随談第467回 いよいよ

いよいよ歌舞伎座が開場である。新しい劇場のオープンというのは少しも珍しいことではない時代だが、そういうものとはまるで比較にならない、というより、質の違うことのようである。別格的に大きな劇場の誕生というなら、国立劇場がそうだったし、その前に日生劇場があった。国立より一カ月先に帝劇が全く面目を変えて開場したのも見たし、改築新装オープンなら新橋演舞場や明治座の新開場も見た。こうして数えてみれば、結構多くの大劇場の開場を見てきたことになる。(改めてちょっとびっくりするほどだ。)しかし今度の歌舞伎座の場合は、それらのとはちょっと別次元のことのような気持になっている。

それだけ、歌舞伎座というものが、私の中で特別のものになっていたのだとしか言いようがない。いま稀有なことに立ち会っているのだ、という感覚は、国立劇場のときにもあったが、何と言ってもあのころは、まだ駆け出しの一介の見物でしかなかったから、どこか遠い話でもあった。60年前の四代目のときは、まだ視野の中に入らない子供だった。その、六〇年に一度のこと、という思いがそうさせるのか。

25日の報道関係者のための内覧会にも仲間入りさせてもらい、27日の開場式と28日の顔寄せ手打ち式にも出席したから、初日を前に、既に三回、中に足を踏み入れることができた。地下の広場(木挽町広場と呼ぶのだそうだ)はすでに3月初めに公開されたが、そこに足を踏み入れるのだって、予行演習さながらの昂揚があった。場外でありながら、歌舞伎座の一部であるという感じを味わうことが出来るという点、なかなか味なアイデアといえる。内覧会では、正規に開場してしまったらもう普通には見ることのできない、奈落だとか、楽屋その他、つまり幕内まで見せてもらった。もっとも楽屋の使い勝手のようなことは、実際に芝居が始まって、役者たちの日常がそこで営まれるようになってから、ああだこうだと言われ出すことに違いない。その意味で、われわれ見物にとっては、何と言っても劇場そのものであり、ロビーであり、が最大の関心事ということになる。

座席の幅が3センチ広くなっただの、前の席との間隔が6センチ広くなった(実際には、飛行機の座席の方式を取り入れたので、足元はプラス7センチの計13センチ広くなった計算なのだそうだ)といった情報は、既にいろいろなところでなされており、観客の側の使い勝手は、初日が開いてから、いろいろなところ、さまざまな形で言われ出すに違いない。三階席だけでなく、一幕見の席からも花道のスッポンが見えるようになった、ということはそれだけ、特に三階席が急勾配になったということで、一番てっぺんの席にも座ってみたが、昔の三階席のパノラマとはちょっと感じが違うような気がしないでもない。東側と西側の席が一列だけになったので、かつて私が、前売り開始日に並んでまで確保したりしたこともあった「三階東側Bの19ないし20」という席は、新しい歌舞伎座にはもはや存在しない。

そうした感傷に浸るなら、一幕見の席とロビーが立派になって、かつての、一種差別的ですらあったぼろっちさが微塵もなくなったことなどは、もちろん、もろ手を挙げて賛意を表すべきことには違いないが、つい、昔の話をイマドキノ若イモンに向かって始めたくなる向きもあるに違いない。エレベーターもついたから、あの階段を駆け上がる「愉楽」も味わうことはできなくなった。もちろん、階段を歩いて上ったっていいのだが、エレベーターがついてしまった以上、健康のための「善行」ではあり得ても、かつてのあの「被虐味」はもはや存在し得ない。もしかすると、一幕見席の「改善」は、現代の歌舞伎愛好者にもかすかに残っていた、昔の「悪所」の、とまではいわないが、五体満足な「いい若い者」や「いい歳をした男」が昼日中から歌舞伎などを見ていることへの「罪悪感」を覚えるよすがを、完全に払しょくすることになるかも知れない。

閑話休題。開業式が始まって、田中伝左衛門師による大太鼓の打ち初めにつづいて、幸四郎の翁、梅玉の千歳、菊五郎の三番叟という顔ぶれで『寿式三番叟』が始まると、音響の良さにまず感心する。設計者の最も苦心のあったところとも聞くが、席にもよるのかもしれないが、(私の席は、二階の下手寄りの最前列という、長唄囃子連中とはちょうど対角線上に位置していたから好条件であったには違いない)、これなら、もし歌右衛門が甦ってあのくねくねしたセリフを言っても、きっとよく聞き取れるに違いない。天井、左右の壁面、すべて前の通りである。座席の色合いも同じだが、強いて言えば、先に言ったように背もたれの具合が変った分、上から見下ろしたところ、景観にもちょっぴり変化が感じられないでもないし、一番違ったのは二階三階の東西の席の並び方だろうが、まずは昔通りという範囲内に納まっている。

むしろ、やや戸惑うのはロビーに出てからだろう。東側西側双方にエスカレーターがついたり、食堂や売店の位置や並び方が変ったり(三階のおでん食堂がない!)、何よりトイレットの在り処が変ったり、ベンチが背もたれのない式のになったり、といったことどもが、随所に、いろいろある。まあこれも、常識に従うなら、改善に伴う当然の変化という範囲内のことであろう。

顔寄せ式の折に紹介された、新しい歌舞伎座のできるまでを記録した『時の継承』という映像は素晴らしいものだった。記録映画として、見事な作品だと思う。公開して、多くの人に見てもらうようにすべきである。

さて、一日目の開場式、二日目の顔寄せ手打ち式、舞台全面にずらりと、紋付袴に威儀を正した役者たちが居並ぶ壮観は、四年前のさよなら公演第一月、三年前の最終月と同じものだが、あの時から既に、又五郎、富十郎、芝翫、雀右衛門、さらに勘三郎、團十郎の六人がいなくなっていることが、こうしてみると改めて胸に刺さる。三年という月日が、いかに長い時間であったことか。(三階のロビーの、以前と同じ場所の壁面に「物故名優の肖像写真」がもう飾ってある。そこに、もうこの六人も並んでいる!)あの時は、又五郎と雀右衛門は椅子に掛けていたが、あとの四人は三年後にまさかその姿がないなど、思ってもみなかったのだ。團十郎や勘三郎だけではない。富十郎は少しの老いすら見せていなかったし、芝翫は俳優協会会長として挨拶をして、三年後と言うべきところを何だかちょいとミスったりして、ご愛嬌を演じたりしたのだったっけ。往時茫々とはこのことである。

一日目には姿のなかった猿翁が、二日目の手打ち式には、ひとり、椅子に座っていた。思えばもう、姿を見なくなって十余年になる澤村藤十郎が、端然と座っている。なで肩の、いかにも女形らしい美しい姿だ。この人が元気だったら、とあらためて思わずにいられない。いちばん上手の端に田之助がいる。思えば、六十年前の前の歌舞伎座の開場の時、すでに舞台を踏んでいた人は、この中にどれだけいるのだろう。中には、この六十年の間に、舞台人生がそっくり納まってしまった人だって、少なくない筈だ。いかに日本人の平均寿命が長くなったとはいえ、六十年という歳月は短くない。

こうして、新しい歌舞伎座はすでに命が吹き込まれた。先代の勘三郎が、国立劇場の開場の折だったか、来賓たちの祝辞が、みなどの人のも、この真新しい舞台で云々と続く中で、よごれろよごれろ、と呟いていたとか聞いたことがある。そう、舞台は役者たちの足で踏まれ、よごれて、それが艶となって照り返ってこそ、価値を増すのだ。艶とは、いうなれば手垢のことだとは、『陰影礼賛』における谷崎純一郎の言である。

一日目の開場式の日はあいにくの氷雨で、折り畳みの傘だのコートだの、両手にあまるほど嵩張ったので、ついでに地下のコインロッカーの使い初めの意味合いも兼ねて、嵩張る物をロッカーに片づけて、さて式が終わって帰りがけ、ロッカーの前で鍵を回していると、係の女性から「お帽子をお忘れではいらっしゃいませんか」と声を掛けられた。アッと気が付いた。初めにロッカーを使ったときに、帽子を脱いでロッカーの上に乗せ、そのままうっかり忘れていたのだ。係の女性は、後でそれを知り、持ち主が帰りにロッカーを開けに来るのを待っていてくれたに違いない。その気遣いといい、応対のさりげなさといい、処理の仕方といい、見事なものだった。お蔭で助かった。しかも快く。上司の人で、もしこの文章が目に留まることがあったなら、そっと覚えておいてあげてください。

事始めにこんなささやかな失敗をするのも、こうして見事にカバーしてもらえたなら、きっと縁起がいいのではないかしらん。

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著者謹白。このブログを始めたのは2005年の4月でしたから、この4月朔日で、満8年ということなります。全くの偶然ながら、奇しくも八周年目を迎える前日の3月31日で、アクセス数が40万を数えることになりました。こういう数字をどう受け止めればよいのか、いつも考えるところですが、何かを語るものであることも確かでしょう。

