隋談第614回 平成最後の歳末に

何事にも「平成最後の」という枕詞がつくこの頃だが、文字通り平成最後の天皇誕生日にあたっての天皇の談話はなかなか印象的だった。戦後日本における象徴天皇の在り様を語る内容と、語る人(すなわち天皇自ら)の語り口とが、あれほどぴったり重なった文体というものはないだろう。まさに形影相添うごとく、あれほど平易な、誰でもが使う言葉だけで成り立っている文章というものはまたとない。その意味で、戦後70年かけて出来上がった口語を主体とした現代日本語の文章の達成ともいえる。あれを、昭和天皇が語ったとしたら!まずそれは考え難い。あの独特の節のついた昭和天皇の語り口は、勅語を朗読するための音調が、いくら平易な言葉で民草へ語り掛けようとしても抜きがたくついて回る文語を根に持つ「天皇語」であって、戦前と戦後の天皇の在り方の、いうなら裂け目の上に立った、昭和天皇以外にはあり得ないものだった。あの語り口では、このほどの天皇の談話の言葉を、その意味するところを、語ることは不可能だろう。天皇誕生日の翌日のNHKテレビで、戦後人間宣言をした昭和天皇の全国巡行の映像が映し出され、行く先々で人々に語り掛ける天皇の声が流れたが、あれと、被災地を訪れた平成の天皇の声と口調の自然さとでは、実に興味深いまでに違いが際立っている。父と子と、二人の天皇の在り方の違いが、まさに端的にそこに顕われていた。今回の天皇の談話は、その意味で、天皇が象徴としての在り方を模索した果てに自ら完成した「新・天皇語」の姿であり、その意味で、現代日本語のひとつの達成ともいえる。

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天皇誕生日の翌日のNHK番組で、少年時代からご成婚の頃までの映像が流れたのが実に面白かった。あゝ、と見ていて思わず声が漏れた映像がいくつもあったが、その中にひとつ、その時の現場を私自身、肉眼で見た光景があった。学習院の中学生のころの映像で、あの学習院独特の詰襟服を着た姿から、ひとつの記憶がよみがえった。後楽園球場のネット裏席から満場の観客に手を振って歓呼に応える姿である。その幾万という満場の観客の一人として、一塁側内野席スタンドに小学生の私もいたのだった。私が現天皇の姿を実際に見たのはこの時と、それから10年余ののち、東京駅のプラットホームでこちらは数メートルの間近に見た夏服姿で、これから高校野球の開会式のために甲子園へ行くのだという声が、どこからともなく耳に入った。もっともこちらは、もう誰もの記憶にある、成人してのちの皇太子時代だから、特別の感慨というものはない。

同じ番組で講和条約発効当時の画像に美空ひばりの「お祭りマンボ」をかぶせたのは、担当者のヒットとほめていいだろう。「お祭りマンボ」を歌うひばりの声は昭和27年4月を象徴する歌声だった。4月28日がサンフランシスコ講和条約発効の日、5月1日が皇居前広場のメーデー事件という、時代の折り目であり、もちろん全くの偶然だがその講和条約発効の日に鷺ノ宮から西巣鴨に引っ越したお向かいの家のラジオから、「お祭りマンボ」の歌声が筒抜けのような音量で聞こえてきたのが、当時小学6年生という子供心に強烈に焼き付いている。

翌年、エリザベス女王戴冠式に出席のため渡英、アメリカまで太平洋を幾日もかけて渡る船旅の模様が、連日一面を飾る記事となった。(あの記事は、おそらく伝書鳩が運んだものだったに違いない。そういえば当時は、鳩を飼っている家をちょいちょい見かけたものだが、今はついぞ見なくなった。)それにしても、見送りの埠頭に吉田茂の姿が映っていたり、英国でのエピソードの人物としてチャーチルが出てきたり役者も揃っているが、戴冠式の現場の映像の、かなり末席と思われる席に座っている皇太子の姿も、往時の記憶を呼び覚ますのに充分である。まだテレビなど一般にはあってなきがごとき時代にもかかわらず、鮮明な記憶となっているのは、新聞に載った写真がが映像となって記憶されているためか、それとも、当時のニュース映画で見た光景の記憶なのか、ともあれ、列席した皇太子の席の序列がいかにも新・女王から遠い、後ろの方だったことを、当時、周囲の大人たちがぼやいていたのも、ついでに思い出した。(つまり、こういうところで敗戦国の悲哀を実感したというわけだった。)

