随談第459回 勘三郎随想(連載第4回)

もう、ここからは勘三郎と書くことにしよう。

やがて、もう夜も遅いし、三々五々、引き揚げる人が出る。私も立とうとすると、勘三郎が私の顔を見ながら、座れというように床を叩く。気配から察するに、帰って行く人もあれば、別室に席が出来てさらに話が弾んでいる様子もある。あっちへ行くよりここで二人だけで話そう、というわけだった。私は座り直した。

二人、差しになって座って、やがてどういう話の流れでだったか、勘三郎はつと立ち上がると梅幸のおじさんから教わったやり方だといって、お嬢吉三がおとせを川に突き落として橋杭に足を掛けてツラネにかかるまでの仕草をほとんど本息で、ひとながれの呼吸の内にやってみせると、ね? と言う風に私の目を見た。

これは、梅幸が最晩年と言っていい頃、ひさしぶりにお嬢吉三をしたときに、私がアッと気がついたことがあって、そのことを『21世紀の歌舞伎俳優たち』の中で菊五郎のお嬢吉三のやり方と比較して書いたのだったが、菊五郎がするように、橋杭に片足をかけてから、一拍おくような感じで(さあ、アリアを歌いますよ、とでもいうかのように?)、「月も朧に白魚の」とツラネを始めるのではなく、おとせを突き落とし斬りかかってきた金貸しから刀を奪うとそのまますっと橋杭に足を掛け、キマルかキマラナイかのようなひと流れの呼吸の中で、すべてが運ばれる。それは、どちらが正しいということではなく、少し大げさに言えば歌舞伎に対する「思想」の違いのように思える、つまりそれは、梅幸時代の歌舞伎と、現在の菊五郎の時代の歌舞伎とでは、社会の中での在り様が違うし、社会の側の歌舞伎への対し方も違う、そうしたことどもがそこに反映されての結果のように思える、といった趣旨のことを言ったのだった。

その時点ではまだ単行本にはなっていないから、連載の何回目かに掲載されたバックナンバーを読まなければ勘三郎が知っている筈がない。なぜかその前後の脈絡が記憶から抜け落ちているのだが、私の方からその話題を持ち出したのであったかもしれない。ともあれ、その時の勘三郎の、流れるような仕草の間と呼吸の見事さに私は見惚れていた。これはいま、誰もやらないやり方だと梅幸のおじさんが言って教えてくれたんだ、と勘三郎は言った。

勘三郎は、のちにコクーン歌舞伎の『三人吉三』では和尚吉三をつとめることになるが、もともとは、梅幸からお嬢吉三を教わりいずれ自分もお嬢をするのだと思っていたらしい。つまり、遂に実際に演じることがなかった勘三郎のお嬢吉三のエッセンスを、私はこうして間近から見たことになる。(私としては、お坊を見てみたかったという思いもあるが、それはこの際、他日の話である。)

「月も朧に白魚の」に始まる名調子のセリフは「厄払い」と呼ばれるが、これは途中で、「御厄払いましょう、厄落し」と、節分の日に家々の旧年の厄を払って歩く男の声が合の手のように聞こえてくると、厄を西の海へ払い落とすように夜鷹のおとせを西の海ならぬ大川へ突き落として百両をせしめたのを、こいつは春から縁起がいいわえ、とひっかけて言うところからついた通称であって、セリフの分類上からいうなら、『暫』の花道の長台詞などと同類の「ツラネ」と考えていい。解説本などでよく、オペラのアリアになぞらえられて、なるほどうまい喩だから私もときどき借用させてもらうが、つまり、本物のオペラだと、ストーリーを中断してわざわざカーテン前に出てきてアリアをアンコールで歌ったりするように、劇の一部でありながらそこだけが取り外しが利くように出来ている。まさか歌舞伎の舞台で「月も朧に白魚の」をアンコールしたりはしないが、そこだけを、宴会の席でかくし芸にやってみせて同僚や部下を悩ませる「歌舞伎通のおじさん」というのは、以前はそこらによくいたものだ。だから、というか、すなわち、というか、歌舞伎のツラネも、そこだけが筋の展開の中で「特別区」のようになっている。

