随談第637回 本年最後の不要不急の話

あっという間の歳末である。齢のせいだけでなく、時の経ち方が今年は何かイレギュラーに感じられる。原因はもちろん、コロナ騒動のためである。去年の今頃、歌舞伎界では何が話題だったかといえば、菊之助が『ナウシカ』をやっていて、舞台上で大けがをしたという一件だった。これを遠い昔のことのように思うか、それとも、ついこの間のことと思うか、人さまざまに違いない。いや、同じ人間が、遠い過去のように思えたり、最近のことのように思えたりするのだ。

歌舞伎学会の行事で、いつもはゲストを招いて話を聞く集まりが、今年はオンラインですることになったというもどかしさはあったものの、林与一氏の話が抜群に面白かった。78歳という。十代の頃がちょうど関西歌舞伎の壊滅期に当っていたわけだが、当時の関西の様子は概括的に伝えられていること以上はほとんど知るところがなかったので、目からうろこのような話柄が次々に出てくる。話すこと、話したいことが山ほどあって、次々と繰り出されてくる面白さ、それを語る饒舌なうちにも自ずから端正な言葉つき、挙措の美しさ。つい時のたつのを忘れて見惚れていた。それにつけて思い出すのは、大河ドラマの『赤穂浪士』の堀田隼人で売り出した与一氏が次々と映画テレビで活躍し始めた頃のこと、どこのテレビ局だったかで与一氏を主賓にした番組があって、二、三のゲストの一人として今の仁左衛門が出演したことがあった。もちろんまだ片岡孝夫で、東京では知る人ぞ知るといった当時のことだが、上方の和事の芸を伝える人は与一さんしかありません、ぜひ歌舞伎に戻ってきていただきたいと、遠慮がちながら真摯に訴えていた姿を印象深く覚えている。(ご本人は、もうたぶん忘れているだろうが。)

訃報もいろいろあった中に、幸田弘子さんの名前があった。一葉などの文芸作品の朗読で評価も高く、知る人も少なくない人だが、今ここに書こうと思うのはそのこと故ではない。昭和30年前後、この人がNHKの東京放送劇団の新人として売り出したころ、私はこの人のファンだった。東京放送劇団というのは、まだラジオの時代、放送劇や朗読をする声優(という言葉はあったが、今の人がこの言葉から思い浮かべるイメージとはかなり違う)として養成していたもので、テレビというものが存在しなかった当時は、かなり知名度も高い名優や人気者も輩出している。それこそ、「鐘の鳴る丘」だ「君の名は」だといった番組はこの人たちが主力として活躍していたのだ。第五期生まであったと思うが、巌金四郎、小山源喜、加藤道子(いまもつづいている「ラジオ名作座」という番組で、長いこと森繁久彌と名コンビだったのをまだ覚えている人は少なくない筈だ)といった人たちが第一期生で、確かなことは解らないがもしかしたらすでに戦時中から活躍していたのではないかと思う。その後も、臼井正明(白鸚の『アマデウス』の初期のころ常連の出演者だった)、名古屋章、七尾玲子といった名前も、ラジオというメディアの限界はあるが全国区規模で知名度があった。幸田弘子さんたちの第五期生は、既にテレビが放送を始めていたのでその含みもあった一段と華やかで、そのシンボル的存在が今も活躍中の黒柳徹子氏なわけだ(彼女の売り出した『ヤン坊ニン坊トン坊』という放送劇は、当時知らぬ者はないという勢いだった。(里見京子さんとか横山道代さんとか、なつかしいなあ。)幸田弘子さんは、そうした中で、着実に我が道を歩み続けた人だと思う。(「朗読」というのは、テレビよりもラジオでこそ、長所も魅力も発揮される。私は俳優が芝居気たっぷりに読むのより、加賀美幸子とか広瀬修子といったベテランのアナウンサーの抑制した読み方の方が、聞く側のイメージが抑制されないので好きだが、これはまあ、この際はついででの話。)

訃報の中に浅香光代の名前もあった。この人の「勧進帳」を私は見ている。所も新橋演舞場で、れっきとした長唄囃子連中で本格に演じたのである。立派なものだった。

新聞のスポーツ欄の隅っこに、かつてのニグロリーグの記録がメジャーリーグの記録として扱われることになったという小さな記事が載った。1920年から、第二次大戦後ジャッキー・ロビンソンを皮切りに黒人選手が大リーグに加入が認められるまでの20数年間、全米に存在した黒人だけのプロ野球である。ジョシュ・ギブソンというスラッガーが、ベーブ・ルースとほぼ同時代にニグロリーグで活躍し、ルースよりも多くの本塁打を打ったと言われている。私はひと頃、翻訳で生計の何割かをしのいでいたことがあるが、その当時、このギブソンの伝記を訳して出版したことがある。ちょうど王貞治氏が800号を打った当時だったので『800号を打ったもう一人の男』というタイトルで、私の訳書としてはちょいと評判になった。

本年はこれまで。よいお年をお迎えください。

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眼中の役者たち-わが歌舞伎見聞録- (抄)

前書き 

わが目で見、今もわが眼中に生きている役者たちについて、わが想いを書き留めておきたいと切実に思うようになった。本にするつもりで書いた草稿が実はあるのだが、出版が難しいという事情もある。そこで、その一端をホームページという場に「抄」という形で載せることを考えた。

抄録に当ってひとつの原則を立てた。人数を絞り字数を絞って二万字という小さな壺に収めること。かつて歌舞伎に馴染み染めた頃、既に私の目に一個の存在であった人、すなわち、わが歌舞伎イニシエーションを彩った年代の人たちに絞ること。それとて、我が眼中にある思い出の役者たちはこれに留まるものではないが、これで精一杯と容認していただければ幸いである。配列は一部の例外を除いて生年順にした。

1.市川寿海(18861971

私の見た寿海は既に八十翁で腰も少し曲がっていた。その『鳥辺山心中』を見たのは昭和42年の正月、梅幸のお染に門之助の坂田市之助、後の富十郎の源三郎という配役だった。富十郎は当時市村竹之丞の名で、三島由紀夫がブリリヤントと評した勢いの盛りだったから、口論から表へ出ろということになって河原で二人が切り結び、どう見たって強そうな源三郎の方が斬られてしまうのは、正直、ウソ臭かった。だがそのあとお染とふたり、比翼の衣装に換えて「濁りに沈んで濁りに染まぬ、清き乙女と恋をして」というセリフになると、この気障といえば気障なセリフがこうでなくては叶わぬと思わせることになるのだった。音吐朗々という以上に、神韻縹渺といった方がふさわしく、おそらくそれは寿海の若き日、澎湃と沸き起った新思潮という時代の香りであったろう。

同じことは青山播磨にも藤岡外記にも、更に『頼朝の死』の頼家や『御浜御殿』の綱豊卿や『将軍江戸を去る』の将軍慶喜にも通底していて、他の誰が如何に名演好演しようとも寿海のようにはいくまいと思わせた。

初代猿翁没後は孤高を持すという感じで地位の上では歌舞伎界の頂点にいたから、襲名披露などの「口上」の席では一座の中央に座ってまず口を切り、最後に「隅から隅までズイと」と締めの口上をいうのが長老としての役目だったが、その「ズイとおー」という節回しが独特だった。他に耳にしたことのない音階だったが、そこにも寿海の人と成った時代の匂いが仄かに漂っていた。

寿海を見た最後は、昭和45年11月の顔見世で、楽日近くに三島由紀夫の割腹事件があったという忘れ難い興行だった。十七代目勘三郎と二代目松緑の十郎五郎に歌右衛門の虎に少将が我童という、私が見た限りでの大顔合わせの『対面』だったが、そこで工藤を勤めた寿海は初めから高座に座ったなり、幕切れに立ち上がることもしなかった。彫像のような古典美に静もり返った風格は、この顔合わせの中で工藤をつとめるのはこの人を措いてないことを確信させた。これが東京での見納め、暮れに京都の顔見世に出たのを最後に、翌年四月に逝ってしまう。

2.尾上多賀之丞(18871978) 

初めてのとき、あゝ、この人がと思って見たのを覚えている。『忠臣蔵』六段目のおかや、『加賀鳶』のおさすりお兼といった定評ある役を幾つも持っていたが、『鏡獅子』で幕開きに梅幸の弥生を連れ出す老女の役をするのが、菊蔵の局とささやかな父子共演の形になるのも、多賀之丞をめぐる光景として懐かしい。

おかやといえば、一文字屋の女房お才と勘平のやりとりの間、木戸の外へ出て余市兵衛の帰りを案じて遠くを眺めやっている姿が目に浮かぶ。こういう時、観客は舞台中央の勘平とお才に釘付けになっていておかやの存在は念頭にないわけだが、その邪魔をせず、しかしこの場のおかやはかくあらなくては叶うまいと思わせた。

『伊勢音頭』の万野というと歌右衛門や二代目鴈治郎を挙げる人が多いが、なるほどそれもさることながら、黒の絽の単衣を着た夏姿の風情という点で、多賀之丞のこそがつきづきしかったと私は思っている。お紺になじられてカッとなって振り返る貢へ、知らぬ顔で莨をふかしていた万野がふーっと煙を吹きかける。その軽み。大立者がする万野だと、どうしてもこういうところが仰々しく感じられてしまうのだ。

安藤鶴夫作の『雪の日の円朝』を十七代目勘三郎がしたことがあった。山岡鉄舟に呼ばれた三遊亭円朝が、雪の降りしきる大川べりの料亭の裏手の桟橋に舟から降り立つと、奥へと案内される円朝の歩調に合せて舞台がゆっくり回って、やがて八代目三津五郎の鉄舟らが待つ座敷になるという贅沢なしつらえで、鉄舟に「桃太郎」を一席所望されるという有名な一件になるのだが、さてその座敷に多賀之丞の老妓が後ろ向きに座って三味線を弾いている。帯をゆったり締めたうしろ姿の風情というものはなかった。贅を尽くした配役としてこしらえられた、筋に絡むわけでもないこの一役を以ってまさか多賀之丞の当り役とするわけにもいくまいが、いまなお目に残る一役というなら、これを挙げてもいいような気すらする。つまりこれは、老境に至っての稀事としてある境地に達した者にのみあり得る、粋(いき)だの何だのを通り越してしまった先の、粋(すい)のまた粋とでもいうものであったろう。

3&4.中村霞仙(18931969)嵐璃珏(190080)  

私が上方の歌舞伎の面白さを知ったのは、鴈治郎や仁左衛門もさることながら、霞仙と璃珏のお陰だといってもあながち大袈裟ではない。

昭和40年9月、歌舞伎座で見た延若の半兵衛に先の芝翫のお千代という『心中宵庚申』は忘れ難いが、そう思わせたひとつには、霞仙の姑の嫁いびりの凄まじさがある。そのあまりの凄まじさを見て、半兵衛がこれはもうお千代と心中するしかないと心を定めるのがもっとも至極と得心させるのだが、そのいびり具合の巧いの何の。大阪という町人の町の、町家の暮らしのやり切れなさが、わが身に沁みるほどつくづくと思いやられた。

璃珏の鷺坂伴内を一緒に見ていた友人が、おい、あれは人形か、と感に堪えた様子で唸ったのを覚えている。加古川本蔵からの賂の目録を読み上げたり、駕篭の中の師直と本蔵を取り持つやり取りのおかしみは、これこそ半道敵というものと得心させられた。同じことでも東京の役者がするのとでは、良し悪しではなく歌舞伎に対する「思想」の違いと考えるほかはないと思い知った。但しこの人のせりふはもがもがと不明瞭で、聞き取れないのが玉に瑕だったが、瑕はあっても玉であったことは間違いない。上方役者らしく、二人とも爺婆どちらも行けて、延若の権太の『千本桜』の「鮨屋」は、璃珏が弥左衛門で霞仙が女房の時と、霞仙が弥左衛門で璃珏が女房の時と二度見ている。

霞仙は、明治上方歌舞伎史の第一ページにその名が出てくる中村宗十郎の孫に当たる名門末広屋の当主として、時に狷介と見えるほどの見識と誇り高い生涯を全うしたという。璃珏は、国立劇場の楽屋口から出てくる姿を見たことがある。純白のハイネックのセーターに紺のジャケットを羽織ったダンディぶりは、若き日には草創期の映画スターとして鳴らした過去を持つと聞いたが、むべなるかなと思わせるに充分だった。

5.市川左團次(三代目)(18981969) 

鶴のような、というが左團次はまさにそれだった。『三十三間堂棟由来』通称「柳」の横曽根平太郎の瓜実顔は、その言葉の由来を目の当たりにさせてくれる趣きだったし、歌右衛門のお三輪に七代目芝翫の橘姫と三福対で踊った『妹背山』の道行の求女などというものは、浮世絵から抜け出したようという比喩が比喩でないことを実証してくれた。歌右衛門はしばしば、これぞという舞台に左團次の出演を請うたが、それはひとえに、左團次の身に備わった和事師の芸の風格を求めてのことだったと思われる。それらは歌右衛門の狙いを見事に射抜くものであったと同時に、歌右衛門よりふた世代は古い芸の格を示して、歌右衛門の更に上を行くものを思わせた。芸格というものを形あるものと実感させた。

大佛次郎というと十一代目團十郎のために書いた諸作が言われるのが通例だが、個人として親しみを持っていたのは左團次であったようで、同世代人同士の持つハイカラな感覚と、長身でダブルの背広の似合う瀟洒な紳士、という二人に共通する外見は、互いに自分の似姿を見ていたらしいフシがある。『廿四孝』の勝頼が、謙信から託された文箱を手に花道まで行くと、すっと軽く持ち替えるような風情を見せて入ってゆく、ああいうところの軽みが余人にない味だ、というのが大佛の左團次評だった。左團次の側も、手すさびに削った茶杓を「天狗様参る」と箱書きして『鞍馬天狗』の作者に贈ったというのが、自ずからなるエールの交換のようでもある。

和事師としては十三代目勘弥から学ぶところが大きかったようで、十三代目の子の十四代目勘弥が若き日十五世羽左衛門に私淑したのと、微妙なねじれ現象があるようなのだが、『髪結新三』の忠七という役の持つある独特の感触は、この二人の二枚目役者の体にあった和事味を最後として現在の歌舞伎にはもはや求められないものとなっている。これも晩年の舞台だが、『乗合船恵方萬歳』の通人でほとんど肩の怒りというもののない、ずるずると着物が脱げ落ちてしまいそうな洒脱な優人ぶりというものは絶妙というのも愚かというべきで、唖然とするほかなかった。眼中にあるすべての歌舞伎中、屈指の妙趣と言っても過言ではない。

6.中村鴈治郎(二代目)(190283 

私が歌舞伎ゴーアーになったころ、鴈治郎を見る機会はほとんどなかった。関西歌舞伎壊滅のごたごたの中で映画俳優宣言をして、南座の顔見世を除いては歌舞伎の舞台を踏むことがないという、ふしぎな季節のさなかだったからだ。題名はとうに忘れたが、浜松の鰻の養殖の研究者の役で白衣姿で出てくる鴈治郎や、隠棲中の株屋の親玉といった役でブラウン管に写っている鴈治郎を見たのが、私にとっての鴈治郎初見参なのである。映画では『小早川家の秋』に『浮草』という小津安二郎監督の二作に、鴈治郎という人のおいしいところが一番よく捉えられていると思うが、名匠巨匠の手になる名画ばかりでなく、「大映専属」の脇役俳優として、アレっと思うような作品にもしばしば登場した。

当時は坂田藤十郎が売り出しの扇雀時代で、こちらは主演スターという扱いだったから、映画界では扇雀の方が桁違いに優遇されていたらしいことは、のちに藤十郎がびっくりするほどあけすけに語っているので知った。当初は相応の待遇がなされていた扱いもいつしかぞんざいになってきて、撮影所内のバス停に佇んでいる鴈治郎を見た女婿の勝新太郎が、自身の高級車で送ってくれたという話は鴈治郎自身が語っている。私が歌舞伎の舞台で見た鴈治郎は、こうした十年の長きに及ぶ映画俳優としての日々を経たのちの姿なわけだが、実はこの映画俳優としての閲歴が、鴈治郎を語る上で見落とせない意味を持っているのではないかと、私は睨んでいる。

歌舞伎俳優鴈治郎をはじめて見た日のことははっきり覚えている。昭和40年6月の歌舞伎座で珍しく『競伊勢物語』が出て、寿海の紀有常に鴈治郎は小よしの役ではったい茶を飲む場面もさることながら、それ以上に忘れがたいのは同じ月の夜の部に『菅原』の「加茂堤」と「佐太村」が出て、鴈治郎の桜丸が「加茂堤」で斉世君を追って、何とも言い難い手つきで軽く広げた両手をゆらゆらさせながら、何とも言い難い足取りでゆらゆらと花道を入る姿である。少し前、三代目猿之助になったばかりのいまの猿翁の桜丸が、同じ場面で脱兎の勢いで花道を駆け込んだのを見たばかりだった。その何という違い。はあ、こういうものかと悟るものがあった。それからほどなく『河庄』の治兵衛を見ることになるのだが、それより先に見た桜丸で上方和事の何たるかを教わったと言っていい。鴈治郎初体験としてこれほど貴重なものはなかったかもしれない。

7.片岡仁左衛門(十三代目)(190394 

仁左衛門の最後となった舞台を見ている。楽日を三日後に控えた南座の顔見世の『八陣守護城』で、毒饅頭を喰って血を吐いた清正が御座船の上で佩刀を杖に立ち身で幕を切るところで、仁左衛門の体が次第に傾いてくる。役の上の清正と、体力の限りを尽くして演じ切ろうとしている仁左衛門自身とが渾然となるような不思議な光景だったが、その日限りで休演、そのまま病床について翌年三月に亡くなったのだった。翌月の四月から、私は日経新聞に歌舞伎評を書くことになっていた。仁左衛門の舞台を新聞評に書く機会はかくして失われた。

私が歌舞伎を見始めた当時、京・大阪へは普通急行で朝立って着くのは夕方という時代で、仁左衛門を見るのは、上京して歌舞伎座に出演する折しかなかった。鼻にかかったような独特の発声がはじめは馴染めず、十一代目團十郎と歌右衛門の松王夫婦に三代目左團次が源蔵という『寺子屋』に、寺入りの下男三助の役で出るという大ご馳走の舞台も、遠いものを見るように眺めていたのだから、思えばこれほどもったいない話はない。

私の仁左衛門体験の転回点となった舞台のことは、はっきり思い出すことができる。昭和41年6月の東横ホールで上方歌舞伎の公演があり、そこで見た『鰻谷』という、無筆の女房が書置きの文言を幼い娘に暗唱させて夫に伝えるという、識者が愚劇といって排斥するふしぎな芝居で、この人は、この芝居の物語を本当に信じ、真実心を籠めて演じているに違いないと思われて、胸を打たれたのだった。

『七段目』の由良之助を見るために旅公演を追いかけたのも、当時はこの人の大星を見る機会がなかったからである。初めて見たその大星はまさしく祇園で遊ぶ由良大尽だった。『七段目』が『仮名手本』全段の中で占めている意味が見えたような気がした。

仁左衛門がその真価を見せたのは七十歳を過ぎてからと言われる。そうでもあろうが、半面として、識者がその真価を認めるのが遅かったからではないかという思いも、私にはある。歌右衛門が錦祥女、松緑が和藤内、八代目三津五郎の老一官、鴈治郎の渚という大顔合せの『国姓爺合戦』が出たのは昭和46年4月で、このときに仁左衛門の甘輝の芸容の大きさを知ったのが、私にとっての第二の仁左衛門発見だった。この顔ぶれの中であったればこその発見であったとも言える。やがて『道明寺』の菅丞相が決定打となって評価が確定することになったわけだが、固定観念が覆るのに実に長い歳月が必要だったのだ。

8.守田勘弥(190775) 

モリタカンヤという名は、キクゴロウの次に私が早くに知った歌舞伎俳優の名前だった。戦後、新聞各紙が当時人気の漫画を競って連載した中に、読売の秋好馨作「轟先生」は、朝日の「サザエさん」が世田谷に住まう中流サラリーマン家庭なのに対し、三流どころの私立中学の教師の家庭という、町場に住む庶民の匂いの濃厚に漂う世界だった。セールスマンになった倅の君太郎が、売込みに行った先の洋品店の中年女性がちょいとした風情なのへ「奥さま、水谷八重子に似てらっしゃる」と世辞を言っているところへ、髭もじゃの亭主がただいまーと帰ってくる。と、「あらモリタカンヤが帰ってきましたわ」というのがサゲだった。このおしどり夫婦の離婚が当時世上の話題だったのである。

次にモリタカンヤの名を耳にしたのは、民間放送が参入しラジオ東京といったいまのTBSが放送を開始した番組に、野村胡堂作の放送劇『銭形平次』があった。週一回の放送の毎回、冒頭に配役が読み上げられる中で、平次役の滝沢修、女房お静の市川翆扇、八五郎の渡辺篤、語り手の守田勘弥の四人は本人が自身で名前を言う。いまも耳に残る勘弥の語りを通じて、胡堂の名調子の文体が私の血肉となったことは疑いない。

十七代目勘三郎と二代目松緑が『弥次喜多』を出したのは昭和38年7月の歌舞伎座だった。劇中、作者の十辺舎一九が登場する。その一九の役が勘弥だったが、まるでその人を見るようだった。実際の一九がどんな人物だったかは別の話で、つまりは歌舞伎役者としてのエスプリで役を捉えたのだ。こうしたところに勘弥らしい才知が窺われた。先に多賀之丞のところで書いた『雪の日の円朝』でも、三津五郎の山岡と同席して円朝の「桃太郎」を聴く勘弥の高橋泥舟の姿が、カチカチ山の泥舟を号として明治の世に永らえる旧幕臣の姿を鮮やかに一筆描きしたものとして目に残る。

若い時から十五世羽左衛門に私淑していたから与三郎や直侍に自負があったようだが、私としては『布引滝』の実盛や『輝虎配膳』の直江山城のような軽みの利いた生締役や、『伊勢音頭』の貢のピントコナや『髪結新三』の忠七のようなひとつひねった和事の役に、勘弥ならではの妙味があったと思っている。開場後しばらくの国立劇場が勘弥にとっての復権の場となったことは知られているが、ここで見せた『唐人殺し』の十時伝七や『敵討天下茶屋聚』の早瀬伊織の、きりりとした中の和事味の冴えこそが真骨頂を示すものだった。「最後の人」であったことはたしかだろう。

9.十七代目中村勘三郎190988

自分は一度嫌いだと思った役者をのちに好きになることはまずないが、二人だけ例外がある。一人は文楽の人形遣いの桐竹紋十郎、もう一人が歌舞伎の中村勘三郎だと安藤鶴夫がテレビの番組で、当の勘三郎に向かって言っているのを見たことがある。どうだ、うめえだろうというのを鼻の先にぶら下げているようだったからだという。紋十郎の名人ぶりには私も晩年に間に合ったが、「奥庭」の八重垣姫で、片手を離して後ろ向きに決まる裏見得の華麗さといったらなかった。

