随談第604回 東京の雪

20センチも積もる「大雪」が降ると大騒ぎになるのは東京という町の常だが、子供のころまで振り返ると、東京の基準でいう「大雪」というのは、四、五年を周期にあったような気がする。学校に行っても(たぶん先生たちが揃わなかったのだろう)授業がなかなか始まらない。達磨ストーブ(というのが当時の暖房の代表だった)を囲んで、普段あまり喋ったりする機会のない他クラスの友だちとも話に花が咲くのはみんな気持ちが高ぶっているからで、結局授業もろくにないままに終わって儲かったり、大雪とか台風襲来というのは、日常の歯車を束の間チャラにしてくれるという意味で、ちょいと悪くないものだった。小学生の時に高円寺の駅をラッセル車が通るのを見た、なんてのは、今なお、いい思い出となっている。

東京の雪降りで一番多いのは、そろそろ冬型の気象が緩んできて春近しを感じさせるような二月の末か、さらに春めいてくる三月ごろで、たいがい、昼頃から降り出した雨が夕暮れごろ雪に変わり、翌朝、雨戸をあけてアッと驚くというケースで、直侍が三千歳を訪ねて行く情景を語る、 …冴え返る春の寒さに降る雨も暮れて何時しか雪となり、上野の鐘のも凍る、細き流れの幾曲がり、末は田川へ入谷村…という清元の文句が、江戸東京の雪降りの模様を活写して余すところない。黙阿弥の自然観察眼の確かさを示す好例で、気象庁の担当官に教えてやりたくなる。「細き流れの幾曲がり」というのは、入谷あたりの田圃の中を流れる小流れで、おそらく今は、かつての田圃が化けた住宅地を縫うように走る小路の下に暗渠となっているに違いない。こうした光景は入谷と限らず、板橋・練馬・杉並・世田谷などという、二十三区の外縁を成す、元々近郷の農村地帯だった地域はみな似たようなものだ。(杉並区に住んで、マイカーに練馬ナンバーを付けるのはダサいから嫌だ、などというのは、目くそが鼻くそを嗤うたぐいと知るべきである。)

今度みたいに寒中に大雪の降るケースももちろんあるが、最近めったになくなったのは、まだ旧年中、暮れの内にさらりと降る小雪で、私の子供のころは毎年一度や二度、かならず降ったような気がする。たいして積もったりはしない。氷も張った。霜柱も立った。子供は手に霜焼けをつくった。鼻の下に二本、洟を垂らしている子供が必ずいた。十二月になると子供は足袋をはいた。下足がズックの、いわゆる運動靴であろうと下駄であろうと、はくのは靴下よりも足袋だった。十二月というのは、もうそれぐらい寒かったのだ。と、こんなことをつい思い出すのも、たまの雪降りは東京に生まれ育った者にとって、ささやかな非日常の訪れとして心の中に染み入ってくるものがあるからだ。

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さて今月の各座の噂だが、歌舞伎座の高麗屋三代の襲名はいよいよ着々と運んで、変化といえば引幕が草間彌生の極彩色のに変わってアッと言わせることを除けば、取り分けて新たに付け加えることはあまりない。披露に関わる演目が夜の部に集中して昼の部は新幸四郎の大蔵卿だけかと思うと、昼に吉右衛門が出している『井伊大老』は夜の『七段目』と共に37年前の先の白鸚の披露演目であり、且つ最後の舞台でもあったわけで、いわば隠し味になっている。白鸚の由良之助と染五郎の力弥という配役も、37年前の、それぞれ一代下っての再現という趣向で、古きを知る者には二つの光景がダブって見えることになる。もっとも、37年前の先代白鸚はこの時もうかなり弱っていたから、歌右衛門のおかるに松緑の平右衛門と揃うと巨大な落日を見るような感があった。新しい白鸚は、それに比べると、まだラ・マンチャの一回や二回やってのけそうな元気さで、めでたい限りである。

如何かと思った新幸四郎の熊谷が揚幕に消えたとたんに拍手が巻き起こったのがオッという感じだった。よくやったという意味と、共感という意味と、ふたつながらのように私には受け取れた。こまかな仕草に至るまでよく研究していて、それを一つの流れの中によく収めてある。熊谷の英雄としての骨の太さ、大きさといったものを、ともかくも役の中に収め遂せたという意味では、先月の弁慶や松王丸とひとつである。しかし、丸本時代物のぼてっという量感はあまりないのは是非もない、か・・・

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二ヶ月目とあって『芝居前』が出て、「町年寄」という役で我當が出ているのにアッと思った。この前この人を見たのもやはりこうした一幕でのことだった。正直、我當の顔を見られるとは思っていなかった。まだ秀公といった昔の、カチッとした若手俳優ぶりが思い出される。十一代目團十郎の河内山宗俊が出たのは七代目幸四郎十七回忌追善で高麗屋三兄弟が顔を揃えた時だったが、秀公が数馬をしていたのが記憶に鮮明である。若輩ながら殿様をいさめる硬骨漢の若侍という役が我當自身と重なって、あれは我當若き日の傑作であった。それから今に至るまで、これほど印象の一貫している人も珍しい。