で、ここでようやく話が本道に戻るのだが、ところでこのとき勘三郎がやってみせてくれたようなやり方だと、「月も朧に白魚の」と謳い上げはしても、おとせを川に突き落とすというその前からのしぐさとひと流れの呼吸の中ですることになるから、そこだけを、さあこれからアリアを始めますよ、という風にはならない。フーム、という思いで私は見ていた。私は梅幸晩年のお嬢吉三を見てアッと思い、いままた目の前で、梅幸のおじさんから教わったやり方だと言って、勘三郎が立ってやってみせてくれたのだ。(梅幸のお嬢吉三は以前にももちろん見ているが、その頃はこちらにそこまで気が回る余地がなかったので、気が付かなかった、というか、見過ごしていたと見える。)

ところで、話はずーっと飛んで、あれは勘三郎襲名披露の公演を名古屋の御園座でやったときだった。夜の部に『白浪五人男』が出て、もちろん勘三郎が弁天小僧で「浜松屋」のゆすり場になった。勘三郎の弁天が番頭や手代とのやり取りで、「ナニ、ワッチを知らねえ?」「どこの馬の骨か、知るものか」と番頭が応じるとすぐそのままの息で受けて「知らざあ言って、聞かせやしょう」と時代に受けて、世話に落とす。という勘三郎を見ながら、アッと私はこのときのお嬢吉三を瞬時に思い出していた。なるほどこれだな、と思った。

弁天小僧の「知らざあ言って聞かせやしょう」もアリアである。しかしそれは、勘三郎だと、浜松屋の番頭や手代とのやりとりとひと流れの呼吸の中で「知らざあ言って」と時代に張って受けて、「聞かせやしょう」と世話に落とす。だってそこは、浜松屋の店先という世話の芝居の中なのだから。純然たるアリアになるのは、だからその次の「浜の真砂と五右衛門が」からということになる。先に言ったお嬢吉三の「アリア」の場合と、通じるところは共通している。アリアはアリアと様式本位に考えるのでなく、芝居の流れの中に「アリア」という様式が縫いこまれる、というか。菊五郎のように、はっきりと一拍おいてから、知らざあ言って聞かせやしょう、と始めるのとは明らかに違う。

誤解があるといけないが、私は勘三郎のが正しくて、菊五郎のが間違っている、などと言っているのではない。菊五郎のやり方にも充分理はあって、先にも言った通りそれは現代における歌舞伎の在り方と関わっている。菊五郎の聡明は、それを考えてのことであろうというのが、私の考えであり、そのことは『21世紀の歌舞伎俳優たち』に書いた通りだし、そもそも、梅幸晩年のお嬢吉三の話は、その中で菊五郎を論じる上での引き合いに出したものだった。だがこのことは、これ以後、勘三郎の芸を考える上で、私の念頭から離れなくなった。

思うに、つまりここらが、六代目菊五郎から梅幸を経て勘三郎へと伝えられた「秘伝」なのであろう。六代目が、黙阿弥狂言でよく役どころが競合した十五代目羽左衛門の弁天小僧を評して、あれは「世話」ではなく「時代世話」だ、と言ったとかいう話も思い出された。羽左衛門の弁天は「知らざあ言って聞かせやしょう」と独特の名調子で謳い上げたのであったらしい。

吉祥院のお坊吉三のセリフではないが、少々話が理に落ちたかもしれない。もうひとつ、この時のことでいまでも覚えていてときどき思い出すのは、勘三郎が、親父には安藤鶴夫という人があったけど、上村さんはああいうタイプじゃないよね、と言ったことである。もしかすると勘三郎は、私に安藤鶴夫みたいな役割を求めようと思ったのだろうか?

随談第458回 大鵬逝去

大鵬逝去の報は私の予期以上に社会の反響を呼んでいるようだ。そのことが、私をなにがなし安堵させる。それだけの、いわば国民的な規模の、大きな記憶を大鵬は担っていたのだということになる。

たまたまあの日、土曜日だが早めに行けば大丈夫だろうと、まあ、多寡をくくって国技館へ行ったら、本日は既に完売しましたと札が出て窓口が閉まっている。そういえば初日も満員御礼が出ていたし、平日も、これまでに比べればかなり埋まっていたようだ。多寡の括り方がちと安直に過ぎた結果だから腹は立たない。別の日の前売りを確保して、さて、このまま手ぶらで帰るのも何だからと江戸博物館で尾張徳川家の秘宝展というのを見物して帰宅の途次、立ち寄った床屋のラジオで逝去の報を聞いた。午後3時という。何のことはない、まだ国技館の近辺をうろうろしていた時刻である。何とはなしの因縁を感じる。

