随談第392回 いい人、源五兵衛

コクーン歌舞伎の『盟三五大切』を、面白いと思って見た。少なくとも串田和美という人が、これほどすんなりと、正直に姿を現わしたことは初めてだろう。よくいえば、演出家串田和美の世界がこれほど明確に、それなりの完成度を以って現れたことは、これまでなかった。串田がいままでで一番、自分に正直に歌舞伎と取り組んだともいえるし、それは、歌舞伎をネタにして自分に納得のいくように世界を作り出したと言っても同じことだろう。コクーン歌舞伎これまでの中で随一の出来といって然るべきである。

十三年前にやったコクーン版『三五大切』というものは、正直なところ、私は何だかよくわからなかった。これは批判ではない。本当に正直に、わからなかったのだ。わからなかったから、当然、面白いとも思わなかったわけだが、しかしわからなかったについては一半の責はこちらにもあるわけだから、無碍に批判もできないから、まあ実験としての意義、とか何とか言って、半ばお茶を濁してしまったのだったっけ。のちに、当時の『演劇界』で催した座談会で一緒になった串田から、一般論としてだが、遠巻きにしたような発言ばかりでいい悪いを言う批評がないと言われたが、たしかに、少なくとも『三五大切』に関する限り、それはその通りだったに違いない。

元々、この『盟三五大切』なる狂言は、青年座でやったのがきっかけになって歌舞伎でも「後発」としてやり出したぐらいだから、南北の中でもひとしお、新劇人にもとっつきやすい狂言なわけで、コクーン歌舞伎としては今更そういうものに手を出してもあまり手柄にはならないだろう、それよりも、歌舞伎のコンヴェンションの中に埋没してしまったような狂言を取り上げて、新しい演出で眠っていた面白さを掘り起こしてくれたなら、その方がずっと意義深い筈だ、というのが、私の考えだった。名作になり得るはずの非名作を、コクーン歌舞伎によって「名作」として甦らせる。私がコクーン歌舞伎に期待したのはそれだった。(その意味では、去年の『佐倉義民伝』が、スタンスの取り方としては、これまでのコクーン歌舞伎の試みの中では一番、私の考えと反りが合う。)

ところで今度の『三五大切』は、コクーン歌舞伎として在来のものから抜きん出た出来といっていい。理由ははじめに書いた通りである。つまり「串田歌舞伎」として、ほとんど完璧に出来上がっている。はじめは歌舞伎に対して及び腰だった串田が、段々腰が入って来ながらも、しかしどこか、部分をいじっている、という感が抜け切らないところがあった。が、今度は違う。だから実に明快である。

串田の『三五大切』観は、パンフレットに自ら書いている通りなのだろう。串田によれば、源五兵衛は「自分が目覚めて見ている世界が実際現実のものなのか、夢の中の時間なのか曖昧」な中で生きている。そう源五兵衛を捉える。だからすべては、源五兵衛の心象の中の出来事だった、ということになる。もちろん現実にも彼は小万を殺し、赤穂義士不破数右衛門として仇討にも参加したのだろうが、そんなことはいわばどうでもいいことになる。描きかけでまだ何を描いたのかわからないような風景画が描いてある紗幕が掛かっているが、串田によれば大川の新しい埋立地、とある。(長谷部浩さんの新聞評だと、未来都市のよう、とある。ウーム・・・。)とにかくこの紗幕がくせもので、たぶん源五兵衛の頭の中にもこの紗幕の如きものがかかっていて、現実と夢の区別が判然とできなくなっているのだろう。(だから、黒幕を切って落とすという「伝統的な」歌舞伎の手法の方がずっと効果的なのに、といった批判はここでは見当違いのご法度なのだ。ソンナコトバカリ言ッテイルカラ歌舞伎ノ批評家トイウノハダメナノダ!)

ここに出てくる源五兵衛は、じつに何ともいい人である。可憐なまでに、といってもいい。(串田和美の如くに?)二軒茶屋でも四谷鬼横町でも、舞台上の登場人物たちはみんな源五兵衛を怖がっているが、われわれ観客からは、可憐なまでに初心で正直ないい人で、だからだまされたと知ると(いったん帰ってからまた出て来たりしないで)軒下に夢見心地で佇んでいたかと思うとやおら五人切りにかかる。この軒下に佇むシーンは13年前の勘九郎(まだ勘九郎だったのだ!)のときにもあったけれど、印象としては、今度の方がはるかにイムプレッシヴで、ここから以降、源五兵衛は更に深く、自分の心象の中をさ迷うことになる。つまりこれが、串田が理解し、造形した薩摩源五兵衛という人間であり、『盟三五大切』という劇なのだ。だから、南北全集にあるような、首になった小万と据え膳を喰っているところへ義士仲間が迎えにくると、平然と立って仇討に出立するという、あの皆さんが大好きな場面はないことになる。(あの場面を出さないなんて!というような批判は、だから、見当違いもはなはだしい、ソンナコトバカリ言ッテイルカラ歌舞伎ノ批評家トイウノハダメナノダ!ということになるわけだ。)

かく、串田和美氏は南北を読み、かく造形した。それはそれで、見事に完結している。私個人としては、源五兵衛ってこんな「いい人」でいいのかなあ、という気もするのだが、歌舞伎もまた現代演劇であるという「思想」に立つ以上、どう読み解こうと演出者の自由なわけで、それ自体作品として「完結」している限り、それとして評価をするべきであろう。これはこれで、よろしいのではないだろうか?

