随談第475回 勘三郎随想(その11)

5.「ほ」の章

勘三郎随想をまた続けよう。

この前、勘三郎がまだ高校生の頃、唐十郎のテント劇場の芝居を見に行ったら、父の先代から、アカの芝居なんか見るなと言われたということを書いたら、児玉竜一氏からメールを貰った。十七代目がむかし小山内薫のところへ出入りしている時に、兄の初代吉右衛門からあいつはアカではないかと言われたという話があるけれど、十八代目の話は、テントを見て帰ってその興奮を語っていると「バカヤロ、こっちは満洲でトラックの荷台で道成寺を踊ったんだ、今更なんでテントなんだ」と言われたのだと記憶しますがどうでしょうというのだった。

どこかに典拠がありますか?と言われるとちょっと困るけれど、私としては、十八代目がこの話をいろいろなところで語っていたように覚えていたのだった。戸板康二さんの「役者の伝説」ではないが、この種の話というのは、本人、更にはそれを直接間接に聞いた者が、更に更に語り伝えるうちに「訛伝」が生じるのが常であって、むしろそれをも含めて、「役者の伝説」と考えるのが至当ではないかと私は考える。むしろ、これも児玉氏が指摘しているように、こういう話は人の育ちを考える上で示唆的な発言であって、いわゆる銀の匙を咥えて生まれた十八代目と妾の子だった十七代目との違いはこういうところに微妙な翳を落としているとも見えるし、せっかく近代になったのに、と考える十七代目と、「近代の超克」(!)を考えるのが当たり前で生まれた十八代目と、世代の違いもある。(ついでにいえば、十八代目が見たのはテント芝居がある程度認められるようになってからでしょう、その頃はもう、どこの馬の骨か分からない「前衛」じゃないんですよね、と児玉氏は言うのだが、まさにこれは至言であって、私としては先に言われてしまった無念さを告白しないわけには行かない。ご本人には無断だが更についでに紹介すると、児玉氏は唐十郎が平成中村座の旗揚げを見に行っているのを目撃しているという。 浅草から並んで歩いて行ったので確かです。面識もないのでしゃべりませんでしたが、という。)

ところで世代の違いというなら、十七代目との違いもさることながら、もう少し「当代」にズームアップして見る時、いまの幸四郎や吉右衛門や菊五郎等との微妙な差をも見落とすわけには行かないだろう。世代論というものを何かにつけて安直に持ち出すのは愚かしいことだが、この辺りの機微に関しては世代的な「腑分け」が欠かせないところで、吉右衛門についてはあまりつまびらかにはしていないが、現幸四郎が、アングラ隆盛当時、朝日紙上で(たしかインタビューに答える形で)、折角先人たちの努力の上に現在のわれわれがあるのだから、それを今更、旧に復すべきだとは思わない云々と明言していたのを覚えている。

これはむしろ芸に関してであろうが、勘三郎は、世代論として吉右衛門世代と区別されるのを嫌っていたが(これはかなり強硬なものがあった。しかしそれは、帰するところは、負けるものか、という勘三郎一流の負けじ魂の発露と考えるのが至当であろうと私は考えている。時にやや性急に傾きがちであったとしても)、こういうことは戦前・戦時の(仮に母親の胎内にあってのものであろうと)記憶をかすかにでも持つ者と、「もはや戦後ではな」くなってから幼児の記憶を持ち始めた者とでは、決定的に(と言っていいだろう)何かが違ってくるのは如何ともし難いことでもある。

勘三郎の初舞台は、当時から有名な「事件」だった。大立者の御曹司の初舞台が話題になるのは当然だが、このときはひと際の話題をさらった。理由はひとえに、父親である十七代目勘三郎の親馬鹿ぶりにあった。ちょうど、皇太子時代の現天皇のご成婚と重なったその月の歌舞伎座には「御成婚奉祝興行」という銘が打たれていた。月並みなことを言うようだが、皇太子ご成婚が、もはや戦後ではなくなりやがて始まる高度成長時代を望んだ、開幕の式典のようなものだったとすれば、そのご成婚と同じ月に初舞台を踏んだ「勘九郎坊や」というのは、生まれながらにして時代のシンボルとなる幸運を担っていたかに、今から見れば見える。

これが幸四郎や吉右衛門や、あるいは菊五郎の世代だったら、こうもうまうまと、久保田万太郎風に言うなら、いい間の振りに、もはや戦後ではない時代に巡り合い、屈託なくその中に生きてゆくことは出来なかったに違いない。彼等には(たとえ幼時のそれであろうと)戦争の記憶がある。「戦後」というひとつの時代の記憶がある。のちの吉右衛門の万之助少年が「兄さんダブル、僕お古」と言ったというのには、明らかに、戦争の翳を引いた戦後という貧しかった時代が写し取られている。松本幸四郎家といえども、たかだか二歳だか三歳の歳の差の兄弟二人ともに新しいダブルの服を買ってやるということはない。弟の万之助としては、おにいちゃんばかりいつも新品を買ってもらえるのに僕はおにいちゃんのお古ばかり着せられることに、屈折した思いを抱かざるを得ない。このあたりの機微は、彼らとほぼ世代を等しくする私には手に取るようにわかる。何と言っても。それに比べるとき、勘三郎が生まれ育ったのは、そうした翳のない時代だったことは間違いない。勘三郎が、芸の上で彼らとの世代差を持ち出されるのに異を唱えた気持は理解できるとしても、それとこれとはまったく別の問題として、こちらとしては考えないわけに行かないのはやむを得ない。

十八代目の初舞台の演目は『昔話桃太郎』という新作で、十七代目は八代目幸四郎に爺役をつき合わせ、自身は婆役と鬼の役の二役をつとめ、満四歳のわが子の演じる桃太郎に縛り上げられてうれし涙を流すというものだった。それよりざっと三十年前の昭和初期の古き良き時代に、天衣無縫の二枚目役者として知られた十五世市村羽左衛門が、半年間という長期にわたる世界漫遊に旅立つにあたって、送別会と横浜の埠頭を出航する模様とを一幕二場の芝居に仕組んで、歌舞伎座の本興行の一演目として上演するということがあって以来の「公私混同」劇だったが、羽左衛門の時がそうであったように、勘三郎に対しても、世間はそれを笑って許したのだった。それだけの観客からの信頼を、十七代目はすでに獲得していたのである。(もっとも初舞台披露の「口上」の幕にまで列座するのは、さすがに断わられたらしい。勘九郎披露目の口上は十七代目がひとりで言った。)