相撲に限らない。役者でも、映画俳優でも、プロ野球の選手でも噺家でも、子供の頃から親しんだ世界ならなおのこと、一種の敬意というか、あこがれというか、を以って見るのは、普通、自分より年が上の人たちである。同世代意識、というものを私はあまり持ち合わせていないせいか、同年輩、同世代であるがゆえに応援する、という感覚があまりない。高校野球を抵抗感なく見るようになったのはこちらがオジサンの年配になってからで、自分も同じように若いうちは、汗臭い感じがどうも好かなかった。自分より凄い人たちだから、いいな、と受け入れるのだ。同年輩だと、どんなにヒロイックであっても、何かが透けて見えてしまう。

大鵬は、私にとっては初めての同年、同世代の力士だった。そのことに、かすかな途惑いを覚えたのを覚えている。哀しみを湛えたような眼の色がふしぎな魅力を湛えつつも、白系ロシア人を父に持つ彼は、それまで私が抱いていた「お相撲さん」のイメージとしては、少々違和感を抱かせた。(思えば、ロシア革命という世界史的事件は、野球界にスタルヒン、相撲界に大鵬という偉材をもたらしてくれたことになる。)

入幕当初はまだ痩せていて、長身を折りかがめるような前傾姿勢で相撲を取る。相手は取りにくいだろうし、大鵬の側は力がこもっているように見えない。何とはなしに勝ってしまう、というヤワな感じがした。それが実は並々ならぬ奥深さをもっていることが、やがて段々に見えてくるのだが、そういえば初めの頃は、褐色の弾丸という仇名で突貫力士(という言葉があった。立会い一気の押しを得意とする力士のことだが、いま思えば、この言葉には戦時の響きが感じられないでもない)といわれた房錦のような力士にちょいちょい苦杯を喫していた。(木村房之助という幕内格の行司の倅で、アイドル風のいい男で『房錦物語』という映画になったほどの人気があった。)終生の最大の強敵が柏戸であったように、激しい相撲を取る相手をやや苦手とするところはあった。もう大横綱になってからだが、木村庄之助世紀の誤審と言われた40何連勝だかでストップした一番も、相手は戸田という突貫力士だった。(それにしてもあの時の(何代目だっけ)木村庄之助は、風貌風格といい挙措動作といい素晴らしい行司だった。能の桜間道雄師が、朝日の投書欄にわざわざ投稿して絶賛したことがあった。)

同じ押し相撲でも、突貫ではなく、もちゃっと立って、こんもりと太ったやわらかそうな巨体でもくもく押すのがなかなかの威力で大関になった若羽黒という力士が、はるか後輩の筈だった大鵬があっというまに自分を抜き去って行こうとするのへ、「柏鵬の反逆児」と自ら称して、大鵬戦となるとことさらに意地を見せて、何度か苦杯を嘗めさせたのが面白くて、私もちょいと反逆児気分で応援したものだったが、この若羽黒という力士は土俵外のことでもいろいろ問題があったらしく、やがて反逆児ぶりも通用しなくなるとともに大関から陥落し、やがて姿を消したが、だいぶ経ってから悲惨な死を遂げた。

話がそれた。閑話休題として、大鵬が新入幕で初日から11連勝だかして、ひと足、ふた足ばかり先に入幕して既に役相撲になっていた柏戸が普通なら当らない番付の差をすっ飛ばして「止め男」として対戦、引き落としで勝った相撲というのは有名だが、その昭和35年初場所というのは栃錦が最後の優勝をした場所で、その翌場所が、例の若乃花と千穐楽に全勝対決をするという場所だが、その何日目だかに、後にも先にも一番限り、栃錦と大鵬の対戦というのがあった。つまり大鵬にとっては初の上位で取る場所だったわけだが、この一番は、鎧袖一触という感じであっという間に栃錦が押し出してしまった。栃錦は次の夏場所に初日二日目と連敗してそのまま引退してしまうから、二人の対戦はこれ一番限りということになる。

ついでだが、同じその場所に柏戸も栃錦と対戦し、土俵際まで押し込みながら突き落としか何かで退けられてしまうという一番を、たまたまホテルのテレビで見た吉田秀和さんが、昭和の初期の若き日に当時の横綱常ノ花に声援を送っていた頃以来、30年ぶりに相撲好きの火がついて、柏戸にぞっこん惚れこんでしまうということになる。音楽評論の泰斗吉田秀和の相撲好きは有名だが、その端緒となったのも、同じこの昭和35年春場所ということになるわけだが(音に聞く栃錦の功技とはこれかと舌を巻きながら、同時にその敗れた方の若い力士に目を奪われた、と書いているから、本当に30年間、相撲を見なかったのだろう)、この時の柏鵬両者の栃錦戦をもしバロメーターにするなら、この時点では柏戸の方がやや先輩な分だけ、一日の長があったことは間違いない。そうしてそれから丸二年と経たない翌年の秋場所に、長身で吊りが得意なところから起重機と仇名のついた明歩谷という、関脇まで取った力士と三人で優勝決定戦をして、二人同時に横綱に昇進したころには、もう、どうしても柏戸の方が分が悪くなってしまっていた。柏戸の風貌から、それまでの颯爽たる明るさが消えて、重く苦渋を湛えるかのようになってゆくのを見るのが、特に柏戸ファンというわけではなくとも切なかった。