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少しは歌舞伎のことも書いておかなくては。

国立劇場の『増補双級巴』は「壬生村治左衛門内」の復活は、如何なものかと案じたが、まずはしたたけのことはあった。大詰の「五右衛門内」と合わせ、五右衛門の「実像」として一貫させたのは、復活の実を上げたといってよく、国立劇場としてよい仕事をしたといえる。但し、こちらも折角復活した大詰の「五右衛門内」の継子いじめ、「藤ノ森捕物」と出しながら「七条河原釜茹」を出さなかったのは九仞の候を一簣に欠くというもので、釜茹でになりながら我が子を頭上高くさしあげるという、人間五右衛門を物語るエピソードとして五右衛門伝説中でも最も親しまれた場面なのに、もし「残酷」といった批判を恐れてのことだとすれば、世情への忖度の行き過ぎというべきである。

それにつけても、歌六の治左衛門の明き盲ぶりには感服した。俊徳丸でも『朝顔日記』の深雪でも、芝居の盲人役は大概目をつむっているが、治左衛門は目を開けたままだ。歌六の治左衛門は、どう見ても盲人の目であり、それが技巧上のことにとどまらず、この人物の、ひいてはこの場面、さらにひいてはこの物語の通奏低音というべき悲哀の度を深くしていた。日経新聞年末恒例の「本年度ベストスリー」は今回は「趣向」として長老級?から選ぶことにしたために、残念ながら外れてしまったが、せめてここに書いておくことにしよう。

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歌舞伎座の今月は一切、玉三郎の手の内にある。壱太郎に、春の『滝の白糸』に続き『お染の七役』を伝授し、自ら演じる『阿古屋』を梅枝と児太郎にも伝授し加えて三人日替わりで見せ、更には、若い二人が阿古屋を勤める日には自ら、何と岩永を演じ、更にさらに『傾城雪吉原』なる「新作歌舞伎舞踊」(と、わざわざ勘亭流で添書きまでつけている)を見せ、梅枝・児太郎には『二人藤娘』を躍らせるという、サービスぶりというか何という・・・。(こういう時こそ、往年の野球解説の「小西節」なら、何と申しましょうか、というところだ。)

でさて、梅枝の曽祖父三代目時蔵ばりの古風、元ラグビー部(なそうな)で培った根性が傾城の意気地に通じる児太郎の気魂と、それぞれに長所を見せてファンを安堵させたのは重畳であったが、さて問題の玉三郎演じる岩永こそ、まさに「何と申しましょうか」というより言葉が浮かばない。見終わった後、二階のトイレでたまたま連れション状態となった某大先達に、「ねえねえ、いまの岩永、本当に玉三郎だった?」と訊かれたが、まあ、そりゃそうでしょうねえ、と返事をしたものの、質問のココロはよくわかった。文楽のやり方をよく調べ(吉田玉男に教わったと聞いたが)た上での工夫はよくわかるが、まさに凝っては思案に能わず、あそこまでシガを隠すと同時に玉三郎自身の個性まで隠してしまっては、あれが本当に玉三郎だったとはいまもって狐につままれた状態のままなのは、如何とも仕様がない。

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昼の部の第一に松也と中車で『幸助餅』が出て、中車が相撲取りになるが、せりふの上手いのはたいしたものだが、いかにも関取ぶりに歌舞伎の相撲らしい色気がない。こういう、相撲取りなら相撲取り、奴なら奴、といった役柄としての「紋切型」が身に添わないというのは、もうそろそろ、中車たるもの心しなければならない時期なのではあるまいか。香川照之との二刀流は、これからもずっと続けるのだろうか?

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まあともあれ、これが「平成最後」の年の暮。どうぞ良い年をお迎えください。