滂沱となるのを見て、解説の北の富士氏が「涙の敢闘賞、名寄岩」だと言ったのは、若い頃は「怒り金時」という仇名の一本気で、取り口も四つに組んでの力相撲一点張りという、安美錦とは正反対だったが、往年の名物力士が糖尿病のため大関から二度にわたって陥落し幕尻まで下がって健闘よく敢闘賞を貰ったのが、新国劇の舞台になり日活で映画化された(作者はまだ劇作家であった頃の池波正太郎である)その作品名が「名寄岩・涙の敢闘賞」だったのを知っていたのだ。北の富士氏は、たぶんまだ入門前であったろう。せめて一場所なりと上位に返り咲いて横綱・大関と対戦する姿を見たかったがもう余力は尽きていたのかもしれない、最後は十両で再度の負傷で引退した。それこそ名寄岩以来かも知れぬ40歳という年齢に不足はなかったが、遂に上位復帰までは叶わずに終わったという恨みは残る。

豊ノ島の方は36歳、まあこれも不足はない年齢だが、こちらは幕下まで落ち、案外にも十両復活すらかなり手間取ったのは、一度下がった番付は容易なことでは戻れないという昔から聞く話の通りだった。それでも、一旦は幕内に戻れたのを以て瞑すべしと思う他はない。稀勢の里が横綱昇進の期待を裏切るということを繰り返していたころ、今度こそはと大方の予想だったある場所の初日早々、猛烈な出足を土俵際でくるりと体をかわしてまたも夢を砕いた一番に、豊ノ島の真骨頂を見たと思っている。

ふたりのことをいうなら、昨秋に引退した嘉風のことも書く折を逸したままになっていたので、ここにせめても書き添えておこう。この人は、巧者でありながら相撲が小さいために永らく中堅に留まっていたのが、晩年の数年、何かを悟ったように相撲ぶりに筋金が入って第一流の達人となったが、最後はやはり怪我に祟られた。この三人に限らず、気がついてみれば栄枯盛衰・新旧交代の様相は4年の間に驚くほど進んでいて、朝乃山などまだ入門すらしていなかったか、というのがまさしく、歳月は人を待たないという譬えの通りである。

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こちらは人間ではないが、豊島園が間もなく閉園と決まり、戦前以来の名物メリーゴーラウンドもこれ限りかというささやかなニュースが流れた。「回転木馬」という「和名」があるのが、いかにも戦前の古き良き時代に欧州から伝来した文物にふさわしい。アコーデオンを手風琴、ヴァイオリンを提琴、フットボールを蹴球というのと同じデンである。シャンソンの古典的名曲の曲名にもなっている。「くるくる回る回転木馬」というのが歌い出しの歌詞で、イヴェット・ジローが原語で歌うのもいいが、こういうのは石井好子あたりが歌うのが一番ふさわしい。同じところをぐるぐる回るのがささやかながら無窮状を思わせるのが何ともいいところで、ジェットコースターのような戦後出来の遊具のように過剰な刺激を競うような下品な(!)ところがないのがGOOD OLD DAYSの産物の奥ゆかしさであった。

豊島園で戦前以来、一番スリルがあるとされたのはウォーターシュートで、急斜面をボートが滑走し、着水の瞬間、舳先に立っている水先案内人がサーっと跳び上がるのが格好いいというので人気だった。浅草の花屋敷は別格として、西洋の匂いのするこうした遊園地は、都内では豊島園を以て嚆矢とする。豊島園がなければ、後の読売ランドも今のディズニーランドもないわけだ。練馬区の歴史アルバムというのを見ていたら、昭和10年代の写真で、大相撲の豊島関を招待という記念写真が載っていて、関取は大阪出身だが「豊島」つながりで招待されたのだろうとキャプションにあった。この力士は「としま」ではなく「とよしま」と読んで、豊ノ島と一脈通ずるような短躯肥満の突き押し相撲で上位キラーとして鳴らしたが(何しろ双葉山に二度も勝っているのだ)、昭和20年3月10日の下町の大空襲の際、逃げ惑う避難民で身動きが取れなくなった両国橋上で焼死したと言われる。

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このブログを書きながらつけていたテレビのニュースが「辨松」の廃業を報じている。あれも、これも、サヨナラばかりのニュースである。

