随談第624回 歳末便り

あっという間に歳末、とはいかにも平凡な物の言いようだが、今年はひと際その感が強いのは、歳のせいとか世の中の動向とかの以前に、何度も書いたから今更のようだが、わがPC(という略称をいま初めて使った、これも後遺症のひとつかも知れない)の不調が何度も繰り返されたために、仕事がいくらも捗らなかったためである。これだけのことをせめてやってしまおう、という事柄を先回しにして、さてようやく、このブログに取り掛かろうとすると、早や世の中も、我が身辺も、すっかり年越しモード。今回もまたも簡略版とさせていただくほかない。

尤も、悪いことばかりではない。PC入院の時期が長かったお陰で、夏以来半ばはやむなく取り掛かったわが仕事部屋のミニ断捨離がそれなりに進んだおかげで、夜中に強い地震があってもベッドの上にどさどさとパンフレットの類が落ちてくる心配が軽減されたり、書棚のスペースが足りないままに何年分も積み重ねたままだった『演劇界』の山が、解消とは行かないまでも、ヨーロッパのアルプスから日本アルプス程度には縮小されたこととか(なにしろ歌舞伎座改築より前から堆積が始まっていたのだ)、それだけでも悪い気はしない。
とはいえ、この回の分として書こうと思っていた、身辺雑事やら世の動きやら、それをめぐってのわが想いやら回想やらを書いている時間がなくなってしまったのは残念としか言いようがないが、とりあえず今は諦めるより仕方がない。あんなようなことでも、読んでくださる方があるのだということは、このブログを続けているうち次第に、有難いことだとしみじみ思うようになった。

新聞の訃報欄で見つけた小さな死亡記事ひとつからも、その幾層倍のことどもが思いなされてくる。そうしてその、泡沫のような、記憶や連想や寸感や感慨やその他さまざまなことがらは、いまここの書き留めておかなければ、たぶん永遠にうたかたとなってしまうであろう。そういうものを、せめてこういう場に書きとどめておきたいという思いが、このブログを書き続けているうちに次第に強くなってきている。たとえば今月は緒方貞子とか中村哲というような人が亡くなった。このお二人について私の知るところは、新聞やテレビに報道されさまざまな方が述べられたこと以上に私が持ち合わせているものは何もない。またお二人の業績や生き方について多くの方が述べられていること以上の感懐を抱いたわけでもない。しかしわが連想は、そうしたメジャーの記事の伝えるような事柄とは別の方へと飛ぶかもしれない。訃報欄に関心が行く理由の一つは、亡くなった方そのものへの思いのほかに、それ自体が、記憶という大きな広がりの中へ抜け出る坑道でもあるからかもしれない。

 訃報に限らない。たとえばラグビーへの俄かの関心の高まりは、私にとってはそのこと自体より、小学生の時のある記憶へと連想を誘う。その年の12月の第一日曜の冬晴れの日、家族6人そろって青山墓地へ出かけたのは、その夏に死んだ祖母の納骨のためだったが、それを済ませた後、まだ一面の焼け跡だった青山通りを散策する内、秩父宮ラグビー場の前へ出た。12月の第一日曜の午後のこと、早明戦がちょうど試合開始の時刻だった。明大出身の父に初めからそのつもりがあったのかどうかはわからないが、私の印象では、オオちょうどよかった,見て行こう、ということになって私はその日、生まれて初めてラグビーの試合というものを見たのだった。その頃のラグビーの選手は、いまのようなレスラーのような巨漢ではなく、一見普通人と大差ないような体で、そもそも、半袖ではなくワイシャツの上に長袖のユニフォームを着ていたが、これはかなり後までそうだったと思う。(なにしろラグビーはウィンタースポーツだから半袖などは着ないのだ、というのがかつての常識だった。)ところでその試合のこともだが、スタンドから目をやると、向こうの(その時は知らなかったがもちろん、国立競技場である)大きなスタンドにスウェーデンのあの青地に薄い黄色の十字の国旗が翻っているのが見えた。小学生の私の目に、それはじつに印象的だった。因みにその年は秋にサンフランシスコ講和条約が締結され、翌春に日本の独立が実現するというタイミングの、師走の冬晴れの日曜日というのが、この話の急所である。国立競技場では、その日、まだ独立前の日本にスウェーデンのサッカーのチームがやってきて、国際試合がおこなわれていたのである。それがどういう意味を持つものであったのか、それを私が知ったのは、それからはるかのちの話であるのだが、この話は、まず本日はこれ切り、としておこう。興味をお持ちになった方は調べてみてください。因みに私は、その後、ラグビーには多少の親近感を持ち、たまたまテレビでいい試合をやっていれば見る程度のファンになったが、サッカーには馬耳東風の状態が続いて今日に至っているが、そのことはこの話と別に因果関係はない。