私の知る勘三郎は、もちろん、アンツル師が認めてからのちの勘三郎である。「口上」の席で平伏していた頭をもたげると、もうそれだけで客席がざわざわした。身についた愛嬌と、何を言うのだろうという期待とがひとつになってのジワだが、その空気感に独特のものがあった。のちの中村富十郎が市村竹之丞を襲名した時の口上では、十七代目羽左衛門から市村家の当主として厳しい言葉が出て話題となったが、そのすぐ後で口上を述べた勘三郎の、竹之丞をかばって強くとりなすような口調には、いいな、と思わせる独特の親密感があった。勘三郎には勘三郎で、時に取りつく島もない気難しさを見せることもあるわけだが、こうしたときの勘三郎に、余人にはない人間味を覚えるのもまた、事実だった。

テレビの対談で安藤鶴夫が「これからやりたい役は?」と尋ねた後、すぐ「いや、まだ何の役やってない?」と訊き直したように、芸幅の広さは傑出していた。その時は、まだ由良之助をやってませんねと答えたのだったが、その大星ものちに「四段目」を手掛けて、音楽評論で高名な吉田秀和が、テレビで見たといって勘三郎の大星の神韻縹渺たる舞台ぶりについて新聞の時評に長い文章を載せたりした。『筆屋幸兵衛』で、一家心中を決意した幸兵衛が乳飲み子を短刀で刺し殺そうとすると、赤子がニコニコ笑顔を見せるので手にした刀をひらひらさせてあやし始める、という辺りの小手の利いた巧さは、ある時などちょうど長女が生まれた後だったので、思わず背筋を縮めた。

『加賀鳶』の道玄のような役が面白かったから,その種の役を思い浮かべることが多いのだが、若い頃は女方で、本領が和事と二枚目にあった芸味は、その芸の根幹に生き続けていた。『夏祭浪花鑑』のお辰という傑作が、田圃の太夫四代目源之助の直伝という値打ちものだったが、後の八代目宗十郎がお辰を教わりに行くと知って、あたしに教えてくれた型はあいつには教えないで下さいと田圃の太夫に頼んだという打明け話が残っている。これが勘三郎らしい「いい話」として伝わるところに、役者勘三郎の真骨頂があるのに違いない。

10.十一代目市川團十郎190965

昭和28年9月12日付の朝日新聞に連載中の「サザエさん」が話題を呼んだ。割烹着姿の近所の奥さんが「あたし裏切られたわ!子供が二人まであったんです」と涙ぐむのへ義憤に駆られたサザエさんが「まアお宅のご主人が!」と憤慨していると、四コマ目にチョビ髭の貧相な亭主が登場「いえ、エビゾウの話ですよ」というのがサゲだった。二人の子供とはのちの十二代目團十郎の姉弟のことで、独身と信じられていた海老蔵に永年連れ添う夫人と二人の愛児があった事実を公表したのが、この傑作漫画の背景だった。翌月、長男が本名の夏雄の名で初舞台を踏むわけだが、スキャンダラスな翳が少しもなく、生真面目に信条を貫く人柄を知らしめることになったところに海老蔵の真面目があった。エビさまの人気も絶頂に達しようという時期で、「サザエさん」の作者の長谷川町子さんも人後に落ちぬ海老蔵びいきを表明していた。

海老蔵は不器用だという声があった。高麗屋の三兄弟で一番巧いのが松緑、拙いのが海老蔵だと、得々と教えてくれた老人と三階席で隣り合わせたことがある。訥々とした印象は私も受けたが、それは逆に、丈高い豪宕なイメージとなって私の中に定着した。その助六は、花道で傘を開いてキマる芸容の雄大さや、「打て、叩け、いくらも打てよ髭の意休」と悲壮な声で迫る憂愁が忘れ難いものとなった。

最後となった助六を見たのは東京オリンピックのさなか1964年の秋のことだが、その年の五月、『道明寺』の菅丞相を終わり初物で演じたのが鮮烈な記憶である。幕切れ、苅屋姫へ父の情を檜扇に託して花道へかかり、七三で振り返って長い袂を巻き上げる天神の見得を、私の記憶の中の團十郎はさらにいわゆる「逆七三」まで歩み続けてから振り返り、袂をキリキリと巻き上げたのが胸に深く突き刺さった。当時私は、歌舞伎座の三階席の東側「ろの39」か「ろの40」という席に決めていた。この席からだと、舞台を斜め上から見下ろす代わり、花道が揚幕まで全部見える。逆七三まで歩むと、観客もそれだけ息を長く詰めて見守ることになるから見得の効果は一倍となるのだった。もっともこれは、所詮は私の記憶の中でのことで、今となっては確証のない話である。

ところでこの時の昼の部には、『道明寺』の後にもう一幕、二九亭十八なる作者の『鳶に油揚物語』という新作の笑劇があった。團十郎が戯名で書いた戯作だった。最後の舞台となった『保名』まで、ちょうど一年を残していた。

11.初代松本白鸚(八代目松本幸四郎)(191082

昭和40年の3月、七代目幸四郎の十七回忌に十一代目團十郎、八代目幸四郎、二代目松緑の高麗屋三兄弟で追善興行を催したのが大変な評判となった。幸四郎は、当時東宝に移籍していたから、追善興行も松竹・東宝双方で行い、先の月に宝塚劇場で東宝が、翌月は松竹が仕切って歌舞伎座でというのも、評判を煽った。露伴の『名和長年』や活歴舞踊『大森彦七』といった七代目ゆかりの珍しい演目の中に、眼目は三兄弟が弁慶と富樫を日替りでつとめる『勧進帳』で、さらに義経も後の七代目芝翫、四代目雀右衛門に三代目延若の中堅三人が日替わりでつとめるから、すべての組み合わせを見ようと思ったらほぼ毎日、歌舞伎座通いをしなければならないというのが話題を呼んで、一幕見席は連日超満員の盛況となった。私は三兄弟の弁慶を目当てに三日通ったのだったが、東宝に移籍して四年というこの時、幸四郎が歌舞伎座で弁慶をすること自体が、久しい渇を癒やす思いを人々に抱かせていた。

弁慶も、やはりこの時に見た『七段目』の大星も、私の中にあった幸四郎のイメージを増幅してくれる上で充分に満足した。弁慶では團十郎のが、定評のある富樫以上に、荒事らしい稚気や豪宕な覇気を迸らせる煌めきが、私の中の團十郎像に欠かせないものとなっているが、それとは別の意味で、幸四郎のそれは、『勧進帳』の弁慶というイメージを十全に満足させてくれるものだった。同じことは『七段目』の大星にも言えて、『仮名手本忠臣蔵』、更には『元禄忠臣蔵』の大星・大石から忠臣蔵映画における内蔵助まで、幸四郎のそれはすべてをカバーして揺るぎない大石像・大星像を現前させるものだった。明治の劇通が九代目團十郎の大星を実在の大石を見るようと評したというが、私にとっての幸四郎もまさしく現実の大石を見るような思いにさせる大星だった。同じことは弁慶にも井伊大老にも通底していて、実際の弁慶、実際の井伊大老を眼前に見せてくれる。実際の大石、実際の弁慶、実際の井伊大老以上の実在感とは思えば不思議な存在だが、私にとっての八代目幸四郎とは、何を差し置いてまず、そういう役者だった。「実事」という役柄の真意を、歌舞伎辞典の解説の記述を超えて、私は幸四郎によって実感したのである。

12. 片岡我童(191093 

我童というと思い出すのは、『忠臣蔵』六段目の「余市兵衛内」にお軽を買いに来る一文字屋の女房お才である。勘平の懐中にある財布は、昨夜、お才が余市兵衛に貸してやったもので、私のこの着物と共布で作ったのだ、というようなことを京都弁で小やみもなしにじゃらじゃらと喋り続ける。やがてお軽が勘平と水離れということになって、お才が夏の日盛りの表へ出ると、待たせてある駕篭に横坐りに腰かけて日傘を差しかける。いかにも一服の涼という風情だった。

襲名には『矢口渡』のお舟をしているのだが、私が見るようになってからは花車方の役に限られた感があった。松緑の弁慶に歌右衛門のおわさで『弁慶上使』が出ると、侍従太郎の妻花ノ井を我童がするのが決まりのようになっていた。弁慶の手前を取り繕おうとするところが評判だったが、あんな女郎屋の女将みたいな武家女房はおかしいという指摘もあった。もっともではあるが、我童という女方の、良くも悪くも特性があらわれた役として定評が出来ていた。昭和45年11月の顔見世は松竹創立75年記念という大掛かりな興行で、その『曽我対面』は寿海の工藤に十七代目勘三郎と二世松緑の十郎五郎、歌右衛門の虎という大顔合わせだったが、その中で少将が我童という配役が、この一幕を古風で味わい深いものにする上で絶妙だった。傾城役者としての一代の舞台というべきであろう。

時が流れ八十余翁となった我童は、歳末の一日、正月に飾る生花を求めての帰途、路傍に倒れ花を抱いたまま息絶える。その死までも、孤高の女方ならではの姿だった。

13.代目尾上松緑(191389

昭和40年7月歌舞伎座の松緑の舞台を、郷愁にも似た懐かしさと共に思い出す。司馬遼太郎の長編小説の劇化『国盗り物語』で斎藤道三、木下順二作の民話劇『おもん藤太』、夜の部に『怪異談牡丹燈籠』の通しで伴蔵と孝助の二役という間に挟まった中幕の舞踊『夕立』の小猿七之助という、全演目で主役をつとめる大奮闘だった。この年は六代目菊五郎十七回忌に当たっていたので、五月に盛大な追善興行を行なったばかりだったが、この月の、長編の新作に民話劇、黙阿弥の流れの世話狂言という立て方は、六代目没後に結成して以来菊五郎劇団が取ってきた路線だった。松緑はこの二年前に『義経千本桜』の半通しで知盛と忠信をつとめたのが、のちに三役を完演する下地となったということと共に、戦後歌舞伎の原風景のように思いなされてなつかしい。(この時の『千本桜』の奮闘で痛めた膝の痼疾が後に痛々しいものになりまさっていったのだった。)

巨大な肥躯に軽みを秘めているところに松緑の真骨頂があったが、年配も五十歳前後のこの頃が心技体揃った、その生涯の一つの季節ではなかったろうか? 私にとっての戦後歌舞伎の風景のひとコマが、この時期の松緑と共にあることは間違いない。『牡丹燈籠』も、この時が「怪異談」の三文字が頭につく河竹新七による作の、事実上最後の上演となったという意味でも感慨深い。この後は、大西信之が文学座に書いて杉村春子と共演した脚本にお株を奪われることになってしまう。松緑の伴蔵に鯉三郎の山本志丈と揃って、羽左衛門の宮野辺源次郎をこわもてに追い返してしまう辺りはまさしく大人の芝居で、ああいう面白さは新七版でないと味わえない。謹厳なイメージの羽左衛門が、源次郎のような役が面白いのも、意外な一面を知る妙趣というものだった。

伴蔵と二役で孝助の件を出したので飯島平左衛門に勘弥が客演し、若き日の坂田藤十郎の扇雀が萩原新三郎で出た。お露役の現・菊五郎が前々月の追善に丑之助から菊之助になって花形として第一歩を踏み出したまさに莟の季節だった。多賀之丞のお米という逸品を見たのもこの時だし、その秋には十一代目團十郎が死んだことなども含めて、この年が戦後歌舞伎のひとつの折り目であったことがいまにして思われる。

14.中村又五郎(二代目)19142009

初代白鸚の八代目幸四郎が一家一門を率いて東宝に移籍した時、共に東宝入りしたのがこの人だった。十年後、御大の幸四郎が松竹に復帰してこの大移動は終結したのだったが、又五郎のみはフリーの立場で後半生を貫いた。

忘れ難いワンショットといった趣きで、ちょっとした一瞬の風姿に、その人物の像を印象的に焼き付ける。現・白鸚と吉右衛門の兄弟共演が評判となった山本周五郎の『さぶ』で、罪を犯し人足寄場に送られたさぶにさりげなく暖かな目をかけてやる寄場の役人を又五郎がしていたのが、他の場面が遠い記憶の底に薄ぼんやりと沈んでいる中で、そこだけが鮮やかに目に残っている。こうした例を幾つも持っているところにこの達人の在り様があった。

立場がそうさせた結果だろうが、少々無理な役でも引き受けることも少なくなかった。十七代目勘三郎が終わり初物の『鮨屋』の権太をしたときにも弥左衛門を引き受けている。本来の柄や仁とはかけ離れたような役も演じ重ねてその骨法を掴むに至る。八十歳を過ぎていた筈の晩年に演じた『逆櫓』の権四郎がまさにそれで、生涯を懸けてわが物とした芸の力の結晶だった。

15.尾上梅幸191595 

一幕見の席から見下ろす谷底のような舞台で梅幸が『京鹿子娘道成寺』を踊っている。恋をする女の心の模様を次々に、組曲のように繰り広げてゆく。歌右衛門のように、激しく情念の焔を燃やす道成寺縁起のドラマを一大交響曲のように高めてゆくのと異なり、則に従って、端正に、ただ踊ることそのものの快さで見る者をやさしく包んでくれる。梅幸の踊る『娘道成寺』に私は幾たび、慰められ、癒やされたことだろう。同時に、すべてに対照的だった歌右衛門と梅幸と、二つの『娘道成寺』を同時代に見られた幸福こそ、わが歌舞伎観劇歴の中でもかけがえのないものだったと、振り返ってつくづく思われる。

立役に秀作が多かった中でも、『勧進帳』の義経と『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官を逸品とする定説に私も異議はないが、「わが梅幸」の一役を加えるなら、『新薄雪物語』の園部左衛門が選り抜きの一役として思い浮かぶ。自身の迂闊さに付け込まれて窮地に陥った左衛門が、詮議役の葛城民部や父の園部兵部らにおろおろ弁明をする。こうしたくだりが、いわゆる名演技として例に引かれるようなことは普通はない。だが後に同じ役を他の人がするのを見るたびにいつも梅幸が思い出されたのは、余人の及ばぬ芸品の故であったろう。

決して、温厚というだけの人ではなかったらしい。十八代目勘三郎から聞いた話だが、若い頃、花形の一座で『忠臣蔵』をすることになり、父の十七代目や歌右衛門、梅幸らがずらりと陣取って見守る中で舞台稽古が行われた。勘九郎としては初役でつとめる判官だったが、梅幸に教わった通り神妙に演じ、やがて「四段目」の腹切りの場になると、父と歌右衛門が何やらひそひそやっている。どうやら気に入らないらしい。と突然、梅幸が大きな声で、いいんだよ、それで、と叫ぶと立ち上がり、上着を脱ぎ棄て舞台に上がってきて判官切腹の一部始終を本息でやってみせたという。おやじも歌右衛門のおじさんも黙っちゃいました、と十八代目が懐かしむように語り終えたが、梅幸の一面を知る上でこよなき逸話というべきだろう。

16.中村歌右衛門19172001

初めて、あゝ、これが歌右衛門か、という思いで見つめた時、歌右衛門はすでに伝説中の存在の趣きがあった。自ら復活した『舞妓の花宴』(しらびょうしのはなのえん)という、白拍子姿であでやかに踊る小品で、「艶」という一文字を自身の体で描き出す趣きだった。

指先の一本一本がしなるように折りたたまれ、しなやかに伸ばされる。腰を沈め、膝を折り、身をくねらせる。ひとつとして、直線的な動きはない。典雅にして艶なる美は、そのようにしてしか生まれることはないと言うかのように。舞台の額縁との間に黄金比率が成立しているかのように見えた。

やがて、その政岡を見、揚巻を見、八ッ橋を見、阿古屋を見、『道成寺』や『関の扉』や『将門』を踊るのを見た。『朝妻船』もあった。どれも圧倒的であった。不思議なことに、歌右衛門がいつも独りのような印象として、後に残った。歌右衛門がわが物顔に振舞ったのでも、相手に不足があったのでもない。だがその舞台を思い浮かべる時、歌右衛門はいつも独りなのだ。これは、どういうことなのだろう? 

時には敢えて脇に回り、若手を引き立てるようなこともあった。そういうことも上手かったのも事実である。海老蔵時代の十二代目團十郎の与右衛門を相手に『累』を、短時日の内にアンコール上演のように二度、出したことがあった。海老蔵も歌右衛門に導かれ、役者ぶりの大いなるところを見せ上出来だった。手負いになった累が、解けた帯を舞台に叩きつけるように与右衛門を圧倒する凄まじさに満場が息を呑んだ。あのとき場内に満ちた客席の嘆声は、ジワとは異なるものだった。

私が歌舞伎にのめり込んで行った昭和三、四十年代、歌右衛門が精力的に復活狂言に取り組んでいたのは、戦後歌舞伎史上の一大奇観に遭遇したのだったと言える。『競伊勢物語』『身替音頭』『日蓮記』『廿四孝』の「信玄館」『志渡寺』『玉藻前曦袂』『板額門破り』や、世話物でも『心中刃は氷の朔日』『お静礼三』その他その他。こうして外題を書き並べるだけでも、ただならぬものを覚える。『切支丹道成寺』という、これは復活ではなく新作舞踊の、それも何回目かの時だったが、一緒に見た歌舞伎初見参の友人がたちまち歌右衛門教徒になってしまったのを思い出す。

私は決して歌右衛門教徒ではなかったが、こうした闘いの日々ともいえる時代を経て、やがて老境に至るまでを見続けることができたのが稀に見る幸せであったことは間違いない。それは、永年見続けたどの俳優にも言えることには違いないが、歌右衛門の場合、ひとりの人間の「歴史」というものを強く印象づけられるのはなぜだろう? 

17.河原崎権十郎(三代目)(191898) 

権十郎は私の贔屓役者である。誰が見ても歌舞伎役者という風貌風姿。羽子板役者、と言いたい気っ風の良さが顔に現われていた。地方巡演で見た舞台だが、松緑の御所五郎蔵に対する星影土右衛門の役者ぶりは、色敵の色気という一点で、あれほど土右衛門らしい土右衛門はなかったと断言できる。もうひとつ、猿翁が『四谷怪談』の初演に模して『仮名手本忠臣蔵』の各段とテレコにして見せた時、その伊右衛門は、鳶八丈の衣裳がぴたりと極まって、色悪の風情が誰の伊右衛門にも勝る天下に一品のものだった。

権十郎と言えば必ず言われるのが若き日「渋谷の海老様」と呼ばれたという逸話だが、渋谷駅上にある百貨店の九階に東横ホールなる客席数千二席という中劇場が出来たのが昭和29年末、昨今、昭和レトロと呼ばれ美化されて語られる場合の「昭和」なるものは、おおむね30年代のことのようだが、そのとば口に始まり十五年余、平均年数回、歌舞伎公演が行われたのが東横歌舞伎である。昭和渋谷文化の一翼を担ったのは間違いない。「渋谷の海老様」とは、折から「海老様」と呼ばれたのちの十一代目團十郎の風貌・役どころをそのままに、渋谷でも海老様が見られるというところからついた異名だった。こういう呼び名には、本家本物と差別する微妙なニュアンスがつきまとうが、羽子板役者らしい男気ある気っ風は、『お祭佐七』のような狂言では、むしろ本家の海老様以上に、外題の「江戸育」の三文字に籠められた狂言の生命が生きて通っていた。

病いに倒れた松緑の代役で急遽オセロを演じてのけて驚倒させたり、これも病床にあった松緑に代わるという格式で国立劇場三十周年記念の『仮名手本忠臣蔵』で歌右衛門の戸無瀬に「九段目」の加古川本蔵をつとめたり、権十郎の役者人生にはとかく誰かしら大立者の代行というしがらみがつきまとったが、そのつど見事につとめ遂せたところに山崎屋一代の誉れがあった。売出し中の十二代目團十郎の直侍や与三郎に自身は丈賀や蝙蝠安をつとめたり、松緑の権太、梅幸のお里ら先輩ばかりの中で弥左衛門をつとめたり、その男気こそ、余人を以ては代えられない権十郎の役者人生の味わいであり、そうした水をくぐって磨いた男振りだった。

18.中村雀右衛門(四代目)(19202009

大正9年という年の生まれには、野球の川上哲治、映画の原節子等々、ビッグネームが数多い。戦前戦中にキャリアをスタートさせ戦時の翳を負いながら戦後に花を咲かせたという共通項を持つ。雀右衛門もその一人だが、中でもひと際、戦中派の翳を色濃く落としていたように見えた。

映画俳優大谷友右衛門としては、有名な「佐々木小次郎」よりも、溝口健二監督の現代劇「噂の女」のアプレゲールの医師の役が興味深い。当時流行のリーゼントスタイルという髪型が似合う、兵隊帰りの戦中派青年という雀右衛門自身とも重なり合う一面もありそうな人物が、昭和20年代という時代を巧まずして生きていた。実際、この人はそういうところから人生の後半を始めたのだ。80歳まで革ジャンパーにジーンズ姿でオートバイに乗って楽屋入りをしたというが、押しも押されもせぬ名優雀右衛門となってからも、先輩諸優のような威風辺りを払うような在り様を、どこかで拒む風が感じられた。

古典派の歌右衛門、近代派の梅幸とも違う第三の女方という言い方をされたことがあるが、そこにはある種の批判も隠されていた。第三の道は茨の道だったのだ。懐かしさと共に思い出すのは雀右衛門襲名をはさんだ昭和30年代半ばから40年代にかけ、東横や新橋演舞場で勘弥と雀右衛門を芯にした公演がしばしばあった。清心が腹を切って死ぬ最期まで通しで見せた『十六夜清心』の強請場で、十六夜の頭巾がはらりと落ちて丸坊主の頭を見せる、まさに触れなば落ちむ風情や、『名月八幡祭』で美代吉が立て膝をして足の爪を切るしぐさのしどけなさなど、ほんの一瞬の情景がいまも鮮やかに蘇る。明治19年生まれの寿海から昭和52年生まれの海老蔵まで、持った亭主役の年齢差は90歳に亘るというが、この当時の勘弥との夫婦役者ぶりが最も似つかわしい。

平成と元号が改まり、戦後歌舞伎の大立者たちが相次いで逝って昭和歌舞伎の終焉ということがしきりに言われ、現在の第一線が陣頭に躍り立ち、谷間の世代と呼ばれた世代の各優が長老として祭り上げられた中で、ひとり雀右衛門は満開の花を咲き誇らせる季節を招来し、一代の絶頂期を迎えることとなった。奉られた不死身のジャッキーという愛称を、この人はたぶん、決して嫌ってはいなかったのではないかという気がする。

19.実川延若(192191) 

延若を知ったのは関西歌舞伎が壊滅状態になって東上してからだが、たちまち延若贔屓になった。『封印切』の忠兵衛の出の、ちっととやっととお粗末ながら梶原源太はわしかしらんと、含羞を含んだナイーヴさから封印を切る悲痛さへクレッシェンドしてゆく、独特の色気が滴るようだった。雀右衛門のおさんで『時雨の炬燵』、芝翫のお早で『心中宵庚申』をしたのも忘れ難い。

それ以上に好きだったのは『将門』の大宅光圀とか『須磨の写絵』の此兵衛で、常間できっかり踊る快感の一方、肩を使って身を揉むこなしに得も言われぬ妙味があったが、これは「延若ぶり」とでも名付けるべきものであったろう。此兵衛は清元だが、『千本桜』の「鳥居前」の狐忠信は東京とは全く違うやり方で、義太夫地の所作殺陣の面白さを私は延若で知った。折から歌右衛門が数々の復活狂言に取り組んでいた時期で、歌右衛門はしばしば延若を相手に選んだ。