栃錦が引退して、しばらくは独り天下が続くかと思われた若乃花が、逆に目標を見失ったかのように急速に老け込んで行ったこともあって、時代はあっという間に「柏鵬」の時代になってしまった。「栃若」と「柏鵬」では十数歳もの年齢差がある。その一種の喪失感と、新時代の到来する何とも言いようのない感覚と、実はあの時ほど、時代の変わり目というものを如実に見る思いをしたことはない。事は相撲に限った話ではない。その頃次々と民放テレビが開局し、夕方テレビをつければ第3チャンネル以外はどの局でも相撲を放送していたのだった。

栃若時代もそうだったが、柏鵬の時代も多士済々だった。ついこの間この欄に書いた小兵の横綱の栃の海とか、学生相撲から入ってプリンス然とした豊山に、学生上がりなどに負けるかとライバル意識を燃やした佐田の山とか、柏戸の猛攻に耐えながら土俵を爪先立って三分の二周もした挙句に打っ棄って勝った北葉山とか。前田川というやはり突貫力士で、柏鵬にだけ勝ってその他は全部負けて2勝13敗という珍記録を作った力士もいた。

大鵬の強さをつくづく知ったのは、柏戸との取組もさることながら、突っ張りで横綱になった佐田の山に突っ張りで応じて突き勝ってしまった一番を見たときだった。型がない相撲と批判もされたものだが、実はすべてを吸収し、含んでいたのだということを、それで知った。暖簾に腕押しというか、つきたての餅のような柔軟さで、相手は魅入られたように吸い込まれてしまう感じだった。立会いに胸の前で両腕をクロスして、当った時には前捌きよく自分の十分に組みとめてしまう。およそ隙のない相撲といえば、大鵬に勝る力士はなかったろう。また吉田秀和さんだが、大鵬をフィッシャー=ディスカウに、じゃなかった、フィッシャー=ディスカウを大鵬になぞらえたのは、半面、あまり隙がないので面白味に欠けるという批判も時として受ける、というところにあった。確かに、6連覇を二度もやって、ある時の優勝インタビューの模様を、まるで歌舞伎の舞台稽古みたいな手際よさ、と書いた記事があった。(実際の大鵬は、フィッシャー=ディスカウどころかこまどり姉妹の大ファンで、暇があればドーナツ盤(というのが当時あった)のレコードを聴いているので、兄弟子たちもみな歌詞まで覚えてしまった、とその頃貸本で購読していた『相撲』という雑誌で読んだ記憶がある。)

大鵬も柏戸も、当時はひと際の体格が圧倒的のように見えていたが、いま、当時のビデオを見ると、現在の力士の方がはるかに大きいのがわかる。折からの東京オリンピックで、タマラ・プレスといったっけ、ソ連の女子砲丸投げの選手が圧倒的な巨体で優勝してマスコミが女大鵬と名付けたり、やはり投擲競技の実況放送で、外国選手の圧倒的な肉体に感じ入った解説者が、なにしろ向こうは大鵬柏戸みたいな人たちが代表になっているんですからねえ、と溜息まじりに言ったのをよく覚えている。(つまり、だから日本の選手が敵うわけありませんよ、ということで、その頃の日本選手には室伏みたいな体格の選手はいなかった。)

「巨人大鵬玉子焼き」という言葉が独り歩きして、今度も、まるで刺身に添えるツマのように、訃を伝えるニュースでもこの言葉が出てくるが、前から気になっているのだが、あれは、ほめ言葉なのだろうか? 本来はその裏に、世相に対する皮肉な意味合いが籠められていたのではなかったろうか? 「巨人も大鵬も子供でもわかる、だが・・・」という含みがあっての上の「玉子焼き」であって、大鵬自身は不快がっていたというが、当然だろう。ついでのようだが、同じ頃に生まれた言葉で「超一流」というのも、あれは本来「超二流」であった筈である。言い出したのは野球の三原監督で、西鉄ライオンズをそれこそ超一流の地位に押し上げたのち、弱小球団だった大洋ホエールズの監督になって日本シリーズにまで勝ってしまったとき(昭和35年、柏鵬が横綱になる前年の、柏鵬時代黎明期である)、早稲田を出たての新人だった近藤昭仁(のちに監督になった人である)という選手を評して「超二流」といったのだ。稲尾や長嶋のような意味での一流ではない。が、時に一流にもまさる仕事をする。だから、一流ではないが単なる二流とは違う、という絶妙のニュアンス。近藤に限らず、そのときの大洋は超二流の選手を使いこなして日本一になったのだった。

