随談第634回 人間万事マスクの世の中

バスに乗り合わせた50年配のおばさん風の女性が花柄のワンピースと共布のマスクをしていたり、マスク風俗も堂に入ってきた感のある一方、ノーマスクの乗客が騒いだために飛行機が緊急着陸をするというニュースがあったり、地下鉄の中でノーマスクに入墨の強面のオッサンが辺りを睥睨しながらエヘンエヘンオッホンとやっていたりする。この手の反抗族が現れるのも、マスク風靡が時代風俗として定着しつつある逆証明のようにも見える。

          ***

九月の歌舞伎座は今回も「大歌舞伎」の看板を掲げた。吉右衛門に玉三郎、それに梅玉も出ているのだから、微塵も偽りはない。『引窓』などは、「秀山祭ゆかりの演目」と謳っている。白秋九月は、世が世ならば秀山祭の月なのだ。十月には国立劇場に菊五郎が出、歌舞伎座に白鸚が出、仁左衛門が出る。国立には菊五郎と一緒に時蔵も左團次も出るから、この三カ月でほぼ顔が出揃うことになる。(そうか、海老蔵がまだ出ていなかったっけ!)

と、これを書いているさ中に、政府から措置緩和の方針が出て、野球場は収容人数の半数まで、コンサート、歌舞伎、映画館など、観客が無言でいるたぐいのホール、劇場はフル収容でよろしいということになったが(歌舞伎の掛け声はどうするのだ? 尤も、クラシックのコンサートで曲が終わるか終わらぬかにブラボー!と絶叫する観客がこれを機になくなるのは結構なことかもしれぬ)、急にそんなことを言われたって、現に今月の興行は今まで通りソーシャルディスタンス厳守の態勢を前提としてチケットを販売しているのだし、4部制はどうするのだとか食事はどうする等等等と、そう俄かには急カーブを切るわけには行かない問題がいろいろ絡んでいる。コロナウィルス諸氏がいつ大人しくなってくれるのか、先が見えない限り如何ともし難いわけで、舞台に役者が大勢居並ぶ大曲輪の芝居には当分お目にかかれそうもない。今月第一部の『曽我対面』なども本来その手の狂言であるわけだが、いつもはずらりと居並ぶ大名連が6人しか出ないのはソーシャルディスタンス故であろう。大どころの面々はともかく、いわゆる下回りの役者たちの出番が縮小されるという光景を、すでに再開以来、いろいろな形で目にしているが、番付(例の無料のリーフレットである)の出演者連名を見ると、その割にはかなり大勢の名前が載っている。楽屋での仕事等々、それなりの配慮がなされてのことと推察される。

さてこの『曽我対面』だが、役者の粒が小さめとは言え好配役を揃え、梅玉の工藤、魁春の虎、歌六の鬼王、又五郎の朝比奈、錦之助の十郎など当代での一級品として賞翫に値する。松緑の五郎も高音がきれいに出るようになって結構だが、セリフ尻に駄目押しでもするような不思議なアクセントが付くのが耳障り、玉に瑕というものだ。ところで歌六の鬼王が袴の股立ちを取って出る。もう今後は、白鸚や吉右衛門が大ご馳走で出るということでもあれば格別、これを規範にするべきであろう。

第二部の『かさね』が思いのほかの好舞台だった。猿之助のかさねが、若い時に身につけた女方のこなしが良き頃合いに熟れてきているのに加え、いまとなっては加役としての女方ならではの、こしらえてかかった濃厚な色気がうまい具合に熟成して、とろみの具合が絶妙のシチューのような味わいだ。本来長く複雑な筋を持った狂言の一幕ならではの「よき不純物」をうまく発酵させている。何が何だかよくわからないような背景にある物語が、それ自体はどうでもいいようなものながら、不気味な背景となって効いている。それを引き出したのは猿之助の加役としての女方の芸である。(そういえばかれこれもう10年余の以前、海老蔵の与右衛門とロンドンへこれをもって出かけて、ちょいとした評判を取ったことがあったのを思い出した。当時はまだ亀治郎で、海老蔵よりひと回り小さい扱いだったが、見せてもらった現地の新聞評は亀治郎の記事の方が多かったように覚えている。)幸四郎の与右衛門の色悪ぶりもなかなかのもので、してみると先月の与三郎の期待外れは一体どういうわけだったのだろう? ところでこの『かさね』には、尾上右近ならぬ清元栄寿大夫が「出演」しているという、観客にとっては余禄がある。
第3部が「秀山祭ゆかり」の『引窓』である。吉右衛門が濡髪に回って菊之助が与兵衛、雀右衛門のお早、東蔵のお幸という水も漏らさぬ布陣で、コロナ禍以来ひさびさの丸本狂言である。ようやく「芝居」を見たという思いがする。新聞評にも書いたが、菊之助の与兵衛が、つい先ごろまで廓に出入りして遊女を引かして女房にした男という軽さと甘さがあるのが面白い。

さて第4部が「映像×舞踊特別公演」と銘が打たれて『口上』に『鷺娘』と番付にある。所要時間60分の由。『鷺娘』はそれほど長い踊りではない。ハテ如何なる儀にや、と思ったら、まあ何のことはない、前半の「口上」というのは、玉三郎ご本人がある時は生身で、またあるときは映像中に登場して、バックステージツアーよろしく歌舞伎座の奈落を案内してくれるというもの。後半の『鷺娘』は、白無垢の衣裳の前段と後段の部分は実演(という言い方も妙なものだが)、中段の、衣裳を引き抜いて町娘の姿で踊る華やかな場面は「平成17年5月歌舞伎座にて収録」とある映像でつなぐ。当然ながら、杵屋直吉・杵屋勝国以下の長唄・三味線・鳴物も映像の内だから生の演奏ではない(この落差もひっかかる)。幕切れは生身の玉三郎が瀕死の白鳥式に倒れ伏して幕となるのだが、と、いったん下りた緞帳がまた上がって、半身起き上がった玉三郎が満場に向かって手を振る。と、万雷の拍手の中、再び緞帳が下りるが拍手鳴りやまず、また緞帳が上がる、今度は立ち身で玉三郎が手を振る。と、三たび緞帳が下りて打出し、という次第。これを何とや言わむ? 新聞には「玉三郎リサイタル」と書いたが・・・。ただひとつ、「口上」の冒頭で玉三郎が、私は『道成寺』も『鷺娘』も、旧歌舞伎座の舞台で舞い納めた心算でおりますと述べていたことを、聞き逃すべきでない一言として書き添えておくべきであろう。もう一つ、観客の入り、満場の拍手、いずれも今月4部の内で一番であったことも。

          *

今月はもう一つ、国立劇場の文楽が、二月以来の半年ぶりの公演である。二月は、何とか楽日まで無事終えたところで、各劇場閉鎖という事態となったのだった。最近あまり耳にしなくなった言い草でいえば、滑り込みセーフというやつである。で、五月は緊急事態宣言中だったから、今回は半年ぶりということになる。それかあらぬか、各演目各演者、溜まっていた鬱憤を晴らそうというかのような熱演又熱演である。中でも、呂勢太夫・清治、呂太夫・清介の『絵本太功記』尼ヶ崎の段がこれぞ文楽と言うべく、就中、大詰の清介のタタキの凄まじさは往年の先代寛治を偲ばせる快演で、お陰でこちらも溜飲が下がった。第二部の『鑓の権三重帷子』は随分久しぶりのような気がするが、いま見るといかにも戦後の近松礼賛ブームの中で陽の目を見た作ということが改めて思われる。「数寄屋の段」で咲太夫が休演、思えばこの人もかれこれ八十翁のわけだ。4部制とは言い条、第4部の『壷坂観音霊験記』には「文楽入門」となっていて解説がつく。鑑賞教室とは別の、大人の初心者向けらしい。つまり今月の文楽は、正しくは三部制+初心者講座という構成である。なお、太夫・三味線はマスクその他一切なし、文楽の義太夫なのだから、これは見識というべきであろう。その代わりもちろん、床の真近の席には客は入れていない。

          *

国立の能楽公演で袴能があった。喜多流の『忠度』で、シテ・ワキその他の演者、地謡、囃子すべて紋付袴である。地謡は、再開した7月の公演では黒の覆いをつけていたが今回はなし、人数も八人と正規の人数だった。面も衣裳もつけない袴能には独特の良さがあるが、それだけに「言葉」に頼る面が多くなる。普段はさほど気にならない、シテの声が大鼓・小鼓の掛け声に消されがちになるのが玉に瑕である。しかし今回、『忠度』以上に感嘆したのは山本東次郎の狂言小舞『住吉』、わずか6分に神髄があった。

          **

以前からひそひそ囁かれていたものの、ああやっぱりあの噂には根も葉もあったのだということを証明するような事態で退陣劇があったり、寝業師の暗躍があったりの幾幕かの芝居があった末に新首相が誕生した。まあ要は、先人にべったりの腹心と見えていた人物が、胸中密かに「俺ならああはするまい」「俺ならこうするが」といった目をどれだけ秘め、養っていたか、であろう。木下藤吉郎が、信長に「愛い奴」と思われるために200パーセント服従、300パーセント以上の忖度・献身をして出世双六を躍進しながら、俺ならああするこうする、という目を養っていたように、である。

その新内閣人事の下馬評をあれこれするテレビ番組で、二階幹事長が「続投」といった言辞が飛び交ったが、二階氏はいつ野球の選手になったのだろう? 「登板」「降板」「続投」どれも野球用語だと思っていたら、民放のワイドショーならまだしも、NHKのニュースでも「××氏続投」と分別顔でキャスターが言っている。もはやそれは、「比喩」という域をはるかに逸脱している。もしかすると、比喩とすら思って、いや感じていないのかもしれない。

          **

その野球の話だが、中日ドラゴンズが1月に死去した元監督の高木守道氏の追悼試合をするという小さな記事を見つけた。そうだった。2月に野村・関根といった往年の名選手のことを書いた際に、うっかり名二塁手高木死去のニュースをド忘れしていたのである。
 私などの世代の者が小学生のころ後楽園球場でプロ野球を知るようになった当時、名二塁手といえば巨人の千葉茂ということになっていたが、戦前からの大人の野球通には苅田久徳という名前の方が近しかったろう。こういう喰い違いは、時代時代、また世代世代で如何ともし難いことで、むしろこうしたことの繰り返しこそが、プロ野球でも歌舞伎でも大相撲でも、伝統ある「芸」の世界らしいともいえる。高木守道は、昭和30~40年代、つまりテレビ中継で野球を知るようになったファンが急増した時代に、二塁手という、いかにも「通好み」のする「味な」ポジションのイメージを植え付けた名手だったというべきだろう。もっとも今度の追悼試合は、長嶋巨人と優勝を争った中日監督としての高木氏を偲ぶものであるらしい。

          *

プロ野球各球団のユニフォームが何種類もあるのは、かつてホームチーム用とビジター用と2種類だけだった昔を思うと隔世の感だが、そのくせ、中日・ヤクルト戦などでは、両チームとも、上がブルーに下が白のツーピース、もちろん色合いに違いがあるとは言え、パッと見には同じように見える。本来、敵と味方を一目瞭然で識別できるためのユニフォームなのだから、気が利かない話だ。巨人ならオレンジ、広島カープなら赤という具合にチームカラーを使ったのが各球団にあるが、何故か概して感心しないデザインが多い。阪神の黄色いのなど、虎がバターになってしまいましたという『ちびくろサンボ』のラストみたいでいかにも弱そうだ。縦縞模様にしてこそのタイガースではあるまいか。

          *

野球の選手が何かの拍子に帽子を脱ぐと、オヤ、この選手はこんな顔だったのかと意外の感に襲われることがよくある。今シーズン限りで引退を表明した藤川球児の素顔は、今度初めて知ったわけではないが、しかしやはり、改めて、ヘーエと思わされた。素顔で引退の弁を語る藤川を見ていると、発言の内容といい話しぶりといい、威勢のいい快速球を投げるだけの人物でないことを物語っている、ように見える。

          **

コロナ後はじめて国立演芸場に出向いた。特別企画公演として林家正雀が「彦六ばなし」と題して、師匠の林家彦六となって死んだ八代目正蔵ゆかりの噺をする会である。一時開演、4時15分ごろ終演というのが演芸場本来のカタチだが、一時開演2時半ごろ終演とある。(もっとも実際には、眼目の『梅若礼三郎』が長講50分で、20分ほどはみ出したが。)やはり入り口でシュッと吹きかけられた手をもみもみし、体温測定を施され、自分でちぎった半券を箱に入れ、プログラムは各自お取りください、席も前後左右には人なく、お陰で前の人の頭が邪魔にならず安心して聴ける、というところはご多聞に漏れない方式である。もちろんマスク着用は言うにや及ぶで、日本的完璧主義はいまや完全に徹底、定着している。

正雀を聴くのは随分久しぶりだ。師匠彦六について芝居噺をするというので早くから注目はされていたが、口跡が固くてお世辞にもうまいとは言えなかった。しかしケレン味のまったくない真摯な姿勢には好感を覚えていた。久しぶりに見る高座は、綺麗な銀髪に風格も感じさせ、芸風は変わらない中にもゆとりが出来て、見事ひとかどの噺家になり遂せている。特に師匠に似せているわけではないにもかかわらず、『梅若礼三郎』という古風な人情噺を語り込んで行くうちに芸の姿がかつての正蔵の芸と重なり合う具合は、こういうあり方こそ、芸の継承として本物というべきであろうと思わされる。近ごろ稀な、静かで快い感銘を覚えた。

          **

神保町シアターで原節子特集をやっていて「東京の恋人」が上映されるというので見に行きたかったが、上映時間がうまく都合がつかず断念した。ここ数年、何年かごとに出ているので再会はすでに何度か果たしているのだが、見る機会はそうあるわけではないから残念には違いはない。この映画は昭和27年7月の封切りの時に小学生だった夏休みに見ていて、同じ年5月の高峰秀子の『朝の破紋』と共に私にとってはこよなく愛惜置く能わざる作品なのだ。映画史上の定番の評価としては、まあ中の中かせいぜい中の上という作なのだろうが、諸人知らぬものない大家名匠の手になる名作とはまた違った、いとおしさがある。もっとも『朝の波紋』は五所平之助監督だが、『東京の恋人』の方は千葉泰樹という手練れの職人監督で、二年前の『山の彼方に』などと共に、多少落ちつきを取り戻しながらも戦争の後遺症が傷口を開いたまま、という時世を、問題作話題作の重苦しさをすらりと避けた娯楽作に仕立てているところがミソである。

『朝の波紋』もそうだが日本が独立を回復した年に作られたこの二作には、戦前には高級住宅街(お屋敷町と言ってもいい)であったところが焼け跡のままになっている情景が映し出される。(終戦から7年経った東京の街の実態はまだそんなものだったことがわかる。)そこに掘立て小屋を建ててやもめ暮らしをしている三船敏郎が、バリっとした白の麻服にパナマの中折れ帽という紳士然とした夏姿で銀座に現われる。十朱久雄と沢村貞子の夫婦が経営する宝石店に、ウィンドウに飾るためのコピーの指輪を製造、納めに来るのを業としている。その店の前に画架を立てて道行く人の似顔を描いて暮らしを立てているのが原節子という設定で(街角の似顔絵描きというのも、当時の都会風俗のひとつである)、チェック柄のシャツにズボンといういで立ちである。(スラックスなどという言葉は当時の日本人はまだ知らなかった。)その宝石店の二階にオフィスを構える、折から流行り出したパチンコの玉の製造でちょい成金になった会社の社長が、まだ「名優」になる前の森繁久彌、その女房が清川虹子、行きつけの飲み屋の女将が藤間紫、不幸にもまだ夜の女の境涯から抜け出せずにいる娘が杉葉子(つまり銀座にまだその手の女性が徘徊していたわけだ)・・・といった配役で、三船の住む元お屋敷町の焼け跡以外は、銀座と、勝鬨橋を渡った先の(原節子や杉葉子の住まう)貧しいが人情味ある街からカメラは外に出ない。(それにしてもみんなまだ若いこと! 小泉博が靴磨きの少年役で、その弟分の役の井上大助という当時人気の少年俳優もなつかしい。)私は原節子の格別のファンでもなければ、まして女神の如くに拝跪する好みも持たないが、小津作品でいえばこの前年が『麦秋』で翌年が『東京物語』という、彼女の一番盛りの狭間に作られた、人のあまり知らない谷間に咲く花として、このチェックのシャツにズボンをはいた彼女を一番好ましく思っている。三船敏郎も定評ある時代劇の剣豪も悪くないが、こうした現代劇で少々マッチョな都会紳士を演じているときが一番格好いい。もうひとつ、最後にして最小ならずに言い忘れてはならないのは、この映画の一番の主役が勝鬨橋であることで、時間になると遮断機で都電・車・歩行者を止めて橋の開閉をする様子を見るだけでも、一見の価値は充分ある。東京タワーの出来た昭和33年を基点に30年代を「昭和レトロ」一色に塗りこめてしまうのが、いつのまにか世の「定番」になってしまっているが、サンフランシスコ講和条約が発効しGHQが帰って行った昭和27年をもっと注目すべきだというのが私の「戦後昭和論序説」で、美空ひばりの「お祭りマンボ」がこの年のシンボル曲である。(因みにあの曲では、お神輿を担ぐ掛け声は「ワッショイワッショイ」であり、「セーヤセーヤ」ではない。)

          **

本当はもうしばらく前に書くべきだったが、訃報欄にウィリー沖山という文字を見つけた。特に関心があったわけではないが、こういう名前は、いかにもある時代をささやかながら体現しているから、ほんの数秒間にせよ、ある種の感概を引き起こされる。藤木孝などはひと頃駒込にあった三百人劇場でシェイクスピアなどやっていたのを何回か見ているから、多少の感概を呼び覚まされるが、もっとももうこちらが一定の年齢に達していたせいもあって、その名と共に蘇る同時代性という意味では、ウィリー沖山に及ばない。岸辺シローとなると更にそれだ。もっとも守屋浩となると、テレビが電気紙芝居といわれていた頃の安手な感覚が、昭和30年代という、ある種の半端な、かるが故に時代性を強烈に宿していた時代の表層を彩った多くの名前のひとつとして、今となっては奇妙な懐かしさがある。ついこの間死んだ弘田三枝子などと共通の時代の匂いである。