中座で『千本桜』の三役をするのを、夜行の寝台急行で大阪まで往復して見に行った。急勾配の三階席は溢れんばかり、延若が登場するたびの声援は文字通り万雷が鳴るようで、大阪の観客が自分たちのエースとして延若に寄せている期待が身に沁みて感じられた。

延若は昭和42年3月の歌舞伎座と、昭和52年11月のいわゆる東西忠臣蔵の折の中座で、『仮名手本』の勘平を「三段目」から「五・六段目」へと通して演じている。悲壮味を和事味で包んだところが延若ならではで、二人侍を出迎える時、紋服に着かえようと押入れから畳紙を出すとおかるの矢絣の着物が重ねてあるのが目を射て、ハッと思わず抱きしめる、その悲哀。その前に、帰宅すると下駄履きになって小流れで足を洗うという、他では見ないやり方を見せたりした。

『葛籠抜け』の宙乗りの身の軽さも独特の面白さだったが、それと別に『釜渕双巴級』で、女房に頭の上がらない恐妻家で子煩悩の五右衛門が、大詰、七条河原の釜茹での場で我が子を頭上高く掲げると懐から浅黄幕が引き出されて幕になるという奇抜な趣向だった。夫婦者らしい外人の観客が、あーっと叫んで目を覆ったのを思い出す。

最晩年舞台を遠ざかってから、十八代目勘三郎が『乳房榎』を延若に教わってこの狂言の伝承が繋がった。おそらく早変わりの機微に触れてのことだろう、延若がにやりと笑って、ここから先は別料金やで、と言ったという話を勘三郎から聞いた。「いい話」ではあるまいか。

20.中村芝翫(七代目)(19282011) 

わが歌舞伎イニシエーションの頃、七代目福助であったこの人は、『先代萩』が出れば沖ノ井、『寺子屋』が出れば戸浪といった役どころでいたが、菊五郎劇団の花形一座で東横ホールに出ると、『娘道成寺』を踊るなど立女形格の役をつとめていた。三日月のように顎のしゃくれた長い顔が特徴の寂しさの勝った舞台ぶりで、延若の半兵衛と『心中宵庚申』のお千代をしたのがいかにもつきづきしかった。

その舞台を最後に、胸部疾患とかで半年の余休んでいたのが、舞台復帰すると、役者絵を見るような古典味のある立派な顔に変貌していた。機が熟するのを待っていたように、成駒屋一門五人同時襲名という興行が大々しく行われた。眼目は福助の七代目芝翫襲名で披露の演目は『廿四孝』の八重垣姫と『鏡獅子』で、とりわけ『鏡獅子』が目の覚めるようだった。今思っても、私の見た限りの『鏡獅子』で一、二というものであったと確信する。早々と芝翫時代の到来を広言する識者もひとり二人ではなかった。三代目左團次がその聞書きの中で、六代目を最もよく写したものと明言しているが、左團次は東横ホールで『二人道成寺』を福助と踊っている。十年後、歌右衛門のお三輪に芝翫の橘姫で求女をつとめて『妹背山』の道行を踊ったのが、瀟洒という言葉を芸にもどいたようなこの老名優の置き土産となったのだったが、このトリオの一角としての橘姫に芝翫以外の誰が考えられたろう。

極論めくのを承知で言えば、それからの約二十年間に、私の芝翫体験の核心のほぼすべてがあったと言おうか。昭和58年という年に、芝翫は二度、『娘道成寺』を踊っている。一度は本興行で、一度は国立劇場の舞踊公演で、こちらは一日限りの会である。私の見た限りの芝翫の芸の神髄と思われた。

時を経て世紀が改まった年の秋、舞い納めと謳って『京鹿子娘道成寺』を出した。何かと比較された雀右衛門が八十歳を過ぎてからも踊り続けた『娘道成寺』を、随分前から、自ら封じたように踊らなくなっていた。久々に封印を解いたそれは、まさしく、老いの花そのものと思われた。

21.中村富十郎(19292010) 

この人の場合も初対面は映画で、後に大川橋蔵が当り役にした「若様侍捕物帳」の何代か前の若様である。新歌舞伎の役などで今も耳に残るパリっとした高音で歯切れのよいセリフが、時代劇映画のセリフとしてはちょっと違和感がないでもなかった。

ここらを原風景として、やがて坂東鶴之助から市村竹之丞と名を変えた頃の舞台ぶりが私にはこよなく懐かしい。襲名の折の筋書に、三島由紀夫がその芸の目覚ましさをブリリヤントと評しているのを、目を瞠って読んだのを思い出す。映画の若様侍では裏目に出たあの息の詰んだセリフが、襲名披露の『頼朝の死』の畠山重保では三階席の隅々まで凛然と響き渡った。このとき頼家を演じた寿海の直伝で、関西歌舞伎時代に身につけたものだった。

だがこの竹之丞時代が実は苦難の時代で、東横ホールや新橋演舞場などで猿翁の三代目猿之助、のちの九代目宗十郎の訥升、由次郎から一緒に襲名した田之助と四人で組んでの公演は、折から中国で威を揮っていた江青夫人一派になぞらえて「四人組」と揶揄的に呼ばれたりした。一方芸の上では充実の季節でもあったから、思い出深い舞台を数々残しているが、白眉は団七夫婦と徳兵衛夫婦をこの四人でつとめた『夏祭浪花鑑』の通しで、台風襲来の日の旧新橋演舞場の三階席で、大雨が屋根に叩きつける音を頭上に聞きながら見た記憶と共に今も甦る。

苦闘は富十郎襲名後も続いたが、ある一日、富十郎自身から一通の手紙を貰った。私の書いた評を読んでのものだったが、その末尾の、とにかくよい芸をして見る人に喜びを感じてもらう、それが自分にとっての幸せなのだという一言が胸に沁みた。明快で一点の曇りもないこの人の芸に私はある「哀しみ」を感じていたが、その拠って来たるところを解く鍵を見たような気がした。生涯の代表作というべき『船弁慶』の後ジテの知盛の幽霊が、疾風のように来たって迅雷のように去ってゆくのが、あまりに息が詰んでいるために、時にあっけなくすら見えてしまう。しかしすべてが終わった後、寂寥がしみじみと胸に残る。そういう哀しみである。

平成へと世が移った頃から、ようやく富十郎にも安らかな時が訪れたように思われた。七十歳を過ぎて伴侶を得、子宝にも恵まれたことが微笑ましいニュースになり、長老として遇されるようになったが、舞台は艶やかさを失わなかった。その一日、ある大学で行なわれたシンポジウムの出席者の一人として壇上に上がるということがあった。数百人は優に入るかというホールで、同席のパネラーたちがマイクを順に回して発言する。富十郎の番になると、イエ、わたくしは結構でございます、と断って楽々と満場に通る声で語る口調は、かつての映画の若様侍のセリフと変わらぬ闊達さだった。元気と見えたが、半年後の新年早々の早朝、新聞社からの電話で訃を知らされた。再建中の歌舞伎座に代わって初芝居に涌く新橋演舞場に赴くと、幕間のつどロビーの椅子で追悼の原稿を書き継ぎ、書き上げた。芸の力で生き抜いた生涯だったと書いて、結語とした。

22.澤村宗十郎(九代目)(19332001) 

この項を書くために宗十郎の生没年を確かめて、70歳になっていなかったのだと気が付いた。新世紀の新年を迎えて早々の死だった。つい前年の暮、歌舞伎座の夜の部最終の演目が『蘭蝶』だった。宗十郎ならば、と期待されて演じた古風な家の芸。蘭蝶をつとめる宗十郎の頬は、かつての豊満な福相が別人のようにこけ、腹に水が溜まるという症状が衣装を着けた上からでもわかったが、それにもかかわらず、紫の頭巾に包まれた蘭蝶と、二役でつとめる青い御高祖頭巾から覗く女房お宮の白い顔は美しかった。

前名の沢村訥升。トッショウという響きほど、甘酸っぱいような懐かしさを呼び覚ますものはない。東横ホールで見た『鬼神の於松』は、昼は貞淑な女房が夜は山賊の首領となるという不可思議な芝居だった。素網の着込みに褞袍という大盗賊の姿で、懐ろに抱いた赤子がピーピー泣くのをあやしながら花道を六方を踏んで入って幕となる。これも東横で見た『傾城忠度』は、薩摩守忠度が一の谷で討ち取られたはずの岡部六弥太に、傾城漣太夫となって囲われているという芝居で、討手に囲まれた忠度が傾城姿で立回りをするのが大詰だった。摩訶不思議、としか言いようのない芝居。だがもしこういうものを見なかったら、あれほど歌舞伎に惹かれることはなかったと思えば、私の人生を決定づけた日々であったとも言える。それから、晩年に演じたお坊吉三の優美なる頽廃。

だが、宗十郎のために少し平静に立ち返って言うなら、こうした役でばかりで宗十郎を語るのはじつは片手落ちに違いない。『封印切』の井筒屋のおえんを演じて宗十郎ほど可愛い女があったろうか。『夏祭』でお辰をつとめて、夏物の単衣にうっすらとかいた汗の匂いまでが年増盛りの色香となって実感される女が、宗十郎ほどにあったろうか。

谷崎潤一郎晩年の『瘋癲老人日記』は作者自身を思わせる主人公が安保反対のデモの中を、訥升ノ揚巻ヲ見ルタメニ、新宿第一劇場へと車を走らせるところから始まる。大谷崎の訥升への愛惜置く能わざる思いをこれによって人々は知ったのだったが、じつはその瘋癲老人の物語が、豊満な女神を象った仏足石の下に埋められることを願うという、谷崎永遠の主題の一変奏であったということを、訥升を語る文脈の中に置いて思い返してみてもいいのではあるまいか。

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随談第636回 坂田藤十郎をめぐる不要不急の話

坂田藤十郎が亡くなった。昭和6年の大晦日の生まれということは前々から知っていたが、いつの間にか現役最年長となっていたことには今度改めて思い至った。芝翫・富十郎といった、昭和ひと桁でも5年より前の生まれの世代は、この二人の大物がちょうど歌舞伎座の建替えの間に相次いで逝ったのを最後にいなくなっていた。この世代は、戦後間もなくのまだ世の中が定まらない時期に世に出た人達で、歌舞伎界に限らず、映画界などでも取り分け女優にはこれといったスターは見当たらない。個々には懐かしい存在もあるのだが、「個性派」だの「清純派」などと体よくひとからげにされてしまいがちで、何かと損の卦があるように見える。(同じ昭和ひと桁でも6年以降だと、山本富士子だ有馬稲子だ岸恵子だと続々出てくる。登場するのが、やはり独立回復後の社会の安定というところが大きいのだろう。)

戦後の歌舞伎に最初に出てきた若手花形といえば、先代門之助の松蔦と岩井半四郎、それから大川橋蔵といった、みな昭和ひと桁前半の生まれの人たちで、歌舞伎俳優としてはどこか薄幸な翳がついて回った。芝翫はまだ福助で、秀才として認知されていたが三日月のようなしゃくれ顔が寂しげだった。それから、のちに4代目時蔵になった芝雀がいた。芝雀というと、ああ、あの綺麗な人、と時蔵になって亡くなった後まで、かなり長い間、歌舞伎にあまり詳しくない人の歌舞伎に関するわずかな知識の内に入っていたぐらい、その美貌は知られていた。

と、しばらくあって、まだ健在だった関西歌舞伎で「扇鶴」として売り出したのが扇雀の藤十郎と鶴之助の富十郎だが、まだ国鉄最速の特急「つばめ」か「はと」で東京大阪6時間、普通急行だと朝立って着くのは夕方という時代だから、尋常普通の暮らしをしている一般の歌舞伎ファンが東京からわざわざ見に行くということは考え及ばぬことだった。(当時「日曜娯楽版」というNHKラジオの人気番組があって三木鶏郎(トリロウと読ませた)という才人が、このつばめ号に当て込んで「僕は特急の機関士で」という歌を流行らせたことがあって、われわれ当時の小学生はみな歌ったものだ。「ボクは特急の機関士で、可愛い娘は駅ごとに、いるけど3分停車では、キスする暇さえありません」といった歌詞が戦後版鉄道唱歌のように延々と続くのだった。さらについでだが、昭和25年にプロ野球が二リーグ制になると同時に発足した「国鉄スワローズ」はこの「特急つばめ号」が命名の由来で、「ヤクルト」などという飲み物はまだ誰も知らなかった。

当時、家庭の主婦向けの雑誌として『主婦の友』と『主婦と生活』というのが二大雑誌で、そのどっちだったか、見開き2ページのグラビアに縦割りにして4人の花形役者の素顔を並べたのがあって、うろ覚えだがたしかスーツ姿の橋蔵、鶴之助に松蔦だったか、という中にはっきり覚えているのが、カーデガン姿で野球のグローブを頭上に振りかぶったポーズで写っている扇雀だった。女方にそういうポーズを取らせたのがミソだったのだろうが、これが私にとっての扇雀初見参である。藤十郎というと武智歌舞伎と判で押したように言うことになっているが、元々の武智歌舞伎というのは研究公演だから実際に見た人の数は関西人でも寥寥たるものだった筈で、先ごろ亡くなった堂本正樹さんのような人でもなければ、その存在を知って東京から見に行った人というのはいなかったろう。後に、普通の興行に「武智歌舞伎」とか「武智鉄二プロデュース」といった看板をつけた舞台は何度かあったが、それよりむしろ、昭和50年代のある盛夏の一日、歌舞伎座で武智氏を祝うという趣旨の会があって、歌右衛門をはじめ超豪華メンバーで谷崎の『恐怖時代』をしたりしたのが忘れ難い中に、延若が『俊寛』をしたのが、かつての武智歌舞伎の純粋な演出だということだった。冒頭、俊寛のあばら家へ訪ねてくる成経や康頼が崖を伝って下りてくるとか、前進座で売り物にしていた翫右衛門のと一脈通じるところがあった。武智歌舞伎はもともと、戦後の関西歌舞伎の若手連中を鍛え直そうというのが趣旨だったらしいから、延二郎だった延若も最年長メンバーとして一員だったのだ。あの時の延二郎の俊寛を見せたかったと武智氏はかねがね言っていたようだから、この時のがその機会だったのだろう。

        *

東京の歌舞伎好きがはじめて扇雀を見たのは、昭和28年の夏、父の鴈治郎と一緒に上京して新橋演舞場に出た時で、『曽根崎心中』を東京人が見たのもこの時が初めてだったはずだ。まだ築地川が流れていたので舟乗り込みをしたのはいいが既にヘドロだらけのどぶ川と化していたから、扇雀が「お父さん、臭い臭い」とぼやいたという話は、新聞で読んだのだったか? 一躍、扇雀ブームなるものが沸き上がったが、とにかくこのブームは大変なもので、私の知る限り、後に玉三郎が「出現」したときと、今の海老蔵の時と共に、歌舞伎のスター誕生が生んだ三大ブームだったと思う。私にとっての「坂田藤十郎」の原風景もここにある。「扇雀飴」という飴が売り出されて(これはブームが去った後までも店に並んでいた)、折から民放のラジオが次々と誕生した頃で、どこの局だったか、その「扇雀飴」の提供で幸四郎の弁慶に扇雀の義経という配役で『弁慶』という放送劇(「ラジオドラマ
とはまだ言わなかった)があった。ブームの渦中の扇雀の義経に、歌舞伎の弁慶役者の幸四郎の顔合せというわけだったろう。もちろんこの幸四郎は、初代白鸚になった八代目である。(富田常雄の小説のドラマ化のこの『弁慶』は、ずっと後、今の吉右衛門がテレビでやっていたのをいま思い出した。)

放送劇の義経といえば、同じころ、岩井半四郎がNHKで『源義経』を確か1年も続けたのを毎回聴いていた。(こちらは村上元三が朝日新聞に連載したのが原作だから、後にテレビの大河ドラマが始まって4作目ぐらいの、今の菊五郎がしたのと同じものである。この間、ほぼ10年だ。)ことほど左様に、一般にも名が売れていたという意味でなら半四郎は当時一番の花形だった。ほぼ同じころ、ある民放局で『雪之丞変化』を半四郎の雪之丞に、語り手と怪盗闇太郎を8代目中車がつとめるという配役で始めたのが、面白いの何の、我が家では毎週欠かさず家中で聴いたものだった。中車はそれより前、吉川英治の『宮本武蔵』を徳川夢声と競演していて、こちらも知名度抜群だった。(ついでだが、芦田伸介が門倉平馬で出ていたのが、私が芦田を知ったはじめだった。)

閑話休題。で、その半四郎と扇雀が、間もなくアーニーパイル劇場がGHQから返還となって東京宝塚劇場として東宝が演劇界に乗り出してくると、その波に巻き込まれることになる。扇雀にとってはこれが、以後の知名度を決定的なものにした一大飛躍の踏切版で、第一回の東宝歌舞伎で、歌右衛門・勘三郎・長谷川一夫と同格の扱いをされたり、ここから以降のことはよく知られている。小学校時代同級だった女姓が、扇雀扇雀と騒いでいるという噂を耳にした。一方半四郎にとっては、これがのちに大きく響く躓きとなるという、暗転のきっかけとなったと言われるが、こっちはまだ半大人の中学生だったからそんな難しい機微に触れるようなことは知らなかった。扇雀は映画でも活躍を始め(それが、あの結婚につながるわけだが。まったく、お雛様を並べたような新郎新婦だった)、『女殺油地獄』という名画を作ったりもしたが、しかし一介の中学生としては、それより『人斬り彦斎』などというたぐいの映画の方が覚えている。幕末のテロリストを白塗りのお小姓風俗のようにやるのだから、『恐怖時代』の映画版のようなものだ。父の鴈治郎も「映画俳優宣言」をして大映専属の俳優になるという、この頃のことは、ずっとのちに『一生青春』などの本であけすけに語っている。

長谷川一夫との東宝歌舞伎が恒例となってその後永く何年も続くが、松竹の大歌舞伎にも出るようになったのは30年代も末になったころで、その頃から、歌舞伎俳優中村扇雀の姿が私の視野にはっきりと入ってくる。昭和38年9月の歌舞伎座の「松緑奮闘公演」と銘打った興行は、松緑が『千本桜』を権太の筋を除いた半通しで出して知盛と忠信をした思い出深い公演だが、そこで静をしたのが目の覚めるような印象だったのが、本当の意味での私にとっての「藤十郎事始め」だったと言える。日生劇場が開場したのが同じその年の10月で(このときが初来日のカール・ベームのベルリン・フィルがこけら落とし公演だった)、翌年の正月から猿之助、竹之丞(つまり富十郎)、訥升の9代目宗十郎に(まだ田之助でなく)扇雀で日生歌舞伎がはじまり、ここで猿之助が『冥途の飛脚』の忠兵衛で羽織落としをしたりしたが、扇雀では『天守物語』と『博多小女郎浪枕』で宗七をしたのを覚えている。(たしかこれが武智鉄二プロデュースとあった最初ではなかったかしらん。)

昭和40~50年代ごろから、つまり今の菊五郎らの三之助の台頭とともに、その親たちとの中間層が「谷間の世代」とよばれるようになった。誰それとはっきり決まっていたわけではないが、概ね大正末から昭和ひと桁、10年代の初めごろまでの生まれの面々、最終の名前でいうと、延若、雀右衛門、芝翫、富十郎、門之助、宗十郎、田之助などに、猿之助も数えられることがあったが、扇雀も数の内に入った。この人たちを集めた公演が時々(忘れた頃に!)行われたが、延若・雀右衛門の『時雨の炬燵』や宗十郎の『傾城道成寺』、延若の上野、雀右衛門の初花、猿之助の勝五郎、富十郎の筆助で『躄の仇討』などという傑作秀作もあったし、大宅壮一原作で延若が乃木将軍になる『炎は流れる』などという懐かしの珍品も見た。(羽左衛門が明治天皇で特別出演し、テレビの番組で、『明治天皇と日露大戦争』という一世を風靡した映画で明治帝を演じて評判だった嵐寛寿郎と対談したのを見たことがある。)川口松太郎作『寒紅梅』というのもあった。これは長いこと結婚するしないの状態が続いていた猿之助と浜木綿子が遂に結ばれることになったのを祝って、二人を共演させるために作った作品で、夜の追い出しだった。この年の暮れ愛児が誕生する。誰のことかは言わずもがな。こうした状況の中から、猿之助は50年代に入ると、例年4月は明治座(まだ前の建物である)を本拠に復活物を次々と手がけ(かの『伊達の十役』がその中の最大の当り狂言である)、その少し前から毎年7月の歌舞伎座をわがものとし(これは病いで倒れるまで続いた)、さらにスーパー歌舞伎を始めるなど、幾つもの路線を確立して、谷間の世代グループから抜け出し、また扇雀も、近松座を始めるなど「藤十郎への道」を驚くべき長大な展望を以って歩み始め、これもいつしか谷間の世代の色を薄れさせた。

と、この辺までくれば、あとはみなさんご存知の話ばかりになる。代表作は何か、というより、一番充実感を感じさせたのは、三代目鴈治郎を期間限定で名乗っていた、前世紀末から今世紀初頭にかけてのほぼ10年余で、つまり『一生青春』を出版したころではなかったろうか。心技体揃ったあの頃は、何をさせても凄かった。

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藤十郎以外にも訃報があった。尾上菊十郎、この人も昭和ひと桁生まれだ。前名をたしか尾上梅五郎といって、『高時』の終幕に登場して高時を翻弄する烏天狗をしていた時に目に留まったのが、その存在を認識したはじめだった。さっきちょっと書いた、菊五郎が若き日に主演した大河ドラマの『源義経』で、奥州を指して落ちてゆく義経一行を追捕しようとする追手の役で出ていたのを覚えている。(と、『演劇界』の最近号で、菊五郎が菊十郎を追悼する思い出話の中に、この役のことに触れているのを読んで、オオ、と思わず声に出た。)『暗闇の丑松』の湯屋番とか『髪結新三』の鰹売りのことは皆さんご承知とは言え、私の見た内ではやっぱりこの人のが一番、けざやかに記憶に残っている。

新派の小泉まち子さん。こういう人たちが健在であるうちは、新派はその存在を自信を持って主張することができるという、そういう一人だった。

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野球では訃報ではなく、馴染みの選手の引退が毎年この季節に出ると、一瞬、フームとため息が漏れる。藤川球児、岩隈久志、五十嵐亮太。ソフトバンクの内川は現役続行の意思と新聞で読んだが・・・。岩隈の引退で旧・近鉄の残党は現在ヤクルトの坂口と近藤の二人となった。その近藤は戦力外を通告されたというが・・・

琴奨菊。相撲取りらしい風格がよかった。前にも書いた気がするが、本当は少し先輩なのだが栃錦などと同時期に大関だった三根山という力士がいた。便々たる太鼓腹(と、昔のアナンサーはよく言ったものだ)、がぶり寄り、非力、大関から下がっても悪びれず長く相撲を取ったこと、等々々、琴奨菊と重なり合うところの多い力士だった。優勝が何回とか、連勝がどうとかではなく、こうした存在も名大関というべきだろう。

そうだ、把瑠都も引退したのだなあ…。最近はむしろ外人力士の方に、相撲取りらしい風格・風情を覚えることがよくある。気質、気っ風、気は優しくて力持ちという感覚。これも時代か・・・、近頃の、特に大学出の力士の物の言い様の尤もらしいこと。

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朝ドラ『エール』が終わったが,モデルの古関裕而への興味から最後まで見てしまった。ところで前にも何回か、駄目出しめいたことを書いたが、実際に自分が知っている「近過去」を舞台にするドラマにはどうしても、何じゃコリャ、と言いたくなることが目に付いてしまう。まあ、やむを得ないかと思えることと、もう少し注意すれば何とかなる筈と気になることとがある。最終週、JOCか何かの使者が主人公宅へオリンピックの開会式の入場行進曲の作曲を依頼に来た場面で、スーツに身を固めた使者3人が3人とも、(その1)帽子をかぶったまま玄関に入っている。他人の家に入る際は(まして、重要なことを依頼に来たのならなおのこと)、玄関先で帽子を脱いでから入るのが礼儀である。帽子をかぶったまま他人の家の中へずかずか入るのは、戦前の特高の刑事ぐらいなものだろう。(その2)しかもそのかぶり方が、3人が3人とも、阿弥陀にかぶっている。一杯機嫌で、よほど気を許した相手の前でもなければしないことで、ましてこんな場でする筈がない。他にも、長髪の軍人とか、今風の髪型の放送局のスタッフとか、挙げ出せば切りがないが、昭和30年代はもはや時代劇同様、時代考証が必要なのだろう。とすると、こんな繰り言を言うテメエはもはや時代劇時代の人間ということか。

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最後にお知らせをひとつ。近日、別枠で『眼中の役者たち(抄)』という文章を掲載することにします。歌舞伎を見るようになった昭和30年代以降、私の見た、文字通り「眼中」にいまも生きている役者たちを回想するエッセイ集です。本にしたいと思って書き始めたものですが、このご時世、棒ほど願って針ほど叶えるのも難しく、それならいっそと、かくなることとなったものです。ご愛読を賜れば幸いです。

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随談第635回 簡略版御免

月末に至って小忙しいことが重なったので、今回はごく簡略版(簡潔版?)とさせていただくことにしたい。

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国立劇場の歌舞伎は毎年10月が新年度スタートのようなものだから、今月の大歌舞伎は理屈から言えば「再開」というわけではないが、まあ、コロナ騒動以後初という意味で、再開のような気分だ。古典一本に小品がついて一部二演目で二部制、幕間があるわけだがそういうことができるのも、あの広いロビーがあればこそだろう。国立ならではの一得か。

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昨今の世の中の空気が何やらゆるんできている中で、歌舞伎座の一部一演目というやり方についていろいろな声を聞くが、世の中がゆるんできたのは政治的判断やら一般のコロナ疲れやら、人間の側の事情や都合によるもので、コロナそのものの客観情勢はじつは何も変わっているわけではない以上、固くこの方式を守り続けているのもまた、一見識というものだろう。正解は神ならぬ身の誰にもわからない。

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先月の『双蝶々・角力場』で濡髪・放駒の一番が終わった後、木戸口から一人も観客が出てこなかったのは、あの場所は無観客の興行だったに相違ない。察するに原因はコロリの流行か?