そういう、含みのある言葉だったはずのものが、「巨人大鵬玉子焼き」も、「超二流」は「超一流」と言い換えられて、無条件に絶対化されてしまったのだ。それもまた、民意の反映には違いないから、今更こんなことを言ってもゴマメの歯ぎしりのようなものだが、「元横綱の大鵬さんが亡くなりました。巨人大鵬玉子焼きと言われた大横綱でした」などと、すらすらすいっとニュース・アナウンサーが台本を読み上げるのを聞いていると、つい、引っかかるものを覚えずにはいられない。

ともあれ、いま改めて思うのは、贔屓という意味でならいわゆる大鵬びいきでは私は決してなかったが、そうしたことを超えた共感があったのだ、ということである。これこそが、同時代の空気を吸った者の感覚というものだろう。自分の中から大きなものが消えてゆく感じを、いま不思議なほど味わっている。それにつけても、相撲協会は、なぜ、協会葬にしないのだろう?

随談大457回 勘三郎随想(連載第3回)

話半ばで越年になった随想の第三回です。

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北京から帰って間もなく、秋山さんから電話があって、勘三郎の方から、あれにはいろいろ行き違いもあってのことだったから連載の件はOKであるとの返事があったという。あ、そうですかじつは、と私に言葉をはさむゆとりも与えず秋山さんは、それでですね、このところしばらく勘三郎の出演予定が(東京には)ないので、八月の納涼歌舞伎まで待ちましょう、と言う。もっともなことだからもちろん了承したが、例の手紙のことは秋山さんに言いそびれてしまった。だから秋山さんが手紙のことを知っているのか知らないのか、私はいまだに知らない。

『荒川の佐吉』のことは、同じことを言うにも、物の言いようということがある、と今では思っている。本人が念願の役だと言っている時には迂闊にくさすものではない、と忠告だか助言だかをしてくれた先輩もあった。これは、その含蓄を汲み取るべき言葉と思って聞いた。たしかに、この『荒川の佐吉』は好評で、とりわけ相政の役に当時九十二歳という島田正吾がつとめて神韻縹渺とした趣きが印象的だったし、当時歌昇の辰五郎と二人、貧苦の中で卯之吉を守り抜くところなど、まるでO・ヘンリーの小説でも読むような味わいがあって新鮮な感じがしたと、たしか中村哲郎さんが書いているのを読んで、なるほどなァと感心したりもした。評する一言が、読み取る側を右と左に大きく分けてしまう。私にしてもあの『荒川の佐吉』を、舞台成果として悪い成績だったと思ったわけではない。ある一点を取り上げて指摘するときの、その一言を、どういう言葉でどう表現するかということなのだ。

さて再び夏が来て、八月の納涼歌舞伎で勘九郎は『義経千本桜』の「四の切」の忠信を演じた。私はそれを書いて『演劇界』の9月号に載せた。一回分だけ飛び離れた形で掲載されたので、パートⅡが始まるのかと思った読者もいたらしいが、連載はそれで完結し、更にうまい具合に話がまとまって、翌年の7月に三月書房から同じ『21世紀の歌舞伎俳優たち』という書名で出版できることになったのだったが、ところで、話はその前にある。

その年の12月の歌舞伎座夜の部で、勘九郎は『籠釣瓶』の次郎左衛門を初役で演じた。たまたま、かどうか、その歌舞伎座の夜の部の劇評を、『演劇界』は私に書くように言ってきた。この月は、現猿翁の猿之助と團十郎が初顔合わせというのが一つの目玉だったが、(思えば世紀の変わり目のこの頃が、戦後第二世代歌舞伎の花が大きく開いた、ひとつの良き時代であったかもしれない。猿之助と團十郎はこの後、俳優祭の仕切り役を二人でつとめたり、猿之助はまた勘九郎とも、春秋座で『髪結新三』を初役でするにつけて教えを乞うたのが縁で、『上州土産千両首』を共演したりした)、勘九郎にとってもこの治郎左衛門は期するところある役だったことは疑いない。父の当り役に挑戦するについて、父と自分の共通するところ、また異なるところを、あれこれ思ったに違いない。

