随談第602回 歳末あらかると

このところ月一回の更新で、何だか月刊誌みたいになってしまったが、今回も種々の原稿締め切り日が次々と立ち現れて、あっという間に歳末となってしまった。月-1と決めてしまったわけではないが、年内はこれでご勘弁を願いたい。

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12月の歌舞伎座がこの分だと例年3部制が恒例になりそうな感じになってきて、一部・二部・三部のどれをどういうお客に向けたメニューにしようか、手探りしている感じだ。確か去年は第一部が『あらしの夜に』だったと思うが、今度は『布引滝』と『土蜘』と名作全集の一冊みたいな献立で、二部が『らくだ』と『蘭平物狂』というのは、落語種と大立ち回りのスペクタクルのセットで初心者にもとっつきやすいものを、というつもりだろう。第三部に至って玉三郎が登場して女子大学教授といった風情で中車クンを相手に教導よろしきところを見せる。成否は別として、それなりに工夫がされていることは察しられる。

仮にそうだとすると、第一部は『実盛物語』は丸本物の作劇テクニック用例集の模範のような作で、もし私が国文学科の作品研究の授業でも持つことになったら毎年この作をテキストに選ぶだろう。歌舞伎とはいかなるものかを知る上で、これに勝る教材はない。今回は(新聞評にも書いた通り)おそらくは仁左衛門のコーチもよろしく愛之助の持てる良きものを引き出して上々の首尾。妙なミュージカルまがいのことをしたり、生煮えの『月形半平太』を見せたり、期待を裏切ることが続いた愛之助がシーズン末になってようやく放った快打一番というところ。『土蜘』も能取り物の見本のような作で松緑にも向いているし、というわけで第一部は出来はまずは上の部。ところが客席は、ハテ?、と目を?くほどに空席が目立った。

第二部。『らくだ』は屑屋の久六の中車が熱演のせいもあって愛之助の熊五郎より強そうに見えかねないから、この話の土台のピントがずれている。片岡亀蔵(5月に坂東亀蔵が新規誕生し、今月はついに二人亀蔵の鉢合わせということになった。襲名という各家の大事にとやかくいうつもりはないが、みすみすこういう事態も予測される中、何とかならなかったものか)のらくだの馬の怪名演?があっても、挽回はむずかしい。

『蘭平』は、見せ場の大立ち回りは全編90分強の内せいぜい20分もない。そこまでの70分を持たせるのは至難の業だ。後段の立ち回りも松緑の蘭平がわが子への情愛の表現に力を入れる反動で、色奴の闊達さを減殺してしまうからせっかくのタテが生気凛凛とはいかない。役の性根も大事だが、それも色奴という役柄を踏まえた上でのことであって、松緑に限らず、近頃、こういう穿き違いが多くないか? 『布引滝』で片岡亀蔵の瀬尾が、決して悪い出来ではないが、何故か前段がヤワで人がよさそうに消える。筋書きの出演者の弁を読むと、前半と後半で統一感のある役として見せたいと言っている。ハハア、これだな、と思った。あの憎々しい爺がこんなにいいヒトだったんだ、と見物をびっくりさせるのがモドリというものではなかったろうか?

第3部。『瞼の母』はよかった。歌舞伎俳優中車として記念すべき初本塁打である。夏の『刺青奇偶』もよかったが、こちらは、過去の歴々たる諸優の番場の忠太郎の中に混じっても立派に伍していける。なるほど『瞼の母』とはこういう芝居だったか、と思わせさえするのだから立派なものである。もっともこれには、玉三郎の教導よろしきも大いに物を言っているかと思われる。またその水熊の女将もよかった。忠太郎の顔を見てすぐ、我が子だと気づく。その解釈も、その表現も、ともに水際立っている。こういうところに「名女方玉三郎」の真骨頂があるのだろう。『楊貴妃』。これも玉三郎美学の結晶。玉三郎がすれば、これも歌舞伎、である。まさに「異能の人」である。

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国立劇場は吉右衛門が「家の芸」として『梅の由兵衛』に取り組むが、並木五瓶の作というものは、言うは易いが実際にやる側としてはなかなか難しいに違いない。批評家好み、学者好みと言ってしまえば身も蓋もないが、小山内薫だ池田大伍だといった昔から、これからの時代に歌舞伎が可能性を持ちうる作者として、南北と共に喧伝された。南北はその波に乗って、大正の第一期、戦後の第二期を経て今日もなお持て囃されているが、五瓶の作が実際の上演で成果を挙げた例は多いとは言えない。と、一方にそうした流れがあり、また一方に、初代吉右衛門の梅の由兵衛という現実の舞台での当たり役があって、播磨屋の家の芸とされてきた。こちらは、五瓶がどうのというより、大歌舞伎より中芝居小芝居で演じ継がれてきた流れの上に立つものであったと想像される。つまり、大播磨が当たり役としたから、戦前の大歌舞伎で播磨屋の芸を見るための演目として繰り返し演じられ、戦後間もなくまでそれは続いたのだったのだろう。

今度の吉右衛門による復活は、家の芸の再生継承がおそらく主眼だろう。が、それだけに、昭和23年から70年が経ってしまった今となっては生ける手掛かりはおそらく豊富とは言えないに違いない。「苦心は察するに余りある」と新聞に書いたのは、そこら辺りを思ってのことだった。つくづく思ったのは、こういう狂言の場合、仁と柄にはまるかどうかが勝負だということで、一に菊之助、二に錦之助がいいのはそれ故で、一方、又五郎の苦心の演技も報われにくいのは同情に値する、ということになる。そうなると今更ながら、東蔵や歌六の存在感というものがものをいうわけで、彼らが出てくればちゃんと大人の芝居になるのだから、論者が何と言おうと、結局、芝居というものは鍛え込んだ役者の腕なのだ、という当たり前のことを改めて思うことになる。

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新橋演舞場の舟木一夫公演で「忠臣蔵」を昼夜通しという、相当の意気込みが感じられる舞台を見せている。映画や舞台で昭和の初期から演じ継がれてきた「時代劇」というジャンルと、それが培い、伝承してきた芝居作りのメソッドは、新国劇などともに、歌舞伎の周辺演劇・芸能としての観点からも私などには大いに興味深いものがあるが、次第に南風競わなくなりつつある中で、総員とは言うまいが、時代劇の演技の骨法を体得していると思われる俳優を、能うる限りといってもいいほど集めている中でも、林与一の吉良上野介が出色であった。ちょいとした立ち居、物腰、あれは誰にでもマネできるという訳にはいかない。つまり、歌舞伎が隠し味になっているのだ。

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間奏曲風に、アンテナに引っかかった訃報を一、二。海老一染之助、皆さんおっしゃる通り。いい芸人だった。それにしても、染太郎が頭脳労働で染之助が肉体労働というマルクスもびっくりというギャグは、いかにも二人が売り出した昭和20年代を哀しいまでに反映していた。社会党が自由党や民主党と五分に渡り合い、存立していた時代なればこそ、思いついたギャグである。

野村佐知代女史、はじめはさほどでもなかったのが、齢を重ねるにつれご夫婦瓜二つになってゆくサマは絶妙という他はない。他人が何と言おうと、よき夫婦であったに違いない。まさに蓼食う虫、か。

これは訃報とは別。ただ久しく聞かなかった名前を新聞で見つけて、ちょっぴり時が甦った。蛸島彰子氏引退の報である。女性棋士第一号として、テレビ対局で時間係をしていた制服姿のマジメな女学生の面影が甦る。加藤一二三氏が白面の貴公子だった時代と記憶がダブる。

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日馬富士の暴行事件に始まる相撲界の騒動の、とりわけテレビの報道を見ていると、良くも悪くも、いかにもテレビだなあと思わざるを得ない。それが事を引っ掻き回すことにもなり、意外に嗅覚の確かさを示すことにもなり、テレビ文化人衆が蜂の巣をつつき回る模様が日ごとに変転する。

それにしても、貴乃花の憑物でもしたような異様としか言いようのない目つき顔つき態度を連日見せられていると、終戦間もなくに世人を驚かせた「あのこと」を思い出さずにはいられない。あの大横綱双葉山が、璽光尊と称して勢力を張っていた生き神様の信者になって、たしか金沢にあった本拠に警察の手入れがあって逮捕されるという記事が新聞に載ったのを、事件当時、私はまだ小学校に上がる前だったがかなり鮮明に覚えている。引退直後の双葉山と、こちらはまだ現役バリバリだった天才棋士の呉清源という、相撲と囲碁とそれぞれの世界で別格的存在だった二人が、得体のしれない(としか常人には思われない)生き神様の信者になったのだから、踊る宗教だの、南朝正統の末裔と称する熊沢天皇だの、同じころ世を騒がせていた奇態な人物や事件の中でもひと際、世人の耳目を惹いたのだった。(例に引いて申し訳ないが、いまでいえば、白鵬と将棋の羽生永世七冠の二人がそろって、得体の知れない生き神様に引っかかったようなものと思えば判りが早い。)何でも、群がる警官たちを取っては投げする双葉山に、柔道五段という警部が背後から膝にタックルして大殊勲を挙げたのだと、これは大人たちが新聞記事を読んで話しているのを耳にしたのだった。(私は残念ながら、双葉山の現役の姿を、見ている筈なのだが幼時の悲しさ、覚えていない。昭和20年3月の大空襲で前の両国国技館が焼けたために(この時、両国橋の雑踏の中で、松浦潟と豊島という二人の幕内力士が焼死している。松浦潟はクリスチャンだったというがおそらく隠れキリシタンの末裔であろう)、五月場所は後楽園球場で7日間興行で行われ、それを親に連れられて見に行ったことは知っているのだが、悲しいかな茫漠とした情景の断片の記憶しか残っていないのだ。)

双葉山は、宗教心というか、悟道というか、「道」ということに熱心であったようだし、昭和10年代という一種特別な時代に第一人者として生きた人だし、それが敗戦とほぼ同時に現役を引くという巡り合わせもあり、それやこれやが絡み合ってのことだったのだろうが、とかく「××道」だの「××精神」だの「××愛」だのというものはひとつ踏み違えるとおかしなことになってしまうのは、人間存在そのものの哀しさという他はない。貴乃花も、相撲道(夫子自身は「角道」と言っているようだが)や「国体」とやらに熱心なようだが、どうぞ踏み誤らないように願うばかりだ。伝え聞く限りでは、角界改革のためにいい考えも持っているようだが、「国体」というのはもちろん「国民体育大会」のことではあるまいから、まさか、「国体護持」なんていう「国体」ではありますまいね。ともかく、その辺のことがよくわからない内は支持も賛同も出来かねる。

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それにしても、とつくづく思わないわけにいかない。初代若乃花のあの豪放磊落ぶりから、同じ血縁の一族ながら随分かけ離れたところまできてしまったものだ、と。年代から言うと祖父と孫のようだが、当代の父親の先代貴乃花は、初代若乃花の親子ほど齢の離れた弟だから、実は伯父甥の間柄ということになるのだが(初代若乃花の全盛時代に、たしか若緑という四股名だったっけ、三段目ぐらいまで取った実弟がいたはずだが、貴乃花の先代はそのまた弟ということになるわけだ)、あのころ私は栃錦の方を応援していたが、初代若乃花も素晴らしかった。昭和28年の初秋、当時私はJR、じゃない国鉄の大塚駅から5~6分のところに住んでいたが、二所ノ関一門の巡業が大塚駅の駅前広場にやってきたことがあった。当時は今のような「大合併方式」ばかりでなく、一門ごとに小回りの利く形で、都内のこんなところにまでやってきたのだ。(翌年には、こんどは近くの中学校の校庭に出羽ノ海一門がやってきて、私の学校では午後の授業を「校外授業」にして校長以下、全校で「見学」に出かけたものだ。私はそこで、つい前日に明治神宮に奉納したばかりの新横綱栃錦の土俵入りを見たのだった。)さてその大塚駅前広場の二所一門(とか出羽一門とか、こういう言い方をこの頃とんと聞かなくなった)の巡業は、場所柄からか「夜相撲」だったから、電灯を方々にぶら下げた灯りでムードもいい。当時小結ぐらいだった若乃花が控えに座っているそのすぐ後ろで同級生の××君がキャラメルをなめながら見ていると、ふいと振り返った若乃花が「オレにも一個くれよ」と声をかけて来たので、一粒進呈すると、ありがとうと言って口に放り込むとすっと土俵に上がっていった(と、翌日教室で聞いた)。

こういう話は、本当にいいよなあ。「おすもうさん」とはこういうものなのだ。(この頃は「力士さん」なんて妙な言い方をする人があるが。)

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日馬富士は好きな力士のひとりだから、事態を祈るような思いで見ていたが、何発も、それも器物も交えて、殴ったと知って,これは引退もやむを得ないと思った。(それにしても勿体ないことをしたものだ。前場所のあの逆転優勝こそ、この力士の真骨頂を見せたもので、名横綱列伝に入るところだったのに。)

思い余って、平手で一発、というのが(もちろん、場合にもよるが)、人間は神ではなく、理性の抑制も万能ではないという意味で、情状酌量の「のりしろ」だと私は思っている。(私は大人になってから二度、ひとを叩いたことがある。一人は身内の中で最も近くにいる女性で、一秒後に詫びた。もう一人は90歳を過ぎて呆けてしまった私の母親。御不浄でウンチをさせている間のやり取りの中、「いまここにある現実」を受け容れる許容度を超えてしまった瞬間、正確にいえば殴ったのではないが同等の邪険な行為に及んでしまった。母の半身はぐらりとのめって柱の角に額をぶつけた。)

教育の目的の愛の鞭、というのは私はあまり好まないが、力ではなく、思いを籠めた一発、というのは(もちろん時と場合次第だが)「あり」ではないかと思う。つまりこれも、思い余って、であろう。 

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思えば、日常の中で我々は、「ぶん殴ってやりたい」「張り飛ばしてやりたい」衝動に駆られる瞬間に取り巻かれている。駅の雑踏をスマホに「全神経を奪わせながら」歩いてくる奴の「宝物」をすれ違いざま叩き落としてやりたくなる。暗がりの狭い道をチリンとも鳴らさずに間際をすり抜けて行く自転車。(むかしは追い抜くときチリンと軽く鳴らすのが当たり前ではなかったろうか?) 例えばその一瞬前に、かさばる荷物を持ち替えていたらどういうことになるだろう?)、等々、等々々、切りがない。

たまたまNHKのBSの「お茶の間シアター」で『青い山脈』を久しぶりに見た。その中で原節子が、龍崎一郎の頬をぴしゃりとやるのがこの映画全編を通じての肝となる「味のある」シーンとなっている。ああいうのは「暴力」とは別なのだろうか? テレビで「いかなる理由があろうとも暴力は絶対にいけません」と主張する文化人の方々の意見はどうなのだろう? (『女殺油地獄』で父親の徳兵衛が思い余って箒で与兵衛を(何発も)打つのは観客の同情を引く場面だが、あれも「×」か?)

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日馬富士の引退で、現役の横綱が不祥事で引退に追い込まれた事例として、前田山の名前が久しぶりに出てきた。1949年、戦後再開して一躍、大衆娯楽の代表格に躍り出たプロ野球が、戦後初めての日米野球戦を開催した。(終戦から4年、というタイミングを思うべきである。この年は一リーグ時代最後の年となるのだが、因みに、プロ野球の実戦の模様をおそらくあれほど長々と、しかも映画の内容と密接に絡ませながら実写した作品はないと思われる黒沢明『野良犬』は、三船敏郎と志村喬の刑事が山本礼三郎の拳銃の闇ブローカーを逮捕する場面でこの年4月の巨人・南海戦の模様を実写撮影している。この時の巨人・南海戦は種々の事情が重なった因縁試合だったので異常な熱気だったのを利用したのだ。)来日したのはサンフランシスコ・シールズというヤンキースの傘下の3Aのチームだったが、当時の日本のプロ野球は歯が立たなかった。そのシールズの監督としてジョー・ディマジオとかミッキー・マントルといった強打者を育てたオドール監督という名将は、戦前ベーブ・ルース等大リーグチームの選手として来日したという親日家だったが、その第一戦の後楽園での対巨人戦の試合開始前、観戦に来ていた横綱前田山と握手をするという、ハプニング的行事があった。それだけならむしろグッドニュースだが、ところがこの時、前田山は折から開催中の秋場所で初日に勝った切り負けが込み、途中休場中だったから、非難轟轟、遂に引退に追い込まれたのだった。

大関を張ること10年という強豪で、張り手で鳴らした。張り手といっても、いま流行りの、白鵬がやるような立ち合い一瞬の張り差しではなく、猛烈な上突っ張りにまじえるもので、ある場所など双葉山と羽黒山という当時二強とされた二人を張り手で連破して名を轟かせた。前田山は、高砂親方としても協会幹部としても高見山等外人力士を育成するなどユニークな存在で、のちに現役横綱として引退に追い込まれた3例目となった朝青竜はひ孫弟子ということになる。引退間もないまだ講和条約発効前という時代に、引退寸前のような幕内力士4人を率いて渡米するという(向こうで何をしたのかよくわからないが)、常識では収まり切らないことをする、よく言えば先見の明ある人で、この一行の中に、大ノ海という、本人は幕内中軸どまりの弱い相撲取りだったが、花籠部屋を開いて初代若乃花を育て、今日の貴乃花に至るまでの隆盛の基を作った人物がいたのだから、考えてみれば、よくも悪くも、のちに相撲界を騒がせることになる種は、前田山が蒔いたのだともいえる。

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と、ここから大谷やらイチローやら、日米野球の話に持っていくつもりだったが、長くもなったしくたびれたし、それはいずれまたということにして、最後はやっぱり芝居の話で締めよう。

押し詰まった暮れの22日、伝統歌舞伎保存会主催の第21回研修発表会というのが国立劇場で開かれ、『廿四孝』の「十種香」と「奥庭」を米吉が八重垣姫をするという舞台があった。米吉もなかなかの健闘を見せたが、その他の役は門弟クラスの面々だったが彼らの健闘ぶりも相当なものだった。濡衣の菊史郎、音一朗の蓑作、吉兵衛の謙信、蝶三郎の小文治、吉二郎の白須賀六郎といった面々、それぞれによかったが、吉兵衛など、陰で聞かせる第一声など、吉右衛門が御馳走でハプニング出演するのかと思わせるほど、よく練れた大音声は見事なものだった。

夏に行われた右近の「研の会」、歌昇・種之助兄弟の「双蝶会」、先月末の鷹之資の「翔の会」など、それぞれの歩みの中での成果を見せるものだったのを見るにつけ、今更のようだが、若手だけの一座での公演が、正月の浅草歌舞伎一か月だけというのは、ちと検討あって然るべきではあるまいか。

随談第601回 第7世紀第1年

この随談も今回で通算600と1回とは相成った。もっとも、一回分が今のように長くなったのは最近のこと、初めのころは一回一題のような短いものを毎週のように出すなど形態はその後もいろいろに変化したから、一回分の分量はその時々で大分違う。第1回は2005年の4月(つまり私が2Bの鉛筆からパソコンへと「武器を変え、旧石器時代人から新石器時代人へと進化だか退化だかしたのがこの時であったのだ! もっとも新聞の劇評だけは、字数を計りながら書く必要から、担当の方のご厚情を当てにしていまでも旧石器を用いているから、進化(退化)にはまだ多少の歯止めがかかっていることになる)、当初しばらくはアクセス数も微々たるもので、1万に達するのに確か一年近くかかったのではなかったか。まったくの偶然だが、新しい歌舞伎座のこけら落とし開場前日の2013年3月末でちょうど累計40万になったのを覚えている。今は幾つぐらいになっているのか、以前のようにカウント数が表示されなくなったので知らないままだ。

ともあれ、この回から第7世紀に入る。日本の歴史ならまだ推古天皇の御世である。

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菊吉仁幸に最長老坂田藤十郎と五横綱揃った今年の顔見世、こんな壮観にいつまた巡り合うことができるか、見留めのつかない今日この頃の歌舞伎界の気圧配置ではある。この月に限らない、おそらくこの人たちはいまどの役をするにしてもこれが最後かという思いでしているに違いないが、菊の直侍、吉の貞任、仁の勘平、幸の最後の一日の大石、どれもそれぞれの思いのこもった様子が見えて良きものだった。

顔見世ではないか、てんでんばらばらに店を構えるばかりで何が顔見世だ、仁左衛門が『大石最後の一日』でせめても荒木新左衛門を付き合うのが唯一の例外とは何たること、という意見が出るのももっともだが、顔見世ではなかったが昭和38年の正月、11代目團十郎の与三郎、歌右衛門のお富、17世勘三郎の蝙蝠安、初代猿翁の多左衛門というのが、私の実見した最大の超弩級大顔合わせだろうが、それの何分の一なり真似ようとしても、玉三郎が出ない弩級女方不在の「野郎歌舞伎」では、揃い踏みというより、五横綱が次々に土俵入りを見せるという、今回の方式に落ち着くことになったのだろう。

とするなら、今回の各店品揃えに留意した名店街方式もあながち悪くはなかった。吉右衛門の貞任、又五郎の宗任、雀右衛門の袖萩、歌六の直方、東蔵の浜夕、錦之助の義家という『安達原』、『入谷』の菊五郎の直次郎、時蔵の三千歳、東蔵の丈賀といった辺りは現在まず考え得る適任適材と言うべく、團蔵の丑松もここに加えていいだろう。むかし流行った夢の配役みたいなことを言えば、宗任を海老蔵にさせたらとか、まあいろいろあり得るだろうが、それぞれがチームプレイ本位の体制で固めた今回としてはそのプラス面が表立ったことになる。

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『奥州安達原』という芝居を初めて見たのは東京オリンピックの翌月の歌舞伎座で、初代吉右衛門を偲んで何年振りといった角書をつけて十七世勘三郎がした時だった。こんなに面白い芝居があったのかと思った。奥州のあらえびすの摩訶不思議な神秘の闇が広がっているように感じられた。桂中納言に化けた貞任が見著わしになって束帯を脱ぎ、下に重ねている白い小袖を一枚脱ぎ二枚脱ぎ(今度の吉右衛門は二枚でおしまいだったが)三枚脱いだような気がする、まだ脱ぐのかという驚きがどよめきとなって聞こえたのを覚えている。当時の勘三郎は、頂点に立とうとする者の勢いが情念逆巻く精悍さとなって、実に魅力的だった。(こういう「闇」が、銀の匙を咥えて生まれてきた18代目には遂になかった。そこが父と子を分ける分水嶺であったろう。)貞任と兼ねた袖萩が弾く祭文の三味線が哀切を極め、中村光輝のお君のけな気さがこちらの胸に届いてくる真率さ。三代目を襲名して急峻を上り詰めようとする者の猛なる勢いをたぎらせていた延若が、あの顎のしゃくれた写楽美であらえびす宗任を演じ、八幡太郎は腰こそやや前傾していたがまだまだ元気だった寿海だった。勘三郎はその後にもう一度、国立劇場で今度は長大な通し上演を敢行し、本名題の根拠となった安達原の「一ツ家」を出して、当時はまだ沢村精四郎だった紀伊国屋藤十郎の恋絹の腹を裂く老女を演じて素晴らしかった。精四郎また可憐を極めた。両舞台とも、まさしく、嗚呼、夢だ夢だ、と独り言つほかはない。

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菊五郎の直侍。やっぱりいい。他の追随を許さない。おなじ頬かむりをする江戸の二枚目でも、雪空の寒空に尻を端折って鼻水をすするのが絵になるという美学は、与三郎と違って江戸ローカリズムというふるいにかけなければならないから、三津五郎もいなくなってしまった今、当面、候補者はいそうにない。それにつけても菊吉健在の今、もう一度、通し狂言『天衣紛上野初花』を是非やってほしい。三千歳時蔵、金子市左團次、丑松歌六でいまならまだ出来る。

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幸四郎の大石は、これまでの涙過剰が抑えられて非常に豪宕な趣があって、幸四郎一代の到達点に降り立つかのようだった。先頃のサリエリのおのずからなる飄逸味といい、ここに至って何かを突き抜けたような心境の深まりを思わせるのが、年明けての二世白鸚襲名を控えて興深い。

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仁左衛門の勘平の音羽屋型はいまさら言うまでもないが、筋書の「今月の役々」によると、私の勘平は十五世羽左衛門さんの型ですと明言している。そうであろうと思っていたことには違いないが、こうご本人の口から明言されると、改めてフームと思う。ささやかなる再発見と言おうか。

孝太郎のおかる、ちょっとしたものだった。先月の『亀山の仇討』の女房役もよかったし、することに芯が通ってきた。この人はタイプが父親と違うために、仁左衛門ファンの女性たちから辛い点をつけられて大分損をしている。

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東蔵が、さっきの幕で時代物の老女をつとめたのが今度は幕が開くと間もなく按摩の丈賀になって出てくるのに、改めて感じ入る。これで「六段目」におかやで出たとしても不思議はない。(吉弥のおかやも、腕のある人だからする仕事にそつはないが、理の勝った人だけに先月の『亀山の仇討』の茶屋の女将の方が適任だった。)結構な丈賀を見せてくれるとは言うものの、本来この役は脇の立役から出るべき役のはずだが、では誰が、ということになると、適任者が思いつかない。田之助とこれで二代、女方から丈賀役者が続いたことになる。脇役者払底、と決めつけてしまわずに、機会を作ってやれば、人は必ずいる筈だ。

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国立劇場が『坂崎出羽守』と『沓掛時次郎』という大正昭和の新歌舞伎の二本立てを出したのは、創立当時のむかし歌っ(謳っ)ていた、忘れた歌を思い出したかのようだ。年一本の割で長編の新作を作っていたなど、信じられないような事実である。三島由紀夫の『弓張月』も大佛次郎の『戦国の人々』も北条秀司の『大老』もその一作であったのだし、青果の『平将門』という問題作を出したのも、目下のところあれが最後となってしまっている『桐一葉』を出したのも、その一作であったのだ。(幸四郎は『平将門』を遂に再演する機会のないままに白鸚になってしまう。あれは、幸四郎一代のベスト幾つかに数えるべき意義ある上演だった。父に代わって敵討ちをするぐらいの気持ちで、新しい幸四郎にぜひともトライしてもらいたい。それもなるべく早い機会に。ラスベガスくんだりなどに行っている暇があるなら、とは言うまいが。)

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『沓掛時次郎』という芝居は、昭和50年3月、歌舞伎座が舞台の床を張り替える工事のため月半ばまで休場、後の半月ほどを宛てて新国劇の特別公演というのが企画されたことがあった。歌舞伎から14代目勘弥がつき合って辰巳柳太郎の山岡初役の『将軍江戸を去る』に慶喜、島田正吾の『沓掛時次郎』に八丁徳を付き合うという筈だったが、ところが1月に中日劇場で『酒井の太鼓』の松浦候を勤めていた勘弥が楽日の舞台中に発病、何とか最後まで持ちこたえてそのまま入院、それが最後の舞台となって、亡くなったのが何と三月の特別公演の楽日だったという皮肉な巡り合わせとなった。もちろん、出演の不可能は夙に知れていたから、二役とも十三代目仁左衛門が、これは初めから本役としてつとめたのだった。(勘弥はノミネートされていた人間国宝にもなり損ねた。あれは「生ける国宝」という意味なのだから、選考の時点で余命のないことがわかっている場合は対象から外されるのだという。ふつう、こうした選考に関わることは口外されないのだが、この時は、当時「演劇界」を率いていた利倉幸一さんが選考委員の一人として、特に記事にすることを許されたとして「演劇界」の追悼文に明記している。)

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ところでその『沓掛時次郎』だが、この時の島田正吾の時次郎はまさに名演というべく、ことに大詰め幕切れの余韻はいまなお忘れ難い。芝居としての拵え方の巧さ、面白さという点では『一本刀土俵入』の方がまさしくWELL MADEだが、作者長谷川伸の詩魂と純度の高さという点では『沓掛時次郎』がまさると考えるのは、この時の島田の舞台を見たのが根拠となっている。

本来他人の人妻を守って旅を続ける男の物語といえば、実際にそういう男を見たことがあるとも言い、また一方、女と門付けの芸をしながら旅を続けるのは、三代目の林家正蔵の若き日の姿ともいうが、晩年に林家彦六と名乗った八代目正蔵の『旅の里扶持』という噺を感に堪えて聞いたのを今も忘れかねている。長谷川伸自身から、この話はお前にやるよと言われたものだという。初めと終わりの渡世人の仁義にかかわる部分はなく、旅先で駆落ち者らしい芸人夫婦と知り合った他生の縁から、幼い女の子を抱いた女を助けて旅を続ける内、女が死んでしまい幼子を里子に預ける。時が経ち、出世して三代目正蔵となった身で出かけた旅先で、年頃の娘に成長したかつての幼子に巡り合うという話で、彦六という人は、露伴の『幻談』など、文芸物を手掛けて知る人ぞ知る佳作を残しているが(先頃当代の猿之助と中車でやった『あんまと泥棒』などというのも、私が知った最初は彦六の高座でだった)、まことにこれは忘れ難いものであった。思うに長谷川伸は、股旅という枠を外せばテーマが『沓掛時次郎』とあまりにも重なり合うので、同じ正蔵の三代目の逸話というところから彦六に譲ったのだと思われる。

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シアタークリエ開場10周年という『DADDY LONG LEGS』がなかなかよかった。四演目というが今度が断然いい。理由はジルーシャ役の坂本真綾が女優として大人になったからで、出来のいい少女小説の主人公だったこれまでの域から、賢い少女が聡明な大人の女性へと成長してゆく姿を生き生きと見せた。原作小説に伏在する、新時代の女性像という塑像を彫り起こしたジョン・ケアードの脚本の卓抜さを見事に躍動させたのは天晴れといっていい。

随談第600回 秋出水

毎回同じような書き出しで申し訳ないが、またしても随分ご無沙汰になってしまった。ただし今度はパソコンのせいではなく、中小さまざまな原稿締め切りが相次ぎ、そのための調べものにも相当の時間が必要だったためだ。当然、自分にとっての新発見もあるから、これはこういう仕事ならではの余禄である。

日程が順調に運んでいたなら秋場所千秋楽の日馬富士VS豪栄道の大逆転から始めたところだが、出そびれたお化けみたいなタイミングになってしまった今となっては、十一月場所に絡めて書くことにしよう。

と書いたところへ、元若島津の二所ノ関親方が倒れたというニュースに驚かされた。近年、勝負審判になって土俵下に顔を見るようになり、随分細くなったので気になっていたが、それと今度のことは関連はないらしい。テレビで現役時代の映像がいくつか出たのを見て、活躍したのは昭和の末期のことだからそれほど古い昔のことではない筈なのに、昨今の相撲とはこんなにも違ってしまったのかということに驚く。若島津という力士の持っていた個性や風情のためでもあるが、いかにも、力士という雰囲気が漂ってくる。こういう風情は、当節の力士には希薄になってしまったのかと、改めて憮然とした。

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歌舞伎座で『マハーバーラタ戦記』、新橋演舞場で『ワンピース』。こういう出し物で、片や昼の部を通し、片や二か月をこれ一本で乗り切るというのだから、世の趨勢というものを思わないわけにはいかない。

どちらも結構面白い。(少なくとも「野田判ナニガシ」より面白かったのは間違いない。)『マハーバーラタ戦記』には優れた神話・伝説が必ず持っているビルドゥングス・ロマン的テーマ、即ち、一人の若者が様々な試練を受けながら成長してゆく、という「物語」というものの根源が横たわっている。桃太郎がおばあさんの作ってくれた黍団子を腰に下げ、つまり最低限度の生きる糧だけを身に着けて旅立つ。行く先々で、犬や猿や雉という他者との出会いがあり鬼との出会いもある。鞍馬山を出た牛若丸が弁慶や金売り吉次や駿河ノ次郎や伊勢ノ三郎やに出会い、熊坂長範に出会い更には藤原秀衡に出会い…という風に、善悪さまざまな人物や試練に出会いながら成長してゆく。スサノオノミコトもヤマトタケルも、ジークフリートも、みんなそうだし、ウィルヘルム・マイスターもジャン・クリストフもみんなそうだ。そこには、人間いかに生きるべきかという、最も素朴で、それ故に根源的で永遠の問いが横たわっている。やれ心理を掘り下げるの条理がどうした等々といった、アーラ難しの問答無益、小むずかしいモンダイも、結局そこに集約されるのだ。これが、物語というもの、芝居というものの根源である。だから面白いのだ…という、最も単純素朴なことを、『マハーバーラタ戦記』を見ながら、『ワンピース』を見ながら思った。エッ? 『ワンピース』も? そうだ、『ワンピース』にも間違いなくそれがあるではないか。

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それにつけてもだが、七之助演じる百人兄弟の長女鶴妖朶王女が、五王子の惣領彦三郎演じる百合守良王子を見事にたぶらかしたところで序幕が終わり、昼食を取りながら誰言うともなく口を揃えたように言い出したのは、折から解散総選挙となり、身を捨てて大博打を打ったつもりの某氏をものの見事にたぶらかした一枚上手の某女史を連想したということだった。(たぶらかされ王子の名前に〇〇の二字が入っているのも皮肉だが)つまり七之助演じる悪女ぶりにそれだけのカンロクと迫真力があったということで、今回の大殊勲第一等は七之助である。もっとも、菊之助の主人公迦楼奈もいかにも桃太郎を思わせる風情がよく、ひねくれた「個性派」でないところが神話の主人公に似つかわしい。こちらは初案・企画と併せ殊勲賞を進呈しよう。

(聞くところでは、鶴妖朶王女という人物は七之助がするために王女にしたのであって、本来は男性なのだそうでインドの人から見るとけったいな感じがするらしい。がまあ、以前猿翁がやったスーパー歌舞伎の『三国志』で劉備玄徳を女にしたのと同じデンで、こういう手は歌舞伎としてはアリであろう。)

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『ワンピース』を見たのは猿之助が大怪我をして休演となった翌日だった。代役の尾上右近がセリフもよく入っている、と思ったら特別マチネで猿之助の役をすることに決まっていたので、セリフも仕草も完全に入っていたと見える。これはまさしく「天晴れ」を進呈するに値するが、そればかりでなく、猿之助のようなエライヒトがするより初々しい右近がする方が、この狂言の本質テーマにもかなってふさわしいのではあるまいか。

アマゾン・リリーなる女ケ島に大挙登場する女形連のノリにノッている凄まじさも特別賞もので、平素腰元などの役でかしこまっている面々がここぞとばかりの大わらわ。思えば、彼らにとってこれほど発散できる機会というのは他のどんな芝居にもないわけで、扮装も凝りまくりどれが誰やらも見当がつかぬほど。言うなら、無礼講の大宴会の余興を見ているようなものだが、壮観には違いない。またそれを観客がアハアハ笑って楽しんでいるのも、いかにも当世流である。

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歌舞伎座に戻って、玉三郎淀君を見せる『沓手鳥孤城落月』は、歌右衛門風烈女を離れて玉三郎ワールドを作ろうとしつつ、目下のところ道半ばという感。玉三郎にしては珍しくセリフもまだ十分に入っていないかのよう。乱戦の場の裸武者の件をやめるなど、随所に政権成立の暁にはああしよう、こうしたいの青写真が提示される。まあ、今後へ向けての習作というところ。

『漢人韓文手管始』が珍しく出たが、芝翫の唐人姿の役者ぶりの秀抜さなど取柄はいろいろあるものの、脚本をもう少し何とかしないと、この芝居、何が売りなのかが定まらない。国立開場2年後の昭和43年12月、国立劇場で勘弥の伝七、八代目三津五郎の典蔵でやったときの勘弥のピントコナぶりが目に残っている。むしろそういう役者の持っている味や風情で見せるものではあるのだろうが、それにしてもドラマとしての面白さをもう少し前に出せないものか。当時は「唐人殺し」と言っていたっけ。二代目の鴈治郎が昭和27年に関西でしていたのは、迂闊ながら筋書巻末の上演記録で今度知った。今度の鴈治郎も大努力で悪くはないが、まだ「味」よりも「演技」で見せている分、面白味は薄くなる。 

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したが、このひと月足らずの間で一番面白く且つ興深かったのは、サンシャイン劇場での幸四郎の『アマデウス』だ。これぞ「幸四郎歌舞伎」の到達点といってもいい。初演以来30年、周囲もすっかり入れ替わり若返り、孫世代と芝居をしているようなものだが、それだけにまさしく幸四郎一人芝居、これぞ高麗屋風大歌舞伎といった様相を呈する。もともと、『ラ・マンチャ』の幸四郎より『アマデウス』の幸四郎の方が仁にも通い、芸風にも合っていると思ってきたが、少なくとも今度ほど、ご本人が楽しんで芸をしている幸四郎は見たことがない。

筋書巻末に載っている上演記録で過去の上演の折の配役を見ると、うたた今昔の念に襲われる。今を去る35年前、開場間もないサンシャイン劇場で初演した折のモーツァルトが江守徹だったのはもちろん覚えているが、ヨーゼフ2世の近藤洋介、スヴィーテン男爵の臼井正明なんていう配役を見るだけでウームと唸らざるを得ない。(臼井正明はNHKの放送劇団時代は二枚目役で鳴らした人で、映画で初代中村錦之助のやった『紅孔雀』の主役那智の小四郎の役は、原作であるラジオの放送劇ではこの人だったのだ。)宮廷楽長ボンノが名優宮口精二というのも贅沢な配役で、ウィッグをつけた18世紀ウィーンの宮廷姿はまるでハイドンみたいだった。1998年のときには今井朋彦が風2をやっていたなんて、今度この記録を見て初めて知った。(そうだったのか!)初演以来の出演者が幸四郎のほかにもう一人いて、現・高麗五郎の松本幸太郎である。なにかご褒美があってしかるべきであろう。

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新国立劇場の『トロイ戦争は起こらない』。ジロドウの名高い作で確かに面白かったが、今見ると、かなり枝葉がにょきにょき出ているのでもっと刈り込んだら、などと余計なことを考えてしまう。こういう戯曲こそ、「そのとき」があってのものなのだ、ということを改めて思う。

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『レデイ・ベス』再演、相変わらず花總まりの西洋赤姫ぶりが見ものだが、劇中出てくるヘンリー8世の肖像を見て、昔見た『わが命尽くるとも』というトマス・モアを主人公にした映画を思い出した。絶対制君主というものを絵解きしたような、という評が当時あったが面白い映画だった。映画といったが、元は(作者名が今、どうも思い出せない)たしか’A Man for All Seasons’といったと思う、そういう原題の戯曲で日本でも芥川比呂志がモアの役でやったのを見たことがある。いま再演しても面白いのではあるまいか。

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今日は衆院選の投票日。連日の雨降りで、日本シリーズの代表もパ・リーグはつい先ほど、ソフトバンクに決まったが、セ・リーグはまたしても雨天順延である。先日の甲子園での横浜と阪神の泥中戦は甲子園のグランド整備会社が優勝を攫ったようなものだった。今回表題の「秋出水」とは秋の野分で出水するのを言った秋の季語である。・・・と、今回はこれ切り、次回はなるべく早めに書きます。

随談第599回 再・再開の弁

またしても大分ご無沙汰してしまった。要するに、前回書いたようなわがパソコン事情が、その後実はあれだけでは終わらず、あれこれやってみた挙句、新規に買い替え(た方がいいでしょうと勧められ)ることとなり、又もや手元に機器がない状態が長く続いのと、それに伴うあれやこれやで暇取ったのである。一番のダメージは、バックアップ(などという用語の意味するところを今度初めて身に染みて認識した)が完全でなかったためにかなりの分量の原稿やメモの類が永久に回復不能となったことだが、それもこれも、根本の理由は、エレキテルとか機械のたぐいを(理解としては受け入れていても内心深くでは)つい敬遠したくなる私自身の性癖から、さまざまな操作方法を習得するのを煩わしがって覚えようとしないのを、おそらくパソコンの方でもそれと察知して、一定以上にはこちらの言うことを聞いてくれないからと考えるのが、一番の正解であろう。機械だって、心底愛してくれない主人に一定以上の忠誠心を持ち得ないのは無理もないのである。

新しいパソコンはこれで三代目ということになるが、先代の二代目としては、8月に3週間ほど手元に戻ってきていた間に、前回の随談第598回のほかに、『演劇界』10月号に書いた「歌舞伎と深川の特集記事と、歌舞伎座の筋書に書いた秀山祭、大阪松竹座の9月新派公演『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の記事などが、つとめてくれた最後のご奉公ということになる。前回に書いたような無理を強いたことが寿命を縮めた結果となったわけで、「彼」にしてみれば、ヘボの騎手に乗られて迷惑だった馬のようなものだろう。

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七月、八月と当世流の風が吹き抜けた歌舞伎座が秀山祭で別の顔を見せたかのよう。これも歌舞伎、あれも歌舞伎か。

吉右衛門は、聞くところによると肩を痛めたとかで、水野邸の湯殿の立ち回りにせよ、逆櫓の松のマスゲームにせよ、充分とはいかないのが玉に瑕には違いないが、もっともこちらは、長兵衛や樋口や松右衛門で卓抜のセリフを聞かせてくれれば文句はないわけで、長松に「天秤棒を肩に当て人参牛蒡を売って歩こうとも商売往来にねえ商売を、必ずやってくれるなよ」と言い聞かせる長兵衛のせりふなど、いまどきちょっと聞かれないものだろう。

もうひとつ、よく言う「やつし事」の芝居でも、知盛みたいに一旦本性を顕してしまえば銀平の方はほとんど消えてしまうのと違い、樋口になっても松右衛門たることは消えてしまうことはないのがこの芝居のユニークなところで、今度の吉右衛門を見ていてそのことがよく分かった。と同時に、その点にこそ、播磨屋二代の(おそらく初代もそうであったに違いない)芸の懐の深さの所以があることも、今度見ていてもよく分かった。

(とはいえ、歌舞伎座の筋書に「樋口次郎兼光実は船頭松右衛門」と書いてしまったのは「つい」や「うっかり」では済まない失策で、これはお詫びする以外はない。せめてこの場を借りて訂正させていたくことにしたい。もちろん、正しくは「船頭松右衛門実は樋口次郎兼光」である。)

(ついでにもうひとつ。初代がなくなった時のエピソードで、急の訃を聞いてのちの白鸚の八代目幸四郎が弁慶に紛争のまま駆け付けたが間に合わなかった、と書いたのも、「急の訃」を聞いてから駆け付けたって間に合わないのは当たり前で、ここは「急を聞いて」とするべきであった。)

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『毛谷村』も悪くなかった。六助の染五郎とお園の菊之助の芸の背丈が揃っているのが、この牧歌的でほほえましいユニークな佳品の良さを引き出したとも言える。上村吉弥のお幸も、吉之丞亡き後のこの役はこの人のものと言うに足る。

松貫四作『再桜遇清水』に至るまで播磨屋オンパレードの中、昼の部第二『道行旅路の嫁入』ばかりは、混じりっけなしの山城屋爺孫、じゃなかった母娘水入らずの33分間。
「娘、おじゃ」とセリフも入って花道を入るところなぞ、これぞ山城屋流「男の花道」というべきか。

『再桜遇清水』はもうちょいテンポアップを図り、枝葉を切り揃えるなりすれば、現役レパートリーとして優に通用するだろう。

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やや旧聞となってしまったが「双蝶会」と「研の会」が今年も開催され、それぞれに上首尾だったのはめでたい。「双蝶会」の方は勉強会と名付けてあり「研の会」は自主公演と名乗っているのは、名称だけのことなのか、それとも意あってのことなのか? そこらの含みも興味深い。

(研の会の『矢口渡』で市蔵の頓兵衛がなかなかいい。柄から言っても仁から言っても如何なものかと配役を見たときは、正直、思ったのだったが、どうして相当なものである。脇役者としてこれからが働きどころ。刮目してこれからを見よう。

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文楽は『朝顔日記』の「笑い薬」を咲太夫がつとめたが、かつての巨体が、前回あたりからめっきり小さくなって、人相まで別人のようになってしまったのが心痛む。流石に芸には齢を取らせていなかったが、この段は、かつて相生翁が語るのを聞いたのが、いまとなっては貴重な体験だった。この人も、我々の知る晩年は、かつて綱太夫や若太夫と同格の地位にあった人とは思われないほど霞んでいたが、この「笑い薬」ばかりは流石だった。

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今年の夏もOSKの公演が4日間とはいえ新橋演舞場にかかったのは嬉しいことである。かつてのレビュー全盛時代にはSKD、日劇ダンシングチームと、東京でも盛んなものだったが、今や純粋なレビューが見られるのはこのOSKの東上公演で渇を癒すのみとなってしまった。小むずかしい芝居に走らず、ただただ、次々と繰り広げられる場面が夢のように通り過ぎて行く疾走感がレビューの醍醐味で、こういう感覚は他には求められない。東上公演は今年で何回になるだろうか。心なしか、メンバーの様子に自信に満ちてきたような感じが見えるのが結構なことである。今回で創立95年との由、1世紀続いたのだから、冗談でもなんでもなく、これはもう近代日本の生んだ古典芸能であって、明治150年の今日、和菓子屋なら古典でパン屋だと古典ではないという類いのリクツでは間尺に合わないことがいろいろ出てくるであろう。(間尺ではなくメートルセンチか?)

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松竹新喜劇の公演も毎夏の愉しみだが、毎度ながら何に感心するといって、たとえば「新」と冠を付けた『親バカ子バカ』で、女子社員の役のような登場人物に至るまで、ちゃんと「大阪人」であることだ。天外の成金社長がカウスボタン(大阪ではカフスボタンとは言わないらしい)を付けた腕の何故か微妙に短い感じなどというものは、大阪の役者でなければ到底表わせるものではない。あのカウスボタンを見るだけで、嗚呼、確かにこれぞ大阪の芝居だと得心させる。ここが値打ちである。作品としては、やはり『鼓』が屈指の名作であることを改めて思った。先代の天外の此花家梅子が今も目に浮かぶ。

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明治150年といえば、オペラ『ミカド』を新国立で見る機会があった。演出者の苦心、歌手たちの好演もあってなかなか面白かったが、一方で「国辱オペラ」、もう一方で欧米人種の一方的な黄色人種蔑視といった先入観が久しく貼り付けられていた段階から、ようやく今、抜け出したところなのだという感を強くしたのも事実である。そうしてまた、じつはこれ、日本人に仮託した英国人による英国人批判の作だったのだということも、今にしてわかった。そう考えると、今度の演出は少々「日本的」過ぎはしないだろうか?

随談第598回 再開の回

永いことご無沙汰をしてしまいました。今日から再開します。

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先月半ばから約3週間、パソコンが使えない状態となってしまった。原因は要するにウィンドウズ7の機器に10の機能を載せたことからくる過重負担であるとの専門家の見立て。入院させた機器は本来の7に機能を戻して退院ということになった。その結果、メールとHPはどうにか無事だったものの、一番の打撃は、10に切り替わってから書いた原稿その他がすべて消えてしまったことで、あきらめのつくもの、つかぬが気を取り直してかかるより仕方ないもの、さまざまある上に、復旧後もいろいろ、試運転やら、その間に入った原稿の締切やら、月初めのこととて集中する劇場通いやらで、中断は更に伸び、かくなる次第となってしまった。ここで得た一つの教訓といえば、『道成寺』の聞いたか坊主の言う、7の機器に10の機能を載せるような、余計なことは致すまい、ということである。

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今日は8月16日、昨日来の間断ない雨降りである。記憶にある昭和20年の夏、8月15日の終戦の日は晴天で、玉音放送そのものは覚えていないが、それが終わってぞろぞろと近所隣りの各家から人が表に出てきたような、不思議な感覚を覚えている。まもなくB29の編隊が次々と飛び来たり、飛び去って行ったのを覚えているが、もしかするとこれは別の日のことであったかもしれない。

当時は鷺ノ宮に住んでいたのだったが、ちょうどその日に、父親が腸チフスで(と聞き覚えているが確かなことは分からない)阿佐ヶ谷の河北病院に入院と決まって、母親は付き切りで一緒に行ってしまい、姉と兄は学童疎開で福島に行ったままであったから、未就学児であった私は満二歳になったばかりの妹と留守番ということになった。父の会社の部下の女性が(どうやって頼んだのだろう? こんな時によくもまあ、引き受けてくれたものだ。今ならパワハラと訴えられかねない)泊まり切りで来てくれたのだった。熊倉さんという名前の、いま思えば高畑淳子みたいなタイプの元気のいい人だったが、一度、雨降りの薄暗い日、さすがに持て余したのだろう、三畳の部屋に閉じこもってしまったことがあった。陰鬱という感覚を初めて抱いた、一つの体験であったろう。八月も半ば過ぎになるとままありがちな、きのう今日のような雨降りの日というと、終戦の年の夏を思い出す。
 
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休載の間に私のアンテナに掛かった訃報というと、役者では中村京紫、中村仲太郎、それ以外では順不同でジャンヌ・モロー、犬養道子、平尾昌晃、上田利治、後藤美代子、安西愛子、野際陽子、西村昭五郎等々といったところか。

京紫はついこの間まで舞台で元気な姿を見ていたから目を疑った。京妙、京蔵に次ぐ雀右衛門一門の姉さん株として、いい女方ぶりを見せるようになっていた。三人三様のなかにも品格があって、たとえば先年死んだ吉之丞のような路線をゆく、これからが本当にいい脇役者となるところだったのに惜しいことだ。仲太郎はしばらく前から姿を見なくなっていたが、かつては「名馬」として名を成した役者である。名題にならなかったからその死は報道の対象にはならない。馬の脚とか立廻りとか、エキスパートとしての誇りから敢えて名題にならないで通す役者が昔からいたものだが、仲太郎もそうだったのだろうか。

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ジャンヌ・モローは、こちらがちょうど学生時代に一番いいタイミングで遭遇した西欧の女優という意味で、私の中で特異な存在となっている。「つむじ風」という曲を『突然炎のごとく』の中で自ら歌うのが絶妙で、サウンドトラックを聴いているだけで気持ちがいい。ああいう女優は日本映画ではまずお目にかかれないだろう。いわゆるファム・ファタルというやつだが、もっとも出会ったのが別の時期であったら、行き違っていたかもしれない。『突然炎のごとく』という作品自体も、トリュフォーとしても結局、この一作だろう。気障といえばこれほど気障な映画もないが、これほど気持ちよくさせる気障もない。その意味でたいした芸だと認めるべきであろう。

後藤美代子氏は、NHKの女性アナウンサーとして特別な存在で、その見識といい、大人の風格があった。出版記念会に版元へのお義理からだが出席してくれたのが縁で、知遇を得ることができたのは幸いだった。

その他の人達も、餓鬼の折から現在に至るまでの私の人生の道程のその時々に、なにがしかの痕跡を残して行ってくれた名前たちである。歌のおばさんからロマンポルノの監督までさまざまだが、それにつけても、人間というものは、何時出会うかそれ次第で、記憶に留まるかただすれ違うだけでしまうかであり、その意味では、現代といえども、人生を旅になぞらえるのにふさわしいのはあくまでも道中を歩く旅であって、乗物に乗って移動する旅ではふさわしくない。

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今月の歌舞伎座では『刺青奇偶』が一番よかった。先達のお手本コピーを徹底的になぞりなぞりしていた中車が、このところになって、何がしか手ごたえを掴んだかのような芝居を見せ始めていたが、今度の手取りの半太郎で、ようやく確かなものを探り当てたように見える。初めに出てきただけで、「板についている」という語源通りの手応えを感じさせる。歌舞伎役者中車として、はじめてバットの芯で捕えた初ヒットである。

七之助のお仲も、玉三郎を懸命に写して(これだけ写していればそれだけでも大したものだが)、しかしどこか違うのは、祖父の先代芝翫を思い出させるものがあるからだ。なるほどこの役は、17代目の勘三郎の半太郎では先の芝翫の役だったわけで、これはちょいとした「発見」だった。この「発見」は、七之助の今後に何がしかの暗示を与えるものかもしれない。(妙な言い方だが、七之助は、玉三郎より骨太なのだ。これは決して悪いことではない。)

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この月の一番の話題は『野田版・桜の森の満開の下』だろうが、見ていていささかくたびれた。決して悪い成績ではない。どころか、勘九郎をはじめ皆巧いものだと感心する。勘九郎だけではない。染五郎も七之助も巳之助も梅枝も、扇雀も弥十郎も亀蔵も猿弥も、ほかの誰彼も、みな溌剌としている。(しかも彼らは、現代劇の俳優のようにこれ一本を何十日もかけて稽古をしたわけではない。この月だけでも、みなそれぞれ、他の狂言で幾つも役をつとめているのだから、他ジャンルの俳優から見たら歌舞伎俳優の仕事というのは驚異的といっても然るべきだろう。)

今度の上演は勘三郎生前の野田との約束をこういう形で実現させたのだそうだが、おそらく、勘三郎がするよりきっとよかったろうと思われる。勘三郎ではもっと「歌舞伎」になってしまったろう。セリフも、あんなにすらすら言えなかったかもしれない。つまり勘三郎と勘九郎たちとでは、それだけ体に持っている「歌舞伎」の濃度や感覚が違うわけで、つまりこういうものをさせれば、今の人達の方が巧いのだ。(まして、17代目勘三郎や歌右衛門や白鸚たちが「野田秀樹」をやる光景など、想像するだけでほとんどグロテスクでしかあるまい。)

面白くなかったわけではない。少なくとも、同じ「野田版」でも一生懸命歌舞伎に近づこうと努力した『砥辰』や『鼠小僧』などより、自分の本領で自分の思うままに作ったこの作の方が、勝手知ったる我が庭のごとく自然で、無理がない。言わんとする主意もよくわかるし、共感も出来る。その意味での才気も疑いない。

しかし、長いなあ。第一幕75分、20分の休みをはさんで第二幕が55分、合せて130分、2時間10分だ。あのテンポであれだけのことをするのに、あんなに時間が必要だろうか? あんなに、まるで強迫観念に取り憑かれたみたいにギャグや駄洒落で埋め尽くさねばならないのだろうか? 客席から笑い声が聞こえなくなるのを恐れているかのように。あのテンポは回転する独楽が倒れないようにするためのもので、独楽の回転と言わんとする中身とは別のもののように思えてしまう瞬間が何度かあって、その都度、やや白けた思いに襲われるのを如何ともし難いのだ。それで思うのだが、筋書に『モッケノ幸い』と題する「七五のリズム」で書いたという文章が載っているが、あれが野田氏の考える「七五のリズム」なのだろうか? 指を7本、5本と折り数えながら書いた文章のように、私には見えるのだが・・・?

随談第597回 舞台から、その他

歌舞伎座は「六月大歌舞伎」と冠なしの素っ気ないタイトルだが、却ってこういう時の方が実質的で面白かったりする。それぞれに意欲のあるところがはっきりと見て取れる。吉・仁・幸の三人の「王様」たちがそれぞれ、自分が今何をなすべきか、あるいは、何がしたいかを考えて、それを実行しているかのようでもある。

吉右衛門が『弁慶上使』をするのは今度で3回目、さほど回数を重ねていない。いわばコテコテの丸本物中の丸本物で、現代的解釈だの現代的意義だのといった「逃げ」の場所がない。それを、音(オン)を遣ったセリフの妙で勝負をするという義太夫狂言としての王道を行く。戦後この狂言をほぼ専らにしていたのは二代目松緑で、もしかすると松緑があったおかげでこの狂言が今に残ったと言えるかもしれないほどだが、ことセリフの妙に関する限り、吉右衛門の方が上を行っていることは間違いない。

仁左衛門が『御所五郎蔵』をする。普通仮花道を作るときは、昼夜を通じて有効活用できるよう、昼の部にも、たとえば『野崎村』を出すとかするものだが、今回は専ら仁左衛門の五郎蔵のためにのみ、仮花道を拵えている。思うに、仁左衛門たっての要望があってのことに相違ない。またそれだけの五郎蔵であったろう。この前の知盛にせよ、このところの仁左衛門の舞台には、これを以て仁左衛門の○○、と言われるようなものを残したい、という思いが人一倍読み取れるような気がするが、この五郎蔵もまたそうであった。誰かも言っていたが、リアルにリアルに、という解釈であり演じ方である。それを諒とするか否かは、今度は見る側の問題なわけだが、それはそれ、仁左衛門一流の風情でもって柔らかにブレンドするところが「仁左衛門歌舞伎」の妙諦ということになる。

幸四郎が、これもコテコテの丸本時代物の『鎌倉三代記』が五回目、『一本刀土俵入』が六回目と、「幸四郎歌舞伎」として練り上げてきたものを、この二、三年、頓に見えてきた「幸四郎的風流」とでもいうべき一種の境地へと着地点を見出しつつあるかに見える。今回取り分け、それが一つの成果として見えてきたのが駒形茂兵衛で、これがなかなか結構なものになっている。元々、長身であんこ型でないところが強そうで、古いファン向きに言えば往年の千代の山(つまり北の富士の師匠、千代の富士の大師匠である)、もう少し近いところで言うと誰だろう、ともかく、腹さえぺこぺこでなければ、力士は力士だという感じがなかなかいい。前ジテの取的から後ジテの旅人まで、ずーっと無理なく一本筋が通っている。最近の幸四郎の舞台ぶりから察しられるのは、この人はこの人なりに、ひとつの域に達しようとしているのだということであり、それが見る者に、以前には時に感じられた一種の詰屈した感じを抱かせなくなった所以であろう。

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この三巨頭の相手をつとめて雀右衛門がおわさ、皐月、時姫と、女房・傾城・姫という女方の根幹となる大役を相当のレベルで演じているのは、改めてこの人の実力の蓄積を物語るものであろう。この人の出塁率の高さはかれこれもう10年も前から言ってきたつもりだが、その出塁の内容が、単打と選球の良さで選ぶ四球が主だったのが、長打の占める比重が高くなってきたのが役相撲に叶う力強さを思わせる。いまや、実質的に実力ナンバーワンと言ってよいのではあるまいか?(それにつけても、おわさが何故、「三女房
の内に入っていないのだろう?)

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松緑の新助に猿之助の三次で『名月八幡祭』を開幕劇として出していて悪くないが(それにしても、黙阿弥の『八幡祭小望月賑』の方が、もうざっと20年出ていない。幸四郎がもう一度、出す気はないか? 誰かがここらでやっておかないと、あとにつながらなくなる)、美代吉を笑也がやっている。一応はこなしていて、姿も悪くないが、ひと通りという以上には出ない。難しい役には違いないが、形を決めることに気を取られているといった風で、みずから打ったヒットで打点なり得点なりを挙げるところまで行っていない。新助と三次がよくても、この芝居、美代吉にチャームがなくては正三角形、ないしは二等辺三角形が成立しない。笑也は最近、幸四郎のところでいい役をつとめるようになったのが目につくが、かつて猿翁門から羽ばたいて出た第一号として、何とか物になってくれるよう、行く末を気にしないわけにいかない。

美代吉は、今の人には玉三郎ということになるのだろうが、われわれ世代の者には、先の雀右衛門が極め付けである。昭和41年8月、新橋演舞場で勘弥の新助だった。雀右衛門時代を前期と後期に分けるとすれば、前期雀右衛門何傑かの一に挙げてよい傑作だった。ついでだが、この時の「魚惣裏座敷」で憎まれ口をききながら舟を操ってゆく若い船頭役がちょっとしたいい役になっていて今度は弘太郎がやっているが、その時のしうかの可愛らしかったこと!

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笑也といえば、既にやや旧聞に属するが、『氷艶』と題する、代々木の体育館で開催されたスケート歌舞伎ではなかなかの存在感だった。スケート連盟側から持ち掛けられた企画らしいが、おかげで、荒川静香だの高橋大輔だの織田信成だの鈴木明子だの、テレビで見るだけだった名だたるスケーターたちの滑走する姿を実物で見る機会が出来たわけだ。内容は、まあどうでもいいようなものだが、一応筋書があって、スケーター側が善玉、歌舞伎側が悪玉を引き受けて、染五郎演ずる悪の親玉が仁木弾正で、高橋大輔演じる(?)善玉の大将義経を虐げるというのが、どうも喉につかえて呑み込みがよろしくない。仁木が歌舞伎の敵役の代表だからという説明がプログラムにあるが、仁木のあの扮装で出てくるならともかく、衣裳もメークも似ても似つかない姿なのだから、プログラムを見ない者にはただの怪物とより察しがつかない。

歌舞伎側が氷の上でどうやって芝居をするのかと思ったら、靴底に仕掛けのある履物を履いて滑って転んだりしないように、そこはまあ、うまく演出で案配してあって、実際に滑るのは染五郎と、悪の女王みたいな役どころの笑也の二人だけ(のようなものだ)、ところでこの笑也が、何でも高校時代アイスホッケーをしていたとかで一人まるきり滑り方が違う、堂々の立女形ぶりであったのは、何はともあれ同慶の至りというものだ。

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さる委員を引き受けるようになって、国立の能楽堂や、新国立劇場のオペラやバレエなどに足を運ぶ機会が多くなった。役目上の義務でもあるが一種の役得という半面もあるのは確かで、有難いことには違いない。

そこで今更ながら改めて知ったのは、当節のオペラの演出がほぼ例外なく、「現代的解釈」という呪縛の繭(つまり、コクーンである)に絡めとられているようで、何が何でも「現代的解釈」を視覚化した演出でなければ、という思い込みの中にあるらしい、ということである。ワーグナーの人物が医者の白衣みたいな上っ張りを着て出てきたり、舞台を急角度の傾斜面に作ったり(役者がやりにくいだけの話だろう)、『フィガロの結婚』の最終幕に至っては登場人物全員がステテコ姿で出てきたり(パンフレットの演出者の弁を読む限りではむしろ同感するところ多いのだが、伯爵も下男も同じ人間だということは観客各自の受け止め方に委ねればいいのであって、演出家の差し出す一つの答えだけに縛り付けられるのは、見る側としては窮屈というものだ)、どうも演出者が前にしゃしゃり出るのが、作り手・受け手、双方の共通認識という通念のなかに居座っているように見える。(そうしなければ、おそらく、「通」の観客に認めてもらえないのかもしれない。)裸の王様の物語は、権力者への阿諛追従の比喩として解釈されることが普通だが、オペラのような芸術の場合は、知的スノッブ相互の思い込みによる共存連携という形を取ることが多いようだ。もう何十年かしてから、あのころはあんな不思議な演出が流行りだったんですね、と何世代か後の人々の苦笑の種になるに相違ない。

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新国立のウィリアム・サローヤン『君が人生の時』は、まずまずだった。少なくとも、数年来続けているJapan Meetsというシリーズの中では上位に属するのは間違いない。中劇場が女性客でほとんど満席状態という入りの良さは、主役のジョーをつとめる男優がお目当ての故であるらしい。なるほど彼も悪くなかったが、しかし一番、それも断トツによかったのは、ウェスリーのピアノでハリーがタップダンスを踊る場面で、演奏・ダンス共にこの戯曲の世界をよく表現していると同時に、演奏・ダンス自体としても傑出していたからだ。ここばかりは、ブラボーと叫ぶにふさわしかった。

(ところでそのウェスリー役のかみむら周平だが、パンフレットに、少年時代、静岡で推薦がとれるぐらいサッカーに夢中になっていた云々と語っているのを読んで、ム?と思った。もしかすると親類か? つまり、御一新で幕府瓦解の折、よくある話だが上村家の本家筋は静岡へ、分家筋のわが家筋は(おそらく曾祖父の代であろう)北海道へ移住、ということになり、その後更に枝分かれした我が家系は、昭和改元前後、父の代で東京に移住、そのまま定着したのだが、その静岡の本家筋の上村家とも、戦後しばらくまでは縁の糸がつながっていたのは確かなのだ。昭和50年頃だったか、本家筋の遠縁にあたる人から、駿府に移住した旧幕臣について調べているという静岡大学の先生から問い合わせがあったのですが、叔父さん、何かご存じありませんか、と父の所へ電話があった辺りが、細々とつながっていた糸の最後であったような気がする。どうでもいいようなものだが、名前が名前だけに、もしや、と気を惹かれるのも事実だ。)

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『さらば愛しき女よ』『眼下の敵』『帰らざる河』と、ここしばらくの間にBSプレミアムでロバート・ミッチャムを見る機会に恵まれて、それぞれに堪能した。Sleeping Eye(眠たそうな目)というのだそうだが、眼光鋭くなく、猛々しくなく、むしろやさおとこの気味さえあり、といった風情がいい。一流だが、超一流なぞともてはやされるウざったさから免れて、ユニークなキャラクターで一家を成している辺りがスマートである。

物の本で経歴を見ると、14歳にして放浪生活に入る、とある。スターになるまでに相当の時日を要しているようだが、私生活は全く知らないが画面で見る限り、ものの言い様と言い、むしろ物静かに見える。この辺はちょっと三国連太郎とも共通するか。何と言っても『さらば愛しき女よ』の初老の風情が他に真似手のない格好良さだが、これは原作者のチャンドラーの狙い以上ではないかという気がする。

「愛しき女よ」と書いて「いとしきひとよ」と読ませるのは、映画の邦訳で知られた清水俊二の仕業で、「女」と書いて「ひと」と読むのはこれから始まったのだと聞いたことがあるが、おそらく事実であろう。主人公フィリップ・マーロウが事件に巻き込まれ出した頃、当時ヤンキースの花形だったジョー・ディマジオが連続安打の記録を伸ばし始めて話題を集め、やがて事態は解決、物語が終息にかかるところで、ディマジオの連続安打記録も無名の三流投手のために57試合目にノーヒットで終わる、というのが第二次大戦前夜という時代を暗示して、実に効いている。 

ディマジオといえば、『帰らざる河』ではマリリン・モンローが相手役になるのがちょいとした縁の端というものだが、1950年に一度個人として来日、翌年全米軍の目玉として再び来訪、しかしこの年で引退という晩年だったため、時に流石というプレーも見せたが、当時の日本の投手を相手でももうあまり打てなかった。更にその翌々年、今度はモンローの亭主として新婚旅行にやってきた。みぞれの降る寒い日だったが、モンローがスーツの下に何も身に着けていないというのがニュースの最大の話題で、ディマジオの影は既に薄かった。

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やはり最近のBSプレミアムで『ミニヴァー夫人』を見た。前にも一度、どこだったかの名画座で見ているが、1942年のイギリス南部の小都市のアッパー・ミドルの家庭を中心に、英独戦が激しくなり、ダンケルク撤退に夫も駆り出され、息子も航空部隊に配属されるという戦時下にありながら、薔薇の品評会が行われたり、一種の戦意昂揚映画でもあるが、古き良き英国が描き出されているところに捨てがたい良さがある。主人公のミニヴァー夫人がグリア・ガースン、夫がウォルター・ピジョン、息子の嫁がテレサ・ライトなどという、名前を聞くだけで時代が甦る俳優たちを見るだけでも価値がある。

グリア・ガースンという女優は、戦後、外国映画が、戦時中せき止められていたものも新作品も一緒くたにどっと公開された当時、イングリッド・バーグマンと並んで西欧の女優の代表的存在で、幼時だった私でも、母や姉が『キューリー夫人』だの『心の旅路』だのと騒いでいたのをよく覚えている。ずっと後、『心の旅路』を名画座で見て、なるほどこういうものかと感動したのは、映画自体より、かつて公開された終戦直後の空気に触れたためだったに違いない。ガースンはその後わりに早く姿を消したために、永遠の存在となってしまったバーグマンよりむしろ、戦後第一期の時代の空気を伝えることとなったと言える。(この頃はグリア・ガーソンと書くようだが、ガースンと書かないと、往時の匂いが香り立ってこない。)

折から東京新聞の「この道」に阿刀田高氏の連載が始まり、私よりだいぶ年長で当時既に一人前の少年だった氏が、バーグマンとガースンを戦後に見まくった外国映画の真っ先に挙げているのを読んで、意を強くした。この辺りが、調べて書いているのと、往時の記憶が「現在」として生きている人の書くのとの違いだろう。)

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将棋の藤井四段を見ていると、年下の従兄弟でのちに囲碁の九段にまでなった邦夫が、小学校の3年だったかで北海道から出てきて高名な棋士の家に住み込みで入門した時のことをつい思い出すが、もっとも藤井四段の天才棋士ぶりもさることながら、加藤一二三九段の饒舌ぶりの方が、私にはむしろ感慨なきを得ない。かつて白面の青年棋士として脚光を浴びた当時の氏の、白皙、端正な貴公子風のたたずまいの印象からすると、あの劇的な変貌ぶりは、その落差の大という点で、晩年のアラカン以来の驚きと言うべきだろう。(瀬戸内寂聴師にしても、高齢に至って過激なまでの饒舌家になるのは、人間進化のひとつの姿・形であるのかも知れない。)

加藤氏は、若くして登場した時期が大山康晴名人の全盛時代にぶつかったのが、棋士としては不運と言えば不運だったわけだろうが(あれほどまともにぶつかった棋士は他にないのではあるまいか。のちの中原誠名人の登場したころは、これに比べれば、さしもの大山名人ももう少し齢が行っていた)、もっとも、今の氏にはそんなことは大したことではないのかもしれない。それにしても、14歳と77歳が正式の真剣勝負として戦うということがあり得るという、その一つをとっても、囲碁にしても将棋にしても、思えばこれほど、人間ドラマとして「優雅なる過激」な世界もないと言える。(どれほどの大先輩であっても、勝負の決した時、「負けました」と言って一礼するという作法は、この間の呼吸を何ともよく読んだ、自ずから生まれた知恵であるのだろう。)

随談第596回 五月のいろいろ

各種の締め切りが次々と行く手に立ち現れて更新が随分間遠になってしまった。舞台のことは新聞評でお許し願うこととして、訃報やら世上の噂から、いつもの二、三回分をまとめた簡略版でお許し願うことにしたい。

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とは言え、舞台のことにまったくのノー・コメントというわけにも行くまいから、新聞評に言い残したことを幾つか。

まず坂東家の三代4人の襲名だが、これだけ余分なデコレーションのない襲名というのも、何だかずいぶん久しぶりだったような気がする。新・楽善はこれで五つ目の名前を名乗ることとなったわけで、私としてもその五つの名前のそれぞれの時の思い出を持つことになる。やはり、亀三郎から薪水になった頃のことが一番なつかしいが、今更、病気のことを言うのも却って失礼だろうから、ただ、それ以来のこの人の越し方を見てきた一人として、さまざまな思い無きを得ないとだけ、書いておこう。大庭と朝比奈と、襲名の二役では取り分け、朝比奈に深く熟したものがあったのが一入の感慨だった。これだけの朝比奈は、当節、他に求めことは出来まい。熟成度に於いて、父の十七世羽左衛門を抜いていると思う。

新・彦三郎については、規矩整った挙措、高く伸びやかな声、わけても後者は坂東家の芸風に新たな境地を拓くもの、と新聞に書いた通りである。今後この人を、周りがどういう風に遇してゆくかにも、どれだけ大きな花を咲かせることが出来るかが関わっている。同時に、彦三郎自身にも、祖父もおそらくそうであったであろうように、立場上脇の役をつとめることも多かろうが、単なる脇役者ではない、高い志を持ち続けてほしいと思う。

新亀蔵は俣野に近江、それに四変化の神功皇后に善玉、通人に『石橋』の獅子の4役で、俣野の荒若衆がベリベリした中にも行儀のよい芸であるところに、祖父以来三代につながる坂東の家の家風が偲ばれる。ただ一つの意外な疑問は、これだけの俣野でありながら、目が(うまい表現が見つからないが)な、言うなら俣野でなく亀蔵の目のままであるように思われたのだが、どうだろうか?

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菊五郎の魚宗に感服した。先頃の『四千両』と言い、昨秋の勘平と言い、何度もやった役を今までと違えたわけでもないのに、この冴えは、作って作らず、自ずから神に入る境地と考える他はない。この人の越し方も、新・楽善と同じくらい見てきたわけだが、先の辰之助と三人、同時襲名した昭和40年5月の六代目十七回忌の折の歌舞伎座を挟んで、前年10月、東京オリンピックのさなか東横ホールでの若手だけの『忠臣蔵』通しと、同時襲名の翌月の東横ホールの、薪水の『石切梶原』、菊之助の弁天小僧、辰之助の『土蜘』というのが、夢のまた夢のように、しかし確かな手ごたえを以て、三者それぞれの原質を見た記憶として私の中で像を結んでいる。

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新彦三郎の坊やが六代目亀三郎として立派な初舞台ぶりを見せた一方で、同時に初目見得の寺島真秀(まほろ、と読むのだそうな)坊やの方にテレビの報道が集中してしまう。マスコミ、とりわけテレビというもののオソロシサ、残酷さを思わない訳に行かない。

もっとも、『魚宗』にお使い物の酒樽を届けに来る酒屋の小僧を勤めた真秀少年があっぱれの舞台ぶりであったことは、もちろんそれとは別の話である。先に言った昭和40年5月の六代目菊五郎十七回忌に二代目松緑がやはり『魚宗』を出して、この酒屋の小僧の役をしたのが八十助、つまり十代目三津五郎だったのだから、今は昔の夢には違いない。

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5月中に聞いた訃報といえば、月丘夢路に日下武史ということになるが、昭和29年6月に日活が映画製作を再開して、各社からスター、非スターを問わず俳優が移籍した中で、松竹からは北原三枝とか三橋達也とか大坂志郎とか相当の顔ぶれが揃った中で、月丘夢路がトップスターだった。井上靖の新聞小説の映画化『あした来る人』とか『銀座二十四帖』とか、川島雄三監督のものがなかなか悪くなかった。(川島監督の方も、日活に移ってからの方が、今なお傑作の誉れ高い『幕末太陽伝』とか『洲崎パラダイス』とか、このころが一番瑞々しかったが、これには月丘は出ていない。)そうこうしている内に石原裕次郎が出現して、『鷲と鷹』という発端の数分を除いては全場面船の上という一風変わった映画で、(ついでだが、裕次郎のアクション物ではこの作を以て私は最上とする。主題歌が実にいい)父親の仇を討つために貨物船に乗り込んだ裕次郎を追って密航者としてもぐり込んだあばずれ役をしたのが、当時の月丘としては変った役だったのと、『素晴しき男性』というミュージカル仕立ての作で姉の役で出たのがあった。どちらも井上梅次監督で、この後『嵐を呼ぶ男』だの何だの、裕次郎ものの定番が確立するその前夜の作で、『鷲と鷹』では月丘が愛人役だが、『素晴しき男性』では北原三枝が恋人役になる。つまりこの辺に、分水嶺があったわけだろう。

松竹時代は、誰でも知っているのは小津作品『晩春』の原節子の友人役だが、昭和28年から年に一作づつ、秋の大作として後の白鸚の八代目幸四郎を迎えて時代劇の大作を撮ることになった、その第一作の『花の生涯』でも儲け役を演じ、第二作の『忠臣蔵』では幸四郎の内蔵助に瑶泉院をつとめたり(映画の瑶泉院として、私の見た中で最上位としたい)、高田浩吉の『伝七捕物帳』シリーズで女房お俊というのも懐かしい。むしろこれが一番よかったかもしれない。この役は、三作撮ったところで日活に移籍したので、草笛光子が二代目お俊をつとめることになるが、月丘の方は日活に移ってから『おしゅん捕物帳』という、当時の娯楽時代劇としては珍しい女優が主演の捕物帳を撮っている。以て、いかに人気があったか分かるであろう。晩年、もう画面からも舞台からも遠ざかって大分たってから、一度だけ、演目は覚えていないが、帝劇だったか芸術座だったかに姿を見せたことがあったが、あれは忘れてしまった方がよかったかもしれない。それにしても、死亡の報は新聞でもまずまずの扱いをしてくれたのは何よりだった。妹に、月丘千秋という、整っているという意味では姉よりもオーソドックスな美人だった女優がいて、随分いろいろな作品に出ていた筈だが、遂にこれという決定打を放つことなく終わってしまった。ある意味では姉よりこちらの方が、いまとなっては懐かしい感じもする。(まだ健在だろうか? いや、大分前に訃報を聞いたような気もするが・・・)

マスコミの扱いというなら、日下武史の訃報の記事には、しばらく現役から離れているとこういうことになるのか、という典型を見る思いである。あれだけ、いわゆるマスコミ露出度も高かった往時を知る者はまだまだ少なくない筈だが、マスコミの現場の第一線にはもういないということか。私にとっては、昭和38年に日生劇場が出来て、劇団「四季」と、文学座から脱退組が結成した「雲」とが、自分たちの公演を交互に行なったり、十七代目勘三郎が『リチャード三世』をした時は、四季・雲双方から出演したり、といった頃が懐かしい。藤野節子がアヌイの『ひばり』でジャンヌダルクをした時に、けん玉を発明したというフランス王の役で、けん玉をしながらセリフを言うのだが一向に上手くいかない。『どんつく』の太神楽とは違うのだからけん玉が下手でもいいようなものだが、あゝやっぱり新劇だなあ、と妙なところで思ったのを思い出す。

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東京場所であるにもかかわらず、夏場所は遂に国技館に足を運ぶことがなかった。前売り1時間半で全席完売になり、窓口を開く前に販売打ち切りとなったからだ。相撲人気が上げ潮のところへ稀勢の里人気が加速させたからだが、今後は窓口での前売りはしないという。不祥事続きで人気低迷の時にも変わらぬ熱心さで窓口に並んだのは誰だと思う、などとボヤいても、今後はネット販売を全国展開します、という大義名分の前には聞く耳など持って貰えそうにない。

歌舞伎座でも、かつては、前売り発売日に行列の中に並んで、窓口に辿り着くと、香盤といって、厚さ数ミリはあろうかというボードに座席表を書いたものが、25日分、高々と積み上げてある。たとえば何日の昼の部の三階A席、という具合に注文すると、積み上げた山の中からその日の分を抜き出して見せてくれる。ここ、と指さすと、前売り係のオネエサンが色鉛筆で一席一席、売れた席を消して行く。前売りというと、ついこういう光景が思い浮かんでしまう。

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稀勢の里の途中休場というのは、こういうことになりゃしないかな、というかねがね抱いていた危惧が、やっぱり、という現実となって現れたというのが率直な印象である。だって、先場所13日目の、怪我をしたときのあの様子を見れば、ただごとではないことは素人目にもわかる。いや、こういうことは素人の直感の方がえてして当たっているものなのだ。こうなったら、かつての千代の富士がそうであったように、まずきちんと治すべきものは治すべし。それ以外はない。

しかし、弟弟子の高安の活躍が兄弟弟子の美談を生み、大関昇進という快挙を生んだのだから、相撲界の上げ潮ぶりは、弱り目に祟り目だった数年前のマイナス札が全部プラス札にひっくり返ったようなものだ。高安の新大関ぶりもなかなかいいし、結構なことである。切符が簡単に手に入り難くなってしまったことを除いては。

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アキレス腱断絶で十両に下がって、今場所も六日目に2勝4敗になったときにはどうなることかと思った安美錦が、その後挽回してなんと千秋楽に優勝を争うことになった。一度は行司の軍配をもらったのが、物言い取り直しになって負けとなり、フイになったのは余儀ないこととは言え、最高齢十両優勝というレジェンドになりそこなったのは、逃した魚は思いの外に大きかったかもしれない。白鵬復活優勝の陰のちょいとしたグッドニュースとして、社会的にも良き話題になり得たであろうに。

やはりアキレス腱断絶で再起後もはかばかしい成績をあげられず幕下中軸にまで下がってしまった豊ノ島の方は、放送を気を付けて聞いていても戦績を報道してもらえない。特別扱いをしないという方針があるのかもしれないが、あれだけの力士の戦績や現況を知りたいと気にかけている相撲愛好者は少なくない筈だ。時には話題にかけて然るべきではないか。 

テレビの中継放送が始まるのは十両の取組みの中程からで、それまではBSの中継を見るわけだが、十両の取組みは前日に発表になり新聞にも載るから出番の時刻の見当もつき、対応ができるが、幕下以下のこととなると普通には分からない。それにそんなに早い時間からテレビに噛り付いているわけにもいかない。

もうひとつ、BSから地上波に切り替わるとき、あと30秒で地上波の放送に変わります、などと画面に予告は出るのだが、時刻になると取組み中でも構わず、機械的に切り替えてしまうのは、いかにも心無いわざではなかろうか。
       

随談第595回 訃報たち

ペギー葉山という人の名声は昭和30年代半ば以降、『南国土佐を後にして』と『ドレミの唄』の二曲で、国民的な規模で決定づけられたわけで、それに異議を唱える気は少しもないが、私にとってはそれより前の、洋物の歌を歌えば、シャンソン歌手以外は一律にジャズ歌手と呼ばれていた頃のペギーの方が懐かしい。ペギー葉山とかナンシー梅木とか、「二世」という言葉も今となっては古めかしいが、当世流に従えば「ハーフ」でもないのに、姓名の「名」の方を片仮名の異人風にした芸名が、いかにも昭和20年代の匂いを芬々とさせる。この間死んだかまやつひろしの父親はティーブ釜萢だし、トニー谷、フランキー堺、フランク永井等々、歌手と限らず、記憶をたどって数え出せば陸続と続くだろう。プロ野球の選手も、これは本当に日系の「二世」だが、与那嶺要はウォーリー与那嶺だし、西田亨はビル西田だし、日米二つの名前を持っていた。外人選手流入時代の前に、日系二世の選手の時代があったのだ。(因みに長嶋茂雄の前に巨人の三塁を守っていたのは、柏枝という二世選手だった。川上が4番打者の座を下りて長嶋に定まるまで、巨人の4番を打ったのもエンディ宮本だった。)
ところでペギー葉山だが、晩年といっては失礼だが、老いて未だ威風を放つその姿を見かけたことがある。いまの猿之助がまだ亀治郎の名で脚光を浴び出して間もない頃、京都の大学内の劇場で毎夏「亀治郎の会」を開催して注目を集めていたその開演前のロビーの雑踏の中でだった。つまり、彼女は亀治郎を京都まで見に来たのだろう。ごった返すロビーで、強度の近視の私の友人が鉢合わせしそうになってハッとした一瞬、さりげない身のこなしで擦れ違うと、あでやかに人ごみの中に消えていった。見事な光景だった。

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三遊亭円歌の訃報を知らせるニュース番組で、アナウンサーが「演歌さん」「演歌さん」と初めから終いまで、頭にアクセントを置いて呼んで(読んで)いた。若いとは言ってもそれほど駆け出しとも思われない年配と見受けたが、つまりこのアナ氏は、円歌という噺家の存在を、自分の関心の中に一度も容れた(入れた)ことがないのだろう。知らないということほど、ナサケナイことはない。

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金森和子さんと言っても、このブログを読んでくださる人の中にも知る人はそうは多くないかも知れない。『歌舞伎座百年史』などの大部の労作の編集に携わった人といえば、少しは分かってもらえるだろうか。私が新聞評を書き出して間もない頃、たまたま席が近くだった時、あちらから名乗りを上げてくれたのが最初だった。まだぽっと出のころに、そういう接し方をしてくれる人というのは、何とも有難いものなのである。

最近しばらく顔を見ないと思っていたら、ついこの正月だったか、歌舞伎座のロビーで立ち話をしていたら通りすがりに挨拶をされ、一瞬だが、金森さんと気が付くのに暇が掛かった。重い病気に罹って、久しぶりの歌舞伎座なのだということだった。たとえそんない方でも会い方でも、亡くなる前に言葉を交わすことが出来て良かった。

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そして、最後に佐田の山である。

この人が登場した時、既に世は柏鵬、すなわち大鵬・柏戸の時代が始まっていた。栃錦が引退したのは60年安保闘争がいよいよ大詰めに差し掛かろうという五月場所で、その年の一月場所に新入幕した大鵬が、まだ上位との対戦のない位置ながら11日目まで連戦連勝、あわや平幕優勝をさらうかと注目が集まったとき、既に関脇に昇進していた柏戸と普通なら顔の合わない位置ながら対戦が組まれ(こういうことは現在でもちょいちょいあるが、まず真っ先に柏戸を当てたところに、ただの「止め男」ではない期待が籠められていた)、押し合いの末、柏戸が引き落として勝った。

結果としては栃錦がすんなり優勝、場所後にエールフランス航空から優勝力士への報償としてパリ旅行招待という、この年から始まった椿事があった。当時、パンアメリカン航空が、千秋楽の表彰式というと、ナントカさんといったっけ、米国人の日本駐在員が紋付き袴でたどたどしい日本語で賞状を読み上げるのが名物になっていたのへの対抗策として、後発のエールフランスが「パリ旅行」という「記念品」を考え出したのだった。一般人の海外渡航が解禁になる前夜というこの時期を物語る、これも戦後世相史の一ページとして優に書き留められて然るべきことであろう。初場所優勝力士に対するこの「ご褒美」はその後数年続いて終わったが、第一回のこの時は優勝した栃錦に柏戸もお供をするということになって、羽織袴姿でベルサイユ宮殿を見物中の写真とともに、栃錦が柏戸の女房と間違えられて「マダーム」と呼びかけられたというゴシップが添えられてきた。このパリ旅行には、すぐ三月に春場所が始まるという慌ただしい中に一航空会社の宣伝にのっての外国旅行など稽古不足の基であり百害あって一利なし、という声もあったりしたが、さてその翌三月の大阪春場所が、いまでもちょいちょい当時の映像を目にする若乃花との横綱同士の全勝対決で、この一戦に敗れた栃錦は、次の五月場所に初日・二日目と連敗するとそのまま引退したのだったが(大鵬は、だから、一躍上位に昇進した三月場所で、たった一度だけ栃錦と対戦している。ほとんどいわゆる「電車道」で、あっという間に押し出されてしまったが)、当分は、一人天下になった若乃花の時代が続くものと思われたにも拘らず、しばらくは第一人者の地位は保ったものの予想外に早く衰えを見せ(好敵手の引退で目標を失ったと言われた)、大鵬は入幕一年目には大関として柏戸に並びかけ、二年目の秋に横綱に同時昇進した時には既にやや優位に立っていた。まだ青味は残しながらも、時代の趨勢は既に柏鵬にあった。

佐田の山が台頭したのはそういう流れの中だった。体格は見るからに二人より貧弱で、年齢もやや上だった。いいところなしのようだが、しかし突っ張りを武器に果敢に柏鵬に挑み、何度かに一度は牙城を突き崩す相撲ぶりはなかなかよかったし、あまり当世風でない風貌もあって古格すら感じさせた。やや遅れて、当時は珍しかった大学相撲から鳴り物入りで角界入りし、見る見る台頭してきた豊山にはとりわけ激しい闘志を見せたのも、偏狭というより、気っぷのいい、古き良き相撲取り気質と受け止められた。柏鵬より後から横綱になり、柏鵬より先に引退したが、決して単なるB級横綱ではなかった。しばらく優勝から遠ざかった後、二連覇した次の場所、初日・二日目と連敗すると引退を発表したのは栃錦の引退に倣ったのだと言われた。佐田の山に続いて、栃の海、北の富士と、同じ出羽の海一門から横綱が出て、このころまでが名門出羽の海一門の面目が実質をもって保たれていた時代だった。正直に言って、私としては柏鵬にもまさってなつかしい力士である。

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と、ここまで書いて一晩寝かせて置いたら、今朝の朝刊に元NHKのスポーツ・アナの土門正夫さんの訃報を見つけてしまった。東京五輪の際、例の女子バレーボールの決勝戦のラジオの放送を担当したというのが記事の中心である。なるほど、あくまで堅実なよき意味での女子バレーの決勝戦をテレビで放送したのは鈴木文弥アナで、大詰の日本のサーブの時、「金メダルポイント」と繰り返し絶叫して、批判を浴びながらもしばらく一世を風靡したが、「文弥」などという名前も、このアナ氏を人気者にする上で一役買っていたのは間違いない。(正夫と文弥ではインパクトが違う。)同じころNHKの相撲放送で鳴らした北出アナは名前が「清五郎」だったが、こういう名前がまだこの世代にはちょいちょいあり得たのだ。そういえば昭和30年頃、十両に大瀬川半五郎という力士がいたし、もっと前の横綱前田山は英五郎だった。さながら次郎長三国志だが、何と今年になって、プロ野球で「栄五郎」という名前の新人が活躍している。キラキラネーム隆盛の当節、結構なことである?

随談第594回 今月の舞台

まず歌舞伎座の「お噂」から取り掛かろう。

染五郎の貢がなかなかいい。染五郎としてはもしかするとこれが一番の適役かもしれない、とすら思いながらロビーに出て、聞こえてくる評判を聞いていると、案外にも、褒める声が多くない。どうも感じが、いま一つ違う、ということらしい。私としては、ピントコナといわれるこの役の感覚に、久しぶりでぴしゃりと適った貢に出会ったと手応えを感じたのだったが・・・。もっともこういう感覚というものは、自分が実際に出会った舞台をベースに蓄積され、発酵を繰り返しながら育っていくものだから、当節の見巧者たちにとっては、貢と言えばたとえば仁左衛門なのであろう。現に今度の染五郎も仁左衛門に教示を受けたのだそうだから、まずそこのところに関心が集まるのも尤もなところだ。私とて、仁左衛門を当代での貢役者と見ることに異論はない。染五郎が仁左衛門のやり方をよく学んで演じていることもよくわかる。

だからそれはそれとしての話だが、今度の染五郎を見ながら、角々のきまりやちょっとした間合い、その時の目の使い方、顎の使い方、後頭部から肩や背中の線などに、勘弥の貢を彷彿させるような箇所が幾つもあり、それが私にちょっとした驚きをもたらした。こういう、柔らか味のある、とろっとした感触のある貢を、ずいぶん久しぶりに見たと思った。ピントコナという、どこか滑稽味をはらんだ感覚が、この言葉の語感のなかに宿っている意味を解くカギだと思うのだが、勘弥の芸の中にあったある種の軽みと共にあるおかしみが、私が見た限りの貢たちの中で最も、あゝ、これがピントコナだと直感させるものであったと思うのだ。今度の染五郎は、比べればやや薄味ながらそれを思い出させた、というわけである。

現・仁左衛門は、この人らしく、父十三代目のものに自身の柄や工夫を掛け算して独自のものを作り上げたものと思われる。十三代目は、衣裳も東京の貢たちのように白の上布を着たこともあったが、上方歌舞伎と謳った公演では、浅葱の衣裳を着たと思う。昭和40年6月、東横ホールに上方歌舞伎の公演が掛かって、そのときに十三代目の貢を初めて見たのだった。(『鰻谷』の八郎兵衛を見たのもこの時だった。ワンフロア下の百貨店の食堂と別に劇場の中にも小さな食堂があって、気が付くと隣のテーブルに、自身はこの公演に出演していなかった鴈治郎(もちろん二代目である)が焼きそばなんぞを食べていたり、他の劇場では体験できないようなことが、この劇場ではあり得た。)

筋書巻末の上演記録を見ると、勘弥が貢を演じたのは戦前は知らず戦後ではただ一度きりらしい。(初代吉右衛門が最晩年の昭和27年7月、貢をつとめた時に勘弥が型を教えているのは、当然、経験があったればこそであろう。) 昭和42年7月、八代目三津五郎が父七代目の七回忌追善興行をした時で、追善の演目は『関の扉』に『勧進帳』という、踊りの神様七代目のイメージからすると異色なものだったが、八代目としては思うところあってのことだったようで、たとえば弁慶は、七代目はもちろん本興行で出したことはないが、八代目としてはいろいろ教わる処があったのでそれを世に示したい、という趣意だった。後の九代目の簑助の縁でか、菊五郎劇団から三代目左團次と梅幸、それについその三カ月前に七代目を襲名したばかりの芝翫(つまり、あの芝翫である)が客演したお陰で、左團次の宗貞という、今にして思えば貴重な眼福を得たり、後の十代目三津五郎がまだ11歳の八十助少年で、父の蘭平で『蘭平物狂』の繁蔵をつとめて、祖父八代目をして、これで歌舞伎は30年生き延びたと言わしめたとか、いろいろミソがあった公演だったが、当時の歌舞伎界を蔽っていた状況からすると、傍流に掉さす人たちによるやや異色な公演で、ご常連からは、今月はパスかな、などと見られがちであったことは確かだろう。そうした中で、勘弥としては従兄弟の八代目三津五郎の弁慶に富樫をつき合い、自身の出し物として『伊勢音頭』を出したというわけだった。こういう機会に、という自負があってのことと想像できる。(つまりこういう折でもないと、歌舞伎座で貢をつとめられるような機会はあまりなかったわけだ。)他の配役は梅幸のお紺、三津五郎の喜助、簑助のお鹿、菊之助(つまり現・菊五郎である)の万次郎、売出し間もない玉三郎のお岸に、さて万野が多賀之丞で、これは本当に見ておいてよかったと、私の観劇歴中でも幾つかという内に数えられる。いかにも夏の芝居らしく、どんなに突っ込んで芝居をしても芸が暑苦しくならない。洗練の極みである。もっとも、あんなのは真似の仕様がないから、今度の猿之助が熱演のあまり少々暑苦しくなったって咎める必要は毛頭ない。秀太郎に教わったと言っているが、二代目の鴈治郎のが面白かった、などとも言っているのがニクイところで、相当研究しているに相違ない。鴈治郎の万野というのは、私が見るようになってからは東京ではしていないから、最晩年に関西でしたのを見てきた人が、別に頼んだわけでもないのに、あんまり面白いからとブロマイドになった舞台写真をお土産にくれたのを貰ったので推し量るばかりだが(ブロマイドとは思えないような凄まじい顔で写っていた。それにしても猿之助は当時いくつだったのだろう?)猿之助は相当よくやっていると認めていい。後に衣装を変えるのが上方式なのだろうが初めて見た、ように思う。(さっき言った昭和42年6月の東横ホールの上方歌舞伎公演で十三代目仁左衛門の貢が浅葱色の衣装でつとめた時、万野は四代目菊次郎だったが、さてどうだったか? 残念ながら覚えていない。)

というわけで、染五郎貢、猿之助万野がそれぞれ自分の仁にあってそれぞれよく、且つ取り合わせの妙も利いて面白く、梅枝のお紺、米吉のお岸、ちょっと水気が過多のようではあるが神妙につとめているところを買って松也の喜助も無事とすれば、この若いメンバーに、秀太郎の万次郎、萬次郎のお鹿などという長老連と(この中に京妙の千野も加えたい)、何とも不思議な取り合わせもおかしく、何だか私一人で褒めているような気もするが、近頃面白い『伊勢音頭』ではあった。(忘れるところだった。橘太郎に橘三郎に隼人の林平による「追っかけ」から「二見ケ浦」も近頃でのものと認められる。十頭身みたいな顔の小さいのは気になるが、隼人の息の良さというものは、先月の『伊賀越』の奴でもオッと思わせる。)

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幸四郎が13度目とかいう『熊谷陣屋』を出して、幸四郎一代としての熊谷を作り上げた感があるが、今回ひとつオヤと思ったのは、顔をいつもの砥の粉よりも赤面と言っていいほど赤く塗っていることで(そうすると癇癪筋が引き立たないのが難だが)、察するに芝翫型を加味乃至折衷したものか? いわゆる團十郎型が、相模をそっちのけにして熊谷一人の心境劇になってしまうことへの批判や反省が(以前からあったにはあったが)最近頓に聞こえて来るようになったのは、ひとつには男女対等がここまで進化した世相の反映でもあるだろう。吉右衛門も仁左衛門も、それぞれ團十郎型の熊谷の中で、能うる限り、敦盛≠小次郎の首の扱い方に気を配って相模への心遣いを示す工夫をしているが、今回の幸四郎は、それを一段と進めようということでもあろうか?

(それにしても、埼玉の奥の熊谷からはるばる神戸まで、我が子を思ってやってきた女房に向かって「ヤイ女」とは、いくらなんでもないよナア。赤い顔をした素朴な豪傑のオジサンならまだしもユルセルが、砥の粉の顔の沈着冷静なミスター熊谷ともあろうものが、なおさら気になる? 今日埼玉県立熊谷高校が甲子園に出場したとして、球児たちの母親連中がバスを連ねて駆け付けるのと、相模が一里歩み三里歩みして、徒歩でやってきたのと同じ距離であるわけだ。)

ところで、ここでも染五郎が義経を、猿之助が女形で相模をつとめ、実力を見せるが、猿之助の相模が小次郎の首を抱いてのクドキが、座ってする仕事が多い。私の席はちょうど相模の居所と相対する位置にあったのだが、生憎この日は前の席に座高高く肩幅広い偉丈夫が座ったので、普通に坐っていると丸っきり姿が見えない。後ろの席に気兼ねしつつ左右いずれかへ首を傾げねばならず、じっくりと見極めることが出来なかったのは残念である。

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吉右衛門が『吃又』をするのは数え間違いでなければ今度で10演目のようだ。もちろん悪かろう筈もないが、大きな体を小さくして芸をしているような感じがないでもない。むしろ今度は、菊之助がお徳をするのに興味があった。栗梅の小袖に黒繻子の帯という女房役の典型のような姿の菊之助というのは、あまり見た記憶がない。昨秋の『六段目』でお軽を見たのも珍しかったが、お軽は姿は女房でも性根は娘だから、今度のお徳で吉右衛門を亭主に持っての女房体験は大いに得る処あったに相違ない。祖父の梅幸という人は、立女形として大きな役もいろいろしたが、十一代目團十郎や松緑を相手に女房役も数々つとめている。

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坂田藤十郎が長右衛門、鴈治郎が『醍醐の花見』の秀吉一役切りで上がってブルペンで待機という態勢下、立ったり座ったりを能うる限り少なくしてつとめる。たまたま初見日、お半の書置きを知って、行灯の燈を掻き立て、読もうと立ち上がった途端、あわや稀勢の里の二の舞かとヒヤリとさせる場面もあったが、どうやら無事であったようなのは何よりだった。(間髪を入れぬタイミングで下手からすっと近寄り、一瞬で様子を見極めてすっと姿を消してしまった黒衣の振る舞いが見事だった。)大長老の気力には敬意を表するしかないが、この人はやはり辛抱役より、お半と長吉の二役を変わった在りし日が懐かしい。辛抱役でも『河庄』の治兵衛とは一つではないようだ。もっとも今回は、そのお半と長吉の二役を壱太郎がつとめるというミソがあり、この秀才クンは抜かりなく巧打を放ち、ここでも染五郎が儀兵衛をつとめるという協力体制。上村吉弥のおとせが、『宵庚申』の八百屋の婆をさせてみたいような面白さがある。

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猿之助の『奴道成寺』に「三代猿之助四十八撰の内」という肩書がつけてある。なるほど、「家の芸」なわけだ。過日初目見得をした大谷桂三の長男が大谷龍三と名乗って小坊主の役で初舞台。数奇な役者人生を閲してきた桂三を思うと、どうぞ健やかに成長してくれと願わずにはいられない。

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亡き勘三郎ゆかりの赤坂ACTシアターの赤坂歌舞伎(実は「赤坂大歌舞伎」と「大」の字がついている)で初の新作を掛けた。蓬莱竜太作・演出で『夢幻恋双紙』。「赤目の転生」というサブタイトルがついている。小劇場系の気鋭の作者らしく、こうと思えばあゝといった感じで次々と観客の意表を突いてゆく展開といい、それを転生という形で人間の諸相を視覚化して見せる、水際立った演出の手際といい、なかなかのものだし、作としても悪くない。勘九郎にしても七之助にしてもなかなか達者で、こういうものをすればひょっとすると親父より巧いかも、と思わせるほどだ。だがここで気になるのは、和服を召した年配のご婦人方から各年齢層に広がった中村屋ファンと思われる女性観客たちが、どういう感想をお持ちになったか、である。思うに、この作を盛る器として最もふさわしい劇場はと言えば、赤坂ACTシアターよりむしろ、新国立劇場の小劇場ではあるまいか、というのが見終わっての私の第一の感想である。(「新」の字がついているのに注意。三宅坂ではなく初台の方ですぞ。)いっそこのメンバー、このスタッフがこぞって新国立劇場に出演したなら、歌舞伎界だけでなく日本の演劇界にとっても、もっともっと、幾層倍にも意義ある公演になり得たのではあるまいか。どこかの先走りの週刊誌が「歌舞伎が新国立へ殴り込み」などと書いてくれるかもしれない。

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「歌舞伎」と名乗る公演が今月はもう一つあって、それは新橋演舞場の「滝沢歌舞伎」である。「滝沢演舞場」と称していた頃から数えればもう随分の年数を数えることになる。毎回欠かさず見ているわけではないが、はじめは国籍不明のようなところに魅力を発散させていたようだったのが、三十半ばという年齢だそうだが、大分落ち着いた「歌舞伎」ぶりを見せるようになっている。今年は『鼠小僧』を結構面白く見せている。「野田版」を認めるなら、これだって「滝沢版」として認められて然るべきには違いない。とにかくこの一党の身体訓練だけでも一見に値するわけで、戸板を使った義堅ばりの立回りにしても、大ゼリを使って歌舞伎の義堅の二倍の落差を跳び下りるのだから、大変なことは間違いない。

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この月のミュージカルは、40年余、今なお連載が続いているという少女漫画を原作とする日本製ミュージカル『王家の紋章』の再演、英国小説の原作による米国製ミュージカル『紳士のための愛と殺しの手引き』といった、いろいろに考えるネタを提供してくれるかのような作が並んでいて、それぞれに興味深かった。かつての『ベルサイユの薔薇』にしてもだが、西洋史やら中東史やらを題材なり舞台なりにして女性の作者が大長編を物してしまうというのは、さすが紫式部の国ならではとも言えるが、一面、すぐれて現代日本ならではとも考えられる。かつてはかの『八犬伝』あり『白縫譚』あり(なんと現代語訳が、それも女性の訳者の手でなされていることを迂闊にもつい最近知った)、だから男性にも物語作者の才能はない筈がない(筈なの)だが、少なくとも今日、男がつまらぬ小理屈に拘泥して物語を構築する才覚と度胸(と考えるのが、おそらく一番当たっているであろう)を失ってしまったのが最大原因であろう。まさしく「女は度胸」の時代なのだ。(三島由紀夫は逆立ちしても山崎豊子になれなかったであろう。)

一方『紳士のための愛と殺しの手引き』がアガサ・クリスティーを思わせるような物語性を秘めているのも興味を惹かれるが(つまりかの大英帝国も、かつてはウォルター・スコットのようなのもいたが、近代に入るとミス・マープルのおばさんに名を成さしめることとなる)、しかしこちらについては、そういうことよりも、米国製ではあっても英国の貴族社会の相続制度をネタにしているためもあり、ミュージカル化に当たっての脚本と作曲に妙を得ているためもあって、テイストがイギリス風なのが面白いし、成功の因になってもいる。要するに、ドタバタをしてもガキっぽくないのがいい。宮沢エマという最近になって見掛けるようになった女優は、かの元首相の孫娘なそうだが、なかなか潤いのあるソプラノで、この芝居の肝になる場面で、おそらく技巧的にも難しいに違いない曲を好唱佳演してまことに結構だった。今回公演の殊勲甲である。

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新国立は前回の『白蟻の巣』につづくシリーズ「かさなる視点・日本戯曲の力」の第2弾で安部公房の『城塞』。初演当時は奇天烈と見えたに違いない劇中劇中劇という設定も、そういう点ではすれっからしになっている当節の観客には受け容れやすくなっているが、翻って思えばそういう観客を造成するうえで、この作などが大いに貢献した筈ともいえる。同時に、昭和37年という時点で、昭和21年を劇中劇としてみせるという入れ子構造による三一致の法則が、いま見ても充分インパクトがあることを確認できただけでも、今回上演した意義はあるというものだ。

そうは言うものの、二つの劇中芝居の内、主人公の「男」とその「男の父」の方は明快だが、「男」と「男の妻」の方がもうひとつすっきりしないために、やや片肺飛行の感が残るのが今度の上演の難点だろう。名作はすべからく明晰・明快であることを要するのだ。

アベ・コウボウというやや奇妙な響きを持つ名前は、中学生のころラジオの放送劇(という言い方の方が普通だった。ラジオドラマとは、まだあまり言わなかった)の始まりに、「作・アベコウボウ」というアナウンスをちょくちょく耳にしたのが始まりだった。奇妙な内容だが決して難解ではなかった。初期のテレビにも、ちょいちょい出演してヤマアラシのようなヘアスタイルを見せていた。言うこともしごく平明だった。それなのに「演劇」となると妙に難解になってしまうのは、だから演出や俳優の演技のせいではないかという気が、私などはどうもしてしまうのだが。

随談第593回 このところの話

前回と前々回の第591回と第592回でうっかりミスを二件、犯していたことに後になってから気が付いた。まずはそのお詫びから。

一件目は第591回のフランス女優ミッシェル・モルガンの訃報のところ。子供のころ西洋人の女性、特に女優の顔を怖いと思うことがよくあったが、彼女などもその代表格だったと書いた話の続きとして、同時代のフランス女優の連想から、『天井桟敷の人々』のアルレッティなどもそのひとりだった、と書こうとして、そのアルレッティの名前が不意に出なくなった。こういうことは若い時にだってあることだが、近頃頓に多くなったのは残念ながら歳のせいと思わざるを得ない。目の前にいる孫の顔を見ながらいまは50歳を優に超えている筈の甥の名前が口をついて出たりする。溺愛?する身内の幼い子供として、年若の叔父として初めて接した甥の名前が脳裏の最深部にインプットされているのに違いない。で、こういう場合、しばらく放っておくと自然に記憶が回復するのが分かっているから、それから書き加えればいいと思って取り敢えず先を書き進めたわけだが、今度はそれを失念したまま載せてしまった、というのが事の次第。掲載が大分間遠になっているのが気になっていたので少々気が急いていた、ということもあったとはいえ大トチリではあった。

もっとも、こちらは恥になりこそすれ迷惑を及ぼすことではないが、もう一件の方は、前回の最後の話題『マリウス』について新橋演舞場でと書いたのは全くの勘違いが原因のうっかりミス、正しくは日生劇場だった。こういうミスはよろしくありませんね。改めてお詫び申し上げます。

ところでその新橋演舞場は愛之助らによるブロードウェイ・ミュージカル『コメディ・トゥナイト!』なるもので、ちょいとこれは、どうにもならないものだった。「ローマで起こったおかしな出来事」の「江戸版」と副題に謳っているが、うわべだけローマを江戸におきかえたところで話のポイントが土台から成り立たず、洒落にもならない。企画の見通しの甘かったが故の失敗だから、愛之助が懸命につとめるだけ気の毒になるばかりで、とても笑えるものではない。

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大相撲春場所はおそらく誰ひとり予想しなかったであろう筋書となって、さしも普段は関心を示そうとしない民放各局まで、春場所だけでなく相撲の話題をいろいろな番組にして放送を始めている。稀勢の里はこれで断トツに人気随一の力士となったに違いない。相撲ぶりもだが、横綱の土俵入りが、所作のいちいちに重みがあって近来稀に見る素晴らしさだ。セリ上がりの前傾も程がよく、したがって風格が出る。最近の横綱は皆、不知火型だとそうなりがちなのは差し引いても前のめりに突っ込み過ぎるのが気になる。マスコミが、何秒かかったからどうのということばかり問題にするのはおかしな話で、流れと間合いが整っていることが肝要で、先輩の三横綱の中では、リズム感がいい日馬富士のが一番、白鵬のは、ひとつの所作ごとに流れが停滞する感じが感心しない。

万人が目撃していた土俵上での怪我を押して出場、優勝を決めたのは、貴乃花最後の優勝のケースが、小泉首相の「痛みに耐えてよく頑張った、感動した」という総理大臣杯授与の際の「名言」で誰知らぬものないが、13日目の土俵で負傷、休場かと思われたときに連想したのは、昭和31年秋場所の初代若乃花のことである。前場所初優勝してこの場所も最有力と目され、当然横綱昇進が期待されていた初日目前、煮立っているちゃんこの大鍋を、回りではしゃいでいた3歳か4歳ぐらいだったかの長男坊がひっくり返して全身火傷で死去するという不慮の悲劇に見舞われた。当時大関で若の花(はじめ若ノ花だったのが、験を担いで若の花となったら大関となり、こののち、若乃花と改めて横綱になったのだったが、「ノ」「の」「乃」、どう書こうと、本来こういう場合の正式の表記は「若花」であり、「の」は補いのためなのだからどう書いても同じことであり、この改名は意味がないと評した古老がいたが、なるほど、一理ある一家言であろう)といっていたが、その日からちゃんこを絶ち、土俵に上がるとき以外は大きな数珠を掛けて念仏三昧で秋場所に臨んで、鬼神の乗りうつったように連戦連勝、12連勝したところで高熱に倒れ休場となった。それでも千秋楽に再出場、勝てば優勝というので、本割が組まれて横綱の栃錦と対戦と決まった。ところが高熱が引かない、協会も異例の措置を取って、幕の内の取組み開始の時刻まで出場を待とうということにしたのだったが、遂に高熱が引かず欠場となり優勝を逃し横綱昇進もお預けとなった。(つまりこの場所、若の花は不戦敗が二つ付いて12勝2不戦敗1休み、という戦績だったことになる。)しかしこのときの強烈な印象から「土俵の鬼」という異名が出来、若乃花人気は爆発的なものとなったのだった。(日活で映画化して題名も『若の花物語・土俵の鬼』、本人役には本人が出演し、奥方役をつとめたのが、のちに石原裕次郎夫人となった北原三枝だった、という嘘のようなホントの話がおまけにつく。)

負傷を押して優勝、物凄い形相が評判となったという点では貴乃花の時と共通するが、しかしあの時の貴乃花はすでに功成り名遂げた晩年だった。片や新横綱の場所、片や横綱目前の場所でそののちに全盛を迎える期待をいやが上にも高揚させたという意味では、今度の稀勢の里のケースは初代若乃花を襲った惨事と重なり合う。確かに、八角理事長の言うように、後世語り継がれるであろうことは疑いない。但し問題は、あの怪我が今後の土俵にどれだけ尾を引くかということであろう。顔を歪めてしばし動けず、検査役の親方に背を持たせかけるというあの様子から察するに、筋肉断裂とでもいうことでなければいいが。

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それにしても、稀勢の里礼賛の声に覆われてほとんど聞こえてこないが、当の相手が照の富士であったというのは因縁というほかはない。一昨年秋場所13日目、照ノ富士が土俵上の取組みで膝を痛め、以後1年半、低迷を続ける原因となった一番の相手が稀勢の里だったのだ。たまたま私は見に行った日だったから、膝が折れるように崩れ落ちたさまを眼前にしたが、あの負傷がなければあの場所優勝して連続優勝、横綱になっていたところだった。踏ん張りが利き、寄りをこらえたり、吊り上げたりする怪力を発揮出来るようになった今場所は7割程度の回復具合と思われるが、終盤の遠藤戦と鶴竜戦で無理をしたのが祟って、稀勢の里との二番は膝の悪さがかなり目についたのも、事実として誰かが書いておくべきだろう。(このことは琴奨菊戦での問題の立会い変化にも微妙に影を落としている筈だが、しかしああいう一番で「あれ」をやっては、完全アウェイになってしまうのはやむを得ない。あの一番で出来た悪役イメージは今後の相撲ぶりで払拭するしかない。)

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照の富士との本割の一戦の最後の仕切りに入る時、解説の舞の海氏が、私なら右に変化し(て右上手を取りに行き)ますね、と言ったのが適中し稀勢の里が立会い右に動いて右上手を取りに行ったのだったが、立ち合い不成立となって、今度は左へ大きく変わるという動きを見せた。これまでの稀勢の里だったらこういう機転を利かせられたか、少々疑問だが、こうした場合、少なくともスポーツ番組と称するほどの番組なら、不成立となった初めの立ち合いから映像を見せなければいけない。照の富士が琴奨菊に見せた立ち合いの変化も、実はその前にまっすぐに立ったのが不成立となってやり直したという前提があってのことだった筈だが、その晩のサタデー・スポーと題するNHKの番組では、二度目の立ち合いからしか映像を見せなかった。中継放送を見なかった人は、その前に不成立となった立ち合いがあったことは知らないままということになる。ニュース番組の中のスポーツ・コーナーならともかく、これはスポーツの専門番組ではないか。もう5秒、時間を割けばすむことで、司会者とレポーターのじゃれ合いみたいな余計なお喋りを5秒だけ早くやめれば事は足りるのだ。この番組に限らず、近頃この手のことが多すぎる。

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先に書いた映画『若の花物語・土俵の鬼』だが、当時日活では、元大関が糖尿病のため幕尻近くまで凋落して再起、敢闘賞を受賞、40歳にして関脇まで復活する感激を描いた『名寄岩物語・涙の敢闘賞』の好評に続けて『川上哲治物語・背番号16』『褐色の弾丸・房錦物語』『怒涛の男・力道山物語』など、どれも本人が出演して本人自身を演じるという映画が次々と作られたその一作である。(若乃花や川上、力道山はともかく『房錦物語』と聞いてハハンとわかる人はこのブログを読んでくださる方の内どれぐらいいるだろう? 今で言うなら『遠藤物語』みたいなものだといえば一番手っ取り早いか。房錦は遠藤とは顔は似ていないがやはりイケメンで、前捌きのいい寄り身を得意とする好力士という点では共通する。関脇まで行ったが、まだ若い横綱だった大鵬が何度か苦杯をなめたことがある。)

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怪我の話ばかりだが、相次いでのアキレス腱断裂で片や十両、片や何と幕下にまで下がってしまった安美錦と豊ノ島が苦闘を続けているのを見るのは本当に胸が痛む。こういうことが、私にとっては一番と二番の贔屓力士であるこの二人に相次いで起こったのを見ると、神の悪意とでもいうべきものを思い浮かべざるを得ない。二人とも当代屈指の相撲巧者だが、その巧さも立ち合いの当たりや出足、踏ん張りが利いてこそ十分に発揮されるものだから、一見以前と同じように取っていても、むざむざこのあたりの地位の力士に負けてしまう姿を見ることになる。今の尾車親方の大関琴風や、近くはいまの栃ノ心なども幕下に落ちて復活したが、まだ若かったから可能であったことで、今度の二人のように年齢が行ってからではなかなか難しいのだろう。出来る限りBSの放送で取組を見るようにしているが、午後二時、三時という時間だから欠かさずというわけにもいかない。何とかいま一度、幕の内に復帰した姿を見る日を願うしかない。
 アキレス腱断絶というと思い出すのが往年の横綱羽黒山で、終戦直後の昭和22年頃まで、たしか4連覇と無敵の豪勇であったのが、二度に亘ってアキレス腱を断絶、四年間、優勝から遠ざかってしまった。そもそも、小学生だった私がアキレス腱という言葉を覚えたのはこの羽黒山の一件によってのことだったから、いまなおアキレス腱と聞くとすぐ羽黒山を連想するように頭の構造が出来上っているのだ。こうした不運にも拘らず40歳近くまで強豪の名を辱しめることなく横綱を張り続けて、最晩年に全勝優勝した時のことは忘れがたい思い出として、新進の横綱の千代の山を下手投げで破った千秋楽の一番など、ラジオのアナウンサーの声まで耳に残っている。

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むかし話にかまけるようだが、相撲だろうと野球だろと、芝居だろうと、結局のところ、どれだけ多くのむかし話を総和として蓄積しているかが、そのジャンルの厚みやら懐の深さやらを決めると言ってもいいのではあるまいか。女優の富士真奈美という人がなかなか端倪すべからざる女史であるらしいことは、ときどきテレビで喋っている姿を見て知ってはいたが、先日、風呂上がりのつれづれに何気なくつけたテレビの番組で、佐藤浩市等と駄弁っている中に、話題が高校野球になると、突如、巨人へ行った新浦が静商のエースで投げた試合をあたし下田の砂浜でラジオで聞いていたの(彼女は伊豆の出身らしい)、とか、放浪画家の山下清さんと(何かの番組でか)柏戸さんの部屋を訪問した時、柏戸さんが喜んで、タクシーで帰るとき裸のまんまで手を振って送ってくれたの、といった話がすらすら出てくる。面白い。オーオー、という感じでつい見入ってしまったが、彼女はこういう話題をいくつも持っているに違いない。新浦などという名前がすらっと出てきたり、裸のまま手を振ってタクシーを見送ってくれたなど、いかにも柏戸の一面らしい。いわゆるオタクとは違う、自由気ままに悠然と楽しんでいる感じがいい。
 それで、というわけではないが、稀勢の里の本名が萩原寛というのを今度知って、ヘエ、と思った。戦後、一リーグ時代最後の年と二リーグ時代一年目の二年間、巨人の正右翼手だった同姓同名の選手がいたのを思い出す。つまり中島治康と南村不可止の間をつないだわけで(なんて言っても、分かる人はどれほどいることだろう?)、台湾出身で前名を呉といった。戦前巨人、戦後阪神で活躍した呉昌征とは別人で、あまり目立たない地味な存在だったが、『エノケンのホームラン王』という巨人軍選手総出演の映画にちらっと出てくる。

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WBCというと日本の戦績のことばかりが問題になるが、もう少し目を見開いて眺めるなら、今回最も注目すべきは、アメリカが、メジャーの選手を揃えて優勝するなどようやくこの大会の意義に目覚めた感のあることである。野球は、オリンピックの種目に入れてもらおうなどと齷齪するより、WBCを真の世界大会にして隆盛を図るべきだというのが、私の持論である。将来その隆盛に気が付いたIOCが、ベースボールもオリンピックに参加してくれと頼んできたら、ようやく、まあ、出てやるか、と答えればよろしいのだ。サッカーだって、世界大会の方が本大会ではないか。

カリブ海上に浮かぶ一島嶼をかつてオランダが領有したのを起源として、自治領となった今、野球強国の一角を占めるようになったり(バレンティンよりはるか前にヤクルトにいたミューレンが監督をしているのも、ヘーエという面白さがある)、アメリカ球界のマイナーリーガーでチームを編成したイスラエルが予選リーグで健闘したり、注目に値するおもしろい話柄がいろいろあった。こうした視野を拡げて見るなら、準決勝敗退という今回の日本の戦績は、それなりに悪くない位置取りだったとも言えるのだ。