随談第463回 佐藤俊一郎著『今日は志ん朝 あしたはショパン』のこと

今回は本の紹介、併せて少々PRを仕ろうという魂胆である。『演劇界』の古くからの読者なら(といっても、90年代頃からかな)劇評その他の書き手として、佐藤俊一郎という名前を覚えておいでと思う。じつは私とは中学以来の友人で、一昨年、ぽっくり逝ってしまった。歌舞伎の劇評が、業績の分量としては一番多いのだが、本職はドイツ文学者で、大學でドイツ語を教えて身の生業としていた。多趣味というか、歌舞伎の他にも、クラシック、落語、映画(とりわけ、往年の時代劇映画にくわしかった)、推理小説その他その他、池袋から急行で50分はかかる私鉄の沿線住まいであったにもかかわらず、どう見ても頑健な質でもなかったにもかかわらず、まめに見て、聴いて、歩いていた。鑑賞家として、まずは一風を成していたと言っていい。

ところが、この男の、ひとつの欠点というべきか、筆は立つくせに(エッセイストとしてもちょっとしたものだった)、依頼がないと、何故か書こうとしない。結局、自ら発起して著書をものすることなく終わってしまった。一種のエピキュリアンとして全うしたとも言えるが、半世紀の余、傍で見ていた者としては、体よく言えば、惜しい。ぶっちゃけて言うなら、歯がゆい。

あるとき、漱石の『三四郎』に出てくる「偉大なる暗闇」と教え子から仇名を奉られている廣田先生という人物になぞらえて、お前も、「偉大」とはいえまいが「ちょっとした」暗闇だ、と言ってやったことがあった。アルプスはモンブランの下を通り抜けるトンネルには及びもつかないにせよ、おかる勘平が道行をする戸塚の山の下を、いま東海道線や横須賀戦の下り列車が最初にくぐる、あの短いトンネルの闇よりは、貴公の脳髄の闇の方が大きいだろう、と。

それからかれこれ、十数年は少なめに見積もっても経った。なにやら書いているらしい、という噂は聞いたが、本人は何も言わない。こちらも、敢えて訊かない。で、また何年か相経ち申したところで、あっけなく逝ってしまった。そこで、夫人に提案して、遺稿集を出してはということになった。ご遺族が書斎を探してみると、果たして、見つかった。『歌右衛門と志ん朝の時代』と題して、パソコンなど触ったこともない人間だから、四百字詰用紙に一九〇枚。それを聞いて、ウームと、胸にちょっぴり迫るものがあった。いつだったか、一八〇枚書けば単行本一冊分になるよ、と入れ知恵をしたことがある。それで、一九〇枚書いた、というわけなのか? だとすれば、何という、この・・・

コピーを取って送ってもらい、目を通す。完成はしていないが、まず九分通り以上は成っていると見た。もちろん、そのままでは完全原稿とは言えないから、多少、手を入れて整備する必要はあるし、それより何より、本人がこの先、完成品に仕上げるためにどれだけ手を加えようと考えていたかは、計りようがない。私のなすべきはモーツァルトに於けるジュスマイヤーのようなものか? もっともジュスマイヤーと違うのは、誤記や表記の修正や整合、修辞上の整備など、絆創膏を貼り包帯を巻き、裂け目に軟膏を擦り込むなどして手当てをしただけで、内容に関わるような補綴は一切しない。とにかく、これなら世に出して恥ずかしくないし、故人に余計なことをするなと言われることもないであろう、というところまで持ってきた。これを、とにかく世に出しましょう。奥さんにそう言った。

あとのことはごちゃごちゃ書くまい。故人とも私とも親しい三人の方々に協力を願って、出来上がったのがこれである。どうせなら、本業のドイツ文学や、本人が一番自負するところあったと思しいエッセイやら、共有するもうひとつの趣味道楽であった連句やら、「文人」としての故人の多面的な全貌を示すには、アンソロジイという形にするのが一番ふさわしかろうということになった。そして、とてものことに、ただ知己の方々に配るだけでなく、こういう「文人」が皆さんと同時代にいたのだぞ、ということを世に示し、その文業を世に問いたいということになった。

と、いうわけである。歌舞伎好きの方々、落語好きの方々なら、まず三二〇〇円は惜しくあるまい。歌舞伎における歌右衛門、落語における志ん朝、共に故人にとっては格別の存在であった。普通の意味での、だからこれは批評ではない。そこがミソである。

