随談第408回 今月の訃報―北杜夫の死―(修正版)

芝翫のことは、もちろん別にして、心の底に波紋を広げた訃報といえば、この月では、といってもぎりぎりになってしまったが、やはり北杜夫の死ということになる。もう久しく、読んでいなかった。十年ほど前に父の斎藤茂吉を描いた四部作を書いたときも、久しぶりに読んで見ようかと気を引かれつつ、目先の多忙にかまけてしまった。こういうものは、やはり読まなければいけない。そういう本の読み方を、まったくというわけではないにせよ、いつの間にかしなくなってしまったことを、恥ずかしくも、ちょっと情けなくも思う。本というものは、何かの目的だの、目論みだのがあって読むのは、やはり本当は下の下なのであって、興味とか関心とかいうものは、本来、無目的、無償のものであった筈なのだ。

北杜夫は、新しい作品が本になるとすぐに、リアルタイムで読んだ幾人かの作家のひとりという意味で、ある特別の懐かしさがある。といっても、おそらくかなりの数がいるであろう北杜夫愛好者に比べれば、さほどたくさん読んでいるわけではない。まして、『どくとるマンボウ』シリーズを全部追いかけて読んだ、などという人には、足元にも及ぶまい。つまり、若き日に愛読した作家の一人とはいえても、マニアになるような意味での熱愛はしなかったことになる。しかし懐かしいという意味では格別な思いがあるのは、敢えて紋切り型の常套句を使っていうなら、私にとっての青春の書の一冊だったからという他はない。

懐かしさということからいえば、『どくとるマンボウ』のいちばんはじめの『航海記』が何といっても懐かしい。北杜夫のユーモアということは誰もが言うことだが、書いてある内容と、文章のテンポとかリズムとか間合いとかいうものが、天然自然、その人となりとひとつになっているという意味で、HUMOURとは、つまり文は人なりということなのだということを、私はこの本によって知ったのだという気がする。阪神が(タイガースである)四番バッターの田宮をトレードに出したのを、寄港地で読んだ日本の古新聞で知って、阪神は何故田宮を手放した! と絶叫したり、というような、結構、ワザトラシイ冗句も多いのだが、それすらも、文は人なり、の中に納まっているところに、天然自然のHUMOURたる所以があるに違いない。

『青春記』については、あまりにも語る人が多いだろうし、じつは私はこの本に関しては、後出しジャンケンならぬ後追いの気味でもあったので、あまり聞いた風のことを書くのは面映い。それよりも、何といっても一番愛読みもし、懐かしくもあるのは『楡家の人びと』だ。これこそ、この作者でなければ書けない作品であり、この作者の最も資質に適った作品に違いないが、いま、こういう小説はどのぐらいの人たちに読まれているのだろう? 日本の市民小説を確立した、などと新聞も紹介しているように、文学としての評価は確立していはするのだが、それとはちょっと別に、少し気になる。

「戦前」と呼ばれている、昭和のある時期までの東京の市民が、といってもある限られた一定の階層には違いないが、確実に持っていた生活を、これほど瑞々しく描き出したものはない。それこそ、森本薫が『女の一生』に描き出したのも、いうなら『堤家の人びと』であり、三島由紀夫が推奨した、少年だった作者たちが夏休みに登山鉄道に乗って箱根へ避暑に行く光景の瑞々しさも、やはり根をひとつにするものだろう。戦後になって、人口の98パーセントだかが「中流」の意識を持つようになったり、それがバブル=泡沫と消えた現在にあっても、人々が思い描いている「良き生活」とは、端的にいうなら、『楡家の人びと』に描き出されている「戦前」という時代にある階層の人々が手中にしたような「生活」の当世流のバージョンでることは間違いない。それは、テレビのCMを数時間も眺めていれば明らかである。

「躁」だの「鬱」だのと、しきりに吹聴するようになり、やがてそれが文字通り病膏肓に入って、奇人伝中の人になってしまってからは、私にはあまり面白いとは思えなかった。茂吉四部作は、これからでも是非読みたいと思っているが、私にとっての北杜夫は、やはり遠い思い出の中にだけ生きていたのだった。

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随談第407回 ピアフ、玉三郎、澤村藤十郎 ―今月のあれこれ―

10月ももう今週限りとなってしまったので、今月のあれこれの貼り混ぜ版といこう。

   1.

シアター・クリエで始まっている『ピアフ』に感心した。たいしたものである。要は大竹しのぶの熱演ぶりに帰するのだが、冒頭とラストに二度繰り返される、麻薬のためにリサイタルをしくじる老残の姿を、歌舞伎の位取りではないが、ちょっとした体の構え方で、変って見せる。一瞬にしてピアフの人生を痛切に見る者の胸に刻み付ける。これはまさに芸である。観客ははじめには予感し、二度目には既に彼女の半生を見て知っているために、その一瞬に彼女の全存在を見るかのような思いに浸される。これは演技賞ものである。

パム・ジェムスの作も、ピアフの生涯から勘所をちょいちょいと掬い取ってゆく、その手際がいいから、七時に始まって一回の休憩をはさんで終演が九時五十分という長丁場であるにも拘わらず、快い疲れはあってもぐったりするということがない。シアター・クリエとしても、開場以来ようやく自らにふさわしい演目の鉱脈を掘り当てたといえる。この劇場の作り・規模・客層、要するに色合いとして、これまでで最も似つかわしい。

(それにつけても、そのつい前日に見た新国立の『イロアセル』というのは、ちとひどすぎた。私はあるところまででプッツンと忍耐が切れてしまい、途端にどっと疲れが出て、しばらくは困憊し果てていた。新しい作者に新作を書かせるのだから、ある程度までは、成算を想定できないリスクはやむを得ないとはいうものの、同人誌レベルの小説を読まされるような味気なさは願い下げにしたい。)

   2.

玉三郎の舞踊特別公演も私は愉しんだ。「吉原絵巻」と添え書きのついた『傾城』に『藤娘』、それに『楊貴妃』というプロは、正味合計72分、考えようによってはかなり贅沢な時間といえる。この演目、この並べ方、すべては玉三郎ワールドに遊ぶためのいわば仕掛であって、歌舞伎舞踊『藤娘』鑑賞、といった観点からするなら、たしかに、歌舞伎を見ている気は実はあまりしない。だからその故を以て、何だこんなもの、と不快を示す向きがあっても別に不思議ではない。しかしこれは、歌舞伎の本興行ではない。玉三郎のリサイタルであり、ところも日生劇場というバタ臭い、しかしそれはそれで、由緒と歴史をもった器に盛って供される。そうした目で見るなら、いまやこの劇場ほど豊かな空間を感じさせる劇場は、東京中でもじつはあまりない。ここでは玉三郎は、歌舞伎俳優であって歌舞伎俳優ではなく、ひとりのすぐれてユニークな美の伝道師なのだ。私は批評は忘れて、ただうっとりと、ひとときを愉しんだ。それで、いいのだと思う。

   3.