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これはサヨナラの話ではない。新しい朝ドラが始まって古関裕而がモデルという。男が主人公というのは朝ドラとしてたぶん珍しいのだろうがオリンピックがらみの企画と思しく、コロナ騒ぎでまさか延期になろうとは思わぬ先に決まったものだろう。演出が喜劇タッチはいいとして、絶叫連発のドタバタ過剰がちと気に障るが、古関裕而という題材への興味から、まあ、見ている。出身地が福島というので、「福島民報」という地方紙が「あなたが選ぶ古関メロディーベスト30」というのを読者の投票で募った結果が、3月10日付の東京新聞で紹介されていたのがなかなか面白い。一位が、オリンピックの入場行進曲でも高校野球の行進曲でもなく、また「鐘の鳴る丘」でも「長崎の鐘」でもなく、はたまた「六甲おろし」でも「紺碧の空」でもなく、何と「高原列車は行く」だというのが気に入った。「汽車の窓からハンケチ振れば」という歌い出しの、昭和29年の流行歌、歌うは岡本敦郎・・・といって、アゝとわかる人が今どれくらいいるのか心許ないが、しかしこれを第一位に選んだ「福島民報」の読者諸氏に敬意を表したくなる。(それにつけてもだが、ハンケチという言い方をついぞ耳にしなくなったのは、いつごろからだろう? 手拭いを半分にケチった大きさだから「半ケチ」というのだという語源説もあったほどだが、ハンケチはもはや死語か?)

私個人としては、NHKのスポーツ放送の冒頭に必ず流れた「スポーツ行進曲」というのと、若干マイナーだが「さくらんぼ大将」という放送劇の主題歌が郷愁をそそられる。夕方になると隣近所のラジオから流れてくる古川ロッパの歌う声が、今も耳についている。もうひとつ、これは今でも正午過ぎになるとラジオから流れてくるが(おそらくNHKとしても最長寿番組であろう)「昼の憩い」という番組のテーマ曲がじつにいい。かつての日本の農村の風景を音で描いた古関版「田園交響曲」ともいうべき名曲である。あれこそが、古関裕而の最高傑作ではあるまいか?

TBS(ラジオ東京)という局は、民放の皮切りとして何かとNHKを手本というか、模倣というかしながら、手探りで始めたところがあるので、スポーツ番組用に自前の「スポーツ行進曲」(という曲名なのかどうか?)を作っている、いまでも何かの拍子に、「チャンチャカチャカチャカ、チャンチャカチャカチャカ、チャンチャカチャンのチャン」という曲が流れてくるところを見ると、いまも現役ではあるのかしらん。つまり、スポーツ実況放送の冒頭にはNHKのようにテーマ曲がなければならぬと考えたのに違いない。あれは誰の作曲だろう? 1964年のオリンピックの入場行進には、黛敏郎作曲の曲も演奏されたのだが、そんな高尚な曲では選手は歩けず、かの古関裕而の曲が流れ出すと俄かに「世界大運動会」らしい空気が漲り出したのだった。そういえば、小学校の運動会でも、入場行進には必ずNHKの実況放送でおなじみの「スポーツ行進曲」が拡声器で校庭いっぱいに鳴り響いたものだった。

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ここまで書いたところで、皆川達夫、ジャッキー吉川、岡江久美子、久米明、更に山田敬蔵といった人達の訃報が加わることになった。皆川達夫さんはもちろん音楽学者として文字通りの碩学だが、NHKラジオの「音楽の泉」の三代目解説者としてこの三月いっぱいまでつとめ終えての死去だから、啓蒙家としても全うしたことになる。独特の嗄れ声が何とも格好良かった。美声ばかりが能ではないという格好の例である。この番組が始まったころは私はまだ小学生で、テーマ曲のシューベルトの「楽興の時」が聞こえてくるだけで、日曜日の朝の空気の匂いがしたものだった。初代の解説が堀内敬三で、この人は「話の泉」の回答者としてもおなじみだった。次が村田武雄さんで三代の中では一番謹厳な感じだった。この人の講義を大学時代に聞いたことがあるが、その印象もあるかもしれない。

久米明は山本安江のぶどうの会にいた人だから、もう100歳ぐらいになっているかと思ったが、昭和生まれだと知った。一般の知名度を以て幸福の尺度とするなら、末広がりの恵まれた人生だったことになるだろうか。

