随談第571回 春場所騒動

大相撲の春場所は、想定外の事態がめまぐるしく変転した挙句、白鵬優勝をめぐる椿事となって終わった。千秋楽の是より三役の三番が三番とも、意味内容はそれぞれ違いつつそれぞれの意味で期待外れの一番だったわけで、この三番が今場所のすべてを象徴していたようにも見える。

琴奨菊は元の木阿弥となり、稀勢の里はやっぱりいつもの稀勢の里で終わり、豪栄道は所詮、今日の夢は大阪の夢、浪速のことは夢のまた夢でしかなく、そうした中で鬼と化した白鵬が三人の木阿弥に掛かっていた夢をすべて、浚って行ってしまった。問題の日馬富士戦への不満の根源は、その夢と消えた夢への欲求不満が沸騰した結果の表れと、私には見える。

琴奨菊の横綱昇進への夢というのは、元々、冷静に見れば期待と危惧が半々、むしろ四分六ぐらいに見積もるのが穏当なところであったにもかかわらず、マスコミに煽られるように、横綱昇進なるか、いやなるに違いない、という一点に絞り込んで今場所が始まった。初日までもうは幾日もないという頃になって、地元で優勝パレードなどやっているのをニュースで見て、アリャリャと思った。こういう贔屓の引き倒し方というのは昔からあることで、善意からしてくれることだから無下にも断れない。初日の放送で北の富士氏が、昇進の可能性にについて厳しい見方を示したら、新聞の投書欄に、あの解説者はまるで琴奨菊を嫌っているみたいでアナウンサーも戸惑っていた、公平性を欠く解説であるといった趣旨の投書が載っていたが、何事によらず、ムードに流される世の動向というものを絵に描いたように示す、面白いと言えば面白い投書だった。鉄アレイを持ち上げたりハンマーを振り回したりするトレーニングはしていたろうが、土俵の土を踏んでいなければ、果たして脇は甘い、出足は不足という、元の琴奨菊に戻って、終盤戦は連日、土俵の砂にまみれて終わった。せっかくの琴バウアーのルーティーンが五郎丸の拝みポーズに追いつくぐらいに知られかけたのに、惜しいことだ。本当に元の木阿弥になってしまうかどうかは、来場所以降の問題だが、ともあれ、これが今場所のポシャリの第一。

稀勢の里は、どなたかも指摘していたように、目を臆病な小動物のようにキョトキョト動かす癖が影を潜めたのは結構なことであった。あれはおそらく、精神力の充実の反映であろう。13勝2敗という戦績は、来場所への橋頭保を築いたといってよいかなりの戦果であったわけだが、中日以降、それまでは稀勢の里のことなど話題にもしなかったような向きまでが、琴奨菊がダメならこっち、と期待が俄かに倍増してかかってきたのはやむを得ないところでもあり、むしろそれをも力にして、この機に乗じて優勝を浚ってしまう、という離れ業ができないところが稀勢の里流なのだともいえる。

逆に、これは浚えるぞと見極めをつけたかのように、5日目、6日目頃から以降の白鵬の形相の凄まじさは、今場所は白鵬だなと思わせた。勝ち残りで控えに戻ってからも、次の一番が終わってもなお、物凄い形相は消えなかった。(アナウンサーたちは、そういうところに気付いているのかいないのか、気づいていても予定にないことだから知らぬふりをして触れないようにしているのか、相も変わらず、自分たちの立てた放送スケジュールに従って型にはまったことしか放送しようとしない。)十四日目だったか、対鶴竜戦のとき、時ならぬ鶴竜コールが沸き起こった。「白鵬負けろ」とはまさか言えないから、鶴竜コールとなったのだろう。