随談第391回 いま中堅の実力者たち

今月の新橋演舞場の見ものといえば、吉右衛門の、とりわけ梶原がこの手の丸本物のおもしろさを存分に見せてくれるという意味で、ひとつの達成であろうし、それと別に、おじいちゃんと『連獅子』を踊る千之助の子獅子が舌を巻く本寸法の芸、本格のイキで踊って、これこそ文字通りの大天晴れ、あんなに精魂籠めて二十五日間踊って、大丈夫だろうかと心配になるほど。これこそ、いまこの時でなければ見られない。松嶋屋ファンならずとも優に一見の価値がある。

しかしこれらのことはすでに劇評に書いたから、いまここで書こうと思うのは、さしあたりこの月演舞場に集まっている顔ぶれに話を限るとして、中堅どころの充実ぶりだ。もっとも、どこまでが中堅でどこからがベテランなのかちと難しいところもあるが、まあここでは、今月でいえば吉右衛門・仁左衛門クラスより若い辺りから以下、ということにしよう。これらの人たち、とかくあまり話題にされずにしまうことが多く、いや現に私も、もっと触れたいと思いつつも、新聞評の684字の中に盛り込むことは断念せざるを得なかった。

まず『住吉鳥居前』のお梶の芝雀である。吉右衛門の団七と仁左衛門の徳兵衛の達引きの中に割って入って見事にぴたりと三幅対になる。こういうことは、まず、まぐれでは出来ないことで、芝雀の役者ぶりが如何に上がったかを端的に示すバロメーターのようなものだ。幕が閉まると同時にH氏曰く、芝雀ってあんなにいい役者でしたっけ。今頃それを知ったか、と言ってやった。先月の『籠釣瓶』を見よ。福助が八橋で、ちゃんとその姉女郎であることがくっきりと見える九重だった。あんないい九重というものは、そうめったに見られるものではない。大概は、揚巻に於ける白玉みたいに、皐月に於ける逢州のごとくに、ナンバーツーの妹女郎に見えるのが通り相場だ。八橋よりも世間を知り苦界の水もたんと飲んでいる年長者なればこそ、権高で自暴自棄のやんぱちになっている八橋を、その情人のつもりで脂下がっている次郎左衛門を、悪いことにならなければいいがとはらはらしながら見守っている姉女郎の、行き届いた心遣いというものを、あれほど情深く見せたのは、長い間の蓄積がいまようやく、水が器から溢れようとして、表面張力でいっぱいに張り詰められているかのようだ。

次いで歌昇である。『石切』の俣野が見事な本寸法。息よし形よし、富十郎の若き日以後、これだけの俣野はそう滅多になかった。もうひとつビックリさせられたのが『頼朝の死』の大江広元。歌昇といえば丸々とした元気のいい奴さん、という若いときからのイメージについこちらも縛られがちだが、この冷徹な官僚政治家を新橋演舞場の額縁にぴたりとはまったように見事にやってのけたのには、お見それいたしましたと恐れ入るより仕方がない。この人も、このところで一段ぐんと、役者を上げた。秋には又五郎を襲名するそうだが、これなら役どころの上からも、又五郎になって少しもおかしくない。又五郎という人は、新歌舞伎や新作物で、冷徹な官僚だの学者だの文化人だのという役が実にうまかった。東宝時分、何だかもうひとつ締まらないような新作物をよく見せられたが、この手の役で又五郎が出てくる場面だけは、ちゃんと芝居を見ているだけの手ごたえがあって、時間と入場料を無駄にしないですんだ気になれたものだった。

九月の襲名は、第一線級並みの随分と大掛かりな形式のようで、歌六がひがみやしないかと心配になる(まさか!)ほどだが、その歌六は『石切』の六郎太夫に『夏祭』では三婦という老人役の大役を引き受けて、いまや見る前から何の不安も抱かせない役者になった。それはそれで喜ばしいことなのだが、一方で私はちょっと複雑な思いがある。時には、年齢相応の役もさせてやるべきではないか。じつは私は歌六の白塗りというものを、大いに愉しみにしていたのだ。寸法のよさといい、ちょっとひとひねりした味といい、この人に勘弥の再来を期待したことすらある。『輝虎配膳』の直江山城なんて、まさにそれだったが、たぶんあれが歌六の白塗りを見た最後だったような気がする。もう、十年の余になるだろうか。白塗りに限らない。『寺子屋』が出たら時には源蔵ぐらいやらせてみたいとは、誰も思わないのだろうか?