果たして勘九郎は、序幕の見初めで八ツ橋を見送りながら薄笑いをうかべるとか、いろいろ工夫を試みるなど、用意研究を凝らした治郎左衛門を見せた。それはよくわかるのだが、さて、もうひとつ手放しでほめる気にはなりにくい。これを、どう評したものか? で、たぶん10枚だったと思うがその枚数の過半を費やしていろいろ述べた後、結局これは興味深い試作品であり、性急に評価を急ぐべきものではないと結論した。終わりの部分だけをちょっと引用する。

何だか気むずかしい、意地の悪い言い方をしているように受け取られては困る。(勘九郎氏よ、どうか腹を立てないでもらいたい!)そうではない。私は勘九郎の意図したところと、それが現われたところに微妙なズレがあるのではないかと疑い、それをうまく伝えられないのをもどかしい思いで書いている。何故なのだろう? とそのことが、私にとっては一番気になることである。縁切り場を見終わって私はへとへとになった。勘九郎の苦闘がわがことのように思いやられたからである。一球一球はいい球を投げていながら、それが微妙なところでツボに入っていかない投手の苦闘、というか。

私は是非、次回を待ちたいと思う。今回だけで結論を出してしまいたくない。興味津々たる試作品、と敢えて呼ぼう。勘九郎は未踏の領域へ挑戦しているのだ。

この、勘九郎氏よ、どうか腹を立ててくれるなと括弧をつけて書いたことに、ある友人は、またあんな余計なことを言ってとはらはらし、大先達利根川裕さんは、ありゃ実に面白かった、と劇場のロビーでわざわざ私を呼びとめて笑った。(たしかに、こういうことをつい書きたくなるのは、私の悪い癖かもしれない。山陰地方の血は私の出自には入っていない筈だが、因幡の白兎の血がめぐりめぐって私のDNAに紛れ込んでいるのかもしれない。)

翌月、というのは西暦2000年の年が明けた正月の歌舞伎座で、勘九郎は『娘道成寺』を夜の部の中幕といういいところで踊った。その開幕前のロビーで、私は勘九郎の番頭の石坂清司氏に呼び止められた。石坂氏ともこの時が初対面である。氏は、勘九郎からこれを、と言って一通の封書を私に手渡した。和紙の封筒に固く糊付けしてあって、おそらく勘九郎自身の筆跡と思われる毛筆書きで私の宛名が書いてある。

開けてみると、怒る訳がないじゃありませんか、とあって次に、今でしか踊れない白拍子花子をどうか見てください、とあった。小心な友人の危惧は杞憂であったわけだが、やがて幕が開き、勘九郎の白拍子花子が踊り始めた。「今でしか踊れない白拍子花子を、とはご当人の弁だが、まさにその通りの道成寺だ。五年前にはあのたおやかさ、芸のふくらみはなかったし、年が行ってはあの動きは出来まい。前段はしなやか、中段はたっぷり、後段は疾風迅雷。その間の味付け方が勘九郎シェフならでは」と新聞評に書いた。

勘九郎が(もし読んだとして)これをどう思ったかはわからないが、それからややあって、十七代目の十三回忌追善興行を四月の歌舞伎座で催すについて、報道関係や劇評家などが勘九郎から一席設けて招待されるということがあった。神楽坂の料理店で20名ほど、あるいはもうちょっといただろうか。皆、平素通言で御社日と通称される劇場招待日に顔を合わせている面々である。改まっての挨拶もそこそこに、あの件、まったく異存ありませんからどうぞ、と勘九郎が言ったのは、ちょうどその頃、例の『21世紀の歌舞伎俳優たち』を出版するについて、各優に了解を求める手紙を出した後だったからで、つまりこれで、「あの件」に関する問題はすべて落着したということを意味していた。

はじめに、親父の13回忌追善をどうぞよろしくという挨拶があって、あとはざっくばらんな歓談に終始した。やがて一旦お開きとなったところで、勘九郎から、近いところだし我が家にいらっしゃいませんかと声があって、タクシーに分乗して小日向の家へ招じられた。一々は覚えてないが、ほとんどの人は行ったと思う。小日向の家は十七代目が建てた家で、もちろんこの時はすでに勘九郎が当主になっていたわけだが、まだ、十七代目の家、という雰囲気が強く感じられた。家に帰ると親父がいつもこの椅子にむっつりと座りこんでいてね、何とも言えない雰囲気だった、というような思い出を勘九郎が語って、そうだったろうな、という感じで皆、頷いたりした。

ここでも、三々五々の歓談だったが、どういう脈絡でだったか、他の人もいる前で、「あの時」のことが話題になった。私は言った。「でもね、話せば絶対分り合える筈だと思っていたよ。不思議なようだけど」と言ってから、「でもやっぱり、困ったなあとは思ったけどね」と付け加えると、勘九郎がにっこりと笑った。人なつっこい、いい笑顔だった。(つづく)

随談第456回 新春各座あれこれ(増補修正版)

あけましておめでとうございます。本年もご愛読賜りますよう。

と、挨拶はしたものの、劇場を見て回り、頂戴した賀状を読んだ限りの印象では、歌舞伎をめぐる新年の話題はどうも明るいとは言い難い。新しい歌舞伎座の話ももちろん出るが、旧臘の勘三郎ショックはまだ生々しいし、おまけに新春早々、團十郎休演に加えて、大阪では猿翁も二日目には休んだという報が伝わってくると、事は、そうですか、それは残念、というだけではすまなくなってくる。以下は、正月の各劇場のロビーで聞いた声である。

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曰く、團十郎は大丈夫なのだろうか。4月の歌舞伎座開場を控えて3月には『オセロ』をするというが、年齢からいっても今更『オセロ』でもあるまいではないか? あの大病をする以前ならともかく、油断といったら酷かもしれないが、元気になって体をいとうことを忘れてはいまいか? まだチケットを売り出していないのだし、今からでもやめるわけには行かないのだろうか。 團十郎クラスの役者なら、ひと月働いたら次の月は休むということにしたっていいのではないか?

曰く、一般の勤め人なら勘三郎の死は過労死ではないか? 猿翁にしても勘三郎にしても、意欲のあまり自らも求めてしたことではあるが、体を酷使した結果であることは否定できまい。

曰く、歌舞伎座建替えの3年間に、これだけの人材を失うことになろうと誰が考えたろう?建物自体の老朽化もさることながら、第一線クラスの年齢を考えれば、建替えはまさにラストチャンスぎりぎりだったのではないか? 新しい歌舞伎座は出来たが役者がいないでは、ブラックユーモアにもならない。われわれはいま、恐るべき時代の狭間に立っているのではあるまいか?

曰く曰く曰く・・・もう、このくらいにしよう。翻って言うなら、歌舞伎を真剣に心配している人がこれだけいる、ということでもあるわけだが。

(著者謹言:これを書いた翌日、團十郎の『オセロ』出演取りやめが発表になった。翌月の歌舞伎座杮落としに備えるためとの由。まずはほっとした。)

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今度は新年各座駆け回り記と行こう。劇評とはまた別に、見た順で。

まず浅草歌舞伎。海老蔵が4演目すべてに登場するが、順位をつけるなら第1位が『対面』の工藤。周囲は若手ばかりとはいえ、おのずから座頭の風があるのはそれだけが理由ではない。併せて、祖父11代目團十郎のこの役がそうであったように、座頭役であると同時に敵役らしい「悪」をはらんでいるところが魅力的である。第2位は御馳走で出た『毛谷村』の斧右衛門。芸はよくとも御馳走にならない人もあるが、海老蔵は立派に御馳走になっている。天性のスターである証拠だ。第3位は『勧進帳』の弁慶。何よりいいのは、荒事をはらんで弁慶そのものであること。半面、不必要に目を剥いてみたり、その他独善が多い。常に「確信犯」であるのが海老蔵の魅力とはいえ、それもプラスに働いてこそだ。第4位が幡隨長兵衛。序幕、あれでは仲裁どころか、火に油を注ぎに出たようだとの声あり。何より、世話に時代あり時代に世話ありというのがこの手の役の妙味のはずが、セリフにその用意が感じられない。自分にはまだ早いですが、とパンフに自ら語っている。本気でそう言ったとすれば己れを知っているのが救い。・・・というわけで、自分の出し物より付き合いに出た役の方がよかったというのは皮肉だ。

『毛谷村』は愛之助も壱太郎もそれぞれのレベルでよくやっていると思うが、微塵弾正に額を割られたり、踏ん込む庭石が持ち上がらなかったり、その他その他、この素朴なメルヘンのごとき芝居を面白く見せるための先人の工夫を生かさず、敢えて(であろうが)地味なやり方をしている。それぞれ理由はあるのだろうが、この種の芝居になまじな合理主義を持ち込むと却って変痴気論に陥る。それより、お幸の入込みから見せるとか、内容理解に役立つことを考えた方がいい。ところでそのお幸役の上村吉弥が素敵である。吉之丞老いて老女役払底の折、この人あらば、と思わせられる。