ドイツ文学の、研究という立場からの評価はどういうことになるのか知らないが、少なくとも、大學の紀要などに眠っていたのをこういう形で世に示しただけでも意義はある筈だと思う。愛好者になら、多々、興味があるであろう。

ともあれ、ちょっとした暗闇先生もこれだけのことはした。少なくとも、ざらにある本ではないことは、間違いない。お求めいただけるなら、友としてお礼を申し上げます。Amazonに出ています。

随談第462回 家庭劇尽し-今月の舞台から-

もっと早くに載せるつもりで書いたのだが、團十郎のことがあったので今頃になってしまった。まあ、そのつもりで読んでください。

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今月は、歌舞伎が日生劇場の高麗屋一家の芝居、新橋演舞場が喜劇名作公演と称して昔の松竹新喜劇に新派が合体した公演、明治座が藤山直美と三田佳子顔合わせのホームドラマ時代劇といったところが並んだのを二、三日のうちに見て回った。気が付いたのは、どれも「家庭」というか「家族」というか、まあひっくるめてファミリーというものがテーマになった芝居だということである。

日生の場合は、染五郎の復帰第一回というのが眼目にあって『吉野山』がその披露演目だが、開幕に先立って「パパ」の幸四郎が「倅」のためにわざわざ「口上」をプログラムの一演目として述べる。折角そうするのなら、もう少し「世話」に砕けてざっくばらんなトークにして、怪我の模様だの回復の様子だの、つい前々日に死去した團十郎のことなど、いろいろ語ってくれるかと期待したが、倅染五郎復帰の挨拶を四角四面の「時代」な口上口調で語るに留まった。ま、気取り屋さんらしい幸四郎風というところか。ともあれこうして、『吉野山』一幕が倅を思うファミリーの愛にくるんで差し出される。

次が「弁天堂」以下の序幕をつけた『新皿屋舖』だが納まるところは幸四郎が宗五郎になる「宗五郎内」だから、見事にファミリー劇として完結する。それにこの宗五郎、幸四郎がこのところしきりに手がける黙阿弥物の中で一番いい。その理由は、宗五郎と幸四郎とが重なり合って、一家の長としての男の芝居としての真実感と哀感があるところにある。理屈を言えば宗五郎はお蔦の父ではなく兄なわけだが、舞台から伝わってくるのは一家を支える家長としての宗五郎の、男としての哀しみである。

幸四郎宗五郎には、その「男」がある。そうしてこれは、世の変遷とともに、世の中から、ひいては歌舞伎の舞台から、だんだん稀薄なものになりつつあるものなのだ。幸四郎には、一家の「家長」としての男の骨格がある。それがいささか「パパ」というムードに味付けされがちだとしても。

演舞場の松竹新喜劇は面白かった。久し振りで芝居らしい芝居を見た満足感を味わうことが出来た、と言った方がより正確だろう。『お種と仙太郎』は茂林寺文福、つまり曾我廼家十吾作の旧松竹家庭劇、『高津の富くじ』は松竹新喜劇全盛期の当り狂言、『おやじの女』は館直志、つまり先代渋谷天外作の、新喜劇がまだ藤山寛美王朝になる前の、天外が座長であり立作者であった時代の、つまりきっちりと脚本が作られていた頃の作。三一致の法則、などというものをここに持ち出すのは半分は冗談だが、しかし『お種と仙太郎』にしても『おやじの女』にしても、ラシーヌが見たらびっくりするかもしれないほど、ひとつの場所、ひとつの時の流れ、ひとつの物語で無駄なく作られ、しかも観客を抱腹絶倒させた上、ああよかった、ああ面白かった、と口々に言いながら劇場を後にする芝居になっている。『高津の富くじ』だって、場割は三場と変わるが、筋がひとつの流れに無駄なく構成されていることに変りはない。どの作も、上演時間は1時間前後に納まっている。つまり、茂林寺文福でも館直志(タテ・ナオシと読む。つまり建て直し、である)でも、客にわかりやすく、飽きさせず、満足させるにはどうすればよいかを知り尽くした結果、ラシーヌの考えたのと相似形の劇作術を体得してしまったのだろう。