時蔵が、『かさね』と『頼朝の死』の政子の二役だが、むしろかさね以上にこの政子がいい。そもそも今度の『頼朝の死』は、さっきの歌昇の広元もそうだが、染五郎の頼家はじめ世代交代風の新配役なのだが、この配役の中で時蔵の政子というのはやや硬質な品格がどんぴしゃりで、まさしく適任である。但し、途中で母親の心を見せておろおろするところがあるが、あそこをもう少しセーヴしてもう一倍、毅然としていい。

まだまだ触れて然るべき幾人かがいるが、ずいぶん長くなってしまった。そこで最後に、『夏祭』の「三婦内」で女房の芝喜松がやっているのを挙げておこう。大役にちょっぴり固くなっている気配はあるが、腕は確か、見事につとめている。この配役は大賛成、今月のヒットのひとつといって然るべきである。聞くところによると、なかなか味な経歴を持っている人らしい。

随談第390回 もう一度だけ、海老蔵のこと

昔、生計の足しに翻訳をしてわずかな稿料を稼いでいた時期がある。そのころに訳した本で、著者は文化人類学か何かをかじったイギリス人だったが、アフリカの現地民の社会形態と、先進の文明社会の形態とを重ね合わせて、要するに文明社会といったって未開社会と基本的な形態はまったく同じことであり、文明人とうぬぼれているわれわれもアフリカの現地民もすることの本質に変りはない、というような趣旨のことをいろいろ例を上げて証明しようという内容だった。細部はあらかた忘れてしまったが、中でひとつだけ、妙に覚えていることがある。

ある部族の酋長が死んで後継者を立てる必要が生じた時、後継者に指名された者は、それから暫くの間、姿を消さなければならない。何をするのかというと、一定期間、神殿に籠るのだという。やがて人々の前に姿をあらわす時、その人物は、もう、皆が知っていたこの間までの「彼」ではなく、酋長にふさわしいオーラをもった、昔の彼ならぬ「彼」になりおおせているので、皆、新酋長を受け容れるのだというのである。

昨今の政局の話をしようというのではない。(もっとも、日本の政界でも、新しく首相になった者がしばらく姿を隠して神殿に籠りでもしていたなら、こうも頻繁に首をすげかえられなくてもすんだかもしれないから、この話は、政局について論じる上でも、満更役に立たないこともないかもしれないが。)実を言うと、この前、海老蔵は舞台復帰をする前にしばらく成田山に参篭してくるといいと書いたとき、私の念頭にこのことがあったのは事実である。別に海老蔵がいま、何かの「長」になるわけではないが、きのうまでの「彼」とは違う「彼」になることが必要だろうと思うからだ。きのうの海老蔵とは違う海老蔵になったと思うことは、他人にとってだけでなく、おそらく海老蔵本人にとっても必要だろうと思うからだ。そんな形式などどうでもいい、と思う人は歌舞伎ファンにも似ぬ人である。人間の内面にも、やはり「型」は必要なのだ。歌舞伎に「型」が必要なように。

それにしても、テレビからエビゾウの「エ」の字も聞こえてきませんね。マスコミはもう、海老蔵のことなど忘れてしまったのだろうか。あんなに大騒ぎしていたのに・・・。

しかしこのシレッとした感じは気になる。災害や原発のことを思ったら海老蔵どころではない、というだけのことではなさそうな気もする。海老蔵の側も、来月には新橋演舞場で再起の舞台を踏むわけだが、いまのところまだ会見のたぐいも行なわれた様子もない。このまま、そっと舞台を踏んで、世間が気がついた時には、当り前のようにそこにいた、ということになるのだろうか。そういえば、謹慎、と言ったのはマスコミや世間が勝手にそう呼んだのであって、あのときの会見でそういう言葉が使われたわけではなかったような気もする。(そうではなかったろうか?)だから今度だって、別に「再起」でも「復帰」でもないわけか?

まあ、何も揚げ足取りをするつもりはないし、七月に舞台を踏むことについても、同じことを蒸し返す必要もないけれど、くれぐれも、つけるべき「けじめ」はきちんとつけて、その上で堂々と舞台をつとめてもらいたいと願うばかりだ。(どの道、「海老蔵、震災のどさくさにまぎれて舞台復帰」などといった見出しが、どこかの週刊誌に躍るだろうが。)

大相撲も、何とか「技量審査場所」という、神殿かどうかは判らないが、非公開という「禊」の場所に籠って「みそぎ」をすませたことにしたようだ。(いまでも思うが、あれはNHKが放送しないなら、せめてどこかの民放が放送すべきだった。スポーツ放送としてでなく、技量審査場所という社会的事件を報道する必要からである。アナウンサーも、いつもの相撲放送をする人たちではなく、ニュースを担当する人たちにさせればいい。多少不慣れだってそんなことは構いやしない。むしろ変になれなれしくなくてよかったかもしれない。と、そういう建前にして、その実、ファンを喜ばせるぐらいな粋を利かせる雅量が、NHK会長にはなかったのだろうか?)

夏場所ならぬみそぎの場所。禊ぞ夏のしるしなりける、ではないが、海老蔵もどうか、世人が等しく頷けるような「禊」をすませて、晴れて盛夏七月の舞台を晴れ晴れとした「いい顔」をしてつとめてもらいたい。『鏡獅子』、『勧進帳』の富樫、『楊貴妃』の高力士、『江戸の夕映』の本田小六。どれもいい役ばかりだ。いい顔をした海老蔵を見たい、と心から思う。

随談第389回 皐月晴れの芝居を

きちんとするべき芝居はしていながら、何だか舞台がもうひとつ活気づかないのを、芝居が寝入る、と言う。東京以外の芝居は見ていないから別として、震災以来、歌舞伎が何だか寝入っているような気がしませんか? 別にどこがどうと言って、悪いのではない。震災以前に比べて、成績が悪いわけではない。好舞台も、いくつかあった。俳優たちも、きちんとつとめている。しかし何か、カッと燃えるものがない。

気のせいだろうか。震災ボケか? たしかにそれも、間違いなくある。この欄にも何度も書いた通りだ。天災の方はともかく、もうひとつの、あの人災の方は、ものを言う気もしない。「あれ」はまさしく、われわれ現代の人間が抱え込んだ疫病神と言うしかない。落語の死神なら、うとうとしている隙に頭と足を素早くひっくり返してしまえば死者も生き返ることができるが、こっちの疫病神は、そういうわけにはいかないから、この鬱陶しさは、ナントカ建屋とかいうパンドラの函が開いてしまった以上、仮にいま現在の一件が終息したとしても、未来永劫、われわれの頭上から去ることはないのだろう。既に多くの人が言っているように、原子力というのは人間が神から盗んだプロメテウスの火であって、あの神話を作った古代人はそれを知っていたと考えるしかない。

とさて、ものを言う気もしないと言いながら、また繰言を並べてしまった。慌てて蓋をしたパンドラの函には「希望」だけが残ったのだそうだが、まあ、天災人災どちらをも通じて、今度のことでわれわれが改めて知った、最小にしてもしかしたら最大のことは、当り前のようにあるわれわれの日常というものが実は当り前にあるのではないという、ささやかな真理であるとも言える。日常を失わずにすんだ者は、せめてもこの日常を大事にすることが、いま一番なすべきことなのかも知れない。

と、ようやく話は振り出しのところに戻ってきた。歌舞伎の話をするつもりだったのだ。芝居をする者も、見る者も、いま自分の前にあるこの「日常」の尊さを思うべきなのだろう。市川猿翁という人は、往時の雑誌などでこの人についての記事などを読むと、エライ人なようでもあり、それほどでもないようでもあり、おなじ「名優」といってもたとえば六代目菊五郎などに比べると評価は乱高下がはなはだしいようだが、この人は、66年前の昭和二〇年八月十五日の終戦の日の直前まで、名目は慰問のためだが芝居をやっていた。東劇というれっきとした劇場で、『弥次喜多』をやっていたのである。つまり、広島や長崎に「特殊爆弾」が落ちても、芝居を続けていた。さすがに終戦になって一旦中止したが、マッカーサーが厚木に降り立った二日後の九月一日には、『弥次喜多』をまた演じ始めた。つまりこの人は、「戦前」のいちばん最後のぎりぎりまで芝居をし、「戦後」の真っ先に芝居を始めたのだった。じつは『弥次喜多』だけではなく『黒塚』もやったのだが、しかしこの場合、『黒塚』よりも『弥次喜多』をやっていたという方が、なんだか格好いいような気が、私などはする。役者魂って、こういうことなのかもしれないなあ、と思わせられる。

さて、早や、六月である。陰暦五月。皐月晴れとは、皐月雨、すなわち梅雨の晴れ間のことを言うのが本来の意味だそうな。皐月の鯉の吹流し、鯉のぼりは梅雨の晴れ間の皐月晴れの空に泳ぐから、ひと際明るく、威勢がいいのだ。明日から六月の興行が始まる。皐月晴れのような芝居を見よう。そうしてつとめて、この欄でも芝居の話をするようにしよう。