過日の午後、仕事の合間の小休憩にテレビをつけると、澤村藤十郎が現れたので思わず目を疑った。しかしすぐに、田村正和のあの独特のセリフが聞こえてきたので、これがドラマであり、かの名高い「古畑仁三郎」の一場面であることが知れた。新聞を確かめると、旧作の何度目かの再放送であるらしい。何で今頃、と思うより先に、私の目は、和服姿で穏やかな中に苦い棘を隠した微笑を浮かべている藤十郎に見入っていた。

このドラマは前に見て知っていた。シリーズ中でも、名作の誉れ高いものであるらしい。二時間もかかる長いドラマの、私の見始めたのはちょうど半ば過ぎあたりで、ドラマとして、あるいは推理劇として鑑賞するにはやや遅きに失しているが、久しぶりに、それも偶然、藤十郎の演技を見るためならこれだけでも充分というものだ。藤十郎の役は美術骨董商で、もちろん犯人役である。いつも冷たい微笑を浮かべ沈着な犯人の役を、藤十郎は実に巧みに演じている。そうして実に美しい。テレビドラマ、それも現代劇を演じながら、セリフのひと言ひと言、わずかな仕草、演技の間、そうして雰囲気と風格、風情、歌舞伎俳優以外の何ものでもない艶がある。

つくづく、惜しいと思った。これだけの人が、との思いが沸々と沸き上がってくる。思えば藤十郎が倒れて既に十年の余が経つ。私が『二十一世紀の歌舞伎俳優たち』を書くために、藤十郎を訪ねたのも、ほぼ十年の昔である。去年の歌舞伎座さよなら公演をしめくくる顔寄せの手締めの席に連なった藤十郎のことは、その折このブログにも書いたが、病のため半身が不自由である筈にも拘わらず、美しい姿で正座し、見事な一礼をした。ドラマの中の藤十郎は、名探偵の追求にもはや逃れるすべはないと知ると、静かに笑って、さ、行きましょうとかろやかに連れ立って行った。この月に見たどの芝居より、私は深いところで感動を覚えていた。

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随談第406回 中村芝翫について(修正版)

中村芝翫が逝った。追悼の文は既に他に書いたから、それよりもう少し冷静な立場から、芝翫という人のことを考えて見ようと思う。

新聞に書いた芝翫を悼む文章の中で、代表作とか当り役というのとは少し違った意味で、比較的若いころ、福助時代のものとして『寺子屋』の戸浪を挙げ、あとは、芝翫襲名の折の『廿四孝』の八重垣姫を挙げ、全盛期に踊った『娘道成寺』と『鏡獅子』を最も忘れ難い名品として挙げた。芝翫を振り返ってすぐに頭に浮かぶのはこの四つであり、また敢えて上演年譜を繰ってみることもしなかった。追悼文のようなものを書く時、記憶に強く残っているものを挙げるのが、最も適切なように思うからだ。もしつけ加えるとすれば、戸浪と並べて『廿四孝』の濡衣を(昭和41年4月、東横ホールで催した歌右衛門の莟会で通し上演したときのが素晴らしかった)、歌右衛門の尾上でのお初を挙げよう。

ところが、もちろんすべての他紙を見たわけではないが、たまたま目に触れた新聞、週刊誌を見ると、多くの人が比較的晩年になって演じた、たとえば『合邦』の玉手のような役を挙げている。もちろん、どの役をもってその役者の代表作と見るかは、ひとりひとりの意見があって然るべきであって、異を唱える気はまったくないが、ただそうした、他の方々の挙げている役々を見て、ちょっと意外の感を覚えたのも事実である。たしかに、記憶を蘇らせば、そのどれもがすぐれた舞台であったことは間違いないのだが、それにもかかわらず、それらの役々が私の念頭に浮かんでこなかったのもまた、事実だからだ。私の中の芝翫は、芝翫を襲名して約二〇年の間に集中しているらしい。

昭和58年という年、芝翫は二度、『京鹿子娘道成寺』を踊っている。一回は国立劇場の舞踊公演でだから一日限りの舞台である。もう一回は、秋に歌舞伎座の本興行の演目として。この二回の『娘道成寺』こそ、芝翫の芸術の最も全き形で具現した、あまりにも素晴らしいために、後にも先にも見ることのなかったまさに名品だった。それは、技と心と体が最も高いレベルで一致したときにのみ具現できるものだったと思われる。「完璧」という言葉は、こういうときにこそ使うべき言葉に違いない。他の誰と比べてとかそういうことではなく、『娘道成寺』という踊りのあるべき姿、あるべき形として、芝翫が思い描き、求めた姿が、能うる限り完全に近い形で具現したのだと考えるのが、おそらく一番適切であろう。『鏡獅子』は、42年4月、襲名の折に踊ったのが、目から鱗を落としてくれるような清冽な獅子であった。三日月のようなシャクレ顔で、痩せていて、戸浪や濡衣がぴったりで『鏡獅子』のイメージと遠い人のように思っていた芝翫が、この踊りの神髄を教えてくれたのだった。後ジテの獅子になって出てきて、左右にとりついた胡蝶と戯れる辺りの格の高さは、その後誰の獅子を見ても、この時の芝翫を思い出してしまう。

新聞にも書いたが、芝翫という人は、芸の、あるいはその役の、あるべき姿というものが、頭の中にはっきりと出来ており、もしかすると芝翫の目にはそれが見えていたのかもしれない。それは疑うべからざるものであり、仮に手を伸ばすとすれば一寸伸びすぎても短くてもいけない、というような、きっちりと規矩の定まったものであったろう。定まっている以上、一旦それを信じれば、もう疑うという必要はない。芝居の場合には、相手がいることだから、まして女方のことであれば相手に合わせる必要も出てくるが、踊りの場合は、ただあるべきものをあるべきように、自分の手と指と足と、身体で空間を切り裂いて描き出すだけだ。迷う必要は何もない。

