随談第510回 歳末貼り混ぜ帖

先月末以来、何かと慌ただしくて落ち着く時間がなかった。同時に、「勘三郎随想」を先に進めなくてはという気持が、時間があればそちらを優先させた。(それでも年内に終えるところまで行かず、三年越しになってしまった。)気がつけば既に数え日である。

このところ毎月載せていた「今月の舞台から」も、各劇場すでに楽日を迎えてしまった今となっては、効かぬ芥子か出そびれた幽霊のようなものだから、代りに、昔やっていた若手花形の野球各賞見立てを、今月の忠臣蔵をネタにほんのサワリだけ、やっつけてみよう。

          *

本塁打王=海老蔵(但し、本数ではなく飛距離による)

師直は三塁打か。元の広島球場のような狭い球場ならぎりぎりスタンド入りしたかも知れないが、そんなチンケな本塁打より、球は転々外野の塀、野手がクッションボールにもたついている間に二塁キャンバスを蹴って三塁に滑り込む、といった光景の方が海老蔵に似つかわしい。いや、意外にもよかった。人形身でいる間がいい顔だったので、これは、と期待した。大序の格と則を守りつつも自ずから生気溢れる感になるところが海老蔵たるところで、襲名の折に演じた『暫』で、嗚呼、鎌倉権五郎って本当に若いんだなァとはじめて実感させられたのを思い出しながら見た。荒事は七つ八つの子供の心でつとめるものです、といくら解説書で諭されても、白鸚さんのを見ても、昔の松緑さんのを見ても、もちろん羽左衛門さんのを見ても、皆さん小山の揺らぐように立派ではあっても堂々たる偉丈夫としか見えなかったが、海老蔵を見て、七つ八つとは言えないがまだ若い鎌倉権五郎が今、そこにいる、と実感させられた。ある意味であれは、私にとっての荒事開眼であったと言っても過言ではない。今度は師直だから、事情は違うが、これほど生気横溢した大序は初めて見た、とは言えるだろう。もっとも三段目は、地芸が必要になるから、決して悪くはないが、若手芝居の域に納まる。

というわけで、本塁打王の対象となるのは平右衛門である。玉三郎のおかるのリードの巧さもあるにせよ、こんなに興奮させる平右衛門というものはあるものではない。ともあれ球は場外へ飛んで行った。もしかするとファウルであったかも知れないが、ポールの上はるか上空を飛んで行ったから、かつての阪急上田監督のように延々一時間の余も抗議をしても始まらない。仮にファウルであったとしても、場外へ消え去る大飛球を見るだけでも壮観であったことは間違いない。
 

防御率1位=菊之助

またしても判官一役とは!(染五郎など三役もやっている。若狭之助で引っ込んだと思ったらすぐ石堂になって出てきた。同じ白塗りの染五郎だから、さっき師直にいびられていたあの人が判官に同病相哀れむ心から、今度は上使になってやってきたのだと早とちりした観客がいても不思議はない。)
ところで菊之助だが、慎重なのはいいが度が過ぎるのは如何なものか。もっとも、三段目も四段目も昂然と顔を上げて、意志的というか、強いタッチで演じようとしているかに見えたのは、オッと思わせたが。いずれにせよこうガードが固くては師直もいじめるのに骨が折れたろう。判官ともう一役、お父さんのように勘平をやるのも悪くないが、私としては、御祖父さんのようにお軽を是非、見てみたい。
 

新人王=米吉

一日だけ、それも討入り当日の十四日夜、国立劇場で開かれた「伝統歌舞伎保存会研修発表会」でやった「七段目」のお軽である。歌昇の由良之助、種之助の平右衛門もなかなかよくやったから三人受賞としてもいい。米吉の、まだ何の色にも染まっていない生まれたままのような無垢さこそ貴重である。「知られざる忠臣蔵」の『主税と右衛門七』で右衛門七を慕うあの少女もよかったが、初日に見ていいと思った伸びやかさが、二度目に見た日には、妙に強い地声のような声でセリフを言っていたのが気になった。と、ことほど左様に、いじればどうとでも色がつきかねない。その危うさも魅力といえば魅力なのだが。
           

OG賞=七段目一力仲居一同(但し、11月&12月併せて)

もちろん、野球界にOG賞などという賞はない。そもそもOGとは何の略か? 女形の役の少ないマッチョ劇忠臣蔵では、女形諸姉は四段目の腰元か七段目の仲居ぐらいしか出番がない。(討入り場面できゃあきゃあ言って逃げ回る吉良邸の女中というのもあるにはあるが。)だがそれだけに、11月、12月と顔ぶれは入れ替わっていたが、一力の仲居たちを見ているだけでなかなかの壮観であった。芝翫女子大、雀右衛門女子大の同窓生はじめ、まさに多士済済といって過言でない。

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(番外)ようやくに休日を得てひぐらしパソコンに向かうに、怪しうこそ物狂おしくなるままについうとうとまどろむ内、奇怪なる夢を見た。忘れないうちにと書きつけたのが以下のようなことである。