日馬富士戦の立ち合いの変化について、あれで決まるとは思っていなかったというのは、本当だろう。(当然ながら)追撃の体勢を取っているのが何よりの証拠で、相手が土俵際で踏みとどまり,体勢を立て直すところへ次の攻撃をしようとしたのに違いない。日馬富士の方も、あそこまで猪突猛進しなくとも、とは思うものの、そのぐらいにしなければ一気に押し込むことはできないだろう。要するに、立ち合いの張り差しだの、八双飛びだの、昔からある技とはいえ、これほど常態化している時代はないだろうが、普段がそうだから、急にこういうときだけ、やるなと言っても無理な話なのだ。別に擁護をしているわけではないが、急に、横綱たるものは、などと勿体をつけるのも空々しい。ただ北の富士氏が言っていたように、曽ての横綱たちと当世とでは、考え方・観念がおのずから違ってきているのは確かだろう。

「荒れる春場所」ということを、場所中、アナウンサー諸氏がしきりに口にしていたが、今場所は、関脇小結が皆、大敗したことでも知れるように、番狂わせが少なかった場所に属する。別な意味での「荒れる春場所」であったわけだが、この言葉は、元来、3月に大阪での本場所が定着して以来、上位陣が総崩れになって、よく言えば予測がつかない展開になる面白さ、悪く言えばハチャメチャ状態になりかねないことがよくあったので、昭和30年前後から言われ出したのだった。関脇以下の優勝や、12勝で優勝などということも他の場所より多いのがその表れだが、昭和30年代前半、雄大な体躯と風貌、眉毛と胸毛の濃さで、神代の昔の力士を思わせた先々代朝潮が(事実、東宝映画『日本誕生』に手力男の命(タヂカラオノミコト)の役で特別出演、原節子演じる天照大神を天の岩戸から引きずり出す場面を演じた)、本来の力を発揮したら栃若以上の筈と期待されながら取りこぼしが多く、他の場所では期待を裏切り続けながら、大阪場所になると優勝するので朝潮太郎ならぬ「大阪太郎」と呼ばれた時代があった。「荒れる春場所」のシンボルでもあったわけだ。

随談第570回 今月の舞台から

まずは雀右衛門襲名の歌舞伎座から。菊吉仁幸に長老坂田藤十郎まで顔を揃える大一座で襲名興行を開けるというのは、新・雀右衛門にとってはもちろん名誉だが、歌舞伎界としてもそれだけの展望をもってのことであろうか。『鎌倉三代記』が吉右衛門の高綱に菊五郎の三浦之助、『金閣寺』が幸四郎の大膳に仁左衛門の藤吉の上に藤十郎の慶寿院までお出ましとなれば、これ以上の待遇はないわけで、これは襲名のご祝儀だけでなく、歌舞伎界の立女形としての待遇とも見える。雀右衛門は夙に吉右衛門を中心とする一座での実質上の立女形としての働きを示して来たが、思えば亡き四代目も、永らく、実に永らく、常に三番手四番手のような位置に置かれて来たのだった。もしあれで、90余歳という長寿に恵まれていなかったなら、と考えれば、おそろしいような、気が遠くなるような感慨に襲われる。

夙に打率・出塁率の高さでは累年の実績を重ねている新・雀右衛門、このたびの時姫、雪姫二役、クリーンに放った二塁打と見る。まぐれか実力か分らないような場外ホームランなど打たないところが新・雀右衛門たるところだが、「口上」で東蔵が、これからはもっと芸の上で自己主張をされるとよろしからむ、といった趣旨のことを言ったのが、ヘエエと唸らされた。

(「口上」といえば今回は、たとえば菊之助は出ない。菊五郎が出る以上、一家の長でない者は列座しないという、やや古風な行き方で、これは近頃結構なことである。人気があるからといって若い者を並ばせても、「この席へ連ならせていただきましたことを喜びおる次第にござりまする」ぐらいのことしか言わないのでは列座する甲斐がない。それにつけても、立者連にしても、これもプログラムの一演目として見せる以上、何も左団次流を真似る必要はないが、もっと内容のあることをしゃべるべきだ。ところで、我當が『口上』のためだけに出演している。その心意気やよし。)

『三代記』では菊五郎が休演で三浦之助を菊之助が代わったが、代役などとは微塵も思わせない水も漏らさぬ出来。フィギュアスケートの採点よろしく点数を付けたなら、菊五郎より高得点になるに違いない。しかも立派な本役である。たぶんこれは菊之助終生の当たり役になるだろう。

襲名の二狂言の次に位置付ける狂言として『対面』と『双蝶々』の「角力場」でどちらも橋之助が工藤に濡髪と座頭役をつとめる。当然ながらこれが、彼の座るべき場所であることが、こういう大一座の中に置かれてみると改めて見えてくる。秋の芝翫襲名、期待してますぞ!