山本寛斎は、ようやく売り出してテレビでちらほら顔を見かけるようになった当時、山手線の同じ車両に乗り合わせたことがある。人目を集めるための奇抜なヘアスタイルや服装で売り出しに努めていた頃で、エラくなってからの寛斎氏より妙にいとおしい。

          *

ジュリエット・グレコの訃報か。ふーむ。グレコ自身はいいと思うが、それを取り巻くおパリ・おフランス人士が気になるなあ。

          *

訃報とは違うが、貴景勝が北天祐の娘と婚約というニュースがあって、久しく名を聞かなかった北天祐という名前が紙面に載った。北天祐はいかにも大物らしいムードを漂わせた強豪大関だったが、当時年末のテレビの恒例の番組で、各界の人気の運動選手(アスリート、などという聞いた風な言い方はまだ普及していなかった)が、何段もの跳び箱をしたり綱引きをしたり、大騒ぎをする番組に出演して思わぬ大怪我をしたのが元で引退することになったのだったと覚えている。それにしても、千代の山→北の富士→千代の富士→北天祐と、あのころまでは相撲大国北海道の出身の強豪力士の系譜がくっきりと連なっていたことが思われる。

          **

朝ドラの『エール』がいよいよ軍歌作曲の時代にテーマが移り、「露営の歌」と「暁に祈る」をめぐる件が既に放送になった。ここらがこのドラマのヘソの部分だろうが、「露営の歌」を長調の曲にという当局の要望を押し切って短調で作曲したという件があった。それで思い出すのは、近年忘れられたかのような名前だが、ひところテレビ文化人として知らぬものもない存在だった高木東六という音楽家が、この人は戦争協力を避け軍歌もやむを得ず一曲だけ、それも短調の陰々滅々を嫌って長調で作曲した、というのをしばしば広言していたものだったが、古関裕而を念頭に置いて言っていたのかどうかまでは分からない。

          *

IOCが、何が何でも来年にオリンピックをやる気らしい。「人類がコロナウィルスに打ち勝った証し」というのを錦の御旗とするのだろう。ウィルスは人間が藪をつついたから出てきたまでで、向こうから戦いを挑んでいるわけではないが、ワクチンができるか否かに関わらず開催するというのだから、ま、そんなことはどうでもいいのだろう。戦時中、「この一戦、この一戦、何が何でも勝ち抜くぞ」という歌があったのを思い出した。あの手の歌は軍歌とはまた別に、銃後の国民を鼓舞するために、戦中無数に作られたのだった。

          **

信号待ちのこちら側に老夫婦、対岸に自転車にまたがった巡査が二人。老夫婦は共にマスク着用、巡査は、一人はしているがもう一人はノーマスク。そこで老夫婦の会話。「オヤ、お巡りさんはマスクがなくてもいいのかな」と、これは私がとある街角での実見である。

大相撲千秋楽の優勝力士表彰式に先立つ『君が代』斉唱にあたって、「皆さまマスクをしたまま声を出さず、心の中でご唱和ください」と場内アナウンスが言っている。

マスクかな 嗚呼マスクかな、マスクかな・・・ですかね。

          ***

前回、8月に映像配信された吉右衛門の『須磨浦』の評を本紙夕刊に掲載の予定と書いたが、その後、事情で9月8日付の電子版掲載となった。ちょっとお詫びを申し上げる次第。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第633回 歌舞伎再開

歌舞伎座が再開場した。先ずはその実地報告から始めよう。全席約1800席を823席に削減、前後左右が空席になる、千鳥模様に綾掛けをした形だから、前の席の人の頭を気にする必要がないのが一得という、何ごとにも思わぬ余得はあるものだ。この8月は国立劇場も稚魚の会・歌舞伎会の合同公演が5日間、音の会が二日間、どちらも小劇場ながら開場したから、足並みが揃ったことになる。「曲がりなりにも」という言葉はこういう場合に使うのが最適、と中高生の現代国語教育の用例になり得るかもしれない。

そういえば国立劇場のロビーに「すわれない席と並んでわすれない感動を」という(やや苦しい!)キャッチコピーが飾られ、どうぞ「社会的距離」を確保してくださいと場内アナウンスが言う。SOCIAL DISTANCEという外国語を使わないところが古典劇の劇場としてのプライドか?(だがそもそも、「社会的距離」って一体何だろう? 国交断絶とか、村八分とか、お隣同士口も利かない、とかいうのかと思うとそうではない。わかったようなわからないような、それで片仮名用語にしてお茶を濁す、官製用語の悪見本のようだ。そもそもソーシャルディスタンスって、もしかしてジャパニーズ・イングリッシュか? 文法的・語釈的に如何なものだろうか? 当初、他にも幾つか言われていた中ではフィジカル・ディスタンシングというのが一番実態に即しているように思うが、いつの間にかソーシャルディスタンスに一本化されてしまったのは何故だろう? コレデイイノダ、という方があったらご教示いただきたい。)がまあ、それはともあれ、座席は同じく綾掛け式だが、花道脇の席をずーっとつぶした歌舞伎座に対して、こちらは前の方数席だけ。『吃又』の冒頭間もなくに虎出現の騒ぎに出てくる百姓たち(それも4人しか出ない)のせりふの飛沫がかかる恐れのある範囲にとどめている。一方歌舞伎座は、『吉野山』のいつも花道でやる早見藤太と花四天のおかしみのやりとりを本舞台でする。

(それにつけてもだが、九月には文楽の公演があるが、文楽の太夫の飛ばす「飛沫」の量と飛距離は役者のせりふどころではない。たぶん厳重なマスクをするのだろうが、以前、料金が安いということもあり、太夫の一言一句が身に沁みて聞こえるような気もして、もっぱら床の真下の席で聴くことにしていたことがある。ある時、津大夫の唾が私の右の高頬にひやりと飛んできた。汚いどころか後で顔を洗うのもためらったほど嬉しかったものだが、別の時、某大夫の唾がかかった時には、思わず拭いてしまったっけ。盛りの頃の津大夫をたっぷり聴くことが出来のは幸運な巡り合わせというものだったが、そう言えば三人遣いの人形をどうやってソーシャルディスタンスを「確保」して遣うのだろう? あれこそ三密の代表のようだが、もっとも人形は無言の業だから、まあ、いいのか?)

歌舞伎座の四部制というのはおそらく歌舞伎史上未曾有の椿事(「珍事」ではありませんからご注意を)であろうが、一番長い『吉野山』が60分、一番短い『棒しばり』は42分と時刻表にある。短い上演時間、登場人物の少ない人気狂言というのが基本条件だから、『助六』など夢のまた夢、思いもよらぬ。(『勧進帳』ならOKか。しかし詰め寄りのところのソーシャルディスタンスをどうするか?)入場口で体温測定をし、プシュッと薬品を掛けた手をもみもみし、チケットの半券は各自ご自身でもぎってこの箱に入れてくださいという方式は、ほとんど病院に近い厳重さだ。日頃「ご観劇の記念に」と売っている「筋書」もなし、配役とごく簡単な梗概を載せた簡単な無料のプログラムが玄関を入ったところに、ご自由にお持ちくださいと置いてある。売店は一ヵ所、それも飲み物のみ、食事は一切なし。そもそも各部一演目で、終了ごとに場内消毒のため総員退出、昼夜続けてご覧になるお客様はそのまま中でお休みくださいなどということはないから、次の部が始まるまでの平均約1時間半乃至2時間は、各自の裁量で外で過ごすしかない。一日で四部すべて見るには、この一時間半乃至二時間を都合三回つぶす算段をする必要があり、しかも折からの酷暑のさなか、気散じに銀座なり築地界隈を散歩でも、というわけにもゆくまいと、いつもは昼夜一日で見ていたのを二日に分けて見ることにしたが、後で聞くと、4部通して見た人もかなりいたようだ。しかし九月は二日に分けて見ることにするわ、という声もあったところを見ると、やはり大変だったのだろう。近くの喫茶店で過ごすぐらいしか手はない筈だ。一部すむ毎の総員退出は、観客だけでなく出演者・裏方からスタッフまでという徹底ぶりだから、5日目の第三部が、スタッフに一名、疑わしき反応が出たために休演となっただけですんだらしいのは、ともあれめでたいことであった。(即ち私の見た翌日である、危ないところだった。)

ところで肝心の舞台だが、たまたまと言うべきか、例年8月は幸四郎・猿之助を芯にした納涼歌舞伎の月だから、一種実験的な意味合いもある(つまり「瀬踏み」である)この再開月にはふさわしかったと言える。第一部が愛之助に壱太郎で『連獅子』。朝一番から獅子か、などとはこの際言うまい。それなりの格式と儀式性を感じさせる松羽目物、再開場を飾る一番目にふさわしいと見えないこともない。二人とも優等生らしい真面目な舞台ぶりの役者だから、先ずは第一走者としての走りを見せたというところか。但し、観客の方も、おっかなびっくり瀬踏みをしているらしく(繰り返して言う、私の見たのは三日目である)、一階上手寄りの前方辺りや通称ドブという花道の裏側に、ぽっかりと無人の空間ができていた。これが56分。出演者は親子の獅子に、間狂言の僧二人の計4名。長唄囃子は五枚五挺でそれなりに、即ち1メートル程度?のソーシャルディスタンスを取って雛段に居並ぶという簡素さが、今は絶対条件なのだ。ついでながら、唄も囃子も黒覆面、じゃなかった黒布で顔を覆っている。(先月から始まった国立能楽堂の能の公演でも、演者はシテ・ワキともいつも通りだが、地謡が人数を減らし、顔を黒布で覆っていた。)ともあれ、こうしてコロナ禍の中、歌舞伎は再開したのだった。

第二部は勘九郎・巳之助の『棒しばり』でこれが42分。普段なら中幕物だが、これ一本でオシマイである。親同士が名コンビで売った狂言舞踊、どちらも親に真似びて微笑ましくも悪くないが、上等なお菓子をいただいて結構なお点前でしたと満足するには、当然ながらまだ道半ばなのは致し方ない。4部を通じて言えることだが、各部それぞれで観客の色合いが変わる。つまり各部それぞれの出演者の熱心な贔屓が観客の大勢で、普通一般の歌舞伎ファンというような層は、まだ様子見を決め込んでいるのかもしれない。

第三部、猿之助と七之助の『吉野山』に至ってようやく歌舞伎らしい華やぎが漂い出す。一に演目、二には役者の故であろう。猿之助と七之助という顔合わせは、芸質も持ち味も違うから必ずしも花爛漫の名コンビというわけには行かないが、それぞれの芸のレベルは今月各部での頂上付近、松羽目舞踊が続いた後に竹本や清元が聞こえるとやはりホッとする。客席も、和服姿のアラサー&アラフォー(&アラフィフ)?と思しき女性客が目に付く。静が花道を入った後、忠信が澤瀉屋流で引き抜いて火炎模様の狐姿になると、「猿之助さんはちゃんと手を抜かないでやってくれるからいいわ」などと後ろの席の女性客が囁き合う!? 有難きは贔屓客である。もっとも猿之助も、前段の「はまぐりはまぐり」というところもやって見せるから、かの女性客の寸評もあながち見当外れとも言えないか。

第四部は幸四郎与三郎、児太郎お富という『源氏店』。長身で細身、育ちの良さを全面に出した柄行きといい、見たさまもすることもよさそうでいて、これまで見慣れた与三郎像とどこかですれ違う。あの与三郎と道で行き会っても怖いとも思わないだろう。やくざ者だがどこかに育ちの良さが、芸の含みとして見えるのと、初めから育ちのよさそうなやくざ者とでは、ほんのひとまたぎのように見えてその間には深く隔たりが口を開いている。つまりは、綺麗ごとですんでしまうのが物足りない。仁にありそうで、あるいは然らずか? 考えてみれば、高麗屋の家から与三郎をする役者が出たのも一異変というものだろう。お富も、阿古屋以来、ぐいぐいと進歩をみせてきた児太郎だが、何故か後戻りしたような感じでもひとつすっきりしない。新聞評に未来歌舞伎のようと書いた由縁である。未ダ来タラズ。

中車が弥左衛門、弥十郎が蝙蝠安という配役も無難と言うに留まり、私としてはこの逆の配役で見たい。弥左衛門が無事につとまるだけ歌舞伎の水になじんだ中車だが、そろそろ、もう一歩、二歩、踏み込んで歌舞伎俳優九代目市川中車としての足跡を歌舞伎に刻す意欲を望みたい。無難とは言い条、弥左衛門というのは、演じる役者の風格や味わいがにじみ出て初めてつとまる役である。私は中車の由良之助や菅丞相を見たいとは思わないが、蝙蝠安をする中車ならぜひ見たい。タレント俳優香川照之氏としてテレビであれだけの活躍をするのなら、「中年からの役者」として無難に役をこなす域に留まるより、歌舞伎における「性格俳優」として独自の地歩を切り拓いてみせてくれることをこそ、期待するからだ。蝙蝠安に取り組む意欲を見せてくれたら天晴れを、見事やってのけたなら大天晴れを進呈しよう。

(まったくのついでのはなしだが、ゴキブリ退治の殺虫剤のCMで、ゴキブリ駆除に奮闘する夫婦を中車が1人2役で演じている、その女房の役の女方ぶりがなかなか結構で、ちょいと感心して見ている。「半沢直樹」における超過剰演技より、エスプリが利いていてよほどよろしい。)
ともあれこれで、歌舞伎座は無事再開場を果たしたわけだが、新たな展望が開けたというわけではないから、当面はこの方式で続けてゆくほかはなさそうだ。コロナ禍の不安は、人々の心にどんよりと重くわだかまったままである。

        *

国立劇場も、8月は本興行ではなく稚魚の会歌舞伎会合同公演に音の会という、養成課が担当する勉強公演の月。『修禅寺物語』に『茶壷』、『傾城反魂香』だが気持ちの良い舞台だった。(長唄や竹本のマスクが、歌舞伎座が黒マスクなのに対して白マスクなのは、黒頭巾に対する白頭巾というところか。)『修禅寺物語』という芝居は、なまじ大家の顔合わせで仰々しいのより、こうした形での清新の気漂うリリシズムが真っ直ぐに届いてくる舞台が好もしい。頼家の梅寿など、まだまだ子供っぽいなりにちゃんと頼家になっている。橋吾の夜叉王が、幕切れ、筆と紙を手に桂の断末魔の有様をぐっと見守って幕にしたのがよかった。せわし気に筆を動かす中、幕にするのが多いが、夜叉王ほどの「芸術家」としてかくあるのが然るべきであろう。『吃又』も新十郎と梅乃の実力の程を示す好舞台。「音の会」に稚魚の会OBたちが出演して丸本物の大作をするのが毎回の愉しみだが、今回は芝のぶのお光に京妙のお染、梅乃の久松、新蔵の久作、京蔵の後家という『野崎村』。結構でありました。花道脇の席だったが、駕籠かきの先棒役(新八?)の男振りに感心した。

        *

7月の幸四郎による図夢歌舞伎に続き、この月も獅童の超歌舞伎、松貫四作で吉右衛門演ずる『須磨浦』と映像配信が続いた。超歌舞伎は6年前に幕張メッセで初演の際に見たが、内容云々以前に、獅童のこれに賭ける熱意に並々ならぬものを感じた。熱狂的な支持を受け年々盛んになり、今年は南座で公演の予定だったのがコロナで流れ、豊島区立のBRILLIA HALLからの中継を配信したもので、見ていると獅童の熱意と献身ぶりは変わらない。その支持のされ方にも、軽視できないものがある。少なくとも、ここで繰り出される「歌舞伎イメージ」が、歌舞伎を一度も見たことのない若い層に何らかのアピールをしていることは事実である。

一方でこうしたものが作られ、配信される中、何と吉右衛門が自ら起って「配信特別公演」として映像を配信するということがあった。制作・著作は松竹、竹本作曲は竹本葵大夫、作調は田中伝左衛門とあるが、吉右衛門が松貫四として台本を執筆、吉右衛門として自ら演じる。題して『須磨浦』。評は日経本紙夕刊に掲載予定だが(掲載日は未定)、『一谷嫩軍記』二段目の「須磨浦」組討を第二場としてこれが眼目、第一場として、熊谷が義経から「一枝を伐らば一指を剪るべし」という、三段目「熊谷陣屋」の例の制札を戴いて帰る「堀川御所の場」をつけて、敦盛を討つ経緯を明示するという構成。これを、歌舞伎座でなく観世能楽堂の舞台で演じるのがもう一つの眼目であり、言うなら能の器に歌舞伎を盛るという、新たなる意匠としての意義と価値に通じる。仕手は吉右衛門ひとり、素面に袴をつけた姿、葵太夫と淳一郎の竹本が地謡の座に座り、伝左衛門ほかの鳴物が囃子方の座に座る。二場とも、仕手は橋掛かりから出て、入る。要するに能の形式に則り、丸本歌舞伎の様式で演じるわけだ。(下座の長唄等は陰から聞こえる。)義経、敦盛等は舞台上には登場しないから、やり取りは竹本と交わす。とまあ、いちいち説明すると煩雑のようだが、現実の能の舞台がそうである如く、極めてシンプルで見事に抑制が効いている。今回は無観客での上演だが、いずれ時を得て、実際に能楽堂で見てみたい。コロナ禍を奇貨として、新たな可能性を切り拓くものと言える。

        ***

最近のテレビでダントツに面白かったのは、ナベツネこと渡辺恒雄氏にインタビューしたNHKの番組だった。天体の運行とわが心の道徳律なるカント哲学の精神と不戦主義、それに共産党入党・除名を経て、戦後政治の渦中にあって火中の栗を拾い続けて体得したプラグマチズムとの、渾然一体となったナベツネイズムは思わず聞き惚れる面白さだった。つくづく思うに、旧制高校の「古き良き事大主義」が生んだ最後の人であろう。戦前派のプラグマチズムと戦後出来のプラグマチズムの厚みの違いに、つい思いを馳せた。

と、折からの首相退陣の報である。吉田茂から鳩山一郎へ、保守合同を経て石橋湛山から岸信介へ、岸から池田勇人へ、さらに佐藤栄作へ・・・とつながってゆく政権の変遷というのは神の悪戯かとも思われてくる。石橋→岸と、池田→佐藤のケースは、今度と同じく病気のための退陣だったわけだが、つくづく思うに、石橋湛山があそこで倒れなかったら、戦後の保守政治も大分違うものとなっていたかもしれない。神の悪戯は、天体の運行ほど、律義でも整然ともしていないのだ。

