8月×日 もともとの夏好き、37度だの8度だのというのは格別、33~4度ぐらいまでなら、盛夏の午後を、クーラーなしで風通しのいい場所で読んだり書いたりは嫌いではない。まして仕事から離れた読書なり、音楽を聴くなりして過ごすいっときは、むしろ至福の時と言っていい。
盛夏が好きなのは子供の時からだが、まず、この季節には自然が身近にまでやって来る。我が家の周囲の庭ともいえない空間に植えた草木にまで、カナブンブンだのカマキリだのダンゴムシだの、下等な虫どもがいつ湧いてきたのか棲みついている。ヤモリが貼りついていたりミミズが這っていたりする。今どき都内に住んで、他の季節にはこんな連中にはまずお目に掛からない。郷愁が甦る。私は東京23区から旅行以外には外に出たことのない人間だが、言うところの高度経済成長が始まる以前の東京は、都に鄙あり、結構、田舎が混じり合っていたものだ。空襲で焼け野が原になったりしたために、街中にも自然が甦っていたということもある。本当の田舎育ちの人から見たらチャチなものかもしれないが、こういうのが私にとっての日々の暮らしの原風景なのである。盛夏の暑気は、ほんのつかの間、そうした原風景のかすかな匂いを、肌近くもたらしてくれる。
今日は、午後のいっとき、パソコンの電源をスリープにしたままベッドにひっくり返って、アリシア・デ・ラローチャの弾く、グラナドスだのファリャだの、スペインの作曲家のピアノ曲を集めたCDを聴いた。こういう一世代前の演奏家のCDを1枚1000円ぐらいで安売りしているのを、ほんの時たま、銀座の山野辺りで見つけてくる。昔はLPをいろいろ買い集めたり演奏会を梯子したりしたものだが、ラ・ローチャも、そんな頃に一度、聴いたことがある。こんもりとした体格の、度量のありそうなおばさんだったが、演奏も豊かで心地よかった。音盤というのは、どんな名曲のどんな名演奏でも、繰り返し聴いていると鼻につくものだが、一年前に買ってきたこの一枚は、まだ飽きが来ない。今日の東京の気温は、後で聞くと37度を超えていたそうだが、ラ・ローチャおばさんの弾くグラナドスのお陰で、快適に夢とうつつの間を行き来することが出来た。
8月×日 歌舞伎座の三部興行の一等席の料金が1万4500円だというのが話題になっているらしい。6月の3部制の時より500円だけベンキョウ致しておりますということか。
橋之助が三部すべてに顔を見せてこの名前でのお名残りをするというのがひとつ、扇雀が連名の首座に立って開幕劇に『媼山姥』という出し物を持つ、というようなこともあるが、まあ、こう見渡したところ、エース格が染五郎、猿之助が西の横綱に座って二人で『弥次喜多』をするというのが、今月のミソなのだろう。(第一部の『権三と助十』で権三を獅童にゆずって自分は助十に回る、という味なスタンスの取り方は染五郎流全方位外交の度量の表われ、石子伴作ではないが、ヤルジャアネエカと褒めていい。)第三部に至って、橋之助の『土蜘』も含めて故勘三郎党の面々で締め括る、というのが大きな流れのように見受けられる。(その中に、間狂言の番卒役で猿之助が出ているのがちょっと乙だ。)
見回したところ、『権三と助十』が上等だ。前代の大家たちが、綺堂の書いた世話狂言というので黙阿弥などよりも素に近く、というところに足を取られて、悪く言うと、軽くこなすといった傾向があったが、当代の若い俳優たちには、黙阿弥よりもこのあたりが一番身に沿った芝居がし易いのかもしれない、みな溌剌として張りがあるところを買う。井戸替えに駆り出された長屋中の面々が、みなノリがいい。幸雀、笑野、喜昇などという、当節の脇の女形としてちょいとしたところが、平素の美女ぶり?と変わったところを楽しんでやっている。
この芝居の大正15年7月歌舞伎座の初演というのは大変な大顔合わせで、権三が15代羽左衛門に助十が二代目左團次(という顔合わせが、すでに通念を破っている)の上に、助八が初代猿翁、家主が初代吉右衛門というのだ。それと比べられてはかなわないとして、今回の獅童、染五郎、七之助、巳之助、弥十郎等々、先に言ったように心持よくやっているのが気持ちいい。強いて言うなら、もっとよかるべきはずの亀蔵の佐官屋勘太郎が、なにがなし、役に入りにくそうにしているかに見えたのがちょいと気になったぐらいか。
