随談第427回 今月のアラカルト

今月は国立劇場が一番だった。『熊谷陣屋』の前に『陣門・組討』をつけるのは慣例化しているが、あれをつけたからと言って、『陣屋』の全貌が見えてくるというわけではない。『陣屋』は『陣門・組討』の謎解きであり、それ故に、とくに「物語」の件など、播磨屋型の緻密な演出が出来上がっている。おそらく、はじめからいまのようなやり方だったのではなく、幾度となく演じ重ねる内に完成していったのだろう。余は何故わが子小次郎を敦盛の身代りにしたのか、ということを、藤の方と相模に向かって暗黙裡に語り聞かせるという趣きが強い。「物語」を途中幾度か中断して、二人への気配りも充分に諄々と語り聞かせる。それを吉右衛門ほどにやってくれればなるほどと納得するが、実はちょっと煩わしい感もないではない。

今度のは、『一谷嫩軍記』の全体の中に『陣屋』を置く、という指向がはっきり見えている。だから『陣屋』が新鮮に見える。ちょっと目から鱗の趣きがある。團十郎の熊谷が、『陣屋』だけのときにはやや粗削りで、悪くはないがいまひとつの感もあったのが、実に雄大剛毅で、「物語」が実に立派に見える。『嫩軍記』の熊谷の人物像としては、やはりこの方が本来であろう。ここまでくれば、いっそ芝翫型でやったらとも思うが、団十郎のあの顔、あの柄なら、今のままでも充分目的は達している。それというのも、「物語」がいいからだ。「敵と目指すは安徳天皇、それに従う平家の一門」と本文通りに言うのも、「堀川御所」で三種の神器のことを踏まえてのことだろう。国立劇場が、久しぶりに開場間もない頃の通し上演主義に戻ったような感がある。

もっとも、今度の脚本はあくまでも『陣屋』を主体に構成しているから、「堀川御所」など、必要最小限に絞った以上、無理もないとはいえ、義経と時忠が八百長をやっているような感もなくはない。まあ、それはやむなしとしても、『流しの枝』は、単に『陣屋』の前段というだけに留まらず、もう少しこの段としての扱いを重くしてもらいたかった。秀調という人は好感の持てる役者で私は贔屓なのだが、「林住家の段」なる一幕の人物としては重みがない。『陣屋』への前段として、筋を分からせるという限りでの用は足りている、というだけに留まったのは残念だ。一座には、せっかく東蔵という人が藤の方で出ている。ここは東蔵にさせてみたかった。それにつけても、昭和五十年の前回上演の折の市川福之助の林が鮮やかに思い出される。実を言うと、孝夫の忠度よりも、海老蔵の六弥太よりも、記憶に強く残っている。

魁春が、筋書の出演者の弁で、やっと相模をやらせていただけるようになりました、と語っているが、果して、満を持した如き相模である。何故かこの人を強く推す声があまり聞こえないが、この前の政岡にせよ、いまや歌舞伎界全体からみても、立女形と言って差支えあるまいと思うのだが。

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他にも好舞台、好演技がなかったわけではないが、平成中村座の評は今度出る『演劇界』にも書いたし、他も、新聞に書いたことに強いてつけ加えることもあるまい。『小さん金五郎』などという芝居は、梅玉と時蔵がああして努力してやっているのを、上方の匂いがどうのと言っても仕様がないだろう。私は決して、つまらないとは思わなかった。ただ、秀太郎が出てくると、まるで空気が違うのは如何ともしがたい。あんな役はもう、秀太郎以外誰にさせたって、不可能に違いない。一生懸命英語劇をやっているところへ、ひとりネイティヴスピーカーが登場して、それもロンドンの下町のコックニイみたいなやつをべらべらやるようなものだろう。秀太郎はあのひと役だけでも無形文化財に値する。

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市川鯉紅が死んだそうだね、と聞いたのは、二月初め、新橋演舞場を見たときだった。その時でも既に、随分日が経っていて、実際に亡くなったのは年末だという。つまり半四郎や芦燕と同じころであったらしい。團十郎が知ったのでさえ、年が明けてしばらく経ってからだったらしい。事情はいろいろあるのに違いないが、鯉紅に限らず、しばらく舞台に姿を見ないなと思っていたら・・・というケースは、私が知ってからだけでも、決して少ないとはいえない。役者の世界なんてそういうものなんだよ、などと、訳知り顔に言う人もあるが、また事実そうでもあるのだろうが、どんな小さな役をやる役者であろうと、永年月見てきた者にとっては、忘れ難い記憶があるものだ。まして鯉紅など、一個の名物的存在だったのだ。大立者の訃報を聞くのとはまた別の、何ともいえない思いが残る。

と、言っているところへ、今度は澤村鐵之助の訃報を聞いた。私が彼の存在を知ったのは、勘弥門下で守若から佳秀といった頃で、その後澤村藤十郎門に入って藤車から鐵之助という、紀伊国屋にとっては大切な名前を継いだのだったが、元々は澤村訥子門下で、小芝居種を知っていたり、その貴重さはもっともっと重用されて然るべきだった。せめて『老後の政岡』を見せてもらっただけでも、瞑すべしということか。(それにしても、田之助門下だった小主水といい、田門といい、あの弥五郎といい、喜の字屋と紀伊国屋を門弟が往来する例が多いのはどうしてなのだろう?)