 

仮想芝居『忠臣蔵悪夢配役』(ちゅうしんぐらあくむのはいやく)役人替名(澤瀉屋一座の出演による。)

口上人形=猿翁(特別出演)

師直=中車

大星由良之助×早野勘平、実ハ半沢直之丞=猿之助(由良之助×勘平二役早変わりで即ち倍返しをすること)

平右衛門=愛之助(友情出演。但し、セリフはおネエ言葉で言うこと)

伴内=右近

顔世・おかる・お才=笑也・笑三郎・春猿(一日替わり。これは真っ当か。)

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ジョーン・フォンティンが亡くなったり(96歳とは!)、今年の点鬼簿を作ったり、浮世の動向など、いろいろ書こうと思う材料はあるのだが、歌舞伎座もまだ杮落し公演を続行中でもあることだし、積み残し分はいずれ清算させていただくこととして、まず本年はこれ切りとさせていただくことにする。それにしても、筆者幼少の砌は、十二月に入ると何やら気配ただならずなりはじめ、とりわけ14日の討入りの日を過ぎる頃おいからは歳末の気分が一段といや増して、各紙夕刊に、たとえば出羽の海部屋の餅つき風景などといって千代の山が杵を揮い栃錦がこねる、といった風の写真が載るのが師走風景の恒例の記事であったり、こちらもそれを見ながら、次第に年の瀬を迎える気分になったりしたものだが、この頃は、テレビは毎日が正月番組の如くにタレントがはしゃぎ合い、ハレとケが年がら年中同居していて、あと一週間となって俄かに、今年もあと何日です、ということになる。ま、これも浮世か。

来年もご愛読の程、願い上げます

随談第509回 勘三郎随想(その34)

43.「ゑ」の章

まるで犯罪者のような気分だった、と野田秀樹は言う。

「歌舞伎国」のなかで、僕はまったくもって異邦人だった、と串田和美は言う。

野田秀樹を、はじめて歌舞伎座の舞台に立たせたときの興奮のことは、すでに勘三郎自身が多くの機会に語っている。串田和美は、勘三郎と関わることによって歌舞伎の演出をするようになった体験を、みずから『串田戯場』という一書に、赤裸々に且つ暢達に語っている。野田との出会いから、ついに歌舞伎に深く関わらせるに至るまでの、勘三郎と野田と、双方の高揚と、その陰にある小心と細心についても、すでに小松成美によってその著『さらば勘九郎』のなかにあざやかに切り取られている。

串田和美にせよ、野田秀樹にせよ、勘三郎によって歌舞伎と関わるようになったふたりのことを考えるとき、私が何よりおもしろいと思うのは、あるいは異邦人といいあるいは犯罪者という、その歌舞伎に対する「異物」としての意識である。その意識の明確さであり、鋭さである。そのことが、彼らふたりを、これまで歌舞伎と関わりを持ってきた演劇人や文人たちと、鋭く分けていることに、私は興味をそそられる。

そうなのだ。作者や脚色者として、あるいは演出者として、その他さまざまな形で歌舞伎と関わり、歌舞伎を作る場に入ってきた者は、じつはこれまでにも数知れず存在する。坪内逍遥や岡本綺堂以来の、新歌舞伎と呼ばれる近代歌舞伎の新作品を書いてきた、玉石混交、無数の作者たち。あるいは脚色者たち。演出者という役割も、座付きの「狂言作者」の書いた作品が古典と見做され、それに代わって「劇作家」と称する作者たちが近代劇の手法で新作品を書くようになって以来、上演の現場に関わるようになって久しい。それらの人びとが、どういう態度どういうスタンスで歌舞伎と関わったかは、文字通り千差万別だろうが、ひとつあきらかなのは、その足跡を何らかの意味で歌舞伎に強烈に残すような仕事をしたのは、自分の中に、歌舞伎に対する「異物」意識を明確に持っていた人たちであったということである。仮に話を戦後に限ったとして、武智鉄二がそうであったろうし、近くは梅原猛にしてもそうだろう。歌舞伎に向かい合う角度は正反対であったとしても。歌舞伎になずむ者より、歌舞伎に違和を見いだす者の方が、歌舞伎をよりよく見る者であるともいえる。

野田秀樹が勘三郎に慫慂されて、ついに歌舞伎の現実に関わるようになるまでの、畏れと不敵さは、言い換えれば、自分と歌舞伎との間の距離をつねに測定している者の「異物」意識の故だろうが、その間の事情を簡明にあぶりだした小松成美の著書を通じて何よりも興味深いのは、勘三郎が自他に問おうとしている「問い」である。一言でいうなら、歌舞伎とは何か、という問い。勘三郎の言葉を小松の著書から借りる。「歌舞伎役者だけが集まっていれば、歌舞伎の定義なんて必要ないでしょう。でも、外の人から見れば、歌舞伎が歌舞伎であるための分かりやすい定義が必要なんだよね。」

その勘三郎の言を受けて、野田は、演出家の不在、ということを言ったというが、このやり取りを通じて勘三郎に感じるのは、(そうして、もしかすると世人が勘三郎を最も理解していない側面は)、歌舞伎に対する冷徹なまでの客観的な眼差しである。もちろん、勘三郎が歌舞伎に冷徹なのではない。事をなそうとするに当って、現代という時代のなかで歌舞伎が置かれている状況、現代の社会のなかで歌舞伎に投げかけられている人びとの視線、眼差しといったものへ、勘三郎がどれだけ冷徹に意識を働かせ、見切っているか、ということである。

歌舞伎とは何か? この問いは、これまでにも、何か事をなそうとする者へ、いつも投げかけられてきた問いであり、同時に、事をなそうとする者が、つねに自身に問い、他へ投げ返してきた問いである。小松によれば、懐疑し逡巡する野田へむかって勘三郎はこう言ったという。「歌舞伎役者が演じれば、それはもう歌舞伎だし、その歌舞伎に出演すれば役者はみんな歌舞伎役者なんだ」と。

この勘三郎の言を読んだとき、まず思い浮かべたのは、この時点からほぼ四十年余前、一家一門を率いて松竹を脱退、東宝へ移籍してセンセーションを巻き起こした当時の八代目松本幸四郎、のちの松本白鸚が、ほとんど同じ趣旨のことを言って、話題になったときのことである。それは、歌舞伎界の現状に飽き足らず東宝に移籍したものの思うほどの活動の機会に恵まれず、女優と共演するような舞台が多くなった白鸚へなされた、少々ぶしつけな問いに対する、やや憤然とした語調の発言であったと思う。それだけに、当時としては、むしろ放言めいたニュアンスで受けとめられたのだったが、しかしそれ以来、私はこの言葉が、もう少し深く、もう少し重い意味をもって、いつも忘れられずにいる。

歌舞伎役者がすればどんな芝居だろうと歌舞伎なのだ、ともう少し正確に言えば白鸚は言ったのだが、歌舞伎の芸を蓄積した役者の身体なり、あるいは逆に、役者の身体に蓄積された歌舞伎の芸なりへの揺るぎのない自負が、この言葉からたちのぼってくる。前々章の末尾に引用した串田の言が思い合わされる。「歌舞伎の型を何十年も追及してきた役者が、その身についた型からすーっと解放されるときの凄み」と串田は言ったのだった。『三人吉三』の「巣鴨吉祥院」の場で、現行普通の歌舞伎の常識とはかけ離れた演技を求められたときの勘三郎のことをいったのだったが、ひるがえって考えれば、つまりはこれも、何をどう演じようと歌舞伎役者が演じればそれも見事に歌舞伎であることの、ひとつの証例であるともいえる。

しかしそれは、当然ながら、昔の白鸚にせよ今の勘三郎にせよ、歌舞伎役者としての揺るぎのない芸と身体を持つ者にして言えることで、野田秀樹の側から言えることではない。演出家の不在ということを、「異邦人」である野田が言ったのは、これも当然のことだったろう。そもそも「演出家」という存在が演劇の世界に登場し、「演出」という営為を始めたときが、「近代演劇」というものの誕生したときであって、野田にせよ串田にせよ、その近代演劇という世界で生きてきた者にしてみれば、「演出家」の存在しない演劇というものが、すでに不可解な得体の知れないものとしか思えないとしても、不思議はない。ここで演劇人としての野田秀樹についての説明を始める必要はないだろうが、その作り出す舞台が、演出という営為に対して最も先鋭な意識を持った演劇人であることは、少なくとも間違いないだろう。

昔から、というのは、歌舞伎が近代劇と競合するようになったときから、歌舞伎にも演出家が必要だという考え方が、識者の間で生まれ、いまも根強く底流している。国立劇場が設立されるに当っても、そのことが強く言われ、「演出」とか「監修」とかいう文字が制作スタッフの中に連なるようになった。現実にそこで行なわれている「演出」が、野田や串田の言う演出とは、むしろ同名異語に近いかもしれないとしてもである。

また一方で、「武智歌舞伎」のような形で、歌舞伎の演出ということがクローズアップされることもあった。武智の場合は、原理主義的ともいえる古典主義の理論・方法論が過激なピューリタニズムのゆえに、戦後という時代の空気のなかで熱烈な信奉者を生んだが、その古典主義的方法と前衛とを円環のように結びつけようとする武智の真意は、その割には、あまり理解されなかったような気がする。武智歌舞伎はいいが、わけのわからない前衛劇みたいなのは困る、という声をよく聞いたものだ。しかしそれでは、武智はおそらく満たされなかったに違いない。ともあれ、その武智にしても、理念や方法論の違いはあっても、歌舞伎を、役者や興行資本の恣意にまかせず、古典としてあるべき形として実現しようということを目指すところから始まっていたという一点では、共通していたのだ。

松本白鸚の場合には、福田恆存という存在が関わっていたが、福田の場合は、歌舞伎そのものの演出に関わるのではなく、むしろ白鸚の方から歌舞伎の埒の外に出て、福田の書いた作品を福田の演出で演じるということに、目指すところがあったように思われる。それは客観的には、歴史劇というものを日本の演劇のなかに確立しようということであったと私は理解しているが、福田の側からすれば、そのときに是非とも欲しかったのが、歌舞伎俳優松本白鸚の持つ芸と身体であったろうことは間違いないだろう。歌舞伎役者がやればどんな芝居をやろと歌舞伎だ、という白鸚の言と、まさしくその一点で両者は重なり合い、折り合ったのだ。それと相似形の図式が、勘三郎と野田秀樹の場合にも描けると考えるのは、自然なことだろう。

随談第508回 勘三郎随想(その33)

41.「み」の章(つづき)

勘三郎は、最近、三人の若手俳優のトリオで上演された『大川端庚申塚』の一幕を見て、愕然としたという。「和尚吉三はお嬢とお坊が斬り合っているところへズバッと飛び込んでいって、待て、と留めるんでしょ。ところが留めないんだもの。ただ形。留める格好をするだけ。予定調和でやってるから、何の真実味もない。お客に拍手するなって言いたかった。おじさんたちが見たら怒るよ。批評家の人達ももっとびしびし書くべきですよ。あんなことをやってたんじゃあ、もう歌舞伎は滅びるよ。」

前にも書いたように、勘三郎は、かつて梅幸からこの「大川端庚申塚」のお嬢吉三を教わっている。それは「月も朧に白魚の篝火も霞む春の空」という、様式の極とも見られるようなセリフにも実はリアリズムを踏まえた演技があるのだということを、身をもって示すような行き方だった。勘三郎はもちろんそのやり方に愛着をもっている。だが、『三人吉三』全編を読み直し、串田の演出で演じたいまとなっては、通し上演としても現行のやり方で演じる気持はないという。

何故なら、ドラマとしての『三人吉三』を通しで演じるなら、お嬢吉三は女形の演じるべき役であって、自分がかつて梅幸から教わったお嬢吉三を演じるとすれば、むしろ「大川端」の場だけの方がふさわしい。勘三郎は気づいていたのだ。梅幸に教わった「伝統的」な演出は、大正・昭和の歌舞伎の正統的な演じ方としての意義をもつが、それは十五世羽左衛門や六代目菊五郎が加役として演じた「伝統」が作ったものであって、串田の言う「社会からはじき出されたちっぽけな悪党」として演じるには必ずしもふさわしくない。

「生理」という言葉を、談話を取材している間に、勘三郎は何度か使ったが、その一度が、串田の演出で演じた和尚吉三についてだった。通しとして『三人吉三』のドラマを演じるなら、すでに自分のなかに出来ているのは和尚を演じる「生理」であって、お嬢を演じる生理は自分の中にはない、という意味である。

それで思うのは、もともと、安政七年の初演のときお嬢吉三を演じたのは、真女形の八代目岩井半四郎だったということである。半四郎は、日常の暮らしから女形に徹していたといい、その自宅の居間を訪れた者が、まるでお嬢様の部屋のようだったという証言を残している。大正・昭和前期の歌舞伎界の頂点に立った大立者の五代目中村歌右衛門は、はじめ半四郎のところに入門する話があったが、女みたいなので断ったという逸話が伝わっているが、この歌右衛門こそ、のちに近代歌舞伎の大御所となった人であることを考え合わせると、この話は、前近代の歌舞伎と近代以降の歌舞伎の裂け目を覗く狭間のような感じもする。

八世半四郎の演じたお嬢吉三がどういうものだったか、いまとなっては想像のほかでしかないが、串田演出による『三人吉三』を経験したことを通じて、勘三郎が、お嬢吉三は女形がやる方がふさわしいということを、「生理」として体感したのは事実だろう。このあたりは、当の串田の想像を超えた、歌舞伎役者勘三郎ならではの感性のなせる業であるのかもしれない。だが少なくとも言えるのは、串田の試みたことが、勘三郎にそれだけのことを感じさせ、考えさせるだけの深みにまで達していた、ということである。