十八代目が生まれたとき、十七代目はすでに四十代の半ばを過ぎていた。齢をとってから得た男の子、という図式的な解釈だけでは説明し切れない強い思いが十七代目にあったであろうことは、容易に想像がつく。このときこの地位を獲得するまで、十七代目は屈折した歩みを重ねてきていた。くわしく触れている場ではないが、東宝劇団への参加とその壊滅、関西歌舞伎への移籍、曲折を経ての六代目菊五郎の愛娘との結婚等々、これらはすべて昭和十年代、戦前というより戦中というべき時代のことだが、二十代から三十代へかけて十七代目がなめた辛酸は、さしあたりいま簡単にその経歴をたどっただけでも想像がつく。ようやく、ひとつの安定した地位を獲得したのは、このときから九年前の一九五〇年、十七代目勘三郎を襲名してからといっていい。しかもそれ以後も、病気のため半年の余も休演、奇跡的な復帰を遂げるという、さらなる曲折を経験している。

自分は一度嫌いだと思った役者を好きになるということがない人間だが、ふたりだけ例外がある、ひとりは文楽の人形遣いの桐竹紋十郎、もうひとりが歌舞伎の中村勘三郎である、中村もしほ時代の勘三郎はじつに気障(きざ)でいやな役者だった、と書いたのは前にも言ったが劇評家の安藤鶴夫だった。「それまではいつみても、どうだ俺はうめえだろうという気分が、いつも鼻の先にぶら下がっていて、それ故になんともいやみな芸の役者だった」と安藤の言う気障というのが、じっさいにどういうものだったのか、いまとなっては確かめようがないとしても、雑誌のグラビアなどで見る当時のもしほの表情に、なにか暗い影を感じるのは事実だ。しかもその暗さは、なにやら鬱屈した情念を感じさせる。正直、あまりいい感じのものとは言えない。後年、私が知るようになってからの十七代目の舞台に、この上ない愛嬌と同時に、一種の苦味にも通じる複雑な味感が、常に隠されていたのを思い出す。そうしてそこにこそ、いまでも思い出せばつい涙を誘われそうになる、余人にない深い情感があったことも。かつてはむしろ嫌味ですらあった暗い影が、そこでは一種の調味料としての苦みとなって、他の誰にもない複雑微妙な、おもしろい味覚となっていた。

そうして、もしほから嫌味なところが消えたのが、勘三郎になろうという少し前ごろからだったという安藤鶴夫の言を私なりに深読みするなら、もしほ持代の嫌味というのは、単に鼻の先に自慢げな気分をぶらさげている増上慢のためというよりもっと深く、十七代目の心中に巣食っていた、自分を十全なかたちで理解してもらえないための欝懐のゆえではなかったろうか? そのことを思い、私自身が知り始めた頃の十七代目の、愛嬌の中の複雑な味感というものを思い合わせるとき、それから何十年という歳月を距てたいまになって、ある深い思いに襲われることがある。十七代目の心の傷を、思わないわけにはいかないからだ。

大嫌いだった役者を好きになった、たった二人の例外のひとつとして、十七代目勘三郎を、すばらしい役者が出来たと安藤鶴夫が書いたのは、一九五九年のことだった。その年、十七代目は五十歳を目前にして、もうひと月で満五歳になるわが子の初舞台を「桃太郎」で飾り、観客はその稚気を喜んで受け容れたのである。

いま西暦で書いた一九五九年、昭和三十四年の四月というその月が、当時皇太子だった現天皇のご成婚の月だったことはすでに言ったが、そのご成婚パレードの実況放送を見るために、テレビの販売台数が飛躍的に増えたという話はよく知られている。テレビの時代のはじまりを、それはおのずから意味していた。東京タワーが完成したのがその前年である。ご成婚と同じ月に『昔話桃太郎』で初舞台を踏んだ幼い歌舞伎俳優の存在は、たちまちの内に全国に知れわたった。「勘九郎坊や」という呼び名が、だれがつけたとも知れぬ間に、歌舞伎を一度も見たことのない人々の間にまで広まっていた。たぶん「勘九郎坊や」は、テレビを通じて全国的な人気者になった最初の歌舞伎俳優であったに違いない。

それはまた、テレビに象徴される、あたらしい大衆文化を背負っているという意味でも、まさに昭和三十年代という時代を物語るものでもあった。皇太子のご成婚が、皇室という神秘の扉の中を垣間見させてくれるような幻想をひとびとに与え、テレビに「皇室アルバム」という常連の番組が出来(スポンサーはたしか高島屋だったっけ)、『女性自身』などの女性向け週刊誌が後室の記事で読者を獲得し、「梨園」という言葉が、実際の歌舞伎界よりもむしろ、マスコミが歌舞伎界のことをことさらに権威めかして取り上げるときに使われる、ある種の常用語(ジャーゴン)としての役割を果たすようになる。その「梨園のプリンス」の典型として、この頃、市川染五郎と市川団子が登場していた。のちに九代目幸四郎と三代目猿之助になる彼らは、それまでの「若旦那」風とはまったく異なるムードと風貌と行動力の持主として、それぞれ早稲田と慶應に進学し、プリンスのイメージを一層身近なものにしていた。「勘九郎坊や」は、そうした時代の景色を背景に生まれた申し子として、万人のアイドルとなったのである。

ちびっこ、という言葉が流行語のように生まれたのは、私の観察と記憶では、『ベビーギャング』という、『週刊朝日』に載った岡部冬彦作のひとくち漫画が発源地だったと思う。「勘九郎坊や」はそのチビッコギャングのイメージを、具体的に体現する形で、テレビを通じて全国に拡散したのだともいえる。かわいい、それ故におそるべきこどもたち(アンファンテリブル)。それは、たとえば落語の「真田小僧」のような、それまでの「とっちゃん坊や」のひねこびたおとな子どもとは一線を画した、まさしく新しい時代の子のイメージだった。天真爛漫に振舞いながら、言うことなすこと、大人を驚かせる。幼い子供が、時代を体現するという意味で、時代の主役になる。「勘九郎坊や」は、いや十八代目勘三郎は、その意味で、日本の社会にそれまでになかった存在であったかもしれない。

随談第474回 今月の舞台から

勘三郎随想はひと休みして、今月の舞台から新聞評に書いたことへのプラスアルファ、もしくは余燼、落穂といったところを幾つか拾ってみよう。

プラスアルファというにはちと当てはまらないが、『石切梶原』の吉右衛門が圧巻だ。若い頃から飛び切り堂に入っていた役だが、こういう芝居を面白く見せるための条件をほとんど満足すべく備えている。梶原が何を考え、何をしようとしているか、セリフ、しぐさ、肚、すべてが鮮明に見えてくる。加えて、男も錆びたりと思うばかりの色気と愛嬌。義太夫狂言の醍醐味というのはこうした辺りにあるのであって、太い筆に墨をたっぷり含ませて一文字を書くような充実感といえばいいか。先月の熊谷もそうだったが、今の吉右衛門を見ていると、ある意味で役よりも役者の方が大きくなっているのを感じる。白鸚や松緑といえども、こういう豊かさはなかったのではるまいか。

熊谷梶原は言うも更として、先月の『盛綱』の和田兵衛に感服した。ああいう和田兵衛は初めて見たと思った。別に変った型をしたのではない。普通だと、盛綱役者につっかうほどの貫録のある立派な役者がつき合えばそれでよし、古怪な味でもあればなおよし、といったぐらいにしか考えないが、吉右衛門のを見ていると、あの役が何のためにああして始めと終わりに出てくるのかがくっきりと見えてくる。和田兵衛が冒頭かけた謎が、すべてが終わろうとする最後になってその意味を顕在させる。そのときの和田兵衛の大きさ。

そんなことは脚本を読めば判るではないかと言うなかれ。それこそが内実を伴った質実な存在感をもって「そこにある」ことの意味である。和田兵衛はたしかに盛綱の「知」に対する「剛」の役だが、「腹の切りよう早い早い」をはじめ盛綱の痛いところを突く「知」の言葉をたくさん持っている人物でもある。それを伴った上での、あの「古怪な」扮装なのだ。そこのところに気づかせてくれた和田兵衛だった。何度も見た芝居でありながら新たな発見のある芝居。生身の舞台を見る意味も、愉しみもそこにある。

期待した『京鹿子娘二人道成寺』だったが、そうして今度だって、初めて見た人なら充分に満足出来たであろうような出来栄えだったが、初演・再演の印象をもって見た目には、ちょっとオヤと思い、オヤオヤと思っている内に終わってしまった、といおうか。印象から言えば、全体にフラットになった感じがする。

振りが変っただろうか、と幾人かの人に訊くと、あゝ変わったという人と、変わってないよ、という人と両方ある。筋書の邦楽の連名を見ると、藤間勘世という知らない名前が載っている。たとえば手鞠をつくところで、玉三郎は手鞠をつきながらひとつところをぐるりと回るのを(つまりスピンだ。ただしきわめてゆっくりした)、菊之助は(まるでトラックを一周するかのように!)びっくりするほど大回りに回る。(一昨夏、被災地救援のためのチャリティ舞踊会で『浮かれ坊主』を踊った時に、100㍍の選手のような太腿の筋肉の発達ぶりに驚いたのを思い出す。)そういう部分に手を加えてあるのかもしれない。しかしそういうことよりも、前はもっと、ふたりの花子が、時に形影相添うかのごとく時に競い合うかのごとく、時に姉妹の如く時にレズビアンの如く、絡み合いもつれ合いする間に、その意味を見る者に問いかけてくるような、知的な興味も加わっためまぐるしいまでの面白さだったと思うのだが、今度は、ふつうの『二人道成寺』に近づいて、それぞれのパートを受け持って踊るという感が強い。フラットな印象、とはじめに言ったのはそういう意味である。

見るこちらの印象にもよるだろう。初演の時は、玉三郎がリードして菊之助が果敢に挑み、ときにふた太刀三太刀、したたかに切って玉三郎の小手からツッと赤い血の流れるのが糸の筋のように見え(たというのは、もちろん、こちらの錯覚であり妄想に違いなく)て、オッ、菊之助もなかなかのサムライだなとびっくりしながら更に目を凝らす、といったスリリングな面白さだった。再演では、二人のもつれ合いそのものの面白さだったが、今度は、もう踊りとしてはむしろ若い菊之助の方が優位に立つかに見えながら、芝居上手の玉三郎が折り目折り目でキマるごとに盛り返し、優位を渡すまいとする、そういう踊りに変わっている。火花の散るような芸のぶつかり合い、という感じは薄れている。

歌舞伎座の話題をもうひとつだけ、と限るとすれば、『廓文章』の終局近く、幇間の役で登場する千之助に驚いた。身体のキレ、身のこなしが子供とは思われない。することなすこと、堂に入っている。この少年、あるいは天才か?

        *

花形連が四人あつまった明治座では、勘九郎の『実盛物語』がお薦めだ。はじめはちょっと地味目に見えるが、演じ込んでゆく内に、若さゆえの華やぎが流露してくる。亡き勘三郎は実盛は一度きり演じていない。サービス沢山の実盛だったと覚えているが、勘三郎として特に挙げるほどのものとも思われない。これは、勘九郎の方が親勝りである。親父よりうまいと言っているのではない。芸の骨格が、勘九郎の方が丈高く、丸本物としてこの芝居にふさわしいものを持っている、という意味においてである。亀蔵が瀬尾で、不充分ながら平馬返りをしたり、好感度の高い舞台でもある。

染五郎が与三郎と『将軍江戸を去る』の慶喜で、どちらも悪いわけではないが、結局、いつもの染五郎という枠の中に納まってしまうようなのが物足りない。この人、とんでもない失敗もしない代わり、予測を超えてびっくりさせるといこともないのは、何故だろう。そういえば、愛之助についても同じことが言える。『鯉つかみ』であれだけ大奮闘しながら(それだけでもう充分だとほめてやってたっていいのだが)、結局は予定調和の如くに納まってしまう。少し厳しい言い方をすれば、何の役をしても、結局はいつもの染五郎、いつもの愛之助に終わってしまう。二人とも、頭が良すぎるのかもしれない。級長さんはどんなにバカをやっても結局は級長さんであることから逃れられないように。染五郎がテレビでやっている孝明天皇なんて、ちょっとしたものなのだが。

        *

前進座が恒例の国立劇場公演で『御浜御殿』と『一本刀土俵入』と新歌舞伎の二本立てという企画は悪くない。どちらも前進座としては松竹歌舞伎にはないミソがある狂言で、ある意味、これが駄目なら前進座としてはちと面目を失うことにもなりかねない。

『御浜御殿』は前進座ならではの原作尊重で、たとえば綱豊と助右衛門のやり取りで松竹歌舞伎が慣習的にカットしているセリフをきちんと言ったり、前進座らしい良さも随所にありながら、どうも感触がふにゃりとしているのは、綱豊の圭史がセリフがところどころ怪しかったり、やや持て余し気味に見えるためでもあろうか。(それにつけても豊島屋の代々には、根っからの和事師の血が流れているのだなあ。)

助右衛門が「御座の間」へ案内されて行く途中、庭を歩いてゆくようにしたり、大詰の立ち回りも道具を回したり花道まで来て切り結んだり、前進座にしては贅沢な舞台面が続くが、却って緊迫感が損なわれるきらいもある。案内役の小谷甚内の役を梅之助が特別出演風にやっていて、腰の物を預かったりすると(もっともこのセリフは原作にあるのだが)、それならあの槍を助右衛門はどこから持ち出したのだろう?などと、変痴気論みたいなことを考えたくなる。この辺が、凝っては思案にあたわずというところ。「上の巻」のお浜遊びで、座の女優たちが一生懸命「道中事」を勤めるのを見ていると、あゝ前進座だなァとつくづく思ったりする。

そうした中、芳三郎の助右衛門はがなかなかいい。肩を怒らして武骨者らしさを見せる工夫など、ちょっぴり八代目三津五郎を思い出した。柄としては、同じ三津五郎でも九代目に通じ合う。

『一本刀土俵入』は座の財産演目を矢之輔が引き継いだお披露目という感もある。お蔦が茂兵衛を思い出すのが、茂兵衛が波一里の子分に出合い頭に頭突きを喰らわすのを見てではなく、茂兵衛が外へ出ようとする前に、意気込んで相撲の仕切りの形になるのを見て「ア、思い出した」と言うと、茂兵衛はすっと外へ出て戸を閉め天秤棒を前へ置き、手をついて深々と頭を下げる。翫右衛門以来のいわば「前進座の型」だが、矢之輔の息もよく、今度もなかなか印象的だった。

筋書に矢之輔が伊勢ノ海部屋訪問記を書いているが、招待でもされたのか、夏場所の初日を翌日に控えた勢が見に来ていたのは、良き光景だった。

         *

河竹登志夫さんが亡くなった。現代に生きる長者の風格が見事な人だった。親しくしていただいたのは二〇年に満たない間のことでしかないが、包容力の大きさを常に思わせられた。その死は予期せぬことだったが、新しい歌舞伎座の開場を待って逝ったかのようなタイミングは、さまざまなことを思わずにいられない。

随談第473回 勘三郎随想(その10)

(承前)このとき、弥太五郎源七の役をつとめていたのは先代河原崎権十郎であった。若き日に、そのころ「海老さま」という愛称で人気絶頂だったのちの十一代目團十郎に風貌が似ているというので、渋谷の東横百貨店の九階にあった定員一〇〇二名の中劇場東横ホールで行なわれていた若手歌舞伎のリーダー格だったところから「渋谷の海老さま」と呼ばれた権十郎は、まさに羽子板の役者絵のような、イナセで気ッ風(ぷ)のいい江戸前の役者だったが、年齢とともに渋味を増して、その弥太五郎源七はなんとも凄みのある老博徒ぶりだった。

強いて難をいうなら、勘三郎の若さに比して齢を取りすぎていたともいえる。源七は、ばくち打ちらしくもないなまじの分別など身につけてしまったために新三につけ込まれたが、まだ老人というわけではないからだ。だがそんなことより、このときの勘三郎にとって弥太五郎が権十郎であったことが、いかに大事であったか。この、実をいうと弥太五郎以上に凄みのある権十郎に対し挑みかかってゆく新三の姿が、勘三郎自身の若さと重なって、私はこの役の本質にはじめて気がついたのだった。

実力と威勢の上とさっき言ったが、冷静に見れば、まだこの時点での両者の威勢も実力も、弥太五郎の方が上の筈なのだ。新三は、衰えを見せはじめてはいてもまだ現役の大関に、奇襲をかけて初黒星をつけた気鋭の平幕力士に過ぎない。だが、ベテランの大関にとっては不覚の一敗も、勝った若手にとっては飛躍台の踏み板を蹴ったに等しい。予期以上に他愛もなく術中にはまった弥太五郎を見て、新三は増長する。

勘三郎の新三は「強え奴を叩かなくっちゃ」というセリフを、弟分の勝奴とのやり取りの中で強調する。強い奴を叩くことの快感を知った新三は、怒りにふるえながら帰ろうとする弥太五郎に向かって「箍(たが)のゆるんだ小父さんえ」と毒づく勝奴を、「これ、二つ名のある親分さまだ、失礼なことをいうもんじゃねえ」とたしなめるふりをして、せせら笑う。新三の若さを、このときの勘三郎によって、私ははじめて実感した。新三の実年齢を、私ははじめて意識した。このとき、新三はあきらかに、あとは下り坂しか残っていない弥太五郎に対して、自分の勢いを意識し、その快感に酔っているのである。

そのときから約二十年、演じ重ねるにつれ、勘三郎の新三はもはや揺るぎないが、新三と重ね合わされる若さの魅力もまた、失っていない。襲名の舞台での弥太五郎役は大ベテランの中村富十郎だったが、つぎの幕に登場して新三を小僧扱いにする老獪な家主の役は、二十年前の初役のときは長老の中村又五郎だったのが、今度は、同世代で子供の頃からのライバルだった坂東三津五郎がつとめている。もちろん三津五郎としては初役であり、忠七と二役を兼ねるという、そちらはそちらとしてのミソがあるにせよ、二十年の歳月を物語る配役でもある。おのずから、その襲名興行の舞台は、富十郎の弥太五郎との応酬以上に、三津五郎の家主とのやり取りの方に、興味と実感は移ることになった。

弥太五郎源七がまんまと新三に鼻をあかされたのを知った家主の長兵衛は、源七が白子屋から頼まれた示談のまとめ役を、みずから乗り出して引き受ける。源七が決めた示談金が十両と聞くと、そりゃあ親分らしくもないと嗤って、白子屋から事態を託されている出入りの車力の善八に、三十両で話をまとめてやろうと約束する。三十両という、なんとなく半端な感じのする金額を言い出したところに老獪な仕掛けがあることを、観客はやがて知ることになる。ここらあたりの、作者黙阿弥の練達の筆は、長兵衛以上に老巧である。

家主の長兵衛は、表面は廻りの髪結という堅気の職人を装っている新三が、じつは上総から流れてきた無宿人で、腕に入墨を入れられた前科者であることを承知で、素知らぬ顔で店子にしているという、なかなか食えない老人である。源七をみごと撃退したあと、新三が、四分の三両にあたる三分(ぶ)という、長屋暮らしの者には破天荒な値段で初鰹を惜しげもなく買って、勝奴に刺身につくらせて一杯やっているところへ上がり込んでくると、二枚に下ろした鰹の片身を貰い受ける約束をしてから、用件の示談にかかる。当然、新三は三十両という額には不満だが、入墨を見せて凄んでも家主には効き目がない。ちょっと解説めいた言い方になるが、家主というのは単なる借家の管理人ではなく江戸の警察システムの末端を担う存在であり、その家主に召し連れ訴えをしてお上に突き出すぞと逆に威嚇されては、新三は屈服せざるを得ない。こうして無事娘を救出すると、長兵衛は、示談金はやるが但し鰹は半分もらう約束だったと謎をかけて、三十両の半分の十五両を口利き料にせしめてしまう。この家主と新三の応酬は、さっきの弥太五郎源七とのドスのきいた対決と裏腹に、落語でも聞くような喜劇風の軽いタッチで運ぶ。硬軟とりまぜて観客を飽かせない作者の老練な筆遣いが、江戸の市井の人間模様を描き出す。達人の筆になる江戸の人間喜劇である。

十八代目襲名の折の『髪結新三』では、この場面がおもしろかった。三津五郎が忠七と二役を兼ねて、長兵衛を初役でつとめるという興味も手伝っていたことは事実だが、幼い頃から互いの演技の呼吸をのみ込んでいるふたりのやりとりは快適で、三津五郎のかっちりと緊密な芝居運びと、勘三郎の気迫とが相乗して、緊迫度の高い空間を作り出していた。もともと、自身と役の愛嬌を重ね合わせ、観客との距離をもおのずからなる役者としての感覚で測定し、親近感を巻き起こすことにかけて父ゆずりの天賦の感性をもった勘三郎としては、初演のときから既に堂に入っていた場面である。勘三郎ならではの巧さを見る上では、興味はこちらにあるともいえるが、先輩役者のつとめる長兵衛の時とは別種のおもしろさがそこにあったことが、私には興味深かったのだ。

弥太五郎源七に敵愾心を燃やして突っかかってゆく新三さながらに、先輩の役者のつとめる源七や長兵衛に立ち向かってこれまでを築いてきた勘三郎も、ふと気がついてみると、このとき弥太五郎をつき合ってくれた富十郎をのぞいては、源七役者も長兵衛役者もいなくなっている。もちろん勘三郎は、これからも新三を演じつづけるだろうが、その新三は、むしろそうした周囲の状況の変化によって、微妙に変わっていかざるを得なくなるに違いない。弥太五郎源七も家主長兵衛も、三津五郎をはじめ自分と同年配か下の者がつとめることが多くなってゆくだろう。もちろん、勘三郎自身も齢を取る。そのときに、新三の若さと自身の若さを重ね合わせ、先を行く者へ突っ掛かってゆくときにもっとも輝いたこれまでの行き方も、おのずから変わらざるを得ないだろう。

その意味で、襲名のときに齢五十にして演じた新三は、勘三郎自身の今後の有り様を暗示するものともいえる。五十歳という区切りのよい年齢で襲名(初舞台のときから勘九郎だった勘三郎にとっては、生涯ただ一回の襲名である)をするのは、外側からの事情から来る巡り会わせに過ぎないとしても、ひとつのエポックとしての感慨は、勘三郎自身にも、またその舞台を見続けてきた私にもある。一種の共犯意識、と前にいったが、翻っていえば、それは初舞台まもなくからその舞台を見つづけてきた者として、いまこのときを共有しているという思いの痛切さでもある。

・・・と、ここまで読み返してきて、覚えず、胸が詰まらずにはいられない。五年前に書いたこの文章は、当然のこととして、これからも永く勘三郎の新三を見続けるであろうことをまるで疑わずにいる。当然のことであったはずのことが、わずか五年後には当然でなくなっている。

このとき弥太五郎源七をつき合ってくれた富十郎ばかりか、新三を演じた当の勘三郎自身が既にない今、思い返してみると、昨年五月、平成中村座での最後の『髪結新三』は、これからは三津五郎をはじめ自分と同年配か下の者がつとめることが多くなってゆくだろうと書いた、まさしくそういう配役だった。忠七だけは梅玉がつき合ってくれたのだったが、それ以外は、勘九郎の勝奴は当然として、橋之助が家主長兵衛、弥十郎が弥太五郎源七という顔ぶれだった。それぞれに、なかなか悪くない長兵衛であり、弥太五郎源七だったが・・・。勘三郎の新三が、今後どう変わってゆくか、それを見とどけてゆく楽しみを、われわれは突如、奪われてしまったことになる。

随談第472回 勘三郎随想(その9)

4.「に」の章

十八代目勘三郎襲名の公演は、二〇〇五年三月から五月まで三ヵ月にわたる東京歌舞伎座での披露からはじまって、二〇〇六年十二月、京都南座の顔見世を兼ねての興行まで二年がかりでおこなわれ、勘三郎は幾つもの役を演じたが、その中で、勘三郎の現在(いま)を語る上でひと役を挙げるとすれば髪結新三だったと私は考える。

それは、舞台成果として出来がいちばんよかったというだけではない。新三という役に勘三郎の現在の在り方が集約的にあらわれていると思うからである。

おそらく新三は、勘三郎にとって格別の思いのある役である。父十七代目にとっても当り役であり、すでに言い尽くされていることだが、十八代目にとっては、初役でつとめている公演中に父を亡くしたという因縁の役でもある。そうしてさらに、今から思えば勘三郎の最後の舞台となった平成二十四年五月の平成中村座でも、昼の部は初役の『め組の喧嘩』の辰五郎だったが、夜の部では新三をつとめたのだった。もうこの頃には、ゆるぎのない持ち役として安定感が印象的になっていたのだったが、文字通り最後の役となった。

だが私が勘三郎を語るのに新三を挙げるのは、単に当り役だからというだけの意味ではない。父十七代目を語る上でも、子の十八代目を論じる上でも、格好の役だからである。新三という役の上で、父と子は重なり合い、また喰い違う。これほど、父と子の類似と相違が端的にあらわれた役もない。同時に、若き日からその後の、十八代目の有り様を考えるのにこの役ほどふさわしい役もない。

『髪結新三』は河竹黙阿弥が、江戸がすでに過去となった明治になってから書いた世話狂言の秀作であり、以来、五代目・六代目の尾上菊五郎、戦後は二代目尾上松緑、十七代目勘三郎、現在では勘三郎のほかにも七代目菊五郎と、常に絶えることなく時代時代の新三役者を生み出しながら、人気狂言として親しまれてきた。それだけに、それぞれの時代と新三役者との関係が、明治から現代までの歌舞伎の変容を反映してもいる。十八代目勘三郎の新三は、その最も現在地に立っている新三だということになる。