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コロナに対するスタンスは国立劇場の方が歌舞伎座よりもゆるい。新国立は更にゆるい。これは如何なる儀にや、事のついでに問い申さむ、か?

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百年前のスペイン風邪は、最も猛威を振るったのは秋からの第二波であったそうな。島村抱月が感染して死んだのは11月、松井須磨子の後追い自殺は明けて正月早々のことだった。

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縁起でもない話をしてしまった。くわばらくわばら。(と言って、イマドキの方々にもおわかりいただけるだろうか?) 

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というわけでもないが、今回はこれでおしまいにさせていただきます。次回以降、またご愛読願えれば感謝します

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随談第634回 人間万事マスクの世の中

バスに乗り合わせた50年配のおばさん風の女性が花柄のワンピースと共布のマスクをしていたり、マスク風俗も堂に入ってきた感のある一方、ノーマスクの乗客が騒いだために飛行機が緊急着陸をするというニュースがあったり、地下鉄の中でノーマスクに入墨の強面のオッサンが辺りを睥睨しながらエヘンエヘンオッホンとやっていたりする。この手の反抗族が現れるのも、マスク風靡が時代風俗として定着しつつある逆証明のようにも見える。

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九月の歌舞伎座は今回も「大歌舞伎」の看板を掲げた。吉右衛門に玉三郎、それに梅玉も出ているのだから、微塵も偽りはない。『引窓』などは、「秀山祭ゆかりの演目」と謳っている。白秋九月は、世が世ならば秀山祭の月なのだ。十月には国立劇場に菊五郎が出、歌舞伎座に白鸚が出、仁左衛門が出る。国立には菊五郎と一緒に時蔵も左團次も出るから、この三カ月でほぼ顔が出揃うことになる。(そうか、海老蔵がまだ出ていなかったっけ!)

と、これを書いているさ中に、政府から措置緩和の方針が出て、野球場は収容人数の半数まで、コンサート、歌舞伎、映画館など、観客が無言でいるたぐいのホール、劇場はフル収容でよろしいということになったが(歌舞伎の掛け声はどうするのだ? 尤も、クラシックのコンサートで曲が終わるか終わらぬかにブラボー!と絶叫する観客がこれを機になくなるのは結構なことかもしれぬ)、急にそんなことを言われたって、現に今月の興行は今まで通りソーシャルディスタンス厳守の態勢を前提としてチケットを販売しているのだし、4部制はどうするのだとか食事はどうする等等等と、そう俄かには急カーブを切るわけには行かない問題がいろいろ絡んでいる。コロナウィルス諸氏がいつ大人しくなってくれるのか、先が見えない限り如何ともし難いわけで、舞台に役者が大勢居並ぶ大曲輪の芝居には当分お目にかかれそうもない。今月第一部の『曽我対面』なども本来その手の狂言であるわけだが、いつもはずらりと居並ぶ大名連が6人しか出ないのはソーシャルディスタンス故であろう。大どころの面々はともかく、いわゆる下回りの役者たちの出番が縮小されるという光景を、すでに再開以来、いろいろな形で目にしているが、番付(例の無料のリーフレットである)の出演者連名を見ると、その割にはかなり大勢の名前が載っている。楽屋での仕事等々、それなりの配慮がなされてのことと推察される。

さてこの『曽我対面』だが、役者の粒が小さめとは言え好配役を揃え、梅玉の工藤、魁春の虎、歌六の鬼王、又五郎の朝比奈、錦之助の十郎など当代での一級品として賞翫に値する。松緑の五郎も高音がきれいに出るようになって結構だが、セリフ尻に駄目押しでもするような不思議なアクセントが付くのが耳障り、玉に瑕というものだ。ところで歌六の鬼王が袴の股立ちを取って出る。もう今後は、白鸚や吉右衛門が大ご馳走で出るということでもあれば格別、これを規範にするべきであろう。

第二部の『かさね』が思いのほかの好舞台だった。猿之助のかさねが、若い時に身につけた女方のこなしが良き頃合いに熟れてきているのに加え、いまとなっては加役としての女方ならではの、こしらえてかかった濃厚な色気がうまい具合に熟成して、とろみの具合が絶妙のシチューのような味わいだ。本来長く複雑な筋を持った狂言の一幕ならではの「よき不純物」をうまく発酵させている。何が何だかよくわからないような背景にある物語が、それ自体はどうでもいいようなものながら、不気味な背景となって効いている。それを引き出したのは猿之助の加役としての女方の芸である。(そういえばかれこれもう10年余の以前、海老蔵の与右衛門とロンドンへこれをもって出かけて、ちょいとした評判を取ったことがあったのを思い出した。当時はまだ亀治郎で、海老蔵よりひと回り小さい扱いだったが、見せてもらった現地の新聞評は亀治郎の記事の方が多かったように覚えている。)幸四郎の与右衛門の色悪ぶりもなかなかのもので、してみると先月の与三郎の期待外れは一体どういうわけだったのだろう? ところでこの『かさね』には、尾上右近ならぬ清元栄寿大夫が「出演」しているという、観客にとっては余禄がある。
第3部が「秀山祭ゆかり」の『引窓』である。吉右衛門が濡髪に回って菊之助が与兵衛、雀右衛門のお早、東蔵のお幸という水も漏らさぬ布陣で、コロナ禍以来ひさびさの丸本狂言である。ようやく「芝居」を見たという思いがする。新聞評にも書いたが、菊之助の与兵衛が、つい先ごろまで廓に出入りして遊女を引かして女房にした男という軽さと甘さがあるのが面白い。

さて第4部が「映像×舞踊特別公演」と銘が打たれて『口上』に『鷺娘』と番付にある。所要時間60分の由。『鷺娘』はそれほど長い踊りではない。ハテ如何なる儀にや、と思ったら、まあ何のことはない、前半の「口上」というのは、玉三郎ご本人がある時は生身で、またあるときは映像中に登場して、バックステージツアーよろしく歌舞伎座の奈落を案内してくれるというもの。後半の『鷺娘』は、白無垢の衣裳の前段と後段の部分は実演(という言い方も妙なものだが)、中段の、衣裳を引き抜いて町娘の姿で踊る華やかな場面は「平成17年5月歌舞伎座にて収録」とある映像でつなぐ。当然ながら、杵屋直吉・杵屋勝国以下の長唄・三味線・鳴物も映像の内だから生の演奏ではない(この落差もひっかかる)。幕切れは生身の玉三郎が瀕死の白鳥式に倒れ伏して幕となるのだが、と、いったん下りた緞帳がまた上がって、半身起き上がった玉三郎が満場に向かって手を振る。と、万雷の拍手の中、再び緞帳が下りるが拍手鳴りやまず、また緞帳が上がる、今度は立ち身で玉三郎が手を振る。と、三たび緞帳が下りて打出し、という次第。これを何とや言わむ? 新聞には「玉三郎リサイタル」と書いたが・・・。ただひとつ、「口上」の冒頭で玉三郎が、私は『道成寺』も『鷺娘』も、旧歌舞伎座の舞台で舞い納めた心算でおりますと述べていたことを、聞き逃すべきでない一言として書き添えておくべきであろう。もう一つ、観客の入り、満場の拍手、いずれも今月4部の内で一番であったことも。

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今月はもう一つ、国立劇場の文楽が、二月以来の半年ぶりの公演である。二月は、何とか楽日まで無事終えたところで、各劇場閉鎖という事態となったのだった。最近あまり耳にしなくなった言い草でいえば、滑り込みセーフというやつである。で、五月は緊急事態宣言中だったから、今回は半年ぶりということになる。それかあらぬか、各演目各演者、溜まっていた鬱憤を晴らそうというかのような熱演又熱演である。中でも、呂勢太夫・清治、呂太夫・清介の『絵本太功記』尼ヶ崎の段がこれぞ文楽と言うべく、就中、大詰の清介のタタキの凄まじさは往年の先代寛治を偲ばせる快演で、お陰でこちらも溜飲が下がった。第二部の『鑓の権三重帷子』は随分久しぶりのような気がするが、いま見るといかにも戦後の近松礼賛ブームの中で陽の目を見た作ということが改めて思われる。「数寄屋の段」で咲太夫が休演、思えばこの人もかれこれ八十翁のわけだ。4部制とは言い条、第4部の『壷坂観音霊験記』には「文楽入門」となっていて解説がつく。鑑賞教室とは別の、大人の初心者向けらしい。つまり今月の文楽は、正しくは三部制+初心者講座という構成である。なお、太夫・三味線はマスクその他一切なし、文楽の義太夫なのだから、これは見識というべきであろう。その代わりもちろん、床の真近の席には客は入れていない。

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国立の能楽公演で袴能があった。喜多流の『忠度』で、シテ・ワキその他の演者、地謡、囃子すべて紋付袴である。地謡は、再開した7月の公演では黒の覆いをつけていたが今回はなし、人数も八人と正規の人数だった。面も衣裳もつけない袴能には独特の良さがあるが、それだけに「言葉」に頼る面が多くなる。普段はさほど気にならない、シテの声が大鼓・小鼓の掛け声に消されがちになるのが玉に瑕である。しかし今回、『忠度』以上に感嘆したのは山本東次郎の狂言小舞『住吉』、わずか6分に神髄があった。

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以前からひそひそ囁かれていたものの、ああやっぱりあの噂には根も葉もあったのだということを証明するような事態で退陣劇があったり、寝業師の暗躍があったりの幾幕かの芝居があった末に新首相が誕生した。まあ要は、先人にべったりの腹心と見えていた人物が、胸中密かに「俺ならああはするまい」「俺ならこうするが」といった目をどれだけ秘め、養っていたか、であろう。木下藤吉郎が、信長に「愛い奴」と思われるために200パーセント服従、300パーセント以上の忖度・献身をして出世双六を躍進しながら、俺ならああするこうする、という目を養っていたように、である。

その新内閣人事の下馬評をあれこれするテレビ番組で、二階幹事長が「続投」といった言辞が飛び交ったが、二階氏はいつ野球の選手になったのだろう? 「登板」「降板」「続投」どれも野球用語だと思っていたら、民放のワイドショーならまだしも、NHKのニュースでも「××氏続投」と分別顔でキャスターが言っている。もはやそれは、「比喩」という域をはるかに逸脱している。もしかすると、比喩とすら思って、いや感じていないのかもしれない。

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その野球の話だが、中日ドラゴンズが1月に死去した元監督の高木守道氏の追悼試合をするという小さな記事を見つけた。そうだった。2月に野村・関根といった往年の名選手のことを書いた際に、うっかり名二塁手高木死去のニュースをド忘れしていたのである。
 私などの世代の者が小学生のころ後楽園球場でプロ野球を知るようになった当時、名二塁手といえば巨人の千葉茂ということになっていたが、戦前からの大人の野球通には苅田久徳という名前の方が近しかったろう。こういう喰い違いは、時代時代、また世代世代で如何ともし難いことで、むしろこうしたことの繰り返しこそが、プロ野球でも歌舞伎でも大相撲でも、伝統ある「芸」の世界らしいともいえる。高木守道は、昭和30~40年代、つまりテレビ中継で野球を知るようになったファンが急増した時代に、二塁手という、いかにも「通好み」のする「味な」ポジションのイメージを植え付けた名手だったというべきだろう。もっとも今度の追悼試合は、長嶋巨人と優勝を争った中日監督としての高木氏を偲ぶものであるらしい。

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プロ野球各球団のユニフォームが何種類もあるのは、かつてホームチーム用とビジター用と2種類だけだった昔を思うと隔世の感だが、そのくせ、中日・ヤクルト戦などでは、両チームとも、上がブルーに下が白のツーピース、もちろん色合いに違いがあるとは言え、パッと見には同じように見える。本来、敵と味方を一目瞭然で識別できるためのユニフォームなのだから、気が利かない話だ。巨人ならオレンジ、広島カープなら赤という具合にチームカラーを使ったのが各球団にあるが、何故か概して感心しないデザインが多い。阪神の黄色いのなど、虎がバターになってしまいましたという『ちびくろサンボ』のラストみたいでいかにも弱そうだ。縦縞模様にしてこそのタイガースではあるまいか。

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野球の選手が何かの拍子に帽子を脱ぐと、オヤ、この選手はこんな顔だったのかと意外の感に襲われることがよくある。今シーズン限りで引退を表明した藤川球児の素顔は、今度初めて知ったわけではないが、しかしやはり、改めて、ヘーエと思わされた。素顔で引退の弁を語る藤川を見ていると、発言の内容といい話しぶりといい、威勢のいい快速球を投げるだけの人物でないことを物語っている、ように見える。

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コロナ後はじめて国立演芸場に出向いた。特別企画公演として林家正雀が「彦六ばなし」と題して、師匠の林家彦六となって死んだ八代目正蔵ゆかりの噺をする会である。一時開演、4時15分ごろ終演というのが演芸場本来のカタチだが、一時開演2時半ごろ終演とある。(もっとも実際には、眼目の『梅若礼三郎』が長講50分で、20分ほどはみ出したが。)やはり入り口でシュッと吹きかけられた手をもみもみし、体温測定を施され、自分でちぎった半券を箱に入れ、プログラムは各自お取りください、席も前後左右には人なく、お陰で前の人の頭が邪魔にならず安心して聴ける、というところはご多聞に漏れない方式である。もちろんマスク着用は言うにや及ぶで、日本的完璧主義はいまや完全に徹底、定着している。

正雀を聴くのは随分久しぶりだ。師匠彦六について芝居噺をするというので早くから注目はされていたが、口跡が固くてお世辞にもうまいとは言えなかった。しかしケレン味のまったくない真摯な姿勢には好感を覚えていた。久しぶりに見る高座は、綺麗な銀髪に風格も感じさせ、芸風は変わらない中にもゆとりが出来て、見事ひとかどの噺家になり遂せている。特に師匠に似せているわけではないにもかかわらず、『梅若礼三郎』という古風な人情噺を語り込んで行くうちに芸の姿がかつての正蔵の芸と重なり合う具合は、こういうあり方こそ、芸の継承として本物というべきであろうと思わされる。近ごろ稀な、静かで快い感銘を覚えた。

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神保町シアターで原節子特集をやっていて「東京の恋人」が上映されるというので見に行きたかったが、上映時間がうまく都合がつかず断念した。ここ数年、何年かごとに出ているので再会はすでに何度か果たしているのだが、見る機会はそうあるわけではないから残念には違いはない。この映画は昭和27年7月の封切りの時に小学生だった夏休みに見ていて、同じ年5月の高峰秀子の『朝の破紋』と共に私にとってはこよなく愛惜置く能わざる作品なのだ。映画史上の定番の評価としては、まあ中の中かせいぜい中の上という作なのだろうが、諸人知らぬものない大家名匠の手になる名作とはまた違った、いとおしさがある。もっとも『朝の波紋』は五所平之助監督だが、『東京の恋人』の方は千葉泰樹という手練れの職人監督で、二年前の『山の彼方に』などと共に、多少落ちつきを取り戻しながらも戦争の後遺症が傷口を開いたまま、という時世を、問題作話題作の重苦しさをすらりと避けた娯楽作に仕立てているところがミソである。

『朝の波紋』もそうだが日本が独立を回復した年に作られたこの二作には、戦前には高級住宅街(お屋敷町と言ってもいい)であったところが焼け跡のままになっている情景が映し出される。(終戦から7年経った東京の街の実態はまだそんなものだったことがわかる。)そこに掘立て小屋を建ててやもめ暮らしをしている三船敏郎が、バリっとした白の麻服にパナマの中折れ帽という紳士然とした夏姿で銀座に現われる。十朱久雄と沢村貞子の夫婦が経営する宝石店に、ウィンドウに飾るためのコピーの指輪を製造、納めに来るのを業としている。その店の前に画架を立てて道行く人の似顔を描いて暮らしを立てているのが原節子という設定で(街角の似顔絵描きというのも、当時の都会風俗のひとつである)、チェック柄のシャツにズボンといういで立ちである。(スラックスなどという言葉は当時の日本人はまだ知らなかった。)その宝石店の二階にオフィスを構える、折から流行り出したパチンコの玉の製造でちょい成金になった会社の社長が、まだ「名優」になる前の森繁久彌、その女房が清川虹子、行きつけの飲み屋の女将が藤間紫、不幸にもまだ夜の女の境涯から抜け出せずにいる娘が杉葉子(つまり銀座にまだその手の女性が徘徊していたわけだ)・・・といった配役で、三船の住む元お屋敷町の焼け跡以外は、銀座と、勝鬨橋を渡った先の(原節子や杉葉子の住まう)貧しいが人情味ある街からカメラは外に出ない。(それにしてもみんなまだ若いこと! 小泉博が靴磨きの少年役で、その弟分の役の井上大助という当時人気の少年俳優もなつかしい。)私は原節子の格別のファンでもなければ、まして女神の如くに拝跪する好みも持たないが、小津作品でいえばこの前年が『麦秋』で翌年が『東京物語』という、彼女の一番盛りの狭間に作られた、人のあまり知らない谷間に咲く花として、このチェックのシャツにズボンをはいた彼女を一番好ましく思っている。三船敏郎も定評ある時代劇の剣豪も悪くないが、こうした現代劇で少々マッチョな都会紳士を演じているときが一番格好いい。もうひとつ、最後にして最小ならずに言い忘れてはならないのは、この映画の一番の主役が勝鬨橋であることで、時間になると遮断機で都電・車・歩行者を止めて橋の開閉をする様子を見るだけでも、一見の価値は充分ある。東京タワーの出来た昭和33年を基点に30年代を「昭和レトロ」一色に塗りこめてしまうのが、いつのまにか世の「定番」になってしまっているが、サンフランシスコ講和条約が発効しGHQが帰って行った昭和27年をもっと注目すべきだというのが私の「戦後昭和論序説」で、美空ひばりの「お祭りマンボ」がこの年のシンボル曲である。(因みにあの曲では、お神輿を担ぐ掛け声は「ワッショイワッショイ」であり、「セーヤセーヤ」ではない。)

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本当はもうしばらく前に書くべきだったが、訃報欄にウィリー沖山という文字を見つけた。特に関心があったわけではないが、こういう名前は、いかにもある時代をささやかながら体現しているから、ほんの数秒間にせよ、ある種の感概を引き起こされる。藤木孝などはひと頃駒込にあった三百人劇場でシェイクスピアなどやっていたのを何回か見ているから、多少の感概を呼び覚まされるが、もっとももうこちらが一定の年齢に達していたせいもあって、その名と共に蘇る同時代性という意味では、ウィリー沖山に及ばない。岸辺シローとなると更にそれだ。もっとも守屋浩となると、テレビが電気紙芝居といわれていた頃の安手な感覚が、昭和30年代という、ある種の半端な、かるが故に時代性を強烈に宿していた時代の表層を彩った多くの名前のひとつとして、今となっては奇妙な懐かしさがある。ついこの間死んだ弘田三枝子などと共通の時代の匂いである。

山本寛斎は、ようやく売り出してテレビでちらほら顔を見かけるようになった当時、山手線の同じ車両に乗り合わせたことがある。人目を集めるための奇抜なヘアスタイルや服装で売り出しに努めていた頃で、エラくなってからの寛斎氏より妙にいとおしい。

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ジュリエット・グレコの訃報か。ふーむ。グレコ自身はいいと思うが、それを取り巻くおパリ・おフランス人士が気になるなあ。

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訃報とは違うが、貴景勝が北天祐の娘と婚約というニュースがあって、久しく名を聞かなかった北天祐という名前が紙面に載った。北天祐はいかにも大物らしいムードを漂わせた強豪大関だったが、当時年末のテレビの恒例の番組で、各界の人気の運動選手(アスリート、などという聞いた風な言い方はまだ普及していなかった)が、何段もの跳び箱をしたり綱引きをしたり、大騒ぎをする番組に出演して思わぬ大怪我をしたのが元で引退することになったのだったと覚えている。それにしても、千代の山→北の富士→千代の富士→北天祐と、あのころまでは相撲大国北海道の出身の強豪力士の系譜がくっきりと連なっていたことが思われる。

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朝ドラの『エール』がいよいよ軍歌作曲の時代にテーマが移り、「露営の歌」と「暁に祈る」をめぐる件が既に放送になった。ここらがこのドラマのヘソの部分だろうが、「露営の歌」を長調の曲にという当局の要望を押し切って短調で作曲したという件があった。それで思い出すのは、近年忘れられたかのような名前だが、ひところテレビ文化人として知らぬものもない存在だった高木東六という音楽家が、この人は戦争協力を避け軍歌もやむを得ず一曲だけ、それも短調の陰々滅々を嫌って長調で作曲した、というのをしばしば広言していたものだったが、古関裕而を念頭に置いて言っていたのかどうかまでは分からない。

