随談第627回 コロナ満載

あれよという間にコロナ・ウィルスのニュースでなければ夜も日も開けぬ(暮れぬというべきか?)世の中となった。ニュースの中にコロナという言葉が耳に留まり出して、まあ半ばは、よその国の話と聞いていたのが1月半ばごろから、2月になって横浜港にクルーズ船停泊となったあたりから、おいおいこれは冗談じゃないぞとなり、二月末に政府から立て続けに「要請」が出て小中高の学校閉鎖となったところで、本気モードに変わったと思っているが、「こっちの話」としては、3月は遂に「劇場」と名の付く場所へ一度も足を踏み入れないという、この何十年来なかった事態となった。歌舞伎座、国立劇場に明治座もと、三座で歌舞伎が開くはずのところが、三段階に刻んで休演また休演と重なって、遂に3月は「歌舞伎のない月」となった。この、三回に分けて、というところに、事態に対する政府などの為政者から、松竹その他の興行者さらには俳優その他の関係者、更には私などのような立場から関わっている者から一般の観客・ファン層まで、それぞれの立ち位置から事態を見ている者の「腰の及び具合」が反映している。「まだまだ間がある」「今はまだその時ではない」と、為政者も専門家も一般人も、みんながそれぞれ思いたい。思いたくても、現実の「その日」は容赦なく近づいてくる。X-dayはいつ来るか? あるいはもう既に・・・?

単に「東京に歌舞伎のなかった月」なら前にもなかったわけではないが(昭和4、50年ごろというのは、歌舞伎座で歌舞伎をするのが年に8カ月か9カ月だった)、圧倒的な不可抗力が理由で幕が開けられないというのは、昭和20年の終戦間近の頃以来のこと、という記事を昨日(3月31日)付の日経新聞の電子版に書いたのでご覧くだされば幸いである。ちょいとサワリだけ洩らすと、5月25日の大空襲で歌舞伎座と新橋演舞場が焼かれた後の東京では、7月31日に初代吉右衛門の熊谷に弟の中村もしほ(つまり後の17代目勘三郎である)の敦盛で『一谷嫩軍記』の「組討」の場を、何と日比谷公園の野外音楽堂で野外劇としてやったというのが一つ(但し一日だけ)、8月に入って、初代猿翁一座が東劇で(歌舞伎座・演舞場と至近距離にありながら、東劇は焼けなかった)『橋弁慶』と『弥次喜多』の二本立てで、終戦前日の14日まで公演を続け(映画『日本の一番長い日』を見た人は、これがどんなにスゴイことか想像がつくだろう)、さすがに15日は休演、そのまま月いっぱいは休んだものの、何と9月1日から、今度は『橋弁慶』を『黒塚』に差し替えて公演を再開したというのだから、たとえこの公演が東京都主催の罹災者慰問という名目があったとはいえ、天晴れというものだろう。ところが普通には、戦後の歌舞伎復興というと、六代目菊五郎が10月末に帝劇で『銀座復興』を上演したことがもっぱら言われてきて、いまも語り草になっている。気の毒なは猿翁である。それにしても、『橋弁慶』や『黒塚』より、『弥次喜多』をどういう風にやったのかしらん。見てみたかった。

しかし冗談ではない。まだ当分は間があると思っていた「團十郎襲名」興行が、もう来月に迫ってきた。我々にとってはオリンピックどころの話ではない。オリンピックだって、1年後と決めたはいいが、それで本当に無事開催できるのか、本当のことは誰にも分らないし、考えようともしていない(風に見える)。やれアスリート・ファーストだ、やれオリムピアードの理念だ、何だかんだと、テレビで討論会を見ていると、どれもオリンピックという枠の中で侃々諤々やっている限りではそれぞれもっともな言い分のようだが、オリンピックという枠の外にまで視野を広げて見れば、程を弁えて物を言わないと、一転して、手前の都合しか見ていないエゴの論理に聞こえてくる。いや、オリンピックなどの話をしている暇はない。同じことを、わが歌舞伎のことに重ね合わせてみると、どういうことが、あるいは、どういう風に、見えてくるかということだろう。團十郎の「睨み」でコロナウィルスが退散してくれるなら結構な話だが。

        ***

前回、マスクのことを書いたが、もう一度戦時中のことに話を戻すと、本土空襲が現実となったころから、「防空頭巾
なるものが普及して、大人も子供も、空襲警報が鳴ればこの防空頭巾をかぶって「防空壕」という穴倉へ逃げ込むのが日常のこととなった。ちょっと遠出をするときは、途中で空襲に会うのに備えて防空頭巾を持参した。形態としては江戸の昔からあった山岡頭巾というもので、よく雪国の子供がかぶっていたり山賊がかぶっていたりするのと同じ、ごく素朴なものだが、綿入れになっていたのは、何かが頭上に落ちてきても防御になるというためであったのだろう。それが、次第に敵機襲来が頻繁になり空襲が日常的になったころから、もうひと手間かけた新工夫の防空頭巾というのが登場した。口の当りを覆うために手のひら程度の大きさの覆いを取り付けたもので、これが付いていれば安心だということだった。(まあそりゃあ、ないよりはあった方がよかったでしょうがね。)つまり、マスク付きの防空頭巾というわけである。いざ我が家に、あるいは近隣に、敵機がばらまいた焼夷弾が落下した際には、この口当てつきの防空頭巾をかぶって、家々ごとに設置してある「防火用水」に汲み置いてある水をバケツリレーで消火に当れというのが、各町会ごとに行っていた防火訓練で教わることだった。我が家の筋向いの佐々木さんというお宅に焼夷弾が落ちたという設定で訓練が行なわれたとき、「佐々木さんのお宅に焼夷弾落下ァ」と誰かが叫ぶと、いつもおちょぼ口でものを言う上品な「佐々木さんのおばあさん」が、オホホホホと笑いながらバケツリレーをしたというのが、大人たちのひとつ話になっていたのを覚えている。逆算して考えると、まだ小学校に入るのは二、三年も先の幼児に過ぎない頃の記憶だが、この話に限らず、よくお前はそんな小さい時のことを覚えているなあと昔から言われたものだが、「戦時」という環境が幼ない脳味噌に何か特別な刺激を与えたためかもしれない。ところで焼夷弾というのは、焼夷剤と炸剤が入った無数の束がばらまかれるわけだが、あの束をクラスターというのだったっけ。

        *

そのクラスターだオーバーシュートだフェーズだ何だと、やたらにむずかし気なカタカナ語を使うというので非難が起こっているが、またしてもむかし話で恐縮だが、古い「サザエさん」にこんなのがあった。戦後(昭和24年12月から各紙一斉に)夕刊が復活して各紙が当時の人気漫画を競って掲載した中、朝日が掲載したのがかの『サザヱさん』で、テレビの人気番組のとはちょっと色合い肌合いが違うのだが、まあその当時の作で、インフルエンザの大流行で、近所隣り、家じゅう寝込んでいるというさなか、熱っぽくて具合が悪いという近所のおばあさんへ、サザヱさんが「あら、それインフルエンザですわ、きっと」と言うと、「ヒェッ、では」とびっくり仰天するので、「おばあさん、感冒のことよ、感冒」と笑って安心させる。と、「なあんだ、感冒かね。あたしゃまた風邪かと思った」というのがサゲになっていた。ところでここから読み取れるのは、「インフルエンザ」という言葉がこの頃から使われ出した新語で、老人にはまだ馴染みがなく、いまは忘れ去られた「感冒」という在来の用語がまだ普遍性を保っていたということ、更に、この「感冒」なる用語も、たぶん、お医者さんが普及させた、「風邪」ほどには深く根を張った言葉ではなかったのでは?という疑いである。朝日が長谷川町子『サザヱさん』、読売が秋好馨『轟先生』、毎日が横山隆一『ペコちゃんとデンスケ』というのが三大紙の布陣だったころのお話である。

        *

というわけで、3月はほぼ連日、健康のための散歩ぐらいしか外に出ることもなかったお陰には、遅れに遅れていた原稿を一つ仕上げることができた。書き始めて三年来、途中、(このブログの中でも何度か愚痴を漏らしたが)たび重なるわがパアソナル・コンピュウタアの故障やら不具合やらでその都度頓挫、一度は半ばまで書き進んだところで全部パーになったこともあった。昨年一月に仕切り直し、ではない取り直しをしてからも遅々たる歩みだったのが、このところのコロナウィルス騒動のお陰で一挙にはかどった。といって、この疫病神に礼を言うのもなんだが、人間、何が幸いするか知れないという、ひとつの知恵を実感したのは事実である。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第626回 ささやかなる終活 -ウィルス騒動のなかで-

じつはまたしてもパソコンの故障があって、今回も休載かとあきらめかけたのだったが、幸い、思ったより軽症で早く回復したので何とか間に合ったのはよかったが、いろいろ書く材料の心づもりをメモしておいたのが、野村監督もましてや喜多村六郎も、コロナ・ウィルス騒ぎの前には吹っ飛んでしまった。九年前の天災も春浅い3月、今回も3月に山場が来そうな形勢になっている。人間、時には災難に見舞われて高慢やらうぬぼれやらの鼻をへし折られたり、肝を冷やしたりすることも悪いことではない、とは思いはするものの、事態がここまでくると洒落どころではなくなって来る。

それにつけても、連日テレビのワイドショーで侃々諤々やっているのを見ていると、つくづく、日本人にもいろんな人種があるものだと感心することになる。大音声族・したり顔族・定番反応族・ひとひねり族その他その他・・・人類学ヒト科分類法の原材料に事欠かない。

初動対応に失敗したことへの挽回策かどうか知らないが、要請という名のお上の命令によって、各劇場の三月興行が軒並み初日を遅らせることとなった。国立劇場が15日まで、松竹・東宝系・明治座はほぼ10日まで、という微妙な差異は、それこそ阿吽の二字、によるものだろう。お陰で、三劇場に歌舞伎がかかるこの月、歌舞伎座と明治座に各一日、国立劇場に一日半、合わせて4日費やすことを予定していた三月第一週は、小学生並みに自宅でお勉強ということになった。まあ、遅れに遅れている原稿執筆を挽回するチャンスがこれだけまとまって到来したのは、コロナ・ウィルス大明神のお陰と思って精進することとしよう。

        *

なるべくならしないですませたいと思っていたマスクてふものを我もしてみむ、ということに遂に相成った。小学生の時以来だから、まあ、半世紀ぶりどころではない、絶えて久しい体験である。九州だったかで、マスクをするしないで乗客同士で諍いが始まり電車が緊急停車したというニュースを聞いて、恐ろしい世の中になったものだと怖くなった、というのもひとつの遠因かも知れない。

マスクというと思い出すのは、大学紛争盛んだった当時、ヘルメットにマスクというのがゲバ棒学生の定番スタイルだったが、そんなある時、山手線のどこの駅だったか忘れたが、前の電車が出て行ったあとしばらく閑散としていた隣のプラットホームに新たに電車が停車、ややあって発車して再び隣のホームが目に入った途端、こちらのホーム側からオーっと驚きのどよめきが起こった。何と、隣のホームにヘルメットにマスク姿の学生が鈴なりになってひしめいている。たぶん、どこかへ集団で移動する途中だったのだろうが、不思議な夢を見ているようだった。

これはわりに最近のことだが、テレビの番組で、もちろん平時の話だがマスクをしていないと不安だというのだったか、マスクをしていると安心だというのだったか、とにかくそういう人の意見というのを聞いたのが、なんとなく記憶に引っかかっている。マスクをしているのを格好いい、と考える人もあるらしい。ほんとに、人さまざまとはこのことである。まあ、鞍馬天狗の頭巾だってマスクと言えばマスクだろうし、なるほどあれは格好いい。「怪傑黒頭巾」というのもあったが、あれは鞍馬天狗が流行り出してから出来た亜流であろう。アラカンの鞍馬天狗の映画に御高祖頭巾というのをかぶった八丁礫のお喜代という女賊が出てくるのがあったが、あれは、冬の女性のファッションとして秀逸なものだったと思う。どなたか、現代によみがえらせ、流行らせてもいいのではあるまいか。

鞍馬天狗の頭巾はふつう宗十郎頭巾と呼んでいるが、『白浪五人男』の「浜松屋」の場で日本駄右衛門がかぶっているのが本来のもので、あれを基にアラカンの嵐寛寿郎が映画の写りがいいように工夫・改良したのだと、これはご本人が生前、テレビで喋っているのを見たことがある。なるほど、日本駄右衛門の頭巾では敏捷軽快な感じはないから鞍馬天狗には似合わないだろう。「浜松屋」の場の駄右衛門は、二階堂信濃守の家中の玉島逸当なる身分ある武士という触れ込みで浜松屋の客になっているのだから、いわば重役さんのお忍びの姿なわけだ。

ところでそのアラカンが亡くなってもう大分になるが、かつて少女のころに杉作の役で共演した松島トモ子さんが、しばらく前、アラカン宅へ焼香に赴いた時のことを新聞に書いていた小文が忘れ難い。晩年のアラカンが質素な暮らしをしていたのは知られていたが、タクシーに乗って探しても運転手にもわからない。大分ぐるぐる回った挙句にようやく見つけた家は本当に小さなもので、家具も何もない中に、ぽつんと、あの鞍馬天狗の頭巾が一つ、置いてあったという。

        *

ところで、と続けて書き出すことになるが、このほどふと思い立って、アラカンの映画ではなく、大佛次郎の小説の「鞍馬天狗」を読み返してみようと思い立って、電車の中でぼつぼつ読み始めている。奥付を見ると、昭和26年発行とある中央公論社版で、これはいかにも懐かしい。終戦後まだ間もない、今から見ると質素なものだが、中村岳陵装丁の趣味の良さはちょっとしたものだ。我が書棚に埃をうっすらかぶっていたこの本自体は、のちに古本で買ったものだが、この版本は、中学生の時に読みふけったバージョンそのもので、さまざまな記憶が伴われ蘇ってくる。私にとって、初めて読んだ大人向けの小説である。とまあ、こういうのも、我がささやかな終活の内だろうか。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

隋談第625回

遅ればせながら新年のご挨拶を申し上げ候。新元号第二年の「春」である。この前、新聞の電子版に載せる原稿に「新元号の新年」と書いたら、今年は令和二年だぞ、というような突っ込みが入るおそれもあるから「新年」と言わない方がよいのでは?という注意があった。む?と思いはしたが、余計なトラブル招くまい、と道成寺の坊さん達の舞い尽くしの教えに倣って、忠告に従うことにした。

さてその令和第二年の春芝居(もしくは初芝居)、東京での四座すべての評を載せる枠がないというので、どれの評を書くか、見てから決めようということにして、結果、歌舞伎座と浅草公会堂ということになった。それぞれについては掲載紙を見ていただくことにして、浅草歌舞伎のあのメンバーで『寺子屋』『太十』『七段目』とバリバリの丸本時代物を三本も出して、それぞれに相当の成績を上げたということは天晴れというものだろう。昨夏「朝日」紙上で梅枝が言ったという、歌舞伎役者がすれば何をしたって歌舞伎なのだ、とかつて初代白鸚さんが言ったという名言は今や過去のこと、という若手俳優としての率直な発言が、じわじわと若手たちに輪を広げ始めた表れと見るのは甘過ぎるか?

それと直接の関連はあるまいが、伝統歌舞伎保存会の研修発表会が今月一八日にあって、研修生上がりの若手たちで『五・六段目』をするのを見たら、これまたあっぱれの好舞台だった。エライ人たちでやると芸の面白さに隠れて見えなくなる芝居そのもの骨格が現われる。改めて『忠臣蔵五・六段目』というものが作品として如何に優れたものであるかを再認識したが、そう思わせた出演者たちの努力と好演を称えよう。と、もう一つ、教えも教え覚えも覚えである以上、教えるべきことが今もきちんと教えられているのだということを、再確認できたことも喜ぼう。
        *

浅草公会堂の花形歌舞伎は例によって日替わりの挨拶がある。私の見た日の担当は米吉だったが、いや喋ることしゃべること。水の流れるが如し。TALKという英語が日本語のトークとして定着したのはいつごろからだったろう。あの頃から日本人が、ひいては歌舞伎が変わってきたという言い方もできるに違いない。歌右衛門みたいに、小さな肺活量の胸をゼイゼイさせながら、三階席だとよく聞き取れない小音(という言葉もいつのころからか劇評でも使われなくなった)で、うねうねとセリフを言う役者はいなくなった。軽く、なめらかな歌舞伎。米吉は軽やかにトークを続ける途中、ちょっとごめんなさい、さっきから気になってしょうがないんですと言って立ち上がると、最前、幕の裾をまくって舞台中央に平伏した姿で登場した時、はずみで、敷き詰めた緋毛氈に大きな皺が寄ってしまったのをさっと直すと、またもとの位置へ直ってトークを續ける。現代っ子としての何というスマートさ。と同時に、女方としての何という細やかな心遣い。六段目のお軽が見てみたい。

        *

『五斗三番叟』を白鸚が出したのはびっくりしたが、そういえば『大蔵卿』を出したのはちょうど一年前の初芝居だったっけ。片や大酒飲み、片や阿呆に韜晦した人物だが、こういう役に興味をもつようになったのだろうか? つまり、大蔵卿も五斗兵衛も、韜晦の陰で一枚上を行く境地を楽しむかのような人物である。とすると、これはちょっと面白い。幸四郎の名を譲って白鸚という高等ご隠居となってなお、身体は健康、意欲は旺盛、心は高く、と三拍子そろってシルバーパス世代の最も良き終活ぶりではあるまいか?(尤も、ご自身シルバーパスを使って都バスで楽屋入りはなさるまいが。)

        *

その白鸚の今月の出し物『河内山』と『五斗三番叟』で、どちらも芝翫の暗君(松江候・義経)、歌六の忠臣(高木小左衛門・泉三郎)、錦吾の佞臣(北村大膳・錦戸太郎)と全く同じ構図の役どころで全く同じ顔ぶれが揃うのは、普通なら気が利かない配役と批判されるところだが、こう見事に揃ったところを通して見ると却って面白い効果がある。芝翫の松江候など、ご本人はべつに悪い人間ではなくただ生まれっぱなしのまま権力者になってしまったようで、しかもあの立派な役者ぶりが利いている。はまり役と言ったら気を悪くされるかもしれないが、近頃での松江候と言っていい。

それにしてもこの『義経腰越状』なる芝居、『五斗三番叟』は二世松緑という良き後継者がいたためにこうして辛うじて伝承されているが、肝心の『鉄砲場』が出ないと『千本桜三段目』を「椎の木」だけ出して「鮨屋」を出さないようなものだから、わけのわからない芝居となって久しい。冗談ではない、今の内に何とかしなければ。この際白鸚に『鉄砲場』の五斗兵衛も頑張ってもらうとして、吉右衛門に泉三郎を付き合わせ!関女を魁春というのは如何であろう?

        *

菊之助が「ナウシカ」での負傷も心配されたほどではなかった由なのは本当によかったし、『令和仇討』も国立恒例の菊一座の正月物としては作も面白く脚本もすっきり出来ていてこれもまずは重畳。菊五郎を王将に、菊之助と松緑の飛車角という布置もよく、確かに「菊一座」ではあった。

ところで旧聞ながら『風の谷のナウシカ』だが、私の見たのは菊之助の負傷の後だったのでまともな評はできないが、いろいろな方々の評判を聞くにつけ思うのは、劇化の方法としては(1)今回のようにできるだけ物語の要点をマメに辿って大筋を追うか、(2)原作の要所・作者の哲学を掴んでそれだけを圧縮して提示する。そのためには上演時間は短くて構わないという、そのいずれかしかないわけで、前者をよしとする人は拍手を送り、後者にすべしと思う人は鳴り響く喝采に眉をひそめながら家路についたことと思われる。昔から「戦争と平和」でも「アンナ・カレーニナ」でも、何度も映画化されているが、作者の哲学が盛り込まれた大長編を映画化なり劇化なりすると、どうしても主人公とヒロインの筋を追うメロデイドラマになってしまう、原作の味や本当の意味を知るには原作を読むべし、となるのが常道である。

『風の谷のナウシカ』を見ながら思ったのは、これは現代の生んだ『南総里見八犬伝』だということだった。作品の趣意とカタチ、双方から最も通底する。汚濁に満ちた世に理想の国を実現せむとする物語である。「風の谷」という小さな谷間の郷、南房総という、海上に半ば以上も突き出した半島という小国でこそ、雛型としての理想卿を実現し得る。いやそれすらも、実は夢想でしかないかもしれぬ。と、そういう曲亭馬琴の壮大な夢も、これもいくたびか映画化・ドラマ化された「八犬伝」物が、粗筋とヒーローたちの活躍を追うチャンバラ活劇となり、原作は読みもせず錦ちゃん千代ちゃんのチャンバラなど見向きもせぬ知識人たちから黙殺されてきたのに比べれば、今回の「ナウシカ劇」への世人一般の好意の寄せ方は以て瞑すべきであるかもしれない。もっとも、そうは言うものの、今度のような「良心的な」台本作りをしても物語を追うという形を取る限り、幕が開くごとに舞台に展開するのは戦いの場、つまりチャンバラ場面にならざるを得ないのは致し方ないところか。

見ていると菊之助のナウシカよりも七之助のクシャナの方が溌剌と輝いて見える。やはりここにも負傷の影が落ちているのかと思ったが、初日に見た人の言でも七之助の方が生き生きと見えたと言う。なるほど、こういう物語だと主役はどうしてもマジメな優等生にならざるを得ないのが常道だ。武蔵よりも小次郎の方が格好良く見えるのと同じデンであろう。八犬士でも信乃よりも悪の要素がある道節や毛野の方がチャーミングだ。

        *

同日の訃報欄に重光武雄・日下田実という二人の名前が載った。まるで関連のないようなお二人だが、私の遠い記憶を呼び覚ますにはどちらも充分な名前である。片やロッテの創業者。終戦直後、私がほんのガキだった頃に俄かにはやり出した、風船ガムという代物、子供心にもいかにも敗戦後の安っぽい戦後文化の象徴のように思えた。安菓子の背後に広がる社会というものを、小学校に上がったかどうかという程度の子供にも想像させた、もしかしたら最初の事例であったかもしれない。つまり、私にとってのイニシエーションのシンボルとして感慨なきを得ない。

日下田氏は、日本隊によるマナスル初登頂のメンバーの由。実はこの方の名前は知らなかった。こちらは1956年だから私は高校生だった。イギリス隊によるエベレスト初登頂が3年前のことで、新聞に登山隊の隊長の登頂日記が連載されていたのを子供なりに読んでいた。今みたいに、ほいほいと登頂する人が出てくるなど夢にも思えない至難の事業のように思われた。日本隊のマナスル征服はそういう時期のことだから大変な快挙だったわけだが、隊長の槙有恒という人はオールド・アルピニストして一般にも知られた瀟洒な紳士で、登山とは山に上って下ることである、という名言を吐いたのはこの人であったと覚えている。通っていた高校でこの方を招いて全校生徒を相手に講演をしてもらうということがあった。そのときに実際に登頂した隊員を一人連れてきたのだったが、つまりそれが、もしかするとこの日下田氏であったかもしれないという、なんとも回りくどいお話である。ヘイ、ご退屈様、という格好だが、数年を隔てているとはいえお二方の名前が同じ紙面に仲良く並んで記事になったというのは、ちょっぴり感慨深いものがある。

        ***

田淵の野球殿堂入りのニュースが大きく報道された裏ニュースのように、特別表彰として 前田裕司・石井連蔵の両氏が殿堂入りという報にはやはり感慨がある。いまからみれば、六大学野球が大きなニュースになり得た、ともかくも古き良き昔という言い方が出来た頃の早慶両大学の野球チームの監督である。早慶六連戦という言い方で、これは今でも伝説的にかなり知られているが、実感を伴って覚えている世代となるとこれまたシルバーパス世代ということになる。前田・石井両氏はその六連戦の時の両校監督であったわけだ。1960年昭和35年というのは、4月に入学するとすぐ安保騒動があり、秋に野球の六連戦があった、と年表風の記述にすればなるであろう。ま、かくいう私もその年の入学生ということになる。つい先ごろ、石原裕次郎と芦川いづみ主演の「あいつと私」という翌62年制作の日活映画を懐かしさにつられて日本映画チャンネルで見たが、これがこの60年安保の年の新入生という設定になっている。映画はお定まりの石坂洋次郎ものだが、芦川いづみの女子学生が語り手で、「あいつ」というのが裕次郎で「私」というのが芦川自身ということになっている。もっとも、映画には安保反対のデモは出てくるが野球の話は出てこない。

あの頃の神宮球場はまだ学生野球だけのものだったから今のようにフェンスや鉄塔に広告というものは一切なく、外野席も芝生だった。野球見物よりデートに利用する男女の姿もよくあった。プロの球団が本拠地にするようになったのは、当時の東映フライヤーズが本拠の駒沢球場をオリンピックの競技場にするというので召し上げられたために引っ越してきたからで、玉突きの理屈で東都大学リーグが半ば追い出されたため、隣接してあった野天の相撲場をつぶして第二球場を作ったのだった。この相撲場は本来アマ相撲のためのものだが、終戦間もなく、旧両国国技館が進駐軍に接収されメモリアルホールとなってしまったために、大相撲が本場所を開催したのを見に行ったのをかなり鮮明に覚えている。金剛力士のようと例えられた羽黒山と相撲人形のように優美な照国が東西の横綱だった。二人とも、今なお、私にとっての横綱というもののイメージの原点となっている。

        *

さてその相撲だが、徳勝龍という伏兵が一躍、躍り出して、普段相撲など見向きもしない民放でも騒ぎ出している。じつは二日目に遠藤が白鵬に勝った瞬間の舌なめずりのことを書こうと思っていたのだが、どうでもよくなってしまった。

徳勝龍は今場所は突き落としの方が話題になったが、これまではむしろ「とったり」で勝つ相撲が目立つ力士だった。相手が差しに来るか、前まわしを狙って伸ばした手を取るとあの肥満体で引っ張り込んで振り回す。と、相手は、あの巨体だから挟み込まれた手を容易に抜くことができず、振り回されてしまう。これが結構うまくきまるのが善し悪しで、取り口が消極的になりがちで星が上がらない、というのがこれまで徳勝龍だった。5年ほど前になるが、安美錦がこの「とったり」に引っかかって怪我をして途中休場に追い込まれたことがあった。前日まで8勝1敗と快調だったところでもあったから、以後私は徳勝龍憎しの念が頭から離れずに来たのだったが、まあ、こんな手に引っかかった安美錦の方も不覚であったわけで徳勝龍に責任があったわけではない。ご覧のように見た目も相撲取りらしい愛嬌があって、見た目も取り口もどれがどれやら何年見ていても区別がつかない同じタイプばかりの近頃の力士の中では特徴がある方だから、これを機に人気者になっても不思議はない。

        *

この場所の十四日目に新天皇ご一家の天覧があったが、幕の内の後半からということだった。つまりこの日の眼目、徳勝龍と正代の一戦は(控室のテレビには写っていたかもしれないが)ご覧にならなかったわけだ。先ごろの上皇ご夫妻の時もそうだった。かつて昭和天皇の頃は、中入りの際に着席され、土俵入りから幕の内の取組みすべてを上覧に供していたと思う。これは、どうしてこうなったのだろう? 

        *

豪栄道が引退したが、この人で一番いいと思うのは体形の良さで、縦横の均整がひと世代ふた世代前の力士のようで、200キロも珍しくない今様の巨漢と違っていたことだった。精神力の強さが言われるが、私はこの人、じつは案外小心なのではないかと思っていた。徳勝龍の「とったり」ではないが、この人の「裏の」得意技は「首投げ」でこれがまたよく決まりもしたが墓穴を掘る元凶ともなった。たまたま見に行った日に白鵬を「得意の」首投げで鮮やかに土俵下に投げ飛ばしたことがあった。起き上がった白鵬は、花道に突っ立ったままいつまでも土俵に戻ろうとしない。呆然と、というより、現実を認めたくない、といった風にも見えた。行司の判定に不服があって、物言いのつくのを暗に求めていたのかもしれない。白鵬の態度言動に、私が時折疑問を覚えるようになった最初でもあった。

本来押し相撲ひと筋の取り口、横綱に手が届くだけの戦績をあげられなかったが努力型の真面目が好感を招く元であった点等々、昭和30年代後半に大関を張った栃光に共通点を見る。大関のままで引退した引き際も同じである。好力士であったことは間違いない。

        *

国立劇場で「出雲神楽」の公演を見たのは、偶然だが初場所の十四日目、徳勝龍がまさかの優勝を目前にしたのと同日だったが、演目のひとつに「野見ノ宿祢」があった。宿祢は出雲、相手の當麻ノ蹴早は大和、つまり徳勝龍の国の先輩というわけだ。この一戦で野見ノ宿祢が當麻ノ蹴早に勝ったのが相撲の発祥ということになっている。ここでは蹴早はいわば敵役だが、見ていると野見ノ宿祢より格好いいのは、ナウシカよりクシャナの方が格好いいという原理がここにも働いているということか。

        **

ところでこの出雲神楽の番組の中で、囃子方が踊り手の所作の間合いを計っては「せーの」という掛け声をかける。なるほど、「せーの」という掛け声はここから来るのか。少なくとも、この人たちがこうした場で使う「せーの」という掛け声にはそれ相応の味わいがあって悪くない。

ところで、実は私はいまもって、この「せーの」という掛け声をしたことがない。東京に生まれ育った者として、子供のころ「せーの」という掛け声は聞いたことがなかった。それが(それほど遠くない)いつのころからか、世の中誰かれなく「せーの」一点張りになってしまい、子供のころから使ってきた「イチ、ニッ、サン」もしくは「イチ、ニノ、サン」、大勢でゆっくり声をそろえる場合には「イチ、ニイのぉ、サン」という掛け声はとんと耳にしなくなってしまった。私と同世代以下の誰かれなく、みなみな「せーの」派になってしまったのだろうか。相撲界では、横綱の綱打ちのとき、関取衆からふんどし担ぎまでみんな揃って綱を編むのに、太鼓をトントントンと叩くのに合わせて「ヒノ、フノ、ミ」と言うのだと覚えているが、今もそうなのだろうか。「ひー・ふー・みい」という、「一、二、三」というのよりもう一つ古風な数え方も聞かなくなってしまったいま、危うい限りだ。

        *

書こうと思ってメモをしておいた話題はまだ何項目かあるのだが、長くもなるし今更そう急ぐこと

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket