随談第621回 13團、児太郎、安美錦

7月の歌舞伎座は、まだ初舞台もすませていない勸玄坊やの『外郎売』がお目当てで昼の部が即日完売、こちらはめでたく演じ切ったが、夜の部の「成田千本桜」の海老蔵十三團が中途でエンスト、幾日間かが休演という椿事出来(しゅったい)となった。「千本桜」から13役をやろうというのは、かの『伊達の十役』の先例あり、忠臣蔵の7役だか8役だかの早変わりの先例もあり、要はその内容と質のことである。海老蔵の構想としては、「千本桜」という長編物語の全体像を示そうという目論見があったと思われる。こうした構想の立て方は、基本的にはかつて猿翁が「川越上使」を出したり、大詰に「花矢倉」を出すなどした先例に「まねぶ」ところがあったかに推測される。昨年の『出世太閤記』のごとき佳作もあるが、猿之助は当然としても幸四郎にせよ海老蔵にせよ、次代の歌舞伎は俺がと思っている「大望家」(などという言葉があるかしらん)が、大なり小なり、昭和の昔に三代目猿之助の求めたところを求めるという思いから、我知らずの内に猿翁というお釈迦様の手のひらの内を飛び回っている(かに私には見える)。が、それはそれでよろしいとして、要はそのやり方であり中身である。

ここで抜き差しならず絡み合うのが、こうした大義名分の一方、来年と決まった十三代目襲名と絡めた13團という、もう一つの趣向である。大義名分と13團という私事から生まれた洒落(のつもり)の趣向と、どちらが先にあったのかは知らないが、とにかく「千本桜」から13役を一人でやろうという「大望」だ。さてその13役をどう選ぶかだが、劇全体の黒幕である左大臣朝方を登場させ(るからには、もちろん海老蔵自身で演じ)る。知盛・教経・敦盛の首が偽首で三人の平家方が実は生きていたという作者の立てた趣向も明示して、この3役ももちろん海老蔵みずから演じる。さらに、知盛・権太・忠信の三役を兼ねようという意欲も野心も当然あるから、これですでに6役だが、ここまでなら、補綴・演出に名を連ねている諸先生方のお知恵を借りてまあ何とか、格好がつくかもしれない。だがそれでは13團にはまだまだ程遠いとなると、海老蔵たるもの我慢がなるまい。

発端の「大内」と序幕「堀川御所」で朝方と川越太郎に卿の君も芋洗いの弁慶もと欲張るあたりまでは微笑ましいともいえる。が、「大物浦」で知盛のほかに、知盛入水のあとに弁慶で鎮魂の法螺貝を吹いてあっと言わせたい、敵方の武者とみずから芋刺しとなって入水する入江丹蔵の格好良さもやってみたい、というあたりから無理が二乗三乗し始める。がまあ、ここまでは無難の内としよう。ストーリイはともかくも通るからだ。したが三幕目で権太に弥助維盛に加え弥左衛門、さらに小金吾まで欲張るとなると、扮装としては弥助維盛をベースにせざるを得ないから(まさか赤い面をした平家の公達というわけにもいくまい)、なまっちろい顏をした権太がいかにお得意の目力を利かせて睨んで御覧に入れて下さったところで違和感は拭いようがないし、弥左衛門が権太を刺すのは『お染の七役』の早変わりの立ち回りとはわけが違うから、早変わりの面白さよりも話の無理が先に立つ。(定九郎と余市兵衛を早変わりするのと手順はほぼ同じでも、わけが違う。)せっかく権太と小金吾を変わっても、肝心の金を巻き上げる件が満足にできないのでは権太のワルの魅力も減殺されることになる。万次郎の妙林尼がピンチヒッターよろしくいかに妙趣を発揮したところで穴は埋まるものではない。(猿翁もいろいろ破天荒なことをやったが、筋を通すことにはこだわったからこの手の無理はしなかった。)

大詰「川連法眼館の場」とあるが法眼夫妻は完全にオミット、幕が開くと梅玉の義経が板付きで座っている。(この梅玉の立派なこと!)さては法眼館は空き家か? ま、それは目をつむるとして、肝心の狐言葉だが、あれはどうしたことだろうか? 如何に早変わりを見せるのが眼目としても、いやしくも『義経千本桜』の「四の切」を踏まえた上のことである以上、押さえるべきところはしっかり押さえた上でのことでないと大人の鑑賞に堪える芝居にはならない。猿翁は、「四の切」を演じるに当って狐言葉を八代目の竹本綱大夫という当時の名人に教わっている。猿翁の狐忠信がよかったのは、ケレンや宙乗りには批判的な評者にも指を指されないだけ狐言葉がしっかりしていたからこそであり、いまとなってみると、宙乗りやケレン以上に、義経に訴える狐言葉が一番思い出される。海老蔵は13役をつとめながら、結局どれがよかったろうと振り返って印象に残った役というものが思い当たらない。海老蔵の名誉のため、というより、かつて衝撃的な大ブレークをした折、その光源氏や助六や鎌倉権五郎に驚嘆し賛辞を呈した自分自身の名誉のためにも、是非ともこれしきのところで満足して終わってもらいたくない私としては、権太はきちんとした形でやれば良き権太であり得るであろうし、知盛だってあの丈高い役者ぶりから言っても夢はまだ捨てたくないとだけは、書き添えておこう。

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昼の部に、活歴・新歌舞伎・松羽目の狂言物に、昭和に復活した十八番物と、明治・大正・昭和歌舞伎の見本市みたいなプログラムが並んだのは企画したことではあるまいが、夜の部の13團も含め全演目に児太郎が出ている。なかでも『素襖落』で姫御寮をつとめる児太郎に目を瞠った。その凛としたたたずまい、気品と風情。若い人をやたらに持ち上げるのは慎むべきかもしれないが、親まさり、いやひょっとすると祖父まさりかと、筆を滑らせたくなる。

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訃報欄で明日待子という名前を見つけた。本当のところは、この人のことを語れるのは少なくとも昭和も10年代にすでに人となっていた年代の人たちで、辛うじて名前は知っているという程度の私などが聞いた風のことをいうのはおこがましいのだが、それでも、時代の風の匂いのなにがしかぐらいは嗅ぐことができる。

NHKのファミリーヒストリーで仲代達矢のを見ていたら、有木山太という名前がヒョイと出てきたのに思わず声を上げた。しかも仲代の叔父さんだという。こういうことがあるから人のつながりというのは面白い。ほとんど忘れていたような名前だが、アッと、一瞬にして記憶が蘇った。と言っても、これとまとまって話ができるほどのものはない。しかしエノケンだのロッパだのというビッグネームの脇っちょに、有馬是馬だの如月寛太だの山田周平だの(他にもまだまだいたが)といったちょっぴりマイナー感を漂わせた名前のひとつとして、有木山太の名もまぎれもなく存在したのは、その風貌とともにはっきり覚えている。こうした名前に共通するのは、戦前・戦中の匂いをどこかに漂わせながら、戦後、それも昭和20年代を蘇らせてくれることである。

仲代達矢といえば、この人を初めて見た映画というのが江利チエミの『サザエさん』でノリスケの役で出ていた。人気シリーズとして10作以上も作られた第一作で、マスオさんが小泉博、お父さんが藤原釜足、お母さんが清川虹子というあたりは不動のメンバーだったが、仲代のノリスケはたぶんこの一作だけだったろう。あっという間に大きな存在になっていったからだが、この時には、あのどんぐり眼が喜劇向きだと思われたのかもしれない。二週遅れで東映と松竹と東宝の作品が三本立てで見られる映画館だった。

高島忠夫のことは前回書いたが、その後たまたま、日本映画チャンネルで昭和28年6月封切りの新東宝映画『戦艦大和』を見ていたら、高島忠夫が青年士官の役で、それもちょいといい役で出てきた。この映画は前にも見ているのだが、高島のことはすっかり忘れていた。浪花のボンボンとからかわれながらじつはなかなか骨のある人物という設定で、のちにスターになってからの高島より私にはよほど興味ある風貌を見せている。前年4月に講和条約が発効して日本が独立回復、復古調と言われた潮流の中で作られたこの映画には、私なりにいろいろな思いが甦るが、たまたま1年前の講和条約発効の日に引っ越したのが、一望焼け野が原だった西巣鴨、といっても大塚駅と池袋駅のほぼ中間、急坂の傾斜面に癌研究所が(ちょうど広島の原爆ドームと同じように外壁を残しただけの残骸となって)立っているのが大塚駅の高架のプラットホームから一望された。中央に眺楼のような塔のある姿が戦艦を思わせたので、同級生たちが「癌研大和」と呼ぶようになったのは、この映画の故だった。私が6年生の途中で転校する前の学校は中野区立大和小学校といったが、鞄だの物差しだの持ち物に書いてある「大和」という字の読み方を転校先の級友たちは知らず、「これ、だいわ小学校と読むのか?」と訊かれたものだったが、この映画のおかげで子供たちは皆「大和」と書いて「やまと」と読むのだと知ったのである。少年時代の私の体験した、終戦以来の「平和日本」から「復古調」への転換の、ささやかな思い出の記録でもある。

もうひとつ、この季節になると古い戦争映画がよく放映になるが、昭和32年の東宝映画『最後の脱走』というのを見た。実はこんな映画がこの時期に作られていたことも私は知らなかったが、日本の敗戦後中国の奥地に取り残された日本の女学生の話で、原節子が引率の女教師、鶴田浩二が元軍医という、こういう顔合わせというのも、ヘーエ、こんなのがあったのかという興味で見たようなものだが、昭和32年といえば、原節子は小津作品三部作などですでに名女優として名声を確立していた筈だが、この映画ではオヤオヤと思うような演技を見せている。どんな名優も台本が悪いと三割方は大根に見えるというのが私の考えだが、そういえば原節子大根説というのは実は昔からあって、小津安二郎や成瀬巳喜男の時以外の原節子というのはこんなものだったともいえる。不器用な人なのだろう。笠智衆も出ていて、こんなところで二人が顔を合わせているのも不思議なような光景である。考えてみれば同じ年の少し前に、二人は小津の『東京暮色』で父娘になっているのだから、俳優の仕事というのは。それはそれこれはこれ、と思うべきものなのだ。もっともこの映画も、監督は谷口千吉で結構面白い作だった。

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安美錦がついに引退した。3年前に土俵上で(相手は栃ノ心だった! その栃ノ心がその後の怪我で苦闘を続けている姿を見るにつけ、どうもこういう因果というのは巡るものと思わざるを得ない)アキレス腱断絶で休場二場所で十両に落ち、一年余かかって再入幕を果たしたが、踏ん張りもそこまでであったろう。力の衰えが次第に見えてくるのがわかった。十両も後ろの方になると取組みが3時からの放送開始前にすんでしまうからBSで見ることになる。足の踏ん張りがきかないからどうしても引き技が多くなる。そこをついてくる十両の力士というのは、ある意味で幕の内の力士よりもこすっからいように見えた。本来なら格の違う相手にむざむざ負けを取る姿を見るのはしのびなかった。通算の戦績が907勝908敗というのは、晩年に負けが込んだが故には違いないが、一点の負け越しというのが洒落ていて安美錦にふさわしいともいえる。これは一種の勲章だろう。そういえば昭和30年代から40年代、灰色のチームと呼ばれ下位に低迷していた頃の阪急のエースだった梶本の通算成績が254勝255敗だった筈だ。これもあっぱれの勲章といえる。安美錦はまた、通算場所数がこの場所で大関の魁皇と並んで歴代一位となったところだった。もうひと場所出れば新記録だったわけだが、昭和20年代のプロ野球に林義一という味な投手がいて、この人は通算成績が98勝98敗だったが、100勝しないうちにやめたいと言って引退したという話が伝わっている。こういう話は何故か聞くと嬉しくなる。そういえば柏戸も、幕の内の通算勝ち星が599勝というところで引退したのだった。

安美錦が新進として上位に上がってきて、貴乃花に初顔で勝ったのがこの横綱の最後の土俵となったという話はかなり知られているが、その次の東京場所で、たまたま升席のいいところで見せてもらうという機会があって、鮮やかな内掛けで勝ったのを見たのが贔屓になった始まりだった。足技は、宿痾となり最後のとどめを刺すことになった右膝を痛めてからも見られたが、やがて左膝も痛めてからは影をひそめてしまった。記録に拘泥するのは感心しないが、安美錦ならもう少し高いレベルでないと、という理由で技能賞が見送りになったことが何度かあったのだけは、すこしこだわりが残る。

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今シーズンの前半が終了してすぐの一夜、まだ梅雨のさなかの雨天の中だったが、ヤクルトのOB戦というのを見た。松岡だの安田猛だの、かなり古いむかしの選手も出たので見た甲斐があったが、なんといってもスターは野村で、すっかり歳を取って、代打で出場というので打席に入るのにも古田と真中に両脇から支えられる有様だったが、バットを構えた一瞬、南海ホークスの4番打者だった往年の打撃フォームが見事に再現されたのに胸を突かれた。むかし読んだ講談本の『笹野権三郎』で、御前試合の相手として80歳を過ぎた宮本武蔵が杖にすがってよぼよぼと出てきたのが、サアと剣を構えた途端、背筋も伸びて見事な構えになったというのがあったっけ。

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随談第620回 三谷かぶき・魁春・サニブラウン

歌舞伎座は昼の部が名作特集、夜の部が「三谷かぶき」。昼の部は吉右衛門の『石切梶原』に仁左衛門の『封印切』という、十八番と見られる大物を二つも並べるという「豪華版」だが、普通なら昼・夜と別々に「目玉」として出すところだろう。吉・仁、二人並べて三谷とつっかうということか?

『石切梶原』はよく出る芝居だからいろんな人のを見てきたが、昭和54年正月(今度改めて筋書の上演記録で確かめた)、折からめきめき役者ぶりを上げていた30歳代の吉右衛門が東京での初役で演じた梶原を、この芝居こんなに面白いものだったか、と目を洗われる思いで見た驚きをいまも鮮明に覚えている。以来、梶原は吉右衛門の極め付きのひとつとなったわけだが、今度改めて見て、そろそろやり尽くしたか、という感もないでもない。先ごろの『熊谷陣屋』では、度重ねてもまだこれまでにない熊谷を見せてくれたという驚きと感銘があったが、『石切梶原』という狂言にはそれほどの奥行はないということでもあるだろう。芸の切っ先が余って少々遊んでいる気味がないでもない。(誤解のないように付け加えると、この場合の「遊び」とは、「手抜き」とか何とか、そういう意味での遊びではなく、器具だとか機器などについていう「遊び」、つまり目いっぱいにしないでわざとゆとりを余しておくような場合に言う、あの「遊び」に近いと思っていただきたい。)歌六の六郎太夫、米吉の梢、又五郎の大庭、歌昇の俣野に錦之助の奴と脇も手揃いで、第一級の舞台であることは間違いない。

『封印切』も、仁左衛門の忠兵衛が、身についた上方和事の味わいと言い芸と言い、(坂田藤十郎がもう二十年も若返ってこない限り)当代随一であることは疑う余地はないのだが、やっぱりこの人は「七百貫目の借財背負うてもびくともせぬ藤屋伊左衛門」といった丈高いセリフがよく似合う人で、八右衛門ごときに焚きつけられて逆上するような阿呆な飛脚屋の養子風情とは、どこかすれ違ってしまうところがある。(『油地獄』の与兵衛? あれは一種の新歌舞伎だから話は別である。)筋書の出演者の弁で自身でも八右衛門の方が好きだと語っている通り、まだ孝夫・扇雀だった仁左衛門の八右衛門と藤十郎の忠兵衛の掛け合いの面白さというものはなかった。(上演記録で見ると昭和58年12月の南座とある。もちろんその後も、いろいろな忠兵衛を相手に何度もやっているが。)忠兵衛は平成元年以来との由、なるほどと頷ける。それから30年経った令和元年の今回、いま一度やっておこうとした意気を買おう。梅川が孝太郎、八右衛門が愛之助でどちらもきちんとしているが、仁左衛門とでは役者が違い過ぎて位負けがするのは是非もない。まあ、そういうことも一因ではあるだろう。

もっとも、お陰でひとついいことを思い出した。上演記録によると昭和58年4月、国立劇場で孝夫の忠兵衛に雀右衛門の梅川、我童のおえんに我當の八右衛門、さらに十三代目仁左衛門の孫右衛門という配役で「封印切」から「新口村」まで出したとき、前夜祭の形で、仁左衛門・雀右衛門・孝夫の三人にNHKの後藤美代子アナウンサーが聞き手で座談会をしたことがあった。事実は十三代目の独演会で、封印を切るやり方だけでもこれだけあります、などと六通りだったか七通りだったか、仕方話でやってくれるのだから面白いのなんの、その蘊蓄の豊かさと話術の妙に文字通り堪能したが、この時の公演が、これだけの顔ぶれで小劇場の公演だったことが、そうだったっけと記憶に甦った。

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令和慶祝第二弾の含みとも見える『寿式三番叟』と『女車引』が冒頭に並ぶが、『女車引』がちょっと味なものだった。魁春の千代、雀右衛門の春、児太郎の八重という配役の取り合わせがよく、この曲の高踏的な趣味と趣向がほのかに伝わってくる。とりわけ魁春の千代の踊りぶりを見ていると、膝の折り方、腰の構えや折り具合、身のくねらせ方から指先を一本一本、付け根から爪の先まで丁寧に伸ばしてゆくような細かなしぐさに至るまで、さながら歌右衛門を見ているようで、なつかしさも懐かしし、何とも面白かった。思えば加賀屋橋之助から中村松江といった若手の頃、この人は歌右衛門をコピーのように真似をするといって、批評家からよくくさされていたものだった。しかし、子供のお習字から始まって、日本の古来の芸事・習い事というのは、偉い先生のお手本をなぞってなぞってなぞり抜くことから始まったのではなかったか。たいがいは、どこかで自分流を入れようとするものだが、この人は、それを律義に「一所懸命」に守り通し、その果てに、ついに我が物としたのだ。いまやそれは「魁春ぶり」として、今日の歌舞伎で珍重すべき「一芸」として昇華されるに至ったと言える。まだまだ元気に動ける今のうちに、私はこの人の政岡や白拍子花子をぜひとも見てみたいと思っている。

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さて三谷かぶきだが、私は事前から、これはわりにうまくいくのではないかという気がしていたが、まあ幸いにして、その予測は外れなかった。私は三谷氏の作をそれほど熱心に見ているわけではないから、むしろ直観だが、この人の歌舞伎に対する姿勢・態度にわりに好感を覚えていた。少なくとも、頭の高さが感じられないのがその理由である。悪乗りをしなければいいが、という心配もないではなかったが、舞台が歌舞伎座だし、幸四郎の後ろには白鸚も控えていることだし、それぐらいの良識はありそうに思えたし、というわけである。

みなもと太郎の原作漫画は読んだことはないが、これも直観で、悪くなさそうな感触を覚えていた。大黒屋光太夫という題材も、これが「昭和の昔」だったら井上靖の小説から脚色して重々しい新作物にしたところだろうが、みなもと太郎→三谷幸喜、と来るところが「令和の今」というものなのだ。この軽いノリ。

