随談第418回 歳末雑記(その2)『朝の波紋』再会

昨夜、チャンネルNECOなる局から昭和27年5月封切の新東宝映画『朝の波紋』が放映されたのを実に実に懐かしく見た。覚えず、涙が流れた。いい作品だけれども、取り立てて名画というわけではない。だがそれだけに、いやそれ故に、繰り返し論じられてなまじ現代の風に吹かれたりしない分、実に見事に純度が保たれている。覚えず涙腺がゆるんだりしたのは、まさしくそのためである。

高見順原作、五所平之助監督、高峰秀子と池部良主演というこの映画は、まだ大女優になる前の高峰秀子映画のひとつの典型といえる。前にも書いたが、当時の高峰・池部の二人というのは、なかなかの似合いのコンビであって、昭和二十年代という時代を代表する俳優というのは、実はこの二人であったということが、この映画を見てもよくわかるが、こういうたぐいのことは、ある特定のテーマを決めて物々しく論じたり、ある角度から鋭く切り取って見せたりする対象にはなりにくいから、映画論の題材にはならないでしまうのだ。「普通」ということが、「論じる」のに如何に難しいかの好例ともいえる。

昭和27年5月1日というこの映画の封切り日は、物々しく論じるならば、前年九月に締結されたサンフランシスコ講和条約が発効された3日後であり、皇居前広場が流血の惨事となったメーデー事件の当日であり、紋切り型で当時を語るときに必ずのように引き合いに出される有名な出来事をいうなら、この18日後にボクシングの白井義雄が日本人初の世界チャンピオンになるという、つまりそういう時代である。

この映画の画面にも、まだ復興していない焼け跡がしばしば映し出される。池部良の役は、元は大変な家柄の跡取り息子らしい、という設定で、爆撃に会って廃墟のようになった広大な屋敷跡に小さな仮普請の家を建てて住まっている。浅草の「どぜう屋」もバラックの粗末な店で、「トンコ節」が聞こえて来たり、隣席の客が高峰に向かって「アジャパー」とからかったりする。隅田河畔では、ニコヨンと呼ばれた労務者が池部に「旦那、すまないが火を」と煙草の火を借りに近寄ってくる。池部も当然のように、オイ、と気安く吸い差しの煙草の火を貸してやる。こういったことが、当時はごく当り前の光景であったことを思い出さされるが、一方、当時の浅草ってまだこんなにも焼け跡そのままだったのだ、ということを改めて知らされたりもする。その一方で、大阪へ出張する高峰が乗っている東海道線の車内は、座席の様子といい、もう既に随分とスマートである。

当時小学生だった私は、母親に連れられて(つまり母が見たかったのであって、私はただのお供だった)池袋の、現在家電量販店の巨大店舗が並ぶ辺りにあった映画館でこの映画を見たのだった。講和条約発効の翌日、それまでは鷺ノ宮で当時としては結構ましな暮しをしていたのが、俄かに、何分の一かの小さな家に引越すことになって、転校生というカルチャーショックを体験したばかりだった。(中野区から豊島区へ移っただけでも、生徒の気風はまるで違っていた。)池袋という街も、もしかしたらその時初めて行ったのであったのかもしれない。焼け跡に仮普請が立ち並んだ雑駁な感じが、子供心にもわかった。西武デパートが、スレート瓦の切妻屋根の木造の二階家だった。

高峰の役は商社の社員で、当時の女性としてはかなり先端的なわけだが、そういう女性の生き方というのが、芯のテーマになっている。高峰は前年、しばらく映画出演を休んで梅原龍三郎の世話でパリに遊んでリフレッシュして帰ってきた、その帰国第一作というので、当時話題となったのがこの『朝の波紋』であり、しばらくのんびりしたため随分太って顔が丸くなったという評が載ったのを覚えている。この二年後、『浮雲』と『二十四の瞳』という金箔つきの名画で名演技を見せ、あっという間に名女優大女優になってしまうのだが、以後、彼女は若々しい輝くような笑顔を見せることがなくなってしまい、代わりに、「やり切れない」という顔を見せる達人になる。(あんなに、どの作品でも「やり切れない」顔を見せながら、決してマンネリという非難を受けなかったというのも、思えば大変なことだ。)『朝の波紋』は、高峰の若く明るい笑顔を見ることのできる最後の作品かもしれない。