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IOCが、何が何でも来年にオリンピックをやる気らしい。「人類がコロナウィルスに打ち勝った証し」というのを錦の御旗とするのだろう。ウィルスは人間が藪をつついたから出てきたまでで、向こうから戦いを挑んでいるわけではないが、ワクチンができるか否かに関わらず開催するというのだから、ま、そんなことはどうでもいいのだろう。戦時中、「この一戦、この一戦、何が何でも勝ち抜くぞ」という歌があったのを思い出した。あの手の歌は軍歌とはまた別に、銃後の国民を鼓舞するために、戦中無数に作られたのだった。

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信号待ちのこちら側に老夫婦、対岸に自転車にまたがった巡査が二人。老夫婦は共にマスク着用、巡査は、一人はしているがもう一人はノーマスク。そこで老夫婦の会話。「オヤ、お巡りさんはマスクがなくてもいいのかな」と、これは私がとある街角での実見である。

大相撲千秋楽の優勝力士表彰式に先立つ『君が代』斉唱にあたって、「皆さまマスクをしたまま声を出さず、心の中でご唱和ください」と場内アナウンスが言っている。

マスクかな 嗚呼マスクかな、マスクかな・・・ですかね。

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前回、8月に映像配信された吉右衛門の『須磨浦』の評を本紙夕刊に掲載の予定と書いたが、その後、事情で9月8日付の電子版掲載となった。ちょっとお詫びを申し上げる次第。

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随談第633回 歌舞伎再開

歌舞伎座が再開場した。先ずはその実地報告から始めよう。全席約1800席を823席に削減、前後左右が空席になる、千鳥模様に綾掛けをした形だから、前の席の人の頭を気にする必要がないのが一得という、何ごとにも思わぬ余得はあるものだ。この8月は国立劇場も稚魚の会・歌舞伎会の合同公演が5日間、音の会が二日間、どちらも小劇場ながら開場したから、足並みが揃ったことになる。「曲がりなりにも」という言葉はこういう場合に使うのが最適、と中高生の現代国語教育の用例になり得るかもしれない。

そういえば国立劇場のロビーに「すわれない席と並んでわすれない感動を」という(やや苦しい!)キャッチコピーが飾られ、どうぞ「社会的距離」を確保してくださいと場内アナウンスが言う。SOCIAL DISTANCEという外国語を使わないところが古典劇の劇場としてのプライドか?(だがそもそも、「社会的距離」って一体何だろう? 国交断絶とか、村八分とか、お隣同士口も利かない、とかいうのかと思うとそうではない。わかったようなわからないような、それで片仮名用語にしてお茶を濁す、官製用語の悪見本のようだ。そもそもソーシャルディスタンスって、もしかしてジャパニーズ・イングリッシュか? 文法的・語釈的に如何なものだろうか? 当初、他にも幾つか言われていた中ではフィジカル・ディスタンシングというのが一番実態に即しているように思うが、いつの間にかソーシャルディスタンスに一本化されてしまったのは何故だろう? コレデイイノダ、という方があったらご教示いただきたい。)がまあ、それはともあれ、座席は同じく綾掛け式だが、花道脇の席をずーっとつぶした歌舞伎座に対して、こちらは前の方数席だけ。『吃又』の冒頭間もなくに虎出現の騒ぎに出てくる百姓たち(それも4人しか出ない)のせりふの飛沫がかかる恐れのある範囲にとどめている。一方歌舞伎座は、『吉野山』のいつも花道でやる早見藤太と花四天のおかしみのやりとりを本舞台でする。

(それにつけてもだが、九月には文楽の公演があるが、文楽の太夫の飛ばす「飛沫」の量と飛距離は役者のせりふどころではない。たぶん厳重なマスクをするのだろうが、以前、料金が安いということもあり、太夫の一言一句が身に沁みて聞こえるような気もして、もっぱら床の真下の席で聴くことにしていたことがある。ある時、津大夫の唾が私の右の高頬にひやりと飛んできた。汚いどころか後で顔を洗うのもためらったほど嬉しかったものだが、別の時、某大夫の唾がかかった時には、思わず拭いてしまったっけ。盛りの頃の津大夫をたっぷり聴くことが出来のは幸運な巡り合わせというものだったが、そう言えば三人遣いの人形をどうやってソーシャルディスタンスを「確保」して遣うのだろう? あれこそ三密の代表のようだが、もっとも人形は無言の業だから、まあ、いいのか?)

歌舞伎座の四部制というのはおそらく歌舞伎史上未曾有の椿事(「珍事」ではありませんからご注意を)であろうが、一番長い『吉野山』が60分、一番短い『棒しばり』は42分と時刻表にある。短い上演時間、登場人物の少ない人気狂言というのが基本条件だから、『助六』など夢のまた夢、思いもよらぬ。(『勧進帳』ならOKか。しかし詰め寄りのところのソーシャルディスタンスをどうするか?)入場口で体温測定をし、プシュッと薬品を掛けた手をもみもみし、チケットの半券は各自ご自身でもぎってこの箱に入れてくださいという方式は、ほとんど病院に近い厳重さだ。日頃「ご観劇の記念に」と売っている「筋書」もなし、配役とごく簡単な梗概を載せた簡単な無料のプログラムが玄関を入ったところに、ご自由にお持ちくださいと置いてある。売店は一ヵ所、それも飲み物のみ、食事は一切なし。そもそも各部一演目で、終了ごとに場内消毒のため総員退出、昼夜続けてご覧になるお客様はそのまま中でお休みくださいなどということはないから、次の部が始まるまでの平均約1時間半乃至2時間は、各自の裁量で外で過ごすしかない。一日で四部すべて見るには、この一時間半乃至二時間を都合三回つぶす算段をする必要があり、しかも折からの酷暑のさなか、気散じに銀座なり築地界隈を散歩でも、というわけにもゆくまいと、いつもは昼夜一日で見ていたのを二日に分けて見ることにしたが、後で聞くと、4部通して見た人もかなりいたようだ。しかし九月は二日に分けて見ることにするわ、という声もあったところを見ると、やはり大変だったのだろう。近くの喫茶店で過ごすぐらいしか手はない筈だ。一部すむ毎の総員退出は、観客だけでなく出演者・裏方からスタッフまでという徹底ぶりだから、5日目の第三部が、スタッフに一名、疑わしき反応が出たために休演となっただけですんだらしいのは、ともあれめでたいことであった。(即ち私の見た翌日である、危ないところだった。)

ところで肝心の舞台だが、たまたまと言うべきか、例年8月は幸四郎・猿之助を芯にした納涼歌舞伎の月だから、一種実験的な意味合いもある(つまり「瀬踏み」である)この再開月にはふさわしかったと言える。第一部が愛之助に壱太郎で『連獅子』。朝一番から獅子か、などとはこの際言うまい。それなりの格式と儀式性を感じさせる松羽目物、再開場を飾る一番目にふさわしいと見えないこともない。二人とも優等生らしい真面目な舞台ぶりの役者だから、先ずは第一走者としての走りを見せたというところか。但し、観客の方も、おっかなびっくり瀬踏みをしているらしく(繰り返して言う、私の見たのは三日目である)、一階上手寄りの前方辺りや通称ドブという花道の裏側に、ぽっかりと無人の空間ができていた。これが56分。出演者は親子の獅子に、間狂言の僧二人の計4名。長唄囃子は五枚五挺でそれなりに、即ち1メートル程度?のソーシャルディスタンスを取って雛段に居並ぶという簡素さが、今は絶対条件なのだ。ついでながら、唄も囃子も黒覆面、じゃなかった黒布で顔を覆っている。(先月から始まった国立能楽堂の能の公演でも、演者はシテ・ワキともいつも通りだが、地謡が人数を減らし、顔を黒布で覆っていた。)ともあれ、こうしてコロナ禍の中、歌舞伎は再開したのだった。

第二部は勘九郎・巳之助の『棒しばり』でこれが42分。普段なら中幕物だが、これ一本でオシマイである。親同士が名コンビで売った狂言舞踊、どちらも親に真似びて微笑ましくも悪くないが、上等なお菓子をいただいて結構なお点前でしたと満足するには、当然ながらまだ道半ばなのは致し方ない。4部を通じて言えることだが、各部それぞれで観客の色合いが変わる。つまり各部それぞれの出演者の熱心な贔屓が観客の大勢で、普通一般の歌舞伎ファンというような層は、まだ様子見を決め込んでいるのかもしれない。

第三部、猿之助と七之助の『吉野山』に至ってようやく歌舞伎らしい華やぎが漂い出す。一に演目、二には役者の故であろう。猿之助と七之助という顔合わせは、芸質も持ち味も違うから必ずしも花爛漫の名コンビというわけには行かないが、それぞれの芸のレベルは今月各部での頂上付近、松羽目舞踊が続いた後に竹本や清元が聞こえるとやはりホッとする。客席も、和服姿のアラサー&アラフォー(&アラフィフ)?と思しき女性客が目に付く。静が花道を入った後、忠信が澤瀉屋流で引き抜いて火炎模様の狐姿になると、「猿之助さんはちゃんと手を抜かないでやってくれるからいいわ」などと後ろの席の女性客が囁き合う!? 有難きは贔屓客である。もっとも猿之助も、前段の「はまぐりはまぐり」というところもやって見せるから、かの女性客の寸評もあながち見当外れとも言えないか。

第四部は幸四郎与三郎、児太郎お富という『源氏店』。長身で細身、育ちの良さを全面に出した柄行きといい、見たさまもすることもよさそうでいて、これまで見慣れた与三郎像とどこかですれ違う。あの与三郎と道で行き会っても怖いとも思わないだろう。やくざ者だがどこかに育ちの良さが、芸の含みとして見えるのと、初めから育ちのよさそうなやくざ者とでは、ほんのひとまたぎのように見えてその間には深く隔たりが口を開いている。つまりは、綺麗ごとですんでしまうのが物足りない。仁にありそうで、あるいは然らずか? 考えてみれば、高麗屋の家から与三郎をする役者が出たのも一異変というものだろう。お富も、阿古屋以来、ぐいぐいと進歩をみせてきた児太郎だが、何故か後戻りしたような感じでもひとつすっきりしない。新聞評に未来歌舞伎のようと書いた由縁である。未ダ来タラズ。

中車が弥左衛門、弥十郎が蝙蝠安という配役も無難と言うに留まり、私としてはこの逆の配役で見たい。弥左衛門が無事につとまるだけ歌舞伎の水になじんだ中車だが、そろそろ、もう一歩、二歩、踏み込んで歌舞伎俳優九代目市川中車としての足跡を歌舞伎に刻す意欲を望みたい。無難とは言い条、弥左衛門というのは、演じる役者の風格や味わいがにじみ出て初めてつとまる役である。私は中車の由良之助や菅丞相を見たいとは思わないが、蝙蝠安をする中車ならぜひ見たい。タレント俳優香川照之氏としてテレビであれだけの活躍をするのなら、「中年からの役者」として無難に役をこなす域に留まるより、歌舞伎における「性格俳優」として独自の地歩を切り拓いてみせてくれることをこそ、期待するからだ。蝙蝠安に取り組む意欲を見せてくれたら天晴れを、見事やってのけたなら大天晴れを進呈しよう。

(まったくのついでのはなしだが、ゴキブリ退治の殺虫剤のCMで、ゴキブリ駆除に奮闘する夫婦を中車が1人2役で演じている、その女房の役の女方ぶりがなかなか結構で、ちょいと感心して見ている。「半沢直樹」における超過剰演技より、エスプリが利いていてよほどよろしい。)
ともあれこれで、歌舞伎座は無事再開場を果たしたわけだが、新たな展望が開けたというわけではないから、当面はこの方式で続けてゆくほかはなさそうだ。コロナ禍の不安は、人々の心にどんよりと重くわだかまったままである。

        *

国立劇場も、8月は本興行ではなく稚魚の会歌舞伎会合同公演に音の会という、養成課が担当する勉強公演の月。『修禅寺物語』に『茶壷』、『傾城反魂香』だが気持ちの良い舞台だった。(長唄や竹本のマスクが、歌舞伎座が黒マスクなのに対して白マスクなのは、黒頭巾に対する白頭巾というところか。)『修禅寺物語』という芝居は、なまじ大家の顔合わせで仰々しいのより、こうした形での清新の気漂うリリシズムが真っ直ぐに届いてくる舞台が好もしい。頼家の梅寿など、まだまだ子供っぽいなりにちゃんと頼家になっている。橋吾の夜叉王が、幕切れ、筆と紙を手に桂の断末魔の有様をぐっと見守って幕にしたのがよかった。せわし気に筆を動かす中、幕にするのが多いが、夜叉王ほどの「芸術家」としてかくあるのが然るべきであろう。『吃又』も新十郎と梅乃の実力の程を示す好舞台。「音の会」に稚魚の会OBたちが出演して丸本物の大作をするのが毎回の愉しみだが、今回は芝のぶのお光に京妙のお染、梅乃の久松、新蔵の久作、京蔵の後家という『野崎村』。結構でありました。花道脇の席だったが、駕籠かきの先棒役(新八?)の男振りに感心した。

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7月の幸四郎による図夢歌舞伎に続き、この月も獅童の超歌舞伎、松貫四作で吉右衛門演ずる『須磨浦』と映像配信が続いた。超歌舞伎は6年前に幕張メッセで初演の際に見たが、内容云々以前に、獅童のこれに賭ける熱意に並々ならぬものを感じた。熱狂的な支持を受け年々盛んになり、今年は南座で公演の予定だったのがコロナで流れ、豊島区立のBRILLIA HALLからの中継を配信したもので、見ていると獅童の熱意と献身ぶりは変わらない。その支持のされ方にも、軽視できないものがある。少なくとも、ここで繰り出される「歌舞伎イメージ」が、歌舞伎を一度も見たことのない若い層に何らかのアピールをしていることは事実である。

一方でこうしたものが作られ、配信される中、何と吉右衛門が自ら起って「配信特別公演」として映像を配信するということがあった。制作・著作は松竹、竹本作曲は竹本葵大夫、作調は田中伝左衛門とあるが、吉右衛門が松貫四として台本を執筆、吉右衛門として自ら演じる。題して『須磨浦』。評は日経本紙夕刊に掲載予定だが(掲載日は未定)、『一谷嫩軍記』二段目の「須磨浦」組討を第二場としてこれが眼目、第一場として、熊谷が義経から「一枝を伐らば一指を剪るべし」という、三段目「熊谷陣屋」の例の制札を戴いて帰る「堀川御所の場」をつけて、敦盛を討つ経緯を明示するという構成。これを、歌舞伎座でなく観世能楽堂の舞台で演じるのがもう一つの眼目であり、言うなら能の器に歌舞伎を盛るという、新たなる意匠としての意義と価値に通じる。仕手は吉右衛門ひとり、素面に袴をつけた姿、葵太夫と淳一郎の竹本が地謡の座に座り、伝左衛門ほかの鳴物が囃子方の座に座る。二場とも、仕手は橋掛かりから出て、入る。要するに能の形式に則り、丸本歌舞伎の様式で演じるわけだ。(下座の長唄等は陰から聞こえる。)義経、敦盛等は舞台上には登場しないから、やり取りは竹本と交わす。とまあ、いちいち説明すると煩雑のようだが、現実の能の舞台がそうである如く、極めてシンプルで見事に抑制が効いている。今回は無観客での上演だが、いずれ時を得て、実際に能楽堂で見てみたい。コロナ禍を奇貨として、新たな可能性を切り拓くものと言える。

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最近のテレビでダントツに面白かったのは、ナベツネこと渡辺恒雄氏にインタビューしたNHKの番組だった。天体の運行とわが心の道徳律なるカント哲学の精神と不戦主義、それに共産党入党・除名を経て、戦後政治の渦中にあって火中の栗を拾い続けて体得したプラグマチズムとの、渾然一体となったナベツネイズムは思わず聞き惚れる面白さだった。つくづく思うに、旧制高校の「古き良き事大主義」が生んだ最後の人であろう。戦前派のプラグマチズムと戦後出来のプラグマチズムの厚みの違いに、つい思いを馳せた。

と、折からの首相退陣の報である。吉田茂から鳩山一郎へ、保守合同を経て石橋湛山から岸信介へ、岸から池田勇人へ、さらに佐藤栄作へ・・・とつながってゆく政権の変遷というのは神の悪戯かとも思われてくる。石橋→岸と、池田→佐藤のケースは、今度と同じく病気のための退陣だったわけだが、つくづく思うに、石橋湛山があそこで倒れなかったら、戦後の保守政治も大分違うものとなっていたかもしれない。神の悪戯は、天体の運行ほど、律義でも整然ともしていないのだ。

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7月のことはもはや旧聞となってしまって久しいが、照ノ富士復活のことだけは記しておきたい。前にも書いたが、2015年5月、関脇で初優勝した場所、稀勢の里を上手投げで破って優勝を確定的にした一戦と、翌々場所、横綱を目前にして再び稀勢の里と対戦し、膝から崩れ落ちてその後の悲劇の大原因となった一番を、どちらもこの目で目撃したのが「忘れ難い偶然」となっている。あれがもう5年前のこととは! 一旦大関を陥落してもなぜすぐに手術をして完治を図らないのだろう、そのために一旦は大関から下がっても、若さと力量から言ってすぐにも復帰できるだろうにと不審に思ったものだった。(翌2016年の夏場所後、現・芝翫の襲名披露パーティの席に、伊勢ケ浜親方の令嬢と芝翫の三人息子の誰とかが同じ学校の同級とかの縁で、日馬富士・照ノ富士らが参列、鏡割りをしたことがあったが、あの場所も膝の負傷のために散々の成績だった直後だったので、密かに義憤を覚えたことがある)。怪我の回復の具合とのバランスの問題として出場を続け、その間にようやく横綱を射止めた稀勢の里と優勝を争うという、因縁も生まれたが、運命は人知では図りがたく、このほどのような巡り合わせとなって、オワリヨケレバスベテヨシ、ということになった。この上は、せめて大関までは復活させたい。

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訃報は渡哲也、内海桂子、河原崎次郎、それから山崎正和、といったところか。

山崎正和は、『鴎外―闘う家長』を、ちょうど鴎外に凝っていた頃だったので熱心に読んだ。なるほど、という感じで得るところは多々あったが、あまりにも綺麗に整理されている感じが妙に気になった。『世阿弥』は、現・白鸚のと十代目三津五郎がしたのを見た。ここでも、綺麗に整理されているのが、一抹のしらじらしさを感じさせた。三津五郎がタンバリンを手に踊った場面を妙に覚えている。こんなに頭のいい人はいないと思ったという追悼の言があったが、言い得て妙であろう。

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渡哲也。裕次郎は若い頃は結構好んで見たし、「鷲と鷹」「狂った果実」などはいまでもふっと思い出す愛唱歌だったぐらいだが、渡という人にも別にマイナスイメージはないものの、「軍団」などと言って集団を作るような行為に関心を持てないので、興味を覚えることはなかった。そうだ、大河ドラマの『勝海舟』で(かれこれもう半世紀もの大昔だ)、麟太郎時代までをつとめて病気交代したのだったが、父親の勝小吉役で出ていた松緑に気に入られていた、ということがあったっけ。世間のこの人への評判の在り方が推して察しられるような気がする。

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内海桂子が死んだ。97歳という。この人の、伝え聞く、さながら芝居の筋書のような人生がそのまま、このほぼ一世紀に及ぶ庶民世相史になっている。お見事という他はない生涯である。相棒の好江もまたよかったなあ。

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河原崎次郎が死んだ。長兄の長一郎は映画でもテレビでも結構見ているが、次郎についてはほとんど記憶に鮮明なものはない。守田座の控え櫓であった河原崎座の座元にはじまる名門河原崎家も、権十郎・国太郎という名前は大歌舞伎と前進座とにいまもあるが、血筋を引くのは健三を残すのみか?

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もうひとり、記憶の底から浮かび上がったように、福嶋一雄という名前を訃報欄に見つけた。終戦直後の、まだ旧制で全国中等野球大会だった時の優勝校が平古場昭二をエースとする浪商で、新制となり全国高校野球大会となった最初の優勝校が、この福嶋一雄をエースとする小倉商業だった。私は高校野球の熱心なファンには遂にならなかったが、この二つの大会のことは、幼なかった記憶に何故か刻まれている。死亡記事の外に、別面にやや大きいスペースの記事が載ったのは、甲子園の土をひそかにポケットに入れて持ち帰ったというエピソードの故だが、今日試合終了後に盛大に行われる「甲子園の土」を袋に詰める儀式の元祖とされているらしい。もっとも、甲子園の土を持ち帰ったのは私が最初、という話は結構あちこちにあるらしく、つまり、それぞれ密かにポケットに忍ばせて帰った選手がいても不思議はないわけで、おそらくどれも嘘ではないに違いない。但し「元祖」であるかは否かは、確かめようがないわけだ。広く知られるようになったのは、戦後しばらく出場が叶わなかった沖縄の高校が、初めて出場した際に「甲子園の土」を持ち帰ったのが、まだ沖縄返還以前で「本土並み」でなかったために違法とされるということが報道されたのがきっかけだったのは確かだ。この時は、同情した日航のスチュワーデス(と、当時は女性の客室乗務員のことを呼んでいた)が、土が駄目ならと、小石を焼いて選手たちに贈ったというエピソードが生まれたのが、更に反響を呼び、「甲子園の土神話」が定着したのだと覚えている。

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随談第632回 またも不要不急の話ばかり 図夢歌舞伎

図夢歌舞伎なるものが始まった。トム歌舞伎ではない。夢を図るズーム歌舞伎だそうな。(高名な映画監督で内田吐夢という方があったが、あれは「夢を吐く」のでトムだった。)6月末から7月へ掛け、毎週土曜11時から5回連続で『忠臣蔵』を有料配信するというものだが、このほかにも、各優各自でさまざまな企画が行われつつあるらしい。これも誰ゆえコロナ故にかかる事態となり、日ごろスマホを片手に、当世流のさまざまなメカニズムを苦とも思わず駆使する現代歌舞伎の若く意欲ある諸優がこうした挙に出るのも当然というものだろう。

(とはいえ、私のような、元々「メカ」だの「エレキテル」のたぐいに関心のないままにこの齢となった者には、驚き呆れ唖然とする外はないような話である。ついでに言っておくと、高齢者だからメカニズムに弱いのではなく、もともと若い時からの、これは「気質」の問題であって、ミソもクソも一緒に、高齢者だから新技術に弱い、と見做す当世流の通念には(当世流の言い方をすると)イワカンヲオボエル。)

        *

さて閑話休題、その図夢歌舞伎だが、正規の劇評を8月4日付の日経夕刊に載せることになっているので、これはその、いわばデッサンのようなものとしてお読みいただきたい。まあ何と申そうか、プラマイ共になるほどこういうことか、というのがまず第一の感想、というより感慨である。前回、幸四郎が言い出し兵衛になって、と書いたが、むしろ仕掛け人・仕切り人という方がふさわしそうだ。タイトルとしてはただ『忠臣蔵』だが、内容は『仮名手本忠臣蔵』を、毎回ひとり二人これと思うゲストを招いて、自身が大星・師直・本蔵といった全段を貫く芯になる役を務め、図夢版『仮名手本忠臣蔵』を見せようというのが趣意と見た。猿弥が口上人形を発展させた語り手の陰の声として筋を運び、幸四郎自身もあるいは本蔵あるいは大星として、「独白で心境を語りつつ筋売りをする外に、判官、定九郎、猪、平右衛門等々、あるいは狂言回し、あるいは切り盛り役、あるいは潤滑油等々となる役回りをつとめて目まぐるしく働く。更に終了後に素顔で登場して(幸四郎自身は「映像」部分も生出演であるらしい!)、ときに汗も引かぬままときにゲッソリ?しながら、あるいは挨拶あるいはトークと、サービスにも抜かりがない。この甲斐性! これが第一の売り。