アリューシャンの孤島に漂着した光太夫ら17人が、次第次第に帝政ロシアの奥深くへと日本から遠ざからざるを得ない運命の中、幕が開くたびに人数が減ってゆく過程で、17人それぞれについて、猿之助、愛之助から男女蔵だ廣太郎だ種之助だ、宗之助だ松之助だ、さらには千次郎だ幸蔵だ松十郎だと、みなそれぞれに、あゝあの人、と観客に覚えてもらえるだけのキャラと仕どころを与えてもらって、それがうまく生かされているのと、艱難辛苦の果て帰り着けたのは二人だけ、という大筋が一本通っているところが成功の因で、犬橇の犬(あれは『ラマンチャの男』のラバで使った手の借用か)とか竹本を使った愁嘆場等々のお遊びも、サービスの程を弁えて嫌味にならずに収めているのも賢いところ。しかし何といっても、猿之助のエカテリナ女帝に白鸚のポチョムキン公爵、ロシア人姿になった幸四郎の光太夫と三福対揃った見せ場が見事に「歌舞伎」になっていたのが、私が成功と見做す最大の理由である。

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国立劇場の歌舞伎鑑賞教室は壱太郎のお舟に鴈治郎の頓兵衛という『矢口渡』で、聡明な壱太郎らしく、「成駒家」流として大詰めを人形振りで見せるなど、ソツのないまとめ方で、「鑑賞教室」としてお手本のような舞台だった。全体としては猿之助に教わったというが、猿之助は当然、田之助から教わったはずで、もう今ではこの流れのやり方だけになってしまったということか。かつて我童が襲名披露に演じたり、歌右衛門や梅幸だって大家になる前には(といっても戦後である)やっているのだが、どういうやり方だったのだろう? 一度、澤村藤十郎が、頓兵衛を追って、落ちている櫂を拾って花道まで行くというやり方をしたのを見たことがあるが、17代目勘三郎が青年歌舞伎時代にやった時の型らしい。今度の人形振りは、祖父(つまり坂田藤十郎)の映像を参考にしたとの由だが、それ以来の変り型だったことになる。それにしても先の芝翫と雀右衛門という近年での二大女方が二人ともお舟をしなかったのは、何か理由があったのだろうか?

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私の小学生時代は、古橋だの橋爪だのという選手たちが活躍していたさ中だったので水泳の方に目が行ったが、ある頃から、スポーツというものはやはり陸上競技というものが根元にあるのだと感じるところがあって、オリンピックなどでも日本選手の活躍如何に関わらず陸上競技に興味が行く。大相撲やプロ野球とはまた別な面白味がある。今度の日本選手権は、100メートル、200メートルで俄か陸上ファンも含め話題殺到だが、サニブラウン、桐生、小池という順で騒がれるのを見ているうちに、俄然、小池を応援する気になった。こういうのは、どうも性癖であるらしい。それにしても、サニブラウンにせよ、篭球で俄かに大騒ぎされている八村にせよ、アフリカ人を父に日本人を母に持つという選手がこの何年かであれよという間に、各分野に登場したのはどういうわけなのだろう。皆が皆、母親の方が日本人で、その逆は今のところ耳に入ってこないのは、現代の日本人は女性の方がそれだけ「人間力」が強いのだろうか。もうひとつ、インタビューを聞いていると、彼らの言葉遣いも発音も、大方の日本人選手たちよりきちんとしていることに気づく。

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今月目に入った死亡記事にピアニストの宮沢明子、田辺聖子、高島忠夫といった名前があった。特に熱心に聴いたわけではなくとも、宮沢明子などという名前を聞くと、かつてのある一つの季節が甦ってくるような感覚がある。つい先ごろ、深夜にテレビをつけると大野亮子がピアノを弾いていたのでオゝと驚いた。同じような懐かしさだが、こちらはまだ健在と見える。

高島忠夫は、宇津井健と一緒に新東宝の子飼いの新人として久保菜穂子とか日比野恵子とかいった女優となんとなく安手な感じのメロドラマに出ていた時代がまず思い出される。高島、宇津井に次ぐ位置にいた中山昭二が、何と、歌右衛門の影身に沿う如く引き抜きの名手として知られた加賀屋歌江の兄であったと知ったのは、それから随分のちのことであったが。

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こちらはまだ健在であることを知った話。ご覧になった方も多いと思うが、加藤登紀子が美空ひばりを語るというNHKの番組を見ていたら、チャーリー石黒が瀟洒な老紳士になって出てきたのにフームと思わず唸った。こういう、日系二世めいた芸名をつけること自体が時代を強烈に物語っているわけだが、忘れるともなく念頭にから消えて久しい名前だった。当時から芸人の臭みのない人だったが、あか抜けた風情がただの素人にしては、と思わせはするものの、まったく芸人臭のない紳士になっていた。一方、去年の評判に乗って始まった「安らぎの郷」の続編に、つぎつぎとかつての売れっ子がおやおやと思う老人になって登場するのは、まあ、なんというか・・・

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随談第619回 令和最初の愚挙

早くも月末である。畏き辺りの代替わりに倣ったわけではあるまいが、偶々新元号最初の月に巡り合わせた團菊祭は、やがて来る代替わりを睨んだかのようなプログラムである。「令和慶祝」と謳った『鶴寿千歳』と丑之助初舞台の『絵本牛若丸』が夜の部冒頭に並ぶのはお祝いの盃に続けてお祝いのお汁粉が出たようなもので、ま、何も言うことはないが、それにしても『鶴寿千歳』に出る梅枝以下花形四人の役名が「宮中の男」というのは如何にも散文的で、曲がないにも程があろうというもの、新作物のその他大ぜいの役みたいだ。

御大菊五郎が出る額面通りの大歌舞伎は『め組の喧嘩』だけで、その他は、やがて来る歌舞伎界「改元」へ向けた中堅・花形歌舞伎。もっともこれは必ずしも冷評ではない。4狂言それぞれに、規矩を守ってきちんとした好感の持てる舞台であったから、一日見終わって決して不満足は覚えなかった。

海老蔵・松緑・菊之助三人そろい踏みの『勧進帳』と菊之助の踊る『京鹿子娘道成寺』は、ちょうど20年前の1999年に(まだ前世紀だったのだ!)浅草歌舞伎で出して以来の「再現」だそうで、思い出した、海老蔵はこれがきっかけで新橋演舞場に進出、大ブレークということになったのだった。『勧進帳』は、三人それぞれに神妙につとめ、規矩正しく端正に仕上がっているところを採るが、半面(海老蔵の弁慶が「にらみ」を利かせるのが少々過剰なのが気になるのを除けば)、おとなしやかにまとめたという感があるのが、評価の分かれ目になるかもしれない。突兀とした北アルプスより、まろやかな南アルプスか八ヶ岳、いやむしろ若草山か。

『道成寺』についても同じことは言えば言えるが(事実、圧倒的な迫力が不足との評も見かけたが)、しかし私個人としては、これはこれで結構堪能した。そもそも『京鹿子娘道成寺』全曲をこんなにゆったりと楽しんだのは何年ぶりだろう? このところ、『奴道成寺』『男女道成寺』『二人道成寺』などのパロディ版「道成寺」はちょくちょく見るが、同じ曲でありながら、「道行」から「鐘入り」までの全曲を耳と目と、両々相俟ってうっとりと愉しむという快感は『娘道成寺』でなければ味わえない法悦境であり、全曲を一人で踊り抜く『京鹿子娘道成寺』には格別なものある。曲自体が、同じ長唄の名曲とは言っても『勧進帳』のますらをぶりや『鏡獅子』の明治趣味では味わえない、江戸伝来の長唄曲ならではの味と遊びに満ちている。

妄執から蛇(じゃ)と化して男を鐘ごと焼き尽くしたという「道成寺」伝説は、いわば額縁であり、中に納まった「絵」は若い女の恋の模様のさまざまを繰り出して見せる、つまりは長編の「組曲」であり、曲と踊りが渾然とした陶酔感に妙趣がある。かつて歌右衛門と梅幸が好対照の踊り振りを見せてくれたのが、もしかすると、「わが歌舞伎暦」のもっともおいしいところであったかもしれない。歌右衛門のは、「道成寺伝説」の妖気が全編を覆いつくし、くねくねと身をくねらせ、曲げた指の一本一本を伸ばすのにも数秒はかかろうかと思うほどの「執念」を感じさせる迫力に満場圧倒されたものだが、梅幸のは渓流を小舟で下るような快適さが心地よく、まだ一介のアアマチュア批評家だった若き頃、時に歌舞伎に倦むこともあったりしたとき、梅幸の踊る『娘道成寺』を心の救いのように思いながら見た日々があったのを、今も懐かしく思い出す。

今度の菊之助の花子が、それと同様の高みにあったというのではない。しかし、その踊りぶりを見ながら、そんな古い記憶を呼び起こされ、快い陶酔を覚えたのは確かである。向こうからは何も押し付けてこない、癖のない端正な踊りぶり。言葉にしてしまえばそれだけのことなのだが、そんな言葉の陰に、芳醇な銘酒の香りがほのかに漂っていたのも間違いない。願わくば、そのほのかな香りが、やがて、もっと芳醇な酔い心地へと誘ってくれる日を楽しみにすることにしよう。

松緑が、梅枝・萬太郎の十郎五郎、右近・米吉の虎・少将という(ついこの間まで浅草で見たような配役の)『対面』で工藤をする。なるほど、ちゃんと立派に「工藤」である。松緑もこういうポジションに座るような存在になったのであり、おそらく令和の歌舞伎の終わる頃まで、このままの配役で『対面』を見続けることになるかもしれないと思わせる。歌昇の朝比奈も、令和の終わるころにはおそらく「名物」になっているだろう。亀蔵の鬼王がちゃんと袴の股立ちを取った姿であったのも気持ちがよかった。あの人物は、兄弟がまだ幼かった、父の河津の三郎の代からの、忠義な郎党なのだ。(かつて寿海の工藤、一七代勘三郎に二世松緑の十郎五郎、歌右衛門の虎に我童の少将、八代目三津五郎の朝比奈という大顔合わせの時、十三代目仁左衛門が鬼王だったが、まるでいずれかの御家老のようだった。もちろん、そういう時はそれでよろしいのである。)

『対面』で虎をつとめた尾上右近が、『御所五郎蔵』では逢州をつとめる。梅枝の皐月と傾城姿で二枚揃ったところの古典美は、掛け値なしに「21世紀歌舞伎」の奇蹟と呼んで差し支えあるまい。あんな、草履みたいな(失礼!しかしこれは誉め言葉なのです!)長い顔をした女方が二人そろって、しかも傾城姿で並んだところは、三代目左團次と三代目時蔵以来かと思わせる。(そもそも『御所五郎蔵』などという芝居は、そういう美学の上に成り立っているものなのだ。)
 彦三郎の土右衛門は、予期にたがわず、これからはこの人のものと思わせた。何と言っても、あの調子の整ったセリフがいい。そもそも『御所五郎蔵』などという芝居は(と、敢えて繰り返す)、調子の整ったセリフの言える役者が揃って初めて、快く愉しむことができるのであって、そうでなければ、如何に黙阿弥の名文句名セリフといっても、あんなに美辞と麗句が散りばめられただけのものが延々と続くのには、なかなか耐えられるものではない。松也の五郎蔵の熱演は、与えられたこの機会を逃すまい、この期待に応えたいとの思いが伝わってきて感動させたが、それは今回限り、次の機会には、彦三郎の土右衛門と二人、セリフで私たちを酔わせてもらいたい。

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天王洲アイルの寺田倉庫というところで、獅童が『油地獄』をやるという案内があったので見に行った。寺田倉庫は、まあ、何とか探し当てることができたが、入り口がどこにあるのか分からずにまごまごしたために、事前の記者会見と、本番にも5分ほど遅刻をしてしまった。四階の倉庫の中央に張出し舞台を作って、正面奥(どうやらここに竹本がいるらしい)と、客席(椅子を置いただけ)の間の通路から人物が出入りする。まあ比較的似た形態のものに例えるなら、三方から見る能舞台、もしくは高めの土俵を見上げる地方巡業の相撲場というところか。配役は獅童の与兵衛に、壱太郎がお吉と小菊の二役、脇も橘三郎の徳兵衛に上村吉弥のおさわその他、相当なところがつとめるちゃんとしたものだ。荒川良々、赤堀雅秋など、一部に現代劇の俳優も使うが、コクーン歌舞伎などでもそうだがこういう配役にどれだけの意味があるのか、私にはいまだにあまりピンと来ない。がまあ、やっただけのことはあった、というのが第一の感想。原作を忠実に追って、大詰めの捕物まで、物語の全貌を見せようという演出の意図は正解であり、むしろ『油地獄』のような芝居は歌舞伎座などで偉い役者がやるよりこういう方が向いているとも言える。獅童は、ああいう扮装をすると、今更ながら延若によく似ているのが一得、いや二得、三得ぐらいはあるか。壱太郎がよくやって、功労賞をもらっていい。それにしても獅童は、つい二週間前には幕張メッセで初音ミクと共演の狐忠信で大奮闘をしたばかりだが、三年前にあれの初演を見て以来、私は獅童という人に一種畏敬の念(というと大袈裟のようだが、他に適当な言葉が見つからない)を抱くようになった。だってそうではないか。歌舞伎座の何倍もの幾千という人数を収容した会場に、おそらく九割方は歌舞伎座はおろか、浅草歌舞伎の敷居だってまたいだことはあるまいと思われる、学生が主体と思われる若い観衆の前で、初音ミクを相手役に、あんなに獅子粉塵の大奮闘をする歌舞伎俳優が他にいるだろうか? 文字通り、体を張っての舞台だった。あんなことは、よほどの覚悟と決意がなければ出来ることではない。

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一昨年の『仮名手本忠臣蔵』、昨年の『本朝廿四孝』、今年の『妹背山婦女庭訓』と、このところの文楽は、それこそ大河ドラマならぬ「大河文楽」の趣きだが、もはやかつてのような「名人」たちの「芸」を愉しむという時代は過去のものとなり、よく学び・研究した好技芸者たちの務める「作品鑑賞」をする時代となった今、名作全集を読むようなこうしたプログラムを組むのは、時宜にかなった結構なことに違いない。序段から二段目を昼の部、三・四段目を夜の部と、真っ正直に第一章から順に繙いていくような今度のような並べ方だと、どうしたって人気は夜の部に集中することになるが、しかし「芝六住家」「山の段」「道行」「入鹿御殿」と順を追って繰り広げられて行くのを見ていくと、なるほど、とこの壮大な戯曲の世界を眺望することになる。偉大なるかな近松半二、である。私は昔から、同じ近松さんでも門左衛門より半二の方がずーっと好きだが、研究者の方々はさておいて、映画や演劇など他ジャンルに携わる方々が、油屋の女房と滑った転んだする不良青年にばかり目を向けていないで、どうして半二の作に関心を持とうとしないのか、不思議で仕方がない。

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清の盛といってもパッとわかる人は、相撲ファンの中でも少なくとも白鵬時代前期より前から知っている高齢の人に限られるだろう。上位で取っていた記憶はほとんどない。というより、幕の内よりほぼ十両で取っていた力士である。昭和36年の夏場所、後の横綱で協会理事長にまでなった佐田の山が幕内下位で平幕優勝した時、下位だから十両の上位力士との取り組みも何番かあった中で、十両の清の盛との取り組みがあって清の盛の勝ちとなった。初日間もない頃だったので、まさかそのあと佐田の山が勝ち進み、平幕優勝までするとは思っていなかった上に、その清の森も勝ち進んで十両優勝をするという事態となって、某新聞に「清の盛、二階級制覇」という見出しが躍ったという笑い話が生まれた、その主人公となったのが生涯のハイライトという人である。もっとも引退後は、いまを時めく木瀬部屋をまだほんの小部屋だった時代に継承、いわばその中興の祖となったのだから、相撲人生を通してみれば決して凡庸の人ではなかったことになる。昭和36年夏場所と言えば、ちょうど一年前に栃錦が引退して、当分はひとり天下かと思われた初代若乃花が意外にも急速に衰えを見せ始め、と言って、次代を担うのが目前の大鵬と柏戸がまだ若さゆえの脆さを脱却できていなかった、いうなら「代替わり」の端境期だったので、こうした事態もあり得たのだった。世代交代の代替わり、朝の山の平幕優勝と、なにやらイメージが重なるときに逝ったのも、清の盛という人、只の鼠でなかったと見える。

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夏場所といえば、米大統領が千秋楽に相撲観戦という事態を巡るドタバタほど、相撲ファンから見て不愉快なことはなかった。見に来るなら来るで然るべき場所で(貴賓席という、そのための場所がある)、然るべき配慮の上でするべきで(昭和天皇だって平成上皇だって、近年では幕の内の取り組みの前半と後半の間の小休止のとき、かつては幕の内の全取組を土俵入りからご覧になった。取り組み途中に長々と中断させて入場、着席などということは、貴人としての礼節の問題であろう。もちろん、遠つ国の人の不明・不案内ということもあるから、この責任は当然、得々としてこの事態を承知で招いた「かの人」の側にある。もっとも、土俵そっちのけでスマホをかざして大統領を画中に収めようとはしゃぎ立てた観客のさまを見れば、国民も喜んで大歓迎だった、と「かの人」にぬけぬけと自画自賛されても文句は言えないわけか? おかげで我々は「令和最初の愚挙にして暴挙」を見させられる羽目となった。嫌なら見るな? こちらは相撲放送を尋常に見たかっただけである。(それにしても、「あの席」のチケットを苦労して手に入れた人たちは、そこのけそこのけと言われて唯々諾々と払戻金を受け取ったのだろうか? もしその中に「まつろわぬ民」がいたら、どうなっていただろう?)

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もうひとつ相撲のお噂。かの仁が一般社団法人「貴乃花道場」を開設というニュースが、中ぐらいの大きさの記事になった。「やはり参院選に出馬」などという大ニュースにならなかったのは幸いだった。(それほどバカでなかった、ということか?)前にもこの欄に書いたことがあるが、この人が自分の考え通りの「相撲」を組織化しようと思うなら、これしかないと私は前から思っていた。以前、協会内に多数いた支持者が行を共にしてくれたなら、かつての春秋園事件の天竜一派のように、別の相撲協会を作って独立、自分たちの理想とする相撲興行を行うのが一番よかったろうが、残念ながら孤立の道を採ってしまったのだから「道場」ぐらいで辛抱するしかないのは仕方がない。

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今月の訃報。京マチ子、ドリス・デイと華麗な名前が続いた中に、杉葉子の名前があった。『青い山脈』が記事になるのは常識から言ってそうだろうし、私も異論はないが、昭和20年代後半ともし限るなら、あの時代を最も輝かしく体現していたという意味で、杉葉子こそ最も時代を代表する女優と言えるに違いない。それにつけても、彼女が体現していたような「新しい時代の感覚」は、半分は実現して今日に至ったとして、後の、そしてそれこそが独特の輝きを放っていた「もう半分」は、どこへ行ってしまったのだろう?

決して彼女の代表作というわけではないが、逸せぬ珍品がある。昭和28年8月19日封切りの東宝映画、若き日の市川崑監督作品『青春銭形平次・天晴れ一番手柄』である。まだアマチュア目明しでヘマばかりしている青春時代の平次の役が大谷友右衛門、つまりかの名優先代中村雀右衛門の若き日で、わが杉葉子はもちろん、やがて女房になるお静、ガラッパチの八五郎が伊藤雄之助という配役、市川監督らしく冒頭、銀座通りを疾走してくる乗用車がビルに激突、という場面から始まる。どこかの新聞の映画評に、杉葉子のお静は男みたいだ、というのがあったが、いまならハラスメントの対象になるかもしれない。

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随談第618回 最後の「平成最後」

いよいよ、最後の「平成最後」である。新元号「令和」談義は、あれからひと月たった今なお、当初のテレビ・週刊誌からさまざまのレベルまで降りてきて足引きの山鳥の尾のしだり尾のごとく続いているが、「令和」そのものはまあいいとして、発表当日各局を足まめに巡って繰り広げたA氏の談話が鼻について、「品物」の良し悪し(これを「よしあし」でなく「よしわるし」と読む人が出てきたのは、まだ昭和の頃だったが、近ごろは「よしわるし」は耳立たなくなった代わり「よしあし」の方も滅多に耳にしなくなった。平成の民は、何と言っているのだろう?)よりも、セールスマンAの饒舌の押し売りが気に食わねえ、というところに落ち着こうとしているかに見える。それにしてもヘーエと思ったのは、新元号が発表された後、賛否いずれにせよ元号論めいたことを愚図愚図言っていたのは中高年以上の年配者だけで、若い連中はアッケラカンと受け容れているらしいことである。

二月、三月ごろ、「安」の字がつくらしいぞという噂がかなり耳に入ったが、「昭和」改元の折、公表直前に当時の東京日々新聞にスクープされたのを察知して急遽「昭和」に変替えしたという秘話が事実とすれば、今回、「安」の字がつくらしいという噂をばらまいたのは、誰の知恵か知らないが、牽制球としてちょいとした働きをしたことになる。「安」の字のついた元号といえば「安政」だの「慶安」だの、時代劇のネタには事欠かない不穏なのが多いのは面白い。

ところで私は、元号・西暦併用主義者である。昭和が終わったとき、年賀状をそれまで縦書きで日付も「昭和○○年元旦」という風にしていたのを、もうこれで自分が生まれ育ち人となった時代も終わったのだという思いから、日付も西暦、書式も横書きにするように改めて、以来ずっとそれを続けてきたが、今年に限り、横書きはそのままだが、日付だけ「平成31年」と元号にした。「平成」という時代にもまた、自分の生きた日々があり、ひとつの時代があったことに思いを致す気になったからだ。のっぺらぼうに延々と続く西暦の方が計算がしやすいことに基づく長所がいろいろあるのは確かだが、1945年といって世界という視野でものを見、考える長所の一方、昭和20年といって浮かんでくる様々な記憶や思いの曼荼羅模様にも、西暦では言い尽くせないものがある。地球の規模から割り出したメートル法の方が万国共通の長があるのは当然だが、身体や歩幅や、身の回りの実感を尺度にした尺だの寸だの(おそらくフィートだのヤードだのにも)、メートル法には代えがたい居心地の良さがるのも間違いない。いまだに私は、何平方メートルの家と言われるより、何坪の家と聞いた方がイメージがピンと来る。平方メートルはただの数字だが、一坪は畳二畳分という、視覚に直結する皮膚感覚があるからだ。

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平成最後の歌舞伎座は、何と言っても、菊吉競演の『鈴ヶ森』と仁左衛門の実盛が眼福であり、各優それぞれに、これが仕納めとの思いが犇々と伝わってくるのが胸に迫る感があった。前月の盛綱に続く仁左の生締役の良さは、今後もうこれだけのものは見られまいと思わせる。この春は(その前の『名月八幡祭』の船頭三次で玉三郎の美代吉との夫婦役者ぶりを、おまけとして加えて)、仁左衛門三絶と言うべきものを見たことになる。

『実盛物語』ではもうひとり、歌六の瀬尾が又とない傑作だった。前仕手の赤っ面の敵役ぶりはベリベリとあくまで手強くしながら、太郎吉への情愛をじっくりと見せる工夫に考え抜いたものがあって、モドリの演技に類型を抜けたものを示した。近頃とかく、後段のモドリとの整合性を意識してか、前段の赤っ面の演技がヤワになる傾向が見えるのが昨今の歌舞伎の由々しきことだと思っているが、歌六のは、それとは似て非なるものである。これだけの瀬尾を見せた以上、平馬返りをするしないなどさしたることではない。

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私事で恐縮だが、仁左衛門の『実盛』というと実は私にはちょいとした思いがあるので、それは昭和52年の6月、新橋演舞場で仁左衛門が実盛を(東京では)初演した時の劇評を書いて当時の『演劇界』の劇評募集に当選し、翌月号に掲載してもらったのが私にとっての劇評家スタートとなったという、仁左衛門の方はご存じあるまいが私の方は忘れがたい「ご縁」があるからだ。『演劇界』では何年も前から隔年ごとに「俳優論」や「劇評」の募集を続けていて、それをきっかけに名を成すようになったあの人この人は少なくないが、いうならその驥尾に付す一人となれた糸口が、仁左衛門の実盛だったというわけである。

もうひとつ、このときの実盛にはちょっとしたおまけがついていて、当時NHKの人気番組で(日曜のたしか夜の7時半だったか、つまり大河ドラマの前というこの上ないゴールデンアワーだったと思う)、三波伸介が司会をして、各界の有名人の子供を相手に、顔の形は四角か丸か、とか、目は大きいか細いか、とかいろいろ質問してはその場で、誰もが知る有名人である親の似顔を描いてゆく、描き上がったところで、当の父親なり母親なりが登場する、というのが趣向で、それが面白いというので当時なかなかの人気番組だった。で、ちょうどこの頃、孝玉ブームがまだ新鮮で人気の出盛りだった当時片岡孝夫が、小学生でこのとき太郎吉をしていたいまの孝太郎と親子で出演したのだった。実盛の顔を載せた『演劇界』7月号の表紙がアップで画面に出たのを、三波伸介が、ウームと唸ってしばし黙然と眺めていたのを覚えている。とまあ、それだけの話なのだが・・・

          *

ケーシー高峰の訃報を知って、ひとつの小さな記憶が甦った。まだ昭和も昭和、阿佐ヶ谷に住んでいた頃、同じ阿佐ヶ谷の住人として、へーえ、あそこの角を曲がって帰るのか、などという姿を見掛けたこともあるが、一度、駅近くの飲み屋で向こうから声をかけてきたことがあった。同じカウンターの向こう端とこっち端、その距離3メートル、といった位置取りで、ちょっと話し相手が欲しかったのだろう。折から漫才ブームと言われた時期で、「B&B(という人たちがいましたね)にやられちゃったよ」という一言だけを、覚えている。つまり、その日どこかの席で味わった苦い思いが、自宅間近の飲み屋で一杯やるという屈託となって、たまたま同じカウンターにいた見も知らぬ私に声をかけてきたのに違いない。

川久保潔、なんていう名前を、10行にも満たない訃報欄で見つけた。新聞に載ったのは、テレビの吹き替えをもっぱらにする「声優」としての知名度ゆえだろうが、同じ「声優」でも私がなつかしいのは、NHK放送劇団の一員としてラジオの放送劇で聴いていた時代の川久保潔氏である。草創期のテレビドラマを懐かしむ声は折々聞くが、「ラジオドラマ」のことが稀に話題になるとすれば、やれ「君の名は」の放送時間に銭湯の女湯が空っぽになったそうだ、だのといった、ものの本に書いてあることを調べて話題にしているだけでリアリティーの希薄なこと、情けなくて涙も出ないというやつだが、リアルタイムで聴いた人たちの懐かしむ声が滅多に聞こえてこないのは何故だろう? まだNHKの他には、ようやく後発の民放が一局か二局だけしかなく、ほとんど日本中が同じ番組を聴いていた時代、あれだけ皆が熱中して聴いていた「放送劇」のことを語る声が聞こえてこないのは不可解である。当時の視聴者がもう死に絶えてしまったから? まさか・・・

元関脇の黒姫山も平成終了間際に死んだ一人となった。横綱の三重ノ海と二人で淡々と仕切り直しを重ねる情景の古典美は、その風貌と相俟ってまさにニッポンの大相撲であった。三重ノ海の渋みのある端正な風貌に対し、黒姫山の、横から見ると額と顎より鼻の頭の方が低く見える愛嬌が醸し出すユーモア。黒姫山が三役の常連として活躍していた昭和50年頃だったか、真夏のことで林家正蔵が怪談噺をするというので新宿の末広亭に入ると、名前は憶えていないが女の漫才コンビが出てきて歌謡漫才を始めた。おへちゃの方が笑わし役で、男前で売っていた某歌手の真似をする。「そうでしょう、あたし、そっくりだって言われてるんだもん」「ナニよ、あんたがそっくりなのは黒姫山じゃないの」というやりとりで、場内大爆笑となった。つまり、寄席に来る客も、黒姫山そっくり、というだけでわかったのだから、まだまだ良き時代だったわけだ。文楽の一人遣いのツメ人形で腰元だの女中だのというと、黒姫山によく似た人形が出てくる。当節の歌舞伎では並び腰元に出るような女方が美女ぞろいで、少なくとも私が知るようになってから、いまほどこのクラスの女方に美形が揃っている時代はなかった。以前は、この人はどうして女方になったのだろう、と首をかしげたくなるような人もあったものだ。ところがよくしたもので、時が経ち年功を積んでくると、そういう女方がなかなかいい味わいのある役者顔になってくる。なまじな美女より、ずっと「いい女」になってくる、という例を、いくつも見てきた。この頃の大相撲で、なかなか顔がおぼわらない力士が何人もいる。こちらが歳を取ったせいもあるかも知れないが、顔だけでなく相撲振りも、誰も同じような印象だからだ。数年前、国技館の入場口を入ろうとすると、切符の掛かりが昔の黒姫山だった。味のあるいい顔をした年寄りになっていた。それにしても、昔の名力士にチケットをもぎってもらって入場する、などという贅沢ができるのは大相撲だけである。

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随談617回 なにごとも平成最後

何にでもくっつく万能接着剤のような「平成最後」もいよいよ大詰めとあって、昭和の終わりには各界の大物がまるで殉死でもするかのように物故者が相次いだものだったが、今回はご退位とあって、稀勢の里にイチローという斯界の大物が相次いでご退位あそばした。28年というイチローの野球人生は平成年間31年とほぼ同じ長さであり、これ以上平成時代を代表するにふさわしい存在はまず出てこないだろうが、実人生ではまだ45歳という若さなのもまた「平成的」といえる。

野球という競技は、すでに明治・大正という大むかしに、旧制高校や大学の学生という特権的階層に限られていたとはいえ、既に熱狂的な観客を生んでいたわけで、その意味では「文明開化」という古めかしいニュアンスすらをも背負っているわけだが、大衆化してからも、プロ野球はいかにも「昭和」の臭いを芬々とさせていたから、それだけで敬遠する向きが少なからずいたのももっともな面がある。サッカーのJリーグが平成の開始間もなく始まってすぐに、やれドーハの悲劇だ何だと世界の舞台との関わりが、さほどこの競技に馴染みのなかった人々の間でさえ関心事となったのは、いかにも平成新時代のシンボル競技として似つかわしかったからだろう。プロ野球のテレビのナイター中継が、団地の我が家に帰宅してシャワーを浴びステテコ姿で寝転んでビールを飲みながら観戦する亭主族という、まさしく昭和の情景と密接に結びついていたのに対し、カズ三浦に集約されるサッカーのカッコよさは、若い世代だけでなく、ナイター中継に熱中する亭主の姿にうんざりしていた中年主婦層にも支持されて然るべきであったわけで、その意味ではサッカーこそ最も平成的競技であるのは確かだろう。とはいえ、NだHだといった雷(らい)のごとくに耳にした斯界のビッグネームといえども、イチローが米球界に残したほどの足跡は、世界の蹴球界に残していないのは未だ発展途上競技だからで如何ともしがたいのは余儀ないことである。その一方、かつては雲の上のように手の届かないところにあった筈の、金メダルだの世界一だのというものを、昔を想えば「続々と」いろいろな(世間一般にはあまり知られていないような)人物が手にするようになったのも「平成的」であるわけで、それを誰よりもニクイやり方で、しかも長期間にわたって実現したのがイチローだということになる。イチローのような、必ずしも万人に愛されるとは限らないキャラクターの持ち主を、案外にも多くの人々が支持しているのも、日本人の感性がそれだけ「平成的」に成熟したということなのだろうか?(このことについては、もう少し時をかけて見極める必要があるかもしれない。)

Jリーグの始まったのと、野茂が大リーグで活躍を始めたのがほぼ同時期だが、イチローがドラフト4位というあまりパッとしない形でプロの世界に入り、鳴かず飛ばずの一時期を経て、振り子打法という風変わりな打法で一躍、破天荒な活躍で脚光を浴びたのも、ほぼ同時期である。つまりこれらこそ、平成新時代になってはじめて現実となった事象というべきで、前にもこのブログに書いたように、日本人の選手で本当にアメリカへ行った意味があったと言えるのは、今もって、野茂とイチローに如くはないと私は信じているが、トルネード投法に振り子打法という、いかにも自分で編み出したらしいスタイルを看板にしていたのも、昭和らしくないものを察知させた。松井その他の、それに続いた面々にはそうした新奇さはなく、昭和の臭いをまとい続けたまま、身につけた野球技術の水準の高さで米球界でも活躍したというまでで、イチローのような意味での面白さはない。(ひとり、新庄というヘンナヤツがいたが、彼はむしろ日本に帰ってきてからただのネズミではない存在感を感じさせる行動を示した。それにしても、彼は今、どうしているのだろう?)

思わぬ回り道をしてしまった。格別のファンというわけでもないのにイチローのことを書く気になったのは、こんなことをだらだらと言おうとてではなかった。そこで急転直下のサゲで終わりにするなら、イチロー奇人説というのが夙に言われていてそれは最後の記者会見でも縦横に顕われていたようだが、中でも面白かったのは、今後は日本の球界で監督として活躍を、と望む声に対して、自分は人望がないから監督はだめですよ、と答えた一言である。達人は己れを知る。記者たちの問いと、イチローの応える間合いの阿吽の呼吸と言い、汲めども尽きぬ面白い会見ではあった。

        *

前回に書くべきであった分も合わせて、かなりの数の訃報が目に触れた。メモをするのを怠ったせいで、いざといういま思い出せない幾人かも、実はいる。本当は、訃報欄にほんの数行載るだけのそんな人のことをこそ書いておくべきなのだがと悔やまれる。

一言コメント付きで、ザーット名前を挙げることにする。

高橋英夫~私はさほど熱心な読者ではなかったが、小林秀雄にはじまる文芸評論家列伝中でも「一流半」のような位置取りに、興味を抱かせる存在だった。漱石の『三四郎』に「偉大なる暗闇」として出てくる人物のモデルと言われた岩本禎に目をつけるというのも、それだった。亡くなったのは平成最後の年だが、むしろ昭和の人というべきだろう。

佐々木すみ江と織本順吉~佐々木は高校生のころから見ているが、娘役をしたのを見たことがない。終始、中年女を演じ続けた人。二人とも、いかにも戦後の一時期を風靡した「新劇」で身につけた芸で、映画・テレビと戦い抜いたという点で共通する。特に織本は、青年座という、いかにも昭和20年代の「青年」新劇俳優たちの作った「座」で、『真昼の暗黒』を最も典型とするたぐいの映画で、まず世間に知られた。まだ冷房もなく天井に取りつけた大きなプロペラを回すのがせいぜいという、うだるような真夏の映画館で、ジーっと映写機の回る音が暑さを増幅するかのように聞こえてくる中、岡田英次とか木村功とかがスクリーンに写っている。この二人が一座のスターでメロドラマなど娯楽作品にもしばしば買われて出ていたが、織本順吉や内藤武敏はその次ぐらいにいい役にありついていたとはいえ、その存在はぐっと地味になる。ちょうどいいところへテレビというものが出現して活動の場が増えたという例は同世代の新劇人にたくさんあるが、二人とも、そういう中での代表的というか典型的というか、茶の間の知名人として全うできた例だろう。つい先ごろ、老いたる織本順吉の日常を追ったBSの番組を見たばかりだった。映画作家という娘さんだからこそ撮れた、老残の模様をつぶさに追った鬼気迫る作だった。

ドン・ニューカム~ニグロ・リーグからメジャー・リーガーになった「偉大なる黒人選手」の一人。戦後、神様の集団のように思われた大リーグチームの一員として日本にやってきた。ジャッキー・ロビンソンとかロイ・キャンパネラとかと並んで、片仮名で書かれた名前を見るだけで、当時のことが甦ってくる。(片仮名だって、表意文字になり得るのだ。)

森山加代子~昭和34年の8月、我が家でもテレビを買った。四月の皇太子ご成婚の時はまだ我が家にはテレビがなかったから、母は大塚から幡ヶ谷まで電車に乗って、ひと足ふた足先にテレビを買って持っていた親類の家にご成婚の放送を見に行った。4か月遅れで我が家の四畳半の茶の間の一角に鎮座することとなったテレビでは、その年開局したばかりのフジテレビが「遠くて近きは第8チャンネル」というキャッチフレーズを頻繁に流していた。なぜ第8チャンネルが「遠くて近い」のか、イマドキノワカイモンには容易にわかるまい。その第8チャンネルで毎日昼過ぎの5分間、「大人の漫画」というのをやっていた。いかにもチャチな感じが、ああ、これがテレビなんだなと実感させた。クレイジー・キャッツを見た、あれが最初だった。森山加代子が頻繁に画面に映るようになったのは、それから1年ほどしてからだったと思う。テレビ草創期の独特の安手な感覚が、名前を見ただけで甦る。その意味で、どんな大物タレントより彼女の方が時代を雄弁に語っている。

花柳幻舟~新聞でこの4文字を訃報欄に見つけたとき、何故か懐かしく感じた。まだ生きていたんだ、とあれからの後半生を思い遣った。もっとも、まだ78歳というから、それほど遠い昔の人間というわけではない。しかし彼女もまた、昭和の人に違いない。それにしても「幻舟」という名の、いかにふさわしい波乱万丈ぶりであったことか。

吉沢久子~享年101歳という。一度、朝日カルチャーの講師控室で引き合わされて、ほんの短時間、言葉を交わしたことがあったがあのときもう90歳を超えていたわけだ。その明晰な感じは見事なものだった。古谷綱武とか綱正と言っても、知る人はもう少なくなってしまったろうが、はじめは、彼女が古谷綱武夫人であったのが、やがて古谷綱武が吉沢久子のダンナさん、と変わっていった過程に、昭和も年闌けていく在り様が反映されていた。彼女の死は、これらいかにも昭和の文化人ジャーナリストの醸し出していた匂いの残渣をも、一緒に持って行ってしまった。

内田裕也~この人自身のことについては私にはほとんどがここに書くほどの知識がない。私にとっては、小坂一也、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎、尾藤イサオ等々といった名前と共に甦る「あの時代」への記憶がもたらす感傷がすべてと言っていい。この中で一番衝撃的だったのは、一番おとなしやかな、はっきり言えば軟弱な、小坂一也の登場だった。ナンダコリャ、と思った。あそこで昭和20年代が終わって30年代が始まった、そのシンボルとして、小坂一也はもっと語られて然るべきである。マスコミや識者は紋切型のように「もはや戦後ではない」という経済白書の文言を引用するが、小坂一也みたいなあんな歌い方をする歌手は、謡曲や義太夫や長唄清元俗曲から演歌・歌謡曲に至る日本の歌謡史上、一人もいなかったのではあるまいか。彼を追うように次々と出てきた上記の面々の誰より、私にとっては小坂一也のあの軟弱ぶりこそ、衝撃的だったと思う。少なくともあれは(彼等をも含めて)、戦前を引きずらない戦後のはじまりのシンボルとして、もはや戦後ではないことの表徴だったのだ。それぞれの後半生もいい。平尾昌晃があんな「大御所」になろうとも、ミッキー・カーチスがあんな爺さんになろうとも、夢にも思わなかった。小坂一也も、しばらく前に一度テレビで見たが、なかなかダンディーは老紳士になっていた。その意味で、皆さんお見事というべきであろう。内田裕也は、中では一番玄人っぽく、その分私にとっての興味は薄かった。