        **

7月のことはもはや旧聞となってしまって久しいが、照ノ富士復活のことだけは記しておきたい。前にも書いたが、2015年5月、関脇で初優勝した場所、稀勢の里を上手投げで破って優勝を確定的にした一戦と、翌々場所、横綱を目前にして再び稀勢の里と対戦し、膝から崩れ落ちてその後の悲劇の大原因となった一番を、どちらもこの目で目撃したのが「忘れ難い偶然」となっている。あれがもう5年前のこととは! 一旦大関を陥落してもなぜすぐに手術をして完治を図らないのだろう、そのために一旦は大関から下がっても、若さと力量から言ってすぐにも復帰できるだろうにと不審に思ったものだった。(翌2016年の夏場所後、現・芝翫の襲名披露パーティの席に、伊勢ケ浜親方の令嬢と芝翫の三人息子の誰とかが同じ学校の同級とかの縁で、日馬富士・照ノ富士らが参列、鏡割りをしたことがあったが、あの場所も膝の負傷のために散々の成績だった直後だったので、密かに義憤を覚えたことがある)。怪我の回復の具合とのバランスの問題として出場を続け、その間にようやく横綱を射止めた稀勢の里と優勝を争うという、因縁も生まれたが、運命は人知では図りがたく、このほどのような巡り合わせとなって、オワリヨケレバスベテヨシ、ということになった。この上は、せめて大関までは復活させたい。

        **

訃報は渡哲也、内海桂子、河原崎次郎、それから山崎正和、といったところか。

山崎正和は、『鴎外―闘う家長』を、ちょうど鴎外に凝っていた頃だったので熱心に読んだ。なるほど、という感じで得るところは多々あったが、あまりにも綺麗に整理されている感じが妙に気になった。『世阿弥』は、現・白鸚のと十代目三津五郎がしたのを見た。ここでも、綺麗に整理されているのが、一抹のしらじらしさを感じさせた。三津五郎がタンバリンを手に踊った場面を妙に覚えている。こんなに頭のいい人はいないと思ったという追悼の言があったが、言い得て妙であろう。

        *

渡哲也。裕次郎は若い頃は結構好んで見たし、「鷲と鷹」「狂った果実」などはいまでもふっと思い出す愛唱歌だったぐらいだが、渡という人にも別にマイナスイメージはないものの、「軍団」などと言って集団を作るような行為に関心を持てないので、興味を覚えることはなかった。そうだ、大河ドラマの『勝海舟』で(かれこれもう半世紀もの大昔だ)、麟太郎時代までをつとめて病気交代したのだったが、父親の勝小吉役で出ていた松緑に気に入られていた、ということがあったっけ。世間のこの人への評判の在り方が推して察しられるような気がする。

        *

内海桂子が死んだ。97歳という。この人の、伝え聞く、さながら芝居の筋書のような人生がそのまま、このほぼ一世紀に及ぶ庶民世相史になっている。お見事という他はない生涯である。相棒の好江もまたよかったなあ。

        *

河原崎次郎が死んだ。長兄の長一郎は映画でもテレビでも結構見ているが、次郎についてはほとんど記憶に鮮明なものはない。守田座の控え櫓であった河原崎座の座元にはじまる名門河原崎家も、権十郎・国太郎という名前は大歌舞伎と前進座とにいまもあるが、血筋を引くのは健三を残すのみか?

        *

もうひとり、記憶の底から浮かび上がったように、福嶋一雄という名前を訃報欄に見つけた。終戦直後の、まだ旧制で全国中等野球大会だった時の優勝校が平古場昭二をエースとする浪商で、新制となり全国高校野球大会となった最初の優勝校が、この福嶋一雄をエースとする小倉商業だった。私は高校野球の熱心なファンには遂にならなかったが、この二つの大会のことは、幼なかった記憶に何故か刻まれている。死亡記事の外に、別面にやや大きいスペースの記事が載ったのは、甲子園の土をひそかにポケットに入れて持ち帰ったというエピソードの故だが、今日試合終了後に盛大に行われる「甲子園の土」を袋に詰める儀式の元祖とされているらしい。もっとも、甲子園の土を持ち帰ったのは私が最初、という話は結構あちこちにあるらしく、つまり、それぞれ密かにポケットに忍ばせて帰った選手がいても不思議はないわけで、おそらくどれも嘘ではないに違いない。但し「元祖」であるかは否かは、確かめようがないわけだ。広く知られるようになったのは、戦後しばらく出場が叶わなかった沖縄の高校が、初めて出場した際に「甲子園の土」を持ち帰ったのが、まだ沖縄返還以前で「本土並み」でなかったために違法とされるということが報道されたのがきっかけだったのは確かだ。この時は、同情した日航のスチュワーデス(と、当時は女性の客室乗務員のことを呼んでいた)が、土が駄目ならと、小石を焼いて選手たちに贈ったというエピソードが生まれたのが、更に反響を呼び、「甲子園の土神話」が定着したのだと覚えている。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第632回 またも不要不急の話ばかり 図夢歌舞伎

図夢歌舞伎なるものが始まった。トム歌舞伎ではない。夢を図るズーム歌舞伎だそうな。(高名な映画監督で内田吐夢という方があったが、あれは「夢を吐く」のでトムだった。)6月末から7月へ掛け、毎週土曜11時から5回連続で『忠臣蔵』を有料配信するというものだが、このほかにも、各優各自でさまざまな企画が行われつつあるらしい。これも誰ゆえコロナ故にかかる事態となり、日ごろスマホを片手に、当世流のさまざまなメカニズムを苦とも思わず駆使する現代歌舞伎の若く意欲ある諸優がこうした挙に出るのも当然というものだろう。

(とはいえ、私のような、元々「メカ」だの「エレキテル」のたぐいに関心のないままにこの齢となった者には、驚き呆れ唖然とする外はないような話である。ついでに言っておくと、高齢者だからメカニズムに弱いのではなく、もともと若い時からの、これは「気質」の問題であって、ミソもクソも一緒に、高齢者だから新技術に弱い、と見做す当世流の通念には(当世流の言い方をすると)イワカンヲオボエル。)

        *

さて閑話休題、その図夢歌舞伎だが、正規の劇評を8月4日付の日経夕刊に載せることになっているので、これはその、いわばデッサンのようなものとしてお読みいただきたい。まあ何と申そうか、プラマイ共になるほどこういうことか、というのがまず第一の感想、というより感慨である。前回、幸四郎が言い出し兵衛になって、と書いたが、むしろ仕掛け人・仕切り人という方がふさわしそうだ。タイトルとしてはただ『忠臣蔵』だが、内容は『仮名手本忠臣蔵』を、毎回ひとり二人これと思うゲストを招いて、自身が大星・師直・本蔵といった全段を貫く芯になる役を務め、図夢版『仮名手本忠臣蔵』を見せようというのが趣意と見た。猿弥が口上人形を発展させた語り手の陰の声として筋を運び、幸四郎自身もあるいは本蔵あるいは大星として、「独白で心境を語りつつ筋売りをする外に、判官、定九郎、猪、平右衛門等々、あるいは狂言回し、あるいは切り盛り役、あるいは潤滑油等々となる役回りをつとめて目まぐるしく働く。更に終了後に素顔で登場して(幸四郎自身は「映像」部分も生出演であるらしい!)、ときに汗も引かぬままときにゲッソリ?しながら、あるいは挨拶あるいはトークと、サービスにも抜かりがない。この甲斐性! これが第一の売り。

売りの第二は、映像の使い方で、普通の「舞台中継」ではいわば客席から見ているのと同じ角度、というか視点から見ることを前提にしている。もちろん、方々に何台もカメラを置いていろいろな角度から撮るにせよ、客席から見ている臨場感というものが第一なわけで、アップを多用するとか、意外な角度から写すとか、ほどほどにすれば好評を得るが、度が過ぎるとウルサイということになる。あくまで「劇場の椅子」に座って見ている感じ、が生命なわけだ。だが、そういう「劇場の椅子」を前提とした「現実感」とか「臨場感」から疎外された、それを逆手に取れば自由な図夢歌舞伎としては、たとえば「三段目」の喧嘩場で「判官目線」で師直の嫌みなパワハラ爺いぶりをアップで写し、今度は「師直目線」で怒りに堪え、ふるえる判官を見るショットを見せる。映画なら当り前といえばそれまでだが、あくまで『仮名手本・三段目』の舞台を客席からは見られない「目線」で見るというところに、斬新な興趣があるのは確かだ。まあこれが、今回一番の「当り」ともいえる。しかも師直も判官も幸四郎がしているのだから、「四段目」の腹切場では、幸四郎の判官が腹を切るところへ幸四郎の大星が駆けつけて、「襖を押し開く」背中をまず見せて(これも客席からでは見られない)から、つぎに切腹の座の傍らに座を占めて、同じく幸四郎の判官が「無念じゃ」と訴えるのへ、「委細承知」とやる。映画では昔から「一人二役」という手法でやっていることだが、それとはまたひと味ふた味違った「幸四郎リサイタル・図夢歌舞伎」としての面白さは充分にある。染五郎の力弥の「いまだ参上仕りませぬ」も合わせ、「三人?の目力」を鑑賞するのもファンにとってのお愉しみか。つまり映像は(三密回避のため)各役各優を別々に撮影したものの合成であるわけだが、それを逆手に取った面白さと言える。

もっとも、「逆手に取る」といっても、「大序」ではこの逆手が裏目に出て、ゲスト出演の壱太郎の顔世に師直が言い寄る件は、ソーシャルディスタンス風の間隔を取っているため師直のセクシャルハラスメントの「あわや感」が出ないのは是非もない。師直の付文を顔世がソーシャルディスタンスの彼方から勢いよく放り捨てる!と、それを拾うのに前かがみになった師直の上半身が画面から見えなくなってしまう、というような、少々マヌケな事態も生じる。つまり第一回のこの場はまだ「劇場の椅子目線」に捉われていたからこういうことになったわけで、まあここらは、初物尽くしの試行錯誤の内と大目に見ようが、そういえばテレビのごくごく初期のころには、立回りのあと剣豪がハアハア肩で息をしながらセリフを言ったり、登場人物一同隣室へ移動する間カメラが長々とシャンデリアを映していたり、といった間の抜けたことがよくあったものだったっけ。(イマドキのお若い方々のために注釈を加えると、当時はドラマもすべて生放送だったのです。)

第3回に至って、様相は複雑多様になる。場面も「五・六段目」、しかも勘平に猿之助が出演(冒頭、猿之助の勘平と幸四郎の定九郎が「顔をしている映像が映るというサービスがある)、放映時間も第一回「大序から三段目が正味約35分強、第二回「四段目などは30分(このぽっちり感!)に比べ今回はたっぷり50分余、勘平・おかる・おかやのやりとりも浄瑠璃にはないセリフも随所に織り込み、更に竹本も葵太夫が出演、語りのアップも頻繁にありボリューム感が前二回に比べ格段に増すことになる。この回はもっぱら猿之助に預けた形で幸四郎は顔を見せるのは定九郎のみ、後は「余市兵衛内」に(二人侍ではなく一人侍として)やってくる不破数右衛門は声のみの出演、猿弥の「口上=語り手」によると「五段目」の猪もそうだというが、もちろんこれは洒落の内、ちょっとショットが映るだけで、花道の「出」から本舞台を二周するという「苦役」はやらない。ここでのミソは、稲叢を真横から表と裏を見せて(つまり下手の袖から見る形である)定九郎が余市兵衛の財布を奪って突き殺す件を手品の種明かしよろしく見せるところ。なるほど面白いには違いないが、この種のことはほどほどにしないと、同じ手はそう何度もは使えない。(納涼歌舞伎の『弥次喜多』で「四の切」の舞台裏をそっくり見せたことがあったが、つまりあの手である。但し今度は稲藁だから経費はぐんと安くて済む。)

「六段目」は丸本物の愁嘆場の醍醐味を図夢歌舞伎流の演出で見せようという意欲を思わせる。おかるの壱太郎がなかなかのもの、おかやに上村吉弥という配役で、とくにおかやの芝居が舞台以上に前に出る。丸本物三段目の愁嘆場の真の主人公は、『鮨屋』なら弥左衛門『佐多村』なら白太夫、じつは爺役婆役であるという昔から言われていることが、平素舞台で見ている以上にくっきり浮かび上がってきたのは面白い。つまり本質としてスター芝居である歌舞伎芝居と、原作浄瑠璃の綴じ目が図夢歌舞伎流の映像本位の脚本にすると自ずから露呈してくるということか。あるいはそこに、幸四郎(と戸部和久台本)の狙いがあるのか? もっともこれは一面からすると、限りなく映画に近づくことでもあって、言うなら「義太夫入り映画」であるともいえる。女衒の源六は登場しないから、「聟さんは昨夜父つぁんに会ったそうだ、これでご安心」というのをおかるのセリフに書き換えるような脚本上の処理も随所に行われるが、吉弥二役の一文字屋お才(但しこちらは声のみ)も合わせ、4人のやり取りに「大序」のようなソ―シャルディスタンス故のすきま風は吹かず、かなり緊密な画面を作り出すことに成功している。(試行錯誤も回を重ねるごとに学習・進化した故であろう。)

もっとも、省ける人物はなるべく省こうという実際上の都合かも知れないが、少々無理も生じている。五段目で千崎との出会いを出さないので(そもそも千崎自体が登場しない)、(おそらく)勘平は(以前にどこかで)不破に会って、不破から石碑建立のための50両のことを聞き、その50両を何とかならぬかと余市兵衛にもちかけた、ということになる。とすると、余市兵衛がおかるの身売りを決めたのは勘平の要請を受けてのことというリクツになる。ストーリーを簡明にしようとしたためか、それとも他に考えがあってのことかはわからないが、こうすると(おかやから見ての)勘平の罪は一段と深く(許しがたく)なり、その分(観客からすると)勘平の哀れが薄くなることにもなる。即ち本来なら、勘平は勘平で(千崎から教えられた)石碑建立の50両の工面に懸命となり、余市兵衛ファミリーは(それとは別に、勘平の真情を忖度したが故に)彼らなりの考えでおかるの身売りを親子3人の相談づくで決め、それが定九郎という(想定外の)存在が出現したためにすべてがワヤになるという、50両という金をめぐっての不幸な偶然の重なり、イスカの嘴の喰い違い、という「運命悲劇」の綾のもつれ方がいささか変わってくる。猿之助の勘平は幸四郎の意気に添うべくなかなかの熱演だが、薄幸の色男というより「人間悲劇」の趣きが強くなるのは、この台本上の処理のためのようにも見える。もっともこれには、猿之助自身の意図も大きく関わっているようで、腹を切るのも、俗にいう「関西型」で余市兵衛の死骸を見て(客席に?)背を向けたまま腹を切る。幕切れも「早野勘平、血判つかまつったァ」と大きな声で誇らしげに宣言するかのように叫んで、両手を膝に背を伸ばしたまま落ち入る、という具合い。ここらは幸四郎ではなく猿之助の仕切りであったのかもしれない。(加えて、猿之助の仁の問題もあるように思うが、そこまで風呂敷を広げると話が面倒になるから、この際はひとまず措いておこう。)

第4回は「七段目」一力の場。手探りの試行錯誤を積み上げて、図夢歌舞伎ならではの仕掛けや工夫もかなり進化して、幸四郎らしいミソがあちこちに仕掛けてある。幸四郎の役は平右衛門一役、前段は、猿弥の口上ならぬ「語り手人形と平右衛門の掛け合いで筋を運ぶ。どうじゃどうじゃいなの見立ても(配信、すなわち幸四郎にとっての本番つい前日の藤井七段の棋聖戦制覇を取り込むなど、幸四郎らしいアンテナの感度を見せる)、手を出して足をいただく蛸魚もテレツクテレツクスッテンテンも、みな平右衛門がやってしまう。二階座敷と手水の水鏡を『引窓』風に見立て、そこに何と初代白鸚の由良之助の顔が映ったりするなどあって、やがて雀右衛門のおかるが登場、ここからの平右衛門とのやりとりが今回の眼目、本格に作った七段目の舞台の、おかるが平舞台、平右衛門が二重の上と三密対策の映像を手際よく使って運ぶ。髪の飾りに化粧して、可愛や妹、わりゃあ何にも知らねえなあもソーシャルディスタンス厳守の構成画面で見せるわけだが、雀右衛門のおかるが図夢歌舞伎の域を超えた大人の色気を見せる本格の芸で堪能させる。少々の不便を不満とも思わせない、ここはなかなかの見ものである。おかると平右衛門のやり取りにやがて初代白鸚!の大星の映像も加わっての画面構成も、ここらは第4回ともなれば経験の積み重ねにものを言わせている。トド、平右衛門が九太夫を刺して、折檻の件で初代白鸚なつかしの名調子を聞いてこれで約40分、だんだん銭の取れるものになってきた。それにつけても、初代白鸚の懸河の弁の迫真力には、昔の人は違うなあ、と今更ながら感じ入る。

さて最終回の第五回は「九段目」と通称「十一段目」の討入。ここでは猿之助が再度登場、今度は何と戸無瀬を演じる。がこれが、なかなかの見ものである。当今の猿之助しか知らない人は意外に思うかもしれないが、花形と呼ばれて売り出しの頃、この人亀治郎は女方と見られていたのだ。『小栗判官』の青墓長者の娘お駒など、いまなお猿之助十傑に優に数えらるべき逸品として目に焼き付いている。いまとなっては加役とはいえ、むかし取った杵柄、というより若き日に身に付けた女方としての素養は、賢く役を選べば今後も大いに期待に応え得るものと私は睨んでいる。この戸無瀬はそうした意味からも注目に値する。(それにしても猿之助は、勘平と言い戸無瀬と言い、図夢歌舞伎を幸四郎への協力だけに留まらせず、自身の今後への展望と布石の場としても活用している辺り、端倪すべからざる抜け目なさ、イヤサ、意欲の程を見せている。)