「弥次喜多」は過去のさまざまな「弥次喜多」の出来具合に照らしてまずまずというところ。ラスベガスへ行ったり、目先の替え具合とテンポのよさで飽かさないというのがまずまずの理由、一方、ラスベガスの場以外は案外新味がないのは、金太郎と団子の少年武士の主従の絡ませ具合がやや平凡だからで、目立った失点はないが大きな得点になったわけでもない。もっとも、二人ともしばらく見ぬ間に大きくなったなあ、と健気な成長ぶりを見せたのが大きな得点ではないか、と言われればその通りともいえる。(団子がなかなか練りのあるいい声をしているのに感心した。)
弥次喜多といえば思い出すのが、昭和38年7月、このときも納涼歌舞伎と謳っていたと思うが、夜の部全部を弥次喜多道中の通しで(今と違って10時ごろまでかかったが当時はそれが当たり前だった)、十七代目勘三郎と二代目松緑の弥次郎兵衛喜多八で、日本橋から京の三条まで、原作の主要場面をうまくつまんだ上に、偽の(しかし本物より若くてモテモテの)弥次喜多を絡めたり、盛りだくさんで見せたのが私の見た弥次喜多中の最大作。現坂田藤十郎の当時扇雀と、前々月に三代目猿之助を襲名したばかりの現猿翁が偽の弥次喜多、後の富十郎の坂東鶴之助が原作通りのゴマの灰(そのきびきびしたセリフと取り回しは今も鮮やかに耳朶と目に残っている)、梅幸や後の芝翫の当時福助も三島女郎や何かの役でつき合ったり、勘弥とまだ友右衛門だった先の雀右衛門が十辺舎一九夫妻で登場、借金取り立てに詰まって「膝栗毛」を書くこととなり、取り敢えず書いた分が第一幕となって舞台に乗り、その間に書いた続きの分が第二幕となり、更に書き足して何とか三条大橋まで辿り着くという趣向で、これは作者の中野実の実体験だろうというゴシップが流れたが、この勘弥の一九がまるで本物の一九を見るような傑作だったり、弥次喜多が田舎芝居の一座に紛れ込んで『宮城野信夫』を演じたり(松緑の信夫である!)、いま思えばとんでもない贅沢とも無駄遣いともいえる。当時これを褒めた劇評は見なかったような気がするが、むかしから、「弥次喜多」の芝居というのはそんなものだったともいえる。(思えばこの時の昼の部に、梅幸が『有馬の猫』を出したり、昼の切りに、現・雀右衛門の駄右衛門、10代目三津五郎の弁天、現・又五郎の忠信、現・時蔵の赤星、18代目勘三郎の南郷という、かの「ちびっ子五人男」が出たのだった。)
第3部の鶴瓶の新作落語を勘九郎が願って新作したという『廓噂山名屋浦里』は、他愛ない話をうまくまとめて悪くないが、浦里といえば相手は時次郎、『明烏』かと思うと、内容はむしろ紺屋高尾の話のようなのが気になるが、マ、いいか。それよりも、鶴瓶の倅という駿河太郎(この芸名の由来は何だろう? 伊勢五郎だの亀井イチローだのという兄弟分でもいるのだろうか?)が特別参加で出演するのはちっとも構わないが、そのことを、筋書その他で説明がないのは何としたことであろう。巻末の出演俳優の顔写真にも、仕切りをつけるとか何かしないと、アマチュアの大関を本場所の土俵に幕の内力士として乗せるようなものだ。
蛇足として、橋之助の『土蜘』について、A氏B氏C氏のやりとりを小耳にはさんだのがちょいと面白かったので、お三方には無断だがその一部を紹介しておこう。
A:橋之助の役者ぶりの立派さというものはもっと評価されていいと思うんだけどね。
B:それはわかるけど、呼吸や間がひとつしかないから芸の妙味というものがないのが面白くないなあ。
C:橋之助みたいな役者って、大正時代頃だったらよくいたんじゃないかという気がする。こまかい心理だのなんだのより、押し出しとか役者ぶりとかで売るような。
A:そのころなら名優で通ったかも知れないね。いっそこのまま押し通して長生きすると、古風な役者として珍重されるようになるかも知れない。
C:なまじ器用に上手くならない方がいいんじゃないかなあ。
B:そうですかねえ。
というのだが、穿ったような、一部頷けるような・・・
8月×日 元西鉄ライオンズの豊田泰光氏が亡くなった。81歳というお歳の上は、稲尾・中西と共に西鉄黄金時代の強打の遊撃手豊田としては不足はないかも知れないが、後半生の評論家としての豊田氏のファンとしては,今少し続けていてほしかったという思いが残る。たまたま同じ日経新聞という土俵を、しばらくの期間ひとつにしたというご縁は、こちらが一方的に思っていることで、あちらはご存じないことだったろうが、毎週木曜日の朝刊につい先ごろまで続けていたコラムは、いわゆる元野球人の文章とは類を異にしていた。つまり、野球ということを抜きにして愛読するに充分だった。野球以外のことも俺は知ってるぞ、などということは見せないが、豊田氏の目は、野球以外というか、野球の背後にあるものに届いていた。その遠近感覚が見事だった。遠近法の中に野球が捕らえられていた。そこを読むのが楽しみだったし、その呼吸をひそかにパクってきたつもりだが・・・