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淡島千景のことも書くつもりだったのだが、すでにかなりの長話になってしまった。別の機会にしよう。

随談第426回 かのように

何やかにや、種々の原稿締め切りが次々と待ち構えている上に確定申告も重なって(税理士など雇っていたら我が家の食い扶持がなくなってしまうから、書類というものを書くのが、更には、その書式の説明書きを読む(解読する)のをたまらなく苦痛と感じる私だが、こればかりは自分でやるしかない)、それに追われているうちにこのブログも425回のまま随分と放置してしまった。その間に3月11日が過ぎていった。幾つか、書こうと思うことも思い浮かんでいたのだが、その間に見聞きした事どもを思うに付け、意欲も減退してしまった感がある。

結局、一年前に予言(というほど大袈裟なものではないが)めいたことを書いたのが、やっぱりその通りになってしまった、というのが今の実感ということになる。いずれ、国家経済のためには原発は必要だという大合唱が起るだろうと書いたのだったが、大合唱を起すまでもなく、暗黙の裡にそのように初めから決まっているのであるらしい。あの当時、元保安院だか何だかの人がテレビで、まあ当面は原発廃止の声も高まるでしょうがいずれは納まるでしょう、原発は津波がなければ、地震だけだったら大丈夫だったでしょ?などと、何が嬉しいのかニコニコしながら喋っているのを見て唖然としたものだったが、あの人は正直な人だったのだ。(なんという人だか、なかなかスマートで上品な老紳士だったっけ。)玄有宗久という坊さんが、今日の新聞で、去年の四月に「復興構想会議」のメンバーになっての第一回会議で、議長が「原発は議題にしない」と発言したと語っている。議長の発言がどういう文脈でのことか知らないが、なるほどね、という感じである。

やっぱり、この国は成行きでしか動いて行かない国なのだな、ということである。政治だか経済だか知らないが、いわゆる中枢を握る層をなしている人たちというのは、「いま」を変えたくないのだ、「いま」いる場から動きたくないのだ、ということに尽きる。地震や津波や原発事故は明日にも起こるかもしれないが、起らないかも知れない。起らない、と仮定した場合の理屈や方法は、この人たちはいろいろ考え出すことが出来るが、起った場合のことはよくわからないから、考えが及ばない。それなら、よく知っていることだけで仕事を進めたい。よくわからないことは、起らないことにしてしまおう、というわけなのだろう。かくして、地震と津波は起るかも知れないとしても、原発事故は起らない(かのように)事はなし崩しに進行して行くことになる。

東電がずいぶんしぶといのにも感心するが、あれも考えてみれば、原発というのは国家の事業であって、自分たちはそれを請け負っているだけなのだから自分たちには責任はない。責任は国家に請け負ってもらって、自分たちの使命は国民に電力を供給することだけに尽きる。そのためには料金値上げをすることも使命を全うするためには不可欠のことであり、従って権利ですらあるのだ、というのが彼らの理屈に違いない。なるほどそう考えれば、あのしゃあしゃあとした態度もおのずから読めてくる。まずかった、とは思っても、私たちの責任ではありませんよ、というのが本音なのだ。少なくとも、本音である(かのように)押し通そうというのだろう。そうと決まれば、必要なら被災者の前で土下座するぐらい、ズボンの膝が少々汚れるだけのことに過ぎない。一分間の黙祷なら、手も汚れずにすむ。

かくして、世はすべて事もない(かのように)過ぎてゆくのだ。

随談第425回 雀右衛門の歳月

雀右衛門が亡くなって、ある思いが胸をよぎって、そのまま去らずにいる。個人としての関わりがあったわけではないし、格別な思い入れを持ったということがあったわけでもない。にも拘らずこれは、一体どういうことなのだろうと、自分でも、一種、いぶかしいほどだ。

新聞に書いた追悼の文に中に、不死身のジャッキーとか、熱帯のジャングルとか、ジーンズ姿でバイクに乗って楽屋入りしたとかいう言葉を、まるでちりばめるように私は書いた。決して低次元な意味で奇を衒ったのではない。しかし、その死に当って越し方に思いを馳せて雀右衛門を語るのに、私には、こういうことは抜きに出来ないことだった。

人間国宝の名優が死んだ、その人の芸がいかにすぐれ、かくかくしかじかの当り役があった・・・といったことを書くのが、追悼文というものの常套であるだろう。もちろん、雀右衛門についてそうしたことを書き並べることは、別にむずかしいことではない。しかし、新聞という、歌舞伎と歌舞伎ファンが作っている小社会のはるか何層倍も大きな社会に向けて開かれている場で、そうした美辞をいかに連ねたところで、九割方の読者には何の感興も呼び覚ますことはないだろう。もちろん、それは雀右衛門の場合に限ったことではない。しかし、追悼記事というものが、その人の最も圧縮された形での評伝であるとすれば、雀右衛門を語るのに、とりわけ、その生涯は、その生きた時代との関わりを抜きにしては語れないと思うのだ。ジャッキーと呼ばれたことも、ジャングルの六年間も、ジーンズも革ジャンもバイクも、雀右衛門を語る上で、深く、欠かすことのできない意味を持っていたように、私には思えてならない。

映画俳優大谷友右衛門時代のことも、私は書いた。今更、と考える方がむしろ常識かも知れない。どうしてもイメージが舞台姿と結びつかない、という声も聞いた。確かに、半世紀以上も遠い昔の話である。しかし私は、映画俳優大谷友右衛門を、名女方雀右衛門一代を語る上で抜かすことはできないと思っている。映画界で、映画俳優大谷友右衛門が如何なる評価を受けているのか私はまったく知らないし、そういう話をしようというのでもない。『佐々木小次郎』よりも、『お国と五平』よりも、あるいは『青春銭形平次』よりも、溝口健二監督田中絹代主演の現代劇『噂の女』に登場する、リーゼントスタイルに頭髪を固めた軟派の医師の役で登場する友右衛門が、いま私が言おうとしていることに、イメージとして最もふさわしい。二十代の大部分を戦地で(熱帯のジャングルで)で過ごし、復員して一介の若者として昭和二十年代の日本の現実に放り出された男。言ってしまえば「戦中派」ということだろうが、私は、ロイド眼鏡をかけポマードをてかてか塗ってリーゼントスタイルにまとめた大谷友右衛門の姿を忘れることは出来ない。80歳まで、革ジャンにジーンズでバイクに乗って楽屋入りした、というのは、単なる趣味でもファッションでもないだろうと思いたいものが、私の中にあるのだと言ってもいい。その意味では、猿之助や勘三郎より、雀右衛門こそ、その生きた時代と最も鋭く切り結んだ歌舞伎俳優だったのだ、と私は信じる。