たしか、はじめの1万に到達するのに十カ月かかったと覚えています。最近の10万はちょうど一年半でした。アクセス数が多ければ、悪い気はしないのは事実です。しかし、どういう内容の記事を書けばどういう数字が返ってくるかは、いまだに読み切れないところがあります。まあ、それが救いなのかもしれませんが。

ともあれ、お読みくださる方々に感謝いたします。これからもご愛読いただければ幸いです。

随談第466回 今月のあ・ら・かると(増補修正版)

歌舞伎座開場直前のこの月、東京だけで4劇場で歌舞伎があるというのは、歌舞伎隆盛の印なのかどうかわからないが、どれも実のある舞台であったのは幸いだった。新聞の劇評も当初は新橋演舞場と赤坂ACTシアターだけの予定だったのを、国立劇場を見て急遽、載せるようにしてもらえた。

ルテアトル銀座も、ということにならなかったのは紙面に限りがあるから以外に理由はない。『夏祭浪花鑑』と『高杯』という演目が、他に比較すると新味に欠けるうらみもあったが、しかしこの二つの演目は勘三郎追悼の意を籠めていたのだという、わざわざひと幕設けての海老蔵の「口上」はちょいと泣かせるだけのものがあった。新しい歌舞伎座のこけら落しで6月に團十郎がする予定だったのを父に代わってつとめる『助六』に、実は大いに期待している。これこそが、次代の歌舞伎を占うまさしく試金石、ここで目の覚めるような快打を一番、是非放ってほしい。

四座を通じての見ものは菊之助の『妹背山御殿』のお三輪だが、松緑の健闘もあったし、これがこけら落し直前のプレ・オリンピックの金メダル。他の三座は相撲の三賞でいうと、福助レベル、松也レベル、新悟・隼人・児太郎レベルそれぞれによくやった国立劇場組が殊勲賞、父の遺産をハイレベルの技術でよく受け継ぎ、自分たちの自立第一歩とした勘九郎・七之助兄弟のACTシアターが技能賞、父亡き後を急遽、座頭芝居で乗り切ったルテアトル銀座が敢闘賞、というところ、かな?

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新国立劇場の『長い墓標の列』がなかなかよかった。こういうものこそ新国立ならでは出来ない、出来たとしても世に広くアピールすることはむずかしい、好企画というべきである。もしかすると、新国立創立以来のベスト幾つかに数えて然るべきかもしれない。

モデルになっている河合栄治郎は例の『学生に與ふ』を昔、読んだことがある。現代教養文庫という、いかにも戦後民主主義が純真に信じられていた時代ならではの、往時若かった人ならだれでも、思い出せば歯の根が疼くような、懐かしさを感じる叢書の一冊だった。いかにも「古典的」という印象だったが、今度改めて、河合がこれを書いたのは、『長い墓標の列』に書かれている昭和一四年の事態と深く関わっており、かつて私が現代教養文庫の一冊として大学の生協の書籍部の棚で見つけて買ったのも、その少し前にぶどうの会でこの作を上演したのが評判をかちえたというようなタイミングの中でのことであったことに思い至って、なにやら(極めて個人的な)感慨に耽ったりもすることになった。

パンフの解説を読むと、当時すでに、ギリシャ劇になぞらえられたりしていたようだが、ギリシャ劇はともかく、河合を反映した主人公の山名ばかりを英雄的にクローズアップせず、その半措定として城崎と花里という教え子二人二様の人物をこしらえた巧さが、この作を今日見ても少しも古びて見えなくしている理由だろう。とくに花里が、師である山名を裏切る形になって帰ってゆくのを、母親(つまり山名の妻である)が強く勧めて娘の弘子が追ってゆくが、次の場になるとふたりが結ばれていないことが分り、最後の場で、父と決別して、ほっと重荷から解放されたような花里さんの様子を見たら、それ以上、追う気持が失せたと弘子に言わせるのが、実に巧い。(こういうところは師匠の木下順二より手練れなのではないかしらん。)

福田善之という人は、(一昨年だったか獅童がやった『一心太助』もそうだが)先代中村錦之助の芝居の脚本なども手掛けたり、なかなか食えない手練れの作者であることが、こうしてみると改めて知れる。(パンフの12ページに、中むら格子の浴衣を着た役者の胸から膝下までの写真が載っているが、あれはだれだろう。ひょっとして勘三郎か?)