新三という男は、その通称のとおり髪結いを職としているが、同時にやくざ者である。左腕、正確にいえば左肘の下に、前科者である証拠の入れ墨を刺されている。おとなしく振舞っていれば入れ墨は着物の袖に隠れているが、すこし粗暴な動作をすれば袖がまくれ上がって前科者であることを人に知られてしまう。新三も、普段はおとなしく廻りの髪結いとして、調髪に必要な小道具を収めた道具箱をさげて得意先を廻って歩く床屋稼業をしている。いうなら、江戸の理髪師である。

現代では、理髪業といえばみな店舗を構えているが、むかしは、新三のように床屋の出前をして歩く稼業があったのだということを、芝居好きは、この狂言によって知っている。そういう、市井の風俗に対する興味のようなことも、この種の世話狂言を見る楽しみのうちに含まれている。それは、単に物知りとしての興味というより、根底にあるのは、人が生きる姿というものへの関心であり、共感といった方が適切だろう。北京に行けばいまでも街頭に床屋が腰かけひとつの店を張っているが、あれだって、旅で珍しいものを見る面白さであると同時に、人の生きる姿への共感があればこその興趣だろう。とりわけこの芝居は、ほととぎすが鳴いたり、天秤棒をかついで魚屋が売りに来た初鰹を買って喰ったり、初夏の江戸の市井の風物が、郷愁を誘うように舞台の上に点描されている。作者の黙阿弥がこの芝居を書いたのは、江戸がもう過去の夢になった明治六年である。いうまでもなく「髪結新三」とは主人公の役名からくる通称で、本名題は『梅雨(つゆ)小袖(こそで)昔(むかし)八丈(はちじょう)』というが、この外題からは、江戸がつい昨日のことでありながらもはや永遠に帰ることがない過去となってしまったことへの、作者の、ひいてはそれを見る観客の、そこはかとない詠嘆がかすかに聞こえてくる。黙阿弥を江戸の劇詩人といったのは、はるか大正の昔の木下杢太郎だが、黙阿弥をもし詩人だとするなら、江戸の理髪師を主人公にしたこの狂言の外題ほど、詩を感じさせるタイトルはない。

新三は、得意先である材木屋の白子屋の手代の忠七という男が、店のひとり娘のお熊といい仲になっていることを知る。だがお熊には縁談が持ち上がっている。白子屋の経営が傾き、未亡人として女手で店を支えているお熊の母親にとっては、経営人として隆盛の人物を娘婿に願うのは当然のことといわねばならない。

そういう切羽詰った状況にいる忠七に、新三は駆け落ちをそそのかす。セヴィリアの理髪師のフィガロはアルマヴィーヴァ伯爵のためにロジーナとの仲をとりもつ気のいい男だが、江戸の理髪師たる新三は、気のいい男の外貌の下にもう一つの貌を持っていて、おためごかしに仲立ち役を買って出る風にもちかけて連れ出し、途中永代橋で、本性をあらわして忠七を心身ともに叩きのめす。お熊はすでに、子分の勝(かつ)奴(やっこ)に命じて、駕籠で川向こうの深川にある自分の長屋に連れ込んである。この永代橋の場が前半の見どころとなる。

それまで腰の低い、愛想のいい男と見えていた新三が、がらりと一転してならず者の本性を見せるわけだが、しかし何故この場が人気のある名場面とされているのかといえば、小粋でいなせな新三の小悪党ぶりに、痛快なエクスタシイを感じて観客が溜飲をさげるからである。前にも言った通りこの芝居の本当の外題は『梅雨小袖昔八丈』というが、このときも激しい夕立があった後、まだぽろつく雨の残っている永代橋のたもとで雨傘で忠七を打ち据え、足蹴にする。広重描く永代橋雨中図さながらの、梅雨どきの江戸の匂いが、実際の江戸など知るはずもない現代の観客にも共感される。しかし実は、それもまた、新三を演じる役者の腕と風情が生み出すものでもある。別の言い方をすれば、新三役者の個性や芸風が、この場に至ってくっきりと現われる。

演じ方としては、大正から昭和にかけて六代目菊五郎が完成した同じやり方に従いながら、二代目松緑と十七代目勘三郎とでは、愛想のいい髪結い職人の下に隠していた無宿者の本性が違っていた。松緑のはすっきりと男っぽい、あくまでも江戸前の職人だったが、十七代勘三郎のは、同じ江戸の職人でも、暗く屈折した、得体の知れない過去を持つ男の影がどんよりと現われていた。さて十八代目の新三は、争われない父の影を引きながらも、陰から陽へとのし上がろうとする者の気負いが印象的である。その代わり、父の屈折した翳りはない。あったとしても、ずっと淡い。

しかし、この新三という役のひと筋縄でいかない役である所以は、その後にある。

新三にまんまとはめられたと知って、大川(と昔の江戸人は隅田川のこのあたりの流域のことを呼んだ)に身を投げようとする忠七を、弥太五郎源七という男が救う。弥太五郎という名と源七という名と、二つ名前を持っているのでこの通称で通っているのだが、二つ名があるというのは、つまり堅気ではない証拠で、この界隈ではかなり幅の利く地回りの、他人からは親分と呼ばれている男である。

この弥太五郎源七が白子屋から事情を聞いて、示談の調停役を引き受ける。新三に掛け合ってお熊を取り返そうというのだが、新三に渡す示談金は十両でいいという。十両という金額が現代なら幾らになるかという考証よりも、俺が口を利けば十両で話がつくと新三を軽く見ている、この親分と世間から奉られている男のうぬぼれから来る脇の甘さが、やり取りの中でおのずからわかるように、作者は書いている。自分ではまだ壮年のつもりだが、大人の分別というものを、このやくざ者は有難がる齢になっている。この辺の書き方に、黙阿弥の人間観察が練達の筆に鮮やかに浮かび上がる。

大人の分別を知る源七は、自分から見れば青二才の新三を相手に大人げなく切った張ったをする気はない。貫録で新三を恐れ入らせるつもりである。だが新三は、廻りの髪結いで終わるつもりはなく、ばくち打ちとしていっぱしのところへのし上がる気でいる。そのためには目の上の瘤である源七の鼻を明かし、世間をアッと言わせるのが一番効果があるのを知っている。すでにひと晩、お熊の体をなぐさんだ上、縛り上げて押入れに監禁してあるが、示談金の額もさることながら、本当の狙いはそこにある。