しかしそれは、心技体のすべてが理想的に一致しなければ、現実には達成することは困難なことでもある。二〇〇〇年九月、芝翫は歌舞伎座で一世一代と謳って『娘道成寺』を踊り、自らそれを封じた。加齢のために、自分の思い描くあるべき姿を達成することが不可能になったことを知ったからだと、私は理解している。それは、名匠芝翫としての良心であり誇りの発露であったろう。しかし、歌舞伎俳優芝翫は、なおそれからも生き続け、舞台に立ち続けなければならない。それは、芸を以て生きて行く者にとっての、人生の皮肉ともいえる。ことに、芝翫のようなタイプの芸の持主にとっては。

もちろんそれからも、芝翫はすぐれた芸を随所に見せてくれた。新しく歌舞伎を見るようになった人たちにとっては、それが名優芝翫そのものであったろう。それはそれでよい。昨年一月、歌舞伎座さよなら公演の大顔合せの『車引』で初役で演じた桜丸が、編笠を取って顔を見せた一瞬の錦絵美など、八十年に近い役者人生を物語って余りあるものだった。しかし、と私は思う。あれを以て、芝翫の代表作とか、当り役だと人が言うのをもし聞いたら、故人は苦笑するのではないだろうか。

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随談第405回 続・『女の一生』

『女の一生』について、もうちょっと続けたい。前回に、全六幕の内、最初の五幕は同じ堤家の同じ座敷を動かさず、つまり一杯道具で通して、明治38年から大正、昭和初期、戦火が東京にまで及ぶようになった昭和二〇年冬までの日本の社会の変動を語らせ、最期の6幕目に至って、同じ座敷が戦災に会って瓦礫と化した有様になるという構成の巧さ、面白さについて書いたと思う。つまりそれが、明治末から戦争直後までの四十年という歳月を物語っているわけだ。

序幕で出合った同じ人間が、最期の幕でまた出会う。その間に流れた歳月を、思わざるを得ない。けいと栄二は、かつて心の底に秘めてしまった思いを、長い歳月の後に出会うことによって、悟ることになる。しかしその間に流れた歳月の中に存在したそれぞれの人生が、その思いを諦念のなかに溶かしてしまわざるを得ない。

と、こういうことを、今度の舞台を見ながら考えているうちに、あ、と気がついたのは、この芝居は『一本刀土俵入』の裏返しなのだ、ということだった。そう思ってみれば、『女の一生』の序幕のけいと栄二の出会いと、『一本刀』の序幕我孫子屋の茂兵衛とお蔦の出会いは、見事に相似形をなしている。山出しの少女と、見る影もない取的。気になって、ついやさしい言葉をかけてやるが、心の深くまでは自分でも思ってもみない、栄二とお蔦。男女の立場が逆になっているだけで、片方が土深い田舎の宿場、片方が都会の知的な人士の住まう山の手の住宅と、一見対照的だが、出会いの形は同じである。

『女の一生』の舞台が終始変わらないことは前に言ったが、『一本刀土俵入』も、どの幕も取手の宿の近辺から離れることなく、最期の幕で、十年の歳月を隔てて茂兵衛が漂白の旅から戻ってきて、そうして思わぬ形で、けいと栄二も、茂兵衛とお蔦も出会う。その間に、けいには伸太郎という、お蔦には辰三郎という亭主が出来ている。永い歳月と、その間に当然あったそれぞれの人生から、けいも茂兵衛も、栄二もお蔦も一見別人のように変っているが、変って居ればこそ、見る者は、却って人間の真実をそこに感じることになる。歳月と共に人は変る。山出しの少女はやりての女主人に変貌し、見る影もなくうっそりとした取的は、やくざ者とはいえ水際立ったとりなりの、苦みばしった壮者に変貌している。別人のようだからこそ、人は変るのだ、という思いが哀切極まりなく、見る者の胸を打つ。それほどに変っても、しかし一筋、心の底に変らない思いがある、ということが、だからこそひと際、どんなすれっからしの胸にも、突き刺さる。

森本薫が、どれだけ長谷川伸を、『一本刀土俵入』を、意識していたかは、私は全く知らない。たぶん、森本は自分でも全然気がついていなかったかもしれない。(その可能性の方がおそらく高いだろう。)私自身も、まさか、新劇史に残る屈指の名作と、股旅の大衆劇が、ドラマの一番基本的なところで、同じ構造になっているとは、いままで気がつかなかった。

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随談第404回 新派版『女の一生』

三越劇場で波乃久里子が布引けいを演じる『女の一生』を見た。再演である。つい二年半前、やはり同じ三越劇場で見たのだったが、ずっとよくなっている。初演の時だって相当の出来だったが、久里子がやはり、随分固くなっていた。新劇の、文学座の、信奉者からは神のごとくに思われている杉村春子の、それも極め付の当り役を勤めるのだ、という意識が、彼女をがんじがらめにしていたのも、無理はない。特に序幕の、堤家の座敷に紛れ込んだ、まだ小娘の布引けいは、そうした意識で、ということは自分が自分で作り出した杉村の亡霊にとり付かれでもしたかのように、がちがちになっていた。今度は、その呪縛から解き放たれている。

これは久里子の演技だけに関わる問題ではない。栄二の風間杜夫、仲太郎の中山仁、章介の安井昌二、しずの司葉子等をはじめすべての出演者が、再演の今回に至って、もう、杉村春子のとか、文学座のとか、新劇のとかいった意識から自由になって、自分たちの、新派の『女の一生』を作ることに喜びを見出している、といった風に見える。といって、まったく得て勝手にやっているのではない。先人たちの仕事に敬意を払い、学ぶべきことは学んでいることは間違いない。それでいて、すでに新しい船が船出をしていることは、歴然としている。そこがいい、というのである。

いうまでもないが、この劇は明治三十八年に始まって昭和二〇年に終る。西暦でいえば一九〇五年から一九四五年までの、ちょうど四十年間である。日露戦争さなかの戦勝気分の中で始まり、敗戦に打ち砕かれた中で終る。それが、布引けいの、いや登場人物ひとりひとりの人生と重なり合う。日本という国の、社会の歴史と、個人の歴史が重なり合う。作者は充分にそのことを意識して書いていることが、くっきりと見えてくる。真の主人公はつまり歴史であり、時間なのだ。布引けいの言うあまりにも有名なせりふ「誰のせいでもない、自分で選んだ道ですもの」という一句は、だから、けいの個人的述懐であり決意の言葉であると同時に、この四十年という時間の間に日本という国を、ああいうところからああいうところまで歩ませてしまった、誰かが言うべき、そして同時に、その時間をともに歩んだ日本人ひとりひとりが言うべき(きっと胸の内で言ったに違いない)言葉として、いま聞くと、聞こえる。それを言う久里子のせりふもいいが、同時にそれは、六十年も昔に死んだ作者が、久里子にそう言わせているのだ。