近藤昭仁の訃報が今日の朝刊に載っていた。横浜ベイスターズになる前の末期の大洋ホエールズの監督をしたり、いくつもの球団でコーチをしたりしたせいで、現役記者にも馴染みがあると見え、相応のスペースを割いて懇篤な記事が書いてあるからそれで十分なようなものだが、昭和30年代の現役時代には、やはり郷愁をそそられるものがある。「昭仁」という名前がすでに「昭和」の子であることを物語っているが、早稲田を出てホエールズに入った新人の頃、テレビの解説者で出ていたかの猛虎軍ミスター・タイガースの藤村冨美男が「コンドウ・テル」と何度も間違い続けていたのを思い出す。「近藤」だけで済まないのは、同じころ明治を出て同じ大洋に入ってきた、奇妙なバッティング・フォームが評判だった近藤和彦と区別するためで、コンドウ・アキとコンドウ・カズ、もしくは身体の大小からチビ近と呼ばれたりもした。その年の日本シリーズに6年連続セ・リーグで最下位だった太洋が出場、それだけでも大番狂わせのところへ、ミサイル打線と言われた強打が売り物のパ・リーグの覇者大毎オリオンズにすべて1点差で4タテを食わせて日本一になり、シリーズわずか3安打のわがコンドウ・アキがMVPとなった。三原監督の采配を「三原魔術」と呼ぶようになったのはこのときからではなかったかと思うが、それよりもその三原監督が、この時の近藤昭仁を評して「超二流」と呼んだのが三原魔術以上の名言で、一流ではないがときに一流以上の価値がある、という意味であったのだが、その真意に気づかぬ世間は、それから「超一流」という言葉を生み出したのだった。まあ、これも便利な言い方だから、私も時には使うが、じつは「超一流」では面白味はゼロであって、「超二流」というところに深い含蓄があるのだ。という、日本語表現にひとつの新造語をもたらす大元となったのが、この人なのですという一席。

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随談第616回 今月の舞台から

今回も、前回と同じ訳合いの遅れの言い訳をする羽目になりました。ともかくも、今月の芝居のお噂で取り敢えずの責めを果たすこととさせていただくことにします。

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まず歌舞伎座。これはもう、何といっても『盛綱陣屋』が必見である。先月の吉右衛門の熊谷と、今月の仁左衛門の盛綱と、丸本物の頂点を示す作が二ヵ月続きで揃ったことになる。この二役、仁・吉互いに交換してもそれぞれにいいものだが、やはり吉の熊谷、仁の盛綱と、絶妙の形で棲み分けが出来ていることになる。白塗りの生締役がぴたりとはまる風姿、挙措の優美さと軽み、品格、といった仁左衛門の外面の美点がそのまま、役の盛綱と、演じる仁左衛門の芸の深まりとに、ものの見事に通い合っている。軽みがそのまま深みに通じている。これでこそ、歌舞伎は見たさまがすべてである、と躊躇なく断言することができる。取り分け終局、時政が帰ったあと女たちを呼び出して小四郎と別れを告げさせるところ、わずかな身の捌きひとつがそのまま、盛綱の胸の内を見る者にたなごころを指すように得心させる。仁左衛門一代の名品というべきである。

また、この種の丸本物の大曲はすべての主立った役に人が揃っていないと、世界がくっきりと浮かび上がってこないが、今度の配役は、その点ほとんど理想的と言っていい。秀太郎微妙、雀右衛門篝火、孝太郎早瀬という女方三人が役にはまっている。歌六の時政と左団次の和田兵衛は、この逆もあり得るが左團次の柄の良さがはまってこの方がいい。勘太郎の小四郎は大あっぱれ、寺嶋真秀(つまり寺嶋しのぶの子の方である)の小三郎も、かなりの長時間、胡坐している間ピクリともしないのは、教えも教えたろうが、本人がよほどしっかりしていないとなかなかあゝは行くものではない。錦之助と猿弥のあばれとチャリの御注進もいいし、錦吾や秀調の渋さも年功だし・・・という中で、種之助はまだしも米吉まで四天王に狩り出されるのは、若い時はこれも修行の内ということだろうが、ちょっと気の毒な気がしないでもない。

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今に始まったことではないが、幸四郎と猿之助を競わせるのが今月の目玉となっていて、われわれ古きを想うものには、60年の昔の昭和30年代、それぞれの名前の先代同士が、早慶戦などともてはやされ何かと好対照と目されていた頃が偲ばれる。あの頃は、団子の方が「お利口坊ちゃん」などと楽屋雀に囁かれるような穏健派の優等生と見られていて、既にハムレットだミュージカルだとバタ臭いことに色気を見せたり何かと世の耳目を引く行動に出る染五郎の方が革新派と見られていたものだったのだ。さて今月の当代同士、目玉は弁天小僧の日替わり競演だが、これは「猿」の方がパリッとして生きがいいだけ、やや先行する。14代目勘弥から猿翁を通じて覚えた行き方という、生意気を鼻の先にぶら下げたようなヤンキーが洒落で女に化けていたずらをしに来た、という、つまり「男」を前面に出しながら、それでいて「娘ぶり」の目が詰んでいるのは、昼の部の『吃又』で白鸚の又平におとくをつとめてなかなかの女房ぶりを見せているように、修業時代若女形と目されていた頃に身につけたものが、こういうところで物を言っている。「幸」の方はすべてに穏当な行き方で、どこと言って悪いわけではないが、弁天だけ取れば「猿」の優勢、もっとも、「幸」は「猿」の弁天に南郷をつき合うという合わせ技でポイントを稼ぐから、めでたく引き分けということにしよう。

 猿・幸競演にはもう一杯、お代わりの『雷船頭』があって、こちらは「幸」の方がすっきりした男前で、この小曲の曲想に合っている。三井不動産の日本橋再開発のCMの「江戸の男」と同じ行き方だが、何という狂言の何という役、でなく、何とはなしに万人のイメージにある「江戸の男」で、こういうことをさせると、「幸」は「猿」に勝ること数等上であり、『雷船頭』のような「イメージの江戸」を描いて見せるのが眼目の小品のツボにうまくはまるのだ。「猿」の方は、藤間紫の型(?)とかいう、女船頭で行くやり方なのはいいとして(せっかくの競演なのだから、別の行き方でやろうという気働きは結構なことだ)、土手のお六ばりの立回りがあったりサービス盛り沢山でその分ちょいと野暮ったくなるのが玉に疵だが、もっともそこが「澤瀉屋流」というもので、現・猿翁が今日の大をなしたのも、何と言われようとその手の「野暮」を押し通した故なのだから、猿之助たるもの、これでいいのだ。この手の踊りは、動かすべからざる振りがあるわけではない、むしろ小ピースであるところが生命で、17代目の勘三郎が、舟の上に落ちて気絶している雷のヘソを取ろうと笑わせたのを思い出す。

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猿之助の『吃又』のおとくのことはさっき言ったが、今度は久しぶりに「序幕」として「高嶋館」をつけ狩野四郎二郎が負傷した自分の血で描いた虎が抜け出すという場面を見せる。こういうことにも、かつて猿翁がしておいた仕事がものをいうわけだが、その四郎二郎を幸四郎がするという、気配りのよさというより、目配りの良さというべきか、これも幸四郎の芸の内と考えるのが至当であろう。なかなかこうはできないものだ。

そのあとが「土佐将監閑居の場」、つまりいつもの『吃又』になるわけだが、この一幕は六代目菊五郎以来の、若き芸術家の苦悩という近代的解釈と緻密な演出が出来上がっているから、こう続けてみると、「高嶋館」の浪漫的な奇跡劇のトーンと水と油の感もある。ま、それはそれとして、今は「高嶋館」の久々の上演を喜び、後事は当代の猿・幸らの今後に託すべきであろう。

白鸚の又平は30年ぶりとやら。へえ、と驚く。師から賜った裃の襟を得意げにしごいて見せる(こういうのもドヤ顔というのだろうか)、この人独特の「愛嬌」を見せる「白鸚ぶり」を、ついこないだ見たばっかりのような気がしていたのだが。

さてこの上に、幸四郎は昼の部の中幕に、何と『傀儡師』を踊る。これはかつては、七代目三津五郎の神品と言われたもので、「踊りの神様」と言われた根拠のような作であり、上演記録を見ればわかるが、代々の三津五郎しか踊っていない。十代目は遂に踊らないままあの世へ行ってしまった。私は七代目は知らず、八代目のを見たのが最初だった。歌舞伎座で、とは言うものの、何とこれが「山本富士子公演」の一幕だった。一年十二ヵ月を歌舞伎で開ける今の歌舞伎しかご存じない方々には信じ難いかもしれないが、当時、というのはこの場合、昭和40年3月のことだが、当時は歌舞伎座で歌舞伎をしない(できない)月が年に何回かあったのである。八代目三津五郎は、師直とか意休といえばこの人に決まっていたように、重鎮として遇されてはいたが、自分の出し物を出す機会はめったに巡ってこなかったから、山本富士子公演などに助演する機会に、中幕で『傀儡師』みたいなハイブラウなものを出したりしたのである。この時は、このほかに、綺堂の『頼豪阿闍梨』などというのもやっているのだが、私はこれは見なかったから、遂に今もって、この狂言は見ずじまいのままだ。山本富士子公演などと馬鹿にして見なかったからで、こうした理由で見損なった逸品、珍品が、じつは幾つもある。思えば残念なことをしたものだ。ところで幸四郎の踊る『傀儡師』は、三津五郎がどうの、といったことはさておけば、中幕舞踊としてこれはこれで悪くない。勘三郎・三津五郎亡き今、こうした形で踊りで一幕出せるのは、今の歌舞伎では貴重な存在である。

今月はこのほかに『女鳴神』という珍品が出ているが、しかしこの芝居、歌右衛門みたいな圧倒的な存在が鳴神尼をするのでなければ面白さが見えてこない。今度の孝太郎は、まずは無難につとめ遂せたというところか。