自分が新三の標的にされているとも知らない源七は、親分風を吹かして大きく出るが、意外にも強腰で応対した新三から、十両の示談金を叩き返されても喧嘩ができない。あと先をつい見てしまう分別が邪魔をするからである。牙を剥かない老ライオンはもうこわくない。新三の嘲弄を浴びながら、指をくわえてすごすごと帰る破目になる。貫禄や名声よりも、実力と威勢の上で、新三が勝ったのだ。

十八代目勘三郎の新三が、私がこれまでに見た誰の新三よりも新三らしいと思うのは、弥太五郎源七をへこませる前後のこのあたりである。若さゆえの気負い、向こう見ず、生意気、得意、気障(きざ)、それらをひっくるめての男の色気・・・。はじめて新三を演じたときの、当時の勘九郎の若さに、私は衝撃を受けた。その時点で、三十歳の若い新三役者というものは、それまで見たことがなかったからでもある。

新三はこのあと、最前朝湯から帰りしなに、天秤棒をかついで売りに来た棒手振(ぼてふ)りの魚屋から、廻りの髪結いには不相応の大金を惜しげもなくはたいて買った初鰹を、勝奴に刺身に作らせて一杯やりはじめる。ばくちで儲けた金があればこそ出来る贅沢である。

もしこの文章を、実際の舞台を見たことのない読者が読んだら、新三という人物をどういう風に思い描くだろうか。鼻持ちならない、ギトギトした若者を想像するだろうか。そういう若者なら、現代の新宿でも渋谷でも、盛り場を少し歩けばぶつかるはずだ。

もちろん勘三郎は、そういう生なかたちで新三を演じるわけではない。のちにも述べるように、勘三郎にとって『髪結新三』という狂言は、父を越えて、祖父六代目菊五郎が今日の演出を完成したものであり、その意味からも、おろそかには勤められない大切な狂言である。型だからというより、祖父から父へと伝えた舞台への共感の中にいるからだ。

その意味では、六代目菊五郎から受け継いだ父の十七代目勘三郎や、二代目松緑等の演じてきた新三と、型の記録として文字に留めるなら、することに別に違いはない。それにもかかわらず、勘三郎の演じる新三のこのくだりを見ると、私は、新三という男の、気障で嫌みの半面にある愛嬌とか男としての魅力とかいったものを、誰の新三よりもヴィヴィッドに感じるのだ。

ひとつには、それは勘三郎自身の若さから来るものでもあったろう。父の十七代目も二代目松緑も、私が見はじめた頃にはすでに赫々たる大家だったから、どんなに巧妙に小悪党ぶりを演じていても、舞台の造形としては堂々たる役者ぶりだった。歌舞伎というのは、そういうものだと思って見ていたのである。

勘三郎が初役で新三を演じたのは昭和六十三年四月、三十一歳のときである。知られる通り、この月のさなかに父十七代目を失ったのだったが、そのとき演じていたのが他ならぬ新三であったということと合わせて、この時が勘三郎にとって第二の誕生のときであったともいえる。親の庇護を失ったというだけではない。新三という役によって、勘三郎は自立し、役者として独立独歩の歩みを始めたのである。ちょうど新三が、弥太五郎源七を叩くことによって、自ら道を拓いたように。(この項つづく)

随談第471回 勘三郎随想(その8)

3.「は」の章

平成中村座を実現する、ということを勘三郎みずから大勢の観衆の前で公言したのは、二〇〇〇年八月末、日本俳優協会の主催する演劇人祭が歌舞伎座で開かれたときだった。いろいろな番組のひとつとして舞台上でおこなわれた座談会の席上だったと思う。ふつうなら、後日記者会見かなにかを催して発表するところなのを、もう言ってしまいたくて我慢できないという風に見えた。その率直さがいかにも勘三郎らしくもあった。

いまでは誰でも知っていることだが、平成中村座は移動式劇場である。組立て式のプレハブ構造で、適当なスペースがあればどこにでも建てられ、畳んでしまえば倉庫に保管する。事実、第一回の公演は隅田川のほとりに建てて行ない、つぎには大阪の扇町公園に移動し、遂にはニューヨークへ運んでリンカーンセンターの前に出現させ、はじめに戻って隅田河畔で七ヵ月のロングラン公演を成功させたのが、奇しくも生涯最後の本興行の舞台となった。

いまとなっては、平成中村座を最後の舞台であったことは本望であったろうと思う他はないが、移動式劇場などという発想は、たしかに、父親たち前代の役者たちには考えも及ばないことだったろう。そこに時代の寵児としての勘三郎があるのも事実だが、その発想自体が時代の風を捉えていたのは、ひとつには勘三郎自身の感性の感度のよさであり、もうひとつには、時代の方からこちらに風向きを変えてきたという、巡り合わせの幸運でもあったろう。もう十年、二十年早く勘三郎が生まれていたら、仮に発想はあったとしても、実現は不可能であったかもしれない。

勘三郎自身がいろいろな機会に語っているのでよく知られているように、発想の原点は、まだ十代のころに見た、唐十郎らのテント劇場にあった。一九七〇年代にもっとも盛り上がった新しい演劇の動きは、直接的には在来の新劇が自己充足に陥っていたことへのプロテストだったと私は考えているが、しかしそこから始まった流れは、当事者たちがそこまで考えていたかどうかとは別に、思いがけないところにまで波及していった。

そういえばその頃、雀右衛門がつかこうへいの芝居を見に行ってショックを受けた、と語っていたのを思い出す。雀右衛門は特別だとしても、何かただならぬものをそこに感じ取ったからこそ、どんなものか覗いてみる興味をそそられたのに違いない。七〇年代こそ時代の潮目だったという考え方がある。そうだとすれば、勘三郎の今日の活動の淵源もそこにあることになる。

勘三郎がテント劇場に触発されたのは、きわめて単純明快な理由である。演じる者と見る者とがひとつの空間を共有する、そのことが生み出す熱気と活気に、勘三郎は歌舞伎の根源を感じ取った。これが歌舞伎だと思った、と勘三郎は言う。

そのことを話すと、父の十七代目が、アカの芝居なんか見るなと言ったというのは、むしろちょっといい話と考えるべきだろう。十七代目の生きた芝居の世界には、唐十郎もつかこうへいも存在しない。古い役者気質の無知や認識不足を指摘するより、こうした無邪気な無知にこそ、十七代目という明治四十二年生まれの役者の面目が躍如としていることに目を向けるべきだろう。十八代目より三十数歳も年長だが常に精神の若さを失わない雀右衛門が、常に意識的であったのと対照的ともいえる。

明治生まれの役者だから無知なのではない。明治といっても十七代目の生まれた四十年代はすでに二〇世紀であって、十七代目といえども近代人である。それにもかかわらず、テント劇場と聞いてアカの芝居と考えるような無邪気な時代錯誤の中に、十七代目という役者の本質があった。そうして、そういう無邪気さは、じつは十八代目の中にも受けつがれていて、その矛盾にこそ、父子二代を貫く勘三郎の芸の根源がある。

いうまでもないが、この場合、「無知」というのはもちろん悪口ではなく、無教養の意味でもない。どんな場合にも、割り切れてしまわない何か。計算や理屈で片づかない何か、といおうか。「知」だけで終わらない何か。

愛嬌と色気、それに才気と稚気。

十七代目との比較論はあとでゆっくりやることにして、いま差し当って、この父と子に重なり合う最も根本のものをいうなら、この四つの言葉に集約されるだろう。

はじめのふたつは今は措こう。才気というと、とかく理詰めで割り切れるものを指して言いがちだが、十七代、十八代ともに、その才気のあらわれ方はそうしたものとは違う。もちろん時代の差はあって、十八代目はテント劇場をアカの芝居などと言ったりはしないが、唐十郎を見てこれが歌舞伎だと直感する、その感性の中では、言葉でそう表現しただけではないさまざまなものまで、同時につかんでいる。

十七代目は、戦後歌舞伎を背負って立った同時代のビッグたちの中で、誰よりも、観客と近い距離にいる役者だった。観客を気にする役者だったと言い換えても、ほぼ同じ意味になる。いま目の前にいる観客の心を掴むか掴み損なうか、極論すれば、その虚と実の皮膜の間に、十七代目の芸の命はかかっていた。型の定まった古典を演じていても、そのことに変わりはない。おのずから、その芸はヴィヴィッドになる、いや、ならざるを得ない。愛嬌も色気も、そうした、はらはらするような観客との関係の中で磨かれる。十七代目の才気というのは、そういう意味である。

そういう芸は、悪くすると、人の気を取る芸として嫌われる。時として、古典の格を崩すことにもつながりかねない。事実、十七代目には時にその弊が感じられないでもなかった。芝居を投げるという評につながる一面でもある。

だが同時に、同時代の大家たちの中で、十七代目勘三郎ほど、生動感を感じさせる役者はなかった。法界坊にせよ髪結新三にせよ、その魅力は、芝居自体の面白さの中で、法界坊なり新三なりが、十七代目という役者の身体を纏って立ち現われる生動感にあった。

>十七代目は観客を笑わせたりすることもうまかったが、その面白さの本当の理由は、いまそこにその人物が生きて動いているという、生動感が呼び起こす共感にあった。いわば、十七代目と観客は共犯関係になる。共犯関係がうまく成立したときこそが、おそらく十七代目の法悦であったろう。「稚気」といったのはそこである。そこから生まれる親密な感覚こそが、十七代目勘三郎にあってほかの大家たちにないものだった。歌舞伎じゃないみたい、とは十七代目の舞台を見た初心の客が洩らす驚きだった。

歌舞伎じゃないみたい? だが一方からいうなら、同時代の大家たちの中で、十七代目勘三郎ほど、濃厚な歌舞伎味を感じさせる役者もなかった。古い役者の体質を、誰よりも濃厚に感じさせたのも、十七代目だった。戦後ひところ、どころか昭和四十年過ぎまで、マスコミは歌舞伎を「カブキ」と片仮名表記をしていたし、「役者」という言い方を当の「俳優」たちの前でするのをはばかるような雰囲気もあった。口上でも、後輩を引き立てる先輩の役者が「どうかひとかどの俳優となられますよう」御指導ご鞭撻をお願い申し上げますというのが普通で、「ひとかどの役者」とは言わなかったように記憶する。そういう時代だったのだ。
その中で、十七代目勘三郎は、俳優という言葉よりも役者という表現でないと収まりきらない何ものかを最も多く持っている存在だった。その理由、その根拠を突き詰めるなら、「稚気」というところに行き着く。

「役者子供」という言葉がある。「役者馬鹿」という言葉もある。ひとつ間違えれば、どちらも、差別語になりかねない言葉である。だがこの言葉を、そうしたマイナスイメージだけでしか受けとめられないなら、この表現をもってしか言い尽くせない豊かなものを失うことになる。十七代目が、同時代に歌舞伎を背負っていた立者たちの中で、こうした言葉に誰よりも似つかわしい存在であったことは、多分誰も異論がないだろう。

十八代目もまた、その点で父と資質をまったくひとつにしている。テント劇場の役者と観客の一体感を歌舞伎の本質と直感したのは、たぶん、ではなく、間違いなく、その点に誰よりも敏感であったからに他ならない。

反新劇としてのテント劇場に、歌舞伎の根源へ遡及する意識がはじめからあったのは間違いない。はじめはアカデミズムの中で言われ出した、歌舞伎の語源が「かぶく」にあるということが現実の演劇の状況を撃つための意味を担ってしきりに言われるようになったのも、この頃である。だから、テント劇場に歌舞伎を見るということ自体は、別にめずらしい発見ではない。

だがそのことと、実際に「歌舞伎のテント劇場」を作ろうと考えるということの間には、常識では掛け渡すことのできない距離がある。それはほとんど無謀に近い。普通の意味の「才気」の持主なら、そんなことは考えもしない。だが十八代目の才気とは、一旦こうと思ったら矢も楯もたまらないという「稚気」に裏打ちされている。そこが、十七代目とも共通する。

ともあれ十八代目は、その二十歳のときにテント劇場で抱いた思いを胸のうちにたぎらせつつ、ざっと三十年の時を待った。もちろん空しく時を過ごしたのではない。それを実行に移すまでにそれだけの歳月が必要だった、ということである。同時に考えるべきは、その思いを三十年間、守り続けた持続力だろう。「稚気」だけでは、三十年もの持続力は生まれない。

中村勘九郎の名は、その間に歌舞伎俳優として最も世間に知られた名前のひとつになった。勘九郎の名を高めてゆく過程は、とりも直さず、その思いの実現へ向けての足場を築く過程であったともいえる。二十歳であった勘九郎は、五十歳を迎えようとしていた。十八代目襲名は、こうしたタイミングのなかで行なわれたのだった。