もちろん、通常の慣行となった演出による『三人吉三』を見ていても、そうしたことは感じ取れないわけでは必ずしもない。劇場の椅子からの私の率直な意見をいうなら、黙阿弥の脚本の中に眠っていたさまざまな意味や仕掛けを赤裸々に提示して見せた串田演出のラディカリズムの功績を認める一方で、在来の演出のコンヴェンショナルであるが故の頽廃の美学も捨てがたい。そもそも、いまさら現代の女形俳優がお嬢を演じたところで、幕末明治の八代目半四郎のように演じることは、まず不可能であろう。コクーンでお嬢を演じた福助が、福助一代と言ってもいいほどの好演だったのは確かだが、いまにして思えば、あのお嬢は、福助にとって栄光と危険が裏表になった分水嶺であったかもしれない。その後の福助のさ迷いこんだ、迷路のような苦闘の道を思うとき、ときに痛々しいような思いで福助を見ている自分に気が付くことがある。が、いまはこれ以上、福助のことに触れるのは慎もう。話を『三人吉三』に戻すなら、むしろ新旧ふたつのバージョンが両立することがそれだけ歌舞伎を豊かにすることにも通じると思うのだが、演技者として実際に和尚吉三を生きてしまった「生理」が、勘三郎にそう言わせたのであろうことは、充分に想像がつく。

それにしても考えさせられるのは、自分の「仁」から考えて桜丸をこそと思っていた若き日に、無理矢理にも「松緑のおじさん」から梅王丸を教わって荒事の骨法を叩き込まれたことが、いま和尚吉三を演じることを可能にしているのだという勘三郎の言である。和尚吉三はもちろん荒事の役ではないが、骨太の強い感触の役、というほどの意味と考えればわかりやすい。一方串田は、勘三郎の和尚吉三について、大詰前の「駒込吉祥院の場」の終局、兄妹相姦という畜生道に堕ちた妹のおとせと弟の十三郎を、お嬢吉三とお坊吉三の身替りにする場面での勘三郎の演技の凄さを、もう何かを演じているという次元ではなかったと述べた後につづけて、こう書く。「歌舞伎の型というものを何十年も追及してきた役者が、その身についた型から、スーッと解放される時のすごみのようなものを、僕は(演出者という)立場を忘れて見ていた。」

この串田の言の美しさは、否定するわけにいかないと私は思う。

 
42.「し」の章  (談話・串田、野田との仕事について1)

―――まあこれは、あれこれ言うよりも、やってることを見ていただくことなんでね。ですけれども、たとえば自分がね、まあいつか死ぬと。死ぬときにね、いろいろ考えると思うんですよ。もちろん歌舞伎役者として生まれてきたんだから、おじさんたちに教わったこととか、自分の解釈で、当っているか当っていないかは別として、盛綱なら盛綱をこうしたい、とかいうようなことが一方にある。また一方、それじゃなくてね、創るっていうこと。俺がはじめて創るんだ、っていうこと。それがこっちだと思うんだね。

―――だからたとえば、賞をいただいたとしましょうか。『鏡獅子』で賞をいただいたときがありますよね。ありがとうございます、勉強さしていただいて、というコメントが本当に言えますけど、たとえばこっちの『研辰』でもらったときはね、やったぜ、ですよ。だから全然違う。スポーツマンが優勝したとかなんとかってシャンパンかける、あの感じ。あっちの、『鏡獅子』で賞をいただいてシャンパンかけたりしたら、あいつ気が狂ったか、何だ、あんなものぐらいでって言われちゃう。あっちはもっともっと、死ぬまで勉強っていう世界。本当の意味でね。あっちがなければ、こっちもないですよ。だけども、こっちのこれは、お前、考えつかなかっただろうよって言えますよね。

―――ね、やっぱりやるべきだよ、生きてるんだから。せっかく、昭和三十年に生まれて、死ぬのは平成だか、その次の何かになるかわからないけど、とにかく何十年生きた中でね、これやったの俺だけだよ、俺が一番最初にやったんだよっていうことは、子供たちにも自慢できるかな、っていうこと。あっちは自慢はできないよ、すごい先輩がいっぱいいるから。けど、こっちのばかりは、ニューヨークで英語で『法界坊』やったら、ざまあ見ろ、やれるもんならやってみろっていう風なね。うん、それが生きてるっていうことじゃないかなって思うんだよね。

―――それからもうひとつ。野田秀樹って、現代(いま)の作家だよね。野田秀樹って俺の友達だけど、あれ才能あるよっていう、そういう二人で握手して始めた仕事だっていうことですね。彼の、あれちょっといい文だから見てください。今度の『研辰』の映画のパンフレットに彼が書いたの。すごくいいこと書いてるんです。自分でこわかったって。犯罪者のような心境だって。それ、すごくわかる。やっていいものか悪いのか。あっちはさあ、おこられないですよ。どれだけ掘り下げたかってわかってくれるでしょ? 歌舞伎が好きな人ならば。けど、こっちをやる初日は、もう吉と出るか凶と出るか。しないでじらしてされるがじらしい、ってやるんだもん、歌舞伎座の舞台で。犯罪者の共犯ですよ。でもそういう人が、同世代にいたってことがラッキーですよね。それから串田さんも。同世代にいた。どうせだったら生きてる間に、いま出来ることをやりたいじゃない。この間のあんな、(渡辺)えり子の『舌きり雀』。あれだって何十年かたったら馬鹿馬鹿しくて笑って見られる日が来る。やらないよりやった方がいいだろう、っていう、それなんですね。