『対面』では勘九郎の十郎に、中村屋三代に通底する和事味があるのを嬉しく見た。この祖父から孫へつながる和事味こそが、勘三郎三代の芸の根源であり故郷なのだ。但し目下のところ、まだそれが勘九郎自身の芸の味として発酵するところまで行っていないから、やんやと受けることはないのは仕方がない。

『角力場』は菊之助が与五郎と長吉を替わって、ここでも完璧主義者らしい歌舞伎界の金妍児(キムヨナ)ぶりを発揮するが、そうなると今度は、長吉という役はこんなに目から鼻に抜けるようなアンちゃんなのだろうか?という疑問も沸いてくるのが歌舞伎の難しいところ。もうちょっと鼻の下に生意気をぶらさげているような、アサハカサが見えていた方がオモシロイのではあるまいか? 濡髪の八百長がらみの恩着せ行為への怒りが、正義感の発露だけになってしまうと、話が割り切れすぎてしまって芝居のコクが薄くなる。

中幕だの追出しだのの格付けで小品の踊りが四つも並ぶのも今回の一特色だが、昼の部の第二に『女戻駕』と『俄獅子』が二段返しのように出るのがちょいと気が利いている。とりわけ、時蔵に菊之助に錦之助の奴という『女戻駕』が近ごろ出色だが、ところがせっかく俄の踊りを上下(と謳ってこそいないが)にして出すのだから、暗転にしてつなぐのは、野暮というよりせっかくの興趣を殺がれる。『俄獅子』の場面が吉原仲ノ町だから、『籠釣瓶』の序幕よろしく、いわゆるチョン・パにしたのだろうが、単独で出すならそれもよかろうが、ここは明るいまま背景を折り返して居所変わりにしなくては! チョン・パというのは電気照明が生み出した近代の産物で、アッと驚かせるにはいいが、「俄」のようななんどりとした小品をふたつつなぐのにはふさわしくない。先の雀右衛門が革ジャンにジーンズでオートバイで楽屋入りして、時姫や雪姫を演じたのとは似て非なるミスマッチである。

『団子売』は仁左衛門がますます玲瓏。『金閣寺』の藤吉にしても、こんなに透き通ってしまっていいのだろうかという気も、一方ではしないでもないが、病気回復以来、これもこの人の到達したひとつの境地でもあるのだろうか?

久々の『関三奴』。踊りとしては勘九郎が一番うまいが、こういう古風なものだと、鴈治郎の鷹揚な役者ぶりがちょいと味がある。松緑は少し顔を描きすぎではないか?

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何年ぶりかという新派の国立劇場出演に選ばれたのが(『婦系図』でも『鶴八鶴次郎』でも『天守物語』でもなく)『遊女夕霧』に『寺田屋お登勢』というのはなかなかよく考えた演目選定であろう。「花柳十種」と「八重子十種」から選ぶという、戦後の新派の高峰の頂上部分を選び取り、それが波乃久里子と当代八重子に受け継がれた、「新派のいま」の極上部分を見せようという狙いは成功だった。入りも、少なくとも私の見た日は一階席に空席がほとんど見当たらないという、相当のもののようだったのは、ある種の新鮮な印象を与えた結果かもしれない。