8月×日 去年の第一回に引き続き、尾上右近の「研の會」第二回を見る。今年は『忠臣蔵』五・六段目に『船弁慶』と意欲満々の音羽屋路線だが、踊りだと年齢を忘れさせる芸の大人びた右近も、勘平となると、俊秀であることに変わりはなくとも、やはり若手であることが見えて、こちらとしては実は少しホッともする。米吉のおかるもそうだが、少しうるさく感じるのは、学んだことをすべて出そうとするからだろう。それは、秀才・優等生であることの証しでもあるわけだが、厳しく言えば、ある意味で、芝居よりも仕事の方が優先してしまうからとも言える。
染五郎が定九郎と不破をつき合ってここでも如才がないところを見せる。種之助の千崎は父ゆずり、菊十郎与市兵衛はいかにも菊五郎劇団、菊三呂のおかやはどうしても理が勝つことを咎めるより、神妙につとめたことを言うべきであろう。吉弥のお才が我童よろしく京都弁を遣うのは異論もあろうが、我童を思い出させたというだけでも大したことには違いない。同様に、橘太郎の源六が鯉三郎を思い出させたと言ったら、褒めすぎかもしれないが、ご本人の目にある仕事をした結果に違いない。
ところで、六段目が終わってロビーへ出ると途端に「ありがとうございます。今日初めてのお買い上げです」という元気な声が聞こえた。見ると米吉が、右近のサイン入りのTシャツを売っているのだった。ついさっき祇園へ売られていった筈のお軽がグッズの売り子になっていたのだった。
『船弁慶』は、(こういうことは若手の勉強会に言うべきではないかも知れないが)現在すでに第一線級であることは間違いない。静に一段の嫋々たる風情とか、知盛に疾風の如く来たって迅雷の如く去る幽玄味とか、言わなくともやがて一層、磨かれるに違いない。
自身の『翔の会』を翌日に控えた鷹之資が義経をつとめ、父ゆずりの見事な声を聴かせる。天性でもあろうし、日ごろの精進の賜物でもあろう。体もすっかり大人になって、これも父そっくり。ここまでくれば、そろそろ展望が開けてくる。
8月×日 その鷹之資の『翔の会』を翌々日に見る。こちらは既に第3回、国立能楽堂でするのは、もっぱら、歌舞伎よりその基礎となる修行として、片山九郎右衛門師等の教えを受けているからだ。これぞ亡父の遺してくれたまさに七光り。今回も、『杜若』を仕舞として舞い、『助六』を素踊りで踊る。妹の愛子が(中学生だそうだ)『汐汲』を素踊りで踊る。顔は妹の方が目元パッチリして父そっくり。
8月某日 歌昇・種之助兄弟の「翔の会」第二回。「研の会」にも種之助が千崎で、米吉がおかるで出ていたように、相和しながら進んでゆくという関係と見える。昨年から始まった二つの会は世代交代の大波の、一番新しい波濤であろう。今回は『菅原』から「車引」と「寺子屋」。この『車引』がまさにフレッシュという英語を使った評がぴったり。目いっぱい、きっかりとやる。そうでなければこういうものをする意味がない。二重丸を進ぜよう。『寺子屋』だって体操競技のような採点法でいけば同じぐらいの点数がつくわけだが、地芸が物を言う「芝居」となるとどうしても点が辛めがちになるのは「研の会」の五・六段目の場合と同じこと。それにしても、兄と弟、力量一杯隠しも何もなく、真正直に出るところまでお父さんにそっくりだ。
8月某日 国立劇場の歌舞伎音楽研修発表会の「音(ね)の会」と、おなじみ「稚魚の会・歌舞伎界合同公演」に、今年は劇場開場50周年というので、修了生中の大ベテラン、鴈之助、京蔵、京妙が「音の会」では『合邦』、「合同公演」では『女車引』を出したのが、どうして皆さんもっと見に来ないのだろうと思う見ものであった。前者は鴈之助の玉手に京蔵の俊徳丸、京妙の浅香姫に新蔵の合邦、後者は鴈の春、妙の八重、京蔵の千代。もう一つ『寿式三番叟』で蔦之助の三番叟が舌を巻かせた。気合と躍動感は息の良さがあればこそ。「いい顔」をして見せる役者ぶりのよさは猿之助を思わせ、猿之助よりいい男である。左字郎と言ったころから目につく存在ではあったがこれは収穫であった。
このほか升一の権太、春希のお里、桂太郎の維盛等々で『すしや』とか、建て前で言うのではなく、御社席など、もう少しか顔ぶれが揃ってもいいのではあるまいか。