実はこの映画を、私はこの3月14日に池袋の新文芸座の高峰秀子特集の中で上映されるのを知って、久々の再会を大いに楽しみにしていたのだった。後で知った話では、新文芸座が上映中止に踏み切ったのはその数日後であったらしいから、14日には予定通り上映されたのだろうが、原発が爆発し、余震の頻発する中で、幼い者もいる家族を置いて見に行くわけには行かなかった。翌日、税の申告に税務署へ出かけた時、池袋の上空に異様な色をした巨大な雲がかかっているのが見えた。その翌日には、原発の建屋に注水するというので、二階から目薬を差すみたいに、自衛隊のヘリコプターからバケツで水を撒く情景がテレビに写った。あの情けない光景こそ、原発問題の、ひいては今の日本という国の現実の、象徴に違いない。話に聞く爆弾三勇士を連想して、当時このブログに書いたっけ。

『朝の波紋』には、こうしてテレビで再会することが出来たが、原発をめぐる論議は、ますます食い違う一方である。それにしても、よくもまあ、喉もとの熱さを忘れたような顔で、議論をしていられるものだと思わずにはいられない。

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いささか唐突ですが今年はこれでお仕舞いと致します。新しい年は、少しはマシな年でありたいものです。このブログもまた。

何もかも中途のままの年の暮

随談第417回 歳末雑記(その1):村上春樹の新著を読む

最近知り合いになったフランス文学者のT氏に勧められて、村上春樹の新著『小沢征爾さんと、音楽について話をする』を読んだ。なかなか面白い。『1Q84』(などは、T氏と親しくならなかったらたぶん読まなかったろう)なんかよりはるかに面白い。

小説の方の村上流の気取りはあまり感心しないが、こちらの気取りは気にならない。インタビュアとして、実によく話を引き出して見せる才能だけでもたいしたものだ。相手の信頼を得ていればこそ出来ることで、詳しいことも詳しいが、小沢の方もそれだけ喋る気になったればこそ可能になった仕事だということがよくわかるのが、そのまま、面白さになっている。小沢がまだ駆け出しの頃といえば60年代当初だが、当時はまだ前時代の巨匠大家たちが健在だったから、ルービンシュタインの演奏旅行に連れて行ってもらって遊び人ぶりをじかに見たり、ピエール・モントウと話をしたことがある、などというだけで、ヘーエと感心することになる。(実際には、猿翁のおじさんと話をしたことがある、ぐらいのタイムスパンなのだが、何だか、初代鴈治郎や五代目歌右衛門と話をしたことがある、というぐらいの感覚に襲われる話である。)

しかし何といっても白眉は、マーラーをめぐってのやりとりで、ユダヤ人マーラーよりも世界市民としてのマーラー、というのが小沢にとってのマーラーであり、そこらが村上春樹の世界と反りが合うところなのだろう。ひいては、演歌だって基本的に西洋音楽から出てきているのだから五線譜で説明できる、演歌など一度も聞いたことのないカメルーンの音楽家にもちゃんと演歌は歌えると思う、という辺りに急所があるのに違いない。(以前、山本直純のやっていた『オーケストラがやってきた』というテレビ番組で、森進一にオーケストラで伴奏をつけたことがあったが、実は小沢が、森進一さんが出てくれるなら、と註文をつけたのだという。森進一を選んだ、というところが面白い。)別なところで、小沢は、日本人、東洋人にしかできない西洋音楽のあり方っていうのがあるかも知れない、そういう可能性を信じてやっていきたい、とも言っている。

いま力を入れている若手の演奏家への教育を、オーケストラでなく弦楽四重奏で行なっているというのも、なるほどなあと思わせられる。弦楽四重奏に基本があると思うからで、つまり、オーケストラでは演奏しながらすべてのパートの音は聞こえないが、弦楽四重奏なら、互いにすべての音を聞きながら演奏するからだという。この辺りになると、小沢節も「芸談」らしくなってくる。つまりこの本には、近頃にない面白い「芸談」が満載されている。ああ、それはね、日本の「間」という考え方と同じですね、なんて言葉も出てくる。