とりわけ『遊女夕霧』に感心した。『人情馬鹿物語』はそもそも、原作である小説も、自ら脚色した芝居も、川口松太郎の最高傑作だろうが、いま改めて見ると、なんという「大人」の芝居であろうか。「人情馬鹿」という、人間通としての作者のつかまえどころといい、コトバコトバコトバで成り立っている芝居造りといい、それを演じ、それを見て泣いて笑って心洗われて帰って行ったかつての新派の役者たちも、その観客たちも、なんという「大人」たちであったことか。多分そのかなりの部分は、今日の観客の半分程度の学歴も知識も持ち合わせていなかった筈だが、それにもかかわらず、こういう芝居を見事に受け止め、愉しんだのである。

夕霧の久里子も、円玉の柳田豊も、その他の誰彼もよくやった。与之助の月之助も健闘した。かつての誰それは…とは言うまい。少なくとも今、これ以上に出来る者は他にあるまい、今日能うる限りの布陣である。

今月の新派は、国立の舞台に背水の陣を敷いた。その気迫が伝わってくる。そこに感動がある。

随談第569回 BC級映画名鑑・第2章「BC級名画の中の大女優」第1回(通算第9回)原節子『東京の恋人』と高峰秀子『朝の波紋』

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前回、といっても昨年末のことだが、第565回の末尾に「BC級映画名鑑」の第2章として新年から「大女優のBC級名画」(大女優以前の大女優)を開始と予告しておいたが、表題を少々変更、「BC級名画の中の大女優」としてその第一回を始めよう。まずは原節子、昭和27年7月15日封切りの東宝作品千葉泰樹監督の『東京の恋人』と、高峰秀子主演昭和27年5月1日封切りの新東宝作品『朝の波紋』である。

じつはこの作品については、このブログの第442回に「映像再会」というタイトルで紹介したことがある。私にとっては、同じ年の5月封切りの新東宝、五所平之助監督高峰秀子主演の『朝の波紋』と並んで、こよなくなつかしい映画なのだ。『朝の波紋』については次回に詳しく語るとしても、内容的にも、両者は切り離すわけに行かない。つまり昭和27年春から夏にかけて作られたというそのことが、戦後史と深く関わっているからだ。

昭和27年、1952年という年は日本の戦後史を語る際にひとつのメルクマールとなる年であって、即ちこの年の4月28日、前年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約が発効し、日本はGHQによる占領状態から解放され進駐軍が帰って行くことになる。吉田茂首相がマッカーサーに向ってGHQとは何の略語だと訊ね、怪訝な顔をされると、Go Home Quicklyという意味かと思っていたと言ったという、(いや、Quietlyと言ったのだという説もあった)どこかに誰か作者がいそうな話が伝わっているが、私はこのとき小学校6年生で、しかも、もちろん偶然だがこの講和条約発効の日に、中野区の鷺ノ宮から豊島区の西巣鴨に引っ越し、転校をするという、子供にとっては重大事を体験したので、この前後のことはひと際、記憶に強く焼き付けられることになった。米軍独特のいぶしたようなグリーンに塗った進駐軍専用バスだとか、国電の車両に白だすきをかけたような進駐軍専用車(かの小津安二郎の『晩春』で原節子と笠智衆の父子が北鎌倉の駅から東京へ横須賀線に乗って出かける場面が何度かあるのが、その実例を見る、今となっては最も簡単な方法であろう)などが、この日以降見かけなくなってゆくのを、子供心に何がしかの変化のシンボルのように眺めたのを思い出す。

西巣鴨と言っても、現在は上池袋一丁目と言っている、山手線の大塚と池袋の中間点にあって、一面の焼け野ケ原だったところに街が再興しつつある、といった感じで、地面を掘ると、意地悪爺さん宅の裏の畑みたいに瓦礫が続々出てきてたちまち山になった。つまり(後で知ると昭和20年4月のことであったらしい)この地域一帯、相当の広範囲にわたって大規模な空襲にあった土地なのだった。郊外の住宅地であった前の家と違い、焼け跡に俄かにできた町場なので隣近所の物音が近い。ワッショイワッショイ、ソーレソレソレお祭りだー、と美空ひばりの『お祭りマンボ』が向かいの家のラジオからにぎやかに聞こえてきたのが、切り離すことのできない原風景となって焼き付いている。戦後丸七年経ってなお、傷跡は生々しかった。

