随談第557回 私家版・BC級映画名鑑 第6回 映画の中のプロ野球(5)『エノケンのホームラン王』(その2)

(第555回から続く)
ところで肝心の野球の場面だが、大別して3種類に分類できる。

(1)グラウンドでの練習場面(先に言った平山がスライディングの手本を健吉に見せてくれるのもそのひとつ)


(2)控室や練習の場面などでの選手たちの会話(この部分は完全にシナリオ上の「セリフ」で、三原監督なら三原監督、川上なら川上、千葉なら千葉が役の上の自分自身として、たとえば「監督さん、健坊を何とか試合に出してやりましょうよ」といったセリフを言って演技をするのである。助監督だった中島治康と千葉がセリフも一番多く、また芝居心もあるかに見えるが、うまくはないが川上だって結構カワイイ。ここではあくまでも、後のV9のカワカミテツハル監督ではなく赤バットのカワカミテツジ選手である。)

(3)冒頭の巨人阪神戦に始まり随所に挿入される試合の実写映像。選手たちのプレーもさることながら、何度も映し出されるスタンド(観覧席と当時は言った)やグラウンドやダッグアウトなどの情景は、『野良犬』とまた別趣の興味をそそられ見飽きることがない。これほどつぶさに後楽園球場の模様を映像として記録したフィルムはおそらくないだろう。

練習風景の中で、三原のノックを一塁手川上、二塁手千葉、三塁手山川、ショート白石、レフト平山、センター青田、ライト呉(戦前巨人、戦後は阪神で活躍した台湾出身の名選手呉昌征とは別のもう一人の呉で、後に萩原寛と日本名を名乗るようになった)というスタメンメンバーが受けるショットとか、藤本、中尾、小松原(まん丸眼鏡をかけたヌーボー然とした若手で、外野手も兼任する、つまり二刀流選手の一人だったが、それにしてもこの映像の姿はなつかしい)、多田(この人は捕手兼任の二刀流だった)、川崎といった投手陣の投球場面に和田信賢アナの声でナレーションが入って「これは高速度撮影による投球フォームであります。カーブは実際には曲らないとのアメリカの物理学者の説があるそうでありますが、これが中尾投手の直球、これがカーブ、その効果はご覧の通りであります」といった解説がついたりする。捕手の内堀は、前に『不滅の熱球』で書いた、かつて沢村栄治の球を受けたあの内堀保で。この時まだ現役の正捕手だった。キャッチャーのミットやマスク、プロテクターの形が現在とはまるで違うのも懐かしくも興味深い。

試合の場面では球審の池田豊、塁審の西垣、国友らも字幕で紹介される。この当時は審判も黒か紺の上下に蝶ネクタイに威儀を正し、特に名審判と言われた池田球審は、「プレイボーーーーール」と音吐朗々、満場に響き渡る声音で試合開始を宣言し、一球一球の判定にも「ストライーーーーク」と音声高らかに宣告するので有名だったが(ある意味では大相撲の行司に匹敵する)、それがそっくり、この映画の中に再現されているのはそれだけで大いなる価値がある。ろくに声も発しない(聞えない)審判の方が普通の今日では考えられない名調子で、『ベースボールマガジン』だったか『ホームラン』だったか、プレーボールを宣告する姿が野球雑誌の表紙を飾ったことさえあった。池田に限らずほとんどの審判は名の聞えた元選手で、おのずから権威があった。このときの塁審の西垣徳雄は二年後、二リーグ制開始の折に出来た新球団国鉄スワローズの初代監督になるのだし、中日が初の日本一になった時の名監督天地俊一も審判をしていた。(逆転本塁打を放った川上がホームインするとき、池田球審が「ホームラン賞」として金一封を渡すシーンが映っているのも、往時を語る一資料だろう。)

もうひとつ、冒頭の巨人阪神戦で若林や藤村,捕手の土井垣等阪神の選手の姿が見えるのも懐かしいが、七色の球を投げ分けると言われた若林の投球フォームが、いま見るとあんなものだったかと、正直、びっくりする。専門家はどう見るか知らないが、素人目には、立腰で手投げのように見えるのだ。そういえば藤村にしても川上にしても、今の常識からすると随分、不器用なフォームと映る。先頭打者の千葉がヒットを放って、途中から四球を選んだときのようにほとんど歩いて一塁へ行くのは、ウン、むかしはああだったよなと思わず笑ってしまう。全力疾走どころではない。それがプロ選手の貫録というものだったのである。(高校野球で殊更のように全力疾走が強調されるのは、「堕落した」プロ野球の真似をするなという意味合いがあったのは確かである。)

さらにもうひとつ書き落とすわけに行かないのは、NHKの名アナウンサーとして知らぬ者のなかった和田信賢が登場し実況放送をする場面が再三挿入されることで、プロ野球にせよ大相撲にせよ、当時のラジオの中継放送の果していた役割と影響力の甚大さは計り知れない。(それで思い出すのは、私の小学校時代の上級生で、通学の道々、野球の架空実況放送(のつもりであったろう、たぶん)を独り言のように小声で言いながら歩いている生徒がいた。ピッチャー投げました、打ちました、大きな当たり、レフトバックレフトバック、といった具合である。あの人、どうしているだろう、といまも時折思い出す。)和田信賢氏はこの4年後、日本が戦後初めて参加したヘルシンキのオリンピックの放送のため病を押して出張、病状悪化して彼の地で客死するという悲劇的な死を遂げている。

当時のスタンドが一人掛けの椅子ではなく、仕切りのない木のベンチだったことは前に『お茶漬の味』の折にも書いたが、ラスト近くに健吉が客のいないがらんとした球場でホームランを打つ夢を見る場面で、当時の観覧席(とその頃は言った)の様子がつぶさに写し出される。(木製のベンチは当時はどこの球場も同じで、神宮などは外野は芝生席だったから、六大学戦の入りの薄い試合の折などは、野球見物よりデートが目的の男女(アベック、と当時は言った)の姿もよく見かけたものだった。)客席以上に驚かされるのは、ダッグアウトのベンチの何とも粗末なことで、木製の粗末な腰掛が雑然と置いてあるだけである。昭和23年という時代の如何に貧しかったことか。

ところで戦後三年目のこの年のシーズンまで、現実の巨人軍はまだ一度も優勝していない。(にも拘らず人気は随一だった。)監督も中島治康、藤本英雄とめまぐるしく変わって、この年から三原修が就任し、翌24年にようやく戦後初の優勝を遂げる。『エノケンのホームラン王』及び『野良犬』に映し出された巨人軍はそういう時代の姿であり選手たちだったわけだが、まだ痩せて心もち頬のこけた三原の風貌は、私などにはこよなく懐かしいし、且つ好もしい。(エノケン、ではない健吉青年に話しかける声音といい、言葉遣いといい、何とやさしいことよ!)このちょうど10年後、西鉄の監督として巨人と日本シリーズで三年連続して戦い、三連覇した時代の、誰もが知る、そしていまも映像で時折見かけることがある(『一刀斎は背番号6』に登場するのはまさにその時代の姿である)恰幅のいい大監督の風貌と一風異なり、いかにも智将という気配が漂う。ところでその三原をやがて西鉄に追いやることになる一大原因となった水原円裕ならぬ水原茂は、まだこの『エノケンのホームラン王』の時点ではシベリアにいた。帰還したのは翌昭和24年7月のことである。(その情景はニュースフィルムとして残っている。)だから水原の姿は、『エノケンのホームラン王』は元より、その年の巨人南海第9戦を舞台にした『野良犬』にも出てこない。

随談第556回 今月の舞台と話題

歌舞伎座の秀山祭は眼目の『競伊勢物語』が諸条件勘案してギリギリの時点での上演実現であり、何はともあれよくやってくれたというのが率直なところ。

何と言っても素晴らしいのは、吉右衛門のセリフの音遣いの見事さで公家でありながら侍、殿上人でありながら百姓太郎助であったという過去をもつ紀有常という人物を余すところなく表している点で、もうこの声、このセリフを聞くことが出来れば、後は、長袴をはいたまま胡坐をかいたり正座して仏壇に手を合わせたりするところや、信夫と豆四郎の首をはねる段取りが少しもたつくのをどう処置するか、といった至極実際的な部分の問題になる。少なくとも、『競伊勢物語』の復活として今日あり得る限りのものであったと言って間違いない。(仁左衛門の有常に秀太郎の小由で、という提案を三、四の人から目に、耳にしたが、なるほどそれもよろしかろう。松竹座あたりで実現できれば、『盛綱陣屋』の場合の如く、東西にそれぞれの秀作が並び立つことになるであろう。)

それにしても、『岡崎』の幸兵衛女房もそうであったが、今度も小由に東蔵というものがいなければあり得なかったわけで、ここに来て東蔵の存在はまさしく値千金ということになる。(歌六に小由を、という考えもあり得るが、三婆の覚寿や微妙、越路などと違い、小由は基本的には世話の婆であり、東蔵の方が正解といえる。)思い出せば、昭和40年6月の前回の上演の時、寿海の有常、二代目鴈治郎の小由、歌右衛門の信夫、勘弥の豆四郎、延若の鐃八という中で、序幕の茶店に出る絹売りの娘3人をしていたのが加賀屋橋之助、沢村精四郎、中村玉太郎、即ち現在のそれぞれ魁春、沢村藤十郎に東蔵であったのだから、十六年をひと昔とするなら五十年は三昔余り二年、東蔵としても『伊勢物語』上演史上、珍しい記録を作ったことになる。(今回の三人娘が米吉、児太郎に京妙という配役も、もしかすると語り草になり得るかも知れない。わけても、京妙のカマトトぶり畏るべし!)

染五郎の豆四郎&業平、菊之助の信夫&井筒姫も、勘弥の豆四郎の切ってはめたような役者ぶりといったら、などと言い出したところで二度と帰らぬ繰り言と思い定めてしまえば(そうとでもしなければ、どもならんがな)、当代での好一対と認めてよく、又五郎の鐃八また当代でのもの、要するに今日、この配役で駄目ならそれまでのものと思いあきらめるしかないところであった。(これだけの鐃八であるなら、あんな『熊谷陣屋』の梶原みたいな死に方でなく、原作どおり井戸を使う演出を考えてもよかった。そうでなくとも、筒井筒の井戸でもあるのだから、井戸は大切なのである。)

それにしても、私はそのほんの一端を見ただけだが、このところの吉右衛門のテレビその他マスコミへの「露出」の多さは大変なものであるらしい。PRにそれだけの力を注ごうという意気込みの表れだろうが、前回上演から50年というのは、いかにも長い。あまりにも長かった、と過去形で言わずに済んだのが幸いであった。この間幾度か、幻の企画はあったようだが、そのひとつ、私も耳にしていた十三代目仁左衛門の有常に十七代目勘三郎の小由というのは、惜しみても余りある、まさしく幻だったわけだ。(それはそうと、今度の外題に添えてある「紀有常生誕一二〇〇年」とは、よくもまあ「つけたりな」と感服つかまつった。こういうことを考えつく「知恵者」が松竹にはいるということか。)

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敢えて項を別にして書くが、序幕の奈良街道の場に菊之助の信夫が娘姿で出てきた一瞬、ある種の「違和感」というと語弊があるが、しかし他に適切な言葉が思い当らない、不思議な感覚に襲われた。本来当り前の筈の女方の姿で登場した菊之助を「珍しい」と感じたのだ。もちろん、それはほんの一瞬の、幻覚のようなものであったが。

それにつけてもこの人、信夫にせよ井筒姫にせよ、『先代萩』での沖の井にせよ、およそ「隙」というものを見せないのは、どういうことなのだろうか? このおそるべき完璧主義者よ!

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これは新聞にも書いたが、梅玉が『双蝶々』の「浮無瀬」を昼の部の開幕に出したのは、一幕物としては完結性が弱い難があるが、これを序幕にして「相撲場」「引窓」と出すという出し方も「あり」だな、と気づかせたのは功績である。昨今の歌舞伎座の献立の時間配分からすれば、この三幕でちょうど、昼夜いずれかのメニューとして程がいい。「相撲場」「米屋」「引窓」の三点セットより、むしろ、現代の観客向きだろう。

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『紅葉狩』で染五郎長男の金太郎が山神を踊って攫ってしまう。早や五年生の由。天晴れ。

『伊勢物語』では序幕の「奈良街道茶店の場」で大谷桂三の長男が本名のまま初目見得をする。幕が開くと、後ろに立つ茶店の主人役の桂三と前後に重なるように床几に掛けていて、セリフもなしに下手へ引っ込むだけだが、筋書に顔写真まで載せてある。桂三という人の越し方を見てきた者として感慨なきを得ないが、天晴れ、父の叶わなかった活躍をするような役者になるよう、願わずにいられない。

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吉右衛門が仁木をするとはいえ、玉三郎が政岡をする『先代萩』の通しが夜の部を占めるというのは、秀山祭としてはやや異例の感もあるが、そう思わせるひとつの理由は、序幕の「花水橋」は別として「竹の間」「奥殿」と続けると、この長丁場がまったくの「玉三郎色」に染まるからだろう。かつて歌右衛門がしばしばこれと同じ出し方をして見る者を圧倒し、くたくたにさせたものだったが、それとこれとは意味合いが違う。シェフ玉三郎独自の調理法による玉三郎スペシャルのフルコース、と新聞に書いたが、そうとでも言うより他に言い表しようが思いつかない。ともあれ、こういう政岡は他に見た記憶がない。玉三郎としても、ここまで徹底したのは今度が初めてだろうが、但しそれは、玉三郎が一人屹立したり、圧倒的な存在感を見せるようなのとは趣きを異にする。むしろ、選手兼任監督ならぬプロデューサー兼任立女形でもあるかのように、プレイヤーとしての存在感より、プロデュースする目配りの方に、より比重が傾いているかの如くである。

松島を出さず沖の井ひとりに集約したり、これは前回所演の時からだが小槇に仁木等一党の悪計を暴かせてしまうのも、プロデューサー玉三郎発案の「型」というべく、もうこの二幕だけで物語が完結してしまうかのよう。それもあって「竹の間」では菊之助の沖の井が一人芝居の感すらあったり(松島を出さないのは本行の文楽に即したとの由だが、玉三郎の政岡の演技は、むしろ義太夫離れを一段と進めているようにも見受けられる)、かつてなら源之助とか、まあベテラン女形のややくすんだ役どころだった小槇が、俄然立った役になって、児太郎また起用に応え、声音と言い調子と言い、福助さながらに(それにしてもこれほどのソックり親子はざらにはいるまい)、なかなかしっかりしたセリフを言う。と、それはいいのだが、小槇にここまでずばりと仁木等一味の悪計を暴露させてしまうと、「問注所対決」はなくても済むことになりはしまいか?