ここでも、お石も小浪も、もちろん取次ぎの女中も登場しないから、置きの浄瑠璃(今度も葵太夫の出演である)がすむとすぐ、戸無瀬が一人で木戸口へおとない、幸四郎の(お石ではなく)大星がドオレと出てくる。小浪もそこにいることにして戸無瀬が、嫁入る所はいくらもある、とやっているところへ加古川本蔵が下手で鶴の巣ごもりを吹奏する、「ご無用も(ここらの猿之助は確かに見ものだ)、加古川本蔵の首進上も、幸・猿ご両人だけでやってしまうが、ここに染五郎の力弥が登場、本蔵を槍で突くのも雪持ち竹も、為所はほぼそのままやる。大星との早変わりのため本蔵の眉が付け眉だったり、ここらは図夢歌舞伎ならではのご愛嬌だろう。「九段目」だけで50分余、「十一段目」として討入も、門前で大星が山鹿流陣太鼓を打ち鳴らし、泉水の立回りなど、主な見せ場はかいつまんで盛り込み、めでたく本懐まで抜かりなく見せて無事終了。〆て六十分余。そのあと(これは文字通りに大急ぎで)素顔に戻って聞き手の戸部氏と対談トークでしめくくるというサービスぶり。中でとりわけ、共演者から裏方、スタッフまで、全員が3月以来はじめて顔を合わせた人たちばかりだったという、やや涙ぐんでの一言には、ウームと唸らずにはいられなかった。

        ***

プロ野球が5000名を上限として観客を入れるようになった。そのことの是非は別の話として、3万は収容するスタンドに5000人が散在する光景は、何やら懐かしいような感じがする。これがコロナ禍ゆえの措置ではなく平常のことだったなら、プロ野球のように長期にわたって試合が行われる興行は、いつもいつも超満員というより、普段は六分から七、八分ぐらいの入りで、いつふらりと見に行っても楽に席が取れるというぐらいの方が、大人の娯楽として好もしい。寄席などでもそうだが、何か特別の興行なら別だが、前売りを買わないと入れないというのはどうも窮屈な気がする。少なくとも観衆5千という数字は、昭和の頃のパ・リーグの試合より多いわけで、なつかしい感じというのも一つにはそこから来ている。カンという打球の音、バシッと投球が捕手のミットに納まる音、一球一球に(拍手だけとはいえ)反応する観衆のざわめき、審判の判定の声、フライが上がって野手が互いに掛け合う声、といったものが快く響く。観客も、固唾をのんで見守るような局面でも、トイレだか何の用だか知らないが、間断なく立ったり歩き回ったりする様子がない。満員になれば3万4万という、ちょっとした地方都市の人口と変わらない人数を思えば、何かしらの都合や用事ができて動き回る者が絶えないのも無理はないとはいえ、あんた一体、何を見に来たの?と訊きたくなるような輩が少ないのではあるまいか? まあ5千ではちょっと寂しいのは確かだが、久しぶりにかつての野球見物の雰囲気を思い出したのは事実である。

大相撲の七月場所が初日まであと一週間を切るという間際になってから、観客を入れて実施と決めた。観客収容1万の国技館の4分の一の2500人、升席は一人で独占、二階の椅子席は4席ごとに一人と、明快な算術で分かりやすい。これも球場と同じくサアーッと撒いたほどの埋まり方だが、野球場の大きなグラウンドの解放感と違い、小さな土俵を四方八方から見下ろすというコンパクトな館内では、無観客だと無機的な感じが際立った三月場所のような異様な感じがないだけでも大違いだ。声援が禁止で拍手だけというのは、野球の場合以上に少々間が抜けるが、わけの分かった観客が大勢を占めているらしく、取組み中の拍手もツボに入っているので気持ちはよい。(あの分なら、制限時間一杯になったところで席を立つような、あんた一体何を見に来たんだと言いたくなるような輩はあまりいなさそうだ。)

        *

思えば、拍手というのは元来西欧伝来の舶来の応援の仕方だが、相撲も歌舞伎と同様、急所急所に声を掛けるというのが本来であろう。もちろん、手拍子というのは古来から日本にもあるものだが、歌舞伎でも、戦前のことは知らないが声を掛けるより拍手の方が主流になったのは戦後もそれほど古いことではない筈で、拍手万能の昨今、一番気になるのは、たとえば『白浪五人男』の「勢揃い」で、日本駄右衛門以下、ひとりひとりのツラネのセリフがすむごとに拍手が起こり、それがしばらく尾を引く。と、「賊徒の張本日本駄右衛門」と言って見得をするとすぐ、その息につなげて「さてその次は江ノ島の岩本院の稚児上がり」と弁天小僧のツラネが続くのだが、その頭の部分が拍手に消されて聞き取れない、ということが起こるようになった。「続いて次に控えしは」と忠信利平、「またその次に連なるは」と赤星十三、で五人目に南郷力丸が「さてどん尻に控えしは」と続いてゆくのだが、この、それぞれの冒頭の部分が一人終わるごとに起こる拍手のために聞き取れない。聞き取れない以前に、駄右衛門から弁天、弁天から忠信、忠信から赤星、赤星から南郷と、陸上競技の400メートルリレーではないがバトンタッチの間合いに妙味があるのだが、それが拍手の中に埋没してしまう。以前は、五人のツラネのせりふ全部は言えないまでも、きっかけの部分ぐらいは知っていて、例えば隠し芸なりスピーチなり、人数が揃った席で順に何かをしようというような際に、「それじゃあ、続いて次に控えしはで私が・・・」とか、一番端の席にいた者が「さてどん尻に控えた俺が・・・」などと言いながら立ち上がり、下手なのど自慢で唄を歌ったり一席ぶったり、といった光景を、さほどの芝居好きの集まりでなくともちょいちょい見かけたものだが、たぶんこの風習は拍手の普及と共になくなる(既になくなった?)であろう。

しばらく前、『勧進帳』の弁慶の幕外の引っ込みの際、観客から一拍子の拍手が起ったというので非難・疑問の声が上ったことがあった。あの飛び六方の呼吸にそもそも一拍子という等間隔の「間が合わないではないか、というのが究極の疑問点となる。一拍子の拍手というのは、私の記憶では、前回の東京オリンピックの際、体操競技で日本選手が大活躍したのがテレビで放送されたのがはじまりであろうと睨んでいる。つまり、鉄棒とか跳馬とか床運動とか、各種目ごとの選手の入退場の際に会場から一拍子の拍手が起こる。おそらく体操界では以前から慣習として行われていたのだろうが、これがオリンピックを契機に一般に広まったのだ。あの伝説的な女子バレーボールは別格とすれば、日本選手が一番活躍しメダルを多数取ったのは体操であったから、一拍子の拍手というのが、それまであまり耳にしなかったリズムの新奇さと相まって、あっという間に広まったのは、人気絶頂時代のドリフターズの番組『全員集合』から、「最初はグー」という、それまで(少なくとも東京では)聞いたことのないジャンケンの掛け声が広まり定着したのと共に、この半世紀間にテレビを通じて日本人の民俗に生じた二大異変であろう。(前に書いた「せーの」という掛け声も合わせ三大異変というべきだが、これはテレビを主たる媒体とはしていない、と思われる。)

        ***

何でこんなところに連休があるんだろう?と思ったら、そうか、オリンピックだったっけと、思い出した。この期に及んでもまだ、誰も中止を言明しないから、オリンピックは宙ぶらりんを続けている。都知事選でもオリンピック中止を公約にする候補者が何人いるかと思ったら、一人しかいなかった。ヘーエ、と思う。オリンピックは甲子園大会と違って国内だけのお祭りではないから、奇跡が起こって来夏までに国内でコロナ禍が終息したとしても、パンデミック状態が終息しない限りはオリンピックを開催するわけには行かない。というより、してはいけない、筈だろう。日本さえよければ参加できない国があってもやっちまえというのでは、五輪の精神どころではない。IOCは、日本がやらせてくれと言ってきたからTO-KI-Oなどと言って「許可」したという立場だから、生殺与奪の権はあちらにあるが、やらせてくれと訴えた日本の側から返上すると言ってやるのが、良識ある者の取るべき筋というものではあるまいか?

ナニ本当はIOCも、実行委員会も東京都も、JOC(って、こういう問題には仲間に入れてもらっていないのだろうか。以前は、JOC委員長ってもっと権威があったような気がするのだが、まあ、この際それはどうでもよろしい)も皆、内心では解っているのだろうが(そうでなかったら正気の沙汰とも思われない)、それぞれ思惑があって言い出さないでいるわけだろう。可哀そうなは選手たちで、中止と言われない限りはそれを信じるしかないわけで、これほど罪作りな話はあるまい。アスリート・ファーストというお題目をダシに使っているのだから想像を絶する酷薄さだ。それにしても不思議なのは、テレビでにぎやかに持論を述べ立てるワイドショーのコメンテーター諸氏の誰一人、オリンピック開催の是非について、国内の事情のことしか言わないのは何故だろう? 五輪のマークの「五輪とは、一体何なのだ?

        *

大分長々しくなったからこの辺で終わりにしようと思ったら、オリヴィア・デ・ハヴィランドの訃報を新聞で見て驚いた。104歳という。ウーム、と唸るしかない。

一緒に、弘田三枝子の死亡記事が載っていた。彼女だって、戦後の世相を語る上で欠かすことのできない存在であろう。

        ***

8月、歌舞伎座が再開する。果して楽日まで無事舞い納められるか否かすら予断を許されない状況下での再開だが、再開する以上、新聞評も掲載の予定。変更がなければ8月18日の日経夕刊をご覧いただければ幸いである。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第631回 またも不要不急の話ばかり

東京アラートだの緊急事態宣言だのが解除になったといっても、歌舞伎はまだ解除の対象の内に入れてもらえていない。歌舞伎が、と名指しされたわけではないが、大ぜい人を集めるイベントは千人までしかOKにならないというのだから、考慮の外ということなのだろう。まあ元々、不要不急の見世物の親玉みたいに扱われてきた「過去」があるのが、時移り栄誉のおこぼれに預かるようになった今日といえども、このほどのように一旦緩急ある事態となると、あんたのことなど構っている暇はねえ、ということになるわけだろう。「不要不急で400年」というキャッチコピーは、歌舞伎にとっての勲章であるとも言える。

と、いうわけで、この回も不要不急の話ばかりでご機嫌を伺うこととしよう。(なに、今更のことを言うまでもない。631回目の今回まで、不要不急の話でなかったのは一回だってなかったわけだが。)

さりながら「不要の要」ということがある。今度の事態であらわに見えるようになった、非正規労働だの保健・医療機関のあまりの手薄さその他その他の無残悲惨無慈悲な現実が、効率化という一点から、本来有用のものまでが無駄と見られて経費や施設や人員が制限され削られた挙句の表われであるように、「不要の要」を如何に、またどれだけ、奥ぶところに養ってあるかが、一国の文明のふところの深さを測るバロメーターであることを、新型コロナウィルスなる疫病神が明らかにしたともいえる。人はパンのみにて生きるに非ず、不要不急のことどもにかまけるを以て人は人として生きている。世界の大芸術大文芸も、三密の不備の対象と見られて槍玉に挙げられる夜の商売も、不要不急の文物という一点に於いては変わりはない。『デカメロン』を見よ。況や、歌舞伎に於いておや、ではあるまいか?

        ***

幸四郎が言い出し兵衛となって『仮名手本忠臣蔵』を今月の27日から毎週土曜、五回連続で映像の有料配信をするという。午前11時開始というのは世が世ならば歌舞伎座の開演時間、第一回の料金が4700円というのは四十七士に掛けた洒落だそうな。(義士一人当たり百円か!)如何なる具合にやって見せるのか、見てのお愉しみと思うしかないが、ともかくこれが三月に公演中止となって以来の歌舞伎である。

その一方で、これも不要不急の文物の一であるプロ野球が開幕した。6月19日といえば世が世ならばセ・パ交流戦も終わり、そろそろ前半戦も山が見え出し、オールスター戦のファン投票が話題になるころである。その19日の開幕戦は大雨の中だった。通常なら雨天延期になっていたかもしれないが、この際だから決行した。無観客である。私たちはこれで、大相撲の三月場所と、歌舞伎座と国立劇場の三月公演の映像配信と、今度のプロ野球と、無観客の場内で行なった3種類の「本番」を見たことになる。夙に言われているように、フームと思うような発見もあった。大相撲では、四股を踏む音、力士の息遣い、ぶつかり合う肉弾の音、行司や呼び出しの声、等々というものが、観衆の声援や騒がしさの中だと聞えない、聞えても聞き過ごしてしまう音や声が聞えてさまざまなことに気づくという興趣はあった。しかし、四方八方を無観客の客席に囲まれている土俵が、テレビの画面で見ると無残なほど無機的な情景を晒しだすのは否定しようがなかった。本来なら客が詰めかけている溜り席であるはずの場所に、土俵上から突き出され押し出された投げ出された力士がどすどすと駆け降りるという光景がしばしばあった。

奇しくも同じ月に行われた歌舞伎座と国立劇場で無観客の中で本番通りに行われた舞台は、花道の出入りの際に観客のいない客席が露呈される以外は、映像画面は舞台上に限られるから、平素見慣れた舞台中継の画面と変わりはない。つまり観客のいない客席が常時露わに見えている大相撲の場合ほど、見る者の心に刺さる傷は深くない。と、一応は言える。とは言え、所詮、映像は映像だ。

野球の場合は、無観客のスタンドがしばしば画面に映るのは避けられないが、プレー自体はグラウンドの上に限られるから、イン・プレーの間はほとんど気にならない。またここでも、バットがボールを捉える快音や投球が捕手のミットに納まる音の快さ、プレイごとに聞こえるダッグアウトの選手たちの声、何よりいいのは審判のジャッジの声が明瞭に聞こえることだ。少年時代に見た池田豊、島秀之助、二出川延明といった往年の審判たちは、プレイボールの宣告に始まって、ストライク・ボールの判定もはっきりと満場に聞こえる声で言っていた。それは、凛然、と表現するのにふさわしい威厳すら感じさせた。(国友という、立教ボーイだという審判は、当時まだ珍しかったプロテクターを着込むというスタイルで、ジャッジの声もジェスチャーも小さかったが、それはそれで瀟洒なスマートボーイの風情があった。)それに比べこの頃の審判は…と、実は思っていたのだったが、こうして無観客の状態で見れば必ずしもジェスチュアばかり気取っているわけでもないようだ(ということがわかった。)

それにつけて改めて思うのは、応援団の応援に始まって、当節の観客席の「音量」である。プロ野球の応援団というものがいつから始まったかはともかく、今のような組織的・大規模になったのがそれほど古くからのことでないことは、記憶に照らしても確かである。最初は、ああ、あのおじさんまたやってるね、といったごく素朴な、有志が個人的な形でやっていたのであったのを覚えている。いまだって別に強制してやっているわけではなく、大勢の賛同があってのことだから今更とやかく言うことではないが、私など古い者は、つい今でも、一球一球ごとに注視してしまう癖はどうしようもない。ピッチャーが投げる、カーンと打つ、歓声やどよめきが起こる、その間合いが何とも言えないのだ。(大相撲でも、仕切りを繰り返すごとに高まってゆく高揚に醍醐味を覚えるのだが、一拍子の誰それコールというのが近頃頓に目に耳に付くようになってきた。あれも野球の影響だろうか。)少数派だが、スコアブックに記入しながら観戦している人の姿も以前は折々見かけたものだが、今はどうなのだろう。要するに、以前は各自がもっと自分なりに楽しむ自由が多かった気がする。

無観客の外野席にホームランボールが飛び込んで無人のスタンドをボールがゴロンゴロンと転がり落ちるのを見ると、何やら懐かしいような感じがしないでもない。ついこの前にも野村のホームランのことを書いたばかりだが、昭和30~40年代ごろのパ・リーグの試合というと大概はガラガラで、これも一種のデジャビュと言ってもいい。パ・リーグに限らない。新聞の投稿欄に、今度の無観客試合を「昭和の時代の川崎球場
に例えたのがあったが、なかなか秀逸なジョークである。観客数3千にも満たない試合も珍しくなかったのだ。(そういうプロ野球の状況を斜めに見ながら発足したJリーグが、観衆二万というスタジアムを各地に作ってああいう応援の方式を始めたのも、たぶん、パ・リーグ人気復興に何等かの影響力を持ったに違いない。まあ、みんなで盛り上がろうよ、というのが今日的風景なのだ。(プライバシーということに過剰なぐらいにこだわるようになった現代に、こうした現象が生まれたのは、面白いと言えば面白い。)

        *

三密対応の一環としてチームの移動を少なくするために、試合を行う地域を東日本と西日本とに一定期間固定して連戦を多くする方針だというのを聞いて、何となく、一リーグ時代の東西対抗戦というのを思い出した。オールスター戦というのは、もちろん1950年に二リーグ制になってからのもので、それ以前は、関西以西を本拠とするチームによる西軍と、中京名古屋以東を本拠とする東軍とで、即ち東西対抗戦というわけだが、中部日本、即ち中日ドラゴンズが東西の境い目となっていた。(ドラゴンズのユニホームの胸にCHUBU NIPPONと二段に書いてあったことも前に書いたと思う。)西軍が関西以西と言ったが、当時はまだ九州にも広島にも球団はなかったから、事実上は関西だけで西軍だった。東軍が巨人、中日に東急セネタース後にフライヤーズ、大映スターズで4球団、西軍が阪神タイガース、南海ホークス、阪急ブレーブズ、太陽ロビンスで4球団。関西には二リーグになってからも近鉄パールズのちバッファローズが出来たが、いま現在、関西を本拠とするチームは阪神だけである。今昔の感とはこのことだ。(関西の衰退?)