山田敬蔵、なつかしいなあ。随分と小柄な人で、顔立ちにも特徴があったから歴代のマラソン選手の中でもくっきりと思い出せる。1953年のボストンマラソン優勝というのが履歴の上でのハイライトだが、その前年のヘルシンキのオリンピックの代表3人の一人で、まあ3人とも惨敗だったわけだが、私にとってのなつかしさの根拠は勝ち負けとは別に、むしろそちらの方にある。この時の優勝のザトペックは、5千、1万、マラソンと三冠を取ったのだから、アベベ以上なのだが、その後の知名度においてはるかに及ばないのはまだテレビのない時代のためか。昭和20年代というのは、30年代に比べて何かと損の卦が出る巡り合わせになる。中学生のころに読んだ講談本の『赤穂義士銘々伝』で中山安兵衛が高田ノ馬場へ駆けつけるくだりに「安兵衛はザトペックのように駆けましたが間に合いません」とあったものだが・・・

岡江久美子さんについては、ニュースを知ってはなまるマーケットよりまず連想ゲームの方を連想したぐらいだから、到底私などの出る幕はない。

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最後にひとつPRをさせていただく。3月の歌舞伎は、歌舞伎座・国立劇場とも、初日を目前に政府の要請で延期、また延期を三度重ねた挙句、遂に完全休演という、いかにも心の残る事態となったが、両劇場で予定されていた全演目の動画配信が期間限定で行なわれたことはご存知であろう。せめてこれを、いつもの新聞劇評とは異なるとは言え書き残しておくべきと考え、日経新聞の5月1日付の電子版に掲載することになった。お読みいただければ幸いである。掲載が、配信の期間が終わった後なのが残念だが、同日の午前2時から配信との由である。

随談第628回 襲名仕切り直し(改訂版)

コロナ・ウィルス騒動も遂に時の首相による非常事態宣言発出という事態となって(「発出」という官僚言葉を私は不敏にして知らなかった!)、團十郎襲名興行が、予定されていた三カ月すべて延期ということになった。延期と言っても、ウィルス蔓延という事態がいつ収まるのか予測をつけようがない相手である以上、一旦は中止という形を取った上で、改めて時期を見て、ということにせざるを得ない。なまじ、少し始めてからでなかったのを幸いとすべきであろう。「ご破算に願います」と声がかかると、算盤の珠をすべてじゃーっと元に戻す、という光景が思い浮かぶ。

さりながら、「改めて時期を見て」というその「時期」をどうやって見極めるのか。オリンピックは、1年後に開始、などと獲らぬ狸の皮算用で決めてしまったが、そのときになってパンデミックがまだ終息していなかったらどうするつもりなのだろう? 危うい賭けだが、つまりは、IOCも政府をはじめ日本側の関係団体も自分たちが抱えている諸々の事情に自縄自縛されているから、という以外に理由はないだろう。このほどの非常事態宣言発出をめぐっても、何やら思惑がさまざまありそうな様子を見れば明らかで、マスクなど送りつけられても気色が悪いばかり、あれを実際に本当に自分の顔に張り付ける人がどのぐらいあるのだろう? これをいい機会に、襲名をオリンピックとセットにしたような日程の立て方も、すっぱりと切り離した方がいい。

これは戦争だ、という見方がある。なるほどもっともなようだが、戦争というのは人間と人間の間のことであって、肝心のウィルスにとってはそんなことは知ったことではあるまい。まして、ウィルスに打ち勝ってオリンピックを、などと息巻いたり得意がったりところで、彼らを蔓延させ(てしまっ)たのは人間自身であって、彼らは別に人間に敵意を抱いているわけでもなければ人間に戦いを挑んでいるわけでもない。ただ自然界にああいうものとして生まれ、その性(さが)に従って生息しているに過ぎない。ウィルスが物思うすべを持っていたなら、人間の身勝手さを迷惑千万とせせら笑っているかもしれない。ワクチンというのは、彼らを殲滅するのではなく、同じ自然界に生息するものとして彼らと和平し共存しようという方法であって、たしかにこれは、人間の叡智の産物と言うに値するかもしれない。

團十郎襲名は歌舞伎にとって最大の祝い事である。歌舞伎の祝亊が、世界にとっても事収まった喜びにつながれば、これに勝ることはないではないか。急いては事を仕損じるとはここのところである。團十郎の「にらみ」に秘められた稚気をこそ思うべきであって、睨んで御覧に入れたはいいが、ウィルス蔓延が一向に終息しないのでは洒落にもならない。