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そのあおり、というわけでもあるまいが、「問注所」以後の男の世界の争いになってから、何となく気勢が上がらないように感じたのは気のせいだろうか。吉右衛門の仁木は、床下の引っ込みも、上下に身体を浮き沈みさせ浮遊する様を見せるなど、こちらは終始、ねずみ色に染めてしまうような妖気漂う仁木で,もちろんその芸容の大も見事なものなのだが・・・まあ、『伊勢物語』疲れか。

染五郎の勝元が、「仁木弾正、恐れ入ったか」と弁舌さわやかに持ってゆくところが、どうも画竜点睛を欠いた感があるのは(所見日には同情すべきアクシデントがあったが、しかしあのぐらいは何とかカバーしなくちゃ)、やはり染五郎の発声がひと色で、長口舌を聞かせるには、調子にカワリがないためだろう。『勧進帳』の弁慶ではあれだけのものを見せたのだったが、やや元の木阿弥の感あり、か。

結局,大歌舞伎伝統の「味」を味あわせてくれたのは、梅玉の頼兼と又五郎の絹川による序幕「花水橋」ということになる。染五郎に頼兼を、梅玉に勝元を、という配役もあったろうが、もっとも、吉右衛門仁木VS染五郎勝元という、叔父甥対決の趣向でもあったのだろう。

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赤坂ACTシアターの間口の割にタッパの高い舞台に、黒・白・茶という中村座の定式幕がよく似合うことに、今更だが気が付いた。「歌舞伎カラー」としてイメージの固定した歌舞伎座などの定式幕よりも、この劇場にはむしろふさわしい。両脇や天井が黒に統一されていることもひと役買っているが、七之助の『お染の七役』に勘九郎の『操り三番叟』という今回の二本立ては、この劇場の構造、醸成される雰囲気、期待感といった意味からもこの劇場によく似合う。赤坂歌舞伎の客層を考えればこれまでで最上のメニューだろう。どことなくよそよそしい感もなくもなかった『文七元結』のような世話の人情劇よりも、パノラマチックに展開しながら歌舞伎らしいイメージを満足させる。(かつて白鸚たちの東宝時代、帝劇のあの黒い石の床の上で『寺子屋』をしたときの違和感は今に忘れない。白鸚、二代目松緑、雀右衛門、先代又五郎という顔ぶれであったにもかかわらず、どうにも身に沁みなくて困ったものだ。)

姉様人形のような七之助はもともと七役にぴったりの仁だが、昨今の急成長でこの狂言を背負うだけの、役者として大人になったことを証明した。勘九郎と二人、亡き父によき追善をしたことになるが、勘九郎に鬼門の喜兵衛はちょっと苦しい配役で、役違いの役を無理につとめても得になることはない。自分の出し物として『操り三番叟』を出すのだから、喜兵衛は弥十郎に任せて(これはきっといいだろう)、勘九郎が山名屋に回るなら、少々若すぎるとしても「ご馳走」として微笑の裡に受け容れられるだろう。

それにしてもこの『操り三番叟』にしても、この前出した『乳房榎』にしても、どちらも延若から受け継いだ遺産である。いささか感慨なしとしない。

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ところで五輪エンブレム騒動ではないが、『お染の七役』など、もしそれをパクリというなら全篇パクリで成り立っているような芝居といえるだろう。書替えという発想、さまざまなモチーフの組み合わせで成り立つさまざまの約束事、その大元は本歌取りという発想の上に成り立っている歌舞伎というもの自体、パクリの総合芸術のようなものとも言えようが、オリジナルと言ったってそもそもまったくの無からの創造などというものはあり得ないのだから、パクってそれが元のものより優れていればそれこそがオリジナルなのではあるまいか? 前の東京大会の折の亀倉雄策の有名作が、アメリカ煙草のラッキーストライクから戴いたものだとは知られた話だが、そもそもそのラッキーストライクが日の丸をおちょくったものだろう。つまり亀倉のあの作は、オリンピックという全世界注視の中で仇討ちをしてのけたのだ、と私には見える。

(今度のエンブレム三種の中ではあまり批判の対象になっていないようだが、黒地に赤の日の丸と思しき円をあしらったパラリンピック用のエンブレムを見た瞬間、これは花札の坊主だと思ったが、相手が花札のような「古典」の場合はパクリとは言わないのだろうか。)

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文楽は咲大夫が休演である。もちろん休演は今回だけのことだが、こうなって見ると、文楽で誰それを聴きに行くという昔ながらの楽しみ方はもうそろそろおしまいなのだなと、改めて思われる。実はとうの昔に、誰それの「芸」を聴きに(見に)行くより、「文楽というもの」を鑑賞に行く、あるいは勉強に行くものになっているのだが、改めて、この休演によってそれが思われたというわけだ。代演の文字久大夫だってなかなかよく語って悪くなかったし、『妹背山』の「金殿」の段を語った千歳大夫など相当の名演だったが、それとこれとは別の話である。

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『伊勢音頭』を文楽で聴くのは随分久しぶりだが、これはもう、歌舞伎の『伊勢音頭』とは同じ題材、同じテーマを扱った別作品と考えた方がむしろいい。そう割り切った上で、上手い大夫が語ればこれはこれで面白いということになる。

『鎌倉三代記』も、こうして「本行」のを見ると、歌舞伎の『鎌倉三代記』を今のうちにきちんとした形に整えておく必要を考えさせられる。昨年幸四郎が前の方を少しいじくった形で見せたが、つじつま合わせでなく、歌舞伎としてのスタンダード版を作ることを考えるべきだろう。吉右衛門がしてくれればもちろんいいが、幸四郎が取り組むのにふさわしい仕事のようにも思われる。

『妹背山』が今回は「お三輪篇」だったので、「杉酒屋」を「井戸替え」からこれも久しぶりに見ることが出来た。これこそ、文楽を見て「勉強する」のにふさわしいものだ。まさに「本行」ならではの価値がある。

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新橋演舞場で、北条秀司の『比叡颪し』を改題した『有頂天旅館』というのを渡辺えり、キムラ緑子、段田安則等々、当代の芸達者連中を揃えて出した。もともとの作の面白さは生きているから、まあ悪くはないのだが、初演の時代の役者たちと、芝居の仕方が随分と違っていることを思わずにいられない。ひと言で言えば、テンションが高すぎて笑いにゆとりがないので見ていて疲れる。この当代の手練れたちにして、常に笑いを取っていないと不安なのだろうか?

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『有頂天旅館』は十日間で終り、新橋演舞場は引き続いて松竹新喜劇、これが約半月、併せて一本という九月興行である。近頃こうした短期の公演が目につくようになった。それはともかく、新喜劇としては去年に続いての本興行、めでたいというべきである。とにかくここには、紛れもない「芝居」がある。

茂林寺文福作の『先ず健康』『一姫二太郎三かぼちゃ』の二作など、初演は戦前でありながら、たとえば電報をスマホに直すような補修をしてその時その時の「現代」の話に焼き直しながら、いまなお見事に現代劇として成立しているのだから、その作品構造の堅牢にして柔軟なこと、驚くべきしたたかさと言わざるを得ない。近代演劇史の名作者列伝中に北条秀司や菊田一夫などと並んで(もしかしたらそれ以上に?)、茂林寺文福も一堺漁人も館直志も、名を留められて然るべきである。そういう作を演じこなせる新喜劇の役者たちというものは、これぞプロフェッショナルいうべきであろう。渋谷天外はなかなかいい役者になったし、寛美の孫の藤山扇治郎は、学ぶは真似ぶという修行段階を、ともかく金を取って見せられるところまでは成長した。   

      ***      

明治座の『三匹のおっさん』を、御社日に差支えがあって初日に見に行った。原作の小説は読んだことはないが、脚本も演出もよくできていて、なかなか面白かった。こういう芝居をする劇場は、演舞場か明治座ぐらいになってしまった。それにしても明治座の初日というのは、大口の団体が入っていたり、何だか昭和40年代ごろに戻ったみたいで、一種のなつかしさすらあって悪くない。

>歌舞伎座だって、かつてはこれに似た情景が繰り広げられていたのだ。幕が開いた時はがら空きだった一階席から、暫くすると、ガサゴソガサゴソ、蚕が桑の葉でも食べているような一大騒音が三階席まで昇ってくる。つまり、お土産の入った紙袋を持った集団が食堂から大挙して入ってきたのである。その三階席には、開演中だろうとかまわず、観光バスの到着次第外国人観光団がどやどやと入ってきて、しばらくするとまた、芝居の最中だろうと構わずどやどやと出て行く、ということが日常茶飯事だったのだから、それを思えば、今は「進化」したものだと言えないこともない。

      ***

購読している新聞の読者欄で、投稿者の間でちょっとした論争があった。前に乗り出して見るなど観客の観劇マナーについて投稿があったのに対して、芝居を見る時ぐらい自由な姿勢で見たいという反論が掲載され、別の投稿者も加わって、ひとしきり、両陣営で甲論乙駁があったのである。こういう論争が新聞紙上で行われる、つまりこういう「自由」を当然の権利と考える人がいてしかも賛同者が出るというのが、「現代」というものなのであろう。

そういえば、かつて歌舞伎座の筋書の最終ページに「お客様へお願い」という欄があって、三階席のお客さまは、後方のお客様の妨げにならぬよう前に乗り出さないよう願いますと書いてあったものだ。それとは別だが、よく、和服姿の昔風のお婆さんが三階席の椅子にちょこんと正座して見ている光景を見かけたものだった。実をいうとちょっと困ることもあったのだが、いま思えば良き光景であった。

随談第555回 私家版・BC級映画名鑑 第5回 映画の中のプロ野球(5)

(しばらく間が空きましたが再開します)

『エノケンのホームラン王』(その1) 

前回の『野良犬』について、おそらくこれほど後楽園球場と試合の模様が詳しく描写された映画はないだろうと書いたが、じつはそれをはるかに上回る作品がある。ここに映し出された後楽園球場のスタンド、グラウンドの各部所と全貌は、私が少年時代に現実に見た記憶そのままを現前してくれる上に、まだ1リーグ時代の1948年、昭和23年当時の現役のジャイアンツの主力選手がほぼ洩れなく登場し(「讀賣巨人總出場」と画面のクレジットにある)、グラウンドでのプレーばかりか、何とビッグ級の幾人かは演技としてセリフを言うシーンまで、それも幾度もあるのだ。昭和23年9月7日封切りの新東宝映画、渡辺邦男監督作品『エノケンのホームラン王』である。

この年の公式戦では巨人の4番打者川上と3番打者青田が共に25本塁打を放って(これは当時の新記録だった)本塁打王を分け合ったのだったが、この二人の間にエノケンが挟まってバットを構えたポーズのポスターを覚えている。だが今度キネ旬増刊の『日本映画総目録』を確かめて不思議に思うのは、9月7日という封切日はまだシーズン途中なわけで、してみるとあのポスターは、実際に川上と青田がホームラン王を分け合ったのを先取りしていることになるのだろうか? もう一つ、これと絡んで当時笠置シズ子が『ホームラン・ヴギ』というヒット曲を飛ばしている。「朝も早よからホームラン・ヴギ」と始まる歌詞の中に「カワカミアーオタ」と二人のホームラン王の名前が詠みこまれていた。もっともこちらは、(別に主題歌というわけではない)この映画と直接の関係はない。

この映画は、この当時年間何本も作られていたエノケン映画の一作で、実は私の映画初体験も映画開眼もこの手のエノケン映画を通じてだったといっても過言ではない。もっとも、親が自分の見たい映画を見に行くときにお相伴したのと、厳密に言えばどちらが「初体験」かはわからないが、エノケン映画をいろいろ見せてくれたことは確かである。エノケンなら安心して子供に見せられたわけだろう。そういう中の傑作は『エノケン笠置のお染久松』で、後に歌舞伎や文楽で『野崎村』を見るようになって、この映画を見ておいたことがどれだけ役に立ったか知れない。ところでこの『ホームラン王』はエノケンがマスコット選手として巨人軍の一員となるという趣向で、ジャイアンツの選手たちがチームメートとして出演するので、有名選手たちの姿をグラウンド上だけでなく内側からも見ることができるのがミソであり、エノケン映画の中でもユニークな一作となっている。「讀賣新聞社後援」、「日本野球連盟協賛」とクレジットにある。

ラジオの実況中継を聞きながら家業の肉屋の店を手伝い、自転車を飛ばして、既に試合も終盤の後楽園球場に駆け付けるという距離にある商店街の(特に指定はないがどの辺を設定してあるのだろう?)、エノケンの家が精肉店、エノケン扮する健吉青年(と言っても当時エノケンは既に40代で、独特の顔には皺も相当多い)は巨人びいき(「巨人××××」とテレビの放映ではそこだけ音を消している)、大声を立てれば筒抜けの狭い道路を挟んだ向かいの鮮魚店は女房の清川虹子は江戸っ子だが亭主の田中春男が上方人で阪神贔屓、お千代というその妹(春山美祢子という新人女優がやっている)と健吉が相思相愛のロミオとジュリエット状態にあるというお定まりの設定だが、いうまでもなく巨人阪神をめぐる両家の諍いは他愛もなく、やがて健吉が巨人軍の一員となって各地を転戦する先々から毎日送ってくるお千代宛ての手紙から、涙ぐましい健吉の頑張りを知った清川虹子の女房が俄然巨人ファンに宗旨替えして、いずれロミオはジュリエットとめでたく結ばれるであろうと予測させて終りになる。

それにしても田中春男という俳優は、昭和20年代から30年代、エノケン映画から黒澤映画から、ジャンルを問わず監督を問わず、善人悪人役どころを問わず、どこにでも出てくるという達者にして重宝な俳優だった。おそらく往時の映画界にあって出演作品数最多の一人であるに違いない。評伝が書かれて然るべき名バイプレイヤーである。健吉の両親が田島辰夫と柳文代、同じ商店街のジャイアンツ贔屓なのでジャイ床という床屋の主人が如月寛太といった、エノケン一座に欠かせなかった役者がやっている。(加東大介がニューギニア戦線での実体験に基づいて自ら主演した昭和36年東宝映画『南の島で雪が降る』に登場する、渥美清扮する偽如月寛太の本物である。つまり南方の戦地の兵隊たちに、エノケン一座の如月寛太といえば充分通用するほどの存在だったわけだ。)