―――両方やるっていうこと。まあ、つっ込んでいったらそういうことですね。こんなこと、あまり言ってないですからね、どこにも。外国人がよくやるでしょ、イエーイっていう世界。あれあっちでやったらみんなに総スカンだよ、そんなことやったら。でもこっち側だったら、それも許してもらえるんじゃないか。許されなかったら、それならいいよ、っていう風なことですね。だって俺たちだけでやったんだもん、しょうがないよ、これからだよっていうこと。それにね、若手の、菊之助だとかが、こういう動きを利用するんじゃないけど、こういうのもあるんだよっていう、いろんな動きになってきたことは、ある意味、いいことだと思います。ただ、子供たちにもよく言うんだけど、あっちを忘れちゃあ絶対駄目だよと。こっちだけに走っちゃ、歌舞伎はもうただ駄目になっちゃうよっていうことですね。

―――だからこれからも、そういう作品もあって、中幕にちゃんとした踊りがあって、古典があるっていうのを作っていきますよ。歌舞伎ってなんだい、いろんな歌舞伎があるんだなっていう風なことを、身をもってやっていきたいですねえ。だからこの前の襲名で『研辰』をやったときも、玉三郎さんに『鷺娘』を踊ってほしいって言ったの。『鷺娘』を見る人にも『研辰』を見せたいし。最初に菊五郎さんの『四の切』の狐があって、ちょっと重たかったけどね、でもああいうものがあって『鷺娘』があって『研辰』があるっていうと、オイ、歌舞伎ってなんだい、いろんなのがあるんだねっていう風にしたいのよ。歌舞伎ってやっぱりいいものですからね。わけのわかんないもんだなんて言われると悔しくてしょうがないのよ。『研辰』を見てわけわかんないなんていったら、日本人じゃないよって言えるじゃない。

―――歌舞伎を変えたいなんて死んでも思いません。罰が当たります、そんなことは。変えません。このままでいいです。けれどそこにひとつ、こういうのが出来るとね。黙らせたいんだよ、歌舞伎をつまんないなんて言ったり、わけわからないとか言う人種を。それならこういうのがありますよっていうのをやる。だってわけわかんないのが一杯あるんだから。それは勉強すりゃあいいんだから。でもそればっかり言ってるとね、歌舞伎って長いんだろって言われた時に、ううん、違うのもあるよって言って、鼠の上に乗って宙乗りするわけよ。それだけじゃあ駄目だから、ということね。それなんですよ。

―――だから狂言立てにもこだわるし、こないだの『ふるあめりかに袖はぬらさじ』も、玉さんがお礼を言ってくれた。あんたが出るように言ってくれたからみんな出たって。当り前だよって言ったの。あれをやるかやらないかということにも論議があった。けどね、いいじゃないですか。そんなもの歌舞伎にしちゃえばいいんだと。それで全員出た方がいいって言ったの。そういうことをするとお客さんは喜んでくれるんですよ。と、思うなあ。こういうことが、これから先もずーっと思い続けていきたいことかなあ。

随談第507回 勘三郎随想(その32)修正版

41.「み」の章

さっきもちょっと言ったが、勘三郎と仕事をする上での串田和美の姿勢は、歌舞伎をも普通一般の演劇と同等のスタンスで取り扱おうという一点にあったように、私には見える。もちろん、良識家である串田が、歌舞伎への配慮を持たないわけではないし、歌舞伎のもつある種の特殊性を思わないわけでもない。むしろそうであればこそ、他ならぬ勘三郎の側から接近して来ての提携であるならば、新劇人としてこれまで歩んできたそのスタンスで歌舞伎にも対しようとすることは、当然の判断であるともいえる。そうでなければ、自分が歌舞伎に関わる意味がないし、そもそも勘三郎の方から求めてくる理由もない。その一点以外に串田が歌舞伎に関わる方法も意義もないといってもいい。その一点をはずせば、それは門外漢のお道楽と異なるところはなくなってしまうに違いないし、そもそも串田にそんな趣味も興味もないだろう。

歌舞伎を敢えて特別視せず、普通一般の演劇と同等のスタンスで扱おうとするとき、串田が何よりも拠って立つところは、脚本の読み以外にはないだろう。脚本を独立したひとつの作品として白紙の状態で読もうとするとき、おそらく串田を一番苛立たせるのは、「仁」とか「役柄」とか「型」とかいう、歌舞伎独特のコンヴェンションが介在してくることであるのは、容易に想像がつく。

和尚吉三でも薩摩源五兵衛でも直助権兵衛でも、また団七九郎兵衛でも、まず脚本があって、それと向かい合う演出家なり役者なりがいる。演出家と役者は、立場も役割も違うが、脚本と直接に向かい合うべきものであることに変わりはない。それが、新劇人串田にとっての常識であるだろう。だが歌舞伎を相手にすると、仁とか役柄とか型とかいう「不純物」がその中間に介在してくる。中にはそれを絶対視して、それなくして歌舞伎は成立せず、それを無視した演出は認めがたいという論者も出てくる。