新橋演舞場は雀右衛門追悼で『七段目』のおかると『吃又』のお徳を芝雀がやるが、この人ここ数年来の実績はもっと高く評価されるべきである。上げ潮の中、雀右衛門襲名を考えて然るべきではなかろうか。それにしても『七段目』はよかった。平右衛門とおかるがじゃらじゃらと語り合う場面は、廓という歓楽の場の夜も闌けてゆく感じがまさに大人の芝居の風格があった。秋の夜更けのアンニュイ。『七段目』というのは、見る側も快い疲労を覚えながら見る芝居なのだと思う。

ところで幸四郎が福助と『戻橋』をやっているが、二人とも、この手の明治出来の作がよく似合う。次は『大森彦七』辺り如何?

国立劇場で、横綱審議委員の田之助が横綱免許を司る吉田追風の役をやっている。もっともこの洒落を観客の何パーセントが解しただろう? しかし、初心者に猫撫で声で語りかけるばかりが能ではない。ときにこういうややハイブラウな(というほどでもないが)遊びもあって然るべきである。ところで菊之助が初代横綱明石志賀之助という相撲取りの役を演じてなかなか格好いいが、菊サマのこういう役は見たくないとの声も少なからず。この前の勝奴といい、ご当人としては立役志向の現れか?

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クイズをひとつ。今月各座で上演の演目のうち、次の演目の共通項はなんでしょう?

『毛谷村』『幡随長兵衛』『吃又』(答えは末尾に)

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前進座劇場のさよなら公演で『三人吉三』を通しでやっている。万事につけ前進座流だが、これはこれで悪くない。前進座らしい解釈、テキストレジイ。大詰も原作通り、三人、巴になって刺し違える、とした上で、改めて絵面になって幕を切るというなかなか考えたやり方をしている。これは推奨して然るべきだろう。もっとも、前進座流几帳面も珠に瑕で、「伝吉内」で伝吉が放り捨てた100両の結末を、通常「御竹蔵」でお坊吉三と伝吉のやりとりにして結末をつけるところを、原作の指定に戻して「大音寺前」にしたのは考え過ぎだろう。木屋文里の筋を出さない以上、(つまりあの間、じつは一年という月日が経っているのだ。それを「伝吉内」から釜屋武兵衛を追いかけて行ったことにしているのが現行脚本で、今度もそれに則っている以上)、「御竹蔵」でないと武兵衛も伝吉も老人の割に大変な長距離走者ということになる。いくら駅伝シーズンとはいえ・・・。

矢之輔の和尚はほぼ予期通り。芳三郎のお坊が一番安定しているのは仁の良さ故。国太郎のお嬢はあ、かなり女性的な面を全面に出しているのが、序幕ではやや違和感もあったが、吉祥院では効果を挙げた。

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三越の新派は昭和24年の木下恵介監督の松竹映画『お嬢さん乾杯』の劇化。『麦秋』『東京物語』に続く路線だが、『桜の園』をパクった『安城家の舞踏会』を裏返して喜劇(つまりめでたしめでたしに終わる劇)に仕立てたのだということに、今度見ながら気が付いた。映画のシナリオは新藤兼人だが、ああ見えてなかなか洒落ていたのだ。映画の佐野周二の役(『桜の園』のロパーヒン)を正直者の好人物にしたのがミソで、月之助がなかなかいい。原節子役の旧華族令嬢が瀬戸摩純だが、映画だとドライヴをしたり拳闘(ボクシングとはいわない)を見に行ったり、という、つまり『ローマの休日』を先取りしたような映画ならではの場面が舞台では無理なので、ここらが映画台本からの舞台化のむずかしいところ。それと絡んで、瀬戸の演じるこの令嬢が原節子のそれより大分おとなしやかに終始するのがちと歯がゆい。祖母の役の青柳喜伊子が、往年、この手の老女役をよくやっていた岡村文子を彷彿とさせて面白い。(もっとも、この映画では東山千栄子の役だが。)

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クイズの答え。『毛谷村』では微塵弾正と六助が、『幡隨長兵衛』では長兵衛が、『吃又』では又平が、それぞれ舞台の上で裃袴をつける。局面が違うとはいえ、これだけ重なるのも珍しい。