ところで映画の中身だが、このシーズン、巨人はいまひとつ調子が出ない。一念発起した健吉は三原監督をはじめ中島、千葉、青田、川上といった有力選手に直訴の手紙を出して入団テストを受ける。もちろん合格する筈もないが、温情ある三原監督と中島助監督の計らいでマスコット選手として入団(もらった背番号が0というギャグは、実際に選手が背番号0をつけるようになった今では通用しないが、当時は観客の爆笑を誘うに充分だった)、あこがれの巨人軍の選手たちと行動を共にし、全国を転戦する遠征試合にまで同行するようになる。(遠征先から出したお千代宛ての手紙の中で、健吉が、君が編んでくれたセーターを川崎さんにあげてしまったと詫びる一文がある。川崎さんとはナックルボールで鳴らした好投手川崎徳次のことだが、移動中の列車の中で川崎投手が盗難に会って着るものがなくなってしまったからだというのが、いかにも戦後まだ3年という時世を語っている。)

練習にも参加し(何と、塀際の魔術師の異名を取った好守の左翼手平山が、健吉が頭から滑り込むのを見て「オイ健坊、それじゃ危ないから足から滑り込むんだ。こうやるんだよ」とスライディングの手本を実地にやって見せてくれたりする)、選手たちのスパイクの手入れからアンダーシャツの洗濯からバットなどの道具運びから、果ては猿の真似をする珍芸で皆をなごませるなど、大いに努めてチームの人気者となるが、所詮マスコット選手は試合には出してもらえない。いじらしい心を察した川上や千葉等が監督に進言、監督も配慮してくれるのだが、それほど甘い世界ではないことを悟り、退団を決意して川上に託して提出しようと辞表を書くが、その川上が折からシーズン終盤を迎えて元気がなく凡退を繰り返す。川上の自宅を訪ねたことから、不振の原因が病床にある母親を連夜徹夜で看病する疲労のためと知り、健吉は自分がお千代と二人で母親の病床につき切りで看病することを申し出て、川上に後顧の憂いなくプレーに専念してもらうようにする。(川上の母親役の伊達里子は、日本初のトーキーと言われる『マダムと女房』で田中絹代の女房に対する、ジャズに明け暮れる有閑マダムの役をつとめた、戦前は洋装の似合う妖艶な役で鳴らした女優である。)川上は見事最終回に逆転ホームランを放ち巨人軍は優勝、事情を知った三原監督はじめ選手一同から真の殊勲者は君だと讃えられ、皆に胴上げされる場面にエンドマークが重なるというストーリーで、原作サトーハチローとある。

サトーハチローは当時、少年雑誌などに次々と野球少年の物語を書いていたので私もそのいくつかは愛読したものだ。ストーリー展開の処々に野球の技術やマナー、ちょっとしたミソのようなことを散りばめてあるのが面白く、たとえばいいピッチャーの投げる伸びのある球は打者の前でホップするのだとか、ある球種を投げる際の投球フォームや仕草の癖を相手チームに見抜かれると、どんなに威力のあるボールを投げても打たれてしまうといったことを、私はサトーハチローの少年野球小説を読んで知ったのだった。この健吉青年の物語もそうした一篇だったに違いない。(サトーハチロー作詞で灰田勝彦が歌ってヒットした「野球小僧」という曲を、一定以上の年配の人なら覚えているであろう。)

(この項続く)

随談第554回 今月の舞台から(その2)&今月のあれこれ

偶然の重なり以外の何ものでもないが、各種の原稿5本に(当然ながらその校正も)、秋に出る著書の再校などが2週間ほどのところに集中したあおりで、心ならずも今月の舞台(その1)を掛け流しのまゝにしてしまった。BC級映画名鑑が中断のまゝなのも気になるが、渋滞解消の法則に従って一車線ずつ、順を追って掲載して行くことにしよう。まずは今月の舞台からその2、及びその他のあれこれから。

もっとも、「お知らせ」の欄に載せたように、歌舞伎座の納涼歌舞伎評は「演劇界」の10月号に書いたから、ここでは斜め読み風に幾つか、ピンポイントにつまんでおくことにしよう。以下、順不同で箇条書き。

1.『おちくぼ物語』で左近少将役の隼人がこれ、誰だ?と筋書の配役を確かめ直させる大びっくり、大殊勲、大立派。(但し、近頃の通弊で照明が暗いのでろくに読めず。怪談ものならいざ知らず、こんな典雅な、メルヘンのような芝居に、何故あんなに暗くするのか?) 

2.同じく『おちくぼ物語』で、七之助はじめ当節の若手たちが(弥十郎・高麗蔵クラスに至るまで)、現代語のセリフをスラスラスイっと、水を得た河童のように愉しげに喋っている。これって、どう考えればいいのだろう? (かつての歌右衛門たちは、もっと苦労して苦労して、現代語のセリフを言っていたような気がする。)

3.勘九郎と七之助の今月に関して言えば、七之助が目立って勘九郎があまり際立たないかに見える。これはひとつには、ここ最近の七之助がぐいと伸びる盛りに当り、勘九郎は安定期に入っているということであって、つまり七之助の成長をほめればいいのであって、勘九郎が悪いわけでも何でもない。あまり話題になる材料がない分、ちょっと損の卦が出ただけに過ぎない。まあ、長い人生にはそういういっときもあるのだ。

4.急に伸びるというのは若い時に限らない。『祇園恋尽くし』の扇雀も、筋書の配役を確かめ直した口である。隼人と違ってこちらは、あれ、誰だ?というわけではない、扇雀と分ってはいても確かめたくなるのである。見直した、と書いたら、ちょっと直せませんかというので、お見それしました、と書き直したが、却ってよくないのであるまいか? 『逆櫓』のお筆だって、なかなかのものだった。これは本物、ひと皮剥けたのだ。

5.これは新聞にも「演劇界」にも書いたが、己之助の急成長のことは、やはりきちんと書いておくべきであろう。『棒しばり』も『芋掘り長者』も、亡き父に何よりの供養をした。

6.いろいろ言いはするものの、橋之助の樋口の役者ぶりというものは、当節、それだけでももっと言われて然るべきであろう。私自身、いろいろこむずかしい批評をしておきながらこんなことを言うのも何だが、いっとき、何をしても充分に褒めてもらえない時期とか、褒めてもらえない人、というのが、かつてを振り返っても、あの優、この優と、何本も指を折って数えることが出来る。そういうことが暫く続いて、その内、何かのきっかけをつかむと、いままでのことが嘘のように、好評嘖々の時節が訪れたりする。もちろん、ご本人の成長とか円熟とか、理由はあるのだが、批評する側にも、少し心すべき点はあるように思う。

       ***

月末になって、尾上右近の「研の會」、歌昇・種之助兄弟の「双蝶会」と立て続けにあって、なかなか面白かった。芝雀にお園に出てもらって歌昇の六助で『毛谷村』、染五郎が義経、又五郎が弁慶(こういう中に入るとなかなか立派に見えるのは、お父さんとして頑張ったのだろう)、歌昇が三保大夫をつき合った種之助の『船弁慶』という「双蝶会」も好感のもてる良き会であったが、ある人が、女形の方はよかったけど、男の方は何もしていない間が持ち切れないね、と言っていた。仕事をするより何もしない時の方が難しいという、とりわけ義太夫狂言の難しさを指摘した炯眼というべきだが、ところで、もしかしてこの人、「女形の方」などという言い方をするところを見ると、芝雀とは思わずに、あるいは芝雀の何たるかも知らずに、見たのだろうか? とすれば、ひょっとして野に遺賢ありか?

一方「研の會」の右近には驚嘆した。猿之助を静に迎え、全曲を清元オンリーで踊る『吉野山』(猿翁・雀右衛門で歌舞伎座の本興行で踊ったのはまだ昭和の頃だった。あれ以来か。さすがに延寿太夫も頑張っていましたね)の忠信の伸びやかにしてゆとりのある踊りぶり(切り口鋭く間のいい踊り手は、ともするとやや間がつまり気味になるものだが)も心憎いが、『鏡獅子』の、前ジテは、若いがゆえに却ってやや老けて見えるという、ありがちな弊もあるにせよ、腋の締め具合や中溜めの見事さは舌を巻く。後ジテは、正直、こんなのは見たことがないと思わされた。毛振りもさることながら、本舞台にかかってから、一睡して胡蝶と戯れる辺りの息の詰み方、間合いの伸びやかさ。このところは、私は誰のよりも芝翫のが好きだったが、右近はそれに似て、更にひと回り大きく、伸びやかである。これだ、と思った。(さる人曰く。勘三郎が生きていてこれを見たら、今夜眠れないだろう、と。同感である。)

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前進座が三越劇場に出て、終戦70年特別企画として『南の島に雪が降る』を出したのがなかなか良かった。原作者で映画でも主演した加東大介が、前進座俳優市川莚司として出征、ニューギニアでの実体験が題材という事実は、何と言っても前進座で劇化するのにふさわしいし、それより何より、こういう題材こそ、現在の前進座に最もふさわしい。現在の、と言わず、かつてだって、前進座はこうした「現代劇」をやってきたのだ。

(やはり終戦70年というので、日本映画チャンネルで昭和36年制作の東宝映画を放映したので久しぶりに見たが、昭和36年ともなると、俳優諸氏、栄養状態ももよくなっていて、主役の加東大介といい、元ピアニスト役のフランキー堺にせよ、偽如月寛太役の渥美清にせよ、森繁も小林桂樹も、食べ物がなくトカゲまで食ったというニューギニア戦線だというのに、みな栄養満点のようなかっちりとしたいい体格をしているのが何だかおかしい。良心的作品には違いないが、いま見ると、少々タガが緩んでいるようにも見える。

とはいうものの、やはりおそらく全員が何らかの形で戦争を体験していると思われる世代の俳優たちのこと、争われぬ臨場感と真実味があるのは間違いない。後の演劇評論家杉山誠の役の細川俊夫は、たしか立教大学で競歩の選手だった筈だが、俳優としてはアマチュアっぽくてお世辞にも巧いとは言えなかったが、加東大介に向かって「君の舞台を見たことがあるよ。前進座の市川莚司君だね」と言ってニッコリ笑う感じが、アヽ、昔はこういうインテリがいたっけと、思わず涙がこみ上げてきたほど懐かしいし(こういう俳優の持ち味こそ、本来アマチュアだった人ならではのもので、この種の俳優も昨今あまり見なくなった)、一方、節劇の役者だったという鯉之助役の伴淳三郎(つまり、バンジュンである)が、こちらは玄人中の玄人らしく、兵隊たちの前で演じる『瞼の母』で、加東大介の演じる番場の忠太郎にからむやくざ者の役で、戦前には剣戟の役者だったという昔取った杵柄で本息で斬りかかるのを、加東大介もむかしの市川莚司に戻って本息で受ける。ここらが、この映画ならではのご馳走というものだろう。)

前進座の舞台は、スタッフも役者も、それこそもう戦争を知らない世代ばかりであるはずだが、その割りには、嘘っぽさがないのに敬服する。嵐芳三郎以下、俳優たちも皆、良い意味で前進座的真面目さが生きている。台本も、映画版のシナリオより、的確なところをつかんでいるが、それにしても、軍隊というところにはあらゆる職業職種の人間が集まっているわけだが、東大出で劇評家をしていたという演芸分隊長の大尉がのちの杉山誠で、加東大介と同じ部隊にいたとは、これこそ嘘のような真の話ではある。

前進座は、吉祥寺の自前の劇場を失って困難が思いやられたが、この三越劇場の公演は、いかにもつきづきしい。定着することを願う。

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その『南の国に雪が降る』の劇化の協力者として名を連ねている文学座の加藤武氏が、初日直前に亡くなったのには驚かされた。スポーツジムのサウナで斃れたとの由だが、それで思い当ったのは、私が同人仲間と30年来続けている連句の会の雑誌に、かれこれ10年あまり前になるか、ゲストコーナーと称して、面識やらツテやらを頼って、各界の著名の方々にエッセイを書いてもらう欄に、執筆をお願いしたことがあった。快く引き受けて加藤氏が寄せてくれたのは、種々様々な健康増進のための器具を次々に買い込んでは試している内にはまり込んでしまったという、やや自虐的なシャイネスに東京人らしさの浮かび上がる好文章だった。

健康器具とスポーツジム。そんなにムキにならなくても、と他人に言われるまでもなく自覚していた筈にもかかわらず、結局ムキになって健康増進に励んでいた姿を思い浮かべると、可笑しくも哀しい。

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シアターコクーンの『貴婦人の訪問』は、期待外れの凡作だった。そもそも、原作(は読んでも見てもいないが)、察するところ)その寓意や風刺が生きているようには受け取れない。作曲もウイットがなく妙にものものしい。劇としていいところは原作の良さであり、何故ミュージカル化したのか、最後まで見えてこなかった。いつも堂々たる時代物俳優の山口祐一郎が、少々つっころばし的要素もある世話物の役に懸命に取り組んでいる姿を見る楽しみが、せめても終いまで見続ける興味をつないでくれた。

随談第553回 今月の舞台から(8月・その1)

(1)

新橋演舞場の『もとの黙阿弥』を見たが一向に弾まない。三日目の夜の部だというのにこの有様では先が思いやられる。原因は結構深いところにあるようなので、少々の「手直し」という対処療法では片がつくまい。一生懸命、面白おかしそうに振る舞うのがことごとく空振りに終わり、客席からはくすりとも反応がない。まれに小さな笑い声があったとしても、表層的な笑いに留まって、舞台を弾ませるような力には到底ならない。役者たちは皆、内心焦っているに違いない。

根本的には演出の誤算だろう。配役から行くと、まず狂言回しというか、独楽の芯棒の役である坂東飛鶴(という名前の役者が実際に昭和30年代半ばまで菊五郎劇団にいた。東横ホールの若手歌舞伎で『石切梶原』が出れば六郎太夫辺りをつとめる相当の腕達者だったが、作者はまたどうしてこの名前を登場人物に使ったのだろう? 単に知らなかっただけか、ひとつの謎だが、私は気になっている)の役に波乃久里子を選んだのが、誤算の程を象徴している。気の毒になるほど空回りしている。バットにかすりもしない、あるいは、投げるボールがことごとくコースを外れる、といった趣きである。この役に久里子を使ったことがそもそも間違いなのだが、もっとも自分からやりたいと言った久里子自身にも責任の一端はあると言わなくてはならない。