随談第627回 コロナ満載

あれよという間にコロナ・ウィルスのニュースでなければ夜も日も開けぬ(暮れぬというべきか?)世の中となった。ニュースの中にコロナという言葉が耳に留まり出して、まあ半ばは、よその国の話と聞いていたのが1月半ばごろから、2月になって横浜港にクルーズ船停泊となったあたりから、おいおいこれは冗談じゃないぞとなり、二月末に政府から立て続けに「要請」が出て小中高の学校閉鎖となったところで、本気モードに変わったと思っているが、「こっちの話」としては、3月は遂に「劇場」と名の付く場所へ一度も足を踏み入れないという、この何十年来なかった事態となった。歌舞伎座、国立劇場に明治座もと、三座で歌舞伎が開くはずのところが、三段階に刻んで休演また休演と重なって、遂に3月は「歌舞伎のない月」となった。この、三回に分けて、というところに、事態に対する政府などの為政者から、松竹その他の興行者さらには俳優その他の関係者、更には私などのような立場から関わっている者から一般の観客・ファン層まで、それぞれの立ち位置から事態を見ている者の「腰の及び具合」が反映している。「まだまだ間がある」「今はまだその時ではない」と、為政者も専門家も一般人も、みんながそれぞれ思いたい。思いたくても、現実の「その日」は容赦なく近づいてくる。X-dayはいつ来るか? あるいはもう既に・・・?

単に「東京に歌舞伎のなかった月」なら前にもなかったわけではないが(昭和4、50年ごろというのは、歌舞伎座で歌舞伎をするのが年に8カ月か9カ月だった)、圧倒的な不可抗力が理由で幕が開けられないというのは、昭和20年の終戦間近の頃以来のこと、という記事を昨日(3月31日)付の日経新聞の電子版に書いたのでご覧くだされば幸いである。ちょいとサワリだけ洩らすと、5月25日の大空襲で歌舞伎座と新橋演舞場が焼かれた後の東京では、7月31日に初代吉右衛門の熊谷に弟の中村もしほ(つまり後の17代目勘三郎である)の敦盛で『一谷嫩軍記』の「組討」の場を、何と日比谷公園の野外音楽堂で野外劇としてやったというのが一つ(但し一日だけ)、8月に入って、初代猿翁一座が東劇で(歌舞伎座・演舞場と至近距離にありながら、東劇は焼けなかった)『橋弁慶』と『弥次喜多』の二本立てで、終戦前日の14日まで公演を続け(映画『日本の一番長い日』を見た人は、これがどんなにスゴイことか想像がつくだろう)、さすがに15日は休演、そのまま月いっぱいは休んだものの、何と9月1日から、今度は『橋弁慶』を『黒塚』に差し替えて公演を再開したというのだから、たとえこの公演が東京都主催の罹災者慰問という名目があったとはいえ、天晴れというものだろう。ところが普通には、戦後の歌舞伎復興というと、六代目菊五郎が10月末に帝劇で『銀座復興』を上演したことがもっぱら言われてきて、いまも語り草になっている。気の毒なは猿翁である。それにしても、『橋弁慶』や『黒塚』より、『弥次喜多』をどういう風にやったのかしらん。見てみたかった。

しかし冗談ではない。まだ当分は間があると思っていた「團十郎襲名」興行が、もう来月に迫ってきた。我々にとってはオリンピックどころの話ではない。オリンピックだって、1年後と決めたはいいが、それで本当に無事開催できるのか、本当のことは誰にも分らないし、考えようともしていない(風に見える)。やれアスリート・ファーストだ、やれオリムピアードの理念だ、何だかんだと、テレビで討論会を見ていると、どれもオリンピックという枠の中で侃々諤々やっている限りではそれぞれもっともな言い分のようだが、オリンピックという枠の外にまで視野を広げて見れば、程を弁えて物を言わないと、一転して、手前の都合しか見ていないエゴの論理に聞こえてくる。いや、オリンピックなどの話をしている暇はない。同じことを、わが歌舞伎のことに重ね合わせてみると、どういうことが、あるいは、どういう風に、見えてくるかということだろう。團十郎の「睨み」でコロナウィルスが退散してくれるなら結構な話だが。