中でもひと際目立つのが、皆が「癌研」と呼んでいた、築地の癌研究所の分院が戦前からこの土地にあったのが爆撃に逢って鉄筋コンクリートの外壁だけを残して中が丸焼けになった巨大な建造物の残骸で、急坂の斜面に立っていたので、高架線になっている大塚駅のプラットホームからでもそそり立つ姿が遠望できた。建物自体が印象的な形態を成しており、中央に円柱形の塔があるのが残骸とはいえ優美で、やがて子供たちは「癌研大和」と呼び始める。講和条約発効とともに様子見しつつ始まった「復古調」(という言葉が当時出来た)の流れに乗って、翌28年になると『戦艦大和』などといった映画が作られるようになったからだが、確かに、その姿は軍艦の一種壮麗な美を思わせるものがあった。同じクラスのTさんというなかなか勉強のよくできる女子生徒は、その「癌研」の廃墟の一隅に住まいがあって、そこから通学してくるのだった。

脱線を重ねることになるが、私の転校前に通っていた学校は中野区立の「大和(やまと)小学校」といったが、(当時は持ち物に氏名だけでなく学校名から書くのが習慣だった)転校先の級友から「これ、ダイワ小学校っていうの?」と訊かれたのをはっきり覚えている。即ち、昭和28年6月15日封切の新東宝作品『戦艦大和』が世に出るまでは、当時大方の小学生は「大和」と書いて「やまと」と読むことを知らなかったのである。その転校先の小学校では、校庭の片隅にある鉄棒のひとつが、ぐんにゃりと曲ったままだった。空襲の際の業火で曲ってしまったのが、七年経ってもそのままになっていたのだ。校舎も、廃材で作ったと思しい粗末な木造校舎で、空襲に会わずに済んだ転校前の学校がクリーム色のモルタル造りに赤いスレート瓦を乗せたスマートで明るい校舎だったのに比べ、子供心にも鬱陶しく感じられ、馴染むのに時間がかかった。

『朝の波紋』と『東京の恋人』は、まさにそういう年に制作されたプログラム・ピクチャー中の佳作である。片や5月1日、片や7月15日に封切られている。『朝の波紋』の封切りがメーデー事件の当日、『東京の恋人』の封切りの四日後に、日本が戦後初参加するヘルシンキ・オリンピックが開幕する。戦後史年表に太字で書かれるような出来事を引き合いに出すのに、ネタには事欠かない。

『朝の波紋』を見たのは、池袋日勝といった、池袋駅東口の明治通りのつけ根辺り、現在家電量販店の巨大な店舗が立ち並んでいる一隅に当たる位置にあった映画館で、引っ越してまだ数日後、初の日曜日であったかもしれない。すぐ前の空き地に、今度ここに三越が建つらしいよという会話を交わしたのを覚えている。(その通り、やがて三越池袋店が建つことになる。)道路を渡った駅側に木造二階建てで、切妻屋根にスレート瓦を乗せたのが西武デパートだった。今に続く西武百貨店の原型である。線路の下をくぐって西口側に出るには、長身のアメリカ兵なら頭がつかえてしまいそうな、粉塵濛々としたトンネルを通らなければならなかった。

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『朝の波紋』も『東京の恋人』も、いわゆる名画列伝に記録されて誰もが知るというものではないが、前者は高峰秀子に池部良、後者は原節子に三船敏郎という、当時すでに人気絶頂だったスター同士の共演で、五所平之助に千葉泰樹というベテラン監督の手で当時のファンを十分に満足させた作品である。音に聞こえた巨匠監督の名画もさることながら、当時当り前のように作られ当り前のように受け入れられていたこうした作品の方が、今の私には興味深くも面白い。そこに映し出されるスターから脇役端役に至るまでの俳優たちの誰彼れ、さまざまな風景や情景の語りかけてくるものが、記憶の底を浚い出してくれる。前者では隅田川のボートレースとか、後者では勝鬨橋の開閉とか、それだけでも時代を語る場面が重要なモチーフとして使われているが、共通するのは、どちらにも東京の旧市内の、それもかなり高級な住宅地と知れる焼け跡が丹念に描き出されることで、古き良き東京の旧市街の、終戦七年後の廃墟と化した現状を今に伝えてくれている。

戦災に会うまでは山の手のお屋敷町だったと思われる旧市内に、掘立小屋のような仮普請の家を建てて、池部良や三船敏郎扮する好青年が住まっている。戦後七年が経ち進駐軍が立ち去った時点での東京の光景には、まだこれだけの焼跡が歴然と存在していたという事実である。いかなる記録を読むよりも、その数秒間の映像にまさる雄弁はない。

それからまた、この映画『東京の恋人』に写し取られている銀座の光景。それはまさしく、親に連れられて小学生だった私も見た記憶のなかにある銀座に間違いない。そう、こんなだったのだ。いま見ると、自動車の通りが何と少ないのだろう。十朱久雄(幸代の父親である)と沢村貞子の夫婦の経営する宝石店や、森繁久弥の経営するパチンコ玉製造で成金になった会社(パチンコはこの二、三年前から隆盛になりはじめたのだった)の何と素朴なこと。多分私はこの映画で、森繁を、飲み屋のマダム役の藤間紫を、はじめて見たのだったが、それにもかかわらず、小学六年生にして私はもうすでにその時、ああこれが森繁久弥か、これが藤間紫か、と思いながら見ていたのだった。(但しここでの森繁は、のちに東宝の名物シリーズになった社長ものに於ける森繁社長と違い、いかにもインチキ臭い。当時この「名優」はもっぱらペテン師役で売り出していたのだった。)

三船敏郎は、お屋敷町の焼跡に掘立小屋に住みながら、バリッとした麻の背広に蝶ネクタイ、パナマのソフトをかぶって銀座を歩いている。かの『羅生門』がこの前年だから名声はすでに鳴り響いているが、こういう、都会派紳士でも池部良の軟派に対する硬派といった役も、おなじみの役どころの内だった。私には、むしろこういう三船の方が好もしくも懐かしい。黒沢映画だけで三船を論じたりする人たちは、こういうジェントルマンライクの三船をどう見ているのだろうか?(三船は当時、丹頂チックと丹頂ポマードのモデルとして雑誌の裏表紙を飾る一人だった。)

三船の役は宝石のイミテーションを作る技師で、十朱久雄と沢村貞子の夫婦の経営する宝石店に品物を納めるために始終銀座へ出てくる。(ウインドウには本物は飾らないのだ。)原節子は宝石店のすぐ脇の街角にキャンバスを立てて道行く人のスケッチを描いて渡世する似顔絵かきで、チェックの柄のシャツに胸当てのついたズボン、ベレー帽というスタイルである。やがて二人は偽ダイヤを巡る騒動から引っ掛かりができる。イミテーションの指輪造りという、ちょっと怪しげな仕事を業としている三船が、デウス・エクス・マキーナの如くに現れては危難を救ったりするうちに、次第にその人となりを顕わしてくる。その質朴な素顔を知ることになるのが、先に言った焼け跡に粗末な小屋を建てて住まっている暮らしを見る場面となる。

ストーリー自体は、真贋二つのダイヤの指輪を巡って、そのころ頓に需要を増して有卦に入っているパチンコ玉製造で俄か成金になった森繁久彌と清川虹子のその妻、藤間紫の演じるその二号等を狂言回しに、原と同じアパ-トに住む、杉葉子演じる気の毒な夜の女の更生をめぐる話などをからませて軽快なタッチで進行する。他愛もないといえばそれまでの都会派風俗喜劇で、この辺のドタバタをどう受け止めるかで評価は分かれるだろう。