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新橋演舞場で12日間、大阪松竹座で8日間、合わせて20日という、こうした公演の打ち方を近頃よく見かけるようになった。一か月25日公演というのはもともと戦後の歌舞伎が定着させたいわば標準タイプだが、永らく不動だったこうした体制もいよいよ限界がきているようだ。『喜劇有頂天一座』の原作『女剣劇朝霧一座』が新派の演目として初演された昭和34年当時は、歌舞伎の他に新派と新国劇がほぼ毎月、演舞場や明治座で公演をしていたのだからまさに隔世の感とはこのことだ。

その『女剣劇朝霧一座』は、新派が歌舞伎と同じように昼の部・夜の部の二部制で昼夜別メニューで何本もの演目を並べていた最後に、肩の凝らない「追い出し」用の演目として出したもので、作は北条秀司、演じるは初代水谷八重子に市川翠扇という、いまから見れば超豪華版だった。これを、渡辺えり、キムラ緑子という顔ぶれでタイトルも変え演出も新規にやろうというのは、だから再演ではなく、北条秀司原作より、と見るのが実態だろう。客席はほとんど中高年ながら上々の入り、受けもよい。その限りでは成功に違いない。

今更、昔はどうのといっても始まらない。こうした形でなりと旧作に埃を払う機会があったのを喜ぶべきであろう。(歌舞伎の復活上演というのも、実はこれに近い場合もあるに違いない。)が、それにしても、最後のああいう取ってつけたようなフィナーレというのは本当に必要なのだろうか。

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シアタークリエで『FUN HOME』を見た翌日、日生劇場で『ブロードウェイと銃弾』という、マフィアが芝居の金主となるという1920年代を舞台にしたミュージカルを見た。圧倒的に後者の方が面白い。前者は、今どきの日本の脚本なら3時間はかかるだろうところを1時間40分で仕上げてあるなど、なるほどトニー賞を取ったというだけあって筋の捌き方がシャ-プだし、ゲイの父親にレズの娘といういかにも現代的な家族の問題をストレートに、スマートに扱っていて、現代の進歩的でものわかりのよいインテリ層の共感を得るだろう。(ふと思ったのは、こういう芝居の劇評をトランプ大統領に書かせてみたら面白かろうということだった。)面白かったのは吉原光夫演じる父親役で、インテリで自分ではものわかりがいいつもりだが、じつは自分の価値観や嗜好にこだわる専制君主、という、いかにもアメリカの父親像の原風景をよく見せている。風貌といいホントのアメリカ人みたいに見えるのも秀逸だ。

『ブロードウェイと銃弾』の方は、マジメな演劇青年の書いた台本をマフィアの子分が手直しすると俄然面白い脚本に仕上がるという皮肉の中に、演劇論が忍ばせてあるところがミソで、ウッディ・アレンのアイデアが卓抜で、スーザン・ストローマンの振り付けもいいし、なるほど出来のいいブロードウェイ・ミュージカルの面白さというものを偲ばせる。こういうのを見ると、当節のわが日本の小劇場出身の作者諸氏がいかにもマジメで小さな理屈に凝り固まっているかが改めて思われる。ここでも、チーチというマフィアの子分役の城田優が圧倒的にいい。

ところで、この『ブロードウェイと銃弾』というタイトルの原題はBULLETS OVER BROADWAYというのだが、誰が訳したってこう訳すより仕方がないとはいえ、原題と翻訳のこの隙間というものは如何ともし難い。翻訳文化ニッポンということを改めて思いながら見ることとなった。

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こうしたメジャーの公演の陰でひっそりと、深川江戸資料館小劇場で東宝現代劇75人の会の公演があった。(資料館の一隅に横綱大鵬の展示コーナーが常設されている。大鵬部屋はこの近所だったのだ。そういうことがいかにも自然な光景となっている。) かつて日比谷に芸術座を作るにあたって、菊田一夫が、劇団員として新人俳優を公募、芸術座を中心に東宝制作の舞台を支える人材を養成した。実践主義で鍛えられた彼らの実力は定評のある所で、かの『放浪記』も『がしんたれ』も『たぬき』も、染五郎時代の若き日の白鸚が喝采を浴びた『蒼き狼』も、この人たちの支えがあってのものだったのだ。その彼らも、芸術座の閉鎖と共に姿を見なくなった。東宝現代劇75人の会とは、その人々で結成したもので、しばらくは東京芸術劇場などで菊田一夫の作品を上演していたが、近年は、上記の深川資料館内にある小劇場で公演を続けている。第31回公演の今回は、第一期生で会の重鎮でもある横澤祐一作の深川シリーズ5作目で、昭和30年ごろを背景に永代橋のほとりで開業していた旅館を舞台にした下町ドラマ。内容もだが、何よりつくづく感じるのは、彼らのセリフの明確さだ。一語一語の明晰さ、その意味するところ、暗示するところ、その情感、すべてが明確であり、そうしたセリフのやり取りで劇が進行する。妙なところで踊り出したり、意味もないギャグを飛ばしたりもしない。それまでの芝居をみずから、ナーンチャーッテ、とチャラにしてしまうようなフィナーレをつけたりしない。かつては当たり前だったこうしたことが、こういう舞台を見ていると、いまやいかに貴重かということを改めて知らされる。最前ふれた『喜劇有頂天一座』にしても、肝心なところを支えているのは、じつは青柳喜伊子、伊藤みどりをはじめとする劇団新派の女優達である。プロフェッショナルという言葉が各方面で飛び交う昨今だが、じつは、そんな言葉を皆が知らなかったかつての方が、こと演劇に関する限り、本当にプロフェッショナルの俳優たちが当たり前のように存在していたのではなかったか。75人で始めた会も、いまや20数名という。

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その東宝現代劇75人の会の主軸のメンバーだった内山恵司と青木玲子が昨年、亡くなっていたことをこのブログに書き洩らしていたことが今になって悔やまれる。新聞の訃報欄には気を付けているつもりだが、見落としもあるし、知ってはいてもブログを書くタイミングで書き落してしまったり、ということが実はちょいちょいあるのだ。青木玲子は、『放浪記』で芙美子の原稿を預かる先輩の女流作家の役をつとめていた女優、と言えば、あゝと思い当る人も多いだろう。出てきただけで、いかにも昭和初期という時代の空気を漂わせていた。名優といってよかった。内山は、つとめた舞台だけでなく、おそらくこの会の支柱であったと思われる。

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訃報欄といえば、上月佐知子、川地民夫などという昭和30年代を思い出せる名前を相次いで見つけたが、上月は本業の女優としてより、昭和36~7年ごろ、TBSだったと思うが、かなり長期にわたって昭和10年代の時代史を往時の映像をふんだんに使って見せて行く番組で、私は毎週欠かさずに見ていたから、司会の古谷剛正のアシスタントをつとめていたのをよく覚えている。硬派の、なかなかいい番組だったが、上月のアシスタントぶりも知的で悪くなかった。
川地民夫は、後々まで活躍していたのは知らないではないが、私にとっては初期の裕次郎映画にちょいとした役どころとしてお坊ちゃん役で、その死を知って懐かしいと思わせるだけの、ある種悪くない匂いをもっていた。

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文楽の豊竹始太夫の急死はそうした訃報とは別種の、一つの事件としての驚きだった。聞いた話では、今月の公演の稽古に遅刻気味に駆けつけてきてそのまま倒れたとかいうことだが、床に座った姿は、文楽界の高安とでもいった風な一風ある風貌が異彩を放っていた。

その文楽は、八代目綱太夫五十回忌追善というので、咲太夫の口上があった。このところ、一種の怪物君といった風情だった若いころと比べるとちょっと心配になるくらいめっきり細くなった咲太夫だが、口上の席に座ったところを見ると、後ろに飾られた亡父綱大夫の遺影とびっくりするほど瓜二つの相貌となっている。咲甫太夫に織大夫を継がせるという。自身は終生咲太夫で通すのだろうか。さすがに、その二人で前後を語る『合邦』は久しぶりに時代物の大曲を聴いたと思わせるものであったのは、何よりめでたい。

ところで私は山城少掾は知らず、綱太夫は聴いているがその真髄を理解していたとは言い難い。すべてにまろやかに円満具足したかのような芸で、つけ入る隙がないような気がして、当時はむしろ若太夫の方に惹かれていた。亡くなったのが六十五歳だったと今度知って驚いたが、その三回忌だったかの追善に、咲太夫が、のちに九代目を継ぎ更に源太夫となった、当時の織太夫と二人で『熊谷陣屋』を前後に分けて語ったのが記憶に強く残っている。咲太夫は当時まだ二十代だったわけで、今考えても信じがたい立派な語りだった。

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三部制の真ん中に襲名の二人を据え、『心中宵庚申』を第一部、『油地獄』を第三部に置いたのは、「上田村」と「油店」が八代目ゆかりの曲という構成も、そうと知れば味な立て方と言えるが、どちらも上方の町人社会のせせこましい義理づくの話だから、辛気臭い話にサンドイッチにされた気味もある。(もっとも、そんなことを言っていたら近松物などやっていられなくなるのも事実だが、「油店」は呂太夫がさすが年の功を示す巧演だった。)

「上田村」といえば、昭和40年9月の歌舞伎座で見た延若の半兵衛が忘れ難い。何も知らず旅の途次、女房の実家に立ち寄ったという風情が、いかにも半兵衛という人物を印象付けたが、いま思えば、延若という人の役者人生も、半兵衛を地で行ったようなものだったような気もしてくる。(誰があの婆アか、などという詮索は抜きにしてだ。)ともあれあの半兵衛を見ておいたお陰で、この七面倒くさい芝居に好印象を持つことになったといっても過言ではない。この時は歌右衛門が姉のおかるに回って、芝翫(まだこの時は福助だったが)が千代、八世三津五郎の平右衛門という大顔合わせだったが、「八百屋」になって中村霞仙の婆の巧いこと! 先月の『躄の仇討』の早蕨と、二か月続けてこの上方の老巧な役者を思い出させる出し物を、歌舞伎と文楽で見たのも何かの奇縁か。