売りの第二は、映像の使い方で、普通の「舞台中継」ではいわば客席から見ているのと同じ角度、というか視点から見ることを前提にしている。もちろん、方々に何台もカメラを置いていろいろな角度から撮るにせよ、客席から見ている臨場感というものが第一なわけで、アップを多用するとか、意外な角度から写すとか、ほどほどにすれば好評を得るが、度が過ぎるとウルサイということになる。あくまで「劇場の椅子」に座って見ている感じ、が生命なわけだ。だが、そういう「劇場の椅子」を前提とした「現実感」とか「臨場感」から疎外された、それを逆手に取れば自由な図夢歌舞伎としては、たとえば「三段目」の喧嘩場で「判官目線」で師直の嫌みなパワハラ爺いぶりをアップで写し、今度は「師直目線」で怒りに堪え、ふるえる判官を見るショットを見せる。映画なら当り前といえばそれまでだが、あくまで『仮名手本・三段目』の舞台を客席からは見られない「目線」で見るというところに、斬新な興趣があるのは確かだ。まあこれが、今回一番の「当り」ともいえる。しかも師直も判官も幸四郎がしているのだから、「四段目」の腹切場では、幸四郎の判官が腹を切るところへ幸四郎の大星が駆けつけて、「襖を押し開く」背中をまず見せて(これも客席からでは見られない)から、つぎに切腹の座の傍らに座を占めて、同じく幸四郎の判官が「無念じゃ」と訴えるのへ、「委細承知」とやる。映画では昔から「一人二役」という手法でやっていることだが、それとはまたひと味ふた味違った「幸四郎リサイタル・図夢歌舞伎」としての面白さは充分にある。染五郎の力弥の「いまだ参上仕りませぬ」も合わせ、「三人?の目力」を鑑賞するのもファンにとってのお愉しみか。つまり映像は(三密回避のため)各役各優を別々に撮影したものの合成であるわけだが、それを逆手に取った面白さと言える。

もっとも、「逆手に取る」といっても、「大序」ではこの逆手が裏目に出て、ゲスト出演の壱太郎の顔世に師直が言い寄る件は、ソーシャルディスタンス風の間隔を取っているため師直のセクシャルハラスメントの「あわや感」が出ないのは是非もない。師直の付文を顔世がソーシャルディスタンスの彼方から勢いよく放り捨てる!と、それを拾うのに前かがみになった師直の上半身が画面から見えなくなってしまう、というような、少々マヌケな事態も生じる。つまり第一回のこの場はまだ「劇場の椅子目線」に捉われていたからこういうことになったわけで、まあここらは、初物尽くしの試行錯誤の内と大目に見ようが、そういえばテレビのごくごく初期のころには、立回りのあと剣豪がハアハア肩で息をしながらセリフを言ったり、登場人物一同隣室へ移動する間カメラが長々とシャンデリアを映していたり、といった間の抜けたことがよくあったものだったっけ。(イマドキのお若い方々のために注釈を加えると、当時はドラマもすべて生放送だったのです。)

第3回に至って、様相は複雑多様になる。場面も「五・六段目」、しかも勘平に猿之助が出演(冒頭、猿之助の勘平と幸四郎の定九郎が「顔をしている映像が映るというサービスがある)、放映時間も第一回「大序から三段目が正味約35分強、第二回「四段目などは30分(このぽっちり感!)に比べ今回はたっぷり50分余、勘平・おかる・おかやのやりとりも浄瑠璃にはないセリフも随所に織り込み、更に竹本も葵太夫が出演、語りのアップも頻繁にありボリューム感が前二回に比べ格段に増すことになる。この回はもっぱら猿之助に預けた形で幸四郎は顔を見せるのは定九郎のみ、後は「余市兵衛内」に(二人侍ではなく一人侍として)やってくる不破数右衛門は声のみの出演、猿弥の「口上=語り手」によると「五段目」の猪もそうだというが、もちろんこれは洒落の内、ちょっとショットが映るだけで、花道の「出」から本舞台を二周するという「苦役」はやらない。ここでのミソは、稲叢を真横から表と裏を見せて(つまり下手の袖から見る形である)定九郎が余市兵衛の財布を奪って突き殺す件を手品の種明かしよろしく見せるところ。なるほど面白いには違いないが、この種のことはほどほどにしないと、同じ手はそう何度もは使えない。(納涼歌舞伎の『弥次喜多』で「四の切」の舞台裏をそっくり見せたことがあったが、つまりあの手である。但し今度は稲藁だから経費はぐんと安くて済む。)

「六段目」は丸本物の愁嘆場の醍醐味を図夢歌舞伎流の演出で見せようという意欲を思わせる。おかるの壱太郎がなかなかのもの、おかやに上村吉弥という配役で、とくにおかやの芝居が舞台以上に前に出る。丸本物三段目の愁嘆場の真の主人公は、『鮨屋』なら弥左衛門『佐多村』なら白太夫、じつは爺役婆役であるという昔から言われていることが、平素舞台で見ている以上にくっきり浮かび上がってきたのは面白い。つまり本質としてスター芝居である歌舞伎芝居と、原作浄瑠璃の綴じ目が図夢歌舞伎流の映像本位の脚本にすると自ずから露呈してくるということか。あるいはそこに、幸四郎(と戸部和久台本)の狙いがあるのか? もっともこれは一面からすると、限りなく映画に近づくことでもあって、言うなら「義太夫入り映画」であるともいえる。女衒の源六は登場しないから、「聟さんは昨夜父つぁんに会ったそうだ、これでご安心」というのをおかるのセリフに書き換えるような脚本上の処理も随所に行われるが、吉弥二役の一文字屋お才(但しこちらは声のみ)も合わせ、4人のやり取りに「大序」のようなソ―シャルディスタンス故のすきま風は吹かず、かなり緊密な画面を作り出すことに成功している。(試行錯誤も回を重ねるごとに学習・進化した故であろう。)

もっとも、省ける人物はなるべく省こうという実際上の都合かも知れないが、少々無理も生じている。五段目で千崎との出会いを出さないので(そもそも千崎自体が登場しない)、(おそらく)勘平は(以前にどこかで)不破に会って、不破から石碑建立のための50両のことを聞き、その50両を何とかならぬかと余市兵衛にもちかけた、ということになる。とすると、余市兵衛がおかるの身売りを決めたのは勘平の要請を受けてのことというリクツになる。ストーリーを簡明にしようとしたためか、それとも他に考えがあってのことかはわからないが、こうすると(おかやから見ての)勘平の罪は一段と深く(許しがたく)なり、その分(観客からすると)勘平の哀れが薄くなることにもなる。即ち本来なら、勘平は勘平で(千崎から教えられた)石碑建立の50両の工面に懸命となり、余市兵衛ファミリーは(それとは別に、勘平の真情を忖度したが故に)彼らなりの考えでおかるの身売りを親子3人の相談づくで決め、それが定九郎という(想定外の)存在が出現したためにすべてがワヤになるという、50両という金をめぐっての不幸な偶然の重なり、イスカの嘴の喰い違い、という「運命悲劇」の綾のもつれ方がいささか変わってくる。猿之助の勘平は幸四郎の意気に添うべくなかなかの熱演だが、薄幸の色男というより「人間悲劇」の趣きが強くなるのは、この台本上の処理のためのようにも見える。もっともこれには、猿之助自身の意図も大きく関わっているようで、腹を切るのも、俗にいう「関西型」で余市兵衛の死骸を見て(客席に?)背を向けたまま腹を切る。幕切れも「早野勘平、血判つかまつったァ」と大きな声で誇らしげに宣言するかのように叫んで、両手を膝に背を伸ばしたまま落ち入る、という具合い。ここらは幸四郎ではなく猿之助の仕切りであったのかもしれない。(加えて、猿之助の仁の問題もあるように思うが、そこまで風呂敷を広げると話が面倒になるから、この際はひとまず措いておこう。)

第4回は「七段目」一力の場。手探りの試行錯誤を積み上げて、図夢歌舞伎ならではの仕掛けや工夫もかなり進化して、幸四郎らしいミソがあちこちに仕掛けてある。幸四郎の役は平右衛門一役、前段は、猿弥の口上ならぬ「語り手人形と平右衛門の掛け合いで筋を運ぶ。どうじゃどうじゃいなの見立ても(配信、すなわち幸四郎にとっての本番つい前日の藤井七段の棋聖戦制覇を取り込むなど、幸四郎らしいアンテナの感度を見せる)、手を出して足をいただく蛸魚もテレツクテレツクスッテンテンも、みな平右衛門がやってしまう。二階座敷と手水の水鏡を『引窓』風に見立て、そこに何と初代白鸚の由良之助の顔が映ったりするなどあって、やがて雀右衛門のおかるが登場、ここからの平右衛門とのやりとりが今回の眼目、本格に作った七段目の舞台の、おかるが平舞台、平右衛門が二重の上と三密対策の映像を手際よく使って運ぶ。髪の飾りに化粧して、可愛や妹、わりゃあ何にも知らねえなあもソーシャルディスタンス厳守の構成画面で見せるわけだが、雀右衛門のおかるが図夢歌舞伎の域を超えた大人の色気を見せる本格の芸で堪能させる。少々の不便を不満とも思わせない、ここはなかなかの見ものである。おかると平右衛門のやり取りにやがて初代白鸚!の大星の映像も加わっての画面構成も、ここらは第4回ともなれば経験の積み重ねにものを言わせている。トド、平右衛門が九太夫を刺して、折檻の件で初代白鸚なつかしの名調子を聞いてこれで約40分、だんだん銭の取れるものになってきた。それにつけても、初代白鸚の懸河の弁の迫真力には、昔の人は違うなあ、と今更ながら感じ入る。

さて最終回の第五回は「九段目」と通称「十一段目」の討入。ここでは猿之助が再度登場、今度は何と戸無瀬を演じる。がこれが、なかなかの見ものである。当今の猿之助しか知らない人は意外に思うかもしれないが、花形と呼ばれて売り出しの頃、この人亀治郎は女方と見られていたのだ。『小栗判官』の青墓長者の娘お駒など、いまなお猿之助十傑に優に数えらるべき逸品として目に焼き付いている。いまとなっては加役とはいえ、むかし取った杵柄、というより若き日に身に付けた女方としての素養は、賢く役を選べば今後も大いに期待に応え得るものと私は睨んでいる。この戸無瀬はそうした意味からも注目に値する。(それにしても猿之助は、勘平と言い戸無瀬と言い、図夢歌舞伎を幸四郎への協力だけに留まらせず、自身の今後への展望と布石の場としても活用している辺り、端倪すべからざる抜け目なさ、イヤサ、意欲の程を見せている。)

ここでも、お石も小浪も、もちろん取次ぎの女中も登場しないから、置きの浄瑠璃(今度も葵太夫の出演である)がすむとすぐ、戸無瀬が一人で木戸口へおとない、幸四郎の(お石ではなく)大星がドオレと出てくる。小浪もそこにいることにして戸無瀬が、嫁入る所はいくらもある、とやっているところへ加古川本蔵が下手で鶴の巣ごもりを吹奏する、「ご無用も(ここらの猿之助は確かに見ものだ)、加古川本蔵の首進上も、幸・猿ご両人だけでやってしまうが、ここに染五郎の力弥が登場、本蔵を槍で突くのも雪持ち竹も、為所はほぼそのままやる。大星との早変わりのため本蔵の眉が付け眉だったり、ここらは図夢歌舞伎ならではのご愛嬌だろう。「九段目」だけで50分余、「十一段目」として討入も、門前で大星が山鹿流陣太鼓を打ち鳴らし、泉水の立回りなど、主な見せ場はかいつまんで盛り込み、めでたく本懐まで抜かりなく見せて無事終了。〆て六十分余。そのあと(これは文字通りに大急ぎで)素顔に戻って聞き手の戸部氏と対談トークでしめくくるというサービスぶり。中でとりわけ、共演者から裏方、スタッフまで、全員が3月以来はじめて顔を合わせた人たちばかりだったという、やや涙ぐんでの一言には、ウームと唸らずにはいられなかった。

        ***

プロ野球が5000名を上限として観客を入れるようになった。そのことの是非は別の話として、3万は収容するスタンドに5000人が散在する光景は、何やら懐かしいような感じがする。これがコロナ禍ゆえの措置ではなく平常のことだったなら、プロ野球のように長期にわたって試合が行われる興行は、いつもいつも超満員というより、普段は六分から七、八分ぐらいの入りで、いつふらりと見に行っても楽に席が取れるというぐらいの方が、大人の娯楽として好もしい。寄席などでもそうだが、何か特別の興行なら別だが、前売りを買わないと入れないというのはどうも窮屈な気がする。少なくとも観衆5千という数字は、昭和の頃のパ・リーグの試合より多いわけで、なつかしい感じというのも一つにはそこから来ている。カンという打球の音、バシッと投球が捕手のミットに納まる音、一球一球に(拍手だけとはいえ)反応する観衆のざわめき、審判の判定の声、フライが上がって野手が互いに掛け合う声、といったものが快く響く。観客も、固唾をのんで見守るような局面でも、トイレだか何の用だか知らないが、間断なく立ったり歩き回ったりする様子がない。満員になれば3万4万という、ちょっとした地方都市の人口と変わらない人数を思えば、何かしらの都合や用事ができて動き回る者が絶えないのも無理はないとはいえ、あんた一体、何を見に来たの?と訊きたくなるような輩が少ないのではあるまいか? まあ5千ではちょっと寂しいのは確かだが、久しぶりにかつての野球見物の雰囲気を思い出したのは事実である。

大相撲の七月場所が初日まであと一週間を切るという間際になってから、観客を入れて実施と決めた。観客収容1万の国技館の4分の一の2500人、升席は一人で独占、二階の椅子席は4席ごとに一人と、明快な算術で分かりやすい。これも球場と同じくサアーッと撒いたほどの埋まり方だが、野球場の大きなグラウンドの解放感と違い、小さな土俵を四方八方から見下ろすというコンパクトな館内では、無観客だと無機的な感じが際立った三月場所のような異様な感じがないだけでも大違いだ。声援が禁止で拍手だけというのは、野球の場合以上に少々間が抜けるが、わけの分かった観客が大勢を占めているらしく、取組み中の拍手もツボに入っているので気持ちはよい。(あの分なら、制限時間一杯になったところで席を立つような、あんた一体何を見に来たんだと言いたくなるような輩はあまりいなさそうだ。)

        *

思えば、拍手というのは元来西欧伝来の舶来の応援の仕方だが、相撲も歌舞伎と同様、急所急所に声を掛けるというのが本来であろう。もちろん、手拍子というのは古来から日本にもあるものだが、歌舞伎でも、戦前のことは知らないが声を掛けるより拍手の方が主流になったのは戦後もそれほど古いことではない筈で、拍手万能の昨今、一番気になるのは、たとえば『白浪五人男』の「勢揃い」で、日本駄右衛門以下、ひとりひとりのツラネのセリフがすむごとに拍手が起こり、それがしばらく尾を引く。と、「賊徒の張本日本駄右衛門」と言って見得をするとすぐ、その息につなげて「さてその次は江ノ島の岩本院の稚児上がり」と弁天小僧のツラネが続くのだが、その頭の部分が拍手に消されて聞き取れない、ということが起こるようになった。「続いて次に控えしは」と忠信利平、「またその次に連なるは」と赤星十三、で五人目に南郷力丸が「さてどん尻に控えしは」と続いてゆくのだが、この、それぞれの冒頭の部分が一人終わるごとに起こる拍手のために聞き取れない。聞き取れない以前に、駄右衛門から弁天、弁天から忠信、忠信から赤星、赤星から南郷と、陸上競技の400メートルリレーではないがバトンタッチの間合いに妙味があるのだが、それが拍手の中に埋没してしまう。以前は、五人のツラネのせりふ全部は言えないまでも、きっかけの部分ぐらいは知っていて、例えば隠し芸なりスピーチなり、人数が揃った席で順に何かをしようというような際に、「それじゃあ、続いて次に控えしはで私が・・・」とか、一番端の席にいた者が「さてどん尻に控えた俺が・・・」などと言いながら立ち上がり、下手なのど自慢で唄を歌ったり一席ぶったり、といった光景を、さほどの芝居好きの集まりでなくともちょいちょい見かけたものだが、たぶんこの風習は拍手の普及と共になくなる(既になくなった?)であろう。

しばらく前、『勧進帳』の弁慶の幕外の引っ込みの際、観客から一拍子の拍手が起ったというので非難・疑問の声が上ったことがあった。あの飛び六方の呼吸にそもそも一拍子という等間隔の「間が合わないではないか、というのが究極の疑問点となる。一拍子の拍手というのは、私の記憶では、前回の東京オリンピックの際、体操競技で日本選手が大活躍したのがテレビで放送されたのがはじまりであろうと睨んでいる。つまり、鉄棒とか跳馬とか床運動とか、各種目ごとの選手の入退場の際に会場から一拍子の拍手が起こる。おそらく体操界では以前から慣習として行われていたのだろうが、これがオリンピックを契機に一般に広まったのだ。あの伝説的な女子バレーボールは別格とすれば、日本選手が一番活躍しメダルを多数取ったのは体操であったから、一拍子の拍手というのが、それまであまり耳にしなかったリズムの新奇さと相まって、あっという間に広まったのは、人気絶頂時代のドリフターズの番組『全員集合』から、「最初はグー」という、それまで(少なくとも東京では)聞いたことのないジャンケンの掛け声が広まり定着したのと共に、この半世紀間にテレビを通じて日本人の民俗に生じた二大異変であろう。(前に書いた「せーの」という掛け声も合わせ三大異変というべきだが、これはテレビを主たる媒体とはしていない、と思われる。)

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何でこんなところに連休があるんだろう?と思ったら、そうか、オリンピックだったっけと、思い出した。この期に及んでもまだ、誰も中止を言明しないから、オリンピックは宙ぶらりんを続けている。都知事選でもオリンピック中止を公約にする候補者が何人いるかと思ったら、一人しかいなかった。ヘーエ、と思う。オリンピックは甲子園大会と違って国内だけのお祭りではないから、奇跡が起こって来夏までに国内でコロナ禍が終息したとしても、パンデミック状態が終息しない限りはオリンピックを開催するわけには行かない。というより、してはいけない、筈だろう。日本さえよければ参加できない国があってもやっちまえというのでは、五輪の精神どころではない。IOCは、日本がやらせてくれと言ってきたからTO-KI-Oなどと言って「許可」したという立場だから、生殺与奪の権はあちらにあるが、やらせてくれと訴えた日本の側から返上すると言ってやるのが、良識ある者の取るべき筋というものではあるまいか?

ナニ本当はIOCも、実行委員会も東京都も、JOC(って、こういう問題には仲間に入れてもらっていないのだろうか。以前は、JOC委員長ってもっと権威があったような気がするのだが、まあ、この際それはどうでもよろしい)も皆、内心では解っているのだろうが(そうでなかったら正気の沙汰とも思われない)、それぞれ思惑があって言い出さないでいるわけだろう。可哀そうなは選手たちで、中止と言われない限りはそれを信じるしかないわけで、これほど罪作りな話はあるまい。アスリート・ファーストというお題目をダシに使っているのだから想像を絶する酷薄さだ。それにしても不思議なのは、テレビでにぎやかに持論を述べ立てるワイドショーのコメンテーター諸氏の誰一人、オリンピック開催の是非について、国内の事情のことしか言わないのは何故だろう? 五輪のマークの「五輪とは、一体何なのだ?

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大分長々しくなったからこの辺で終わりにしようと思ったら、オリヴィア・デ・ハヴィランドの訃報を新聞で見て驚いた。104歳という。ウーム、と唸るしかない。

一緒に、弘田三枝子の死亡記事が載っていた。彼女だって、戦後の世相を語る上で欠かすことのできない存在であろう。

        ***

8月、歌舞伎座が再開する。果して楽日まで無事舞い納められるか否かすら予断を許されない状況下での再開だが、再開する以上、新聞評も掲載の予定。変更がなければ8月18日の日経夕刊をご覧いただければ幸いである。

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随談第631回 またも不要不急の話ばかり

東京アラートだの緊急事態宣言だのが解除になったといっても、歌舞伎はまだ解除の対象の内に入れてもらえていない。歌舞伎が、と名指しされたわけではないが、大ぜい人を集めるイベントは千人までしかOKにならないというのだから、考慮の外ということなのだろう。まあ元々、不要不急の見世物の親玉みたいに扱われてきた「過去」があるのが、時移り栄誉のおこぼれに預かるようになった今日といえども、このほどのように一旦緩急ある事態となると、あんたのことなど構っている暇はねえ、ということになるわけだろう。「不要不急で400年」というキャッチコピーは、歌舞伎にとっての勲章であるとも言える。

と、いうわけで、この回も不要不急の話ばかりでご機嫌を伺うこととしよう。(なに、今更のことを言うまでもない。631回目の今回まで、不要不急の話でなかったのは一回だってなかったわけだが。)

さりながら「不要の要」ということがある。今度の事態であらわに見えるようになった、非正規労働だの保健・医療機関のあまりの手薄さその他その他の無残悲惨無慈悲な現実が、効率化という一点から、本来有用のものまでが無駄と見られて経費や施設や人員が制限され削られた挙句の表われであるように、「不要の要」を如何に、またどれだけ、奥ぶところに養ってあるかが、一国の文明のふところの深さを測るバロメーターであることを、新型コロナウィルスなる疫病神が明らかにしたともいえる。人はパンのみにて生きるに非ず、不要不急のことどもにかまけるを以て人は人として生きている。世界の大芸術大文芸も、三密の不備の対象と見られて槍玉に挙げられる夜の商売も、不要不急の文物という一点に於いては変わりはない。『デカメロン』を見よ。況や、歌舞伎に於いておや、ではあるまいか?