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前回、マスクのことを書いたが、もう一度戦時中のことに話を戻すと、本土空襲が現実となったころから、「防空頭巾
なるものが普及して、大人も子供も、空襲警報が鳴ればこの防空頭巾をかぶって「防空壕」という穴倉へ逃げ込むのが日常のこととなった。ちょっと遠出をするときは、途中で空襲に会うのに備えて防空頭巾を持参した。形態としては江戸の昔からあった山岡頭巾というもので、よく雪国の子供がかぶっていたり山賊がかぶっていたりするのと同じ、ごく素朴なものだが、綿入れになっていたのは、何かが頭上に落ちてきても防御になるというためであったのだろう。それが、次第に敵機襲来が頻繁になり空襲が日常的になったころから、もうひと手間かけた新工夫の防空頭巾というのが登場した。口の当りを覆うために手のひら程度の大きさの覆いを取り付けたもので、これが付いていれば安心だということだった。(まあそりゃあ、ないよりはあった方がよかったでしょうがね。)つまり、マスク付きの防空頭巾というわけである。いざ我が家に、あるいは近隣に、敵機がばらまいた焼夷弾が落下した際には、この口当てつきの防空頭巾をかぶって、家々ごとに設置してある「防火用水」に汲み置いてある水をバケツリレーで消火に当れというのが、各町会ごとに行っていた防火訓練で教わることだった。我が家の筋向いの佐々木さんというお宅に焼夷弾が落ちたという設定で訓練が行なわれたとき、「佐々木さんのお宅に焼夷弾落下ァ」と誰かが叫ぶと、いつもおちょぼ口でものを言う上品な「佐々木さんのおばあさん」が、オホホホホと笑いながらバケツリレーをしたというのが、大人たちのひとつ話になっていたのを覚えている。逆算して考えると、まだ小学校に入るのは二、三年も先の幼児に過ぎない頃の記憶だが、この話に限らず、よくお前はそんな小さい時のことを覚えているなあと昔から言われたものだが、「戦時」という環境が幼ない脳味噌に何か特別な刺激を与えたためかもしれない。ところで焼夷弾というのは、焼夷剤と炸剤が入った無数の束がばらまかれるわけだが、あの束をクラスターというのだったっけ。

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そのクラスターだオーバーシュートだフェーズだ何だと、やたらにむずかし気なカタカナ語を使うというので非難が起こっているが、またしてもむかし話で恐縮だが、古い「サザエさん」にこんなのがあった。戦後(昭和24年12月から各紙一斉に)夕刊が復活して各紙が当時の人気漫画を競って掲載した中、朝日が掲載したのがかの『サザヱさん』で、テレビの人気番組のとはちょっと色合い肌合いが違うのだが、まあその当時の作で、インフルエンザの大流行で、近所隣り、家じゅう寝込んでいるというさなか、熱っぽくて具合が悪いという近所のおばあさんへ、サザヱさんが「あら、それインフルエンザですわ、きっと」と言うと、「ヒェッ、では」とびっくり仰天するので、「おばあさん、感冒のことよ、感冒」と笑って安心させる。と、「なあんだ、感冒かね。あたしゃまた風邪かと思った」というのがサゲになっていた。ところでここから読み取れるのは、「インフルエンザ」という言葉がこの頃から使われ出した新語で、老人にはまだ馴染みがなく、いまは忘れ去られた「感冒」という在来の用語がまだ普遍性を保っていたということ、更に、この「感冒」なる用語も、たぶん、お医者さんが普及させた、「風邪」ほどには深く根を張った言葉ではなかったのでは?という疑いである。朝日が長谷川町子『サザヱさん』、読売が秋好馨『轟先生』、毎日が横山隆一『ペコちゃんとデンスケ』というのが三大紙の布陣だったころのお話である。

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というわけで、3月はほぼ連日、健康のための散歩ぐらいしか外に出ることもなかったお陰には、遅れに遅れていた原稿を一つ仕上げることができた。書き始めて三年来、途中、(このブログの中でも何度か愚痴を漏らしたが)たび重なるわがパアソナル・コンピュウタアの故障やら不具合やらでその都度頓挫、一度は半ばまで書き進んだところで全部パーになったこともあった。昨年一月に仕切り直し、ではない取り直しをしてからも遅々たる歩みだったのが、このところのコロナウィルス騒動のお陰で一挙にはかどった。といって、この疫病神に礼を言うのもなんだが、人間、何が幸いするか知れないという、ひとつの知恵を実感したのは事実である。