二リーグ制開始と共に広島カープ(はじめは、「カープス」と複数形のSが付いていた。ユニホームにもCARPSと書いてあったらしい。CARPという英単語は単数複数同形であるとは受験生が教わることだが、草創期のお笑い種の一つだろう)とか、西日本パイレーツに西鉄クリッパースとか(一年限りで合同して西鉄ライオンズになるわけで、その末裔たる西武ライオンズはその1951年を創立年としているらしい)とか、関西以西にも球団が誕生する。高校野球でも、かつての強豪校は関西以西に集中していて(但し、中京、即ち名古屋までが野球王国だった。時に東日本、時には西日本でもあるが故に中部日本、とはよく言ったものだ)、王投手を擁する早稲田実業が春の選抜で優勝した時、優勝旗が初めて箱根の山を越えたと大騒ぎをしたものだった(などと聞いてもイマドキノワカイモンは信じられないであろう)。

「野球方言」もしくは「野球弁」というものがあると私は思っているのだが、たとえば「投げる」と言わずに「放る」というのは西の方の言葉遣いであろう。「あのピッチャーよう放りよるわ」などと、とかく「野球弁」というのは関西弁を基軸にしている風が今なお廃れていないのは、野球人種というのは永い間、関西出身者が主力を占めていたからで、関西出身でない者まで「野球弁」として関西風の物言いをするのが「野球国の風土」になっている。「東京のど真ん中」などという言い方はかつての東京人は決してしなかったと、池田弥三郎さんがよく言っていたものだが、つまり「ど真ん中」という言葉は、関西由来の「野球方言」から一般に流布したものであるらしい。たしかに、草野球のキャッチャーが投手に向かって「もう一丁、ど真ん中」などと声を掛けるのを、子供のころよく耳にしたものだ。どケチ、ど阿呆、ど根性等々々、なるほどと思う類語は数多い。

        **

しばらく前(コロナ前)から、朝日新聞の「縮刷版」というのを、暇を見つけてはぽつりぽつりと拾い読みをするのがこのところの楽しみとなっている。試みに昭和24年1949年の記事などを読んでいると、面白いの何の、つい後を引いてやみつきになる。たとえばこの年の7月には、国鉄下山総裁の謎の轢死事件があったその数日後に六代目菊五郎が死去、そのほとんど直後というタイミングで、三鷹事件と呼ばれた国鉄の三鷹駅で謎の暴走事件が起きる。知識としてはもちろん知っていたことだが、縮刷版とはいえ当時の新聞を日を追って見て行くと、時代の実在感が予期せぬ迫真性を以て立ち上がってくる。大きめのルーペで、スポーツ欄のプロ野球の前日の試合の記録や大相撲の勝敗や星取表、ラジオ欄の番組名や出演者の名前などをつぶさに見ていくと、オオと叫びだしたくなるようなさまざまな記憶が蘇ったり、新たな発見があったりする。つい後を引いて予期せぬ時間を費やしたりしてしまう。(程々にしないと緑内障のためにはあまりよいことではないかもしれない!)だが面白いのはやはり「まだ戦後であった」昭和20年代、せいぜい30年代前半の安保の頃までで、もはや戦後ではなくなり高度成長が始まってテレビが世の動向を支配するようになると、次第につまらなくなる。事件としてはいろいろあるのだが記事としての面白さが立ち上がってこないのは、記事の書き方と言い、編集の仕方と言い、新聞そのものが妙にのっぺりと小奇麗に安定してしまったからだろう。もっとも、些細な記事にホオというのが時折見つかることもないでもない。昭和40年の記事に「元華族と称する女詐欺師」などというのがある。戦後20年という歳月が、「元華族」というのを中年の女性の詐欺の手口として成立させるのに絶妙の歴史的時間であったわけだろう。(もしかすると本当に「華族様」の成れの果てあったのかもしれないし。)

もうひとつ、通称「三行広告」というのは今でもなくなったわけではないが、社員募集とか死亡広告とか、当時はまだはるかに盛んであったのが一種の懐かしさを誘われる。日航と全日空の広告が並んでいて、片方が「スチュワーデス募集」、片方が「エアホステス募集」となっている。いまはどちらも差別語だろう。さらに、ウム、と膝を叩きたくなるのが、二行分ぐらいのスペースに普通の三行広告より少し大きめの活字で「〇〇子。話ついた。父さんも心配しているからすぐ帰れ。母(××子)」などという、家出か何かした家族に呼びかける広告で、そうだった、こういう「広告」もあったのだったと忘れた歌を思い出すような思いに襲われる。(こういうのを朝ドラのネタに使うと面白いのではあるまいか。)

とまあ、こんなのもコロナ禍のさなか、ステイホームならではの愉しみと言えるかもしれない。

        *

訃報としては、例のコロナで亡くなった現役三段目力士勝武士が話題となった陰で、逆鉾・寺尾兄弟の長兄で多くを幕下で過ごした鶴嶺山という名前があった。カクレイザンと読むこの四股名は、父親のもろ差しの名人鶴ヶ嶺が十両時代に名乗っていた、私などには懐かしい名前である。服部克久氏の名前もあった。もうひとつ、外交官上がりでなかなかくせ者の論客だった岡本行夫などという人の名もあったがこの人もコロナの犠牲者とか。フーム。

        *

コロナ騒ぎの間にも時は流れ季節は巡り、向かいのお宅の白壁に夜更けになると涼みに出てきたヤモリが張り付いているのへ、よお、元気でやってるなと一年ぶりの再会の挨拶を無言で交わす。木槿の蕾がいつの間にか満載となって、今朝、夏到来を知らせる最初の一輪が咲いた。二、三日の内には我も我もと咲き出すに違いない。早朝に数え切れない無数の花を咲かせ、夕方には蕾を閉じて散ってしまう。道の辺の木槿は馬に喰われけり、である。零時過ぎ、隣家とのあわい3メートルの路地に出て見上げると金星が光っている。振り仰ぐ頭上の真上に来たり、向かいの屋根の上に見つかったりする。幅3メートルの庇あわいから覗く空にも、天体は律義に、規則正しく運行している。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第630回 不要不急の話ばかり

まず前回分の訂正から。訃報のところで、小林旭氏を亡くなったように書いてしまった。新聞の青山京子さん死去の記事に喪主は夫の小林旭氏とあったところから、ああ、めでたく添い遂げたんだと知ったうれしい思いが、時の経つうちに、梅宮辰夫氏死去の報などとも絡み合い、反転して錯覚を生じた結果、旭氏にはまことに失礼なことをしてしまった。氏はもちろん健在である。深くお詫びの上、謹んで訂正させていただく次第、これは今回のタイトルの不要不急の話とは別とご理解いただければ幸いである。

梅宮氏については、まだああいうキャラで当たりを取る前、『人生劇場』で青成瓢吉の初々しい青年ぶりがじつに爽やかであったのが忘れ難い。(月形龍之介の吉良常もよかったなあ。他の人のやる吉良常を見ると偽物のような気がするほどだ。)

        ***

テレビをつければコロナコロナで、本来なら今頃は海老蔵の團十郎白猿襲名興行の第一月の最中の筈だが、7月まで向こう三ヵ月の予定が中止と決まって以後、公演その他についての発表・報道がぱったり途絶えている。「音沙汰」という言葉が、何とも言い得て妙であると、妙なところで感心する。

襲名を祝う会という集まりの通知が舞い込んだのがたしか1月末、会は3月末とのことだった。その時はまだ当たり前のことと受け取った。同じ3月末の、白猿襲名を祝う会より二日先んじて堂本正樹氏を偲ぶ会を開催という通知が来たのがほぼ一月余後の3月初旬、この頃にはもう、小・中・高の学校閉鎖が発令、マスクとトイレットペーパー不足のニュースがかまびすしいという事態になっていたから、こんな時にこりゃどうしたものじゃと不審に思う間もなく、團十郎白猿の会、堂本氏の会、いずれも中止・延期を知らせる葉書が相次いで届いた。三月興行の初日が延期、また延期を繰り返していたさなかだった。しかしこれも、いま思えば、刻々と「音沙汰」があったというだけでも、まだしも「活気」があったという言い方もできるというものだ。

歌舞伎座と国立劇場で無観客の中で演じられた三月公演の映像が、YouTube配信されたのは、舞台ぶりも素敵によかったが、各優・各関係者の思いと心意気が惻々と伝わってくるものがあった。明治座の出演者一同による「一本刀土俵入り」の座談会の映像配信もなかなか乙だった。これらが4月の出来事。その4月の舞台は夙に中止と決まっていたから、載せるべき写真も記事も種を失った『演劇界』が通常の刊行をやめて、6月7月合併号を5月末に刊行しますと伝えてきたのが4月末、その間に5・6・7月に予定の團十郎白猿襲名興行の中止も決まり、ここまでで、歌舞伎に関する発表・報道・連絡はぱったりと絶えた。つまり「音沙汰」がなくなった。

        **

大相撲は三月場所は無観客で決行、Jリーグも当初の数試合決行したが、以後はプロ・アマを問わず各競技一切なし、やっているのは競馬だけということとなった。競馬は馬券を居ながらにして買えるから無観客でも成り立つわけだ。(我々だって観客がいないと走りにくいや、と馬は思っているかもしれないが。)各種スポーツも無観客でやってやれないことはないが、舞台というものはそうはいかない、というところが最大のネックになる。特に歌舞伎は。(無観客の舞台でやる助六の股くぐりの場面というものを想像してみてください。)

それで思い出したのは大正の昔、浜村米蔵という劇評家が(この人は戦後も昭和50年ごろまで現役で活躍していたが)、理想の歌舞伎劇場というのを提唱したことがあった。要するに、理想的な歌舞伎上演のためにはまず演目を厳選、きちんとした上演台本を作り、役者も型など正当なものを研究して演じる、舞台と客席も然るべき規模にする、入場料も心ある観客が負担できる適正な価格にする、当然大観衆を集めることは期待してはならないから運営(経営ではない)は理解ある有志に応分の資金を提供してもらって行う、ミーちゃんハーちゃん(という言葉も、そういえばこの頃聞かなくなった。もはや絶滅したか? まあね、こんな「上から目線」丸出しのような言葉はなくなって当然か、な?)がワーワー押しかけるのを避けるために劇場は繁華の地ではなく都塵を離れた場所に建てる、云々というもので、これを洒落でも冗談でもなく大真面目に論じたのだった。つまりこの人は、「理想の歌舞伎」を実現するためには「理想の観客」が不可欠と考えたわけだが、この論法を押し進めてゆくと、もしかすると「理想の劇場」というのは結局「無観客の劇場」ということになるのかもしれない。(それにしても、仮に私が入場を認めてもらえたとして、こういう劇場で助六の股くぐりの場など、どういう顔をして見ればいいのだろうか? 大向こうの掛け声も禁じる、という条項もたしか入っていたはずである。)

もっともスポーツだって、プロスポーツは興行だから観客なしでは立ち行かないが、学生スポーツは本来、母校の応援団以外には観客を前提としないものであったはずで、甲子園の春の選抜・夏の全国大会を何故春休みと夏休みにやるのかといえば、斯様なものは「学業の余暇」にすべきものというのが前提であったからである。六大学野球リーグ戦が土曜と日曜の午後にするのも同じく「学業の余暇」にするものであったからで、夏の甲子園は酷暑のさなかにするより初夏か秋の気候温暖の時期にするべきだ、などという当節ノ識者共ハ一体何ヲ考エトルノカ、ソモソモ、ベンキョウハ何時ヤルノダ!と設立者たちが聞いたら言うかもしれない。(それはそれとしてだが、夏の大会は地方予選を公平に実施するのは土台無理であろうから中止はやむを得ないが、春の選抜は、無観客、但し母校の応援団のみ人数を限り、ソーシャルだかフィジカルだかのディスタンシングを確実にすれば、まだ3月の段階だったら開催不可能ではなかったろう。)

        *

逆の現象もある。かつては、両親やおじいちゃんおばあちゃん、近所のおじさんおばさんも応援に来られるようにと、日曜日にするのが当たり前だった小学校の運動会が、この頃は平日にするようになっているらしい。もっともこれは、どうやら先生の方の都合らしいが。

        *

さっき書いた、『演劇界』が6月・7月合併号を出すというのを聞いて、一種懐かしいような思いに襲われた。終戦間もない紙不足の時代、各種の雑誌がよく二か月分をまとめて合併号を出したものだった。『ベースボールマガジン』なども、プロ野球は冬のシーズンオフになるとどうせ書くネタがあまりないから、2月・3月合併号などとのを出した。粗末な紙に小さな活字で5段組み総ページ50頁もないようなぺらぺらの合併号を見ると、子供心にも情ないような気がしたものだ。

        **

大相撲の勝武士(ショウブシ、と読むのだそうだ)という三段目の力士がコロナの犠牲者になったのがかなり大きなニュ-スとして民放各局のワイドショーの取り上げるところとなったが、司会者がしきりに「力士さん」と言っているのが耳につく。ワイドショーの司会者というその道のプロ連中にこの不可思議な言い方が不可思議とも感じられなくなっているという現実に、改めて釈然としない思いでいたところ、しばらく前からコロナ問題に関する論客としてテレビでよく見かけるようになっていた宇都宮の病院のお医者さん(これだって、「お医者さん」であって「医師さん」ではないよね)が、「若いお相撲さんが・・・」と言っているのを聞いて何やらほっとした。そういえばこのお医者さんは、コロナ問題についても傾聴に値する発言をする人とお見受けしている。

「お医者さん」「お相撲さん」「お巡りさん」。親しみと敬意とが渾然としたいい言葉ではないか。誰が言い出したのでもなく、おのずと民間から生まれた詞であり、語感といい語呂といい、音調といい、言葉としてよく慣れている。(この「慣れている」という「慣れ」は、たとえば「馴れ鮨」などという「慣れ」である、念のため。)「医師さん」「力士さん」「警官さん」では、そもそも言葉として体をなさない。(昔は「兵隊さん」というのもあって、「鉄砲かついだ兵隊さん・・・」という国民学校唱歌があったっけ。もちろん私は戦後の小学校の入学生だが、兄姉の世代の習った歌として耳についている。戦後も昭和30~40年代頃までに出た『カルメン』の翻訳では訳者の如何を問わず、カルメンが初対面のドン・ホセにむかって「兵隊さん」と呼んでいたものだった。これも「兵士さん」ではサマにならない。)力士を相撲取り、警官をお巡り、歌手を歌うたい、サラリーマンを月給取り(変換したら「月給鳥」と出てきた! これも言い得て妙か)という風に動詞の連用形止めにした言い方は、いわゆる上から目線の蔑視も感じられるが(かつては掏摸を「巾着切り」といったが、これはさすがに時代劇以外では使われなくなったのは、紙幣の流通と共に財布の形態が変わったからであろう)、しかしそうした「反面」も含めて、こうした言葉の語感の自然さは、日本人一般が自然に体得していた日常語(SPOKENつまり日常茶飯の「口語」、即ち「世話」のことば)の中に泥んでいるからだろう。

テレビという媒体でワイドショーなる「しゃべくり番組」の司会者という、しゃべくりのプロたちが「お相撲さん」より「力士さん」という言い方の方が自然に出てくるのは(相撲というものが以前ほど馴染みがなくなったということもひとつにはあるだろうが、それ以上に)テレビ言葉に代表される「現代日本語口語」即ちSPOKEN JAPANESEというものが、本来ならWRITTEN JAPANESEに属していたはずの言葉・用語を大量に含みこむようになったせいだろう。私は、この「現代日本語口語」に大変化が生じた分水嶺を昭和40~50年代と推定しているのだが、そのころ、新聞の投稿欄でこういうのを読んだのを覚えている。五十代ぐらいの「大学教員」と肩書のついた人の投稿で、大学生の甥と小旅行をしたとき、たまたま泊った宿屋の洗面所の水道が出ない。「オヤ、故障かな?」とその人が言うと、くだんの甥が「いや、これは構造上の欠陥だ」と応じたというのだった。折から大学紛争たけなわで難解な用語が飛び交っていた頃である。まあ、「故障」だって本来はSPOKENではないだろうが、その程度の「新語」を日常語の中に取り込んでゆくのは時勢に対応した「変化」の内だろうが、たかが水道の蛇口をひねっても水が出ないぐらいのことを「構造上の欠陥」という物々しい言い方を当然のように使うのは、「変化」などというものではなく、それこそ現代日本語の「構造上の変質」というべき事態であろう。昭和40年代の大学生は、健在なら今頃はたぶん「前期高齢者」になっているであろうから、今日のワイドショー司会者諸氏はまだ生まれてもいなかったに違いない。こんなことを言っても、エッ、どうしていけないんですか?とキョトンとされるのがオチであろう。いまは日常の会話でも「のどが渇いたから水を飲もう」というところを、「のどが渇いたから水分を補強しよう」という人が珍しくない。一杯やろうよという誘いの洒落かと思うと、ペットボトルを取り出してごくごく飲むのである。

(まだまだ言いたいことはいろいろあるが、話が理に落ちてきたようなので、この件は先ずはこの辺でお仕舞いとしよう。)

        **

朝ドラの『エール』が絶叫だくさんのドタバタ過剰が気に障ると前回書いたが、見ているうちに、なるほどそういうことかと心づくところがあった。進行中の話は昭和初年と思しいから、つまりざっと90年前という勘定になる。昭和ひと桁というのは、私などにとっては、叔父叔母よりもう少し若く兄姉か従兄弟の中の年長者の世代だが、おそらく現在のタレント諸氏諸嬢にとってはもはや時代劇ほどの時間的距離のある世界なわけだ。明治元年1868年から昭和元年1926年までが何とわずか58年である。(白虎隊の最後の生き残りという人物が死んだのが昭和2年と聞いたことがある。)それから2020年の現代までの方がタイムスパンははるかに長いのだ。(バンツマだのアラカンだのといった時代劇俳優たちが、幕末物のチャンバラ映画で隆盛を誇ったのも昭和初年。机竜之介や鞍馬天狗が活躍したのも同様だ。)つまり、大道具・小道具・風俗の類で当時の時代色を出すのは考証をすればある程度は可能だが、出演者の演技で(しぐさや表情やセリフの口調や言葉遣いなどで)自然にリアルに当時の人物を演じるのはどだい無理…ということを考えてのあのドタバタ演出と考えれば、あれも演出上のひとつの便法と容認できるというものだ。

(そういえば森光子が亡くなった後、『放浪記』を一度だけ、若返った配役で上演したことがあったが、その際一番どうにもならなかったのは、主役の女優の演技がどうこうより、主人公を取り巻く男たちが、演技の巧拙以前に、昭和初期(つまり「エール」とほぼ同時代であろう)の人物に見えない、時代の匂いがまるでしない、ということだった。ヒロインをとりまく男どもを演じていた山本学だの大出俊だの米倉斉加年だのといった脇役連中が、いかに森光子を助けていたかが改めて痛感されたものだった。)

ところでつい今しがた、なかなかよく調べて凝って作っているとほめたばかりの小道具だが、ひとつ大チョンボがあった。コロンビアならぬコロンブス・レコードなるレコード会社の場面で、レコードの青レーベルは西洋音楽、赤レーベルは日本の歌謡曲、というようなセリフがあって画面に青レーベルの円盤がアップになったのを見ると、「越後獅子」とレーベルに書いてあった! 小道具係のファンブルであろうが、主人公が洋楽にこだわって赤レーベルの曲が書けないという場面が場面である。野手がフライをお手玉する間に手痛い失点、というところか?