「歌舞伎というものは、そういう過激に思える筋立てでも、いいの、いいの、歌舞伎なんだからこういうものなの!と、なんだか強引に思わせてしまう力があるんだね。変な疑問を持つほうが間違っているような。ストーリーを知っている観客は、なおさらそんな疑問を持とうとしない。これはかなりもったいないことだと思う。芝居にとっても、観客にとっても。僕のこの場の演出意図としては、出来るだけそういう素直な疑問を誘発することだったと思う」と串田が書いているのは、『三人吉三』の大川端庚申塚の場、お嬢・お坊・和尚の三人の吉三郎が出会う場面の演出についての文章の一節だが、もちろん、串田のこのスタンスの取り方は『三人吉三』だけに限ったことではない。というより、結局はこの一点にあるといっても、決して強引な要約ではないだろう。ストーリーとここで串田が言うのは、もちろん直接的には話の筋のことであり、ここの件の文脈に沿って言っていることだが、文脈をもっと大きく取れば、「仁」や「型」や「役柄」という歌舞伎のコンヴェンションとしての、いわゆる「約束事」のことだと考えて差し支えない。

「かなりもったいないこと」と串田が言う意味は、歌舞伎に興味はあるが深くは馴染んでいない、現代の普通の、知的興味も知識教養も持ち合わせている人々に取っては、非常にわかりやすい言い方であるに違いない。歌舞伎に興味を感じて歌舞伎座の舞台を覗いてみると、それなりに面白くも興味をそそられもするが、それ以上に、何だかよく分からないいろいろなことに遭遇する。「いいの、いいの、歌舞伎なんだからこういうものなの!となんだか強引に思わせてしまう力」を受け容れてそれなりに納得できた者は、歌舞伎ファンとしての「狭き門」を潜り抜けることができるが、受け容れられなかった者は、「狭き門」に阻まれた縁なき衆生としてさ迷うこととなる。

歌舞伎に対するこの串田のスタンスの取り方は、かつて夏目漱石が自分の小説の読者を、「文壇の路地裏を覗いたことのない尋常普通の教養のある人士」と言ったスタンスの取り方を思い出させる。つまり漱石は、文壇の事情通になる気はないが、尋常普通の人間としての興味を満足させてくれる文学には関心のある読者に向けて、小説を書いたのである。漱石のいう「文壇」を「歌舞伎」と置きかえてみれば、スタンスの取り方という一点においては、漱石も串田和美も変わりはないことがわかる。

歌舞伎に通じている者が、中村勘三郎とか尾上菊五郎と姓名で呼ばずに、勘三郎とか菊五郎というふうに名だけで呼んだり、中村屋とか音羽屋と「屋号」を代名詞のようにして呼ぶことすら、「歌舞伎界の路地裏を覗いたことのない尋常普通」の現代人から見れば、内々の者同士だけで通じる合言葉のように聞こえる。まして、「六代目」だの「十七代目」だのということになれば、ほとんど暗号も同然だろう。そういった、歌舞伎の「外郭」に属する事柄からはじまって、ストーリーの展開や登場人物のキャラクターの有り様といった芝居そのものに関することまで、「強引な力」を受け容れて狭き門をくぐることは、フリーメーソンの結社に入会することにも似た「秘儀」のようにも見える。(実はこれに類する現象は、どこの社会、どこの業界にもある筈なのだが、「梨園」とか「相撲界」とかいった世界のこととなると、ことさらに「特殊」なものとして見るという構図が出来上がっているのも、本当は考えてみるべき問題に違いない。)

いま書店の棚には歌舞伎の入門書や解説書が呆れるばかりにあふれているが、その秘儀を通過すればいかにすばらしい世界が開けているかを説いたかに見えて、ではどうすればそこへ行き着けるのかを説くことに成功したものはない。なぜなら、世のすべての入門書や解説書がそうであるごとく、その著者は既に秘儀を通過した者ばかりであるからで、狭き門の内側のことは巧みに説明してあるが、肝心の、如何にすれば狭き門を通り抜けられるかについては書いていない。曰く言いがたいことは書きようがないからである。こうして、世にあるかぎりの歌舞伎解説書や入門書は、神父・牧師や信者の説く宗教の入門書に似てくる。すでに神を信じている者が、信じていない者に向かって、いかに神の栄光を説いても無効なのと同じである。

串田の言う「かなりもったいないこと」とは、歌舞伎という狭き門の中を覗いてはみたが、中に入ろうという誘惑には捕われなかった者の視点で見た、門の中の様子を評した言である。歌舞伎を約束事というコンヴェンションから解体して、尋常一般の戯曲として見た者の言といってもいい。これまで串田が幾多の戯曲を読み、俳優としても演じ、演出者として演出してきた、そういう視点で歌舞伎を見るとき、歌舞伎のコンヴェンションが捉えていない、あるいは取り落としたりはじめから目を向けていない、いろいろなことが目に映る。

なぜ歌舞伎では、こうは演じず、ああ演じるのか? なぜ、ああ演じれば歌舞伎で、こう演じれば歌舞伎でないのか? なぜ、こう演じればおもしろいと自分は思うのに、ああ演じないと歌舞伎好きはいいと認めないのか? それにもかかわらず、ああ演じる歌舞伎をわからないと言う者も世の中にはたくさんいるではないか? それはなぜか?