で、ところで、話を本題に戻すと、これらがすべて、家庭・家族、つまりファミリーとは何ぞや、ということを「自ずと」考えさせる芝居だということである。(「自ずと」を括弧に入れたのにご留意ありたい。)『お種と仙太郎』など、初演の昭和8年頃は、姑の嫁いびりという、当時まさに切実な問題をテーマにしていたわけだが、そうした社会状況が様変わりした今なら今で、そこに何らかのアナロジイを観客ひとりひとりが見出しながら笑うことが出来る。『おやじの女』にしても、文楽の義太夫語りの家、という時代的にも地域的にも特定・特殊の世界を舞台にしながら、そこに展開するスト-リイには、現代の観客誰しもが、わが身に思い当るものを見出しながら見ることが出来る。

それにしても、当代の渋谷天外も、(たまにしか見る機会がないが)いい役者になったものだなあ。曾我廼家八十吉だの寛太郎だのにしても、新喜劇という土壌がなかったら生まれようがない役者である。そこへ、八重子・久里子をはじめとする新派連中がこぞって出て、少しの違和感もない。これを驚くべきことと考えるか、当然のことと考えるか。丹羽貞仁も、よく馴染んでようやく役者らしくなってきた(といったら失礼か? かつての大川橋蔵を知る者としては、この俳優の消長が気にならないわけには行かない)。

いつも二月の演舞場は座頭だった藤山直美が、今年は演舞場を明け渡して明治座に出て三田佳子と二枚看板の芝居を開けている。こちらも髷を乗せた時代物ファミリー劇である。金持の呉服屋としがない居酒屋という、どちらも母一人子一人の(母子家庭)の母親同士が、娘と倅が恋仲というロミオとジュリエット状態になっての激突という、家族・家庭がテーマになっている。が、客をつかまえ喜ばせるのを、直美と三田の激突部分と肝胆相照らす部分を個人プレイとして肥大化して見せるように脚本ができているので、観客は喜んでいるし、私だって決してつまらなくはなかったが、ちょっともったいないなあと、正直なところ思う。演舞場の三本だって、個人プレイで笑わせ、喜ばせるところはふんだんに織り込まれているのだが、(「古典」としてくり返し上演されているのだから当然とはいえ)脚本と突出部分とのバランスといい、出たり引いたりの呼吸が絶妙に出来ている。こちらは初物だから、ストレートに比較するのは無理な話とはいえ、ちょいと直美にもたれかかった部分が大きすぎるのが惜しい。

と、今月の大劇場三座すべてがファミリー劇というのは、結局、芝居の泣かせ所、笑わせどころ、つまりは落としどころというのはここじゃわやいと、改めて思わせられる。歌舞伎不在に近いこの月だが、あながち寂しい思いもしなかった。

随談第460回 團十郎のこと

團十郎逝去の報ほど驚いたことはない。勘三郎の時とは、またひとしお違う。 

訃を聞いてから夜中に一本、夜が明けてから一本、共同通信と日経に、計二本、追悼文を書いたし、幾つかの処からインタビューも受けたのも何らかの形で記事になるだろうから、多少の重複は避けられないが、ここではなるべく、書かなかったこと、それ以外のことを書くことにしよう。それにしても、マスコミがこれほどまで、團十郎のことを報道するとは思わなかった。もう少し、型通り、ひと通りのことですませるのかと思っていた。勘三郎のときの狂奔だけではなかったのだ。報道の仕方もあまりツボをはずしてもいない。こう言っては何だが、テレビ局というものを少し見直す気になっている。

本丸に直撃弾を受けたような気がする、とはインタビューにも答えたことだが、一番直接的な意味では、昭和40年代に花形として売り出して以来、やがて第一線に立ってからも、常に歌舞伎の主力であり続けた一群の中から、遂に一枚、駒が欠けることになったという感慨だった。私の観劇歴の中で、年齢的にも近いせいもあって、最も長期にわたって見続けたのは、じつにこの人たちだった。これが勘三郎や三津五郎となると、子役としてつとめたあの役この役も見ているぞ、ということになって、ちょっとニュアンスが変ってくる。その中の、大駒が一枚、遂に欠けた。平凡な言い方だが、至近弾が近くに落ちて炸裂した感じだ。

個人としての團十郎と別に、歌舞伎のシンボルとしての團十郎の存在というものを、どうしてもまず、考えないわけには行かない。團十郎は、歌舞伎という国の、一種の象徴天皇だったと私は思っている。現実の天皇が、個人としては極めて謙虚な人柄であるにも似て、團十郎という歌舞伎の天皇も、決して威張ったり尊大だったりすることがないにもかかわらず、いやむしろそれ故に、歌舞伎のシンボルたり得た。これも書いたことだが、(実は4月1日発行予定の日本俳優協会編の『かぶき手帖』2013年版の「市川團十郎」の項にも同じ趣旨のことを書いたのだったが、この事態で載らない幻の原稿になってしまった)、旧歌舞伎座のさよなら公演の掉尾を飾ったのが團十郎の『助六』であったことを、歌舞伎界の内外、観客の誰しもが了解し、納得したという一事が、すべてを語っている。