千葉泰樹監督は、戦前から戦後もかなり後まで息長く活躍し、数多くのプログラム・ピクチャーを作った手練れのベテランだが、この前々年の昭和25年、新東宝『山の彼方に』などと一連の、戦後の風俗を明るいタッチで描いた、東宝や新東宝で作った作品が私にはこよなく懐かしい。言ってしまえば、『山の彼方に』がまさしくそうであるように,かの『青い山脈』の亜流ということになるわけだが、そうしたものの言い方は映画史家に任せておけばいいのであって、亜流とか二番煎じと言って切り捨てられてしまうようなB級作品の中に、往時を語り、往時のファンたちに(時には亜流ならぬ「本流」の作品以上に)愛され喜ばれ、一人一人の胸に忘れがたい記憶となって残されながら、その人々の死とともに、永遠に忘れ去られてしまう運命にある作品がどれほどあることだろう。私はそれが愛おしいのだ。

井上大助、高山スズ子など、とうの昔に時代の波間に消えていった年少の俳優たちは、『山の彼方に』で獲得した人気の延長としての出演であり、当時のこの手の映画に欠かせない常連出演者だった。(特に井上大助はいっとき名物少年俳優として、当時の映画を見るとあちこちに出演している。)イミテーションのつもりで森繁社長がくれた実は本物の指輪が、都電に乗って窓辺に手を置いたスズ子の指から抜け落ちて、ちょうど差し掛かった勝鬨橋の左右に分かれる境目のくぼみにはまり込む。橋を渡り切った所にある停車場で飛び降り、取りに行こうとする刹那、ちょうど橋を開脚する時刻となり、小旗を手にした係員の笛が鳴って交通が遮断され、人も車も橋の両端に待機させられる。(ああ、こういう風に橋が開くのだったっけ!)橋が開き、衆目の見守る中、指輪は水中に没する。銀座から築地へ、日に数回、開閉する勝鬨橋はまさに土地のシンボルであり、メルクマールであったればこその、B級映画ならではの設定である。(小津や黒沢がこんなあざとい場面を作ったら批評家に冷笑で報われるだけだろう。)

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昭和27年の原節子といえば、前年の『麦秋』『めし』、翌年の『東京物語』という原節子フィルモグラフィの頂点を形づくる傑作群にはさまれた、美しさの極みにあった季節ということになる。輝くばかりの微笑というのはこういうものかということは、子供心にもわかった。ベレー帽をかぶったりズボンをはいたりといった、都会の女性の「半男装」を思わせるモダニズムは、『兄の花嫁』など夙に戦前から彼女の得意とするところで、体格の小作りな、当時の映画女優の中でむしろ異色の存在であったといえる。原節子は決して「日本的」というタイプではなかったとする指摘を、近年見かけることが多くなったが、その通りであろう。体形といい顔立ちといい、田中絹代とか山根寿子のようなのが、往時の日本女性の典型美であったとすれば、原節子はむしろバタ臭い女優だったというべきである。『晩春』の冒頭、生け花を習いにやや遅刻気味にやってきた原節子扮する紀子が和服に腕時計をしたまま挨拶をする場面など(つまり彼女は「職業婦人」なのだ)、いま見ると、デケエナア、と正直なところ思ってしまうのも事実である。原の和服姿の美しさは、たとえば『秋日和』などの、むしろやや年齢を感じさせる年配に至って頂点に達するのだというのが、私の意見である。

『東京の恋人』は、原節子のモダニズムの魅力を見る上で恰好な作品と言っていいわけだが、彼女をもって日本女性の理想美とするような見方が定着してしまったために、やや損の卦に回ってしまったとも言える。しかし原節子のモダニズムという意味から、改めて再評価を訴えても門違いではないだろう。少なくとも、『白魚』『風ふたたび』といった同時期に前後して作られた失敗作(前者は豊田四郎、後者は熊谷久虎監督の、少なくとも当時の通念では『東京の恋人』より上位に置かれた作である)よりはるかに、原節子の美を語る上でも意味を持つものであることは確かだ。