串田は言う。三人吉三のような、本来なら、社会からはじき出されたちっぽけな悪党でしかない、愚かしくも切ない、そのままでは見ていられないような存在でも、歌舞伎という様式で演じられると、深く受け入れられる。興味深く鑑賞することが出来る。カッコいいと感じる。この場合カッコいいとは、何か心に響くものがある、いま生きている自分にとって無関係でない、心を揺さぶられる何ものかを感じるということである。そういう意味で、歌舞伎はこの世の醜悪なものやグロテスクなもの、奇怪なもの、見るに堪えないほど惨めなもの、みっともないものを、カッコよく見せてしまう力を持っている、と。だから歌舞伎とはつくづく凄い芸能だなと思う、とも言う。

『三人吉三』の序幕「大川端庚申塚」の場は、通常、三人のスター役者が動く錦絵のように見せる黙阿弥様式美の華と考えられている。百両包みを奪ったお嬢吉三が「月も朧に白魚の篝火(かがり)も霞む春の空」と謳いあげる七五調の名セリフは、いまでも歌舞伎好きが宴会の余興に声色でやってみせる、おそらく歌舞伎のセリフのなかでも最もよく知られたものだろうし、まったくの初心の観客がこれを見せられれば、なるほど歌舞伎を見たと実感して満足するに違いない。つまり不特定多数が抱く歌舞伎イメージの典型といってもいい。本来は、長丁場の世話狂言の発端の場面であるにもかかわらず、今日でも、この場だけを短い一幕物のように上演することも絶えないのは、そのためであるだろう。

実際には、作者の黙阿弥から数えて四代目に当る河竹家当主の河竹登志夫氏が、後に展開する陰惨なドラマの序章としての極彩色の口絵にたとえたように、観客は様式美の中にあとに続くドラマを予感しながら見ているわけで、決して単なる様式美だけを鑑賞しているのではない。その様式にしても、お嬢吉三は女形、お坊吉三は二枚目、和尚吉三は実事の座頭役者と、それぞれの役柄にはまった仁の中にも、それぞれの役の背負った宿命的な人生や性格を反映して、ひと筋縄ではいかない複雑微妙なニュアンスが掛け合わされることになる。そういう感覚のおもしろさは、歌舞伎に通暁している観客でなければわからないというものでもないだろう。

だがその一方で、こういうこともある。現行の「大川端庚申塚」の場が、独立した一幕物の人気狂言のように頻繁に上演されるようになったのは、おそらく、大正以降、十五世市村羽左衛門という天性の二枚目役者が加役で演じたお嬢吉三が極めつけの名物のように見做されるようになって以後、慣行となったことで、それとともに、現在「型」となっている演出が固定されたものと考えられる。その演出は、少なくとも、幕末の安政七年正月に(つまり、それから間もない雛の節句の日に井伊大老が桜田門外で暗殺されたあの年の正月である)初演されたときとは、かなり違うものになっているはずで、簡単に言えば、下座を多用し、様式化が進んだに相違ないことは容易に想像がつく。すなわち、現行の歌舞伎で普通に演じられている『三人吉三』大川端庚申塚の場は、大正・昭和以降の近代の歌舞伎が作り変えたものなのだ。もちろんそれは、大正・昭和の観客に愛され、支持されたからこそ、そうなったのであり、その意味で、現行の演出は大正・昭和の観客が作ったのだともいえる。

だが、時の経過とともに、はじめは、この場がじつは以後に続く長いドラマの発端の一幕であることを役者も観客も周知であることを前提として演じられたものが、やがて、後のドラマを知らない者が多数を占める客席の前で演じられるようになる、という事態が生じてくる。そうした客席から舞台に投げかけられる眼差しの変化は、いきおい、演じる側にもある変化を及ぼさずにはおかなくなる。万人が共有していたひとつの仕草、ひとつの行為の持つ意味は、リアルな実感を失い始めるのとともに、様式として受けとめられるようになる。見る者だけでなく、演じる者にでさえも。様式化が進めば、やがて仕草の一挙手一投足は踊りの所作に近づいてゆく。そこには、歌舞伎の様式というものを考えるとき、見落とすべきではない鍵がひそんでいる。絶対普遍のように思われがちな様式も、じつは、その時どきの観客との関係のなかで作られ、変容しているのだということである。(この項つづく)