團十郎の訃を伝える記事や番組が、ひとしきり報じた後、これからの歌舞伎は、というところに話題を移したのも、やはり皆ひとしく、単に大物俳優がなくなったからというだけではない、團十郎の存在の在り方を、無言の裡に感じ取っていたからに相違ない。歌舞伎という神輿を担いでいた担ぎ手の中から、團十郎の姿がなくなったということが、すぐに、この神輿は今後、誰が担いでゆくのだという話になる。つい去年の四月、若手花形世代で陣容を固めた『忠臣蔵』にちょっとがっかりしたのも、まだ記憶に新しい。(勘三郎があれを見て激怒したとか、35点と採点したとかいう話も聞いた。)

もっともあの『忠臣蔵』には、海老蔵も勘九郎も七之助も出ていなかった。新しい歌舞伎座のこけら落とし公演の7月、8月、9月の三カ月は若手花形の公演らしいが、今度は総力結集しての、もう一度『忠臣蔵』だっていい、『菅原』か『千本桜』でもいい、彼らの「いま」のありたけを見せてもらいたい。いやその前の六月、当初三カ月のこけら落とし公演の掉尾を飾って、やはり團十郎の『助六』が出る筈だったが、あれは当然、海老蔵に福山のかつぎから一躍して助六をさせるのでなければなるまい。海老蔵としては一世一代の大勝負、そこでやんやと言わせてこそ男、海老蔵にとっては終生の語り草、歌舞伎にとっては起死回生のまさに「独尽湯」となるであろう。(捨て身でかかっての大勝負、荒川の佐吉を地で行くようだが、そうだその「佐吉」を、こんどは納涼歌舞伎でやればいい。)

最後にちょっと、個人的な思い出を語ることにしよう。「勘三郎随想」にも書いた『21世紀の歌舞伎俳優たち』を、1998年から99年にかけて『演劇界』に連載したのを、翌年、三月書房から本にしてもらえることになって、そこで論じた俳優たち一人一人に断りの手紙を出した。幸い、全員から快く了承の返事をもらえたのだったが、(その返事の来方が、ひとりひとり、それぞれに違っていて面白かった。本人が直接電話をくれた人、奥方を通じて電話なり手紙をくれた人、等々さまざまあったなかに、團十郎から分厚い封書が届いた。ペン書きの自筆である。便箋で10枚近くあったろうか、びっしりと書いてある。これだけ書くには1時間は優にかかるに違いない。要するに、了承するというのだが、実は『演劇界』に連載中には読んでいなかったのでこのほどバックナンバーを読んでみたという。なるほどと思うところ、よく書いてくれたと思うところ、これは違うな、と思いながら読んだところ、さまざまあるが、ひとつひとつの意見・見解は著者のものであるからそれに容喙するつもりはない。ただ一カ所、書き改めてほしいところがあるのだが・・・という内容だった。もっともと納得したので、私も、たしか6,7枚にはなったかと思う、それではこうこう、こういう風に改めては如何であろうかと、了解した旨の返事を書いたのだったが、はじめに読んだ時の威圧感というものは、いまも忘れない。文章も文面も、誠実な人柄そのままを反映し、威圧的な要素など少しもないのだが、ひしひしと押してくるものがそう感じさせたのだが、それについてはもうひとつ、わけがあった。

たまたまその月、團十郎は歌舞伎座で真山青果の『江戸城総攻』の西郷を、幸四郎の勝海舟とやっていて、わたしはつい前日、それを見たばかりだった。例の、官軍の江戸総攻撃を目前にしての勝と西郷の会談の場面である。團十郎が、あの総督府司令官の洋服姿の西郷の扮装で、諄々と無血開城を説く幸四郎の勝を相手に、大変な重量級の芝居を見せ、芝居としてはなかなか結構だったが、それを見た翌日に、当の西郷ならぬ團十郎からこういう手紙をもらった威圧感というものは、ともあれ大変なものであった。團十郎が、西郷の扮装のまま私の前に現れたに等しいヘヴィー級の貫録は、夢に現れてもおかしくない迫力だった。(もっとも私は、ごくつまらない夢しかみない質(たち)なので、幸か不幸か、團十郎が夢にあらわれることはなかった。)