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歌舞伎の話は、今回は敢えて触れないことにした。書き出せば、時間切れになってしまうであろうから。
今年はこれでおしまい。来年もよろしくお付き合い下さい。

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随談第623回 簡略版御免

又してもパソコン入院という事態があったが、今回は、これまでのとは患部が違い10日ほどで退院してきたのでこのブログも休載ということにはならずにすんだ。尤も、その間の作業が押せ押せとなるなど時間的な窮迫は避けられないので、この回は簡略版とさせていただくことにしたい。

今度の入院は、音声が出ないことで、じつは前回(9月末)に退院後間もなくに気がついていたのだが差し当たっての必要はなし、いずれ手すきの折を見てちょっと見てもらえば簡単にすむことと思っていたのが、それではすまず、入院の上「ドライバの入れ直し」という「加療手当」をする結果となったのだった。どうも今度の機器は蒲柳の質であるらしい。

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11月の各座の歌舞伎については、新聞評と「演劇界」にそれぞれ書いたから、勘どころを一口評にする。歌舞伎座は菊五郎の『髪結新三』に尽きる。前月の『お祭佐七』と併せ、よき「江戸の夕映え」を見せてもらった。シルバーパス世代も幾人かいそうな高年齢の脇役たちも、今日望めるかぎりでの素敵なもので、團蔵が前月の倉田伴平につづいて弥太五郎源七、この種の役の安手でありながら存在感があってなかなかいい味なのは、この人も無駄に年を取っていなかったという証しである。左團次の家主以下の面々も、それぞれのポジションにベストナイン級を並べたようで、もう今後はこれだけの粒を揃えるのはまずむずかしいであろう。(そういう中にひとり、梅枝のお熊だけが適齢期というのも効いている。)

歌舞伎座ではもう一つ、幸四郎が『砥辰の討たれ』を木村錦花版で出して相当の成功を収めたことに我が意を得た。野田版隆盛以来、もう錦花版をやる人はないでしょうよ、などという勇ましい声も聞いたが、そうかなあ、と呟いていたところだった。が、幸四郎の喜劇志向については、12月国立で『蝙蝠の安さん』を見てから書くことにしよう。

国立の『嬢景清』は悪くはないのだがどうも気勢が上がらないのは、吉右衛門の体調のこともあるかもしれないが、「日向島」を下の巻、「花菱屋」を中の巻として、それに別作品から「大仏供養」をすげて上の巻として、通し上演の結構を整えようとした国立劇場らしい方針(自体は悪いわけではないが)に、やや誤算があった、ということであろう。しばらく前に吉右衛門が歌舞伎座で松貫四の名で脚本を「日向島」一幕にまとめて出したことがあったが、少々とっつきにくさはあったとはいえ、あの方が景清劇として正攻法であったことを今回見て改めて悟った。「日向島」の難しいのは、終局、頼朝に下ることとなり、大船に乗って重盛の位牌を海に投げ捨てるところで、文楽だとそこが語り物の強みで、最後を「大団円」として締めくくるという「結構」の趣意がわかるのだが、いかに名優と言っても生身の役者がする歌舞伎では、どうも釈然としない憾みが残る。今度はその上に「大仏供養」の場をつけて頼朝の大腹中ぶりを見せ、それにもかかわらず景清が両眼を抉り取る場を見せるのだから、観客はますます、景清WHY? という疑問を抱くことになる。(最後の船の場面を見て、紀ノ国屋文左衛門みたいだと言った人がいる。なるほど、と思った。)しかも頼朝襲撃の件を三保谷との相撲の勝負という趣向の遊びにしたから、木に竹を接いだことになる。別作品を組み合わせること自体は昔からあることだから一概にいけないわけではないが、三幕目の「日向島」が渋い場面だから、序幕はお相撲の場面にして愉しい導入部にしようとの目論見は計算違いであったと言わざるを得ない。それにつけても、「孤高勇士」というお生な現代語を、「嬢景清」という凝った浄瑠璃の外題に強力接着剤で貼り付けたような今回のタイトルは、何やらこんどの上演台本の無理を暗示しているようにも見える。トロにマヨネーズをかけたようであまり良き趣味とは言いかねる。

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もう時間が無くなってしまった。『トトロ』については「演劇界」に8枚分書いたからそちらを見てください。そのほか、天皇ご即位やら、京舞の東上公演やらラグビーの思い出やら、さまざまな訃報やら、書こうと思っていたことはいろいろあるのだが、すべて次回にまとめて書くことにして、まず今回はこれ切りとさせていただくことにします。

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