        **

散歩以外の外出ということがなくなったが、もともと出不精の質(たち)のせいか、することは沢山あるので時間を持て余すということが全くない。前に書いたように、滞っていた原稿を書き上げたのが三月末、少し気持ちに余裕が出来たためか書棚を見回すとまだ読んでない本、むかし読んだ切りでもう一度読みたい本が次々目に飛び込んでくる。余命がどれほどあるのかも知らぬが仏、毎日終日これにかかりきりになっても到底読み切れそうにない。ああ、こんな本があったっけ、という再発見も次々出てくる。再発見とは言っても、どれも覚えてはいるのだが、長い間に念頭から外れていたわけだ。

『鞍馬天狗』を電車の中で読み直し始めた、と書いたのは二月末、まだ緊急事態宣言は出ていなかったから車中図書館での読書だった。緊急事態宣言以後は、もっぱら午後のひと時、むかし買いそろえてあったのを次々に書棚から引き出しては埃を払って読んでいる。小説としての中身もさることながら、大佛次郎という人の文章が好きで読んでいたという面が元々強い。『天皇の世紀』とか『帰郷』とかいった知識人の読者に定評のある作よりも、『鞍馬天狗』に描かれた京の洛中洛外の情景や、隅田川界隈、新開地だった当時の横浜や鎌倉の情景を読むだけで気持ちがいい。(むかし、文庫版の『帰郷』の巻末の解説に、『鞍馬天狗』を書いた同じ作者の文章とは思われないとあったのを思い出す。この解説者は、そもそも『鞍馬天狗』など頭から読む気も、読んだこともなかったのは間違いない。)当分はまだ『鞍馬天狗』だが、書棚を眺めるたびに、次はあれだこれだというのが見つかるので、昨今話題のカミユの『ペスト』も書棚にあるのだが、いつ埃を払う番になるのかまだ分らない。その前に、もう7週間行っていない床屋にまず行くことにしよう。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第629回 落穂集

咋秋来のパソコンのトラブルに続くコロナウィルス騒動で、訃報その他、その間にメモをしておいたさまざまな話題が、書くタイミングを見失ったままになっている。時と共に鮮度が落ち、感興が薄れてしまったものもあるが、記録としても残しておきたいもの、やはり書いておきたいもの、さまざまあるので、それらをかき集めこの回は落穂集とすることにしよう。このご時世に不要不急の話ばかりで恐縮だが。

         *

まず訃報で、近いところからだと大林宣彦監督に志村けん氏ということになるが、この方々については皆さん疾うにご存知の以上のトリビアを持ち合わせているわけではなし、しゃしゃり出る資格はないから、慎んでご冥福を祈るに留めることにしよう。ただ、大林監督の場合はあちらの方が若干年長とは言えほぼ同世代、戦争の記憶を幼な心なりに持つものとして、抜き差しならぬものを覚えていたことだけ書いておきたい。志村氏については、ジャンケンをするときに、いつしか誰もが「最初はグー」と言って始めるようになったのが氏の発案になるものだという事実は、民俗学上、重要な事案ではあるまいか?

関根潤三。私の知る限りの野球人で一番のやさおとこである。晩年の姿は皆さんも知るとおりで、ああいうキャラだということを知ったのは引退後のことだが、体つきから、投手だった頃の投球フォームから、よくあれでプロ選手としてあれだけの活躍が出来たものと思う。チビということなら、一リーグ時代の東急フライヤーズだったかのショートの皆川とか、阪急の外野手でポケットキャッチの名手でヘソ伝という仇名の山田伝とかの方がもっと小さかったかもしれないが、やさおとこというのは、寸法よりその風情や「とりなり」が決め手となる。すなわち和事師である。法政のエースで、セ・パ二リーグ制となった第一年の昭和25年に、立教のエースだった五井と一緒に新球団の近鉄パールズに入団した。その時の『ベースボールマガジン』だったか『ホームラン』だったかのグラビアに、二人並んで振りかぶったポーズで納まった写真が載り、「昨日の敵は今日の友」とキャプションにあったのを覚えている。ずっと後に、「昨日の敵は今日の味方」という『義経千本桜』大物浦の知盛のせりふを聞いた時、あゝ、これだ、と感じ入ったが、本当のところは(当時の野球雑誌の記者の常識から推して)、文部省唱歌「水師営の会見」の乃木大将とステッセル将軍会見の歌詞から取ったものであったろう。コントロール抜群の関根と対照的に、五井の方は荒れ球で、ビーンボールという言葉を初めて知ったのはこの人についてではなかったか。こちらは関根のように選手としては長命でなく、いつのまにか消えてしまった。そういえば、晩年の関根の姿を歌舞伎座の客席に一度ならず見かけたことがある。

金田敏子と言ってもピンとこない、先に亡くなった金田正一夫人、と言ってもまだあまりピンとこないだろう。つまりもう疾うに時効となってしまった昔の話なわけだが、この人は金田にとっては二人目の夫人で、先の夫人は芸名を榎本美佐江と言って、日本調の歌手(という言い方を当時はよくしたものだった。つまり、日本髪で(鬘だろうが)芸者のお座敷姿のようななりで和洋合奏のバンドで、いまなら演歌に分類をされるであろう、和風のムードの歌を歌う流行歌手、と、現代の人に説明しようとするとずいぶん手間をかける必要がある)として、人気も実力もあった人で、良き姉さん女房だったのだが、まあ、いろいろあった末、美佐江さんが気の毒なことになって事が終わったのだったが、当時はかなり世を騒がせた一件だった。しかし私が今回訃報を知って、ああと思ったのは、そのことの故ではない。それより前、芸名を雅章子といって、宝塚から映画に出て姐御役でちっとは鳴らした姿に思い出があるからだ。当時は、宝塚映画製作東宝配給、と謳った時代劇映画がよくあったが、これもその一つで、大佛次郎原作の『照る日くもる日』という幕末物で、雅章子扮する姉御役が、ちょっとバタ臭いがそこに一風あるところがなかなかよかった(などと、当時中学生であったワタシは思ったのだった)。主人公の青年の名が細木年尾という、新時代を予感させる時代劇の人物らしからぬネーミングなのは、作者の大佛次郎が、学校友達だった高浜年尾から思いついたのだと書いているが、これをやっていた中川晴彦という俳優はその後どうしたろう。その年尾を庇護する白雲堂という易者でじつは勤皇派の志士の役が嵐寛寿郎アラカンで、年尾の恋人が宝塚在籍中の扇千景、それを妻にした若侍が長門裕之、その父親で佐幕派の巨頭が大河内伝次郎という配役でなかなか面白い映画だった。松竹や大映や東映の時代劇とひと味違うところに、東宝の時代劇の妙味があった。アラカンと大河内の、チャンチャン切り結ばずにじっと相正眼で睨み合う殺陣の場面は、時代劇映画通の推奨するところだった。扇千景という人をはじめて見た(知った)のもこの映画でだった。まさか参院議長として位人臣を極わめることになろうとは、お釈迦様でも気が付かなかったであろうような、お人形のような可愛らしい女優だった。長門裕之もまだ十代かと思しく、童顔が坊やみたいだった。

さて野村克也氏だが、亡くなったのが2月11日、その後の数日間というもの、テレビをつければ野村のことをやっていた。コロナウィルスの報道も今から見ればまだまだのんびりしたものだったのを痛感する。横浜港の埠頭にクルーズ船が係留したのが二月の始め、夜景がきれいですねえ、などと言っている内は呑気なものだったが、何やらいつまでもぐずぐず手間取っている、これはおかしいぞ、という感じになり始めてはいたものの、話が俄かに深刻になるにはまだ間があった。翻って、野村追悼に充分時間を割けたわけだ。

野村の現役のころのパシフィック・リーグというものは人気の上ではどん底時代で、人気のセ・実力のパ、ということが半ば負け惜しみめいて言われていた。野村のホームランといえば、大飛球が外野席にどすっと落ちると、ほとんど無人のようなスタンドをコロン、コロンとボールが転がり落ちてくる、王のホームランボールが満員の右翼スタンドにライナーで飛び込むと大きく人垣が割れた中に吸い込まれるのと、いかにも対照的だった光景がまず思い出される。王の打ったホームラン数が八百何十本で断然一位なのに対し、野村が六百数十本で、これまた三位以下を大きく引き離して二位、という数字の描く絶対/相対の在り様が、野村という存在の在り様をいかにも象徴しているように私には見える。あれが、華々しい王者として一位では野村ではないし、3位以下の群雄であっても野村ではない。

眼鏡だの腕時計だのにも宝石の類がキラキラしている、本当の金持ちはこんなものはつけませんよと語っている映像があったが、大分前のことだが、国立劇場で毎月出していた小冊子に歌舞伎の裏方の人の談話を連載で載せるページがあって、こんな記事を読んだことがある。その人も高校生の頃、京都の田舎で野球に打ち込んでいたが家が貧しかったので、グローブだの何だのを買うのにも事欠きがちだった。ある時、ライバル校の上級生がやってきて、俺はもう卒業だからこのユニフォームは必要なくなる、少々破れがあるが継ぎを当てればまだ使えるからよかったら貰ってくれないか、と言って譲ってくれた。今でも家宝のように大切に持っています、といった内容だった。記憶だけで書くのだから多少の間違いはあるかもしれないが、野村という名前は出さず、読めば一読、それとわかるような話しぶりにもその人の謙虚な人柄が偲ばれて忘れ難い記事だった。昭和20年代という時代の空気まで甦るような話である。

昨年の夏、ヤクルト・スワローズのOB戦を見に行った時のことは、その折このブログにも書いたし、古田と真中に両脇から抱えられながら打席に立って、ほんの一瞬、往年の打撃フォームを蘇らせて見せた時のショットは、その折のニュースでも、死去の折のさまざまな映像の一コマとしても放映されたから、見た人もあるだろう。金田が死に、関根が死んで、これで野村より古い野球人と言えば、中日の杉下一人ということになった。昭和も20年代は記憶の中だけの世界になろうとしている。

この他にも別役実、真帆志ぶき、宍戸錠、青山京子・小林旭夫妻等々といった人たちの訃報がアンテナにかかっている。秋山祐徳太子、などというのもあったっけ。そうだ、太宰治の娘さんの園子さんも亡くなったのだった。太宰はこれでも昔、全集を全巻読んでいるのだ。別役氏については私の出る幕はないであろう。よくもまあ、同じような芝居をあれだけたくさん、飽きずに書いた(書けた)ものだと感心するばかりだが、そこに不条理劇のトラップがあるのかもしれない。二人の日活のアクションスターが相次いで逝ったのもウームという感じだが、宍戸錠については、日活が昭和29年6月から映画製作を復活した当初は文芸路線で、ニュフェースの宍戸が、もちろんまだ豊頬手術などしていないから頬も痩せ、芥川龍之介みたいに前髪をはらりと長く垂らした昔の文学青年みたいだったのや、小林旭もまだ高校生ぐらいの少年でなかなかの演技派だったという、それぞれの原点のような姿が懐かしく思い出される。青山京子は何と言っても三島の「潮騒」の最初の映画化の時のヒロインだ。相手役だった久保明はどうしているだろう?

        *

これは訃報ではなく、引退のニュースだが、豊ノ島がついに刀折れ矢尽きてしまった。2016年のことだからあれからもう4年も経っているのに驚くが、その夏場所二日目に安美錦がこちらは本場所の土俵上で、それから二カ月と経たない名古屋場所前に豊ノ島がこちらは稽古中に、それぞれアキレス腱を断裂するという事態となった。前も書いたことがあるが私は一に安美錦、二に豊ノを贔屓にしてきた。要するに、昭和も20年代から、途中そのときどきで熱の入れように起伏や濃淡はあったがずっと相撲を見続けてきて、その相撲ぶり、相撲取りとしての風情、存在としての興深さ、プロフェッショナルとしてのたたずまい等々、私が大切と思うめがねに適ったのである。それにしても、負傷以後の両者の苦闘ぶりは想像以上のものだった。安美錦は十両の下位まで下がったが踏みとどまり、8場所かけて幕の内に戻り敢闘賞を受けたとき、いつも飄々としているのが涙滂沱となるのを見て、解説の北の富士氏が「涙の敢闘賞、名寄岩」だと言ったのは、若い頃は「怒り金時」という仇名の一本気で、取り口も四つに組んでの力相撲一点張りという、安美錦とは正反対だったが、往年の名物力士が糖尿病のため大関から二度にわたって陥落し幕尻まで下がって健闘よく敢闘賞を貰ったのが、新国劇の舞台になり日活で映画化された(作者はまだ劇作家であった頃の池波正太郎である)その作品名が「名寄岩・涙の敢闘賞」だったのを知っていたのだ。北の富士氏は、たぶんまだ入門前であったろう。せめて一場所なりと上位に返り咲いて横綱・大関と対戦する姿を見たかったがもう余力は尽きていたのかもしれない、最後は十両で再度の負傷で引退した。それこそ名寄岩以来かも知れぬ40歳という年齢に不足はなかったが、遂に上位復帰までは叶わずに終わったという恨みは残る。

豊ノ島の方は36歳、まあこれも不足はない年齢だが、こちらは幕下まで落ち、案外にも十両復活すらかなり手間取ったのは、一度下がった番付は容易なことでは戻れないという昔から聞く話の通りだった。それでも、一旦は幕内に戻れたのを以て瞑すべしと思う他はない。稀勢の里が横綱昇進の期待を裏切るということを繰り返していたころ、今度こそはと大方の予想だったある場所の初日早々、猛烈な出足を土俵際でくるりと体をかわしてまたも夢を砕いた一番に、豊ノ島の真骨頂を見たと思っている。

ふたりのことをいうなら、昨秋に引退した嘉風のことも書く折を逸したままになっていたので、ここにせめても書き添えておこう。この人は、巧者でありながら相撲が小さいために永らく中堅に留まっていたのが、晩年の数年、何かを悟ったように相撲ぶりに筋金が入って第一流の達人となったが、最後はやはり怪我に祟られた。この三人に限らず、気がついてみれば栄枯盛衰・新旧交代の様相は4年の間に驚くほど進んでいて、朝乃山などまだ入門すらしていなかったか、というのがまさしく、歳月は人を待たないという譬えの通りである。

        *

こちらは人間ではないが、豊島園が間もなく閉園と決まり、戦前以来の名物メリーゴーラウンドもこれ限りかというささやかなニュースが流れた。「回転木馬」という「和名」があるのが、いかにも戦前の古き良き時代に欧州から伝来した文物にふさわしい。アコーデオンを手風琴、ヴァイオリンを提琴、フットボールを蹴球というのと同じデンである。シャンソンの古典的名曲の曲名にもなっている。「くるくる回る回転木馬」というのが歌い出しの歌詞で、イヴェット・ジローが原語で歌うのもいいが、こういうのは石井好子あたりが歌うのが一番ふさわしい。同じところをぐるぐる回るのがささやかながら無窮状を思わせるのが何ともいいところで、ジェットコースターのような戦後出来の遊具のように過剰な刺激を競うような下品な(!)ところがないのがGOOD OLD DAYSの産物の奥ゆかしさであった。

豊島園で戦前以来、一番スリルがあるとされたのはウォーターシュートで、急斜面をボートが滑走し、着水の瞬間、舳先に立っている水先案内人がサーっと跳び上がるのが格好いいというので人気だった。浅草の花屋敷は別格として、西洋の匂いのするこうした遊園地は、都内では豊島園を以て嚆矢とする。豊島園がなければ、後の読売ランドも今のディズニーランドもないわけだ。練馬区の歴史アルバムというのを見ていたら、昭和10年代の写真で、大相撲の豊島関を招待という記念写真が載っていて、関取は大阪出身だが「豊島」つながりで招待されたのだろうとキャプションにあった。この力士は「としま」ではなく「とよしま」と読んで、豊ノ島と一脈通ずるような短躯肥満の突き押し相撲で上位キラーとして鳴らしたが(何しろ双葉山に二度も勝っているのだ)、昭和20年3月10日の下町の大空襲の際、逃げ惑う避難民で身動きが取れなくなった両国橋上で焼死したと言われる。

        *

このブログを書きながらつけていたテレビのニュースが「辨松」の廃業を報じている。あれも、これも、サヨナラばかりのニュースである。

**

これはサヨナラの話ではない。新しい朝ドラが始まって古関裕而がモデルという。男が主人公というのは朝ドラとしてたぶん珍しいのだろうがオリンピックがらみの企画と思しく、コロナ騒ぎでまさか延期になろうとは思わぬ先に決まったものだろう。演出が喜劇タッチはいいとして、絶叫連発のドタバタ過剰がちと気に障るが、古関裕而という題材への興味から、まあ、見ている。出身地が福島というので、「福島民報」という地方紙が「あなたが選ぶ古関メロディーベスト30」というのを読者の投票で募った結果が、3月10日付の東京新聞で紹介されていたのがなかなか面白い。一位が、オリンピックの入場行進曲でも高校野球の行進曲でもなく、また「鐘の鳴る丘」でも「長崎の鐘」でもなく、はたまた「六甲おろし」でも「紺碧の空」でもなく、何と「高原列車は行く」だというのが気に入った。「汽車の窓からハンケチ振れば」という歌い出しの、昭和29年の流行歌、歌うは岡本敦郎・・・といって、アゝとわかる人が今どれくらいいるのか心許ないが、しかしこれを第一位に選んだ「福島民報」の読者諸氏に敬意を表したくなる。(それにつけてもだが、ハンケチという言い方をついぞ耳にしなくなったのは、いつごろからだろう? 手拭いを半分にケチった大きさだから「半ケチ」というのだという語源説もあったほどだが、ハンケチはもはや死語か?)

私個人としては、NHKのスポーツ放送の冒頭に必ず流れた「スポーツ行進曲」というのと、若干マイナーだが「さくらんぼ大将」という放送劇の主題歌が郷愁をそそられる。夕方になると隣近所のラジオから流れてくる古川ロッパの歌う声が、今も耳についている。もうひとつ、これは今でも正午過ぎになるとラジオから流れてくるが(おそらくNHKとしても最長寿番組であろう)「昼の憩い」という番組のテーマ曲がじつにいい。かつての日本の農村の風景を音で描いた古関版「田園交響曲」ともいうべき名曲である。あれこそが、古関裕而の最高傑作ではあるまいか?