ともあれ、事態は互いに氷解出来、團十郎は出版記念会にまで出席してくれた。その誠実は、ひとしお心に沁みた。團十郎との、これこそ一期一会の思い出である。

随談第461回 團十郎のこと(その2)

團十郎のことをもう少し書きたい。主に、観客としての思い出である。

それほど古いことは知らない。團十郎に限らず、菊五郎にしても、この世代の子役時代というものはこちらも子供であり過ぎた。例の十一代目團十郎襲名の『助六』の折の福山のかつぎというのも、もうあのころは子供ではなかったが、実は見ていない。あの、セリフの拙さに発奮したという、自らも語ってよく知られた話も、そうだそうだと思えるのは、実はLPになった音盤で知っているのに過ぎない。だから堀越夏雄クンの舞台をナマで見た最初というのは、すでに市川新之助となってから久しい、東横ホールで見た『寺子屋』と『鏡獅子』ということになるのかもしれない。(その前に、『大菩薩峠』で、父の机龍之助に対する宇津木兵馬というのがあったっけ。)ずっとのちに、すでに大家となってから、成田山新勝寺のための何やらで国立劇場で一日だけ『鏡獅子』を踊ったことがあったが、この人の『鏡獅子』は、もう一回、「荒磯会」という一門の勉強会をたしか三越劇場でやった時切りだと思うから(その他に何か特別な催しがあったとすれば別だが)、少なくとも3回のうちの2回は見ていることになる筈だ。

私はこの人の女形の時の顔というのが割合好きなのだが、それは、荒事をするときのとはまたちょっと別の意味で、ああ、これが團十郎家の顔なんだなという気がするからだ。九代目團十郎とは血がつながっているわけではないのだが、その孫娘で九代目の血統を引く最後の人だった市川翆扇(私はこの人が大好きだった。今に至るまで、舞台女優として一番の人と思っている)などとも一脈通じる、ぼてっとした厚みのある、いい顔だった。大家になってからやった岩藤のようなものは誰でも知っているだろうが、ひとつのミソは、国立劇場で『加賀鳶』の通しが出た時、子守娘の役をやったことがある。通しでなければ出ない「梅吉内」の場に登場する山出しの娘っ子の役で、團十郎が生涯に演じた役のリストを作ったなら、珍品ベスト3には間違いなく入るであろう。もっとも、このときはもう疾うに海老蔵を襲名した後だから、三之助時代も卒業しれっきとした若手スターで、菊五郎・先代辰之助とともに、華やかというなら一番華やかだった頃だったろう。

話を少し戻して新之助時代というと、三之助の仲間たちに比べても、舞台に立つことが少なかった。親の方針だったのかもしれない。東京オリンピックのさなかの昭和39年10月、東横ホールで当時の常連より一世代若いクラスで『忠臣蔵』の通しを出したことがあって、大星に前の権十郎が別格で出たほかは、菊五郎が当時丑之助で判官とおかる、辰之助の左近が勘平、左団次の男女蔵が師直、彦三郎の亀三郎が若狭助と平右衛門といった顔ぶれだったが、新之助は出ていない。その翌年に丑之助が菊之助に、左近が辰之助に、亀三郎が薪水に三人同時襲名ということがありこれがこの世代が脚光を浴びた最初といってよかったが、このときも新之助は騒ぎの外にいた。(騒ぎといえば、六代目菊五郎十七回忌追善というこの時の興行で、父の十一代目は不満があって途中休演するという騒ぎを起こし、その秋には亡くなってしまったのだから、このときに踊った『保名』が結局、最後の舞台となったのだった。だからいま思えば、さっき言った『大菩薩峠』というのは、見ておいてよかった稀有な父子共演ということにある。)

更にその翌年、菊之助がNHKの大河ドラマ『源義経』に出て一躍ブームの人となり、このころから東横ホールでこの世代中心の公演が本格的になった当初も、新之助は必ずしも中心的な位置にいたわけではなかった。その数少ない例が、先に言った『鏡獅子』であり、『寺子屋』の松王丸で、大きな役をするのを見た最初だったと思う。それも、菊之助たちがいくつも役をするのに対して、鏡獅子なら鏡獅子、松王丸なら松王丸だけ、出演するのだ。かなり慎重に構えている印象を受けた。三之助と騒がれ、東横歌舞伎でも他の二人と常連のようになるのは海老蔵を襲名する前後からで、だから「三之助」という呼名が文字通り、三人の「之助」であったのは、実際の期間としては、いま思えば嘘のように短かったことになる。

思い出した。海老蔵襲名が取り沙汰され、少しは顔を売っておこうとしたのかどうか、どこだったかの民放で、新之助を主役にした連続ドラマ『若様侍捕物帳』なるものが始まった。第一回には、三代目左団次や市川翆扇も特別出演したのだったと思う。で、毎回のオープニングに、何人かの切られ役を相手に立ち回りのシーンが写って、やがて新之助の顔がアップになり、「シンペエするな、峰打ちだ」というセリフがあってから、ジャーンと音楽が入ってタイトルが出る。その「シンペエするな、峰打ちだ」という声音が、いまも私の耳朶について離れない。

新之助・海老蔵時代も含め、若い頃の團十郎に対する劇評というと、セリフに難があるというのが判で押したようにつきまとったものだった。たしかに、この「シンペエするな。峰打ちだ」もそうだったが、團十郎の口跡に独特の特徴があったことは、誰しも知る通りで、それは終生、変わることはなかった。いわゆる滑舌の良さというものには恵まれなかったといえる。

しかし、今度のことがあってから、必要があって後年になってからの舞台の映像を見ると、癖は癖として、たとえば助六の啖呵のところなど、やはり誰の助六よりも助六のセリフだなという気がする。團十郎のセリフのもう一つの特徴は、高音が、ちょっと聞くと歯止めが利かないかと思うほせり上がって行く迫力にある。コントロールという観点からするとどうなのか知らないが、高低の抑制の利いたセリフにはない、一種の昂揚感があることに思い至る。高目にホップして、最後にはボール球になってしまいながら、打者がつい手を出して空振りしてしまう剛速球のようなものかもしれない。ある頃から以降、團十郎のセリフの難を言いたてる劇評は潮が引くように見かけなくなってしまう。癖は最後までなくなったわけではない。だが、そんなことはどうでもよくなってしまったのだ。技巧の難よりも、芸格の高さと大きさの方がはるかに高く、大きくなったのだ。

十一代目が亡くなってまだ間がない頃、東横ホールの客席で、話し相手を求めてか、俺は八十何歳だかで何十年だか芝居を見ているんだと、訊かれもしないのに自分から吹聴し出した老人が、聞かせよがしに高麗屋三兄弟の品評を始めた。一番巧いのは松緑だという。一番拙いのは團十郎だったな、というのだった。老人の言わんとするところはよくわかる。だがこの老人のもつ物差しでは、團十郎の芸の格は計れない。同じようなことは、これから、十二代目についてもあり得るだろう。思えば、いまの海老蔵も含めて成田屋三代、皆、よく似た「役者」なのだ。

いま振り返って、もし、團十郎とはどういう役者だったかと問われるなら、誰よりも團十郎らしい團十郎だったと答えるのが、一番よさそうな気がする。もちろん、時代時代に、自分たちの團十郎が一番だと思っていた古人は数知れずいただろうが、そうした比較を超えて、わが十二代目團十郎は、誰よりも團十郎らしい團十郎だったと、いま改めて思う。そういう團十郎を、同じ時代に持てたことは、かつて誰かさんが誰かさんについて言ったように、私たちの時代の幸福と呼んでいいのではあるまいか。

十八番物に限らない。丸本物でいえば、『寺子屋』とか『熊谷』のような近代的心理主義で作り上げられてしまったものよりも、『逆櫓』の松右衛門や『毛谷村』のようなものが、こよなく懐かしく思い出される。團十郎だけに限ったことではないが、、世紀の変わり目前後の何年間かが、歌舞伎界近年でのひとつのピークだったといま改めて思われる。皆、男盛りの華の盛りだったのだ。

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NHKテレビの團十郎を偲ぶという特別番組にゲストで出演した菊五郎に感服した。ぐちゃぐちゃと多くを語らない。新しい歌舞伎座の舞台を踏ませたかったの何のというのは、後に残った者の思いに過ぎない。本人が何を思いつつ逝ったかは誰にも知りようがない。ただ、ごくろうさま、としか言うことがない、というのだった。故人を最も深く思う者の思いとは、かくの如きものであろう。

私たちは、私たちの「團菊」をもっていたのである。