もちろん久里子は新派古典の演技者として優れた女優である。名優と言ったっておかしくない。今度だって普通の意味では拙いわけではない。それにもかかわらず客席からウンともスンとも反応がないのは、彼女がするべき役ではないからで、どんなに力のある役者でも自分の持てるもので勝負の出来ない芝居は如何とも仕様がない。観客は敏感にそれを察知するから、本当はワーワー言って笑いたいのだが笑えないのである。ここに久里子自身の、より根本的には演出者栗山民也の誤算がある。更に根本的には作者井上ひさしに対する思い違いがある。

時は明治20年。滔々たる欧化の波に足元の砂が崩れそうになる中で頑張っている女役者坂東飛鶴、とくればば久里子にぴったりではないか、と思うだろうが、それがそうでないことにどうして気が付かなかったのだろう。作者の井上ひさしの台本の文体は、新派古典で身につけた久里子の演技大系にはない種類のものであることに、本人も演出も、思いを遣らなかったのだろうか。私は初演は実は見ていないのだが、数年前の再演の時の高畑淳子は悪くなかった。へえ、こういうものもこれだけやるんだなと、ちょっと感心したほどだ・・・というところに、鍵はあるのであって、逆に高畑淳子が『明治一代女』や『鶴八鶴次郎』をやったらどうにもサマにならないだろう。つまり井上ひさしの戯曲の文体というものは、あくまで、新劇あるいは現代劇の系統の演技術を基本とするもので(現に、今度の出演者の中では内務省国事探偵の役の酒向芳が一番井上戯曲の言葉が言え、井上戯曲の人物になっている)、一見、七五調めいた言葉遣いがあったとしても、それは高畑淳子には言えても波乃久里子には言えない種類の(性質の)ものなのだ。久里子に限らない。現に、(井上戯曲の必ずしも熱心な観客ではない私はその上演されたすべてを見ているわけではないが)これまで歌舞伎や新派の俳優が演じた井上戯曲で成功した例があっただろうか? 少なくとも私は、出会ったことがない。(今回の愛之助にしても、最初の自転車に乗っての出が空振りだった以外は大きな破綻はないにせよ、愛之助でなければ、というほどのものではない。)それにもかかわらず、歌舞伎や新派の役者たち、あるいは歌舞伎や新派の愛好者たちのかなりのパーセンテージの人たちが、井上ひさしという作者は歌舞伎や新派の「味方」であると思い込んでいる・・・。久里子ばかりか栗山民也までが、そこに気が付かないというのが、私にはどうにも解せない。

『もとの黙阿弥』という戯曲は、煎ずるところ、井上ひさしの演劇論の論文である、と私には見える。一見、面白おかしげにこしらえてあって、その作劇術や言葉遊びの術は、もちろん、劇作の技法として大したものだが、しかしそれは(自身語っている通り)800本の歌舞伎脚本を読み黙阿弥全集を3回通読したという「知識」のなせるものであり、語られる内容はことごとく論理また論理である。つまり「難しいことを易しく」述べているのであって、もちろん劇作家井上ひさしとしてはそれでいいのだが、問題は歌舞伎や新派の俳優の側が、井上先生は歌舞伎や新派の味方だ、と思い違いをすることにある。更には、栗山のような演出家までが、浪乃久里子や片岡愛之助にさせればうまく行くだろうと思い違いをするところにある。

確かに井上ひさしは、むかしの(たとえば千田是也のような)新劇のセンセイたちと違って歌舞伎を新劇の下に見るような言辞を弄したりはしない。だがだからといって、井上戯曲が、「旧派」の俳優術に向いた(向けた)言葉で書かれているわけではない、ということにどうして気が付かないのだろう。久里子が言ったのでは立ってこない「井上ひさし語」が高畑淳子が言えば立ちあがるのだ。「ナニナニですよぉ」という言い方が久里子扮する女役者坂東飛鶴の口から幾度となく出てくるのが耳につくが、かんぺら門兵衛ではないが、その「よぉ」が気に食わない、ではなく、気になって仕方がないのは、井上戯曲のコトバにうまく取り付けない久里子が、あの「よぉ」に取りすがっているように聞こえるからだ。

ナンノダレソレじつはナンノダレガシ、といった黙阿弥が駆使したような作劇法が、演劇改良会が唱えるような「文明的」な作劇法よりじつは古今東西に通じる作劇法であり、ギリシャ劇の作者もシェイクスピアもモリエールもそういう方法で脚本を書いて来たのだ、というところを捕まえたのが井上戯曲の働きなわけだが、だからといって井上ひさしの持っている言葉が黙阿弥(やその他の旧劇の作者たち)のような、(マア早い話が)糸に乗る,乗せられるような文体ではなかった、ということに話は尽きるのだ(というのが私の井上ひさし論のリクツである)。蛇足を加えるなら、お嬢さんに成りすましていた女中のお繁が元に戻れなくなってしまった、というオチに現代作家としての肝があるということだろう。

(2)

中村富十郎の遺児の鷹之資と愛子の兄妹が「翔の会」を一昨年に引き続く第二回として国立能楽堂で催した。富十郎が亡くなった時、小学6年生と1年生であった兄妹は、既に高校1年生と小学校6年生になっている。まさに光陰は矢の如しである。鷹之資は、もう髭を剃るのだそうだ。亡父そっくりの体形だが、おそらくサイズは父より大きくなっていると思われる。舞台に立てば亡父の大きさが圧倒的に感じられるのが、芸の力によるもので、これから生涯かかってその差をどれだけ縮めて行けるかを、私たちは見てゆくことになる。

鷹之資が『藤娘』と能の『安宅』から富樫との盃の件を舞囃子として、さらに清元の『玉屋』を、愛子が『雨の五郎』を、いずれもいささかの外連味もなくしっかりと踊り、舞って、確かな修行のさまを窺わせる。とりわけ「片山幽雪先生に捧ぐ」という詞書きを添えた『安宅』は、亡父のよしみで幼少の折から指導を受けた幽雪師の後、九朗右衛門師の指導で舞うもので、『勧進帳』のための基礎訓練という位置づけという。こうした指導を受けられるのも父の遺徳だが、その父の若き日、安宅英一の助力による英才教育を受けたことを連想させる。思えば一高校生と一小学生のために、国立能楽堂という場に、一杯の人が集まるというだけでも大変なことである。

随談第552回 今月の舞台から(2015年7月)

国立劇場の歌舞伎鑑賞教室が発売ほとんど同時に売り切れたという。菊之助が『千本桜』の知盛をするせいだが、一昨年来、吉右衛門令嬢との結婚によって生じた縁戚関係が結びの糸となってのさまざまな新奇な配役は、遂に、こうした思いも寄らなかった事態を生み出した。もっとも、丸本時代物の大役を演じるに当って吉右衛門に教えを受けるのは別に縁戚関係に拠らなくとも、当然あるべきことであって、現に同じ今月の歌舞伎座でも海老蔵が熊谷を演じるに当って吉右衛門に教えを乞うている。しかし事は、菊之助が事もあろうに知盛を、である。

前からやりたかったのだ、と菊之助は言っている。その通りなのだろうし、ご本人としては国立の鑑賞教室という、良き潮が巡ってきたこの好機に、ということなのであろう。見る側にとっては期待と危惧の混じり合った興味と、意欲に対する好感といったものが混じり合ってのこの盛況なのであろう。

さて舞台だが、頭脳は明晰研究熱心、理解は行き届き良き師を得てすることに難はなく、まずは朱の入れどころもない。大詰の入水の件など、鮮やかに返って、あれほど見事にしてのけた例はざらにはないと言っても過言ではない。フィギュアスケート風の採点方式で行けば技術点芸術点ともに金メダル級の高得点ということになるであろう。では歌舞伎『義経千本桜』の知盛として極上々吉かといえばやはりそうともいかないのは、ここは畏友犬丸治氏の卓説を、剽窃するわけには行かないから紹介かたがた取り次がせて(借用させて)いただくと、文楽の首でいうなら「源太」の首で「文七」の役をしたよう、というのが忌憚のないところになる。

これは、もちろん菊之助にとって不名誉なことを言っているのではない。意欲は意欲として、菊之助には菊之助の踏み固めるべき領域は他にあろうということに過ぎない。というより、この知盛によって菊之助は自身のひとつの極点をここに記した、と言った方が、より適切であるかも知れない。日ハムの大谷選手の投打二刀流ではないが、その女方と和事系統の二枚目役の、極めて純度の高いところに菊之助の他に求められない優れた資質があり、それを大切にしたいという私の菊之助観は、今度の優れた知盛挑戦の成果を見た後も変わることはないということである。それにしても、「大物浦」の竹本に谷太夫と葵太夫の出演を得るなど、鑑賞教室としては破格のことだろう。

梅枝の典侍局が、まだ実(み)は充分に入ってはいない青い果実だがその仁のよさ格のあること、曾祖父三世時蔵を偲ばせる風貌共々、先物買いをしたくなるし、亀三郎の相模五郎、尾上右近の入江丹蔵の好感度の高さも標準を高く抜けているが、右近が丹蔵をするというのも、兄貴分菊之助が知盛をするならボクだって、とそのひそみに倣ったのであろうか。常識に従うなら、解説役を兼ねた萬太郎の義経と役を入替えるところだろう。解説と言えば、私の所見の日、わんわという入りの高校生の大向こうから、「萬チャン」などと半畳が入ったのにも臆することなく真っ向から押し返す気概を示した解説ぶりは、なにがなし(系図の上で何に当るのだろう? お祖父ちゃんの弟だから大叔父か)初代錦之助を思い出させた。

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歌舞伎座ではまず海老蔵の熊谷に注目した。海老蔵個人にとってだけではない。近未来の歌舞伎を担うべき人材を見渡したところ、古典としての歌舞伎伝承の根幹となる丸本時代物の有力選手として海老蔵に求められるものの大きさを思うからだ。こんど海老蔵が吉右衛門に教えを乞うて『熊谷陣屋』をつとめるのは、大仰に言えば、近未来の歌舞伎を占う試金石とも言える。聞くところによると吉右衛門の先生ぶりはかなり「こわい先生」であったらしい。そうだとすればそれこそ、今の海老蔵に最も必要なものである筈である。

果してその舞台はと言えば、まずは神妙につとめてひと安心というところ、この際褒められて然るべきだろう。そこに付き纏うある種の生々しさは、海老蔵の個性でもあり若さの現われといまは許容するとして、要はこの初心をいつまでも忘れないことであろう。危惧があるとすれば、再演・三演と重ねるうちに自己流に演じ崩してしまうようなことがないように、ということである。幕外の引っ込みで、遠寄せのドンチャンが聞えるとワーッと声を上げ饅頭笠で耳を蔽うようにして駆け込む。耳を蔽ってまだ悟り切れない熊谷の心象を表わすのは、初代二代の吉右衛門の演じ方と変りはないが、ワーッと声を上げるところに海老蔵の独創がある。今度の所演で見えたひとつの裂け目とも見える。

梅玉の義経、左団次の弥陀六、魁春の藤の方、芝雀の相模と、吉右衛門の熊谷と同等の布陣。梅玉の名調子、左団次の老熟の自然体、みなそれぞれに芸境を深めている。芝雀は冒頭の「障子押し開き」の出から芸に一段と積極さが顕著になり、どうかした折に雀右衛門かと見紛う顔になる。あれでクドキに一倍積極性が出れば、傑作であった父の塁を摩するところまで来たと言っていい。魁春の藤の方も、その品格、その優しみ、いまや最適任者というべきであろう。

だが実をいうと今月の歌舞伎座で何が面白いかと言えば、久々に見る玉三郎の世話の芸である。お富にせよお峰にせよ、この春の『女暫』などと比べても、この人のスラスラスイッと渋滞のない喋る芸の面白さは、やはり世話狂言でこそ存分に発揮されることがわかる。こういうのを見ていると、この人の異能の才質を、今更ながら思わないわけに行かない。こういう「喋る」芸というものは、先輩の女形たちの誰も持っていなかったのだが、しかし「異能」ではあっても「異端」では決してなかったところに、玉三郎という女形の存立する足場が、危うくはあっても紛れもなく歌舞伎の水脈の中に立っていることを実感させる。そこに玉三郎を偉とするところも、見る愉しさもある。

もうひとつ、改めて知ったのは玉三郎の「教師」としての才能と手腕である。お富における海老蔵の与三郎にしても獅童の蝙蝠安にしても、お峰における中車の伴蔵にしても、玉三郎のリードによってその才質、その芸、ひっくるめて言えば持てる魅力を存分に引き出されている。ばかりでなく、そういう玉三郎の才腕自体の面白さというか、まさにその現場に立ち会っているかのような興趣を、見ている我々も感じ取ることになる。このところの玉三郎が、当代の立女形として大立者たちと舞台を共にすることが少なく、不審の声も聞えたりしていたが、そうした批判は批判として、こういう玉三郎を見ていると、むしろこういう姿にその真骨頂を見る気がしないでもない。かにかくに玉三郎はよし、というところ。

『牡丹灯篭』は今度も大西信行脚本だが、玉三郎が演出として大いに手を入れ、お峰と伴蔵の筋に絞り込んだので、これまでのものとは随分違って見える。「玉三郎版」と称して然るべきであろう。猿之助が円朝役で、これまでの勘三郎や三津五郎が、円生や彦六正蔵であったり談志や志ん朝であったり、はたまた歌丸であったり、今日の人情噺の名手の誰彼を自分の仁の中で咀嚼しながら、演技としての巧みな話芸を聞かせていたが、猿之助は扮装も清方描く円朝像に似せてこしらえ、高座に坐ってからしかめつらしく白湯を汲むなどいろいろあってから、さて語り出すという、伝え聞く、草書の柳派に対する三遊派の仕草を真似るなど、研究派としての薀蓄を見せるが、それはいいとしても、何度か登場しての口演はいささか凝っては思案に能わず、やや陰々滅滅とするのは一考あって然るべきであろう。