8月某日 帝劇で『王家の紋章』なる連載40周年という超大大作漫画のミュージカル化第一作を見る。近々新橋演舞場でやる『ガラスの仮面』もそうだが、こういう超大作が漫画という形式で延々と書き継がれているという事実には、ただただ驚かされる。筋の結構、人物の配置、人情・心理のつかまえ方、史実の渉猟や取捨の仕方等々、かつて『大菩薩峠』だの『南国太平記』だの『富士に立つ影』だの『照る日曇る日』だの『宮本武蔵』だの、といった錚々たる大衆文学の大作が書かれていた、大正から昭和初期という時代を連想させる。(もっというなら『里見八犬伝』だって『巌窟王』だってそうなわけだが。)違うのは、あちらの読者は男だったのが、こちらは少女(だった人も40年読み続けてアラ何とかになっているわけだが)という点だけで、上に挙げたような数々の特質はどれも、かつて、たとえば谷崎潤一郎が直木三十五に対して言ったようなことがそのまま当てはまる。まあ、かの『ベルばら』だって同じことだが。
さてそのミュージカル版だが、ごく発端部分だけらしいが、それでも正味2時間半程度にまとめるにはかなりの手際を要したであろうことがよくわかる。かつての大衆文学は、折から新時代の大衆娯楽として時流に乗った時代劇映画や、日本演劇史上ほとんど唯一の例外として男性客を基盤に成立した劇団である新国劇に豊富な題材を提供したが、大歴史劇としての少女漫画もこれからの試みとして、演劇界が当然開拓して然るべき沃野であろう。
出演者ではファラオの姉アイシスという悪女になる濱田めぐみのキャラの立ち方が抜群であった。やはり舞台で鍛えた俳優ならではのもので、シアタークリエで見た井上ひさしの『頭痛肩こり樋口一葉』に起用されたテレビ育ちの女優の、ムキになって懸命に力演するのが気の毒になったのと対照的である。(テレビではなかなか達者な女優と見えていたが、それとこれとは別の話である。)
8月×日 オリンピックが終わってようやく静かな(というほどでもないが)日常が戻ってきたのは何よりである。オリンピック自体が嫌いなわけではない。まあそれなりにテレビ観戦もしたし、それなりに楽しみもした。ただ、レポーターやアナウンサーのけたたましい歓声(嬌声)やら絶叫やら、放送が始まるたびにキミダケエーノーというテーマ曲が耳に飛び込んでくるたびに、生理的な疲労を覚えたのは確かだ。
前にも書いたことがあるが、私の考えではオリンピックとは要するに世界大運動会であって、いろいろな種目のある中で煎じ詰めたところ、駆けっこに尽きる。スポルト=遊び、というものの最も原初的で、最も帰一的なものは駆けっこだろうし、結局、それが一番面白い。もっとも、ゲームとしては単純すぎるから、普段、金を払って陸上競技を見に行こうとはあまり思わないが、オリンピックという名の世界大運動会では、原初的にして帰一的な本質がむき出しになって見えてくるから、実に面白い。小学校の運動会でもハイライトは紅白リレーであるように、世界大運動会でも精華は400㍍リレーということになる。
というわけで、始まる前から一番期待し、予期以上の成果をあげたのだから、400㍍リレーの銀メダルに、私にとっての今回のオリンピックは尽きることになる。日本の陸上短距離での銀メダルは並みの金メダル100個分ぐらいに相当するという私の暴言的持論はともかくとして(そもそも104年前、日本が初めてオリンピックに参加したとき、選手はマラソンと100㍍と二人だけだったのだ)、4人の選手の走りには充分に満足した。
駆けっこだけに特化するのは偏狭だというなら、オリンピックは世界大運動会より寛永御前試合の現代的国際版であるとも考えられる。千代田城吹上御殿の徳川家光将軍の御前で、全国から雲霞の如く集まり来たった豪傑たちが、剣術やら棒術やら鎖鎌やら、さまざまな得物を取って秘術を尽くすのが寛永御前試合なら、将軍に相当するのは世界中の名もなき観客たちであり、その前で世界中から集まった豪傑あり、美女あり、さまざまな選手たちが、水中にもぐって統一行動(シンクロ)をしたり、リボンを放り投げては受け止めたり、こんな種目があったのかと驚くような、奇々怪々な(と言ったら失礼だが)超越技巧の限りを尽くした技や演技を繰り広げて競い合うというわけだ。
(蛇足をひとつ)女子ピンポンの中学生の天才少女には驚かされたが、「美誠」と書いてミマと読むキラキラネームにも驚かされる。おそらく、彼女にあやかって「誠」と書いて「マ」と読ませる女の子が続出するに相違ない。まあ、名前の読みに関しては、国語はとっくに破壊されているのだから、今更でもないわけだろうが・・・