これを見た週は、連日、昼は歌舞伎を見、夜は夜で、シアタークリエだ日生だと、(どれも悪くなかったが)九時過ぎまでかかる長い芝居を見た挙句で、その中でも、最長にして最重量の芝居だったにもかかわらず、居眠りひとつせずに引きつけられて見た。

こういう芝居は、名優の名演技は、往々、却って邪魔になる。もちろん拙くては困るが、実力のある俳優が素直に、真摯に、取り組んでくれるのが一番いい。その意味で、今回の出演者諸氏はなかなかよくやっていた。山名役の村田雄浩は、身体についている一種のおかしみが、この人物の一種の過激さを表わす上で、この人物を神のごとき人物にしてしまわない上で、なかなか有効だった。そのことがあって、この戯曲の二重性が陰影をもって浮かび上がるからである。

くり返し言う。これは新国立創立以来、ベスト幾つかに入る好企画である。

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WBCの各戦、洩れなくというわけにはいかなかったが、見られた限りの試合はみんな見た。何となく、冴え返らない空模様を眺めるような気分だった。結局、井端と鳥谷という、渋い脇役の名手が最大の功労者であったというところに、今回の戦績が象徴されている。それにしても、プエルトリコはいいチームだった。こういうチームのことを、データの収集と分析、などというレベルのことだけではなく、もっと、生きた人間の集団として、日本はどれだけ認識していただろう?

戦術・戦略について利いた風なことは言うまいが、ただひとつ、素人の最も素朴な疑問として、例の井端と内川のダブルスチールのサインのことだが、行けると思ったら行け、という、極めて「個人」の判断に関わることを、二人が同時にしなければならないプレーにどうして出すのだろう? 現に、ひとりは突進し、ひとりは自重した。ひとりは熱情型、ひとりは冷静沈着。一人は行けると思ったが、ひとりは行けないと思ったわけだ。当然、あり得べきことではないだろうか? それともうひとつ、あのプレーの前に、コーチが二塁の井端の処へ行って肩を抱くようにして何ごとかを伝え、一塁の内川には何もしなかったのは、何故だろう? 事情通にはそんなことは当り前なのかもしれないが、素人であるこちらはオヤと思った。思ったと思ったら、あれよあれよという間にああいうことになった。野球に限ったことではないが、玄人の常識はときに素人の素朴な疑問に応えてくれないことがある。これだって、現にああいうことになったではないか、と言いたくなる気持を私は抑えがたい。

しかしまあ、随分良くなったと思うのは、頭から野球後進国のチームをなめてかかるような言説が、報道人にもコーチその他の専門家の間で、あまり聞かれなくなったことだ。シドニーのオリンピックの時だったか。相手国がどこだったか、日本のM選手が先制のホームランを打った。すると解説者が、今日この試合を見た現地の人の中には、10年後、お父さんはあの日本のM選手のホームランを見たんだぞ、とお子さんに自慢する人もあるでしょうね、と言った。一見ほほえましそうなこの言葉の中に、どれだけの言われなき優越感と先進国意識が隠されていることだろう。(因みにM選手は、その後、弱小後進国の投手を打てず、たしか大会を通じて、そのホームラン一本だけで終わったのではなかったろうか。)

次のアテネ大会の時、某投手と某捕手の投球を見ながら放送の解説を引き受けていた高名な某監督は、この二人ぐらいのレベルになると、ボールを投げながら対話を楽しんでいる感じだね、などと言っているうちに、相手の後進国の打者たちに打ちこまれて某投手はノックアウトされてしまった。その他その他、この種の言説を、野球専門家の口からこれまでどれだけ聞いただろう。その意味では、今度なまじ「三連覇」などしなかったのは、悪いことばかりではなかったかもしれない。

もっともその半面、やっぱりメジャーに行っている選手が出なかったから勝てなかったんだ、と利いた風な声が高まることも目に見えているようだ。しかしメジャーに在籍する選手がうじゃうじゃいる中南米の国々では、自国のリーグはどうなっているのだろう? それが知りたい。少なくとも、選手もファンも、メジャーリーグというものを、少年のような純真さで、夢見るように見ている国は、日本だけではないだろうか?

随談第465回 勘三郎随想(その6)

勘三郎の死から、気がついてみると、もう三カ月も経っていることに愕然とする。この時間感覚のぶれの一大原因が、團十郎の死というものがその間にあったが故であることは分かっていても、現実にもうそれだけの日数が経ってしまっているという事実は、動かしようがない。そのときにはどんなに信じ難く思い、神経が剥き出しになったように心の壁がざらついたとしても、時が経てば、平気で喜んだり笑ったりし、その瞬間には故人のことを忘れていた自分に気がついてハッとする。それが生きているということであり、だから、生きて行く限り、人は、いや私たちは、死んでいった者とは別の時間と空間に在るのだということを、思い知らざるを得なくなる。

勘三郎との、個人としての関わりから、この随想を書き始めたのだった。ふとした、トラブルといえば、まあトラブルがきっかけになって交わりが始まったわけだが、形としては、勘三郎の方から私に関心を寄せて働きかけてきたということになる。それが一層、深まるようになったのも、やはり勘三郎の方からだった。歌舞伎座で、「北条源氏」の『末摘花』を勘三郎がやった時だから、二〇〇一年の十二月ということになる。一度、ゆっくり話をしたいから、という伝言が届いた。

赤坂のTBSの近くの、小体(こてい)な店だった。その日私は新橋演舞場の芝居を夜の部まで見る予定だったから、九時近くの終演後に駈け付けることになる。勘三郎の方も、夜の部の役が終わってからだが、ひと足先になる。渡されたアクセスの地図を頼りに到着すると、何と、勘三郎が店先まで出て待っていた。比較的暖かな晩だったとはいえ、十二月も半ばである。勘三郎にしてみれば当り前のことだったのかもしれないが、心に留まるのはその気さくさが、ごく自然であることである。

奥の小部屋が空くまでちょっと時間があるので、それまでは入れ込みの席で、ということになり小酌を始める。照明は程よく落としてあるから回りを気にする必要はないが、声は聞こえるから、それと察しているらしい気配はある。しかしそうしたことにはまったく頓着なく、会話はごく自然に運ぶ。当り前のようでいて、じつは、こういう自然さはやはり誰にでも出来ることではない。敢えて言うなら、まっとうな、citizenshipというほどの意味で市民意識がごく自然に身についていなければ、こうはいかない。そのことを、ことさらに感服したなどと言ったらかえって不自然になる。有名人だからということを抜きにしたら、まったく一介の客としてごく自然に、全体の中に溶け込んでいる。

このときのことを、それから間もない頃、二、三の女性の友人に話をしたとき、もしこれが、團十郎が店の外まで出て待っていてくれたとしたら、というと、コワーイ、と女性たちが口を揃えて言ったので大笑いになったことがある。もちろんそれは、團十郎への好感と敬意に裏打ちされてのことであって、そこにいささかの隔意も批判もありはしない。むしろちょっと大袈裟に言えば、勘三郎・團十郎比較論の序章とも言い得る性質のことだった。團十郎が、もし普通人が行き交う街頭に立てば、たちまちそこにひとつの「偉」なるものが存在する空間が出来上がるだろう。カメラに撮れば、ピントのぼやけた群衆のなかにひとり團十郎だけが、フォーカスされた姿で映し出されるであろう。だが勘三郎が同じ場に立ったとすれば、ごく自然に、群衆の一人として写真に納まるに違いない。つまり、團十郎はやはり時代物役者で、勘三郎は世話物役者だということでもある。

こののち、勘三郎の破天荒な活動は振幅の度をますます増大し、その様子はメディアを通じて喧伝されることになるが、しかしこの時点でも、すでにその夏、野田秀樹と組んだ『研辰の討たれ』を歌舞伎座の舞台に乗せ、つい前月には、前年に平成中村座の立ち上げを実現した余勢を駆るかのように、『千本桜』の三役を中村座の空間で演じてのけるということを果たしている。もしかしたら、勘三郎がそういうタイミングで声を掛けてきたのには、勘三郎としてひとつの考えがあったのかもしれない。しかしそうしたことに関わるような話題は、もし十八代目襲名ということになったら披露演目の中に『野田版・研辰の討たれ』を出そうと思うんだ、と言ったことぐらいだったか。それも、別に意見を求めようという感じではなかったから、私もただ、フンフンと聞いていただけだった。『千本桜』についてなら、前月に国立劇場で團十郎がやはり三役を演じたのと競演になったところだったから、それについての批評を求めていたのかもしれない。うん、團十郎さんはやはり立派だと思うよと言ったとき、一瞬、目に動くものがあったが、しかしそれだけで、後は頷いて聴いていた。

待ち合わせが九時という時刻であった割には、かなりゆっくりと話をしたという記憶がある。勘三郎さんのお客さんで、長い時間、こんなに真剣に芝居の話ばっかりしている人は初めてだと、店の主人が感心してだか呆れてだか言っていたのも思い出す。

こうした時間を、それからも時々、持つようになった。さほど頻繁というわけではない。とくに十八代目を襲名してからは、その身辺は、それまでとは比較にならないくらい多忙になった気配があり、だから回数にすれば、それほど何度もというわけではない。必要があって他の者が同席したり、好江夫人も一緒だったりということはあるが、それ以外は常に二人だけだったのは、勘三郎の方が、私をそういう相手と考えていたからだろう。私も、そういうつもりで相手になっていた。ただひたすら、忌憚なく芝居の話をする。それだけである。何か具体的な相談事を持ちかけられたり、といったことも皆無である。そういう相手は、おそらく他にあったのだろうし、たぶん、大概のことは自分ひとりで決めていたのではないかという気がする。そういうこととは別の話相手として、もし自惚れでなければ、私は求められていたのであったろう。

かなり思い切ったことも言った。しかしそれは、思ったことを遠慮なく言う、というだけのことであって、ブレーンとして建言をしたり忠告や助言をしたり求められたり、というのとは違う。こちらの言ったことに対して、いやそれは違う、というようなことは当然あるが、不機嫌になったり怒ったりということも、一切なかった。こうした形で会う最後になってしまったのは、まだ病の気配など鵜の毛で突くほどもなかった二〇一〇年の六月、コクーン歌舞伎で『佐倉義民伝』をやっていた時である。

ねえ、気が付いた?と席に着くなり言ったのは、ついその四月に歌舞伎座さよなら公演が終わり、楽日の翌日に顔寄せの手締め式があって、何番かの演目の中心が大幹部総出で素踊りで踊ったご祝儀の舞踊で、途中何回となく、入れ替わり立ち替わりしながら、相手が変って遣り取りがあり、上下になって極まったりする振りがある、その中で吉右衛門とからむ件りが幾度となくあって、ホオと思いながら見ていたのだった。ウン、すぐわかった、というと、お蔭さまでああいうことになったんだ、と言う。ご存じの向きも少なくないと思うから書くのだが、それまでかなりしばらくの間、中村屋・播磨屋の共演というものが見られない時期が続いていた。それが、さよなら公演の最後になって、めでたく和議成立ということなのだった。それはめでたい、何よりこちらは大いに楽しみが増えることになる、というとちょっと照れたように笑顔を見せた。

いまさらそんなことをここには書くまいが、不仲になった真の原因はわからないなりに、幾度か忠告めいたことを言ったことはあった。がその都度、いいんだよ、もう、と聞く耳を持とうとはしなかった。それぞれに理由があることなのだろうし、勘三郎には勘三郎なりの言い分があって、そのいくつかは聞かせくれたこともあった。なるほど、とも思いながら、吉右衛門には吉右衛門の理由があるのだろうとも思われた。役者同士の喧嘩はあまり真に受けない方がいいですよ、いつの間にか仲直りしていたりしますからね、と昔、かつての『演劇界』の編集長の利倉幸一さんが教えてくれたのを思い出したりしながら、私は聞いていた。それがこうして和議が成立して、それがああいう振付としてさりげないお披露目となったというわけだった。いいんだよ、もう、と言いながら、勘三郎としても気にしていたというわけだった。そういうときの勘三郎は、何とも「いい奴」なのだった。

倒れたのはその秋も暮れである。ようやく回復の緒について、翌11年の九月に、大阪の新歌舞伎座で再起第一歩の公演があって、『お祭り』を踊った。かつて十七代目が、永いこと男の子に恵まれなかったのがようやく、五月に勘九郎が生まれてその年の秋の暮、業病に倒れて半年後、復帰したときの演目が『お祭り』だった。「待ってました」と大向こうから声が掛るのを「待っていたとはありがてえ」と受ける。いまでは、しばらく病気で休演していた役者が再起の時、お定まりのようになっている「これ」は、実は半世紀の余の昔に、十七代目が始めたことなのだ。それを、いま十八代目がやっている。他の人の場合とは場合が違う。踊りも、表面的には、どこと言って寸分、違うことはない。その日に見に行くことは知らせてあったから、事情が許すなら、という気はまったくなかったわけではなかったが、劇場に行ってみると、楽屋に戻ればもうそのまま、横になっている状態なのだと聞いた。くれぐれもよろしく、とだけ伝えて帰った。

翌10月の末に勘九郎襲名のパーティがオークラであって、その折に立ち話をしたのが最後となった。この間はせっかく見に来てくれたのにすみませんと、笑顔で握手を求めに来る顔は、元気ではあったが、どこか、何かが違っているように思ったのは気のせいだったのかどうか。11月から平成中村座のロングラン公演が始まって、仁左衛門と『沼津』をやった。いく度も務めたコンビであり、いままでにないよさがあったのも事実なら、まだ昔の勢いが戻っていないと思ったのも事実である。12月の『寺子屋』の松王丸についても同じことが言えたが、平作になら「滋味」と言えても、松王丸に同じ言葉を言ってもほめたことにならない。正直、如何なる表現をもって批評するかに困惑した。今だから言えるのだが、羽織を着た松王丸の背中が薄くそげて見えた。同じ月、勘九郎襲名を前にした勘太郎が『関の扉』を踊って、未完成なりに大きな役者ぶりを見せた。いいでしょう? 播磨屋に教わったのですよ、と石坂さんが嬉しそうに言っていた。

正月が開けて、勘三郎は今度は『対面』の十郎を演じた。お手本のようにきっちりした十郎だったが、心なしかふくらみがいま一つのように思われた。翌二月は新橋演舞場に舞台を移しての新勘九郎の襲名公演である。新しい勘九郎は『土蜘』を見事に演じて大きな飛躍を見せた。いいでしょう? 播磨屋に教わったのです、と石坂さんがこの前と同じことをさらにもっと嬉しそうに言った。勘三郎は、吉右衛門の長兵衛に権八を演じて素敵な『鈴ヶ森』を見せた。いいでしょう? 17代目と白鸚さんの舞台を見るようで身震いが出ました、と石坂さんが言った。楽日に『鈴ヶ森』の幕が閉まると、吉右衛門の方から握手を求めたそうだ、という話をのちになって聞いた。私は、良かったと思いながら、しかしいずれもっといい権八が見られるはずだ、と欲張りなことを密かに思ったりした。本葬の折の弔辞で、三津五郎がこの権八を見て、イヤ恐れ入った、と勘三郎本人に向かって言いに行ったという話を披露したのは多くの人の知るところであろう。今にして思えば、あれこそが、勘三郎が私たちへ遺してくれた置き土産だったのかもしれない。

その後、再び中村座へ戻って、打上げの月に得意の『髪結新三と』初役の『め組の喧嘩』を演じて、回復はようやく万全という姿を見せた。もう大丈夫だ、と今度は掛け値なしに思った。楽日の打ち上げの模様は、テレビで何度も流されたから知る人は多いだろう。その翌日が誕生祝で、その翌日の検診で癌が発見される。それが、元気な姿を見せた最後となって、以降のことは、いまでは誰もが知る通りである。

こうして、約十年になる勘三郎との個人としての交わりは終わった。間違いなく言えることは、その間、勘三郎が常に誠実で、正直で、嫌な思い出はひとつもなかったということである。私に何を求めていたのか。それは遂に知りようがないし、私との交友がどれだけの満足を与えることが出来たのか、それも知りようがない。また元より、私などよりはるかに深く、長い付き合いをした人も大勢あるだろう。しかし私のような立場の者と、「彼」のような立場の者が、こうした形で親交を持つことが出来たのは、私にとって得難い体験であり、忘れることがない思いでとなるであろうことは間違いない。貸しも、借りも、互いに一切ない付き合いだった。

いや、ただひとつ、借りが出来てしまった。初めに書いた、『十八代目中村勘三郎論』を書くという約束である。それに、せめても変わるものとして、この「随想」を書き始めたのだった。これからは、書き溜めてあったその草稿を読み返しながら、時に生かせるものは生かしつつ、「随想」という形で書き継いでゆこうと思う。つまり、いわばここまでが「第一章」。想を改めてまた続けます。(つづく)

随談第464回 勘三郎随想(その5)

團十郎逝去という激震の余波やら何やらで「勘三郎随想」もしばらく休載状態でしたが、そろそろ再開します。前回までの分は、左側の「ずいだん」というところをクリックすると見つかります。では・・

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その時は、へーえと思っただけでピンと来なかったが、ああ、そういうことだったのか、と後になって思い当った。

勘三郎が安藤鶴夫の名前を出したのには理由がある。安藤がいろいろなところで書いていることだが、安藤に言わせると、自分は好き嫌いがはっきりした人間で、一度嫌いだと思ったらひるがえすことはないのだが、例外が二人だけ、大嫌いだったのが大の贔屓になったのがいる。一人は文楽の人形遣いの桐竹紋十郎、もう一人が昔の中村もしほだった、それが17代目勘三郎になってから大好きな役者になった、というのだ。桐竹紋十郎は今の吉田蓑助の師匠で、華麗な女形の人形を使う名人だった。見せる芸だったから、まだ若気が勝っていた頃はそれが衒気にも嫌味にも傾くこともあって、それを安藤が嫌った、ということは、その頃を知らない私にも何となく想像がつく。そこへ17代目の若き日であるもしほを並べると、安藤の言わんとするところが、私なりに見えてくる。

17代目がまだ精悍で盛んだったころ、テレビで二人が対談する番組があって、その中で面と向かって、安藤が、あんたの若い頃、中村もしほという役者は大っ嫌いだったんだ、と言っているのを見たこともある。どうして嫌いだったかといえば、若い頃は、どうだ、俺はうめえだろうというのが鼻の下にぶらさがっていて、気障で鼻持ちならない、嫌味な役者だと思っていたからだ、という。安藤の書いたものを読むと、17代目のことをほめるようになったのは、1950年に17代目勘三郎を襲名してから以降で、大の贔屓ということを広言して憚らないようになったのは、1955年に18代目が生まれた年の暮に業病で倒れて、半年間舞台を休んで再起して間もなくの頃からのように思われる。当時の『演劇界』のグラビアに、17代目の「喜撰」の写真が載って、それにつけた随筆に、素晴らしい役者が誕生した、と書いた。つまりそのとき、アンツルは17代目に惚れたのだ。

とはいっても、いつもほめっ放しだったわけではない。国立劇場の開場式の『三番叟』で勘三郎の翁が威張っていて不愉快だった、などとも書いている。そのつもりで探せば、まだほかにもあるだろう。ダメなときにはダメとはっきり言う。

つまり、あのとき勘三郎が安藤鶴夫の名前を出したのは、そういう、父の17代目に対する安藤鶴夫のような、面と向かってでもずばずば直言するような批評家の存在を求めていた、あるいは欲しいと思っていた、ということだったのか? まあしかし、アンツルと私とでは、(批評家としての力量や貫録の差はともかくとしても)役者でいえば「仁」が違いすぎる。それを察知しての、あの言葉だったに違いない。そう気が付いたのは、何やらの後知恵よろしく、何日も経ってからのことである。そもそも私自身が、たしかに読者として愛読はしたけれど、またひそかに、独特の文体を真似したり盗んだりもさせてはもらったが、シンパシイとか親和力といったものは、安藤鶴夫という批評家にあまり感じたことがない。言っていることに共感はしても、肌合いが違いすぎる。そもそも、ちょっと強面すぎる。世代も違うから接する機会もなかったが、仮にあったとしても、気安く話しかけたりはしなかった、いや、出来なかったろう。

ともあれ、こうして勘三郎との(事実上の)初対面の一日は終わった。もっとも前にも一度会って挨拶をしたことはあって、そのことも、勘三郎ははっきり覚えていたが、その後に「ああいうこと」があって「こういうこと」になったこの日が、新たな始まりということになる。「また会いましょう。それから、また文通しましょう」と、辞去する私に手を差出しながら、勘三郎はちょっと意味ありげに、自分でも「文通」という言葉がおかしかったかのように、ニコッと笑って言った。この前歌舞伎座のロビーで番頭の石坂氏を通じて手渡された手紙が和紙の封筒と便箋に毛筆で書かれていたが、それは、一年前に私が送りつけた手紙がやはり和紙の封筒と便箋に毛筆で書いたのへ対する、勘三郎らしい「お返し」だったのか? 

やがてその夏、例の『21世紀の歌舞伎俳優たち』が出版され、版元である三月書房の当時の吉川志都子社長が出版記念会を開きましょう、すべては任せておいて、とおっしゃるままに、なんと、対象にした俳優全員(『演劇界』に載せた十二人に、現魁春の松江に時蔵、福助、橋之助の四人を書き加えて十六人になった)に発起人になってもらうという破天荒なことを発案され、それが実現してしまうというようなことがあった。富十郎、團十郎、八十助(だった、まだその時は)、時蔵、魁春といった人たちが出席してくれたが、勘三郎は,七月の末のその日が出演中の松竹座だったかの楽日だったために、祝電を送ってくれた。つまりこれで、「あのこと」はすべて終わったことになる。

ところで「文通」だが、その後、手紙のやりとりをする文字通りの「文通」をするということは、結局それ切りで終わった。だからそれとは別だが、翌2001年の正月、浅草公会堂の花形歌舞伎が、海老蔵が大ブレークしたために海老蔵・菊之助組は浅草を卒業、この年から一気に若返って、勘太郎・七之助たちの出番となった。私たちの仕事始めは、例年ほぼ決まっていて、三日の浅草公会堂に始まり、四日が歌舞伎座という処はほぼ動かない。その三日。浅草を見に行ったとき、幕間の狭いロビーがごった返す中を、向こうから、こちらの姿を見つけたらしく、勘三郎が人ごみを掻き分けるようにして近づいてきた。あのねえ、あれ、今度はうまく行ったと思うんだ。手応えが掴めたと思う、と言ったのは、暮の南座で玉三郎の八ッ橋で『籠釣瓶』を出して、次郎左衛門をつとめた時のことを言っているのだった。つまりこれが、あのときの私の書いた劇評に対する勘三郎の「返信」なのだった。