海老蔵が馬子の久蔵役をご馳走気分でつき合うが、こういう海老蔵の愛嬌というのは、値千金とまではいかずとも、なかなか悪くない。『蜘蛛糸梓弦』でもひとり武者保昌の荒事をつき合うし、今月の海老蔵はなかなかいい男である。

その『蜘蛛糸梓弦』が猿之助の出し物だが、正月の『黒塚』に次いでこれが二度目の歌舞伎座出演というのはともかく、目下のところこの辺が猿之助スペシャルの一品料理の包丁さばきの見せどころか。そろそろ他流の(?)面々と噛み合う芝居が見たい。

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新橋演舞場で染五郎が「歌舞伎NEXT」と称して、以前劇団☆新幹線の面々と演じた『アテルイ』を、同じ中島一樹作・いのうえひでのり演出で、歌舞伎として書き直し作り直した『阿弖留為』(と文字を探して書いたが、果たして文字化けしないで出てくれるかどうか、無事に行ったらおなぐさみだ)を出したのが、結構面白かった。中島一樹の脚本がかなりよくできていて、☆新幹線の固定ファン向けのギャグ沢山の枝葉を落として劇全体の姿がくっきりと見えるようになっているのが成功の第一。13年前の『アテルイ』初演の折、猿翁が見に来て(もちろんまだ三代目猿之助としてバリバリやっていた頃だ)「ギャグを取り除けば歌舞伎になる」と言ったのだそうだが、まさしくその通りになっている。(それにつけても、☆新幹線にしてもその他の誰彼にしても、当世をときめく人気作者たちが等しく、どうしてあんなにギャグにこだわるのか、どうも私には判らない。何故あゝものべつ観客の笑いを欲しがるのだろう? それとも、彼等を見に来る観客の側が笑いを欲しがるのか?)今度の脚本は、そのギャグという絡まる蔦を切り払っために、木の姿が、ひいては森全体がよく見えるようになった。ために訴えるところがまっすぐに届いてくる。

まつろわぬ民蝦夷と大和朝廷の関係というのは、そのまま現代のさまざまな相対立するものの関係に暗喩を見出すことが可能であり、いちいち小手先を弄さずとも、アテルイと坂上田村麻呂はじめ人物たちの織りなす人間模様から、見る者がおのずからさまざまな意味をそこに読み取り、感じ取る余地が生まれる。その骨太感がなかなかいい。亀蔵演じる蛮甲などという脇の役の面白さも、森全体の見通しが良くてこそ、木も亦よく見えるという好例であろう。勘九郎の田村麻呂、七之助の二役(それにしても蝦夷の女が鈴鹿という名前なのは何故だろう?)はじめ真剣な舞台ぶりも好もしいが、新悟がふだん見せない存在感でオッと思わせる。橘太郎や宗之助など、はじめはそれとは気が付かないほどの凝りようである。

NEXTというのはスーパー歌舞伎を念頭に置いての命名で、「スーパー=歌舞伎を超えた歌舞伎」に対し、「NEXT=次代の歌舞伎」という意味か? あるいは「スーパーの次に来るもの」という意味か? 感触としてはかなり似通い、ときに重なり合って(当世流にいえば「かぶって」)、『ヤマトタケル』の鈴鹿山の場などと、テイストも似ている。スーパー歌舞伎は『ヤマトタケル』の後、メッセージとしての「哲学」を盛り込もうというその哲学がとかく内向してしまったために次第にエンタテインメントとしての闊達さを失ったが、NEXTも今後第二弾第三弾と続けるなら、落し穴は今後にあることを思うべきである。(新・猿之助のスーパーⅡも、第一作を見る限り、内向癖を継承しているかに見えたのは玉に瑕だったが、秋に出すという第二作はどうだろうか?)

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作の良さという意味ではシアターコクーンの『ライムライト』も、単なる名作映画のミュージカル化でなく、チャップリンがシナリオ以前に自ら書いて未刊行に終ったという小説をベースに作ったという、大野裕之の上演台本がなかなかよくできているので、大人の鑑賞に堪える作となった。シアタークリエ近頃のヒットである。舞台裏と舞台を重ね合わせたような荻田浩一演出もはじめはややうるさく感じられたが、結局は成功しているし、石丸幹二演じるカルヴェロも、強いてチャップリンを意識させずに演じたのがよかった。石丸幹二畢生の名演といったら皮肉のようだが、イヤ本当にその通りなのではあるまいか。

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松也がルキーニの役をダブルキャストでつとめるというので、『エリザベート』を見るために帝劇に二度、足を運んだ。まずは上々吉、あまりひやひやせずに見られたのは何よりだった。面白いのは、今度の配役が必ずしも昨今の松也ブームに乗ってのことでなく、演出の小池修一郎によると、今回トート役の城田優、ルキーニ役を競演する山崎幾三郎と共に、以前ルドルフ役のオーディションを受けていたという、ちょいとした「松也論」のネタになり得るかもしれない「秘話」である。存外、幸四郎に次ぐ二人目の、歌舞伎とミュージカルを「兼ねる役者」になるかもしれない!

今度の演出が従来とすっかり様変わりして、フランケンシュタインでも出て来そうな不気味な荒廃の気配を漂わせているのはオーストリア帝国の衰退没落を暗示しているのだろうが、舞台の上に八百屋舞台という、舞台奥から前面へと傾斜のついた舞台を(つまり「二重」である)を置いているのも、なにやら不安定な効果を上げている。一般論としては私はあまりこうした策を弄した装置は好きではないが、しかし全幕見終って考えるとトートという存在が占めている役割の意味を明確にする上では肯定すべき演出と受け入れることにした。『レ・ミゼラブル』の新演出は肉を落として骸骨ばかりになったようだが(確かにその方が骨組みは見えやすいが)、『エリザベート』の場合は、従来の演出だと、トートの存在が、へたをすると脇の方でこそこそうごめいているだけのようにも見えかねない。その代わり、はじめのエリザベートの実家の場面の、昔の宝塚芝居を偲ばせるような牧歌的な感じは後退することになるが、ダブルキャストの花房まりが快活な少女から皇妃エリザベートへ変るさまを見せる芸にちょっと感心した。あれは歌舞伎である。(そういえば彼女はこの前見た『レディ・ベス』でもそうだった。)

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前回書いた爆弾騒ぎで第一幕で上演打ち切りとなった『おもろい女』をシアターコクーンで見直したのが、大分旧聞となって興趣も殺げてしまったが、藤山直美は初役とは言え勝手知ったる世界の話のこと、既に自家薬籠中のものの如く少しの不安もない。ところがそれが逆に、ある意味では難しいところで、大詰、薬物依存が祟って西宮球場での漫才大会出演を終えた後昏倒、そのまま息を引き取るという悲劇的な死を遂げる場面が、森光子の場合がここがあっての名演という印象であったのとだいぶ違う。優劣を言うより、これは両者の芸の在り方の違いというべきであろう。(その代り、天才漫才師ミスワカサとしての板につき方は、直美の方が堂に入っているわけだ。)つまり、それぞれの育った「学校」の違いということになる。

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悪口はなるべく書きたくないのだが、新国立の長塚圭史作『かがみのかなたはたなかのなかに』というのはどうにも困った。アンコールのさなか席を立つのは、(こちらはつまらないと思っても喜んで拍手する人もいるわけだから)控えるようにしているのだが、今回はどうにもいたたまれなかったので、ああ、やっと終わったと失礼させてもらった。鏡のこちらと鏡の中の世界の往来というのは昔からあるテーマだが、「子供と大人が一緒に楽しめる舞台」を意図したという割には話がごちゃごちゃした挙句、コドモニ見セルノハイカガナモノカというような話になってしまう。もっとも、そう思うのはお前が子供の心を失っているからだ、ということなのかは知らないが、85分の上演時間の内、見られるのは鏡のあっち側とこっち側のパントマイムの遣り取りの面白さで見せる初めの15分、大負けに負けて30分、か。それにしても先月の「四谷怪談」といい、新国立の新作は二打席連続三振というところか。

随談第551回 私家版・BC級映画名鑑 第4回 映画の中のプロ野球(その4)『四万人の目撃者』『お茶漬の味』『野良犬』

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『一刀斎は背番号6』や『川上哲治物語・背番号16』に映像として留められている後楽園球場のスタンドの様子のことに触れたが(『背番号16』には一度ずつだが神宮球場と甲子園も出てくる)、野球そのものがテーマでない作品の中にプロ野球の場面が出てくるのも、昭和20年代から30年前後の世相の反映であり得たからで、学生野球やラグビーの場面は青春のシンボルのお定まりとして登場はしても、戦後という時世を映す役には立たなかった。プロ野球そのものが、社会の縮図たり得たのである。

昭和35年制作の堀内真直監督の松竹映画『四万人の目撃者』は野球映画ではなく、有馬頼義の同名の推理小説の映画化で佐田啓二と伊藤雄之助が刑事になる推理物だが、満員の後楽園球場で試合の真っ只中に事件が起きる。目撃者が四万人というのは、後楽園球場がぎっしり観客で埋まった満場注視の中で、中日ドラゴンズの強打者西沢道夫が三塁打を放って滑り込んだところで事件が起こるからである。西沢本人が出演し、マスコットバットを放り出して打席へ入るショットは俳優がやったのでは到底出せない迫力がある。

小津安二郎の作品にも後楽園球場が出てくる。失敗作と見做されているので論じる人は多くないが、昭和27年封切りの『お茶漬の味』で、商社の幹部社員だが地方出で味噌汁をご飯にかけて美味い美味いと食べるような夫を疎ましく思い、有閑の友人グループと遊び歩いている妻という夫婦を、佐分利信と木暮実千代が演じている。失敗作にこそ「らしさ」がよく現われるという意味で、数ある小津作品の中でも私はこの作品を愛好するものだが、その遊び仲間の淡島千景や姪の津島恵子等と後楽園球場へナイターを見に行くという場面がある。ちょうど、「3番レフト三宅」が凡退したらしく続いて「4番センター別当」というアナウンスと共に、毎日オリオンズの別当薫が打席に入ったところで、ほんのワンシーン、スタンスの広い独特の優美なフォームでバットを構える別当の姿がロングで捉えられる。プロ野球をナイターで見るというのが、昭和27年、この年の4月に講和条約が発効して占領状態から脱却、ようやく戦後ではなくなる第一歩を踏み出した、時代の先駆け的なシンボルなわけだ。

神宮球場にはその前から照明設備があり、三年前の昭和24年にサンフランシスコ・シールズが来日した折、神宮で夜間試合(と当時は言った)をしたことがあるが、黄色っぽい灯りの、あまり明るいものではなかった。後楽園のはカクテル光線というそれまでとは段違いに明るい照明で、「ナイター」という新語と共に、プロ野球ならではのイメージで新名物となっていたのだった。試合開始が近づいて夕暮れてくると、(確か、「点灯致します」といったアナウンスがあったと思う)照明が一基、一基つくごとに拍手が起ったものだった。つまり照明が点灯されるのも、「見せ物」の内だったのである。

(『お茶漬の味』の画面にはナイターの他にも、パチンコ屋、競輪、ラーメン屋、羽田飛行場から出発するプロペラが四発の大型旅客機と野天の送迎台、特急の展望車、前年開場したばかりの歌舞伎座など、終戦から七年という時代の諸相が映し出されている。だが今はそれらに深入りしている隙はないから、「お茶漬の味の中の昭和27年」とでも題して、いずれ項を改めて語ることにしよう。)

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ところで後楽園球場が映画の中でこうした使われ方をしたおそらく第一号が黒澤明の『野良犬』だろう。BC級どころか昭和24年度の「キネ旬ベストテン」3位に選ばれ今なお名作の誉れ高い作だが、ここでは昭和24年という時代を切り取るために選ばれた後楽園球場のプロ野球というところに的を絞っての話である。

兵隊帰りの若手刑事の三船敏郎が、ベテラン刑事の志村喬の協力を得て、山本礼三郎演じる拳銃の闇ブローカーが野球狂だということから、巨人・南海戦の行なわれている後楽園球場の中で逮捕するという場面である。満員の後楽園球場のスタンドでの二人の刑事の動きとグラウンドでの試合開始前の練習や試合の模様がめまぐるしく交錯するが、球場の場面は全部で約12分、おそらくこれほど球場と試合の模様が詳しく、躍動的に描写された映画はないと思われる。  (ついでに言うと、映画の中では拳銃のブローカーのことを「ピストル屋」という言い方をしているが、ピストルのことをパチンコとも言うので、ピストル屋をパチンコ屋と間違えるという場面もある。『お茶漬の味』に先立つこと三年で、パチンコ屋がほんの端役でだが登場しているわけだ。黒澤は『お茶漬の味』と同年の『生きる』でも、余命のないことを知った主人公が刹那の憂さを晴らすひとつとしてパチンコを使っている。)

昭和24年だからまだ一リーグ時代で、当初脚本は巨人・阪神戦の予定だったらしい。それが何故、巨人・南海戦に変更になったのかは知らないが、この年の巨人・南海戦というのは一種因縁試合と化していて、前年までの南海のエース別所を巨人が強引に引き抜いたしこりが残っていた(別所はシーズン開幕当初、たしか100日間だったか、出場停止処分を受けていた)ところへ、開幕間もない四月、試合中のトラブルから巨人の監督三原が南海の捕手筒井を殴って出場停止処分となった(ポカリ事件と呼ばれた)上に、5対2とリードされた9回裏、川上が逆転満塁本塁打を放つという離れ技を演じたり(その年の暮れ、買ってもらった「野球いろはカルタ」の「い」は「一打よく川上満塁ホームラン」というのだった)、波乱含みであったから、そういうことも踏まえての変更であったとすれば、その第9戦という映画の設定は、「野球ファンならこの試合、見逃すはずはない」だから犯人は必ず見に来ている筈だという志村喬刑事のセリフは、現実に照らしても充分説得力を持つことになる。