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国立劇場で菊之助が『関の扉』の関兵衛をする。如何なものかと取り越し苦労をしたが、結構しっかり整っている。まあ、決して尻尾を出すようなへまはやらない人間とはわかっているが、花道からトントントンとのめって行って木戸に額をぶっつけて「アイタッ」となるところなど、体がよく動けるだけ老名優よりきっちりやるだけ面白さもある。とは言え、これが菊之助の役でないことは明らかであり、おそらく、将来ともこの役を持ち役にしようと思っているわけではあるまい。考えられることと言えば、岳父から教われることは何でも教わっておこうということか。もうひとつ、次代に岳父の芸を伝えるためにも、まず自分がしっかり習っておこう、ということもあるかもしれない。

小町姫と墨染は梅枝がやるが、古風でいい、と決まり文句を言って済ませるのは簡単だが、これまではそれでよかったとして、さてもう一段上がって第一線に立つ役者として、何かもう一歩二歩、歩を進めて、売りになるものを見つけたい。宗貞は萬太郎、いろいろな役が回ってくるが、二男坊役者の宿命、で終わらない何かを察知させる。

『御浜御殿』は扇雀の綱豊、歌昇の富森でまず相当以上の舞台ぶりなのはめでたい。大役お喜代に虎之介が取り組んで健闘しているが、素顔に白粉を塗ったような顔をしている。まだ役者としての顔をもっていないからだ。文字通りの第一歩というところ。

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随談第615回 年始代わりに立春大吉

今年最初の随談が2月にずれ込んでしまった。この数か月、毎回同じような言い訳から始めているような気がする。年賀状の代わりに立春の挨拶を下さる方があるが、それに倣って今年は「立春大吉」というご挨拶にさせていただくことにしたい。

こういう仕儀となった理由は、例のごとく月末月初めの約二週間をある原稿の準備執筆のために費やしてしまったからだが、まあその代わりには面白い「発見」に出会ったりもする。百年前の一年分の古雑誌のページを繰っていると、調べる目当ての記事もさることながら、何と言っても面白いのは広告で、デパートはまだことごとく、三越呉服店、白木屋呉服店、松坂屋などは「松坂屋いとう呉服店」だし、資生堂は「福原資生堂」、鳩居堂は「熊谷鳩居堂」である。『熊谷陣屋』の幔幕に染め抜いてある向い鳩の紋章が、伊達でないことがわかる。面白いのは、その「福原資生堂」は別格として、白粉だの白髪染めだの、化粧品や薬の広告主がみな個人商店であることで、大規模な会社組織を備えた企業というものがまだ幾らもなかったことを改めて知ることになる。ナニ、松竹だってこの時点ではまだ「松竹合名会社」なのだ。それにしても、広告の内容までつぶさに見ていくと(そんなことをしているから仕事が長引くのだが、しかしこういうことをして時代の感覚を知っておくことが肝心なのだ)、百年前も今も人間のすることはちっとも変わってないなあ、というのも真実だし、百年前というとまだこんなものか、と感に堪えるのもまた真実、という平凡きわまる感慨を抱くことにもなる。


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今月の歌舞伎は歌舞伎座一軒。くだくだしく述べるまでもない、十三日掲載予定の日経夕刊を見てくださいと言えば済むようなものだが、それではあまりに愛想がないからちらりと案内すると、『名月八幡祭』の玉三郎・仁左衛門の美代吉・三次が、もしかするとご両人のコンビ中これが一番の傑作かという面白さだというのがひとつ(半世紀の余、いろいろな夫婦役や愛人役をやってきたのが、もちろん、下地になっていればこその面白さなわけだが)、『熊谷陣屋』を吉右衛門が、もうあれより先には進みようがあるまいというところまで行っていた感があったのを、もう一度、壮年の熊谷に戻して(つまり若返って)演じることで、またひとつの展望が開けたという面白さがひとつ、さらにもう一つ、辰之助追善として『暗闇の丑松』を菊五郎が気を入れてやっているのが、故人への思いが溢れて感慨深いものがあったこと、この三つを書いておこう。見るこちらもまた、半世紀余のむかし、楽善と三人、丑之助改め菊之助、左近改め辰之助、亀三郎改め薪水と、同時襲名した舞台を思い遣って感慨無量であった。

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新橋演舞場の新派と新喜劇の合同芝居が面白かった。新派と新喜劇の定評ある名作2本をタイトル(敢えて題名とは言わない)を変えて立てているので、はじめ予告の広告を見たときはもっと軽い芝居をするのかと思ったら、どうして、北条秀司の『太夫さん』と館直志の『船場の子守唄』のことだった。(つまりこれをそれぞれ『華の太夫道中』『おばあちゃんの子守唄』と変えたのは、こうしないと客が来ないと考えたからなのだろうか? 『華の太夫道中』は喜美太夫役を藤原紀香がするのが、観客動員の上では今月の肝だろうから、そんなことも絡んでのことなのだろうか? その紀香も、さすがに神妙に且つ懸命に勤めていて印象は悪くない。それにしても、大詰、眼目の花魁道中であの格好をすると何とも顔の小さいこと! まるで十頭身どころか十二頭身ぐらいに見える。)

まあ、それはそれとして、『太夫さん』を十年ぶりに見ながら、こういうのが芝居なのだと改めて思うことになった。さりげない中に濃密な時間が舞台に流れている。何でもないようなセリフひとつ、立ち居ひとつ振舞いひとつに、それぞれの人物たちの思いがあり、暮らしがありその背後に人生がある。こういう芝居を当たり前のように、かつては見ていたのだ。

見ながら北条秀司三傑というのを考えた。『太夫さん』はやはり入るだろう。それから『京舞』と、残る一本はやはり『王将』か。新国劇から出発して男っぽいイメージの作者だが、新派の作が三傑の二本を占めるように、新派に書いたものに名作佳作が一番多いのが面白い。(歌舞伎でも、北条源氏と呼ばれた「源氏物語」の諸作が、近ごろ忘れられたようになっているが、誰かやらないものだろうか。)


         ***

と、ここまででおしまい、のつもりだったが、本来一月中に書くべきだったことで、またと言ってもよい折もなさそうな話題をいくつか、落穂拾いのように拾っておこう。

年が明けてからわがアンテナにかかった訃報の中で、梅原猛や市原悦子は今更だが、天地総子とか栗本尊子などという名前には、それぞれの時代を思い出させる何かがある。市原悦子だって、テレビでああいう風になる前、日生劇場が開場して間もなく俳優座の出演で『ハムレット』を出した時のオフィーリア女優なのだが、あれだけテレビに氾濫した訃を伝える番組の中で、そのことに触れたのはあったのだろうか? つまり、それまでの可憐清楚なお姫様風でない、従来の通念を破ったオフィーリアとして、その当時、演劇界だけでなく一般のレベルまで、かなりの話題を攫ったのだった。まあ、そうした彼女の「仁」の中にある要素が、後年の家政婦シリーズにつながることになるのだが・・・


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一月場所の稀勢の里引退については、いまさら出遅れた幽霊みたいになってしまうから今はよすことにするが、それにつけても思うのは、稀勢の里にあの引退につながる怪我を負わせたのが日馬富士であり、翌日の千秋楽、怪我を押して出場し優勝決定戦を争った相手が照の富士で、その一年前に稀勢の里を抜き去って横綱目前だった照ノ富士が膝を痛めたのが稀勢の里との一番であり(この一番は私も現場を目撃したから忘れがたい)、更に日馬富士の引退の導火線となったのが貴ノ岩であり、その貴ノ岩の断髪式に日馬富士が・・・と、めぐる因果のようにそれからそれとつながって行く。


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NHKの相撲放送の中日はゲストを招くのが恒例で、人によっては面白いが、先場所のゲストの三遊亭好楽は、さすがに年の功で(久しぶりに顔を見たが、当たり前だが齢を取ってもっともらしくなっていたのは同慶の至りである)、ひいき力士に往年の信夫山を挙げていたのは流石だった。おかげで対・東富士戦と対・若乃花戦の映像を見ることができたのは眼福だった。と、そこまではいいのだが、対・若乃花戦の映像に、控え力士として千代の山が映っているのを好楽が、あゝ千代の山がいる、てなことを言うと、アナウンサーが「千代の富士の師匠です」と応じたのは、何たることか。千代の山の愛弟子は北の富士であり、その北の富士の愛弟子が千代の富士であることぐらい知らないはずはないのに、現代の視聴者にもわかりやすいようにと配慮したとすれば、それはそれで、解説者北の富士氏に失礼ではあるまいか?


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それでもうひとつ。例の「ファミリー・ヒストリー」で伊東四朗の先祖調べで、伊豆の伊東の領主というので伊東祐親の名前まで出しておきながら、曽我兄弟のことにはまったく触れないで終ったが、番組担当者は、現代の視聴者に曽我兄弟などと言ったってどうせ興味がない(あるいは、知らない)だろうと思ったのだろうか?


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更にもう一つ。これもNHKだが、「大河ドラマ」という言葉の由来を詮索した中で、当時、つまり昭和三十年代、「大河小説」という言葉がしきりにつかわれていたことに全く触れていなかったのは、アレレ、という感じだった。あの時代、各出版社から各種の「世界文学全集」が競い合って出され、今では信じられないほど売れ(読まれ?)、中でも(これこそまさに時世を物語るものだが)ロシア文学が相当の人気だった。あの長い長いロシア文学の大長編小説の数々、ドストエフスキー、トルストイから、中でも当時しきりに読まれたのが、ショーロホフの『静かなドン』で、上・中・下の三冊本という、まさに大河のごとき大長編だった。そうです、昭和三十八年の『花の生涯』にはじまる「大河ドラマ」は、こうした「大河小説」隆盛の時代のさなかに始まり、誰言うともなく「大河ドラマ」と呼ばれるようになったのです。誰か特定の命名者を突き止めることはできないとしても、「大河小説」のことに全く触れなかったのは、オヤオヤオヤ、であった。

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