名優雀右衛門、という一点だけに話を限るなら、雀右衛門は、戦後歌舞伎、というより、平成時代の名女方というべきであろう。歌右衛門が、既にもう舞台に立つことがなくなってから、この人は漸く、大輪の花を咲かせたのだったから。実年齢わずか三歳の違いでありながら、中堅世代、次の世代の人として、世代差がその間に存在していたのだった。しかしそれからの数年間、いやもうちょっと長くスタンスを取ってあげたい、10年余、雀右衛門は遂に、自分の時代を持ったのだった。

(もちろん、私個人の、オタク風に自分だけの小部屋に閉じこもるような好みの話をするのだったら、たとえば昭和三十九年五月の歌舞伎座、十一代目團十郎が生涯ただ一度の管丞相を勤めた『菅原』の半通しの折、「筆法伝授」で戸浪を勤めた雀右衛門(いや、あのときはまだ友右衛門だったのだ! あの4ヵ月後の九月に、雀右衛門になったのだったから)の、まさに触れなば落ちん風情とか、始めたら切りもなくありますよ。しかし今はもう少し、客観性を持った話である。)

覚えず、肩に力が入った物言いになってしまった。(どうしてだろう?)私の書いた追悼記事を、何人の読者が読んでくれるか知らないが、たとえ一人でも二人でも、エッ、中村雀右衛門ってあの大谷友右衛門のことなのか、それなら知ってるよ、懐かしいなあ、と気がついてくれる人がいたなら、それだけでも、とても嬉しいことだと思っている。

随談第424回 勘九郎襲名をめぐる劇評ではない劇評

大分長らくご無沙汰してしまった。勘九郎襲名のことも、長々しく書くにはちょっと時宜を逸してしまった感もあるが、「口上」を見ながら改めて思ったのは、なまじな大一座でないだけに、列座の諸優のこもごも述べる口上が、きちんと心が籠っていて好もしかったことと、勘三郎が親父としてこの倅のために如何に心を砕いているかという、その二つのことである。

勘太郎という青年は、本当に列座の皆から好もしく思われているのであろう。と書くのが却って皮肉めいて取られやしまいかと気になるぐらいに、われわれから見ても好青年だが、我当とか秀太郎とか東蔵とかいった人たちが、あれだけ内実のある口上を述べてくれたことは、われわれ観客にとっても快いことだった。山、高きが故に尊からず、口上また、人多きが故に尊いのではない。

親父である勘三郎の口上も質実でよかった。改めてその真情(心情)を思ったのは、仁左衛門にせよ、久しく共演することのなかった吉右衛門にせよ、僚友ともいえる三津五郎にせよ、「人」を大切にすることが、自分一個のためだけではないということを、わが子の襲名に当ってよく考えたに違いないことが、おのずから伝わってきた故である。

昨秋、勘太郎が菊之助と踊った『関の扉』の関兵衛が、大曲・大役と精一杯取り組んで、未だしの点はいろいろあったにせよ、立派に踊りぬいた。特に、後段の関兵衛の格の高さ、大きさは見事なものだった。指導を受けたという、吉右衛門の存在の大きさが改めて思われたことだった。と、そういったことが、勘三郎の口上を聞きながら、惻々として伝わってきた。別に、倅のために功利を図って仲直りしたわけではないだろう。しかし、襲名を目前にしてあの関兵衛を演じたことが勘太郎、いや勘九郎のこれからにとって、どれだけ大きな意味をもつことになるであろうと思えば、親としての勘三郎の心情が察しやられるというものだ。

吉右衛門との共演が絶えたのは、何時からであったろう。どういういきさつ、どういう理由があったのか、双方の言い分を聞いたわけでもないし私には実情は知りようもないが、その分、それ以来の何年間だかの歌舞伎を痩せたものにしていたことは間違いない。以前に、勘三郎のお玉に吉右衛門の西郷でやった『西郷と豚姫』の面白さなど、この二人ならではないものとして、ついこないだのことのように、いまも記憶に鮮やかである。お玉役者、西郷役者が他にいないのではない。しかし、この二人のこの組み合わせの面白さは、他にはない。事はもちろん、『西郷と豚姫』だけの話ではない。現に見よ。このほど二人で見せた『鈴ヶ森』を。これとても、権八役者、長兵衛役者は他にもいるが、これぞ江戸歌舞伎と実感させるあの面白さ、あの肉厚の味感は、この二人の顔合せ以外では求められないものだ。

権八というと、いまもまず思い出すのは、先代十七代目が随分晩年に演じた権八である。実を言えば、もうそのころの十七代目というのは、かなり肥満もしていたし、以前の盛んなころにあった精悍な感じが失せ、おそらく体調から来るものだろうがちょっと大儀そうな様子も感じられるようになっていた。このときの権八も、実を言えばそうした感を拭い去るものではなかったのだが、むしろそれ故に、というべきかもしれない。印象からいうなら、五頭身か六頭身かぐらいに思われるほど、大きな顔に見えた。七十歳を優に越えていたに違いない年齢も、そこには刻まれていた。もしあの時、はじめて歌舞伎を見に来た人がいたなら(きっといたに違いない)、グロテスクと思ったに違いない。ナニ、私だって、これはグロテスクだと思った。(ゲゲゲの鬼太郎の作者がもしそのとき客席にいてスケッチに描いたなら、すばらしい傑作が出来たに違いない。)だが今にして思えば、あのときのあの権八ほど、それ以前それ以後に見た誰のどの権八よりも、それは見事に権八であったと断言できる。まさしくそこには、権八そのものがいたのだった。権八という役、幾多の権八役者が演じ重ね、演じようとしてきた「権八」という存在そのものが、そこにいた。

饐(す)えたような面白さ、と知り合いの見巧者の女史は言った。その言の意味も面白さも認めながら、しかし、私の見たのはそれとは違うと思った。グロテスクだから面白いのではなく、グロテスクの中に、権八という役の本質が生きて存在していたのだ、と思う。十七代目という役者の凄さを、私はそこに、目の当たりに見たのだと思う。

今度の十八代目の権八は、当然だが、まだそんな「物凄い」ものとは違う。(もう少し、目が生きるともっといいと思う。)しかし、十七代目の中に私が見たのと同じものが、その中には生きている。正直に言おう。病魔から復活してから、私ははじめて、勘三郎に安堵を覚えたのだった。

随談第423回 1月のア・ラ・カルト

まず旧臘の訃報から。歳末25日の朝刊に半四郎と芦燕の訃報が載った。芦燕は近年まで舞台を勤めていたが、半四郎は、舞台に姿を見なくなってから久しく、ほとんど忘れられたようになっていた。『かぶき手帖』などでも、扱いはごく小さくなって、多少なりとも昔を知る者には、うたた今昔の感、という古い言葉がまさしく実感だった。

ところが新聞の扱いは、芦燕は一段だけだが、半四郎は三段抜きで小さいが顔写真まで載っている。正直、ヘーエと思った。社会部の発想からすると半四郎の方が有名人なわけだが、新聞社の現役に、仁科明子の父親としてならともかく、かつての寵児半四郎を知っている人はもういないだろう。黒沢の『虎の尾を踏む男達』で義経をつとめたのはまだ十代の笑猿時代だが、昭和20年代の映画、それも現代劇でアプレゲールの青年の役をよくやっていたのが、もしかすると、半四郎の個性が一番生かされたものであったかもしれない。昭和28~9年頃、NHKのラジオで今の大河ドラマの格で長期にわたって連続放送した『源義経』で主役の義経役をつとめ(村上元三原作の、十余年後に今の菊五郎が大河ドラマで演じたのと同じものだ。先代錦之助も東映で映画にしている。つまり、その時代の最も颯爽たる御曹司俳優の勤める役だったわけだ)、民放ラジオでもこれも長期連続の『雪之丞変化』で雪之丞を演じている。(八代目中車が語り手と闇太郎の二役だった!)その当時、歌舞伎を知らない人でも知っている歌舞伎俳優の代表が、大谷友右衛門と岩井半四郎だった。

芦燕は、今となると惜しい存在だった。決して尻尾をつかませない人ですね、と亡くなった志野葉太郎さんが、『演劇界』で対談評をしたとき評した一言が印象に残っている。何をさせてもするべきことを過不足なくする人。私としては、『かぶき手帖』に載せたのがこの人についての最後の人物評となったことを、密かに嬉しく思っている。

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京須偕充『落語[百年の名人]論』を読んだ。電車を待つ間にふと入った、駅中の小さな書店で見つけたのだが、発行は去年の四月となっている。標題に掲げたタイトルは実は副題で、正規の書名は『こんな噺家は、もう出ませんな』というのである。

京須さんという人は、どうも東京の、それも神田界隈の生まれだということを、こんなことは自慢するにも当らないというフリをしながら結局は吹聴しているようなところがあって、(そのポーズ、わからなくもないのだが)そういう箇所になると背中がむずがゆくなるのが玉に瑕だが、しかし何といっても六代目圓生の絶大な信用を得てかの『圓生百席』をプロデュースした人である。とにかく読ませる。文章も、この本に関する限り、火照りが鎮まって、気に障るような物言いはぐんと影を潜めている。

落語における「名人」という存在についての、いわば考証なわけだが、近頃落語のCDの謳い文句などによく見かける「昭和の名人」というような物言いにひっかかるものを感じたのが、発想にあるらしい。「百年の名人」とは、「名人の時代」というものが1900年に死んだ圓朝に始まり2001年に死んだ志ん朝に終るということなのだが、六代目圓生は、圓朝が死んだのが七月でその九月に生れた自分は生れ変りだと言っていたらしい。もちろん、エヘヘ、と圓生を知る人なら誰でも聞いたことのある、あの笑いに紛らせてのことだが。また圓生は、あたしの後は志ん朝でしょうとも言っていたという。名人とは、本人がそう自称したからと言って皆がそう認めるわけでもなし、高い技量を持ち、時の頂点を極めても名人とは呼ばれなかった噺家もある。名人というものの存在を皆が信じ、求めた時代がかつて存在したがゆえに・・・というようなあれやこれやを、薀蓄を傾けて考証するわけで、その語り口が一種の名人芸風になっているところがミソといえる。

しかし一番面白い、というか著者の見識が最も素直に窺われるのは、「あとがき」の後の巻末に、付録のようにして付け足した「私が見てきた亡き十人の噺家」という20数ページだろう。志ん生、文楽、金馬、正蔵、可楽、圓生、三木助、小さん、馬生、志ん朝という(何代目とことわる必要はないだろう)顔ぶれで、これはどれも見事である。人物評というのは、ものものしく長編にして論じるより、短文のエッセイが一番いいと、近頃私は頓に思うようになっているのだが、これもその一証例といっていい。

ところでこの本には、かの談志は論の対象としては全く登場しない。その名前が出るのは、文楽の最後の高座となった昭和46年8月31日、国立劇場での落語研究会の折の文楽の出番が、柳家小満んの次の二番目で談志の前だったという、たった一箇所だけである。

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ダルビッシュが札幌ドームでファンの前で行なった、何故自分はメジャーリーグへ行くのかを語った会見が高い評判を得ている。私も、テレビの報道でサワリを聞いただけだが、見事なものだと思った。誰かも指摘していたが、夢だの何だのということを一切言わない。(1)日本のプロ野球の現状ではモチベーションを保つのが困難になったので新たな場を求める。(2)日本の野球が下に見られる現状が我慢ならない。要するにこの二点だろうが、これほど明快に動機を語った者はかつてない。自他をはっきりと見切っているが故の明快さである。田舎者が風呂敷包みを背負ったお上りさんスタイルと無縁なのが天晴れだ。

これまでかなりの数の選手がアメリカに渡ったが、行った意味があったといえるのは、野茂とイチローだけだと私は思っている。(長谷川とか岡崎とか大家とか、別の意味で興味深いケースもあるが。)イチローとダルビッシュに共通しているのは、自分と日本の球界とメジャーリーグの野球と、三者の関係をきちんと見切っている点にある。

一番よろしくないのは、メジャーへ行ったはいいが、ぐじゃぐじゃ曖昧になったままいつまでも居続けて、浦島太郎みたいになってしまうことだ。腕試しをしたいというなら、三年なら三年と決めて、ぴしっとやるだけやって帰ってくるべきだ。そうして、向こうで得たもの、ひと回り大きくなった自分を披瀝して、日本の野球のために働くべきだ。新庄が卓抜だったのはその点にあった。今のところ、アメリカから帰ってから評価を高めた唯一の選手であろう。めろめろになってから帰って来た御仁もあったが、ああなってしまってからではなあ。M氏なども早く見切りをつけて、横浜にでも入ってチーム優勝に貢献したら、その方がよほど格好いいのだが。

随談第422回 ひさしぶり相撲話

今場所はひさしぶりに二度、国技館へ足を運んだ。それも、芝居なら天井桟敷の二階椅子席Cの一枚3600円也。こういう席で相撲を見るのは本当に久しぶりだが、野球場の外野席とも一脈通い合う、桝席やネット裏などとはまた違う独特のよさがある。『演劇界』の今月号に中野翠さんが、小沢昭一氏と対談したとき「昔の寄席にはトロンとした雰囲気がありましたな。今でも相撲見物にはそんなところが少しは残っています」と語っていたと書いているが、まあそんなところだ。それを味わうには、桝席よりむしろ天井桟敷の方がふさわしいともいえる。ちとやるせないところがまたよかったりして、ね。

隣りのおじさんは、幕下から結びまで四時間余、一度も席を立たず飲み食いもしなかった。後ろの数席に陣取った宝塚から来たというご婦人方は、素足だった行司がやがて足袋を履き、更に草履を履くのがいつからかとか、結び前の二番、東方に負けが続いたので負け残りが出来、片肌脱ぎの幕下力士が横綱に水をつけたりするのを、ひとりが何故と問い、一人が(必ずしも正確でない)知識を伝授したりしている。(こういう光景は歌舞伎座の三階席などでもかつてよく見かけましたね。「ホラ、あれがエビゾウよ。キクゴロウの息子!」なんていうのが、『イジワルばあさん』にもあったっけ。)

昔の寄席だって、名人上手が目白押ししていたわけでは決してない。平均点からいったら今の噺家(などと卑下する必要はない。堂々と落語家というべきだ、というのが、かの「談志大師匠」の主張だったはずだが)の方がはるかに偏差値は高い筈で、本職のくせに何だってこんなに拙いんだろうというような下手糞な噺家が混じったりしたのが、昔の寄席の「トロンとした雰囲気」を醸成するのにひと役買っていたのではないかしらん。客席もがらんとしていて、けだるいムードが漂っていたりする。しかし高座が深まるにつれいつの間にか席が埋まってきて、文楽だの何だのが出てくる頃になると、同じトロンでも美味い酒に酔ったようなトロンになっている。

相撲も、決して好取組の熱戦ばかり続くのではない。今回は、五日目は、明治座と日生劇場の間の時間を利用するとちょうど幕内の取組が見られると気がついて、急に思い立っての見物だったが、十三日目は、一時には体があいたのでちょうど「これより幕下」というところから見たから、まさに「トロン」の雰囲気を充分に味わうことが出来た。退屈と背中合わせのように取組が続く中(とは言ったが、なかなかいい取組みが多くて目が離せない)オッというような相撲を取る奴がいると、ちゃんと見ている客から歓声が上る。木村勘九郎とか、式守玉三郎などという若い行司が出てくると、こういう名前は誰がつけたんだろう、などと考える。勘太夫とか玉光とかのお弟子なのだろうが、相次ぐように登場するところを見ると同じ頃の入門なのだろうから、当時そういう趣味の命名者がいたのかもしれない。などと、余計なことを考えたりするのも、トロンとした相撲鑑賞の内なのである。永いこと幕内で取っていた垣添が幕下に落ちてなお頑張っていて、みごと勝ちを収めると大きな歓声が上る。こういうのもまた、トロンの内である。

今場所の初日、白鵬が場所入りするのに地下の駐車場に乗り付けずに、一般の入口で車を降りて支度部屋まで歩いて行ったというが、そこに気がついて実行した白鵬は大したものだ。中学時代、大塚駅前から厩橋まで、つまり都電16番線の始発から終点まで、日曜日になると始発電車に乗って、当時はまだ完成前なので仮設国技館といっていた蔵前国技館へよく見に行った。大衆席といっていた、板敷に薄べりを敷いただけの文字通りの天井桟敷で前相撲から打出しまで見たものだが、当時は場所入りや帰りがけの力士の姿に親しく接することが出来た。立掛けの売店が館外に並んでいて、そうした一軒の暖簾を分けて、ついさっき取組みをすませたばかりの横綱千代の山が談笑しながらぬっと現れたり、大型のハイヤーを待たせているので人だかりがしているところへ、横綱の鏡里が巨体をゆすって乗り込んだ途端、ゆさゆさっ、と大型車が揺れてどよめきが上ったり。その日、千代の山や鏡里がどんな相撲を取ったかはもう遠い記憶に霞がかかっているが、こういう光景は今も鮮やかに思い出すことが出来る。サイン会だ何だと殊更なことをするよりも、こうした何でもないことの方がはるかにファンにとっての心の糧になるのだということを、協会はもっと認識するべきだ。(野球場でも、神宮球場はグラウンド内を観衆の見る前を歩いて選手が入場し、退場するのが楽しいが、なまじ施設が機能的になると、こういう素朴な喜びがなくなってしまうのだ。)

十三日目は幕下から見たお蔭で、入門以来負けなしだった佐久間山が初の一敗を喫するのを見たり(もし評判通り将来大物になったら歴史的一番を見たことになるわけだが、勝った千昇というモンゴル力士は実に白鵬と同期入門だという。未練を見せてしばらく起き上がってこない佐久間山を、二字口に立って両手を腰に相手を見おろす背中は小兵だが引き締まって、気概が漲って見えた)、白鵬が連敗して把瑠都が初優勝を決めるという、今場所の帰趨を決する一番を見る巡り合せになった。それにしても、把瑠都の強さは大変なものだ。琴奨菊が充分の体勢になりながら引き付けられると浮き上がってしまった。出てきた頃は、妙なガイジンが現れたものだと思ったりしたものだが、これでもっと力任せでなく、体を生かす取り口を身につけたら白鵬もかなわなくなるかもしれない。

が、それもさることながら、肝心なのはやはり、どちらが勝とうと一番一番が面白いということであり、そうした目で見ると、一番コクがあるのは幕内上位から三役辺りの、まさにプロフェッショナルというべき名手たちの取組である。一に安美錦、二に豊ノ島というのが私の贔屓相撲だが、仮に負けた相撲でも、さすがというところを見ることが出来たので満足している。鶴竜が昔で言えば鶴ヶ嶺、安美錦が信夫山というところか。(信夫山といえば、久保田万太郎がその引退を哀しんで「初場所や忘れはおかじ信夫山」という句を作っている。以て、いかにいい相撲取りであったかが知れるであろう。)チェコ出身の話題の隆の山がもっと上等な力士になって上位で取るほどになれば、体躯からいって鳴門海ということになるのだが、さて・・・。

去年の騒動で幕内の下位から十両、幕下にかけて大きな流動があったが、高安とか妙義龍とか、はじめて見る若手にいい力士がいるのを目の当たりにしたのも収穫だった。やはりテレビで見るだけでは、こういう実感はなかなか持ちにくい。

随談第421回 正月芝居日記(その3)

1月6日(金)

国立劇場と、夜にはル・テアトル銀座を見る日だが、国立は開演が正午なので若干ながらゆっくり出来るのがありがたい。遅めの朝食を終えたところへ、澤村田之助さんから電話があった。出版が年末ぎりぎりで間に合った『澤村田之助むかし語り-回想の昭和歌舞伎』が、新橋演舞場の売店に置いてもらったのがなかなか売行きがいいらしい。それやこれやで喜びの電話だったわけだが、本当に、どうか一冊でも多く売れて、一人でも多くの人に読んでもらいたいと思う。

昨年末にこのブログにも書いたような経緯があって私もこの本の刊行に多少関わっているが、だからというようなさもしい根性から言うのではなく、近頃かなり出版される役者の本の中でも、内容の濃さとユニークさから言って、類書とはちょいとわけが違う。およそ今ほど、歌舞伎の本がいろいろ出ている時代はないのであって、ちょっとした本屋に行けば書棚ひとつ分ぐらいの歌舞伎関係の本のコーナーがある。正直、あきれるほどだと言っていい。だからこそ、なお、なのだ。

国立劇場の『三人吉三』がどうも弾まない。何故だろう、と考えて『演劇界』に書いた。黙阿弥全集の『奴凧』のすぐ前のページに『スペンサーの風船乗り』が載っているのでついでに読んで見たがなかなか面白い。染五郎がやるといいのに。初演のとき五代目菊五郎に福沢諭吉が英語を伝授したというから、こういうことには手馴れたる国立の文芸課に「福沢伝授手習鑑」の場を書き加えてもらって、幸四郎が福沢になればドンピシャリであろう。(この前も書いたが染五郎には『露営の夢』もぜひ!)

ル・テアトル銀座の玉三郎公演は、『妹背山』の「道行」と「御殿」というがまともにやればかなりの長丁場の筈。今は昔、玉三郎が旧新橋演舞場ではじめてお三輪をやったとき、「御殿」を「姫戻り」から出したのを思い出して(お蔭で、勘弥が求女と、何と鱶七の二役を替るという「椿事」を見ることが出来たのだった)、たぶん今度もそのデンだろう、などと思っていたら、とんでもない、「御殿」を丸ごと出す。もっとも、「御殿」は一時間五十分の内、約一時間は鱶七の持場で、お三輪の登場場面はじつは全体の半分もない。鱶七の入込みから全部きちんとやった方が、玉三郎としては、「道行」の後、充分体を休められるという寸法なわけだ。その代りに、冒頭に「口上」を出してお客をそらさない配慮を行き届かせる。金屏風を背に紫帽子をつけた正装でまるまる10分、「ル・テアトル銀座」というのを言い憎そうにしていたのを除けば、公演に当っての意義やら思いのほどなどを、立板に水のごとく述べる。口上というよりスピーチか演説に近い。わずか一、二分の口上にも絶句する某優などなら、死の苦しみかも知れない。

新聞にも書いたが、鱶七の松緑、橘姫の右近、求女の笑三郎、入鹿の猿弥など、玉三郎ひとり天下ではどうかと思わせた若手起用がことごとく当って、見る前の危惧を拭い去ってくれたのには、素直に脱帽していい。起用に応えた実力、それを見越して配役した玉三郎の読みの的確さはお見事というべきで、とりわけ松緑が鱶七をこれだけやろうとは、正直、これぞ嬉しい誤算というものだ。松緑は染五郎、海老蔵と三人で開けた12月の日生公演でも、結果的には『茨木』が、やや焼け残りの感も無きにしも非ずとはいえ一番の成績だったり、上昇気運は見せていたのだった。これで、本当に「化け」てくれるなら、われわれはひとつの「奇蹟」に立ち会うことになるわけだ。右近の赤姫の端正さも、細身で顎の細さといい、芝翫の若き日もかくもやの感。じつはこの公演、新聞評は「ステージ採点」という寸評で扱う予定だったのだが、終演後すぐさま、朝刊の「文化往来」の欄を提供してもらえることになったのだった。

1月7日(土)表をトラックが走ったり、上空をヘリコプターが飛んだりすると、その物音が聞こえるのが平成中村座ならではで、九代目團十郎が『矢の根』のツラネを述べる声が三丁も先まで聞こえたとかいうが、近代建築になる昔の劇場というのはそういうものだったのだろう。(なに、そんな大昔でなくとも、昭和30~40年代のファンに懐かしい東横ホールも、渋谷駅に地下鉄が発着すると、地下鉄の音がゴロゴロ鈍く鳴って、振動が座席に伝わってきたものだったが。)昼の部開演中、表からドンドン太鼓を鳴らす音が聞こえる。明日が初場所の初日だから触れ太鼓でも回って来たのかとも思ったが、それにしては太鼓の音が違う。ハテ、と思っていたら、昼夜の入れ換え時に表に出てみてわかった。中村座と斜め向いの待乳山の聖天様が正月七日の大根祭りで出店が出ていたりの賑わいに、チンドン屋が一役買っていたのだった。この辺りから上流にかけて、現在スポーツ施設が並んでいる辺りが今戸界隈で、竹屋の渡しもこの辺りという。七代目の宗十郎も三津五郎も大正頃は今戸に住んでいて、宗十郎には「今戸」と声が掛かったというが、つまりこの辺りが、街と郊外の入会いであったのだろう。たぶん、大震災までは。かの「鬼平犯科帖」などが似会いの景色で中一也の挿絵の世界でもある。中村座も、本来ならいい所に建ったわけだが、遠い遠いと愚痴る声ばかりが聞こえるのが当世というものだろう。

今月はゲストの出演もなく、勘太郎も来月の襲名に備えて出演せず、七之助が『お染の七役』で奮闘する以外は、至極おとなしいプログラムだ。『対面』を出すなど、これまでの中村座を思うと、ヘーエという感じだが、それにしても勘三郎が十郎を初役とは知らなかった。橋之助の直侍というのは、当世の評判はたぶんあまり沸騰しないだろうが、私は嫌いでない。肩の線に、昔の時代劇俳優が持っていたような色気が漂っている。阪妻などという人はそれで人気者になったのだから、橋之助は少し生れるのが遅かったのかも知れない。去年、シアターコクーンでやった『三五大切』の源五兵衛の時にも、同じことを感じたものだった。

3日から7日まで、連続五日間で六劇場、その間新聞劇評が三本、ステージ採点が一本、コラム(文化往来)が一本、『演劇界』の締切には少し間があるが、大小五劇場分の批評と記事を書いた。仕事とはいえ、これだけ集中したのも珍しい。(もっとも去年の正月は、四日の朝に電話で富十郎の訃報をベッドで聞き、そのまま劇場に行きロビーで追悼文を書いたのだっけ。)中村座の終演後、今度は矢野さんとふたりで居酒屋のカウンターではんなりと飲んで正月を締め括った。

随談第420回 正月芝居日記(その2)

1月5日(つづき)

前回『加賀鳶』の「木戸前」の勢揃いで三津五郎の春木町巳之助を本寸法だと言ったが、『矢の根』と言い『金閣寺』の大膳と言い、この月の三津五郎の役々はすべからくその趣きがある。特に『金閣寺』は、三津五郎ばかりでなく各役それぞれに寸法が揃っていて、特にこの手の芝居はこういうことが大切なのだなと、改めて感じ入った。大膳・雪姫・藤吉・直信・鬼藤太・慶寿院みなその役のツボにはまっている。

歌六の白塗りは、前にも書いたが、私のひそかに珍重するところだが、果して、ただののっぺりでもなよなよでもなく、味わいにひとつひねりが利いているところが、女方がつとめる白塗りと微妙に違って、この種の役の本領に適っている。直信とか、『鮓屋』の弥助とか、世話物なら『髪結新三』の弥七とか、といった役は、やはり立役から出るべき役なのだろう。つまりこの手の役の色男というのは、どんなに金と力がなかろうと、やはり「男」なのだ。その感覚が、女方だとなかなか出にくい。思ってもごらん。「彼等」はみな、どう考えても頼りのない男であるにも拘わらず、惚れ合った女に命もいらないと思い詰めさせている。擬着の相はお三輪だけに限った人相ではない。弥助がお里とデキテイルか否かという議論がいつかあったが、あれはデキテイルに決まっているのだ。脚本の上がどうであろうと、この手の男はそう思わせるような感覚が必要なのであって、弥助のパロディである『矢口渡』の義峰なんか、筋の上ではお舟とヤッテイル暇などない筈にも拘らず、デキテイルと考えないとあの芝居は成立しない。要するに、そう、見ている者に思わせるかどうか、に懸っているのだ。立役でも、そういう二枚目役者というものは、現在ほとんど絶滅品種といってよく、三代目左団次と勘弥亡き後、この感覚の持主が忘れ去られようとして久しいが、今度の歌六で辛うじて、その渇を癒す希望が持てそうである。

『金閣寺』ではもうひとつ、菊之助の雪姫が秀逸だった。玉三郎に教わったらしいが、縛られる桜の木を舞台中央にしつらえるのもそうだが、(これは絶対、この方がいい。直信を迎えるにも、後を追うにも、縛られた縄がいっぱいにピンと張るのが、二人が束の間にも身を接することが出来ないことを、ひしひしと、視覚上からも見る者に感得させる。それにそもそも、上手に立てると中央から下手寄りの見物には、冒頭、文字張りの上手屋体の雪姫の姿が邪魔になってよく見えない。(歌右衛門はどうしてああしたのだろう?)、この前の『娘道成寺』が前に玉三郎と踊った『二人娘道成寺』から多くを盗んでいるのと同様、菊之助は目の前のこの先達の美神から、貪欲に多くのものを学ぼうとしていることが、いろいろな形、いろいろな面で見ることができるのが、何とも面白い。面白いといえば、あれだけ多くのものを学んで(盗んで)いながら、たとえば爪先鼠の件の花びらの散らせ方とか、花道を入るとき七三でおこついて鞘走った刀身を鏡にして髪を撫で付けたりしなかったりとか、自分の意志、自分の考えを、通すべき時には通している。この辺の菊之助の、大胆さというか不敵さというか、このやさおとこの肝の太いことは実に端倪すべからざるものがある。

『め組の喧嘩』の大詰の鳶と角力の喧嘩が、昔に比べ下手になったと言う声を、見終わってから幾人かの人から聞いた。そうかと思わないでもないが、そういう人が皆、私より若い人なのがおかしい。角力取りの方は今度は四ツ車が左団次で九龍山が又五郎だが、左団次がもっと若く精力的で、先の権十郎とふたり両力士で並んだところは、実に見事なものであった。四ツ車はいまだって立派だが、少々老けたのは仕方がない。又五郎の九龍山は、やや地味目だが、重心の低いアンコ型で、琴奨菊みたいにがぶり寄りでもしそうで悪くない。それにしてもこの芝居、当然観客も鳶の方を応援することを頭から前提にしているのは、風俗研究のネタになりそうである。戦前には双葉山と、戦後では急死した横綱の玉乃海が、それぞれの盛んな時代にちょうど『め組の喧嘩』の上演があって、招待されて見に来たのが写真になって残っているが、相撲取りとして、どう思って見たのだろうと考えると、ちょっと興味がある。(また続く)

随談第419回 正月芝居日記(その1)

元旦

明けましておめでとうございます。今年もまた巡って来た春を喜ぶ、その思いのひとしお深いこの春である。今年の賀状には「春めぐるそのよろこびを慈しむ」という一句を添えた。

1月3日(火)

正月恒例の芝居初詣は、例年通り三日の浅草公会堂から。新作(であるだろう、事実上)『南総里見八犬伝』と『敵討天下茶屋聚』と、どちらもストーリーを追いかける大衆劇仕立の芝居で、子供のころ、ラジオの連続ドラマを聞いた昔を思い出すようで、懐かしいような感じがして、好きだ。小説でも芝居でも、ストーリーは本質的なものではない、という考え方が主流になってから、お話を聞く楽しみ、という一番素朴で、基本的なものが失われてしまったのだ。さてこの先はどうなりますか、それはまた明日、という楽しさが、「物語」というものの一番根底にあるものである筈だ。

ところで、昼夜通してまず印象的なのは、亀治郎の座頭ぶりである。愛之助を除けば、周囲がぐっと世代交替したためでもあろうが、ひとりで仕切っているという印象が強い。『八犬伝』は従来の渥美清太郎脚本ではなく、石川耕士氏の新脚本で、先発のかったるさを取り除いたところが後発の強み。亀治郎は犬山道節よりも、蟇六の方が意外性のおもしろさがよく、『天下茶屋』の元右衛門に、本領が最も発揮される。つまり見立てよりも芸と技巧で見せるミドル級の役者なのだということが、この三役にくっきりと現れている。もしこの続編を作るなら、亀治郎で毛野の石浜城の仇討を見たい気もする。

毛野といえば、今度は最後の円塚山のだんまりに出るだけだが、歌六の長男の米吉が毛野になって、素朴ながらちょっと面白い味を見せる。まだ今のところ素質だけの存在だが、注目株である。昼の部の切に愛之助の伊左衛門で『廓文章』の夕霧をやる壱太郎の女方も、まだお生だが、不思議な初々しさを持っている。とはいえ、夕霧はまだ荷が重すぎる。

昼夜の入れ換えに一旦外に出て、帰りの客の波の中に漂っていると、五十年配とおぼしき女性の二人連れの高声が耳に入った。「はじめの「ナントカハッケンデン」というのが面白かったわね。後のは(『廓文章』のことであろう)だらだら間延びがして、いつ面白くなるのだろうと思っている内、終わりになっちゃったわ」と。彼女達を嗤うのはたやすいが、しかし私はむしろ、ごもっともだと思った。この辺りが、正直なところであろう。

まだ暮れ切らない6時半に終演。矢野誠一さん、長谷部浩さんと田原町まで歩いてスペイン料理の店で、まずは新年の祝杯を挙げる。芝居の感想は、必ずしも一致しないところが面白い。とくに長谷部さんとはしばしば裏表になるが、それでいいのだと思っている。

帰宅後、新聞に載せる劇評を書いてFAXしてから就寝。

1月4日(水)

三越劇場で新派。前回の『麦秋』に続き小津安二郎シリーズで『東京物語』。原作を踏まえつつ、現代の観客に合わせた抜き差しをしてあるのが、概ね当を得ているのが成功のひとつ。もうひとつには、新派も俳優たちこそ、昭和二十年代を体現するのに最もふさわしい芸と体質を持った人たちであるということだ。原作映画の昭和28年は1953年だから、2012年の今年から六十年の「昔」である。この時代の日本人の生活の様式(それは当然、生活感とも生活のモラルとも切り離せない)を体現できるのは、いまや新派の俳優建ちだけだと言っても過言ではあるまい。

それにしても、『麦秋』のときにも思ったことだが、安井昌二という人は、いまや名優と呼ぶにふさわしい。いや、そう呼ぶべきであろう。原作映画の笠智衆を踏まえつつ、安井自身の、安井ならではの味わいを見せている。

昨日の浅草歌舞伎評の校正を幕間にすませる。明日の夕刊に掲載の予定。

1月5日(木)

新橋演舞場に終日籠る。何といっても、意識の上でも演舞場の歌舞伎が毎月の仕事の中心になるのは避けがたい。菊五郎を芯にした、菊五郎劇団がベースになっての一座だからとはいうものの、『加賀鳶』と『め組の喧嘩』が昼夜の中心演目とは! とはいえ、何といっても菊五郎の安定感というのは、思えば大変なことであるに違いない。

『加賀鳶』の序幕「木戸前」で花道に鳶が勢揃いする。役者の良し悪しがこれほど如実に見えてしまう芝居もない。鳶の先頭の三津五郎はまさしく本寸法。五分長すぎても短すぎてもいけない。セリフの息、間、メリハリ、高低。次の菊之助も、役としての寸法といいセリフの息といい、それに次ぐ。錦之助という人は、こういう風に並んでいると、役者ぶりという一点にかけては大したものだ。いつだったか、吉右衛門が『逆櫓』を出した時、「マツエどの、マツエどの」と三人並んで逆櫓の稽古に迎えに来る漁師の役をしたとき、染五郎なども一緒に並んでいたが、こと役者ぶりという一点に関する限り、錦之助が一番だった。ところが、半纏を畳み鳶口を逆手に持って、いざ引き上げようということになっても、手早く畳めないでもたもたしていたりする。あれでは半纏ではなくレインコートを畳んでいるみたいだ。「木戸前」などというのは、オリンピックの入場式みたいなものだから、こういうところまでてきぱきやってくれないと、意味が半減する。

と、長くなったから、途中だが後はこのつぎとしよう。(つづく)