グラウンドの情景では、まず試合前の練習風景が、いま見ると珍しくも懐かしい。現在では専ら打撃練習だが、当時は、2列に向かい合ってトスバッティングとか、いまでは見かけなくなったいろいろなやり方をしたものだった。(そういう際の藤村やスタルヒンの観客を意識してのショーマンシップぶりがなつかしい。近年ではイチローの背面キャッチがわずかにそれに匹敵したが、それももう昔話になってしまった。)カメラは一塁側、すなわち巨人側から撮っていて、背番号から16川上哲治、23青田昇、3千葉茂、17藤本英雄(日本球界初の完全試合を達成した中上英雄は当時藤本姓だった)、21川崎徳次、25平山菊二、19多田文久三、7山川喜作、1白石勝巳(後の広島カープ監督)などの姿が読み取れる。試合が始まると、巨人の投手は川崎で、腕をぐるぐる回してから振りかぶるという今では見かけなくなった投球フォームが既に時代を語っている。南海の投手はアンダースローの武末悉昌、顔ははっきり見えないが捕手は筒井、サードは監督兼任の山本(鶴岡)一人、これは俊敏な身のこなしからもわかるがショートは木塚忠助であろう(そのコマネズミのようなすばしこさは正しくチュウスケだった)。巨人のレフトは大飛球をフェンスに手を掛けジャンプして捕球、敵の本塁打をフイにする名人芸で「塀際の魔術師」と呼ばれた平山で、まさにその魔術師ぶりを見せるショットがロングで捉えられているのには感激せざるを得ない。(これを映像に残してくれただけでも、黒澤明は私にとって名監督の名に値する!)その他、三塁を蹴って本塁に突入する走者が、今日の走塁では考えられないような大回りをして来ることだとか(当時、日本の野球が本場アメリカに比べ一番劣るのが走塁だと言われていた)、バットを強振したり滑り込んだり激しい動きをすると、何かというと帽子が脱げることが多かったのも当時の野球の一風景で、あればかりは昔はよかったとは嘘にも言えないお寒い風景だったが、映画の中でもわずか12分間に三度も、帽子の脱げる光景が写っている。(デザインの問題もあるだろうが、おそらくそれ以上に材質が悪かったのだろう。走塁の際、帽子を鷲づかみにして走る選手もよくいたが、阪神の藤村の場合などは如何に猛虎タイガースという猛々しい感じが、ひとつの名物たり得ていた。)

場内アナウンスのウグイス嬢(という今では随分と古風な呼び方も、この当時の、つまり戦後の女性の社会進出のひとつの反映として生まれたものであろう)の、「○○さま、迷子のお子様が放送席の屋根の上にいらっしゃいます」という放送があり場内笑いの渦の中、父親らしき男が出てきて子供を抱きかかえて引っ込むという微笑ましいショットがあり(場内放送の席はグラウンドに面してダッグアウトの並びにあった)、それをヒントに、犯人を場内放送で呼んでおびき出そうという作戦を思いつくというシナリオは秀逸で、それが功を奏して見事に逮捕に成功するのだが、ちょうどその時に「ジャイアンツ、ラッキーセブンでございます」という場内アナウンスと共に観客が立ち上がり伸びをするショットが写ると、それにまぎれて犯人も二人の刑事も行動に移る。これは当時、七回の表と裏、それぞれのチームのファンが立ち上がり、アーアと背筋を伸ばしてひと息入れるという慣習があったのである。7th inning stretchというのだそうだが、そんな言葉は当時はもちろん知らなかった。思うにこれも進駐軍のアドバイスによるものだったのだろう。(スタンドの椅子も木製のベンチに古新聞を尻に敷いて坐るだけのもので、一人一席という仕切りなどないから、詰めて坐れば定員などあってないようなものだった。『お茶漬の味』でもまだこの式で、現在のような一人掛けの椅子になったのはかなり後になってからのことだった筈だ。)

もう一つ、アイスキャンデーを売り歩く売り子に手配写真を持たせ、犯人の居場所をあらかじめ突きとめておくというのも、うまく考えた妙案と言うべきで、果して犯人が二度、キャンデー売りを呼び止めると、売り子が隠し持った手配写真と照合するショットがある(つまり犯人は二回、キャンディーを買ったわけだ)。一回目の売り子の通報で犯人の席を特定し、二回目の通報で行動に移ったという設定なわけだが、本当を言えば、超満員の大観衆(「何人ぐらい入るんだろう」「5万人と聞いています」という志村刑事と三船刑事の会話があるが、『四万人の目撃者』に比べると1万人、多いことになる)の間を、顔が割れているとはいえそう簡単に探し出せるものかどうか疑問も残るが、この設定自体の面白さで、少なくとも「芝居の嘘」として成立すると言っていいだろう。)

ところで二回目の通報者は大学の学帽をかぶったアルバイトの学生で、「すみません売切れです」と下手な言い訳をして通報するのだが、当時の学生はみな帽子をかぶっていた。刑事たちももちろん、犯人も、中折れなり鳥打帽をかぶっている。小学生に至るまで、男の無帽が普通になったのは、昭和30年代になってからであろう。何よりも戦後という時代を語っているのは、アイスキャンデーなる割り箸の片方を芯にした粗末な代物で(一本10円と、はじめに犯人から声を掛けられた女性の売り子が答えている)、街中でも至る所、自転車の荷台に木箱に入れたのを積んで辻々を走り回って売るのを呼び止めては買ったものだった。同じアルバイトでも、納豆売りは小・中学生、アイスキャンデー売りは大学生なり、ともかく大人が多かった。

この『野良犬』にせよ、同じ頃に作られた『静かなる決闘』など、私は黒澤映画では大家になってからの物々しい大作より、むしろ初期のものの方が好きだが、この約12分の野球場の場面を見ても、当時の黒澤監督の瑞々しい冴えがよくわかる。

随談第550回 今月の舞台から(2015年6月)

『新薄雪物語』を『忠臣蔵』並みに昼夜に掛けて出そうという今月の立て方は、歌舞伎座としてももしかしたら初めてかも知れない。入りが薄いなどと言われてあまり出なかったのが、平成になる前頃から上演が増えてきたようなのは、歌舞伎に対する世の嗜好(志向)が変ってきた、これもひとつの表われとも言えそうだが、それでもまだ知名度は高いとは言えない。なまじ「新」の字がついているために新作物と思い込まれることも、いまなお跡を絶たない。


『仮名手本』の場合は、ちょうど四段目までの時代の世界が終わって五、六段目の世話の世界に入るところで、昼夜の変わり目が実にうまくゆく。映画の『風と共に去りぬ』が南北戦争までの時代の部分をパートⅠ(一番目)、舞台がスカーレット・オハラの故郷タラに移って世話になってからがパートⅡ(二番目)となるのと同じデンだが、四段目の長丁場で芝居が重たくれた後に、がらりと調子が変ってお軽勘平の道行になって昼の部を打ち出すというのは、元来『仮名手本』のパロディ作だった「道行旅路の花聟」のあの明るい憂愁と遊び心に満ちた曲調が、以後の悲劇を予感させつつ昼の部を締め括るという絶妙の効果を発揮するわけで、原作尊重主義者や二部制反対論者が何と言おうと、あれは戦後歌舞伎の上演形態が生んだ最高傑作と呼ぶに値するであろう。(もちろん、本文通り「裏門」を出す上方方式も結構だが、それとこれとは別の話だ。)

だが『新薄雪物語』を真半分に割って、「花見」と「詮議」を昼の部に、「広間・合腹」と「正宗内」を夜の部に、というのは、苦肉の一案には違いないが『仮名手本』の場合のようにはうまく行きにくい。ストーリーが『忠臣蔵』ほどの馴染がない、ということはこの際置こう。「花見」と「詮議」だけ見て帰る人は、少なくとも歌舞伎的気分をかなりの程度満喫して帰るかもしれない。しかし夜の部だけの切符を手に入れて見に来た人は、いきなり「広間・合腹」を見せられ、その後に「正宗内」を見せられて、腑に落ちたろうか? たとえ『新薄雪物語』全編のストーリーにある程度通じている人だとしてもだ。

昭和40年の11月の歌舞伎座といえば歌右衛門がホイベルス師というカトリックの神父さんの作った『細川ガラシャ夫人』を初演したり、まだ知る人ぞ知るという存在だった玉三郎が『双面』のおくみを雀右衛門の代役でつとめて刮目させたりした懐かしい月だが、この時の昼の部に『新薄雪』が出て、何と「詮議」に「広間・合腹」の二幕のみという出し方だった。勘弥と歌右衛門が園部夫妻、八代目三津五郎と夛賀之丞が伊賀守夫妻、延若が葛城民部、それに襲名からまだ二年の三代目猿之助(つまり現・猿翁である)と現・梅玉の先代福助が左衛門と薄雪姫、半年後の翌年4月に引退して6月には四国巡礼の途次瀬戸内海に入水してしまう八代目團蔵が秋月大膳(「花見」も出すならなかった配役だろうが、「詮議」だけの大膳としては、何とも古怪で不気味な忘れがたいものだった)というやや地味目の配役だったが、なかなか充実した、内実のある良きものだった。こういう出し方もあるのである。つまり「詮議」と「広間・合腹」はセットなわけで、そこを実力者を揃えてしっかりと見せれば、必ずしも通しでなくとも、大一座でなくとも、昼夜いずれかの芯になる演目として出すことも充分可能なのだ。

と、これを逆に言えば、全篇の核心としてあくまでセットであるべき「詮議」と「広間・合腹」を、今度のように昼夜に分けてしまうのは、ちと無造作に過ぎたとは言われまいかということになる。(『仮名手本』の上方流だと昼の部に六段目までやってしまい、夜の部を七段目から始め必ず八・九段目も、東京式のように別扱いにせず、一日の内に見ることが出来るという長があるのだが、ただひとつ、六段目の勘平腹切と七段目のおかるの筋が立ち別れになってしまうのは上方式の弱点であろう。「詮議」と「広間・合腹」を昼夜に分けるのはそれに近い。)あれは昼夜両方の切符を買わせようとの松竹の策略であろうというような、巷間囁かれている軽口とは、一旦切り離しての話である。「正宗内」を久々に出すという事情もあるわけだが、上演時間の上のことだけ言うなら、「正宗内」の方が、昼の部第一の『天保遊侠緑』よりむしろ短いわけだ。理由はおそらく他にあるのであろう。

        *

しかし舞台だけのことをいうなら、まずは結構な『新薄雪』であった。菊・吉・仁・幸の四横綱揃い踏みというところに今回の配役の主眼があることは明らかで、菊五郎が「花見」で妻平で出て「詮議」で葛城民部とおいしいところをつまみ、仁左衛門が「花見」で大膳から「詮議」では識者の難ずる半不精もものかわ園部兵衛へ変って、幸四郎大渋の伊賀守と共に「広間・合腹」と実のあるところを取り、吉右衛門は団九郎ひと役ながら「正宗内」を出して合わせて一本の実を取ろうという、これだけ落ちこぼれなく揃うのは、いずれまたと言ったって…‥という思いは口には出さね万人の胸にあるところを、こうして目の当たりに見られるのだから、まずはこの眼福を心ゆくまで嘆賞するのが最も「正しい」鑑賞法ということになるのであろう。妻平にしても、団九郎にしても、もう何年か前だったらと欲が出るのは、正直、違いないとしてもだ。

籬は時蔵屈指のはまり役であって11年前の折の三津五郎の妻平とふたりでの恋の取り持ちの件の素敵だったのが忘れられないが、今回は菊五郎が決して悪いわけではないのだが、どこか大儀そうに見えるために今ひとつ弾まないのは、致し方ないという他ない。(新聞評に、このことについて触れた件で、「次にはもう一倍の弾みがほしい」となっているのは「欲には」の誤りである。校正の際見落とした筆者の誤り、この場を借りて訂正と共にお詫びしたい。「又といっても」と言いながら「次には」という論理的矛盾に気が付いた方には、お察しいただけたかもしれないが。)

仁左衛門の大膳は初役だそうだが、十三代目の大膳がそうだったように花道から出て七三で「咲いたわ咲いたわ」をやる。その十三代目の時の団九郎が吉右衛門で、今度がそれ以来という。まこと、歳月は人を待たないと思う他はない。吉右衛門が「正宗内」を出すのは、先日の『伊賀越』の「岡崎」と同じデンで、初代がしたものという思いと、幸兵衛に正宗に歌六がいればこそ、という条件が整ったことと、二つながらに備わった時こそ今、ということだろう。「正宗内」は、ご覧になった通りの芝居で、『仮名手本』で言えば十段目の「天川屋」みたいなものだが、『千本桜』の「鮓屋」もどきにしてみたり、歌舞伎芝居として何とか面白く見せようとの苦心の跡が偲ばれる。あるいはこの場が「鮓屋」の先行作なのかも知れない。最後に団九郎が片腕を切り落とされての立回りは『腕の喜三郎』を思い出させた。入りの薄い国立劇場で復活上演した、あれはもう30年からの昔になる。

さっき時蔵の籬の話をしたが、このクラスの女形が働きどころを得たのもこの月の好もしいところで、魁春が梅の方をするのはかつてこの役を専らにしていた歌右衛門の格に坐ったわけで、他の同類の役回りに回った時と同じように、魁春は幅は狭いが確実な守備領域を持っている堅守の内野手のような趣きがある。伊賀守の妻の松ヶ枝という役は「三人笑」には参加させてもらえず少し損の卦の役だが、芝雀はその代わり「正宗内」では小型お里のような娘役を受け持ったり、開幕劇の『天保遊侠緑』では八重次を引き受けたり、かつての、「長老」の座に納まる前の父雀右衛門がそうだったように、広範な守備範囲を誇るまさに「遊撃」という言葉通りの遊撃手の活躍ぶりである。橋之助とはほとんど初めても同然のような顔合せと言う。なるほどそう言われてみれば、橋之助は近年は主に勘三郎と行を共にしていたし、芝雀は実質上播磨屋一座の立女形のような働きをしていたから、一座することもなかったのであろう。しかし『天保遊侠緑』の小吉と八重次にしても「正宗内」の国俊とおれんにしても、このコンビ、悪くない。とりわけ橋之助にとって、しっかりした女房役を持つことはいま必須のことであるかもしれない。この顔合せがコンビとしてこの後も組まれることを期待しよう。

秋月大膳と大学兄弟の半不精といえば、大学役の彦三郎が面白いことを筋書の出演者の弁で言っている。大膳とは役柄が違うから同じ顔には作らないのだという。なるほど、批評家などというものは半不精の是非は論じてもこういうところへはなかなか頭が回らない。さすが羽左衛門の後継者というものだが、ところでこの大学、精悍な感じがなかなかいい。この人、菊五郎の水野十郎左衛門に於ける近藤登之助など、この頃こういう役回りでオッという仕事をするのは、さすが年功というものである。