        ***

幸四郎が言い出し兵衛となって『仮名手本忠臣蔵』を今月の27日から毎週土曜、五回連続で映像の有料配信をするという。午前11時開始というのは世が世ならば歌舞伎座の開演時間、第一回の料金が4700円というのは四十七士に掛けた洒落だそうな。(義士一人当たり百円か!)如何なる具合にやって見せるのか、見てのお愉しみと思うしかないが、ともかくこれが三月に公演中止となって以来の歌舞伎である。

その一方で、これも不要不急の文物の一であるプロ野球が開幕した。6月19日といえば世が世ならばセ・パ交流戦も終わり、そろそろ前半戦も山が見え出し、オールスター戦のファン投票が話題になるころである。その19日の開幕戦は大雨の中だった。通常なら雨天延期になっていたかもしれないが、この際だから決行した。無観客である。私たちはこれで、大相撲の三月場所と、歌舞伎座と国立劇場の三月公演の映像配信と、今度のプロ野球と、無観客の場内で行なった3種類の「本番」を見たことになる。夙に言われているように、フームと思うような発見もあった。大相撲では、四股を踏む音、力士の息遣い、ぶつかり合う肉弾の音、行司や呼び出しの声、等々というものが、観衆の声援や騒がしさの中だと聞えない、聞えても聞き過ごしてしまう音や声が聞えてさまざまなことに気づくという興趣はあった。しかし、四方八方を無観客の客席に囲まれている土俵が、テレビの画面で見ると無残なほど無機的な情景を晒しだすのは否定しようがなかった。本来なら客が詰めかけている溜り席であるはずの場所に、土俵上から突き出され押し出された投げ出された力士がどすどすと駆け降りるという光景がしばしばあった。

奇しくも同じ月に行われた歌舞伎座と国立劇場で無観客の中で本番通りに行われた舞台は、花道の出入りの際に観客のいない客席が露呈される以外は、映像画面は舞台上に限られるから、平素見慣れた舞台中継の画面と変わりはない。つまり観客のいない客席が常時露わに見えている大相撲の場合ほど、見る者の心に刺さる傷は深くない。と、一応は言える。とは言え、所詮、映像は映像だ。

野球の場合は、無観客のスタンドがしばしば画面に映るのは避けられないが、プレー自体はグラウンドの上に限られるから、イン・プレーの間はほとんど気にならない。またここでも、バットがボールを捉える快音や投球が捕手のミットに納まる音の快さ、プレイごとに聞こえるダッグアウトの選手たちの声、何よりいいのは審判のジャッジの声が明瞭に聞こえることだ。少年時代に見た池田豊、島秀之助、二出川延明といった往年の審判たちは、プレイボールの宣告に始まって、ストライク・ボールの判定もはっきりと満場に聞こえる声で言っていた。それは、凛然、と表現するのにふさわしい威厳すら感じさせた。(国友という、立教ボーイだという審判は、当時まだ珍しかったプロテクターを着込むというスタイルで、ジャッジの声もジェスチャーも小さかったが、それはそれで瀟洒なスマートボーイの風情があった。)それに比べこの頃の審判は…と、実は思っていたのだったが、こうして無観客の状態で見れば必ずしもジェスチュアばかり気取っているわけでもないようだ(ということがわかった。)

それにつけて改めて思うのは、応援団の応援に始まって、当節の観客席の「音量」である。プロ野球の応援団というものがいつから始まったかはともかく、今のような組織的・大規模になったのがそれほど古くからのことでないことは、記憶に照らしても確かである。最初は、ああ、あのおじさんまたやってるね、といったごく素朴な、有志が個人的な形でやっていたのであったのを覚えている。いまだって別に強制してやっているわけではなく、大勢の賛同があってのことだから今更とやかく言うことではないが、私など古い者は、つい今でも、一球一球ごとに注視してしまう癖はどうしようもない。ピッチャーが投げる、カーンと打つ、歓声やどよめきが起こる、その間合いが何とも言えないのだ。(大相撲でも、仕切りを繰り返すごとに高まってゆく高揚に醍醐味を覚えるのだが、一拍子の誰それコールというのが近頃頓に目に耳に付くようになってきた。あれも野球の影響だろうか。)少数派だが、スコアブックに記入しながら観戦している人の姿も以前は折々見かけたものだが、今はどうなのだろう。要するに、以前は各自がもっと自分なりに楽しむ自由が多かった気がする。

無観客の外野席にホームランボールが飛び込んで無人のスタンドをボールがゴロンゴロンと転がり落ちるのを見ると、何やら懐かしいような感じがしないでもない。ついこの前にも野村のホームランのことを書いたばかりだが、昭和30~40年代ごろのパ・リーグの試合というと大概はガラガラで、これも一種のデジャビュと言ってもいい。パ・リーグに限らない。新聞の投稿欄に、今度の無観客試合を「昭和の時代の川崎球場
に例えたのがあったが、なかなか秀逸なジョークである。観客数3千にも満たない試合も珍しくなかったのだ。(そういうプロ野球の状況を斜めに見ながら発足したJリーグが、観衆二万というスタジアムを各地に作ってああいう応援の方式を始めたのも、たぶん、パ・リーグ人気復興に何等かの影響力を持ったに違いない。まあ、みんなで盛り上がろうよ、というのが今日的風景なのだ。(プライバシーということに過剰なぐらいにこだわるようになった現代に、こうした現象が生まれたのは、面白いと言えば面白い。)

        *

三密対応の一環としてチームの移動を少なくするために、試合を行う地域を東日本と西日本とに一定期間固定して連戦を多くする方針だというのを聞いて、何となく、一リーグ時代の東西対抗戦というのを思い出した。オールスター戦というのは、もちろん1950年に二リーグ制になってからのもので、それ以前は、関西以西を本拠とするチームによる西軍と、中京名古屋以東を本拠とする東軍とで、即ち東西対抗戦というわけだが、中部日本、即ち中日ドラゴンズが東西の境い目となっていた。(ドラゴンズのユニホームの胸にCHUBU NIPPONと二段に書いてあったことも前に書いたと思う。)西軍が関西以西と言ったが、当時はまだ九州にも広島にも球団はなかったから、事実上は関西だけで西軍だった。東軍が巨人、中日に東急セネタース後にフライヤーズ、大映スターズで4球団、西軍が阪神タイガース、南海ホークス、阪急ブレーブズ、太陽ロビンスで4球団。関西には二リーグになってからも近鉄パールズのちバッファローズが出来たが、いま現在、関西を本拠とするチームは阪神だけである。今昔の感とはこのことだ。(関西の衰退?)

二リーグ制開始と共に広島カープ(はじめは、「カープス」と複数形のSが付いていた。ユニホームにもCARPSと書いてあったらしい。CARPという英単語は単数複数同形であるとは受験生が教わることだが、草創期のお笑い種の一つだろう)とか、西日本パイレーツに西鉄クリッパースとか(一年限りで合同して西鉄ライオンズになるわけで、その末裔たる西武ライオンズはその1951年を創立年としているらしい)とか、関西以西にも球団が誕生する。高校野球でも、かつての強豪校は関西以西に集中していて(但し、中京、即ち名古屋までが野球王国だった。時に東日本、時には西日本でもあるが故に中部日本、とはよく言ったものだ)、王投手を擁する早稲田実業が春の選抜で優勝した時、優勝旗が初めて箱根の山を越えたと大騒ぎをしたものだった(などと聞いてもイマドキノワカイモンは信じられないであろう)。

「野球方言」もしくは「野球弁」というものがあると私は思っているのだが、たとえば「投げる」と言わずに「放る」というのは西の方の言葉遣いであろう。「あのピッチャーよう放りよるわ」などと、とかく「野球弁」というのは関西弁を基軸にしている風が今なお廃れていないのは、野球人種というのは永い間、関西出身者が主力を占めていたからで、関西出身でない者まで「野球弁」として関西風の物言いをするのが「野球国の風土」になっている。「東京のど真ん中」などという言い方はかつての東京人は決してしなかったと、池田弥三郎さんがよく言っていたものだが、つまり「ど真ん中」という言葉は、関西由来の「野球方言」から一般に流布したものであるらしい。たしかに、草野球のキャッチャーが投手に向かって「もう一丁、ど真ん中」などと声を掛けるのを、子供のころよく耳にしたものだ。どケチ、ど阿呆、ど根性等々々、なるほどと思う類語は数多い。

        **

しばらく前(コロナ前)から、朝日新聞の「縮刷版」というのを、暇を見つけてはぽつりぽつりと拾い読みをするのがこのところの楽しみとなっている。試みに昭和24年1949年の記事などを読んでいると、面白いの何の、つい後を引いてやみつきになる。たとえばこの年の7月には、国鉄下山総裁の謎の轢死事件があったその数日後に六代目菊五郎が死去、そのほとんど直後というタイミングで、三鷹事件と呼ばれた国鉄の三鷹駅で謎の暴走事件が起きる。知識としてはもちろん知っていたことだが、縮刷版とはいえ当時の新聞を日を追って見て行くと、時代の実在感が予期せぬ迫真性を以て立ち上がってくる。大きめのルーペで、スポーツ欄のプロ野球の前日の試合の記録や大相撲の勝敗や星取表、ラジオ欄の番組名や出演者の名前などをつぶさに見ていくと、オオと叫びだしたくなるようなさまざまな記憶が蘇ったり、新たな発見があったりする。つい後を引いて予期せぬ時間を費やしたりしてしまう。(程々にしないと緑内障のためにはあまりよいことではないかもしれない!)だが面白いのはやはり「まだ戦後であった」昭和20年代、せいぜい30年代前半の安保の頃までで、もはや戦後ではなくなり高度成長が始まってテレビが世の動向を支配するようになると、次第につまらなくなる。事件としてはいろいろあるのだが記事としての面白さが立ち上がってこないのは、記事の書き方と言い、編集の仕方と言い、新聞そのものが妙にのっぺりと小奇麗に安定してしまったからだろう。もっとも、些細な記事にホオというのが時折見つかることもないでもない。昭和40年の記事に「元華族と称する女詐欺師」などというのがある。戦後20年という歳月が、「元華族」というのを中年の女性の詐欺の手口として成立させるのに絶妙の歴史的時間であったわけだろう。(もしかすると本当に「華族様」の成れの果てあったのかもしれないし。)

もうひとつ、通称「三行広告」というのは今でもなくなったわけではないが、社員募集とか死亡広告とか、当時はまだはるかに盛んであったのが一種の懐かしさを誘われる。日航と全日空の広告が並んでいて、片方が「スチュワーデス募集」、片方が「エアホステス募集」となっている。いまはどちらも差別語だろう。さらに、ウム、と膝を叩きたくなるのが、二行分ぐらいのスペースに普通の三行広告より少し大きめの活字で「〇〇子。話ついた。父さんも心配しているからすぐ帰れ。母(××子)」などという、家出か何かした家族に呼びかける広告で、そうだった、こういう「広告」もあったのだったと忘れた歌を思い出すような思いに襲われる。(こういうのを朝ドラのネタに使うと面白いのではあるまいか。)

とまあ、こんなのもコロナ禍のさなか、ステイホームならではの愉しみと言えるかもしれない。

        *

訃報としては、例のコロナで亡くなった現役三段目力士勝武士が話題となった陰で、逆鉾・寺尾兄弟の長兄で多くを幕下で過ごした鶴嶺山という名前があった。カクレイザンと読むこの四股名は、父親のもろ差しの名人鶴ヶ嶺が十両時代に名乗っていた、私などには懐かしい名前である。服部克久氏の名前もあった。もうひとつ、外交官上がりでなかなかくせ者の論客だった岡本行夫などという人の名もあったがこの人もコロナの犠牲者とか。フーム。

        *

コロナ騒ぎの間にも時は流れ季節は巡り、向かいのお宅の白壁に夜更けになると涼みに出てきたヤモリが張り付いているのへ、よお、元気でやってるなと一年ぶりの再会の挨拶を無言で交わす。木槿の蕾がいつの間にか満載となって、今朝、夏到来を知らせる最初の一輪が咲いた。二、三日の内には我も我もと咲き出すに違いない。早朝に数え切れない無数の花を咲かせ、夕方には蕾を閉じて散ってしまう。道の辺の木槿は馬に喰われけり、である。零時過ぎ、隣家とのあわい3メートルの路地に出て見上げると金星が光っている。振り仰ぐ頭上の真上に来たり、向かいの屋根の上に見つかったりする。幅3メートルの庇あわいから覗く空にも、天体は律義に、規則正しく運行している。

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随談第630回 不要不急の話ばかり

まず前回分の訂正から。訃報のところで、小林旭氏を亡くなったように書いてしまった。新聞の青山京子さん死去の記事に喪主は夫の小林旭氏とあったところから、ああ、めでたく添い遂げたんだと知ったうれしい思いが、時の経つうちに、梅宮辰夫氏死去の報などとも絡み合い、反転して錯覚を生じた結果、旭氏にはまことに失礼なことをしてしまった。氏はもちろん健在である。深くお詫びの上、謹んで訂正させていただく次第、これは今回のタイトルの不要不急の話とは別とご理解いただければ幸いである。

梅宮氏については、まだああいうキャラで当たりを取る前、『人生劇場』で青成瓢吉の初々しい青年ぶりがじつに爽やかであったのが忘れ難い。(月形龍之介の吉良常もよかったなあ。他の人のやる吉良常を見ると偽物のような気がするほどだ。)

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テレビをつければコロナコロナで、本来なら今頃は海老蔵の團十郎白猿襲名興行の第一月の最中の筈だが、7月まで向こう三ヵ月の予定が中止と決まって以後、公演その他についての発表・報道がぱったり途絶えている。「音沙汰」という言葉が、何とも言い得て妙であると、妙なところで感心する。

襲名を祝う会という集まりの通知が舞い込んだのがたしか1月末、会は3月末とのことだった。その時はまだ当たり前のことと受け取った。同じ3月末の、白猿襲名を祝う会より二日先んじて堂本正樹氏を偲ぶ会を開催という通知が来たのがほぼ一月余後の3月初旬、この頃にはもう、小・中・高の学校閉鎖が発令、マスクとトイレットペーパー不足のニュースがかまびすしいという事態になっていたから、こんな時にこりゃどうしたものじゃと不審に思う間もなく、團十郎白猿の会、堂本氏の会、いずれも中止・延期を知らせる葉書が相次いで届いた。三月興行の初日が延期、また延期を繰り返していたさなかだった。しかしこれも、いま思えば、刻々と「音沙汰」があったというだけでも、まだしも「活気」があったという言い方もできるというものだ。

歌舞伎座と国立劇場で無観客の中で演じられた三月公演の映像が、YouTube配信されたのは、舞台ぶりも素敵によかったが、各優・各関係者の思いと心意気が惻々と伝わってくるものがあった。明治座の出演者一同による「一本刀土俵入り」の座談会の映像配信もなかなか乙だった。これらが4月の出来事。その4月の舞台は夙に中止と決まっていたから、載せるべき写真も記事も種を失った『演劇界』が通常の刊行をやめて、6月7月合併号を5月末に刊行しますと伝えてきたのが4月末、その間に5・6・7月に予定の團十郎白猿襲名興行の中止も決まり、ここまでで、歌舞伎に関する発表・報道・連絡はぱったりと絶えた。つまり「音沙汰」がなくなった。

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大相撲は三月場所は無観客で決行、Jリーグも当初の数試合決行したが、以後はプロ・アマを問わず各競技一切なし、やっているのは競馬だけということとなった。競馬は馬券を居ながらにして買えるから無観客でも成り立つわけだ。(我々だって観客がいないと走りにくいや、と馬は思っているかもしれないが。)各種スポーツも無観客でやってやれないことはないが、舞台というものはそうはいかない、というところが最大のネックになる。特に歌舞伎は。(無観客の舞台でやる助六の股くぐりの場面というものを想像してみてください。)

それで思い出したのは大正の昔、浜村米蔵という劇評家が(この人は戦後も昭和50年ごろまで現役で活躍していたが)、理想の歌舞伎劇場というのを提唱したことがあった。要するに、理想的な歌舞伎上演のためにはまず演目を厳選、きちんとした上演台本を作り、役者も型など正当なものを研究して演じる、舞台と客席も然るべき規模にする、入場料も心ある観客が負担できる適正な価格にする、当然大観衆を集めることは期待してはならないから運営(経営ではない)は理解ある有志に応分の資金を提供してもらって行う、ミーちゃんハーちゃん(という言葉も、そういえばこの頃聞かなくなった。もはや絶滅したか? まあね、こんな「上から目線」丸出しのような言葉はなくなって当然か、な?)がワーワー押しかけるのを避けるために劇場は繁華の地ではなく都塵を離れた場所に建てる、云々というもので、これを洒落でも冗談でもなく大真面目に論じたのだった。つまりこの人は、「理想の歌舞伎」を実現するためには「理想の観客」が不可欠と考えたわけだが、この論法を押し進めてゆくと、もしかすると「理想の劇場」というのは結局「無観客の劇場」ということになるのかもしれない。(それにしても、仮に私が入場を認めてもらえたとして、こういう劇場で助六の股くぐりの場など、どういう顔をして見ればいいのだろうか? 大向こうの掛け声も禁じる、という条項もたしか入っていたはずである。)

もっともスポーツだって、プロスポーツは興行だから観客なしでは立ち行かないが、学生スポーツは本来、母校の応援団以外には観客を前提としないものであったはずで、甲子園の春の選抜・夏の全国大会を何故春休みと夏休みにやるのかといえば、斯様なものは「学業の余暇」にすべきものというのが前提であったからである。六大学野球リーグ戦が土曜と日曜の午後にするのも同じく「学業の余暇」にするものであったからで、夏の甲子園は酷暑のさなかにするより初夏か秋の気候温暖の時期にするべきだ、などという当節ノ識者共ハ一体何ヲ考エトルノカ、ソモソモ、ベンキョウハ何時ヤルノダ!と設立者たちが聞いたら言うかもしれない。(それはそれとしてだが、夏の大会は地方予選を公平に実施するのは土台無理であろうから中止はやむを得ないが、春の選抜は、無観客、但し母校の応援団のみ人数を限り、ソーシャルだかフィジカルだかのディスタンシングを確実にすれば、まだ3月の段階だったら開催不可能ではなかったろう。)

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逆の現象もある。かつては、両親やおじいちゃんおばあちゃん、近所のおじさんおばさんも応援に来られるようにと、日曜日にするのが当たり前だった小学校の運動会が、この頃は平日にするようになっているらしい。もっともこれは、どうやら先生の方の都合らしいが。

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さっき書いた、『演劇界』が6月・7月合併号を出すというのを聞いて、一種懐かしいような思いに襲われた。終戦間もない紙不足の時代、各種の雑誌がよく二か月分をまとめて合併号を出したものだった。『ベースボールマガジン』なども、プロ野球は冬のシーズンオフになるとどうせ書くネタがあまりないから、2月・3月合併号などとのを出した。粗末な紙に小さな活字で5段組み総ページ50頁もないようなぺらぺらの合併号を見ると、子供心にも情ないような気がしたものだ。

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大相撲の勝武士(ショウブシ、と読むのだそうだ)という三段目の力士がコロナの犠牲者になったのがかなり大きなニュ-スとして民放各局のワイドショーの取り上げるところとなったが、司会者がしきりに「力士さん」と言っているのが耳につく。ワイドショーの司会者というその道のプロ連中にこの不可思議な言い方が不可思議とも感じられなくなっているという現実に、改めて釈然としない思いでいたところ、しばらく前からコロナ問題に関する論客としてテレビでよく見かけるようになっていた宇都宮の病院のお医者さん(これだって、「お医者さん」であって「医師さん」ではないよね)が、「若いお相撲さんが・・・」と言っているのを聞いて何やらほっとした。そういえばこのお医者さんは、コロナ問題についても傾聴に値する発言をする人とお見受けしている。

「お医者さん」「お相撲さん」「お巡りさん」。親しみと敬意とが渾然としたいい言葉ではないか。誰が言い出したのでもなく、おのずと民間から生まれた詞であり、語感といい語呂といい、音調といい、言葉としてよく慣れている。(この「慣れている」という「慣れ」は、たとえば「馴れ鮨」などという「慣れ」である、念のため。)「医師さん」「力士さん」「警官さん」では、そもそも言葉として体をなさない。(昔は「兵隊さん」というのもあって、「鉄砲かついだ兵隊さん・・・」という国民学校唱歌があったっけ。もちろん私は戦後の小学校の入学生だが、兄姉の世代の習った歌として耳についている。戦後も昭和30~40年代頃までに出た『カルメン』の翻訳では訳者の如何を問わず、カルメンが初対面のドン・ホセにむかって「兵隊さん」と呼んでいたものだった。これも「兵士さん」ではサマにならない。)力士を相撲取り、警官をお巡り、歌手を歌うたい、サラリーマンを月給取り(変換したら「月給鳥」と出てきた! これも言い得て妙か)という風に動詞の連用形止めにした言い方は、いわゆる上から目線の蔑視も感じられるが(かつては掏摸を「巾着切り」といったが、これはさすがに時代劇以外では使われなくなったのは、紙幣の流通と共に財布の形態が変わったからであろう)、しかしそうした「反面」も含めて、こうした言葉の語感の自然さは、日本人一般が自然に体得していた日常語(SPOKENつまり日常茶飯の「口語」、即ち「世話」のことば)の中に泥んでいるからだろう。

テレビという媒体でワイドショーなる「しゃべくり番組」の司会者という、しゃべくりのプロたちが「お相撲さん」より「力士さん」という言い方の方が自然に出てくるのは(相撲というものが以前ほど馴染みがなくなったということもひとつにはあるだろうが、それ以上に)テレビ言葉に代表される「現代日本語口語」即ちSPOKEN JAPANESEというものが、本来ならWRITTEN JAPANESEに属していたはずの言葉・用語を大量に含みこむようになったせいだろう。私は、この「現代日本語口語」に大変化が生じた分水嶺を昭和40~50年代と推定しているのだが、そのころ、新聞の投稿欄でこういうのを読んだのを覚えている。五十代ぐらいの「大学教員」と肩書のついた人の投稿で、大学生の甥と小旅行をしたとき、たまたま泊った宿屋の洗面所の水道が出ない。「オヤ、故障かな?」とその人が言うと、くだんの甥が「いや、これは構造上の欠陥だ」と応じたというのだった。折から大学紛争たけなわで難解な用語が飛び交っていた頃である。まあ、「故障」だって本来はSPOKENではないだろうが、その程度の「新語」を日常語の中に取り込んでゆくのは時勢に対応した「変化」の内だろうが、たかが水道の蛇口をひねっても水が出ないぐらいのことを「構造上の欠陥」という物々しい言い方を当然のように使うのは、「変化」などというものではなく、それこそ現代日本語の「構造上の変質」というべき事態であろう。昭和40年代の大学生は、健在なら今頃はたぶん「前期高齢者」になっているであろうから、今日のワイドショー司会者諸氏はまだ生まれてもいなかったに違いない。こんなことを言っても、エッ、どうしていけないんですか?とキョトンとされるのがオチであろう。いまは日常の会話でも「のどが渇いたから水を飲もう」というところを、「のどが渇いたから水分を補強しよう」という人が珍しくない。一杯やろうよという誘いの洒落かと思うと、ペットボトルを取り出してごくごく飲むのである。

(まだまだ言いたいことはいろいろあるが、話が理に落ちてきたようなので、この件は先ずはこの辺でお仕舞いとしよう。)

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朝ドラの『エール』が絶叫だくさんのドタバタ過剰が気に障ると前回書いたが、見ているうちに、なるほどそういうことかと心づくところがあった。進行中の話は昭和初年と思しいから、つまりざっと90年前という勘定になる。昭和ひと桁というのは、私などにとっては、叔父叔母よりもう少し若く兄姉か従兄弟の中の年長者の世代だが、おそらく現在のタレント諸氏諸嬢にとってはもはや時代劇ほどの時間的距離のある世界なわけだ。明治元年1868年から昭和元年1926年までが何とわずか58年である。(白虎隊の最後の生き残りという人物が死んだのが昭和2年と聞いたことがある。)それから2020年の現代までの方がタイムスパンははるかに長いのだ。(バンツマだのアラカンだのといった時代劇俳優たちが、幕末物のチャンバラ映画で隆盛を誇ったのも昭和初年。机竜之介や鞍馬天狗が活躍したのも同様だ。)つまり、大道具・小道具・風俗の類で当時の時代色を出すのは考証をすればある程度は可能だが、出演者の演技で(しぐさや表情やセリフの口調や言葉遣いなどで)自然にリアルに当時の人物を演じるのはどだい無理…ということを考えてのあのドタバタ演出と考えれば、あれも演出上のひとつの便法と容認できるというものだ。

(そういえば森光子が亡くなった後、『放浪記』を一度だけ、若返った配役で上演したことがあったが、その際一番どうにもならなかったのは、主役の女優の演技がどうこうより、主人公を取り巻く男たちが、演技の巧拙以前に、昭和初期(つまり「エール」とほぼ同時代であろう)の人物に見えない、時代の匂いがまるでしない、ということだった。ヒロインをとりまく男どもを演じていた山本学だの大出俊だの米倉斉加年だのといった脇役連中が、いかに森光子を助けていたかが改めて痛感されたものだった。)

ところでつい今しがた、なかなかよく調べて凝って作っているとほめたばかりの小道具だが、ひとつ大チョンボがあった。コロンビアならぬコロンブス・レコードなるレコード会社の場面で、レコードの青レーベルは西洋音楽、赤レーベルは日本の歌謡曲、というようなセリフがあって画面に青レーベルの円盤がアップになったのを見ると、「越後獅子」とレーベルに書いてあった! 小道具係のファンブルであろうが、主人公が洋楽にこだわって赤レーベルの曲が書けないという場面が場面である。野手がフライをお手玉する間に手痛い失点、というところか?