TBS(ラジオ東京)という局は、民放の皮切りとして何かとNHKを手本というか、模倣というかしながら、手探りで始めたところがあるので、スポーツ番組用に自前の「スポーツ行進曲」(という曲名なのかどうか?)を作っている、いまでも何かの拍子に、「チャンチャカチャカチャカ、チャンチャカチャカチャカ、チャンチャカチャンのチャン」という曲が流れてくるところを見ると、いまも現役ではあるのかしらん。つまり、スポーツ実況放送の冒頭にはNHKのようにテーマ曲がなければならぬと考えたのに違いない。あれは誰の作曲だろう? 1964年のオリンピックの入場行進には、黛敏郎作曲の曲も演奏されたのだが、そんな高尚な曲では選手は歩けず、かの古関裕而の曲が流れ出すと俄かに「世界大運動会」らしい空気が漲り出したのだった。そういえば、小学校の運動会でも、入場行進には必ずNHKの実況放送でおなじみの「スポーツ行進曲」が拡声器で校庭いっぱいに鳴り響いたものだった。

        ***

ここまで書いたところで、皆川達夫、ジャッキー吉川、岡江久美子、久米明、更に山田敬蔵といった人達の訃報が加わることになった。皆川達夫さんはもちろん音楽学者として文字通りの碩学だが、NHKラジオの「音楽の泉」の三代目解説者としてこの三月いっぱいまでつとめ終えての死去だから、啓蒙家としても全うしたことになる。独特の嗄れ声が何とも格好良かった。美声ばかりが能ではないという格好の例である。この番組が始まったころは私はまだ小学生で、テーマ曲のシューベルトの「楽興の時」が聞こえてくるだけで、日曜日の朝の空気の匂いがしたものだった。初代の解説が堀内敬三で、この人は「話の泉」の回答者としてもおなじみだった。次が村田武雄さんで三代の中では一番謹厳な感じだった。この人の講義を大学時代に聞いたことがあるが、その印象もあるかもしれない。

久米明は山本安江のぶどうの会にいた人だから、もう100歳ぐらいになっているかと思ったが、昭和生まれだと知った。一般の知名度を以て幸福の尺度とするなら、末広がりの恵まれた人生だったことになるだろうか。

山田敬蔵、なつかしいなあ。随分と小柄な人で、顔立ちにも特徴があったから歴代のマラソン選手の中でもくっきりと思い出せる。1953年のボストンマラソン優勝というのが履歴の上でのハイライトだが、その前年のヘルシンキのオリンピックの代表3人の一人で、まあ3人とも惨敗だったわけだが、私にとってのなつかしさの根拠は勝ち負けとは別に、むしろそちらの方にある。この時の優勝のザトペックは、5千、1万、マラソンと三冠を取ったのだから、アベベ以上なのだが、その後の知名度においてはるかに及ばないのはまだテレビのない時代のためか。昭和20年代というのは、30年代に比べて何かと損の卦が出る巡り合わせになる。中学生のころに読んだ講談本の『赤穂義士銘々伝』で中山安兵衛が高田ノ馬場へ駆けつけるくだりに「安兵衛はザトペックのように駆けましたが間に合いません」とあったものだが・・・

岡江久美子さんについては、ニュースを知ってはなまるマーケットよりまず連想ゲームの方を連想したぐらいだから、到底私などの出る幕はない。

        ***

最後にひとつPRをさせていただく。3月の歌舞伎は、歌舞伎座・国立劇場とも、初日を目前に政府の要請で延期、また延期を三度重ねた挙句、遂に完全休演という、いかにも心の残る事態となったが、両劇場で予定されていた全演目の動画配信が期間限定で行なわれたことはご存知であろう。せめてこれを、いつもの新聞劇評とは異なるとは言え書き残しておくべきと考え、日経新聞の5月1日付の電子版に掲載することになった。お読みいただければ幸いである。掲載が、配信の期間が終わった後なのが残念だが、同日の午前2時から配信との由である。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第628回 襲名仕切り直し(改訂版)

コロナ・ウィルス騒動も遂に時の首相による非常事態宣言発出という事態となって(「発出」という官僚言葉を私は不敏にして知らなかった!)、團十郎襲名興行が、予定されていた三カ月すべて延期ということになった。延期と言っても、ウィルス蔓延という事態がいつ収まるのか予測をつけようがない相手である以上、一旦は中止という形を取った上で、改めて時期を見て、ということにせざるを得ない。なまじ、少し始めてからでなかったのを幸いとすべきであろう。「ご破算に願います」と声がかかると、算盤の珠をすべてじゃーっと元に戻す、という光景が思い浮かぶ。

さりながら、「改めて時期を見て」というその「時期」をどうやって見極めるのか。オリンピックは、1年後に開始、などと獲らぬ狸の皮算用で決めてしまったが、そのときになってパンデミックがまだ終息していなかったらどうするつもりなのだろう? 危うい賭けだが、つまりは、IOCも政府をはじめ日本側の関係団体も自分たちが抱えている諸々の事情に自縄自縛されているから、という以外に理由はないだろう。このほどの非常事態宣言発出をめぐっても、何やら思惑がさまざまありそうな様子を見れば明らかで、マスクなど送りつけられても気色が悪いばかり、あれを実際に本当に自分の顔に張り付ける人がどのぐらいあるのだろう? これをいい機会に、襲名をオリンピックとセットにしたような日程の立て方も、すっぱりと切り離した方がいい。

これは戦争だ、という見方がある。なるほどもっともなようだが、戦争というのは人間と人間の間のことであって、肝心のウィルスにとってはそんなことは知ったことではあるまい。まして、ウィルスに打ち勝ってオリンピックを、などと息巻いたり得意がったりところで、彼らを蔓延させ(てしまっ)たのは人間自身であって、彼らは別に人間に敵意を抱いているわけでもなければ人間に戦いを挑んでいるわけでもない。ただ自然界にああいうものとして生まれ、その性(さが)に従って生息しているに過ぎない。ウィルスが物思うすべを持っていたなら、人間の身勝手さを迷惑千万とせせら笑っているかもしれない。ワクチンというのは、彼らを殲滅するのではなく、同じ自然界に生息するものとして彼らと和平し共存しようという方法であって、たしかにこれは、人間の叡智の産物と言うに値するかもしれない。

團十郎襲名は歌舞伎にとって最大の祝い事である。歌舞伎の祝亊が、世界にとっても事収まった喜びにつながれば、これに勝ることはないではないか。急いては事を仕損じるとはここのところである。團十郎の「にらみ」に秘められた稚気をこそ思うべきであって、睨んで御覧に入れたはいいが、ウィルス蔓延が一向に終息しないのでは洒落にもならない。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第627回 コロナ満載

あれよという間にコロナ・ウィルスのニュースでなければ夜も日も開けぬ(暮れぬというべきか?)世の中となった。ニュースの中にコロナという言葉が耳に留まり出して、まあ半ばは、よその国の話と聞いていたのが1月半ばごろから、2月になって横浜港にクルーズ船停泊となったあたりから、おいおいこれは冗談じゃないぞとなり、二月末に政府から立て続けに「要請」が出て小中高の学校閉鎖となったところで、本気モードに変わったと思っているが、「こっちの話」としては、3月は遂に「劇場」と名の付く場所へ一度も足を踏み入れないという、この何十年来なかった事態となった。歌舞伎座、国立劇場に明治座もと、三座で歌舞伎が開くはずのところが、三段階に刻んで休演また休演と重なって、遂に3月は「歌舞伎のない月」となった。この、三回に分けて、というところに、事態に対する政府などの為政者から、松竹その他の興行者さらには俳優その他の関係者、更には私などのような立場から関わっている者から一般の観客・ファン層まで、それぞれの立ち位置から事態を見ている者の「腰の及び具合」が反映している。「まだまだ間がある」「今はまだその時ではない」と、為政者も専門家も一般人も、みんながそれぞれ思いたい。思いたくても、現実の「その日」は容赦なく近づいてくる。X-dayはいつ来るか? あるいはもう既に・・・?

単に「東京に歌舞伎のなかった月」なら前にもなかったわけではないが(昭和4、50年ごろというのは、歌舞伎座で歌舞伎をするのが年に8カ月か9カ月だった)、圧倒的な不可抗力が理由で幕が開けられないというのは、昭和20年の終戦間近の頃以来のこと、という記事を昨日(3月31日)付の日経新聞の電子版に書いたのでご覧くだされば幸いである。ちょいとサワリだけ洩らすと、5月25日の大空襲で歌舞伎座と新橋演舞場が焼かれた後の東京では、7月31日に初代吉右衛門の熊谷に弟の中村もしほ(つまり後の17代目勘三郎である)の敦盛で『一谷嫩軍記』の「組討」の場を、何と日比谷公園の野外音楽堂で野外劇としてやったというのが一つ(但し一日だけ)、8月に入って、初代猿翁一座が東劇で(歌舞伎座・演舞場と至近距離にありながら、東劇は焼けなかった)『橋弁慶』と『弥次喜多』の二本立てで、終戦前日の14日まで公演を続け(映画『日本の一番長い日』を見た人は、これがどんなにスゴイことか想像がつくだろう)、さすがに15日は休演、そのまま月いっぱいは休んだものの、何と9月1日から、今度は『橋弁慶』を『黒塚』に差し替えて公演を再開したというのだから、たとえこの公演が東京都主催の罹災者慰問という名目があったとはいえ、天晴れというものだろう。ところが普通には、戦後の歌舞伎復興というと、六代目菊五郎が10月末に帝劇で『銀座復興』を上演したことがもっぱら言われてきて、いまも語り草になっている。気の毒なは猿翁である。それにしても、『橋弁慶』や『黒塚』より、『弥次喜多』をどういう風にやったのかしらん。見てみたかった。

しかし冗談ではない。まだ当分は間があると思っていた「團十郎襲名」興行が、もう来月に迫ってきた。我々にとってはオリンピックどころの話ではない。オリンピックだって、1年後と決めたはいいが、それで本当に無事開催できるのか、本当のことは誰にも分らないし、考えようともしていない(風に見える)。やれアスリート・ファーストだ、やれオリムピアードの理念だ、何だかんだと、テレビで討論会を見ていると、どれもオリンピックという枠の中で侃々諤々やっている限りではそれぞれもっともな言い分のようだが、オリンピックという枠の外にまで視野を広げて見れば、程を弁えて物を言わないと、一転して、手前の都合しか見ていないエゴの論理に聞こえてくる。いや、オリンピックなどの話をしている暇はない。同じことを、わが歌舞伎のことに重ね合わせてみると、どういうことが、あるいは、どういう風に、見えてくるかということだろう。團十郎の「睨み」でコロナウィルスが退散してくれるなら結構な話だが。

        ***

前回、マスクのことを書いたが、もう一度戦時中のことに話を戻すと、本土空襲が現実となったころから、「防空頭巾
なるものが普及して、大人も子供も、空襲警報が鳴ればこの防空頭巾をかぶって「防空壕」という穴倉へ逃げ込むのが日常のこととなった。ちょっと遠出をするときは、途中で空襲に会うのに備えて防空頭巾を持参した。形態としては江戸の昔からあった山岡頭巾というもので、よく雪国の子供がかぶっていたり山賊がかぶっていたりするのと同じ、ごく素朴なものだが、綿入れになっていたのは、何かが頭上に落ちてきても防御になるというためであったのだろう。それが、次第に敵機襲来が頻繁になり空襲が日常的になったころから、もうひと手間かけた新工夫の防空頭巾というのが登場した。口の当りを覆うために手のひら程度の大きさの覆いを取り付けたもので、これが付いていれば安心だということだった。(まあそりゃあ、ないよりはあった方がよかったでしょうがね。)つまり、マスク付きの防空頭巾というわけである。いざ我が家に、あるいは近隣に、敵機がばらまいた焼夷弾が落下した際には、この口当てつきの防空頭巾をかぶって、家々ごとに設置してある「防火用水」に汲み置いてある水をバケツリレーで消火に当れというのが、各町会ごとに行っていた防火訓練で教わることだった。我が家の筋向いの佐々木さんというお宅に焼夷弾が落ちたという設定で訓練が行なわれたとき、「佐々木さんのお宅に焼夷弾落下ァ」と誰かが叫ぶと、いつもおちょぼ口でものを言う上品な「佐々木さんのおばあさん」が、オホホホホと笑いながらバケツリレーをしたというのが、大人たちのひとつ話になっていたのを覚えている。逆算して考えると、まだ小学校に入るのは二、三年も先の幼児に過ぎない頃の記憶だが、この話に限らず、よくお前はそんな小さい時のことを覚えているなあと昔から言われたものだが、「戦時」という環境が幼ない脳味噌に何か特別な刺激を与えたためかもしれない。ところで焼夷弾というのは、焼夷剤と炸剤が入った無数の束がばらまかれるわけだが、あの束をクラスターというのだったっけ。

        *

そのクラスターだオーバーシュートだフェーズだ何だと、やたらにむずかし気なカタカナ語を使うというので非難が起こっているが、またしてもむかし話で恐縮だが、古い「サザエさん」にこんなのがあった。戦後(昭和24年12月から各紙一斉に)夕刊が復活して各紙が当時の人気漫画を競って掲載した中、朝日が掲載したのがかの『サザヱさん』で、テレビの人気番組のとはちょっと色合い肌合いが違うのだが、まあその当時の作で、インフルエンザの大流行で、近所隣り、家じゅう寝込んでいるというさなか、熱っぽくて具合が悪いという近所のおばあさんへ、サザヱさんが「あら、それインフルエンザですわ、きっと」と言うと、「ヒェッ、では」とびっくり仰天するので、「おばあさん、感冒のことよ、感冒」と笑って安心させる。と、「なあんだ、感冒かね。あたしゃまた風邪かと思った」というのがサゲになっていた。ところでここから読み取れるのは、「インフルエンザ」という言葉がこの頃から使われ出した新語で、老人にはまだ馴染みがなく、いまは忘れ去られた「感冒」という在来の用語がまだ普遍性を保っていたということ、更に、この「感冒」なる用語も、たぶん、お医者さんが普及させた、「風邪」ほどには深く根を張った言葉ではなかったのでは?という疑いである。朝日が長谷川町子『サザヱさん』、読売が秋好馨『轟先生』、毎日が横山隆一『ペコちゃんとデンスケ』というのが三大紙の布陣だったころのお話である。

        *

というわけで、3月はほぼ連日、健康のための散歩ぐらいしか外に出ることもなかったお陰には、遅れに遅れていた原稿を一つ仕上げることができた。書き始めて三年来、途中、(このブログの中でも何度か愚痴を漏らしたが)たび重なるわがパアソナル・コンピュウタアの故障やら不具合やらでその都度頓挫、一度は半ばまで書き進んだところで全部パーになったこともあった。昨年一月に仕切り直し、ではない取り直しをしてからも遅々たる歩みだったのが、このところのコロナウィルス騒動のお陰で一挙にはかどった。といって、この疫病神に礼を言うのもなんだが、人間、何が幸いするか知れないという、ひとつの知恵を実感したのは事実である。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第626回 ささやかなる終活 -ウィルス騒動のなかで-

じつはまたしてもパソコンの故障があって、今回も休載かとあきらめかけたのだったが、幸い、思ったより軽症で早く回復したので何とか間に合ったのはよかったが、いろいろ書く材料の心づもりをメモしておいたのが、野村監督もましてや喜多村六郎も、コロナ・ウィルス騒ぎの前には吹っ飛んでしまった。九年前の天災も春浅い3月、今回も3月に山場が来そうな形勢になっている。人間、時には災難に見舞われて高慢やらうぬぼれやらの鼻をへし折られたり、肝を冷やしたりすることも悪いことではない、とは思いはするものの、事態がここまでくると洒落どころではなくなって来る。

それにつけても、連日テレビのワイドショーで侃々諤々やっているのを見ていると、つくづく、日本人にもいろんな人種があるものだと感心することになる。大音声族・したり顔族・定番反応族・ひとひねり族その他その他・・・人類学ヒト科分類法の原材料に事欠かない。

初動対応に失敗したことへの挽回策かどうか知らないが、要請という名のお上の命令によって、各劇場の三月興行が軒並み初日を遅らせることとなった。国立劇場が15日まで、松竹・東宝系・明治座はほぼ10日まで、という微妙な差異は、それこそ阿吽の二字、によるものだろう。お陰で、三劇場に歌舞伎がかかるこの月、歌舞伎座と明治座に各一日、国立劇場に一日半、合わせて4日費やすことを予定していた三月第一週は、小学生並みに自宅でお勉強ということになった。まあ、遅れに遅れている原稿執筆を挽回するチャンスがこれだけまとまって到来したのは、コロナ・ウィルス大明神のお陰と思って精進することとしよう。

        *

なるべくならしないですませたいと思っていたマスクてふものを我もしてみむ、ということに遂に相成った。小学生の時以来だから、まあ、半世紀ぶりどころではない、絶えて久しい体験である。九州だったかで、マスクをするしないで乗客同士で諍いが始まり電車が緊急停車したというニュースを聞いて、恐ろしい世の中になったものだと怖くなった、というのもひとつの遠因かも知れない。

マスクというと思い出すのは、大学紛争盛んだった当時、ヘルメットにマスクというのがゲバ棒学生の定番スタイルだったが、そんなある時、山手線のどこの駅だったか忘れたが、前の電車が出て行ったあとしばらく閑散としていた隣のプラットホームに新たに電車が停車、ややあって発車して再び隣のホームが目に入った途端、こちらのホーム側からオーっと驚きのどよめきが起こった。何と、隣のホームにヘルメットにマスク姿の学生が鈴なりになってひしめいている。たぶん、どこかへ集団で移動する途中だったのだろうが、不思議な夢を見ているようだった。

これはわりに最近のことだが、テレビの番組で、もちろん平時の話だがマスクをしていないと不安だというのだったか、マスクをしていると安心だというのだったか、とにかくそういう人の意見というのを聞いたのが、なんとなく記憶に引っかかっている。マスクをしているのを格好いい、と考える人もあるらしい。ほんとに、人さまざまとはこのことである。まあ、鞍馬天狗の頭巾だってマスクと言えばマスクだろうし、なるほどあれは格好いい。「怪傑黒頭巾」というのもあったが、あれは鞍馬天狗が流行り出してから出来た亜流であろう。アラカンの鞍馬天狗の映画に御高祖頭巾というのをかぶった八丁礫のお喜代という女賊が出てくるのがあったが、あれは、冬の女性のファッションとして秀逸なものだったと思う。どなたか、現代によみがえらせ、流行らせてもいいのではあるまいか。