半不精といえば、籬の代りの呉羽を高麗蔵、妻平の代りの袖平を権十郎がつとめて、なるほどというところを見せているが、薄雪姫に至っては、「花見」が梅枝、「詮議」が児太郎、「広間」では三転して米吉と代るが、これは半不精でも三分の一不精でもなく、若女形のホープたちに出場機会を与えようというところからの配役だろう。梅枝が「花見」では案に相違してあまり仕出かさないのは老け性質のためか? とすれば。少々考える必要があるかも。今回の三人に限っては、「詮議」の児太郎が着実にヒットを放った。

『天保遊侠緑』は橋之助の当り役と言っていい。この人はこういう、アアラ難しの問答無益みたいな役がいい。ある種古風ともいえる役者気質の、あっぱれ大丈夫、なのだ。『新薄雪』の国俊にしても、親の勘当を受けて願掛けをしたり、下男にやつして入込んだりしたところで、それほど七面倒な肚が必要なわけではない。大分前になるが、『熊谷陣屋』を芝翫型でしたことがあったが、ああいう試みをしてみるのもいいだろうし、『天保遊侠緑』でも伊東玄朴との件を是非やってみるといいと思う。現・猿翁がむかしやったことがあるが、麟太郎が犬にキン玉を喰われたのを治すために玄朴と渡り合ったり、橋之助に向いている筈だ。

麟太郎という役は出来れば実の父子でやれるといいのだが、国生がすっかり大きくなって麟太郎どころか甥の庄之助の役をするようになったのに驚く。よく頑張っているが、この役の扱い方(いわば性根でもあるが)に私は少々疑問を持っている。この前染五郎がした時にも思ったことだからこれは国生の罪ではないと思うが、今の演じ方だとこの若者は、単に気のいいだけなのか、はたまた知恵足らずなのか、どういう人間なのか計りかねるところがある。一度洗い直した方がよくないか。

ここでも魁春が阿茶の局になって格のあるところを見せる。品格のある役者に、という歌右衛門の教育方針はその限りでは達成されたのである。ところで、たしなめられた組頭取の連中が、若君のお側に仕える者と言っても無礼な態度を崩さないのに、局というと急にはーっとなるのは、むしろ逆ではないだろうか? その組頭の友右衛門、添番役の團蔵など、それぞれに年功を見せている。

菊五郎がちょっと大義そうとさっき言ったが、決して楽をしているのではなく、夜の追出しに『夕顔棚』を左団次と踊っている。この踊りは初演が初代猿翁と七代目三津五郎という案に相違の顔ぶれなのだが、今度梅枝と巳之助が踊っている里の若い男女が、初演では後の先代門之助の松蔦と岩井半四郎なのだから、栄枯盛衰、今は昔という他はない。

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国立劇場の鑑賞教室は孝太郎と亀三郎に亀寿の解説で『壺坂』という経済的な一座で、客席の入りはともかく舞台はどうして悪くない。孝太郎のお里が懸命に尽くせば尽すほど、「三つ違いの兄さん」より年上女房のきらいがあるのは、芸の上でもリードしていくことになるからやむを得ないことで、この孝太郎はむしろ好演というべきである。亀三郎の沢市は、ある種鋭角的な演技、というより芝居作りで、冒頭、お里を疑うところから、山に参ってからも、絶望の果て身を投げるまで、実に明晰でよくわかる。少なくとも客席の高校生たちも、真面目に見ていた生徒なら、みなよく沢市の心情を理解したであろう。それかあらぬか、ドラマチックなうねりがこれほどよく見えた『壺坂』というのも珍しい。若い人がする以上、これはこれでいいのだと思う。

亀寿の解説また、近頃よくあるお笑い風はクスリにしたくともなく、久々に見る正攻法で一貫する。出演者を紹介するのにも片岡孝太郎さんと坂東亀三郎さんと、二度言って二度とも、じつはボクの兄貴ですなどと言わないのは、これぞあの羽左衛門の孫だというより、亀寿流の美学であるのかも知れない。内容もあれもこれもと追わず、女形の化粧と着付の実演、基本の姿勢と仕草というところに絞ったのが、初心者の興味と驚きに端的に答えるものとなった。片岡當史也の実演も適切であった。

というわけで、今回の官署教室は規模は小さいがクリーンヒットである。

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三越劇場の新派は久里子が『十三夜』、八重子が『残菊物語』と新派本格派で知名度も高い安定銘柄の筈だが、それでも大入りというわけには行かないようだ。『十三夜』は録之助に迎えた松村雄樹がまずまず及第、父が立松昭二、母が伊藤みどりといういまの新派としては精いっぱいの布陣であり、まずは新派として名に恥じぬ舞台と言ってよい。(それはそれとして私は、父親の役を柳田豊で見たいと、じつは前から思っている。今回は『残菊物語』で五代目菊五郎という、この一座で他にやり手のいない役を引き受けてこれも悪くないが、『十三夜』の父親をする機会が、もう一度、久里子のせきであるかどうか。)

それにつけても、と言い出せば、先日亡くなった一条久枝を思い出すことになる。ああいう、骨の髄からと言いたくなるような脇役者、それも新派の、と限定することがむしろその演技の普遍性を示すことになるような脇役者は、新派に限らず、現代の日本の演劇界から存在の基盤を失いつつあるのかも知れない。「腕っこき」という、最近めったに見かけなくなった言葉がぴったりする、いい女優であり、いい役者だった。新派の、といったが、じつは終戦後のいっとき、子供の養育のために、当時隆盛を極めていた女剣劇の一座に出ていたこともあったと、何かで読んだことがある。そうした浮世の苦労が、見事に舞台に昇華されていた人だった。晩年の彼女を生かすだけの舞台を、新派が充分に備えられなかったことが残念である。

実はこのブログを始めて間もなくの随談第13回に、新橋演舞場で年に一度の恒例だった舟木一夫公演で『瞼の母』が出た時、金町の半次郎の母おむらの役でに出演した一条について、こういうことを書いたことがある。

ところで、ここでぜひ書いておきたいのが、その一条久枝である。私はこの人は、現在の日本のすべてのジャンルを通じての女優の中でも、幾人か指折り数えられる第一級の人だと思っている。先代水谷八重子と演じた、たとえば『金閣寺』など、人の世の労苦を誠実に、しかしさらりとたくましく、生き抜いた女を、あくまで脇の分を守りながら演じて,この人ほど、胸を貫く深さを持つ人はいない。大正とか戦前とか戦後とか、いろいろな呼び方をする日本の近代の、その時代その時代の実質感を、その役の人生を感じさせる(繰り返すが、あくまで脇の役の分を律儀に守りながらである)演技をする人はほかに知らない。

だが残念なことに、彼女への評価は、私の見るところ、充分になされているようにはどうも思えない。現にこんどの筋書きの扱いを見ても、上に挙げたあとのお二人に比べ、ひとまわり小さいのだ。そんなこと、どうでもよろしいのですよ、ともしかしたらご当人はおっしゃるかもしれないのだが、私としては、ひそかに切歯扼腕しているのである。
      
この文章を書いたのはちょうど10年前の2005年5月のことだが、この時の舞台が、私が一条久枝を見た最後となった。つい先頃訃報を聞きながら、追悼の文を書く機を逸したままになっていたので、ここに記してそれに代えることとしたい。

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人によっては森光子の代表作として『放浪記』以上という人もいて、充分、私もその意を汲むことが出来る『おもろい女』を、藤山直美がすることになって、シアタークリエでの1カ月公演の前に(前倒しの日延べよろしく)北千住のシアター1010ですることになり、そっちの方へ案内が来たので見に行ったところが、足立区の施設のいずれかに爆弾を仕掛けたとの報があり、午後3時までに区の施設すべてに退去命令が出たために、一幕目が終わったところで打ち切りということになった。他日シアタークリエで見直すことになったが、ところで、最上階にこの劇場の入っているビルの他のフロアーは丸井の店舗で、こちらは足立区の施設ではないから、営業を続けているという、当然と言えば当然、不思議と言えば不思議な光景が現出した。これを珍風景と呼ぶべきや如何に?

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新橋演舞場が大変な賑わいで、しかも50代かと思しき中高年男性の目立つこと、あの広々した二階の男性用トイレ(明治座と並んで、都内の劇場トイレとして双璧である)が混雑する有り様は稀有な光景である。去年に引き続いての三宅裕司を中心とする「熱海五郎一座」の公演だが、これだけの支持を得ているというのは大変なことだ。東京の喜劇の灯を絶やすな、というスタンスもいい。とにかく二幕、二時間半を気持ちよく笑いながら見た。

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新国立劇場のシーズン企画で森新太郎演出、フジノサツコ上演台本という『東海道四谷怪談』の初日を見る。お岩を秋山菜津子がする以外は、全員男優で、お袖もお梅も扮装は一応女姿だが男であることを露わに見せて演じる。髪梳きの場と、最後の伊右衛門討死の場面でピアノ曲「乙女の祈り」が鳴り響くことがお岩の「性根」を暗示するものと察せられる。とかく最近の歌舞伎では略しがちな「夢の場」を出すのもそれ故であろう。紙漉きの場などは、言葉も南北の原典そのまま使っている。

人物関係も、お岩-伊右衛門、伊右衛門-四谷左門、伊右衛門-伊藤喜兵衛一族、伊右衛門-お熊・秋山長兵衛etcといった線を重要視し、直助権兵衛は登場しない。いきおいお袖もあまり出番はなく、与茂七に至っては最後に突如姉お岩の敵、と言って現われることになるが、それはそれでよろしい。

と、そこまでは脚本・演出の意図を呑み込めたが、さて実際の舞台はというと、今日での相当の顔ぶれを集めていると思われる出演俳優たちの、発声も含めた言葉の感覚に私はどうにも馴染めないままに終始することになった。現代風なら現代風でいいのだが、それにしては妙に時代劇であることを意識しているかにも聞こえる。「じゃわいのう」といった言葉の言い回しが耳につく。ああいう発声、ああしたものの言い方は、当節の舞台上ではよく耳にするように思うが、現実の社会も含めそれ以外の場所ではあまり耳にしないような気がする。演出もそれを認めていると思われる。とするとあれは、現代の舞台演劇の「型」なのであろうか?(但し秋山菜津子のセリフだけは抵抗感を覚えることなくよく聞こえた。)

しかし本当は、この種の舞台について私などが何かを言っても始まらないのであって、歌舞伎の『四谷怪談』も何も馬耳東風の(即ち夏目漱石風にいえば、歌舞伎などという狭い路地裏を覗いたこともない)現代のごく尋常な若い人たちがこの舞台を見て、面白いと思ったのなら、多分それでいいのである。

随談第549回 照ノ富士礼賛

照ノ富士が夏場所でめでたく優勝して大関に昇進したのは大相撲にとって近来の欣快事である。大器といわれ底知れぬ力は知られていたとはいえ先々場所はまだ平幕で8勝だったのだから、先場所に白鵬を力相撲で破って準優勝した強さが、万人に強烈な印象を刻み付けたればこそと言える。先場所と二場所の成績だけで、協会が満場一致で昇進を決め、マスコミからも世間からも疑義をはさむ声がまったく聞こえてこないというのは、白鵬に次いでナンバー2の実力者であることを、皆、暗黙の裡に認めたことになる。

夏場所、私が見たのは12日目で、前日の白鵬戦で一敗地にまみれた翌日だったが、稀勢の里をがっぷり四つからの左下手投げ一発で転がした相撲は、充分に満場を興奮させるに足り、次の一番で白鵬が豪栄道に逆転負けを喫する雰囲気を醸成したかのようだった。つまりはあの稀勢の里との一番から、今場所の最終章が書き換えられたのだ。常日頃相撲の動向などには見向きもしなかった民放が、俄かに大相撲の映像を流し始める。良くも悪くも、そういう「風向き」を察知する能力はさすがと言わねばなるまい。

先場所の折にも書いたが、照ノ富士の「照」は伊勢ヶ浜部屋の往年の横綱照国の「照」だろうが、体躯といい力感溢れる豪快な相撲振りと言い、照国と戦中戦後を支えた羽黒山の再来を思わせる。あれで、もうひと腰低く立って自分充分に組む立会いを身につけたら、腰の柔らかさと併せ、羽黒・照国両雄を合せることになる。羽黒山だ照国だと、大昔の話を始めようというのではない。観客の側も現役世代は柏鵬を語れれば上々、栃若を語れる人の多くは後期高齢者になってしまったいま、(その柏鵬すら、大鵬とは言っても柏戸と言う声をほとんど聞かないことに私はかなり深刻な疑義を抱き始めているのだが、それはいまは他日の話としよう)、照ノ富士によって久しく忘れていた、本格的な力のこもった四つ相撲を見ることが出来る期待を語ろうがためである。もうひとつ、照ノ富士の真価を語るためにはそこまで遡らないと似たタイプが見当たらないためでもある。

照国は短躯肥満、搗きたての餅のような柔軟さで差し身がよく、叩かれても引かれても前に落ちない堅実さを誇る相撲巧者で(いまの千代鳳に幽かにその面影を私は偲んで、大関ぐらいまでなら行けそうかと期待している)、優勝は晩年になってから二回しただけだから、上辺の記録を見ただけでは軽視されてしまうだろうが、それでもなおかつ、名横綱の名に恥じない見事な相撲を取った一流の名力士だった。強力無双、豪快にして堅牢な相撲を取った羽黒山と、見たさまも相撲振りも好対照だったのもよかった。羽黒山は戦中から終戦直後の、旧両国国技館を摂取されて神宮相撲場や浜町公園の仮設国技館で本場所を開いていた時期に最盛期を迎え、立浪部屋の兄弟子だった双葉山の後を追う形で並びかけ(大関になった名寄岩と三人、立浪三羽烏と呼ばれたのは戦前の話だったろう)、双葉の引退後を襲うようにして、4連覇したところでアキレス腱を二度断裂しながら38歳まで取ったという、おそらく歴代横綱中、最も寿命の長かった一人の筈だ。最後の勝利は昭和28年初場所、5日目まで全勝しながら右親指を骨折して(二瀬山という闘魂溢れるファイターとの対戦で、前哨戦の突っ張り合いの時、左手の親指が相手の口の中に入り、噛み折られてしまうという椿事だった)以後ほとんど片手で相撲を取る状態の中で、新大関の栃錦がもろ差し速攻で攻めるのを外四つから極め出しで破った豪快な相撲で、照ノ富士が先々場所・先場所と豪栄道を極め倒した二番を見て半世紀前の記憶を蘇らせた。翌場所休場した翌々28年夏場所2日目、荒法師と異名を取った玉ノ海の外掛けで小山が崩れるように倒れてそれを最後に引退したという、つまり生涯最後の土俵を私は見ている。完成途次だったためにまだ仮設国技館と言っていた蔵前国技館の大衆席だった。大衆席と言うのはいまなら椅子席のCに相当することになるが、わずかに傾斜のついた板張りの床に薄べりを敷いただけだったから、見ている内にいつの間にか少しづつ畳目に沿って座蒲団ごと滑り、前の方へと人が詰まってゆくという、まさに「大衆席」の名の通りの席だった。