それにしても、こういう風に、絵巻物を繰り広げるように、時間を追って舞台が展開してゆく作劇法というのは、日本人が得意、というより、日本人が作ると、こういう風になってしまうのかもしれない。『源氏物語絵巻』だろうと、『生々流転』であろうと、『女の一生』であろうと、みな帰するところはひとつになる。人智や人為を超えた何物かを、見る者は感じざるを得なくなる。

作劇術というなら、これも今更のようだが、四十年にわたって繰り広げられる六幕がすべて、同じ場所であるということの効果を、今度見ていて改めて思った。見る影もない小娘だったけいが迷い込んできて、やがて女帝のごとく振る舞い、最後に焼け出されて焼け跡にひとり暮らす。最期の場面だけが、同じ場所だが焼け跡になってしまっているという効果を思いついたとき、作者は会心の笑みを洩らしたことだろう。堤家のこの座敷が、瓦礫と化した最終幕に至って、日本そのものの象徴でもあったことに、見ている者が皆、気がつくことになる。構成舞台などでなくて、リアルな装置であるだけに、その効果はひと際大きい。

もうひとつ、この前にも思ったことだが、とりわけ安井昌二などを見ていると、明治大正昭和という時代を、時代の雰囲気やその時代に生きていた人間のたたずまいや、その他生活に関わる何やかやまで、現在もっとも表現できるのは、新派の俳優たちだということを痛感する。新派の役者は花柳界の人間の役だけが巧いのではない。安井昌二の章介をみていると、伊達に新派の役者を何十年もやってきたのではない、と思わざるを得ない。石原舞子の和服姿の、まるで肩というものがないかのような、なで肩の姿を見ているだけで、女性の日常が着物であった時代の匂いが漂ってくる。

つい先日終ったNHKの朝ドラマ『おひさま』などを見ても、昭和十年代二十年代は、いまや当然の如くに時代考証の対象なのだ。してみると、思うにおそらく、高度成長の始まる昭和三十年代までは、新派の俳優たちの演じるべき領分であるだろう。などと、私が言うまでもなく既に彼らは気がついていて、すでに小津安二郎の『麦秋』にトライして成功、来春には『東京物語』をやるらしい。新派の将来の展望を占う命運はこの辺にかかっているといってもいい。

それにしても、プログラムにある公演日程を見ると、この一座の人たちが大変な過密日程をこなしているらしいのに驚く。九月一日から今月四日、つまり東京公演の前日まで、地方公演を、それもほとんど連日、昔でいう乗り打ちでこなしてきた上での東京公演なのだ。今月一日、先代水谷八重子の三十三回忌の集まりがあったとき、久里子達が居ないのでどうしたのかと思ったら、何とその日は、関西のどこやらで公演をしていたのだ。三越では約一ヶ月、これも連日、しかも十一時の部と三時の部の二回公演というから、ほとんど休みというものがなさそうだ。そういっては何だが、出演者の平均年齢はかなりのものと思われるのだが・・・

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随談第403回 新漫才・おもだかやおめでたや

八五郎:イヤ驚いたの何の。沢瀉屋四代というべきか一族再会というべきか、アッとおどろく襲名発表。市川中車なんて名前まで出てこようとは、お釈迦様でも気がつかなかったでしょうね。この前の中車さんて、アッとおどろくタメゴロー、なんて言葉が流行ってた頃に亡くなった人ですよ。大受けだった頃の大橋巨泉が流行らせたギャグだけど、いまの團十郎さんが海老蔵襲名のときの『助六』で、股くぐりの通人がやりましたっけ。

家主: それもさることながらだ、あたしなんかに言わせりゃあ、それを報道するマスコミや世間の反応ほど、なさけないものはないね。これほど、現代の社会一般と歌舞伎の関係を、酷いまで如実に露呈したものはないだろう。一代の風雲児猿之助、当代の歌舞伎でマスコミを通じての知名度の高さは屈指のひとりであるはずの俊英亀治郎も、「かの人物」の前に色褪せてしまった。新猿之助についての話など、カメともジロとも仰せがないのだからな。

八:まあ、そう悲観したものでもないでしょうが、社会部的発想からすればそういうことになるんでしょう。来年六月の襲名興行は大入りでしょうね。そこで今度は、香川照之氏の歌舞伎俳優としての可能性、ということが週刊誌やワイドショーの格好のテーマになるわけですが、どうですか?

家:常識的に言って古典はまず無理として、幸いあそこの家にはスーパー歌舞伎というものがあるから、もっぱらそれと新作ばかりやっていれば、何とかなるだろうよ。青果物までこなせたら立派なものだが、萬屋錦之介のような、成人するまで歌舞伎の世界にいた人でも、舞台では『瞼の母』のようなものとか、せいぜい真山青果までしかしようとしなかった。

八:特に名を秘しますが○○なんてヒトを見ていると、ひょっとして香川クンだってあれぐらいならナントカナルんじゃないかという気がしないでもなかったりして。

家:ずいぶん回りくどい言い方だな。それにしても、香川照之の名と九代目中車の名を使い分けるというが、専念とまで言わずとも、歌舞伎にどれだけの時間と精力を掛けるつもりなのかね。団子になる坊やのためだとも聞くが、そこら辺りが釈然とせんね。

八:今度のことは二つのストーリーが考えられると思うのです。ひとつは、猿之助さんが、自分の目の黒い内に、猿之助という名前について、四代目になる亀治郎の次ぎの猿之助を孫につがせるためのレールを敷いておきたかったのでは、ということ。でもそれなら、政明君というあの坊やを養子にすればすむことで、香川氏がみずから歌舞伎界の人になる必然性はありませんよね。するとどうしても、アナザー・ストーリーとして香川照之という人の歌舞伎への思いの強さというものを考えないわけには行かなくなってくる。

家:あたしはあの一家の複雑な内情についてはよく知らないが、彼のような生い立ち、育ちを考えれば、むしろ、猿之助氏やひいては歌舞伎、歌舞伎界というものに反発したって不思議はない、むしろその方が普通ではないかと思うのだがね。

八:その辺に、香川という人の独特の発想法と、思いの程があるのでしょうね。「この船に乗らないわけにはいかない」と記者会見で四度も繰り返したそうですが、とにかく、アッと驚かせることを大真面目でやってのけるという点では、いかにもオモダカヤの人らしいと言えるかも。

家:しばらく前に亀治郎が、墓参りのとき偶然に香川氏と行き合わせたのが初対面だった、と言っていたと覚えているが、それだって、こうなってみると、香川氏の方で事前に亀治郎の墓参りを知り、偶然を装って、図ってしたことのようにも思えないでもない。

八:ハハハ。回りくどい言い方が感染しましたね。はじめは気乗り薄だったクセに、結構、身を乗り出してきたじゃありませんか。

家:年寄をからかってはいけない。ところで市川中車という名跡は、本来屋号は立花屋、八代目がたまたま名人中車といわれた七代目の養子になったまでであって、決して沢瀉屋のものではなかった筈だが。その点は團十郎家と了解がついて沢瀉屋の名前になったのだそうだからいいとして、やはり我々世代の者には、中車という名前にはそれ相応の重みがあるからなあ。はっきり言って、白鸚さんと一緒に東宝に移ったものの腕の揮いどころを得られなかったために、晩年、損をした人だったね。それまでは勘弥さんなどより上の扱いを受けていたと思うのだが、逆転してしまったね。国立では勘弥の与三郎に蝙蝠安だったっけ。中村芝鶴と二人、東宝行きで損をした口だった。マ、昔話をしても仕様がないか。

八:四十年間、空位でしたからね。いまやもう、イメージを持っている人の方が少数派なのですよ。名優として後世に名が残るためには、よい後継者がいて追善興行を何年かごとにやってくれると、新しい世代の観客も覚えてくれるけど、それがないと、だんだん語り部が減って行くばかりですからね。その意味からも、今度のことは泉下の八代目中車さんにとってもいいことかもしれませんよ。

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随談第402回 上方みやげ話(勘三郎、そして海老蔵)

20日の火曜日、中学以来の友人の葬儀をすませ、夜は新国立で三島由紀夫の『朱雀家の滅亡』を見、(これについても別途に書いておきたい)、翌21日、朝立ちで大阪へ。台風15号襲来よりひと足早く大阪着、東京がとんでもないことになっているとは全くの知らぬが仏で終日、新歌舞伎座を見物、夜、ホテルでテレビのニュースを見て唖然とした。そういえば夜の部は、隣が連席で空いていたが、新幹線ストップのため、西下出来なかった客がかなりいたらしい。翌22日は大阪は晴天、今度は松竹座を昼夜見て、最終の新幹線で帰るという強行日程。日付が変わってから帰り着くと、FAXが待っていて96歳になる叔母の死を知らせている。中二日の大阪行きをはさんで喪服を再度着ることになった。

それにしても3月11日といい、今度の台風15号といい、どちらもわずかな時間差で難民にならずにすむという幸運に恵まれたわけだが、そのうち罰が当らなければいいが。

さて新歌舞伎座は勘三郎、松竹座は海老蔵と、もちろん理由は違うがどちらも再起の舞台である。こちらとしては、再起の按配を見極めたい、というのが、せせこましい日程を縫って出かけた理由だった。勘三郎とは、先月、新橋演舞場の花形歌舞伎をたまたま同じ日に見に来ていたので、ほんの立ち話だったが話を聞く機会があった。見た目は浅黒く日焼けして元気そうだったのでそれを言うと、いや、まだダメなんだ、ということだった。

今月は『文七元結』の長兵衛に『お祭り』と、多大な期待をする向きからはやや軽めとも見られる演目、役なのは、まずは瀬踏みという含みでもあるだろう。舞台を見る限り、少しも変るところはない元気さに見える。相変わらずの巧さ、愛嬌で客席を沸かせている。だが、傍目にはそうでも、本人としては思うほど充分ではないのらしい。消耗も激しいらしい。PHYSICALよりMENTALな面に比重のかかっていることだから、本人でないとわからない部分が大きいに違いない。そういえば『お祭り』で光度が少し落ちたような気がするなどと利いた風を言うのは、そう言われてみれば、という賢しらに過ぎまい。

長期戦の構えでこうしたことを積み重ねながら少しずつ直してゆく以外はないのだそうだが、心配なのは、向後、ずっとスケジュールが休みもなく続いていることで、ロビーには、来月の喜界ヶ島への俊寛ツアーのチラシも置いてある。何年前か前にもやった、鹿児島沖の喜界ガ島の海岸で『俊寛』を演じて好評だったのを再現しようというのであるらしい。その後には、平成中村座を隅田河畔に建てた切りにして、約半年間、公演を打つ。その間には勘太郎改め六代目勘九郎襲名という大切な行事があったり、休む暇なく続いている。当然それは、精神的な重圧としてのしかかってくるだろう。何とかならないものだろうか?

勘太郎と七之助が、昼の部に『男女道成寺』、夜の部に『一本刀土俵入り』で茂兵衛とお蔦を演じてどちらもいい。とりわけ勘太郎の茂兵衛は、祖父から親を経由して伝わっている情感の豊かさを、彼もまた紛れもなく多量に有していることである。茂兵衛の感受性の中に、勘太郎自身の感受性が巧まずして入れ子のように入っている。だから素直に泣ける。この辺は天分というべきであろう。

何より目につくのは、副将格の橋之助の役者ぶりの立派さである。『御摂勧進帳』の弁慶と『引窓』の濡髪という、骨格の大きい役がこの人の、当世風のせせこましい小利口さに毒されないおおらかさに、まことにつきづきしい。将来この人は、その古風な役者ぶりを以て珍重されるようになるかもしれない。(コクーン歌舞伎の源五兵衛がはまったのも、このことと無縁ではない。)それにしても『一本刀』に『引窓』に、松竹座では右近が『幸助餅』で関取役をやっているから、合せて角力取りの芝居が三本も出ていることになる。

海老蔵は、丈の高さを感じさせる芸の格の高さに、改めて感じ入った。この辺りが、祖父十一代目団十郎に通じるところで、巧拙を超越している。今月の役では『勧進帳』の弁慶以上に『若き日の信長』にそれが如実に現れる。弁慶でも、物言う術の癖が時にセリフの難となって現われる、たとえば勧進帳の読上げや山伏問答のようなところよりも、中段の「鎧に添いし袖枕」のくだりとか、後段の「延年」を舞うくだりなどの「ますらをぶり」が、余人には求めようもないものである。改めて惚れ直す思いで見た。

それにしても、こういう姿を見ている限り、海老蔵は少しも傷ついていないように見える。あれだけの事件を起しあれだけの目に会い、それがまたあれだけ世間に増幅されて、それでもなおもし海老蔵が本当に少しも傷ついていないとすれば、これはどう考えればいいのだろう?

團十郎を見ていると、海老蔵を保護するかのような富樫にせよ、愛嬌たくさんの河内山にせよ、芸がどうのというよりも、このところのこの人の心境のあり方というものに、思いを遣らないわけには行かなくなる。風貌態度風格、何だかお坊さんのような感じでもあるのは、大病以来の頭(つむり)の様子のせいばかりでもなさそうだ。

もっとも、規矩の定まった『勧進帳』はともかく、河内山の場合は、東京と微妙にしかし紛れもなく違う、大阪という風土の色を感じさせずにはいないこの街の、特に女性客(観客の八割方を占めている)の反応というものを抜きにしては語れないかもしれない。やや過剰とも感じられる愛嬌たくさんの逸脱振り(!)は、決して当て込みなどというものではなく、その土地の水に合ってこその芸だということを思わせられる。現に、團十郎のそうした一挙手、セリフの一言一言に、観客は見事に反応し、素直な喜びをもって応えているのである。

共通したことは、新歌舞伎座の『引窓』で与兵衛をつとめている扇雀を見ていても察しられた。父に習った(倣った)か、和事の味でたっぷり味付けをしたこの与兵衛を見ていると、上方の和事というものがこういう風土の中で生まれてきたのだということを、改めて知る思いだった。行為や仕草のひとつひとつが、観客のひとりひとりによくわかるように、しかしそれがただの説明に終らないように按配されている。果してここでも、観客の反応は上々である。芸の良し悪し、巧拙は他日の論として、私は、扇雀という人に、女方の時には覚えたことのない面白さを見た気がした。

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随談第401回 又五郎その後、その他(修正版)

中学以来半世紀余のつき合いのあった友人の急逝など、数日来身辺少々慌しく、もう少し早くに書くつもりが遅なわったが、先週、せめて『寺子屋』の源蔵だけでもと思って、又五郎の様子を見てきた。事故からすでに十日の余、経っていたせいもあるかもしれないが、まず案じたほどの支障はなく勤め、舞台も滞りなく進められているようなのは何よりであった。もっとも、直後二、三日後に見た者の言によると、事態はもっと大変であったらしいから、これはあくまでも、所見日九月十三日の報告と思っていただくべきだろう。

アキレス腱の「断絶」とこの前書いたのはやや勇み足で、「損傷」という方が、目下のところは無事なようだ。(今月号の『演劇界』の吉右衛門・又五郎の対談を見ると、新又五郎は前にも一度、アキレス腱を切っているのだそうだ。アキレス腱を二度も切ったと聞くと、われわれ世代の者は、かつての大横綱羽黒山が、当時の地方巡業での軟弱な土俵が一因で、二度にわたってアキレス腱を切り、晩年の数年間、優勝から遠ざからざるを得なくなったという「古い話」をつい思い出してしまう。四〇歳近くまで現役を続けたこの老雄の最晩年、涙の全勝優勝というのが、私の大相撲観戦歴中ベスト3に数える記念碑となっている。が、いまは閑話休題としよう。)

ギプスをはめているというので、膝が折れないのでは『車引』もさることながら、『寺子屋』の源蔵で正座が出来ないとすればかなり致命的なマイナスになることだと思うので、何よりもそれが気掛かりだった。負傷したのは右足と聞いたが、見ると、両足とも肌色に近い包帯で包んである。片足だけが太くなったのでは却って見苦しくなるのを考慮したのかも知れない。膝は曲がるので、着流し姿の源蔵の立ち居にさほど気になることはない。冒頭の「源蔵戻り」で花道を歩く足取りなど、何も知らない観客なら何の不審も抱かないかも知れない。しかし七三で、ハタと心付き、早足になるとやや無理が出る。何もあそこで早足にならなくとも性根の解釈としては成立する筈だが、又五郎らしい几帳面さなのだろう。

その他、敷居をまたいだり、首実検の前後「びゃくろく」を上り降りしたりするときには、やや不自由になるのは是非もないとすべきだろう。肝心なのは、身替りを立てるのを打ち明ける戸浪との対話や、後段の松王夫婦とのやりとりなど、膝を折って折目正しく振舞わなければならない場面だが、低い合引を使って、正座は無理なりにさほどの支障は感じさせずに処理している。当然ながら、後見はボーナスを貰ってしかるべきであろう。

『車引』は再見はしなかったが、聞くところでは、花道の出入りはなしにして、下手に入り下手から出ることにしたとの由。後は、事故当日でさえ(それも直後である)、ここでも後見が活躍して何とか乗り切ったのだから、凡その想像はつく。それにしても、当日、脂汗を流しながら(とおぼしい中で)、肉体的にやむを得ない姿勢は別として、能うる限りの姿勢を保ち、動きを見せ、音吐朗々、荒事にふさわしい声でセリフを言う、つまり一点一画おろそかにはすまいと努める又五郎の役者魂は天晴れ見事、見上げたものと言うべきである。また吉右衛門の松王丸の雄大なスケールは、『車引』という芝居の、ひいては『菅原伝授手習鑑』という演劇世界のスケールをも劃して見せるかのようであり、それと見合う量感としては、もうひと息のきらいはなくもないとしても、歌六の時平の妖怪的な凄みもよかった。隈を取らず衣裳も変り色の上方式の桜丸を見せた坂田藤十郎は、後で聞くと、初日にはセリフも入らずかなりの不振であったそうだが、私の見た二日目にはきちんと整え、流石と思わせる仕上がりを見せていた。もっとも、「讒言によってご沈落」を立ち身のまま言ったのは、東京式に合わせた折衷型を狙ったのかと思ったのが、後には膝を突いたそうだから、なお流動的であったのだろう。やっていそうで、実は今度が二回目という。大ベテランにも、そうした盲点はあるものなのだ。新歌昇の杉王丸も骨法が体に入っていて凛然たる趣があって、これもヒット。つまり今回の『車引』というものは、当今かなりの高レベルのよき『車引』であったと見て差支えない。

『寺子屋』の源蔵は、新又五郎として懸命さ故の固さが見え、あまりにも竹本につきすぎるのが少し微笑をさそわれるところはある。しかし好感度としては高点を取れるという半面が、そのまま、この場の源蔵の在り様に通じるのが一得でもある。決して悪い源蔵ではない。吉右衛門の松王は、気宇の高さ、肚の強さと深さに於いて、今日これ以上の松王はないであろうし、魁春の千代、芝雀の戸浪、段四郎の春藤玄蕃らもまた、今日求められる最上の布陣であろう。新歌昇の涎くりが、大叔父(になるのかな?)初代錦之助の若いころにそっくりなのが、懐かしくもまたほほえましい。

新又五郎は、『沓手鳥孤城落月』の秀頼でも、一点一画疎かにしない朗誦的なセリフを聞かせる。ここにも、又五郎という役者としてのスタンスが示されている。ただ今回は、芝翫が初日限りで休演して私の見た日からは福助に代ったので、福助の演じ方との間にある種のズレが感じられなくもない。福助もこの代役、懸命に努めているのだが、良し悪しは他日の論として、これからの時代、この劇が変質してゆく予兆も思わせられる。思えばこの劇、曽祖父五代目歌右衛門以来、あまりにも権威主義的にこしらえられ、伝えられてきた半面がある。変化の予兆には、だから、良否それぞれの側面があるであろう。

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随談第400回 波乱と傑作 ―今月の舞台から―

異例ののろのろ台風が居座って大災害を巻き起こしているさなかに開幕したこの月は、舞台の上も波乱続きである。新橋演舞場の秀山祭は三代目又五郎の襲名披露でもあるわけだが、二日目のいわゆる御社日に、披露演目の『車引』で新又五郎にとんだ災難がふりかかった。桜丸に「来い来い来い」と声を掛けて花道を駆け込んだ梅王丸が、吉田社頭の時平の牛車めがけて花道を駆けて出る、筈が、何と後見に支えられて足を引きずって登場し、只事ならずと客席が鎮まり返った。本舞台に来てからも、腕をぶッ違いにして立つ姿勢が取れないのを後見が支えている。苦痛をこらえ、脂汗をかいているのが見て取れる。だが声は凛然と、見事に梅王丸の声である。『車引』の梅王というのは、それでなくとも肉体的に辛いポーズが多いのだが、当然、充分には出来ない。しかしその点はやむなしとすれば、いい梅王、いい『車引』であることは間違いない。幕になると、各社の記者連が劇場の関係者を取り囲んで事情を訊くが、当然ながら、俄かのことであり劇場側もはかばかしい答えはまだ用意できていない。次の染五郎の『石川五右衛門』がすんで終演となると再び、劇場側の話を聞くが、医者には行ったがまだ確定的なことは病院側も発表できない段階であり、明日の舞台がどうなるか、今はまだ何とも、という返事でその日は終った。

既にその前の『沓手鳥孤城落月』では、淀君の芝翫が休んで福助が代役である。芝翫は前日の初日は出たのだという。もともと、夜の部に福助の役がないところを見れば、代役はかねて、かくあることを想定しての備えであったのだろうか?(これは福助に淀君をさせようがための予定の行動だろうと、穿った説を成す者もあるが、しかしそれにしては、初日だけ出勤とはちと早手回し過ぎる。体調不良に違いはあるまい。)

週が明けて五日に文楽を見る。三日目に当るのだが、『近頃河原の達引』堀川の切りを語っていた源大夫が突如、語るのをやめたので床へ目をやると、白湯汲みの若い大夫に支えられて退場する姿が見えた。肩衣が半ば脱げかかっているが、それに構っているゆとりがないのであろう。藤蔵が演奏を中断し、テンテンテンテンと弾いてつないでいる。と、ついさっき『先代萩』の「御殿」を語り終えたばかりの津駒大夫が現れて床に坐ると、そのまま、中断していた箇所から語り続けた。袴はつけているが肩衣はない。しかし備えがあったと思しく、少しの不安もなく語り終えた。そういえば、源大夫ははじめから顔色が紙のように蒼白だったから、体調が思わしくなかったに違いない。津駒大夫としても用意はあったにしても、まさか肩衣までつけて出るわけにもいかなかったのだろう。

床で語っている最中に不慮の事態が生じた場合のことは、以前、春子大夫が不慮の死を遂げた折、話に聞いてはいたが実際に見たことはない。又五郎の負傷は、アキレス腱断絶とかで翌日からはギプスをはめての出演ということだが、そうなるとむしろ『車引』よりも、『寺子屋』の源蔵が正座できないことの方が本人としてはつらいだろう。昔七代目澤村宗十郎は、巡業先で『五段目』の勘平で「翔ぶがごとくに」花道を駆け込んで揚幕の中で事切れたというが、おそらく異変はすでに花道で起っていて、役者の一念だけで揚幕に駆け込んだのだろうと言われている。又五郎の場合も、異変はたぶん花道の上でであったろう。自身の襲名の興行の二日目のことというのが、いかにも気の毒だ。それにしても今年は、三月十一日のことはいわずもがな、正月早々、富十郎逝去の報で寝覚を起され、その死からまだ一昼夜も経たない内に鷹之資が健気に踊るのを目の当たりにしたのに始まって、なにやら異変が続く。源太夫も又五郎も、病気・怪我だけのことであったのがせめてものことである。

そうした中で、傑作が生まれた。文楽で咲大夫の語った『ひらかな盛衰記逆櫓の段』である。まず何より、時代物浄瑠璃としての芸容の大きさに魂を奪われた。この雄大なスケール感は、かつて先代寛治と津大夫のコンビで覚えて以来の、久々に味わうものであったといって過言でない。しかも樋口・権四郎・お筆・およし・重忠と、各人物それぞれの情理が通り、それがそのまま、作者の描き出した世界の秩序を語り出している。その意味では、今度の咲大夫を聴いて私ははじめて、『ひらかな盛衰記』という劇的世界を知ったと言ってもいい。まさしくこれは、「情」と「理」を尽くし、「私」と「公」の関係を尽した上に、構築された世界なのだ。この作が、いままで思っていたよりも一倍丈の高い名作なのだということを、咲大夫によって知ることが出来た。そこを語り出した明晰さの点で、今度の咲大夫はかつての津大夫に優るであろう。

よく、浄瑠璃は「情」を語ることに尽きるという。しかし、この作のような時代浄瑠璃の場合は、「情」と「理」の双方を語り尽くすのでなければ、その作の世界、作者の本意は立ち現れて来ないのだということを、改めて教えられた。

燕三の三味線もよく弾いた。逆櫓の稽古のくだりの逆巻く潮の様子は、先代寛治以来といっていい。歌舞伎の『逆櫓』がこのくだりを、遠見にしたり、タテのスペクタクルに「逃げ」ざるを得なかった理由も、こういう演奏を聴けば自ずから納得できるというものだ。

ともあれここには、浄瑠璃でなければ、文楽でなければ表現できず、味わうことの出来ない世界があった。

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随談第399回 月遅れの訃報たち

少し前にも書いたと思うが、同世代だから応援するとか、好きだとかいう感覚を私は持ち合わせていない。あるとすれば、同世代ゆえに自ずから見えてしまう欠点や弱みゆえに、同病相憐れむ感情だが、それもどちらかというと、ナニ、エラそうなことを言っていたって兜の内廂が覗けているぞ、というように、つい、しゃらくさがってしまうことの方が多い。

先月の訃報のなかでマスコミが一番共感をもって取り上げていたのは原田芳雄だろうが、私は彼について語る何ものも持っていない。晩年の、まるで別人のようにすっかり爺むさくなってからの幾つかは、それなりの共感や面白さを覚えないでもなかったが、報道振りを見て、ヘーエ、こんなにエライ人だったのかと驚いたぐらいだから、これは批判以前で、いまの映画界についての私の側の無知と音痴を白状する以外の何物でもない。

たまたま先週、このところ毎夏の恒例になった一泊二日の病院ホテルへの検査入院の徒然に、今月号の『文芸春秋』を隈なく読んでいたら、「人声天語」なる坪内祐三氏の文章に原田芳雄の死のことがあって、ちょっと気を引かれた。氏は、原田の死に意外なほどショックを受けたのだそうだが、それはともかく、なるほどうまいことを言うと思ったのは、たいがいの人は「最初の人」すなわち映画俳優としての原田芳雄の新しさを口にするが、しかし同時に彼は「最後の人」でもあったのだ、という指摘である。つまり原田は、斜陽とはいっても映画界がまだ大手映画会社が製作していた時代の「銀幕」のスターとしての体験を持つ最後の人間でもあったのだ、ということである。そうして私は、映画というのはやはり「銀幕」が好きなのである。

いわゆるATGの原田については、先にも言ったように私は語るべき何ものも持っていない。従って、いいも悪いもないのだが、ただひとつ、これも坪内氏が「新しかった」という例に挙げている、「あのボソボソした台詞廻し」というのが私は苦手であって、彼以後、特に男優がみんな、ぼそぼそと「下に置いたような」(と昔なら言ったものだ)台詞を言うのを良しとするようになったのには、疑問を感じないわけに行かない。私の直感では、「存在感」という言葉が流行り出したのが、役者がセリフをぼそぼそ言うようになったのと軌を一にしてのことであるような気がする。役者の存在感というものが、『曽我対面』や『車引』で「デッケエ」と化粧声を掛けるように、歌舞伎だろうと映画だろうと役者にとって一番大切なことは昔から変わりはないが、近頃言うところの存在感なるものは、原田のボソボソ台詞と共に生まれてきたような気がする。(その前には、宇野重吉のボソボソ台詞というのが、絶大な信奉の対象になっていた時代があったっけ。)

つまり原田芳雄も宇野重吉もすぐれた俳優であったことは確かだとして、そしてどちらも、「存在感」ということで評価を得た俳優であったということを考え合わせると、新劇も映画もテレビも含めて、事はかなりややこしくなってくる。ナチュラリズムとリアリズムの区別などということまで話を広げると収集がつかなくなってしまうが、しかしこれは、「演劇論」というもの、「演技論」というものの、ブラックホールに片足のかかった厄介な問題であることは確かだろう。で、私の好み(と、ここでは敢えて言っておく)からすると、ボソボソ台詞の存在感というのは、どうも「うさんくさい」、少なくとも「ずるっこしい」ような気がしてならないのだ。(もっとも、原田や宇野の場合は一種の「高等芸」であったとはいえるだろう。)

もうひとりの同世代人の訃報といえば竹脇無我で、こちらの方が親近感は覚えるが、しかしここでわざわざ語るほどのものを持ち合わせているわけではない。

二葉あき子となると、全盛時代はこちらの幼少の砌であって、母がファンだったからラジオの歌声はもちろん、日劇でその舞台姿を見たのもかすかに覚えていて、そういう意味での懐かしさはあるが、彼女自身に対する思い入れというものとはそれは違う。

となると、私にとっての感慨といえば、先月の訃報欄で見たふたつの小さな記事ということになる。高城淳一といえば、まず大方はテレビ草創期の人気ドラマ『事件記者』での、安ポマードの匂うリーゼントスタイルの髪型で部下の山田吾一を怒鳴りつけてばかりいる二流新聞の記者の役にとどめを刺すだろうが、高城に限らず、当時はまだラジオドラマ全盛時代がダブっていたから、この世代の若い新劇人というのは、同時にラジオドラマの人気者でもあった。高橋昌也だとか名古屋章だとか、その他その他、私はまず、ラジオの声で知ったのだった。(いまもなお矍鑠としている久米明などもその生き残りである。)この辺りのことを、その内、もう少しきちんと思い出して書いておくのは意義があるかもしれない。

もうひとりの浜口喜博は、戦後の水泳界で古橋・橋爪に次ぐスターだった。ということは、全盛時代がオリンピック不在と重なった悲運の世代でもあるわけだが、中・長距離泳者の古橋・橋爪に対し浜口は短距離陣のエースだった。なかなかの男前でもあったから、現役を引退後は大映映画のスターになって、『ブルーバ』という(じつは正確な題名を思い出せなかったので『キネ旬』総目録という虎の巻を確認した)ターザン亜流の映画に主演したのが、当時われわれ中学生の話題だった。1920年代の金メダリストだったジョニー・ワイズミュラーがターザン役者としてハリウッドのスターとなって活躍していたのの、何匹目だかの泥鰌となったわけだ。もっともその後、役者としてこれといった仕事をした記憶はない。訃報を見ると、やはり水泳界ではそれなりのエライ人になっていたらしいから、他人事ながら安心した。

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