鞍馬天狗の頭巾はふつう宗十郎頭巾と呼んでいるが、『白浪五人男』の「浜松屋」の場で日本駄右衛門がかぶっているのが本来のもので、あれを基にアラカンの嵐寛寿郎が映画の写りがいいように工夫・改良したのだと、これはご本人が生前、テレビで喋っているのを見たことがある。なるほど、日本駄右衛門の頭巾では敏捷軽快な感じはないから鞍馬天狗には似合わないだろう。「浜松屋」の場の駄右衛門は、二階堂信濃守の家中の玉島逸当なる身分ある武士という触れ込みで浜松屋の客になっているのだから、いわば重役さんのお忍びの姿なわけだ。

ところでそのアラカンが亡くなってもう大分になるが、かつて少女のころに杉作の役で共演した松島トモ子さんが、しばらく前、アラカン宅へ焼香に赴いた時のことを新聞に書いていた小文が忘れ難い。晩年のアラカンが質素な暮らしをしていたのは知られていたが、タクシーに乗って探しても運転手にもわからない。大分ぐるぐる回った挙句にようやく見つけた家は本当に小さなもので、家具も何もない中に、ぽつんと、あの鞍馬天狗の頭巾が一つ、置いてあったという。

        *

ところで、と続けて書き出すことになるが、このほどふと思い立って、アラカンの映画ではなく、大佛次郎の小説の「鞍馬天狗」を読み返してみようと思い立って、電車の中でぼつぼつ読み始めている。奥付を見ると、昭和26年発行とある中央公論社版で、これはいかにも懐かしい。終戦後まだ間もない、今から見ると質素なものだが、中村岳陵装丁の趣味の良さはちょっとしたものだ。我が書棚に埃をうっすらかぶっていたこの本自体は、のちに古本で買ったものだが、この版本は、中学生の時に読みふけったバージョンそのもので、さまざまな記憶が伴われ蘇ってくる。私にとって、初めて読んだ大人向けの小説である。とまあ、こういうのも、我がささやかな終活の内だろうか。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

隋談第625回

遅ればせながら新年のご挨拶を申し上げ候。新元号第二年の「春」である。この前、新聞の電子版に載せる原稿に「新元号の新年」と書いたら、今年は令和二年だぞ、というような突っ込みが入るおそれもあるから「新年」と言わない方がよいのでは?という注意があった。む?と思いはしたが、余計なトラブル招くまい、と道成寺の坊さん達の舞い尽くしの教えに倣って、忠告に従うことにした。

さてその令和第二年の春芝居(もしくは初芝居)、東京での四座すべての評を載せる枠がないというので、どれの評を書くか、見てから決めようということにして、結果、歌舞伎座と浅草公会堂ということになった。それぞれについては掲載紙を見ていただくことにして、浅草歌舞伎のあのメンバーで『寺子屋』『太十』『七段目』とバリバリの丸本時代物を三本も出して、それぞれに相当の成績を上げたということは天晴れというものだろう。昨夏「朝日」紙上で梅枝が言ったという、歌舞伎役者がすれば何をしたって歌舞伎なのだ、とかつて初代白鸚さんが言ったという名言は今や過去のこと、という若手俳優としての率直な発言が、じわじわと若手たちに輪を広げ始めた表れと見るのは甘過ぎるか?

それと直接の関連はあるまいが、伝統歌舞伎保存会の研修発表会が今月一八日にあって、研修生上がりの若手たちで『五・六段目』をするのを見たら、これまたあっぱれの好舞台だった。エライ人たちでやると芸の面白さに隠れて見えなくなる芝居そのもの骨格が現われる。改めて『忠臣蔵五・六段目』というものが作品として如何に優れたものであるかを再認識したが、そう思わせた出演者たちの努力と好演を称えよう。と、もう一つ、教えも教え覚えも覚えである以上、教えるべきことが今もきちんと教えられているのだということを、再確認できたことも喜ぼう。
        *

浅草公会堂の花形歌舞伎は例によって日替わりの挨拶がある。私の見た日の担当は米吉だったが、いや喋ることしゃべること。水の流れるが如し。TALKという英語が日本語のトークとして定着したのはいつごろからだったろう。あの頃から日本人が、ひいては歌舞伎が変わってきたという言い方もできるに違いない。歌右衛門みたいに、小さな肺活量の胸をゼイゼイさせながら、三階席だとよく聞き取れない小音(という言葉もいつのころからか劇評でも使われなくなった)で、うねうねとセリフを言う役者はいなくなった。軽く、なめらかな歌舞伎。米吉は軽やかにトークを続ける途中、ちょっとごめんなさい、さっきから気になってしょうがないんですと言って立ち上がると、最前、幕の裾をまくって舞台中央に平伏した姿で登場した時、はずみで、敷き詰めた緋毛氈に大きな皺が寄ってしまったのをさっと直すと、またもとの位置へ直ってトークを續ける。現代っ子としての何というスマートさ。と同時に、女方としての何という細やかな心遣い。六段目のお軽が見てみたい。

        *

『五斗三番叟』を白鸚が出したのはびっくりしたが、そういえば『大蔵卿』を出したのはちょうど一年前の初芝居だったっけ。片や大酒飲み、片や阿呆に韜晦した人物だが、こういう役に興味をもつようになったのだろうか? つまり、大蔵卿も五斗兵衛も、韜晦の陰で一枚上を行く境地を楽しむかのような人物である。とすると、これはちょっと面白い。幸四郎の名を譲って白鸚という高等ご隠居となってなお、身体は健康、意欲は旺盛、心は高く、と三拍子そろってシルバーパス世代の最も良き終活ぶりではあるまいか?(尤も、ご自身シルバーパスを使って都バスで楽屋入りはなさるまいが。)

        *

その白鸚の今月の出し物『河内山』と『五斗三番叟』で、どちらも芝翫の暗君(松江候・義経)、歌六の忠臣(高木小左衛門・泉三郎)、錦吾の佞臣(北村大膳・錦戸太郎)と全く同じ構図の役どころで全く同じ顔ぶれが揃うのは、普通なら気が利かない配役と批判されるところだが、こう見事に揃ったところを通して見ると却って面白い効果がある。芝翫の松江候など、ご本人はべつに悪い人間ではなくただ生まれっぱなしのまま権力者になってしまったようで、しかもあの立派な役者ぶりが利いている。はまり役と言ったら気を悪くされるかもしれないが、近頃での松江候と言っていい。

それにしてもこの『義経腰越状』なる芝居、『五斗三番叟』は二世松緑という良き後継者がいたためにこうして辛うじて伝承されているが、肝心の『鉄砲場』が出ないと『千本桜三段目』を「椎の木」だけ出して「鮨屋」を出さないようなものだから、わけのわからない芝居となって久しい。冗談ではない、今の内に何とかしなければ。この際白鸚に『鉄砲場』の五斗兵衛も頑張ってもらうとして、吉右衛門に泉三郎を付き合わせ!関女を魁春というのは如何であろう?

        *

菊之助が「ナウシカ」での負傷も心配されたほどではなかった由なのは本当によかったし、『令和仇討』も国立恒例の菊一座の正月物としては作も面白く脚本もすっきり出来ていてこれもまずは重畳。菊五郎を王将に、菊之助と松緑の飛車角という布置もよく、確かに「菊一座」ではあった。

ところで旧聞ながら『風の谷のナウシカ』だが、私の見たのは菊之助の負傷の後だったのでまともな評はできないが、いろいろな方々の評判を聞くにつけ思うのは、劇化の方法としては(1)今回のようにできるだけ物語の要点をマメに辿って大筋を追うか、(2)原作の要所・作者の哲学を掴んでそれだけを圧縮して提示する。そのためには上演時間は短くて構わないという、そのいずれかしかないわけで、前者をよしとする人は拍手を送り、後者にすべしと思う人は鳴り響く喝采に眉をひそめながら家路についたことと思われる。昔から「戦争と平和」でも「アンナ・カレーニナ」でも、何度も映画化されているが、作者の哲学が盛り込まれた大長編を映画化なり劇化なりすると、どうしても主人公とヒロインの筋を追うメロデイドラマになってしまう、原作の味や本当の意味を知るには原作を読むべし、となるのが常道である。

『風の谷のナウシカ』を見ながら思ったのは、これは現代の生んだ『南総里見八犬伝』だということだった。作品の趣意とカタチ、双方から最も通底する。汚濁に満ちた世に理想の国を実現せむとする物語である。「風の谷」という小さな谷間の郷、南房総という、海上に半ば以上も突き出した半島という小国でこそ、雛型としての理想卿を実現し得る。いやそれすらも、実は夢想でしかないかもしれぬ。と、そういう曲亭馬琴の壮大な夢も、これもいくたびか映画化・ドラマ化された「八犬伝」物が、粗筋とヒーローたちの活躍を追うチャンバラ活劇となり、原作は読みもせず錦ちゃん千代ちゃんのチャンバラなど見向きもせぬ知識人たちから黙殺されてきたのに比べれば、今回の「ナウシカ劇」への世人一般の好意の寄せ方は以て瞑すべきであるかもしれない。もっとも、そうは言うものの、今度のような「良心的な」台本作りをしても物語を追うという形を取る限り、幕が開くごとに舞台に展開するのは戦いの場、つまりチャンバラ場面にならざるを得ないのは致し方ないところか。

見ていると菊之助のナウシカよりも七之助のクシャナの方が溌剌と輝いて見える。やはりここにも負傷の影が落ちているのかと思ったが、初日に見た人の言でも七之助の方が生き生きと見えたと言う。なるほど、こういう物語だと主役はどうしてもマジメな優等生にならざるを得ないのが常道だ。武蔵よりも小次郎の方が格好良く見えるのと同じデンであろう。八犬士でも信乃よりも悪の要素がある道節や毛野の方がチャーミングだ。

        *

同日の訃報欄に重光武雄・日下田実という二人の名前が載った。まるで関連のないようなお二人だが、私の遠い記憶を呼び覚ますにはどちらも充分な名前である。片やロッテの創業者。終戦直後、私がほんのガキだった頃に俄かにはやり出した、風船ガムという代物、子供心にもいかにも敗戦後の安っぽい戦後文化の象徴のように思えた。安菓子の背後に広がる社会というものを、小学校に上がったかどうかという程度の子供にも想像させた、もしかしたら最初の事例であったかもしれない。つまり、私にとってのイニシエーションのシンボルとして感慨なきを得ない。

日下田氏は、日本隊によるマナスル初登頂のメンバーの由。実はこの方の名前は知らなかった。こちらは1956年だから私は高校生だった。イギリス隊によるエベレスト初登頂が3年前のことで、新聞に登山隊の隊長の登頂日記が連載されていたのを子供なりに読んでいた。今みたいに、ほいほいと登頂する人が出てくるなど夢にも思えない至難の事業のように思われた。日本隊のマナスル征服はそういう時期のことだから大変な快挙だったわけだが、隊長の槙有恒という人はオールド・アルピニストして一般にも知られた瀟洒な紳士で、登山とは山に上って下ることである、という名言を吐いたのはこの人であったと覚えている。通っていた高校でこの方を招いて全校生徒を相手に講演をしてもらうということがあった。そのときに実際に登頂した隊員を一人連れてきたのだったが、つまりそれが、もしかするとこの日下田氏であったかもしれないという、なんとも回りくどいお話である。ヘイ、ご退屈様、という格好だが、数年を隔てているとはいえお二方の名前が同じ紙面に仲良く並んで記事になったというのは、ちょっぴり感慨深いものがある。

        ***

田淵の野球殿堂入りのニュースが大きく報道された裏ニュースのように、特別表彰として 前田裕司・石井連蔵の両氏が殿堂入りという報にはやはり感慨がある。いまからみれば、六大学野球が大きなニュースになり得た、ともかくも古き良き昔という言い方が出来た頃の早慶両大学の野球チームの監督である。早慶六連戦という言い方で、これは今でも伝説的にかなり知られているが、実感を伴って覚えている世代となるとこれまたシルバーパス世代ということになる。前田・石井両氏はその六連戦の時の両校監督であったわけだ。1960年昭和35年というのは、4月に入学するとすぐ安保騒動があり、秋に野球の六連戦があった、と年表風の記述にすればなるであろう。ま、かくいう私もその年の入学生ということになる。つい先ごろ、石原裕次郎と芦川いづみ主演の「あいつと私」という翌62年制作の日活映画を懐かしさにつられて日本映画チャンネルで見たが、これがこの60年安保の年の新入生という設定になっている。映画はお定まりの石坂洋次郎ものだが、芦川いづみの女子学生が語り手で、「あいつ」というのが裕次郎で「私」というのが芦川自身ということになっている。もっとも、映画には安保反対のデモは出てくるが野球の話は出てこない。

あの頃の神宮球場はまだ学生野球だけのものだったから今のようにフェンスや鉄塔に広告というものは一切なく、外野席も芝生だった。野球見物よりデートに利用する男女の姿もよくあった。プロの球団が本拠地にするようになったのは、当時の東映フライヤーズが本拠の駒沢球場をオリンピックの競技場にするというので召し上げられたために引っ越してきたからで、玉突きの理屈で東都大学リーグが半ば追い出されたため、隣接してあった野天の相撲場をつぶして第二球場を作ったのだった。この相撲場は本来アマ相撲のためのものだが、終戦間もなく、旧両国国技館が進駐軍に接収されメモリアルホールとなってしまったために、大相撲が本場所を開催したのを見に行ったのをかなり鮮明に覚えている。金剛力士のようと例えられた羽黒山と相撲人形のように優美な照国が東西の横綱だった。二人とも、今なお、私にとっての横綱というもののイメージの原点となっている。

        *

さてその相撲だが、徳勝龍という伏兵が一躍、躍り出して、普段相撲など見向きもしない民放でも騒ぎ出している。じつは二日目に遠藤が白鵬に勝った瞬間の舌なめずりのことを書こうと思っていたのだが、どうでもよくなってしまった。

徳勝龍は今場所は突き落としの方が話題になったが、これまではむしろ「とったり」で勝つ相撲が目立つ力士だった。相手が差しに来るか、前まわしを狙って伸ばした手を取るとあの肥満体で引っ張り込んで振り回す。と、相手は、あの巨体だから挟み込まれた手を容易に抜くことができず、振り回されてしまう。これが結構うまくきまるのが善し悪しで、取り口が消極的になりがちで星が上がらない、というのがこれまで徳勝龍だった。5年ほど前になるが、安美錦がこの「とったり」に引っかかって怪我をして途中休場に追い込まれたことがあった。前日まで8勝1敗と快調だったところでもあったから、以後私は徳勝龍憎しの念が頭から離れずに来たのだったが、まあ、こんな手に引っかかった安美錦の方も不覚であったわけで徳勝龍に責任があったわけではない。ご覧のように見た目も相撲取りらしい愛嬌があって、見た目も取り口もどれがどれやら何年見ていても区別がつかない同じタイプばかりの近頃の力士の中では特徴がある方だから、これを機に人気者になっても不思議はない。

        *

この場所の十四日目に新天皇ご一家の天覧があったが、幕の内の後半からということだった。つまりこの日の眼目、徳勝龍と正代の一戦は(控室のテレビには写っていたかもしれないが)ご覧にならなかったわけだ。先ごろの上皇ご夫妻の時もそうだった。かつて昭和天皇の頃は、中入りの際に着席され、土俵入りから幕の内の取組みすべてを上覧に供していたと思う。これは、どうしてこうなったのだろう? 

        *

豪栄道が引退したが、この人で一番いいと思うのは体形の良さで、縦横の均整がひと世代ふた世代前の力士のようで、200キロも珍しくない今様の巨漢と違っていたことだった。精神力の強さが言われるが、私はこの人、じつは案外小心なのではないかと思っていた。徳勝龍の「とったり」ではないが、この人の「裏の」得意技は「首投げ」でこれがまたよく決まりもしたが墓穴を掘る元凶ともなった。たまたま見に行った日に白鵬を「得意の」首投げで鮮やかに土俵下に投げ飛ばしたことがあった。起き上がった白鵬は、花道に突っ立ったままいつまでも土俵に戻ろうとしない。呆然と、というより、現実を認めたくない、といった風にも見えた。行司の判定に不服があって、物言いのつくのを暗に求めていたのかもしれない。白鵬の態度言動に、私が時折疑問を覚えるようになった最初でもあった。

本来押し相撲ひと筋の取り口、横綱に手が届くだけの戦績をあげられなかったが努力型の真面目が好感を招く元であった点等々、昭和30年代後半に大関を張った栃光に共通点を見る。大関のままで引退した引き際も同じである。好力士であったことは間違いない。

        *

国立劇場で「出雲神楽」の公演を見たのは、偶然だが初場所の十四日目、徳勝龍がまさかの優勝を目前にしたのと同日だったが、演目のひとつに「野見ノ宿祢」があった。宿祢は出雲、相手の當麻ノ蹴早は大和、つまり徳勝龍の国の先輩というわけだ。この一戦で野見ノ宿祢が當麻ノ蹴早に勝ったのが相撲の発祥ということになっている。ここでは蹴早はいわば敵役だが、見ていると野見ノ宿祢より格好いいのは、ナウシカよりクシャナの方が格好いいという原理がここにも働いているということか。

        **

ところでこの出雲神楽の番組の中で、囃子方が踊り手の所作の間合いを計っては「せーの」という掛け声をかける。なるほど、「せーの」という掛け声はここから来るのか。少なくとも、この人たちがこうした場で使う「せーの」という掛け声にはそれ相応の味わいがあって悪くない。

ところで、実は私はいまもって、この「せーの」という掛け声をしたことがない。東京に生まれ育った者として、子供のころ「せーの」という掛け声は聞いたことがなかった。それが(それほど遠くない)いつのころからか、世の中誰かれなく「せーの」一点張りになってしまい、子供のころから使ってきた「イチ、ニッ、サン」もしくは「イチ、ニノ、サン」、大勢でゆっくり声をそろえる場合には「イチ、ニイのぉ、サン」という掛け声はとんと耳にしなくなってしまった。私と同世代以下の誰かれなく、みなみな「せーの」派になってしまったのだろうか。相撲界では、横綱の綱打ちのとき、関取衆からふんどし担ぎまでみんな揃って綱を編むのに、太鼓をトントントンと叩くのに合わせて「ヒノ、フノ、ミ」と言うのだと覚えているが、今もそうなのだろうか。「ひー・ふー・みい」という、「一、二、三」というのよりもう一つ古風な数え方も聞かなくなってしまったいま、危うい限りだ。

        *

書こうと思ってメモをしておいた話題はまだ何項目かあるのだが、長くもなるし今更そう急ぐこと

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket