随談第581回 8月の日記

8月×日 もともとの夏好き、37度だの8度だのというのは格別、33~4度ぐらいまでなら、盛夏の午後を、クーラーなしで風通しのいい場所で読んだり書いたりは嫌いではない。まして仕事から離れた読書なり、音楽を聴くなりして過ごすいっときは、むしろ至福の時と言っていい。

盛夏が好きなのは子供の時からだが、まず、この季節には自然が身近にまでやって来る。我が家の周囲の庭ともいえない空間に植えた草木にまで、カナブンブンだのカマキリだのダンゴムシだの、下等な虫どもがいつ湧いてきたのか棲みついている。ヤモリが貼りついていたりミミズが這っていたりする。今どき都内に住んで、他の季節にはこんな連中にはまずお目に掛からない。郷愁が甦る。私は東京23区から旅行以外には外に出たことのない人間だが、言うところの高度経済成長が始まる以前の東京は、都に鄙あり、結構、田舎が混じり合っていたものだ。空襲で焼け野が原になったりしたために、街中にも自然が甦っていたということもある。本当の田舎育ちの人から見たらチャチなものかもしれないが、こういうのが私にとっての日々の暮らしの原風景なのである。盛夏の暑気は、ほんのつかの間、そうした原風景のかすかな匂いを、肌近くもたらしてくれる。

今日は、午後のいっとき、パソコンの電源をスリープにしたままベッドにひっくり返って、アリシア・デ・ラローチャの弾く、グラナドスだのファリャだの、スペインの作曲家のピアノ曲を集めたCDを聴いた。こういう一世代前の演奏家のCDを1枚1000円ぐらいで安売りしているのを、ほんの時たま、銀座の山野辺りで見つけてくる。昔はLPをいろいろ買い集めたり演奏会を梯子したりしたものだが、ラ・ローチャも、そんな頃に一度、聴いたことがある。こんもりとした体格の、度量のありそうなおばさんだったが、演奏も豊かで心地よかった。音盤というのは、どんな名曲のどんな名演奏でも、繰り返し聴いていると鼻につくものだが、一年前に買ってきたこの一枚は、まだ飽きが来ない。今日の東京の気温は、後で聞くと37度を超えていたそうだが、ラ・ローチャおばさんの弾くグラナドスのお陰で、快適に夢とうつつの間を行き来することが出来た。

 

8月×日 歌舞伎座の三部興行の一等席の料金が1万4500円だというのが話題になっているらしい。6月の3部制の時より500円だけベンキョウ致しておりますということか。

橋之助が三部すべてに顔を見せてこの名前でのお名残りをするというのがひとつ、扇雀が連名の首座に立って開幕劇に『媼山姥』という出し物を持つ、というようなこともあるが、まあ、こう見渡したところ、エース格が染五郎、猿之助が西の横綱に座って二人で『弥次喜多』をするというのが、今月のミソなのだろう。(第一部の『権三と助十』で権三を獅童にゆずって自分は助十に回る、という味なスタンスの取り方は染五郎流全方位外交の度量の表われ、石子伴作ではないが、ヤルジャアネエカと褒めていい。)第三部に至って、橋之助の『土蜘』も含めて故勘三郎党の面々で締め括る、というのが大きな流れのように見受けられる。(その中に、間狂言の番卒役で猿之助が出ているのがちょっと乙だ。)

見回したところ、『権三と助十』が上等だ。前代の大家たちが、綺堂の書いた世話狂言というので黙阿弥などよりも素に近く、というところに足を取られて、悪く言うと、軽くこなすといった傾向があったが、当代の若い俳優たちには、黙阿弥よりもこのあたりが一番身に沿った芝居がし易いのかもしれない、みな溌剌として張りがあるところを買う。井戸替えに駆り出された長屋中の面々が、みなノリがいい。幸雀、笑野、喜昇などという、当節の脇の女形としてちょいとしたところが、平素の美女ぶり?と変わったところを楽しんでやっている。

この芝居の大正15年7月歌舞伎座の初演というのは大変な大顔合わせで、権三が15代羽左衛門に助十が二代目左團次(という顔合わせが、すでに通念を破っている)の上に、助八が初代猿翁、家主が初代吉右衛門というのだ。それと比べられてはかなわないとして、今回の獅童、染五郎、七之助、巳之助、弥十郎等々、先に言ったように心持よくやっているのが気持ちいい。強いて言うなら、もっとよかるべきはずの亀蔵の佐官屋勘太郎が、なにがなし、役に入りにくそうにしているかに見えたのがちょいと気になったぐらいか。

「弥次喜多」は過去のさまざまな「弥次喜多」の出来具合に照らしてまずまずというところ。ラスベガスへ行ったり、目先の替え具合とテンポのよさで飽かさないというのがまずまずの理由、一方、ラスベガスの場以外は案外新味がないのは、金太郎と団子の少年武士の主従の絡ませ具合がやや平凡だからで、目立った失点はないが大きな得点になったわけでもない。もっとも、二人ともしばらく見ぬ間に大きくなったなあ、と健気な成長ぶりを見せたのが大きな得点ではないか、と言われればその通りともいえる。(団子がなかなか練りのあるいい声をしているのに感心した。)

弥次喜多といえば思い出すのが、昭和38年7月、このときも納涼歌舞伎と謳っていたと思うが、夜の部全部を弥次喜多道中の通しで(今と違って10時ごろまでかかったが当時はそれが当たり前だった)、十七代目勘三郎と二代目松緑の弥次郎兵衛喜多八で、日本橋から京の三条まで、原作の主要場面をうまくつまんだ上に、偽の(しかし本物より若くてモテモテの)弥次喜多を絡めたり、盛りだくさんで見せたのが私の見た弥次喜多中の最大作。現坂田藤十郎の当時扇雀と、前々月に三代目猿之助を襲名したばかりの現猿翁が偽の弥次喜多、後の富十郎の坂東鶴之助が原作通りのゴマの灰(そのきびきびしたセリフと取り回しは今も鮮やかに耳朶と目に残っている)、梅幸や後の芝翫の当時福助も三島女郎や何かの役でつき合ったり、勘弥とまだ友右衛門だった先の雀右衛門が十辺舎一九夫妻で登場、借金取り立てに詰まって「膝栗毛」を書くこととなり、取り敢えず書いた分が第一幕となって舞台に乗り、その間に書いた続きの分が第二幕となり、更に書き足して何とか三条大橋まで辿り着くという趣向で、これは作者の中野実の実体験だろうというゴシップが流れたが、この勘弥の一九がまるで本物の一九を見るような傑作だったり、弥次喜多が田舎芝居の一座に紛れ込んで『宮城野信夫』を演じたり(松緑の信夫である!)、いま思えばとんでもない贅沢とも無駄遣いともいえる。当時これを褒めた劇評は見なかったような気がするが、むかしから、「弥次喜多」の芝居というのはそんなものだったともいえる。(思えばこの時の昼の部に、梅幸が『有馬の猫』を出したり、昼の切りに、現・雀右衛門の駄右衛門、10代目三津五郎の弁天、現・又五郎の忠信、現・時蔵の赤星、18代目勘三郎の南郷という、かの「ちびっ子五人男」が出たのだった。)

第3部の鶴瓶の新作落語を勘九郎が願って新作したという『廓噂山名屋浦里』は、他愛ない話をうまくまとめて悪くないが、浦里といえば相手は時次郎、『明烏』かと思うと、内容はむしろ紺屋高尾の話のようなのが気になるが、マ、いいか。それよりも、鶴瓶の倅という駿河太郎(この芸名の由来は何だろう? 伊勢五郎だの亀井イチローだのという兄弟分でもいるのだろうか?)が特別参加で出演するのはちっとも構わないが、そのことを、筋書その他で説明がないのは何としたことであろう。巻末の出演俳優の顔写真にも、仕切りをつけるとか何かしないと、アマチュアの大関を本場所の土俵に幕の内力士として乗せるようなものだ。

蛇足として、橋之助の『土蜘』について、A氏B氏C氏のやりとりを小耳にはさんだのがちょいと面白かったので、お三方には無断だがその一部を紹介しておこう。

A:橋之助の役者ぶりの立派さというものはもっと評価されていいと思うんだけどね。

B:それはわかるけど、呼吸や間がひとつしかないから芸の妙味というものがないのが面白くないなあ。

C:橋之助みたいな役者って、大正時代頃だったらよくいたんじゃないかという気がする。こまかい心理だのなんだのより、押し出しとか役者ぶりとかで売るような。

A:そのころなら名優で通ったかも知れないね。いっそこのまま押し通して長生きすると、古風な役者として珍重されるようになるかも知れない。

C:なまじ器用に上手くならない方がいいんじゃないかなあ。

B:そうですかねえ。

というのだが、穿ったような、一部頷けるような・・・

 

8月×日 元西鉄ライオンズの豊田泰光氏が亡くなった。81歳というお歳の上は、稲尾・中西と共に西鉄黄金時代の強打の遊撃手豊田としては不足はないかも知れないが、後半生の評論家としての豊田氏のファンとしては,今少し続けていてほしかったという思いが残る。たまたま同じ日経新聞という土俵を、しばらくの期間ひとつにしたというご縁は、こちらが一方的に思っていることで、あちらはご存じないことだったろうが、毎週木曜日の朝刊につい先ごろまで続けていたコラムは、いわゆる元野球人の文章とは類を異にしていた。つまり、野球ということを抜きにして愛読するに充分だった。野球以外のことも俺は知ってるぞ、などということは見せないが、豊田氏の目は、野球以外というか、野球の背後にあるものに届いていた。その遠近感覚が見事だった。遠近法の中に野球が捕らえられていた。そこを読むのが楽しみだったし、その呼吸をひそかにパクってきたつもりだが・・・

 

8月×日 去年の第一回に引き続き、尾上右近の「研の會」第二回を見る。今年は『忠臣蔵』五・六段目に『船弁慶』と意欲満々の音羽屋路線だが、踊りだと年齢を忘れさせる芸の大人びた右近も、勘平となると、俊秀であることに変わりはなくとも、やはり若手であることが見えて、こちらとしては実は少しホッともする。米吉のおかるもそうだが、少しうるさく感じるのは、学んだことをすべて出そうとするからだろう。それは、秀才・優等生であることの証しでもあるわけだが、厳しく言えば、ある意味で、芝居よりも仕事の方が優先してしまうからとも言える。

染五郎が定九郎と不破をつき合ってここでも如才がないところを見せる。種之助の千崎は父ゆずり、菊十郎与市兵衛はいかにも菊五郎劇団、菊三呂のおかやはどうしても理が勝つことを咎めるより、神妙につとめたことを言うべきであろう。吉弥のお才が我童よろしく京都弁を遣うのは異論もあろうが、我童を思い出させたというだけでも大したことには違いない。同様に、橘太郎の源六が鯉三郎を思い出させたと言ったら、褒めすぎかもしれないが、ご本人の目にある仕事をした結果に違いない。

ところで、六段目が終わってロビーへ出ると途端に「ありがとうございます。今日初めてのお買い上げです」という元気な声が聞こえた。見ると米吉が、右近のサイン入りのTシャツを売っているのだった。ついさっき祇園へ売られていった筈のお軽がグッズの売り子になっていたのだった。

『船弁慶』は、(こういうことは若手の勉強会に言うべきではないかも知れないが)現在すでに第一線級であることは間違いない。静に一段の嫋々たる風情とか、知盛に疾風の如く来たって迅雷の如く去る幽玄味とか、言わなくともやがて一層、磨かれるに違いない。

自身の『翔の会』を翌日に控えた鷹之資が義経をつとめ、父ゆずりの見事な声を聴かせる。天性でもあろうし、日ごろの精進の賜物でもあろう。体もすっかり大人になって、これも父そっくり。ここまでくれば、そろそろ展望が開けてくる。

8月×日 その鷹之資の『翔の会』を翌々日に見る。こちらは既に第3回、国立能楽堂でするのは、もっぱら、歌舞伎よりその基礎となる修行として、片山九郎右衛門師等の教えを受けているからだ。これぞ亡父の遺してくれたまさに七光り。今回も、『杜若』を仕舞として舞い、『助六』を素踊りで踊る。妹の愛子が(中学生だそうだ)『汐汲』を素踊りで踊る。顔は妹の方が目元パッチリして父そっくり。

8月某日 歌昇・種之助兄弟の「翔の会」第二回。「研の会」にも種之助が千崎で、米吉がおかるで出ていたように、相和しながら進んでゆくという関係と見える。昨年から始まった二つの会は世代交代の大波の、一番新しい波濤であろう。今回は『菅原』から「車引」と「寺子屋」。この『車引』がまさにフレッシュという英語を使った評がぴったり。目いっぱい、きっかりとやる。そうでなければこういうものをする意味がない。二重丸を進ぜよう。『寺子屋』だって体操競技のような採点法でいけば同じぐらいの点数がつくわけだが、地芸が物を言う「芝居」となるとどうしても点が辛めがちになるのは「研の会」の五・六段目の場合と同じこと。それにしても、兄と弟、力量一杯隠しも何もなく、真正直に出るところまでお父さんにそっくりだ。

8月某日 国立劇場の歌舞伎音楽研修発表会の「音(ね)の会」と、おなじみ「稚魚の会・歌舞伎界合同公演」に、今年は劇場開場50周年というので、修了生中の大ベテラン、鴈之助、京蔵、京妙が「音の会」では『合邦』、「合同公演」では『女車引』を出したのが、どうして皆さんもっと見に来ないのだろうと思う見ものであった。前者は鴈之助の玉手に京蔵の俊徳丸、京妙の浅香姫に新蔵の合邦、後者は鴈の春、妙の八重、京蔵の千代。もう一つ『寿式三番叟』で蔦之助の三番叟が舌を巻かせた。気合と躍動感は息の良さがあればこそ。「いい顔」をして見せる役者ぶりのよさは猿之助を思わせ、猿之助よりいい男である。左字郎と言ったころから目につく存在ではあったがこれは収穫であった。

このほか升一の権太、春希のお里、桂太郎の維盛等々で『すしや』とか、建て前で言うのではなく、御社席など、もう少しか顔ぶれが揃ってもいいのではあるまいか。

 

8月某日 帝劇で『王家の紋章』なる連載40周年という超大大作漫画のミュージカル化第一作を見る。近々新橋演舞場でやる『ガラスの仮面』もそうだが、こういう超大作が漫画という形式で延々と書き継がれているという事実には、ただただ驚かされる。筋の結構、人物の配置、人情・心理のつかまえ方、史実の渉猟や取捨の仕方等々、かつて『大菩薩峠』だの『南国太平記』だの『富士に立つ影』だの『照る日曇る日』だの『宮本武蔵』だの、といった錚々たる大衆文学の大作が書かれていた、大正から昭和初期という時代を連想させる。(もっというなら『里見八犬伝』だって『巌窟王』だってそうなわけだが。)違うのは、あちらの読者は男だったのが、こちらは少女(だった人も40年読み続けてアラ何とかになっているわけだが)という点だけで、上に挙げたような数々の特質はどれも、かつて、たとえば谷崎潤一郎が直木三十五に対して言ったようなことがそのまま当てはまる。まあ、かの『ベルばら』だって同じことだが。

さてそのミュージカル版だが、ごく発端部分だけらしいが、それでも正味2時間半程度にまとめるにはかなりの手際を要したであろうことがよくわかる。かつての大衆文学は、折から新時代の大衆娯楽として時流に乗った時代劇映画や、日本演劇史上ほとんど唯一の例外として男性客を基盤に成立した劇団である新国劇に豊富な題材を提供したが、大歴史劇としての少女漫画もこれからの試みとして、演劇界が当然開拓して然るべき沃野であろう。

出演者ではファラオの姉アイシスという悪女になる濱田めぐみのキャラの立ち方が抜群であった。やはり舞台で鍛えた俳優ならではのもので、シアタークリエで見た井上ひさしの『頭痛肩こり樋口一葉』に起用されたテレビ育ちの女優の、ムキになって懸命に力演するのが気の毒になったのと対照的である。(テレビではなかなか達者な女優と見えていたが、それとこれとは別の話である。)

 

8月×日 オリンピックが終わってようやく静かな(というほどでもないが)日常が戻ってきたのは何よりである。オリンピック自体が嫌いなわけではない。まあそれなりにテレビ観戦もしたし、それなりに楽しみもした。ただ、レポーターやアナウンサーのけたたましい歓声(嬌声)やら絶叫やら、放送が始まるたびにキミダケエーノーというテーマ曲が耳に飛び込んでくるたびに、生理的な疲労を覚えたのは確かだ。

前にも書いたことがあるが、私の考えではオリンピックとは要するに世界大運動会であって、いろいろな種目のある中で煎じ詰めたところ、駆けっこに尽きる。スポルト=遊び、というものの最も原初的で、最も帰一的なものは駆けっこだろうし、結局、それが一番面白い。もっとも、ゲームとしては単純すぎるから、普段、金を払って陸上競技を見に行こうとはあまり思わないが、オリンピックという名の世界大運動会では、原初的にして帰一的な本質がむき出しになって見えてくるから、実に面白い。小学校の運動会でもハイライトは紅白リレーであるように、世界大運動会でも精華は400㍍リレーということになる。

というわけで、始まる前から一番期待し、予期以上の成果をあげたのだから、400㍍リレーの銀メダルに、私にとっての今回のオリンピックは尽きることになる。日本の陸上短距離での銀メダルは並みの金メダル100個分ぐらいに相当するという私の暴言的持論はともかくとして(そもそも104年前、日本が初めてオリンピックに参加したとき、選手はマラソンと100㍍と二人だけだったのだ)、4人の選手の走りには充分に満足した。

駆けっこだけに特化するのは偏狭だというなら、オリンピックは世界大運動会より寛永御前試合の現代的国際版であるとも考えられる。千代田城吹上御殿の徳川家光将軍の御前で、全国から雲霞の如く集まり来たった豪傑たちが、剣術やら棒術やら鎖鎌やら、さまざまな得物を取って秘術を尽くすのが寛永御前試合なら、将軍に相当するのは世界中の名もなき観客たちであり、その前で世界中から集まった豪傑あり、美女あり、さまざまな選手たちが、水中にもぐって統一行動(シンクロ)をしたり、リボンを放り投げては受け止めたり、こんな種目があったのかと驚くような、奇々怪々な(と言ったら失礼だが)超越技巧の限りを尽くした技や演技を繰り広げて競い合うというわけだ。

(蛇足をひとつ)女子ピンポンの中学生の天才少女には驚かされたが、「美誠」と書いてミマと読むキラキラネームにも驚かされる。おそらく、彼女にあやかって「誠」と書いて「マ」と読ませる女の子が続出するに相違ない。まあ、名前の読みに関しては、国語はとっくに破壊されているのだから、今更でもないわけだろうが・・・

随談第580回 BC級映画名鑑・第2章「BC級名画の中の大女優」第2回(通算10回)高峰秀子『朝の波紋』

(BC級映画名鑑第2章の第一回として原節子の『東京の恋人』を載せたのは3月2日付の随談第569回だった。月一回程度の割りで連載するつもりでいたのが、心ならずも随分間が開いてしまった。これがホントの間抜けというところだが、遅ればせながら再開することにしたい。)

(1)

『朝の波紋』は前回にも書いたように、昭和27年5月1日封切りの新東宝映画だが、この日は、戦後史に刻される惨事の一つとして知られるメーデー事件の当日である。つい三日前の4月28日に講和条約が発効して日本がGHQの占領状態から解除されたことをシンボリックに示すマイナス札のような出来事だが、高峰秀子の笑顔が明るい『朝の波紋』にも、終戦から七年という時点での東京の街の様子が丹念に映し出されている。それは同時に、この映画の人物たちがそれぞれに戦後七年という歳月を生きてきた背後を暗示するかのように彩っている。

高峰の役は英語が堪能なのを生かして中堅どころの貿易商社に勤務、社長秘書として重用され、当時のキャリアウーマン(など言う言葉は、当然、まだなかったが)として恵まれた立場にあるが、伯父の家に下宿住まいをしている。彼女の身寄りについて映画は詳しい説明もなく、深入りもしないが、親兄弟はなく、恋人や婚約者もいない孤独の身であることが戦争の後遺症として暗示される。

伯父の家にはもう一人、彼女には甥に当る居候の少年がいて、父親は戦死、三宅邦子演じる母親は、箱根の旅館で、子供の手前は事務の仕事をしていると繕いながら実際は女中をしている。元はれっきとした中流家庭の主婦だった様子が、三宅邦子のたたずまいを見ればおのずと知れる。(『麦秋』をはじめ小津安二郎に重用された三宅だが、戦前以来の東京の中流家庭の匂いを彼女ほど自然に身に着けている女優はいないだろう。その雰囲気とたたずまいは、この『朝の波紋』でも生かされている。女中をしていても元は「いいとこの奥さん」なのだ。昭和20年代というのは、戦後の混乱と全くと言っていいほど等価に、戦前が生き続けていた時代であり、それは社会のさまざまな面について言えることだが、当時小学生だった私などでも、三宅邦子の漂わせるのと同様な雰囲気をもった中年女性の幾人かを、身近な懐かしさと共に思い出すことが出来る。)

少年は母の言葉を信じつつ、寂しさを紛らわせるために、なついてきた野良犬を飼おうとするが、伯母にきつく叱られる。この伯母の役の滝花久子も、中流の上という家庭の主婦がぴたりとはまる雰囲気をもった女優である。少年の飼う野良犬が、近所から靴を銜えてきたり、小トラブルを次々と起こすことがきっかけとなって、通勤の行き帰りに付近を通る青年と親しくなる、という形で池部良が登場し、高峰と接点ができる。住所を当てに訪ねると、近くの、かつては広大なお屋敷が爆撃で廃墟となった一隅にわび住まいをしていることが分かる・・・といった経路をたどって、この人物の風貌、ひととなりが次第に姿を現してくる。元は著名な富豪の御曹司の身でありながら、いまは貿易会社の一介の社員をしながら泰然としてわが道を行く、知的なハンサムでありながらヌーボーとした趣きの男を演じて池部良を置いて他には求められない。(単に茫漠としたヌーボー男なら珍しくないが、育ちの良さと知性という二点がカギとなると、候補者はたちまち激減する。)『青い山脈』では旧制中学生、それよりはやや屈折はあるが『山の彼方に』では中学教師と、石坂洋次郎原作の青春映画で見せたのより、もう一味ふた味、懐の深さのある人物で、この辺りが日本映画の二枚目俳優中にあって他に真似手のない池部の真骨頂というべきであろう。(後年、任侠映画のインテリやくざとして効いてくる下地でもある。)

高峰をめぐるライバルとして、同じ会社に勤める岡田英二扮する自信家の青年がいる。年配は池部の役と同じぐらいだが戦争体験についてはわからない。父親が有力な人物で、古臭く卑小な日本を捨てて海外へ進出することを目指しており、ついては、英語も堪能で外人バイヤーとも渡りあえる有能な女性として高峰を伴侶にふさわしいと考えている。この種の男は、現代にも、いつの時代にもいるが、やがて「もはや戦後ではな」くなる日をいち早く視野の内に入れようとしているという意味で、昭和27年という時代を映している。

木村功と共に劇団「青俳」を代表する俳優として、この時代の日本映画にあっての一存在であった岡田だが、『また逢う日まで』とか『ここに泉あり』とか、憂いに沈んだ良心的インテリか、それを反転させた悪役めいた人物か、いずれにせよ影のある人物というのが役どころとしてイメージとなっている。ひとつ例外的なのは、『朝の波紋』と同じ年の作品で成瀬巳喜男監督の佳作として知られた『おかあさん』で、気のいいパン屋の倅をしているのをもう一方の側に置くと、『朝の波紋』の少々バタ臭い欧米指向の裕福な家庭に育った青年という役どころにいかにもふさわしいことが分かる。岡田青年は、知的な自負をちらつかせながら高峰に接近を試みる。ある米人バイヤーをめぐるいきさつから、同業の他社の社員である池部と敵対する形で関わりが出来ると、仕事一途というより、少々投げやりですらあったり、応召中に戦地で感染した難病を抱えている冴えない同僚のためにひと肌脱ごうとしたりする、業績や出世を度外視したような池部の行動に冷笑的な目を向ける。

映画は、そういう二人の男に挟まれて、才知ある聡明な女性が、戦後という時代を如何に生きてゆくかに、次第に焦点が絞り込まれる。一種のビルドゥングス・ロマンとしての側面を女性を主人公としたこの時代の映画は強く持っており、つまりこの『朝の波紋』での高峰秀子は、新しい時代の若い女性の生き方を切り開く、一つのシンボル像を描いたことになる。このころから、高峰に限らず、彼女の後に続く形で戦後デビューした当時の代表的な若い女優たちは、それぞれにこうした作品で、時代を先取りするような形で若い女性観客の共感を得ていくことになる。それもまた、昭和20年代という時代の匂いなのだが、戦前に子役として活躍し戦中戦後に適齢に達した高峰は、この時期、他の戦後派女優たちの先頭に立つ形になっていたことが分かる。この後、『二十四の瞳』を大きな転換点として後続の女優たちと一線を画す道を歩くようになる、その分岐点としての意味も、この『朝の波紋』は持っているように見える。

原作は高見順が前年に朝日新聞に連載した小説で、新聞連載小説全盛のこの当時、各紙は当時第一線の作家に執筆を依頼し、各映画会社は連載が終わるのを待ちかねるように映画化した、これもその一つだった。スター女優にとっては、こうした作品で評判を取ることが更なるステップともなる。前回、原節子の主演作として挙げた『風ふたたび』も『白魚』も、前者は永井龍男、後者は真船豊の新聞連載小説から、同じ昭和27年に映画化されたものだった。(前年の、原の出演作中でも屈指の名画として知られる『めし』も、林芙美子が朝日に連載中に急死、中絶した新聞小説の映画化だった。)

池部の人となりを更に知るよすがとして、ボートレースの場面が、やや典型的なきらいはあるものの(戦前以来、映画に登場する大学スポーツといえば、ラグビーか、でなければボートレースと相場が決まっていた)、五所平之助監督らしいすがすがしいリリシズムがそれを上回って快い。

ある日曜日、池部は出身大学のOBとして、当時は隅田川で行われていたボートレースに選手として参加するのに高峰を誘う。ボート部の先輩として上原謙が特別出演風に登場するが、むしろ自分の主演作よりもこういうときの上原はちょっと乙である。終了後浅草の泥鰌屋で打ち上げをするシーンがあるが、戦後7年経ってもまだ戦災で焼け野ケ原になった後遺症をあからさまに見せているのを知らされる。(選手仲間で泥鰌屋の息子という好青年を演じる沼田曜一も、その後も新東宝に所属したためもあって遂に地味な存在のままで終わってしまったが、清潔感のある好俳優だった。後には、ときにアラカン主演の新東宝時代劇でひと癖ある役をしたりすることもあったが。)

一方、高峰は商社に勤める仕事を通じても、海外向けに輸出される日本の製品が作られている現場の実態を出張先で見て、それまで知らなかった社会の現実を知り、そのことによって、岡田が思い描いている展望がエリート意識の限界内に留まり、如何に現実を見ようとしていないかを知る。どんなに卑小でみみっちくとも、それが日本の現実なのであり、岡田のような人間はそこに目を向けようとしない。

映画の後半部は、学校の遠足で行った箱根で会った母親の現実を知り衝撃を受け、さらに飼っている野良犬を捨ててくることを伯母に強く命じられた少年が家出をし、行方が知れなくなるのを、池部の協力を得て尋ね回るのを通じて、互いに相手を知ってゆく。同時に、池部は少年の母親が自分の勤める会社に事務職として採用してもらえるよう、上司に働きかける。

原作の高見順としては、新聞に連載する、当時の言葉で言う中間小説(純文学と大衆文学の中間という意味であろう)としての佳作だが、その清々しさと、前に言った五所監督の大人の瑞々しさ、それに若き高峰秀子の明るい清潔感とがマッチした、好もしい佳品というのが、この作品の映画史上での位置づけということになるだろう。

この後高峰は、『二十四の瞳』というやがて伝説的存在となる「名画」を境に、大女優として別格的存在になってゆく。それと軌を一にするように、新任間もないころの大石先生の笑顔を最後にして、高峰の顔から笑顔がなくなって、やりきれないわ、とでもいうような憂い顔、うんざり顔のオンパレードになってゆく。後半生の大女優高峰秀子はうんざり顔の名優といっても過言ではない。 名女優高峰秀子にケチをつける気持ちは全くないが、私にとっては、それは一つの大きな喪失でもある。『銀座カンカン娘』のあの明るい笑顔こそが、私にとっての高峰の原点である。(そういう意味で、最近知ったことなのだが、あの『サザエさん』を、高峰秀子でという企画が、江利チエミの『サザエさん』よりはるかに前にあったというが、惜しいことをしたものである。江利チエミ版は江利チエミ版として、もっと原作の4コマ漫画のエスプリを生かした『サザエさん』が高峰バージョンとして実現していた可能性がある。)

『朝の波紋』は、高峰秀子のそうしたさまざまな面を万華鏡のように見せる、彼女の女優人生の岐路に立つ、興味の尽きぬ佳作なのだ。

随談第579回 7月の話題あれこれ

●昭和8年生まれの天皇が生前退位の御意向というニュースが話題を呼ぶ中、永六輔だ大橋巨泉だと、昭和8年、9年生まれという世代が相次いで世を去ってゆく。こういう名前と絡みついている記憶はもちろん数々あるが、方々で書かれ語られている上に今更私がしゃしゃり出てここに書き並べる必要もあるまい。(こういう人たちの事績についてなら、現役テレビ人新聞人に任せておいても遺漏はない。私がなすべきは、もしかしたら他に拾う人がいないかもしれない落穂を拾うことである)。わが身と重ね合わせての個人としての思いに過ぎないものが、ほぼ悉く社会史・世相史的な意味合いを持ってしまう、というところにこの御両人のような存在の特性がある。その意味で、永六輔はラジオ三分のテレビ七分、巨泉は100パーセントテレビ、という違いが、私の個人史の中で彼らの持つ意味にもニュアンスの違いをもたらしている。ラジオはイニシエーションの季節に私の中に種子を撒いたものであり、テレビはその後に襲ってきた大津波のようなものだからだ。

二人の蔭に、ザ・ピーナッツの残る片方がひっそりと逝ったというのも、昭和30~40年代というテレビの時代の縮図のようだ。

●という波がやや静まった所へ中村紘子の訃報が入ってきた。時期的には、私が大学に入ったころ、中学生だった彼女が華々しく話題の人となったのだったから、ザ・ピーナッツと世間的デビューはほぼ同じころ、というタイミングになる。別に熱心な聴き手であったわけでもないが、やはり相前後して鮮烈デビューした小澤征爾と言い、あのころからクラシック音楽の世代と人種が変わった、そのシンボルとして何となく懐かしさと親しみを覚える。それにつけてもだが、同じヒロコでも他のヒロコさんたちとひと味違って、「紘子」というのは昭和10年代生まれのシンボルのような名前で、むかしチョイ惚れしていた同級生にもこの名前の女性がいたっけ。典拠はもちろん、八紘一宇である。

●大相撲の名古屋場所が終わって、まあ、荒れ場所らしい面白さはあったが(とはいえ、終盤の日馬富士はその真骨頂を示すものだった。あれは高く評価されて然るべきである)、一に安美錦、二に豊ノ島という私にとっては一番面白い二人が二人とも、同じアキレス腱断裂という不祥事で全休というオソロシイ事態になってしまった。来場所もおそらく休場だろうから、さ来場所には十両はおろか幕下陥落まで覚悟しなければなるまい。年齢で力が衰えてのことなら十両陥落となる前に引退するところだろうが(格から言って十両に落ちてまで取る力士ではない)、事情が事情だから、幕下からでも再起することになるのだろう。(宝富士が金星・銀星を挙げてインタビューを受けるたびに安美錦の情報を漏らすのがなかなかよかった。お陰で、わずかながらも怪我の様子を知ることが出来た。)

それにつけても、照の富士が先場所わずか2勝という惨状の後、今場所は膝の具合も多少よくなったかと思わせる面もあったが、結局は辛うじて勝ち越しという惨状に終わった。何故、手術をして完治の上、再起するという道を選ばないのだろう。仮に二場所連休して大関陥落しても、三場所目に10勝すれば復帰できるのだし、もっとかかったとしても、完治しさえすれば照の富士の実力なら早晩、大関復帰は難しいことではなかろうに、中途半端な出場を続けているのは、本人の意思なのか親方の意向なのか、いずれにしても不可解なことである。膝の怪我のために大関横綱を断念したり(安美錦でも、このほど引退した若の里でもそうだろうが)、仮になっても凡庸な成績で終わってしまった先例はゴマンといる。あれだけの逸材を無下に終わらせてはならない。

●相撲の話題ではもうひとつ、新方針となった春場所以来、立会いのやり直しがあまりにも多すぎるのは感興を殺ぐこと甚だしい。さしものNHKさえ、千秋楽の放送でこの問題を取り上げて、アナウンサーが、個人の意見ですがと断った上だが、呼吸が合ったら立会い成立と認めていいのではないかと言っていたのは、ちょいとした勇気ある発言と言っていい。まったく同感である。今場所の白鵬=稀勢の里戦など、立会いやり直しが明らかに勝負の帰趨を左右したし、先場所だったかその前の場所だったか、一旦勝敗が決した後にやり直しとなって、さっき勝った方が負けになってしまった。しかもやり直しの理由が、相手がキチンと手を付かなかったからというのでは、本人は元よりだろうが見ているこちらも釈然としない。北の富士氏も言っていたように、行司によって、また審判員によってばらつきがあるし、そのくせ、二度やり直して三度目となると、さっきよりひどいと思うようなのでも認めてしまうケ-スも多々ある。手を付く立合いを励行させるのはいいが、呼吸が合っていれば認めるようにしないと、それもすぐに止めるのならまだしも、取り進んでから、更には勝負がついてからやり直しというのは、感興を殺ぐだけでなくそもそもぶざまである。運んできた料理を、客が箸をつけてから、ア、間違いでしたと引っ込めるようなもので、度を越せば、良心的なつもりが逆に非礼ともなりかねないことに、協会は思いを致すべきである。

●都知事選の候補者が21人もいるのにビッグな3人のことしか報道しないのはおかしい、という声がようやく高まったと見え、選挙戦もお終い頃になってから、申し訳のように「泡沫候補扱い」の中からめぼしい幾人かの選挙戦の様子が報道されるようになった。選挙公報なるものを、先日、じっくり読んでみたが、なるほどなかなか面白い。広報に書いてあることに限るなら、「ビッグ3」も他の18人に抜きん出るほどのことは言っていないこともわかった。

かつては泡沫候補のなかに面白いヒトがいろいろいたものだが、衆院選が小選挙区制になってからとんとレベルが低下してしまい、残念に思っていたところが、今度は相当盛り返したのは結構である。前知事の辞任騒ぎの過程で、コントを見ているような問答を大真面目でやっていたのが、反面教師的に刺激を与えたのかもしれない。(かの号泣県議の仕草・表情に前都知事のセリフをつけたら、絶妙のコントになったであろう。)

若い世代の投票率が低いのが話題となっているが、選挙を身近に感じさせる上で泡沫候補のレベルが如何に影響を与えるか、私は自分の子供のころの実感に照らして断言できる。小学生だった私が、選挙に、ひいては大人たちの作っている社会に興味を持つようになったのは、面白い泡沫候補がそれこそ多士済々、保守と革新とを問わず、ヘンなおじさんから憂国の士に至るまで、多種多様にいたからであると言っても過言ではない。(かのノンキ節の石田一松が選挙カーの上で演説をしている姿を見たのは、いまなおよき思い出である。もっとも石田一松は実際に当選もしたから、泡沫候補の域を抜いていたとも言えるが。)

昭和20~30年代、何故面白い泡沫候補がたくさんいたのか? 曲がりなりにもせよ、民主主義というものを誰もが実感できていたからだと、今にして思う。自民党の長期安定政権が確立するとともに、泡沫中の名物男たちは老化し、新陳代謝も行われなくなってしまった。代って、いわゆる70年代の過激派学生たちの時代になるのだ。(当時の巨泉の大当たり番組に『ゲバゲバ90分』というのがあった。)とどめを刺したのが、先にも言ったように、衆議院が小選挙区制になって、「無用の用」を容認するゆとりが失われたことである。

それにつけても、過日の参院選の開票速報の放送開始の冒頭、NHKが如何にも得意げに、出口調査に基づき開票前でも当確を出しますと喧伝していたのにウっとなった。これまでは、いくら何でも開票が始まるまでは遠慮していた筈だが、遂にここまで来たかという思いである。あれでは、お前が投票しなくたって選挙の大勢に関係ないぞと言っているようなものではないか。その一方で、若い世代の投票率がどうのと議論する矛盾の滑稽さを思わないのだろうか。そもそも、一秒の何分の一でも早く結果を知ることを、候補者とその関係者以外、誰が必要としているのだろう。

●こんどはNHKをほめる話。都知事選の前日に放送のあったドラマ『百合子さんの絵本-陸軍武官小野寺夫婦の戦争』というのが思いがけない収穫だった。有能な諜報員だったが軍部主流派から疎んじられてストックホルム駐在というやや閑職に置かれながら、ドイツの対ソ戦への動きや、ヤルタ会談で連合国間に交わされた密約など、日本の敗戦を決定づける上で重要な意味をもつ情報を入手、日本に情報を送るが無視されたという陸軍武官夫妻を描いた作だが、毎年終戦記念日が近づくとこの手のドラマが作られるのが恒例で、さほど期待もせずに、むしろ夫の役を市川中車、じゃなかった香川照之がするという興味に引かれて片手間気分で見ていたのだが、途中から仕事の手を止めて画面に見入ることになった。善良なメイドも親しい友人もスパイとして警戒しなければならない日常の中、夫婦の対話も立聞きされないようにレコードの音量を最大にして交わす。ベートーベンの第9シンフォニーというのは、こういう時に絶好の曲であり、同時にそれが、時代を語り、ドラマのテーマ曲として音楽自体が癒しともなるという、二重三重の効果が秀逸だった。

面白かったのは、戦後30年経った頃、どこかの雑誌の企画で、かつての同僚武官たちの座談会が行われ、出席したものの、まるで同窓会みたいな雰囲気でそれぞれ勝手な法螺を愉し気に吹き合っているのを見、違和感を覚えるという場面で、ものの5分もあるかないかだが、出席者の元武官の役を演じる面々がなかなか上手い。苦心して送ったヤルタ会談密約の報も、出席者のひとりが、そういえばそんな話も聞いたことがあると取り繕うような感じで証言してくれたのが関の山、それ以上の関心を示す者もない。よくいわれる日本の組織の、組織人の無責任体制、無責任心情の、これもその一例というわけだ。

こういう善良な人物を演じるときの中車、ならぬ香川照之というのは、なんとなくもったりとして、これは案外にも猿翁とよく似ている。スーツ、というより背広の着こなしといい、誠実に過去を引きずったがために時代に置いて行かれた男の感じがよく出ている。薬師丸ひろ子の、のちに『ムーミン』の翻訳で知られることになる夫人役も、あの時代の誠実で聡明なアッパーミドルの女性の(こういう場合は「婦人」というべきか)感じを、かなりよく出している努力にも感心した。

●ぐずぐずしている間に都知事選は終わり、千代の富士が死んでしまった。前者の経過と結果を一言で言えば、女は度胸、男は姑根性、でなければ据え膳食った律義者の父さん、でもなければお人よしの暢気なパパ。当世社会の縮図と言うところか。小池氏の真価はこれからのお手並み次第、鳥越氏は晩節にべたりと味噌だれのシミをつけてクリーニング代を無駄づかいし(あれなら石田純一の方がマシだった?)、増田氏は少しは有名になった分、得をしたからご本人の±はゼロだが、普段の会見ではにこりともしない官房長官があんなにべったりくっついて、愛嬌を振り撒いていたのが真の敗因と悟るべきであろう。

●千代の富士についてはいずれゆっくり書きたいが、投げの切れ味と豪快さは初代若乃花以来、立ち合いの踏み込みと神速華麗な早業は栃錦以来。見て面白く、小よく大を制す痛快感も両者以来。いまのところ、以後はなし。(朝青龍に一面を偲ばせるものがあったが、残念なことに彼はヒールになりすぎた。)千代の富士がぐいぐいのし上がって行くのと共に、街を歩いていてもテレビの前に足を止める人の数がぐんぐん増え、人気の上昇が空気となって実感されたのをまざまざと思い出す。