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散歩以外の外出ということがなくなったが、もともと出不精の質(たち)のせいか、することは沢山あるので時間を持て余すということが全くない。前に書いたように、滞っていた原稿を書き上げたのが三月末、少し気持ちに余裕が出来たためか書棚を見回すとまだ読んでない本、むかし読んだ切りでもう一度読みたい本が次々目に飛び込んでくる。余命がどれほどあるのかも知らぬが仏、毎日終日これにかかりきりになっても到底読み切れそうにない。ああ、こんな本があったっけ、という再発見も次々出てくる。再発見とは言っても、どれも覚えてはいるのだが、長い間に念頭から外れていたわけだ。

『鞍馬天狗』を電車の中で読み直し始めた、と書いたのは二月末、まだ緊急事態宣言は出ていなかったから車中図書館での読書だった。緊急事態宣言以後は、もっぱら午後のひと時、むかし買いそろえてあったのを次々に書棚から引き出しては埃を払って読んでいる。小説としての中身もさることながら、大佛次郎という人の文章が好きで読んでいたという面が元々強い。『天皇の世紀』とか『帰郷』とかいった知識人の読者に定評のある作よりも、『鞍馬天狗』に描かれた京の洛中洛外の情景や、隅田川界隈、新開地だった当時の横浜や鎌倉の情景を読むだけで気持ちがいい。(むかし、文庫版の『帰郷』の巻末の解説に、『鞍馬天狗』を書いた同じ作者の文章とは思われないとあったのを思い出す。この解説者は、そもそも『鞍馬天狗』など頭から読む気も、読んだこともなかったのは間違いない。)当分はまだ『鞍馬天狗』だが、書棚を眺めるたびに、次はあれだこれだというのが見つかるので、昨今話題のカミユの『ペスト』も書棚にあるのだが、いつ埃を払う番になるのかまだ分らない。その前に、もう7週間行っていない床屋にまず行くことにしよう。

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随談第629回 落穂集

咋秋来のパソコンのトラブルに続くコロナウィルス騒動で、訃報その他、その間にメモをしておいたさまざまな話題が、書くタイミングを見失ったままになっている。時と共に鮮度が落ち、感興が薄れてしまったものもあるが、記録としても残しておきたいもの、やはり書いておきたいもの、さまざまあるので、それらをかき集めこの回は落穂集とすることにしよう。このご時世に不要不急の話ばかりで恐縮だが。

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まず訃報で、近いところからだと大林宣彦監督に志村けん氏ということになるが、この方々については皆さん疾うにご存知の以上のトリビアを持ち合わせているわけではなし、しゃしゃり出る資格はないから、慎んでご冥福を祈るに留めることにしよう。ただ、大林監督の場合はあちらの方が若干年長とは言えほぼ同世代、戦争の記憶を幼な心なりに持つものとして、抜き差しならぬものを覚えていたことだけ書いておきたい。志村氏については、ジャンケンをするときに、いつしか誰もが「最初はグー」と言って始めるようになったのが氏の発案になるものだという事実は、民俗学上、重要な事案ではあるまいか?

関根潤三。私の知る限りの野球人で一番のやさおとこである。晩年の姿は皆さんも知るとおりで、ああいうキャラだということを知ったのは引退後のことだが、体つきから、投手だった頃の投球フォームから、よくあれでプロ選手としてあれだけの活躍が出来たものと思う。チビということなら、一リーグ時代の東急フライヤーズだったかのショートの皆川とか、阪急の外野手でポケットキャッチの名手でヘソ伝という仇名の山田伝とかの方がもっと小さかったかもしれないが、やさおとこというのは、寸法よりその風情や「とりなり」が決め手となる。すなわち和事師である。法政のエースで、セ・パ二リーグ制となった第一年の昭和25年に、立教のエースだった五井と一緒に新球団の近鉄パールズに入団した。その時の『ベースボールマガジン』だったか『ホームラン』だったかのグラビアに、二人並んで振りかぶったポーズで納まった写真が載り、「昨日の敵は今日の友」とキャプションにあったのを覚えている。ずっと後に、「昨日の敵は今日の味方」という『義経千本桜』大物浦の知盛のせりふを聞いた時、あゝ、これだ、と感じ入ったが、本当のところは(当時の野球雑誌の記者の常識から推して)、文部省唱歌「水師営の会見」の乃木大将とステッセル将軍会見の歌詞から取ったものであったろう。コントロール抜群の関根と対照的に、五井の方は荒れ球で、ビーンボールという言葉を初めて知ったのはこの人についてではなかったか。こちらは関根のように選手としては長命でなく、いつのまにか消えてしまった。そういえば、晩年の関根の姿を歌舞伎座の客席に一度ならず見かけたことがある。

金田敏子と言ってもピンとこない、先に亡くなった金田正一夫人、と言ってもまだあまりピンとこないだろう。つまりもう疾うに時効となってしまった昔の話なわけだが、この人は金田にとっては二人目の夫人で、先の夫人は芸名を榎本美佐江と言って、日本調の歌手(という言い方を当時はよくしたものだった。つまり、日本髪で(鬘だろうが)芸者のお座敷姿のようななりで和洋合奏のバンドで、いまなら演歌に分類をされるであろう、和風のムードの歌を歌う流行歌手、と、現代の人に説明しようとするとずいぶん手間をかける必要がある)として、人気も実力もあった人で、良き姉さん女房だったのだが、まあ、いろいろあった末、美佐江さんが気の毒なことになって事が終わったのだったが、当時はかなり世を騒がせた一件だった。しかし私が今回訃報を知って、ああと思ったのは、そのことの故ではない。それより前、芸名を雅章子といって、宝塚から映画に出て姐御役でちっとは鳴らした姿に思い出があるからだ。当時は、宝塚映画製作東宝配給、と謳った時代劇映画がよくあったが、これもその一つで、大佛次郎原作の『照る日くもる日』という幕末物で、雅章子扮する姉御役が、ちょっとバタ臭いがそこに一風あるところがなかなかよかった(などと、当時中学生であったワタシは思ったのだった)。主人公の青年の名が細木年尾という、新時代を予感させる時代劇の人物らしからぬネーミングなのは、作者の大佛次郎が、学校友達だった高浜年尾から思いついたのだと書いているが、これをやっていた中川晴彦という俳優はその後どうしたろう。その年尾を庇護する白雲堂という易者でじつは勤皇派の志士の役が嵐寛寿郎アラカンで、年尾の恋人が宝塚在籍中の扇千景、それを妻にした若侍が長門裕之、その父親で佐幕派の巨頭が大河内伝次郎という配役でなかなか面白い映画だった。松竹や大映や東映の時代劇とひと味違うところに、東宝の時代劇の妙味があった。アラカンと大河内の、チャンチャン切り結ばずにじっと相正眼で睨み合う殺陣の場面は、時代劇映画通の推奨するところだった。扇千景という人をはじめて見た(知った)のもこの映画でだった。まさか参院議長として位人臣を極わめることになろうとは、お釈迦様でも気が付かなかったであろうような、お人形のような可愛らしい女優だった。長門裕之もまだ十代かと思しく、童顔が坊やみたいだった。

さて野村克也氏だが、亡くなったのが2月11日、その後の数日間というもの、テレビをつければ野村のことをやっていた。コロナウィルスの報道も今から見ればまだまだのんびりしたものだったのを痛感する。横浜港の埠頭にクルーズ船が係留したのが二月の始め、夜景がきれいですねえ、などと言っている内は呑気なものだったが、何やらいつまでもぐずぐず手間取っている、これはおかしいぞ、という感じになり始めてはいたものの、話が俄かに深刻になるにはまだ間があった。翻って、野村追悼に充分時間を割けたわけだ。

野村の現役のころのパシフィック・リーグというものは人気の上ではどん底時代で、人気のセ・実力のパ、ということが半ば負け惜しみめいて言われていた。野村のホームランといえば、大飛球が外野席にどすっと落ちると、ほとんど無人のようなスタンドをコロン、コロンとボールが転がり落ちてくる、王のホームランボールが満員の右翼スタンドにライナーで飛び込むと大きく人垣が割れた中に吸い込まれるのと、いかにも対照的だった光景がまず思い出される。王の打ったホームラン数が八百何十本で断然一位なのに対し、野村が六百数十本で、これまた三位以下を大きく引き離して二位、という数字の描く絶対/相対の在り様が、野村という存在の在り様をいかにも象徴しているように私には見える。あれが、華々しい王者として一位では野村ではないし、3位以下の群雄であっても野村ではない。

眼鏡だの腕時計だのにも宝石の類がキラキラしている、本当の金持ちはこんなものはつけませんよと語っている映像があったが、大分前のことだが、国立劇場で毎月出していた小冊子に歌舞伎の裏方の人の談話を連載で載せるページがあって、こんな記事を読んだことがある。その人も高校生の頃、京都の田舎で野球に打ち込んでいたが家が貧しかったので、グローブだの何だのを買うのにも事欠きがちだった。ある時、ライバル校の上級生がやってきて、俺はもう卒業だからこのユニフォームは必要なくなる、少々破れがあるが継ぎを当てればまだ使えるからよかったら貰ってくれないか、と言って譲ってくれた。今でも家宝のように大切に持っています、といった内容だった。記憶だけで書くのだから多少の間違いはあるかもしれないが、野村という名前は出さず、読めば一読、それとわかるような話しぶりにもその人の謙虚な人柄が偲ばれて忘れ難い記事だった。昭和20年代という時代の空気まで甦るような話である。

昨年の夏、ヤクルト・スワローズのOB戦を見に行った時のことは、その折このブログにも書いたし、古田と真中に両脇から抱えられながら打席に立って、ほんの一瞬、往年の打撃フォームを蘇らせて見せた時のショットは、その折のニュースでも、死去の折のさまざまな映像の一コマとしても放映されたから、見た人もあるだろう。金田が死に、関根が死んで、これで野村より古い野球人と言えば、中日の杉下一人ということになった。昭和も20年代は記憶の中だけの世界になろうとしている。

この他にも別役実、真帆志ぶき、宍戸錠、青山京子・小林旭夫妻等々といった人たちの訃報がアンテナにかかっている。秋山祐徳太子、などというのもあったっけ。そうだ、太宰治の娘さんの園子さんも亡くなったのだった。太宰はこれでも昔、全集を全巻読んでいるのだ。別役氏については私の出る幕はないであろう。よくもまあ、同じような芝居をあれだけたくさん、飽きずに書いた(書けた)ものだと感心するばかりだが、そこに不条理劇のトラップがあるのかもしれない。二人の日活のアクションスターが相次いで逝ったのもウームという感じだが、宍戸錠については、日活が昭和29年6月から映画製作を復活した当初は文芸路線で、ニュフェースの宍戸が、もちろんまだ豊頬手術などしていないから頬も痩せ、芥川龍之介みたいに前髪をはらりと長く垂らした昔の文学青年みたいだったのや、小林旭もまだ高校生ぐらいの少年でなかなかの演技派だったという、それぞれの原点のような姿が懐かしく思い出される。青山京子は何と言っても三島の「潮騒」の最初の映画化の時のヒロインだ。相手役だった久保明はどうしているだろう?

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これは訃報ではなく、引退のニュースだが、豊ノ島がついに刀折れ矢尽きてしまった。2016年のことだからあれからもう4年も経っているのに驚くが、その夏場所二日目に安美錦がこちらは本場所の土俵上で、それから二カ月と経たない名古屋場所前に豊ノ島がこちらは稽古中に、それぞれアキレス腱を断裂するという事態となった。前も書いたことがあるが私は一に安美錦、二に豊ノを贔屓にしてきた。要するに、昭和も20年代から、途中そのときどきで熱の入れように起伏や濃淡はあったがずっと相撲を見続けてきて、その相撲ぶり、相撲取りとしての風情、存在としての興深さ、プロフェッショナルとしてのたたずまい等々、私が大切と思うめがねに適ったのである。それにしても、負傷以後の両者の苦闘ぶりは想像以上のものだった。安美錦は十両の下位まで下がったが踏みとどまり、8場所かけて幕の内に戻り敢闘賞を受けたとき、いつも飄々としているのが涙滂沱となるのを見て、解説の北の富士氏が「涙の敢闘賞、名寄岩」だと言ったのは、若い頃は「怒り金時」という仇名の一本気で、取り口も四つに組んでの力相撲一点張りという、安美錦とは正反対だったが、往年の名物力士が糖尿病のため大関から二度にわたって陥落し幕尻まで下がって健闘よく敢闘賞を貰ったのが、新国劇の舞台になり日活で映画化された(作者はまだ劇作家であった頃の池波正太郎である)その作品名が「名寄岩・涙の敢闘賞」だったのを知っていたのだ。北の富士氏は、たぶんまだ入門前であったろう。せめて一場所なりと上位に返り咲いて横綱・大関と対戦する姿を見たかったがもう余力は尽きていたのかもしれない、最後は十両で再度の負傷で引退した。それこそ名寄岩以来かも知れぬ40歳という年齢に不足はなかったが、遂に上位復帰までは叶わずに終わったという恨みは残る。

豊ノ島の方は36歳、まあこれも不足はない年齢だが、こちらは幕下まで落ち、案外にも十両復活すらかなり手間取ったのは、一度下がった番付は容易なことでは戻れないという昔から聞く話の通りだった。それでも、一旦は幕内に戻れたのを以て瞑すべしと思う他はない。稀勢の里が横綱昇進の期待を裏切るということを繰り返していたころ、今度こそはと大方の予想だったある場所の初日早々、猛烈な出足を土俵際でくるりと体をかわしてまたも夢を砕いた一番に、豊ノ島の真骨頂を見たと思っている。

ふたりのことをいうなら、昨秋に引退した嘉風のことも書く折を逸したままになっていたので、ここにせめても書き添えておこう。この人は、巧者でありながら相撲が小さいために永らく中堅に留まっていたのが、晩年の数年、何かを悟ったように相撲ぶりに筋金が入って第一流の達人となったが、最後はやはり怪我に祟られた。この三人に限らず、気がついてみれば栄枯盛衰・新旧交代の様相は4年の間に驚くほど進んでいて、朝乃山などまだ入門すらしていなかったか、というのがまさしく、歳月は人を待たないという譬えの通りである。

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こちらは人間ではないが、豊島園が間もなく閉園と決まり、戦前以来の名物メリーゴーラウンドもこれ限りかというささやかなニュースが流れた。「回転木馬」という「和名」があるのが、いかにも戦前の古き良き時代に欧州から伝来した文物にふさわしい。アコーデオンを手風琴、ヴァイオリンを提琴、フットボールを蹴球というのと同じデンである。シャンソンの古典的名曲の曲名にもなっている。「くるくる回る回転木馬」というのが歌い出しの歌詞で、イヴェット・ジローが原語で歌うのもいいが、こういうのは石井好子あたりが歌うのが一番ふさわしい。同じところをぐるぐる回るのがささやかながら無窮状を思わせるのが何ともいいところで、ジェットコースターのような戦後出来の遊具のように過剰な刺激を競うような下品な(!)ところがないのがGOOD OLD DAYSの産物の奥ゆかしさであった。

豊島園で戦前以来、一番スリルがあるとされたのはウォーターシュートで、急斜面をボートが滑走し、着水の瞬間、舳先に立っている水先案内人がサーっと跳び上がるのが格好いいというので人気だった。浅草の花屋敷は別格として、西洋の匂いのするこうした遊園地は、都内では豊島園を以て嚆矢とする。豊島園がなければ、後の読売ランドも今のディズニーランドもないわけだ。練馬区の歴史アルバムというのを見ていたら、昭和10年代の写真で、大相撲の豊島関を招待という記念写真が載っていて、関取は大阪出身だが「豊島」つながりで招待されたのだろうとキャプションにあった。この力士は「としま」ではなく「とよしま」と読んで、豊ノ島と一脈通ずるような短躯肥満の突き押し相撲で上位キラーとして鳴らしたが(何しろ双葉山に二度も勝っているのだ)、昭和20年3月10日の下町の大空襲の際、逃げ惑う避難民で身動きが取れなくなった両国橋上で焼死したと言われる。

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このブログを書きながらつけていたテレビのニュースが「辨松」の廃業を報じている。あれも、これも、サヨナラばかりのニュースである。

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これはサヨナラの話ではない。新しい朝ドラが始まって古関裕而がモデルという。男が主人公というのは朝ドラとしてたぶん珍しいのだろうがオリンピックがらみの企画と思しく、コロナ騒ぎでまさか延期になろうとは思わぬ先に決まったものだろう。演出が喜劇タッチはいいとして、絶叫連発のドタバタ過剰がちと気に障るが、古関裕而という題材への興味から、まあ、見ている。出身地が福島というので、「福島民報」という地方紙が「あなたが選ぶ古関メロディーベスト30」というのを読者の投票で募った結果が、3月10日付の東京新聞で紹介されていたのがなかなか面白い。一位が、オリンピックの入場行進曲でも高校野球の行進曲でもなく、また「鐘の鳴る丘」でも「長崎の鐘」でもなく、はたまた「六甲おろし」でも「紺碧の空」でもなく、何と「高原列車は行く」だというのが気に入った。「汽車の窓からハンケチ振れば」という歌い出しの、昭和29年の流行歌、歌うは岡本敦郎・・・といって、アゝとわかる人が今どれくらいいるのか心許ないが、しかしこれを第一位に選んだ「福島民報」の読者諸氏に敬意を表したくなる。(それにつけてもだが、ハンケチという言い方をついぞ耳にしなくなったのは、いつごろからだろう? 手拭いを半分にケチった大きさだから「半ケチ」というのだという語源説もあったほどだが、ハンケチはもはや死語か?)

私個人としては、NHKのスポーツ放送の冒頭に必ず流れた「スポーツ行進曲」というのと、若干マイナーだが「さくらんぼ大将」という放送劇の主題歌が郷愁をそそられる。夕方になると隣近所のラジオから流れてくる古川ロッパの歌う声が、今も耳についている。もうひとつ、これは今でも正午過ぎになるとラジオから流れてくるが(おそらくNHKとしても最長寿番組であろう)「昼の憩い」という番組のテーマ曲がじつにいい。かつての日本の農村の風景を音で描いた古関版「田園交響曲」ともいうべき名曲である。あれこそが、古関裕而の最高傑作ではあるまいか?

TBS(ラジオ東京)という局は、民放の皮切りとして何かとNHKを手本というか、模倣というかしながら、手探りで始めたところがあるので、スポーツ番組用に自前の「スポーツ行進曲」(という曲名なのかどうか?)を作っている、いまでも何かの拍子に、「チャンチャカチャカチャカ、チャンチャカチャカチャカ、チャンチャカチャンのチャン」という曲が流れてくるところを見ると、いまも現役ではあるのかしらん。つまり、スポーツ実況放送の冒頭にはNHKのようにテーマ曲がなければならぬと考えたのに違いない。あれは誰の作曲だろう? 1964年のオリンピックの入場行進には、黛敏郎作曲の曲も演奏されたのだが、そんな高尚な曲では選手は歩けず、かの古関裕而の曲が流れ出すと俄かに「世界大運動会」らしい空気が漲り出したのだった。そういえば、小学校の運動会でも、入場行進には必ずNHKの実況放送でおなじみの「スポーツ行進曲」が拡声器で校庭いっぱいに鳴り響いたものだった。

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ここまで書いたところで、皆川達夫、ジャッキー吉川、岡江久美子、久米明、更に山田敬蔵といった人達の訃報が加わることになった。皆川達夫さんはもちろん音楽学者として文字通りの碩学だが、NHKラジオの「音楽の泉」の三代目解説者としてこの三月いっぱいまでつとめ終えての死去だから、啓蒙家としても全うしたことになる。独特の嗄れ声が何とも格好良かった。美声ばかりが能ではないという格好の例である。この番組が始まったころは私はまだ小学生で、テーマ曲のシューベルトの「楽興の時」が聞こえてくるだけで、日曜日の朝の空気の匂いがしたものだった。初代の解説が堀内敬三で、この人は「話の泉」の回答者としてもおなじみだった。次が村田武雄さんで三代の中では一番謹厳な感じだった。この人の講義を大学時代に聞いたことがあるが、その印象もあるかもしれない。

久米明は山本安江のぶどうの会にいた人だから、もう100歳ぐらいになっているかと思ったが、昭和生まれだと知った。一般の知名度を以て幸福の尺度とするなら、末広がりの恵まれた人生だったことになるだろうか。

山田敬蔵、なつかしいなあ。随分と小柄な人で、顔立ちにも特徴があったから歴代のマラソン選手の中でもくっきりと思い出せる。1953年のボストンマラソン優勝というのが履歴の上でのハイライトだが、その前年のヘルシンキのオリンピックの代表3人の一人で、まあ3人とも惨敗だったわけだが、私にとってのなつかしさの根拠は勝ち負けとは別に、むしろそちらの方にある。この時の優勝のザトペックは、5千、1万、マラソンと三冠を取ったのだから、アベベ以上なのだが、その後の知名度においてはるかに及ばないのはまだテレビのない時代のためか。昭和20年代というのは、30年代に比べて何かと損の卦が出る巡り合わせになる。中学生のころに読んだ講談本の『赤穂義士銘々伝』で中山安兵衛が高田ノ馬場へ駆けつけるくだりに「安兵衛はザトペックのように駆けましたが間に合いません」とあったものだが・・・

岡江久美子さんについては、ニュースを知ってはなまるマーケットよりまず連想ゲームの方を連想したぐらいだから、到底私などの出る幕はない。

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最後にひとつPRをさせていただく。3月の歌舞伎は、歌舞伎座・国立劇場とも、初日を目前に政府の要請で延期、また延期を三度重ねた挙句、遂に完全休演という、いかにも心の残る事態となったが、両劇場で予定されていた全演目の動画配信が期間限定で行なわれたことはご存知であろう。せめてこれを、いつもの新聞劇評とは異なるとは言え書き残しておくべきと考え、日経新聞の5月1日付の電子版に掲載することになった。お読みいただければ幸いである。掲載が、配信の期間が終わった後なのが残念だが、同日の午前2時から配信との由である。

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