ところで白鵬だが、12日目、豪栄道の(得意の?)捨て身の首投げに不覚を取った後、負け残りで控えに戻るべきところを異例の長時間、花道に立ち尽くしていた姿が、マスコミの報道は遠慮がちにしているようだが、異様とも不審とも、まず見たことのない光景で、真意はともかくあまり見よいものではなかったと言わなければならない。初場所の稀勢の里戦での物言い取り直しの判定にクレームをつけた一件の記憶がまだ強く残っているいま、白鵬自身の自負とプライドの余滴が、分水嶺の向こう側へ流れ落ちるかこちら側へ落ちるか、微妙なところで揺れているに違いない。このところの白鵬の中で何かが起こっていることは確かだろうが、この土俵下での振舞いが、今場所の在り様のなにがしかを語っているかのようだった。今場所の4敗のどれにも共通しているのは、出るべきところで送り足が出なかったことだが、まあ今のところは、鳥影が差したようなものかも知れない。大関として照ノ富士が、白鵬とどれだけ互角以上の相撲を取れるかどうかに、今後がかかることになる。

それにつけても、一昨年来の遠藤ブームで相撲人気が回復したのは同慶の至りだが、昨秋来、前売り発売とほぼ同時に土日祭日は全席売切れてしまうという有り様で、切符を手に入れるのが俄かに難しくなったのは、私などには痛しかゆしという他はない。

随談第548回 今月の舞台から

原稿の締切だの大部の校正だのが続いたので大分遅くなったが、今月の各座の評判と行こう。もっとも、もう歌舞伎座は楽日を迎えてしまった今頃、お坊吉三ではないが効かぬ辛子と出遅れたお化けと並んで、出そびれた劇評というのも気が利かないから、なるべく簡略にすませることとしよう。

もっとも歌舞伎座については、総評としては新聞に書いたことでほぼ尽きている。黙阿弥が二本出ているからといって『浜松屋』でも『髪結新三』でもなく『天一坊』に『丸橋忠弥』というのは、よく言えば何かが変ろうとしている前表のようにも見える。どちらも徳川幕府転覆・乗っ取りの犯人の話だから、同工異曲を二本並べるのは昔なら気が利かない、「つく」と言って嫌ったものだが、その種の「美学」はもはや「古風」ですらなく、ハア? ソレガドウシテイケナインデスカ、といぶかしがられるだけだろう。国立劇場なら「徳川幕府を揺るがした二大事件を扱った二大作品」とでもテーマを「こじつける」かも知れないが、ここは歌舞伎座、たまたまそうなってしまっただけに違いない。

菊之助の天一坊、海老蔵の伊賀亮、配役としてはうまい配役だが、菊五郎の越前守と三幅対になるには役者が小さい。これがれっきとした「古典名作」だったら、それはそれとして見ていられるのだが、却ってこういう狂言だと年功がもろに出てしまうのは、「典型」の組み合わせで成り立っている芝居だからだろう。『合邦』の玉手ではあれだけの存在感を見せる菊之助が、決して悪い出来ではないにも拘らず天一坊だと役者が小さくなる。この前の『菅原』でも、桜丸なら不足は気にならないのに判官代輝国となると、大曲『道明寺』を締め括る役としての大きさに不足が見える。ここらが歌舞伎の難しいところで、演技の良し悪しだけでは片が付かない。7月に国立劇場の鑑賞教室で知盛をするそうだが、果たしてどういうことになるか? 海老蔵に伊賀亮というのはプラスアルファが期待できそうななかなか味な配役で、その期待は半ばは実現されるのだが、相変わらずセリフをこねくり回すのは、癖というよりどうやら確信犯的に意図してのこととおぼしく、そうだとすれば、こりゃよろしくないなと自覚して改めてくれる日まで待つしかないことになる。眠り姫は王子様にキスをしてもらって目を開くが、海老蔵王子を開眼させるのは、いつ、誰だろうか?

松緑が『丸橋忠弥』を出したのは名案である。有名な酔態のセリフの口跡の固いのはどうにかしてほしいが、後段の実録風立ち回りで大いに盛り返した。巧拙ではなくこうした芝居の色に合っているのである。この狂言は「團菊」ならぬ「團菊左」の「左」、すなわち初代左団次以来の高島屋の演目で、「菊吉」の流れに押しやられていまや絶滅危惧種に等しいが、その保存更には復興という意味からも、翻って松緑自身のためにも、この種の歌舞伎の中の「益荒男ぶり」復興の旗手になるのは、ひとつの活路を拓くことになるだろう。今度の上演を瀬踏みとして、次には通し狂言『慶安太平記』復活上演にトライしてもらいたい。御大菊五郎を担いで国立劇場で出すのにふさわしいではないか。時は今、ぼやいてなどいる場合ではない。

『合邦』については、新聞に書いた以上のことを書くのは難しい。5年前の玉手御前デビューを受けての今回であり、将来へかけ、おそらくライフワークとして演じてゆく役であろう。その一つの、「いま」なりの玉手であったと言うよりほかはない。ひと言、一口評を添えておくなら、今回のは、なるほどよくわかりました、という玉手御前であった。

というわけで、去年は「菊五郎の孤独」を思い遣った團菊祭だったが、今年は「新生」團菊祭をそれなりに楽しむこととなった。越前守には多少その気配もないでもないが、め組の辰五郎の菊五郎には孤影はない。むしろめ組を菊五郎劇団に、辰五郎を菊五郎自身になぞらえながら、私は楽しく見た。

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明治座歌舞伎は、何と言っても中車に注目が集まるのは、猿之助には申し訳ないがやむを得ない。聞くところによると先人の映像を寸分違わず完全コピーすることを目指しているとの由だが、『男の花道』の土生玄碩を段四郎なら段四郎をセリフから仕草から、コンマ何秒まで正確に写したとしても、中車が段四郎になる筈もない。もっとも「学ぶ」は「真似ぶ」、良きお手本を敷き写しに、なぞってなぞってなぞり抜くのも修行の一過程として間違った方法ではないが、それを、いわゆる古典名作の型の定まった役ならともかく、『男の花道』にまで持ち込もうとするところに、中車の苦しさが察しられる。かつて長谷川一夫が歌舞伎のテクニックをふんだんに持ち込んで作り上げたこの大衆劇は、芸から技から、身のこなしから、体に染みついたいわゆる歌舞伎味を生かすことを前提にして出来上がっている。中車にとってはまさにそのことが自分に一番欠けているものであることを思わずにはいられない。ではどうすればいいか? 完全コピーを目指すしかない、というのが中車がみずから出した答えなのであろう。トンネルを反対側から掘り進めるようなものだが、うまく掘り当て、向こう側の入口につなげることが出来るか否かはおなぐさみということか? 

『あんまと泥棒』となると、17代目勘三郎が初演は竹之丞時代の富十郎、次いで長谷川一夫を相手に作った、これもじつは歌舞伎の芸をくずし書きにしてお茶づけをさらさらとかっ込むように演じた代物だが、それはまず真似ようがなかろうし、となれば、それ以後の他優による上演件数もそう幾らもないから、中車としては「歌舞伎」を『男の花道』ほどには意識しないですむとも言える。果してこのあんまさんは土生玄碩に比べると肩の力が大分抜けて、良い意味で「香川照之」の才能を生かす余地が生じてくる。襲名以来足掛け三年、目下のところ一番の上出来、九代目中車の代表作!ということになる。

さてそこで、猿之助にぜひ勧めたい提案がある。中車と二人で、『恩讐の彼方に』だの『研辰の討たれ』だの、初代猿翁のこしらえた澤瀉屋の新作歌舞伎を、いまこそ、次々と掘り出して行ってはどうかということである。『研辰』だって中村屋に取られっ放しにしておくことはない。中村屋版は中村屋版でいいけれど、猿翁版だって面白いんだぞということを立証して見せてもらいたい。他にも『父帰る』だの『屋上の狂人』(は13代目勘彌だが、初代猿翁とは若き日のライバル、共に「新人」と言われた人だ、決して無縁ではないどころか、同じ時代、同じ志向の中で作られた姉妹、じゃなかった兄弟演目のようなものだ。勘彌なら『お国と五平』などという手もあるか)だの、猿之助も生き、中車も生かすことが出来るのは、まず自分の家の蔵の中にいっぱい眠っている、いや、蔵から出してくれるのを待っている遺産がいろいろあるのではないかということである。

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前進座の確立劇場公演は、このところの新歌舞伎シリーズで今年は『番町皿屋敷』に『文七元結』だったが、『文七』はともかく『皿屋敷』のような新歌舞伎中の「型物」を女形でなく女優でやると、思わぬ発見をすることになる。とかく論議の種となる、お菊は播磨が次々と割ってゆく皿を一枚、二枚と差し出す時に、女形だと殊更にしないと見えにくい、播磨の愛が確かめられたがゆえの恍惚が、自然に現われて見えるということである。つまりそこに、この新歌舞伎の「新しい女」たる所以があるわけで、かつての二代目左団次の相手をつとめた先代松蔦はどういう風に演じていたのか、今となっては確かめようがないが、少なくとも戦後歌舞伎の女形たちにはついぞ気の付かなかった、生身の女性の演じるお菊にそれが見えたというのは、発見であった。もっとも、今村文美のお菊がどういう「性根」で演じていたかは、それとはまた別の話しだろうが。

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文楽は吉田玉女が玉男になるというので『一谷婌軍記』と『桂川連理柵』を出して熊谷と長右衛門を遣った。熊谷はいいと思う。時代物の大きな人形の量感とたくましさがある。それが先ずあっての上での肚である、というところがしっかりしている。咲大夫の前段も、いまはもうこの人しか不可能な時代物らしい時空を語り出していて、よかった。こちらもまた、この現実を超えるスケールが語り出された上での、熊谷の肚であり性根である筈である。

玉男はもちろん比類ない名人だったが、私は今になって、玉男よりもう一世代(二世代かも知れない)上の吉田玉助を見ることが出来たことをよかったと思っている。玉男の描き出す熊谷はいわば知勇兼備だったが、人はとかくその「知」の部分を取り出して褒める。もちろんそれで間違いなわけではないが、しかし私は玉男は熊谷よりも盛綱の方が好きだった。「荒物遣い」という、近頃あまり聞かない(ような気がする)評語が、玉助にはいつも冠せられていた。昔の横綱の鏡里みたいな風貌で、たくましい人形だった。

新玉男の『帯屋』の長右衛門は、歌舞伎で言う辛抱立役の形が、もう一つ身に沁みないような気がした。世話の辛抱立役という、弱い男の美が、時代物となって盛綱のような「知」の美として照り返るところ文楽の人形の美学があるのだが。

それにしても、文楽で見る『祇園祭礼信仰記』というのは、どうも不思議な代物で、歌舞伎の『金閣寺』の松永大膳の造形がいかに卓抜であったかを改めて思い遣ることになる。藤吉が慶寿院を救出するために金閣の三層まで上るのがミソだが、桂文楽十八番の『愛宕山』の幇間一八よろしく、慶寿院(歌舞伎だとかつては我童がよくやったように、残んの色香をどことなく偲ばせる女性(にょしょう)だったが文楽では「婆」の首なのはちょっぴりがっかりだ)竹のしなりを利用してダイビングをするのは歌舞伎では不可能な面白さだが、しかし藤吉は途中で見張りの兵を血祭りに上げているのだから、あんなことをしなくとも階下に降りられるものを、などいうのは変知己論か?

玉男襲名で文楽の「口上」を久しぶりに見たが、歌舞伎と違って皆々四角四面の大真面目の中に、寛治がごくごく構えない平談の口調で語るのがとてもよかった。これは、じつはお父さんの先代もそうだった。私は先代寛治の飄然とした風格が大好きだったが、ここ数年来、当代が驚くばかりにそっくりになってきた。

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劇団「若獅子」が山本周五郎の『おたふく物語』を出したのを見ながら、かつては当り前のように演じられていたこういう芝居が、いまやこの劇団ぐらいでしか見ることが出来なくなっていることが、改めて思い遣られた。『おたふく物語』はつい先頃、前進座でも見たが、若獅子の方がおとなの芝居のゆとりがあるのに感心した。これもまた、かつて島田正吾が演じた、新国劇の財産なのだ。年に何回かという(それもほんの数日である)ごくごく限られた機会に、演目をいろいろ工夫しているのがよくわかる。

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新国立のイプセン『海の夫人』を見る。イプセンとしては主題と設定がぎごちないところがあって、麻実れいの演じている主人公が何を求めてあゝもヒステリックになっているのか、理屈としてはわかっても、心情として素直に伝わってこないのが、悪しき意味での「新劇」だという感じがする。あれほど夫を困憊させながら、求めていた愛人が現われると夫の許へ戻ってしまうと言うのが、如何にも作り物なっているから、全体が空疎に見えてしまうのだ。(ふと思ったのだが)これを麻実れいのような容姿抜群のスターが、拭おうとしても拭い切れないスター風の演技でするのではなく、もっと地味で所帯じみた女くさい女優にさせていたら、まるで印象の違う劇になったのではあるまいか? (むかし黒沢映画の常連で千石規子という女優がいたっけ。)演出が、イプセンどうもだからというので、どうも「思想的」にしようとし過ぎたのではあるまいか?

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私はどうも『嵐が丘』というのが苦手なのだが、こんど日生でしているG2の脚本は、原作小説に戻ってその全貌を劇化しようとしたので、大分救われた。原作ダイジェストと言えないこともないが、少なくとも、よくありがちな「嵐が丘調」を大分免れているのが有難い。もっともそれも、語り手役の戸田恵子のお蔭で、彼女ひとりが生きた人物になっている。それにしてもキャサリンというのはあんなに子供なのだろうか? テレビで人気の出た女優を連れてきて主役をさせている限り、このレベルから抜け出せないだろう。