随談第626回 ささやかなる終活 -ウィルス騒動のなかで-

じつはまたしてもパソコンの故障があって、今回も休載かとあきらめかけたのだったが、幸い、思ったより軽症で早く回復したので何とか間に合ったのはよかったが、いろいろ書く材料の心づもりをメモしておいたのが、野村監督もましてや喜多村六郎も、コロナ・ウィルス騒ぎの前には吹っ飛んでしまった。九年前の天災も春浅い3月、今回も3月に山場が来そうな形勢になっている。人間、時には災難に見舞われて高慢やらうぬぼれやらの鼻をへし折られたり、肝を冷やしたりすることも悪いことではない、とは思いはするものの、事態がここまでくると洒落どころではなくなって来る。

それにつけても、連日テレビのワイドショーで侃々諤々やっているのを見ていると、つくづく、日本人にもいろんな人種があるものだと感心することになる。大音声族・したり顔族・定番反応族・ひとひねり族その他その他・・・人類学ヒト科分類法の原材料に事欠かない。

初動対応に失敗したことへの挽回策かどうか知らないが、要請という名のお上の命令によって、各劇場の三月興行が軒並み初日を遅らせることとなった。国立劇場が15日まで、松竹・東宝系・明治座はほぼ10日まで、という微妙な差異は、それこそ阿吽の二字、によるものだろう。お陰で、三劇場に歌舞伎がかかるこの月、歌舞伎座と明治座に各一日、国立劇場に一日半、合わせて4日費やすことを予定していた三月第一週は、小学生並みに自宅でお勉強ということになった。まあ、遅れに遅れている原稿執筆を挽回するチャンスがこれだけまとまって到来したのは、コロナ・ウィルス大明神のお陰と思って精進することとしよう。

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なるべくならしないですませたいと思っていたマスクてふものを我もしてみむ、ということに遂に相成った。小学生の時以来だから、まあ、半世紀ぶりどころではない、絶えて久しい体験である。九州だったかで、マスクをするしないで乗客同士で諍いが始まり電車が緊急停車したというニュースを聞いて、恐ろしい世の中になったものだと怖くなった、というのもひとつの遠因かも知れない。

マスクというと思い出すのは、大学紛争盛んだった当時、ヘルメットにマスクというのがゲバ棒学生の定番スタイルだったが、そんなある時、山手線のどこの駅だったか忘れたが、前の電車が出て行ったあとしばらく閑散としていた隣のプラットホームに新たに電車が停車、ややあって発車して再び隣のホームが目に入った途端、こちらのホーム側からオーっと驚きのどよめきが起こった。何と、隣のホームにヘルメットにマスク姿の学生が鈴なりになってひしめいている。たぶん、どこかへ集団で移動する途中だったのだろうが、不思議な夢を見ているようだった。

これはわりに最近のことだが、テレビの番組で、もちろん平時の話だがマスクをしていないと不安だというのだったか、マスクをしていると安心だというのだったか、とにかくそういう人の意見というのを聞いたのが、なんとなく記憶に引っかかっている。マスクをしているのを格好いい、と考える人もあるらしい。ほんとに、人さまざまとはこのことである。まあ、鞍馬天狗の頭巾だってマスクと言えばマスクだろうし、なるほどあれは格好いい。「怪傑黒頭巾」というのもあったが、あれは鞍馬天狗が流行り出してから出来た亜流であろう。アラカンの鞍馬天狗の映画に御高祖頭巾というのをかぶった八丁礫のお喜代という女賊が出てくるのがあったが、あれは、冬の女性のファッションとして秀逸なものだったと思う。どなたか、現代によみがえらせ、流行らせてもいいのではあるまいか。

鞍馬天狗の頭巾はふつう宗十郎頭巾と呼んでいるが、『白浪五人男』の「浜松屋」の場で日本駄右衛門がかぶっているのが本来のもので、あれを基にアラカンの嵐寛寿郎が映画の写りがいいように工夫・改良したのだと、これはご本人が生前、テレビで喋っているのを見たことがある。なるほど、日本駄右衛門の頭巾では敏捷軽快な感じはないから鞍馬天狗には似合わないだろう。「浜松屋」の場の駄右衛門は、二階堂信濃守の家中の玉島逸当なる身分ある武士という触れ込みで浜松屋の客になっているのだから、いわば重役さんのお忍びの姿なわけだ。

ところでそのアラカンが亡くなってもう大分になるが、かつて少女のころに杉作の役で共演した松島トモ子さんが、しばらく前、アラカン宅へ焼香に赴いた時のことを新聞に書いていた小文が忘れ難い。晩年のアラカンが質素な暮らしをしていたのは知られていたが、タクシーに乗って探しても運転手にもわからない。大分ぐるぐる回った挙句にようやく見つけた家は本当に小さなもので、家具も何もない中に、ぽつんと、あの鞍馬天狗の頭巾が一つ、置いてあったという。

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ところで、と続けて書き出すことになるが、このほどふと思い立って、アラカンの映画ではなく、大佛次郎の小説の「鞍馬天狗」を読み返してみようと思い立って、電車の中でぼつぼつ読み始めている。奥付を見ると、昭和26年発行とある中央公論社版で、これはいかにも懐かしい。終戦後まだ間もない、今から見ると質素なものだが、中村岳陵装丁の趣味の良さはちょっとしたものだ。我が書棚に埃をうっすらかぶっていたこの本自体は、のちに古本で買ったものだが、この版本は、中学生の時に読みふけったバージョンそのもので、さまざまな記憶が伴われ蘇ってくる。私にとって、初めて読んだ大人向けの小説である。とまあ、こういうのも、我がささやかな終活の内だろうか。

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