グレン・グールドとカラヤンがはじめてベートーベンの三番のピアノ協奏曲で共演したとき、こういう曲の場合、普通はソリストに合わせるところをカラヤンは自分のスタイルで押し通した。貫録の違いだというのだとか(つまり当時のグールドは、大横綱カラヤンに対する新小結ぐらいのものだったのだろう)、指揮者というのは「ある程度棒振りとして場数を踏んでくれば、息の取り方がわかってきます。ところがね、そういうのができない指揮者って案外いるんです、そういう人は、いつまでたっても下手なままですね」なんていうのは、まさしく芸談以外の何ものでもない。

こういうのを読むにつけても、近頃出る歌舞伎の本って、いくらなんでも啓蒙主義万能になりすぎているんじゃないかしらん。

随談第416回 『澤村田之助むかし語り-回想の昭和歌舞伎-』のこと

年内に滑り込みセーフという格好でようやく出版になった。企画立案の段階からいうと足掛け三年目である。

元はといえば、『演劇界』が現在の体制になる前、2001年から07年の4月号まで足掛け七年にわたって連載した『澤村田之助半自叙伝-世紀を越えて-』である。昭和三十八年から半世紀、ルポだ漫文だインタビューだ聞き書きだ座談会の司会だと、その名の出ない号はなかったろうと思われる程、八面六臂の奮闘をした土岐迪子さんが聞書き形式で記述、途中で体調不良でダウンした後は秋山勝彦氏がバトンタッチしての、ちょっと類のない長期連載だった。神山彰、児玉竜一両氏が発議、誘われて私も一枚加わって発起人のような形になって、以来三年、ようやく出版に漕ぎ付けたというわけ。

長期にわたる聞書きだから、話が前後したり、少しずつヴァリエーションを生じつつ同じ話題が繰り返されたり、急に、こないだ誰それさんが亡くなりましたね、といった風に別な話題が飛び込んで来たり、といったことが幾らもある。そこが連載の面白さでもあるのだが、単行本にするとなればこういうのは適宜整理する必要がある。またこういう仕事は、エイと思い切って集中的にやらないと散漫になる。そんなことも暇取った理由のひとつだが、去年の10月から三ヵ月、一念発起してそれに充てた。といったって、喰うための雑用から表看板にしている仕事まで、諸々こなしながらの作業だが、頭がこんがらかりながらもしかし、なかなか楽しい作業であった。はっきりこれは、役得であった。自分の著書と同じくらい、今では内容はすっぽり頭に入っている。

名子役として重宝されていた少年時代は、いわゆる戦中に当るのだが、当時の楽屋内、「○○屋のおじさん」と呼ぶ往時の名優たちから、子役仲間、脇役端役をつとめる役者たちの生態(といってよかろう)、巡業の様子などなど、記録としての意義はもちろん、読むだに甘酸っぱいような、懐かしさにうっとりする。(古い映像を見るときの、ある種の感動に似ている)。もうひとつユニークなのは、戦後の数年間、すなわち中学高校時代を、役者生活からすっぱり足を洗って全く普通の学生として過ごした時代のことで(田之助氏自身は、『青い山脈』を地で行くような学生生活だったと語っている)、ところがその間に、尾崎士郎や坂口安吾あたりならまだしも、徳田球一だの東富士だのといった名前まで飛び出してくる面白さ、意外性。ここらが、並の俳優本とはひと味違うところだろう。潜伏中の共産党幹部と面と向かい、のちの横綱、イヤサ力道山に誘われてプロレスラーになった当時の大関に、何と相撲部員として裸になって胸を借りたというのだから驚く。

中でも白眉であり且つ貴重なのは、他ではまず見られない往時の写真で、たとえば昭和18年に歌舞伎座で上演された『玉屋』の舞台写真。六代目菊五郎扮するシャボン玉売りのまわりに群がった子供達を見ると、田之助がいる宗十郎がいる先代門之助がいる先代三津五郎がいる、それから萬屋錦之介がいる大川橋蔵がいる。みんな、なんという可愛らしさなのだろう。

タイトルを変えたのは、『世紀を越えて』というのは、新世紀の変り目に当って連載が始まったからで、秋山加代さんの案だと聞いている。(蛇足ながら、秋山さんは小泉信三さんのご令嬢でなかなかの歌舞伎通だった、われわれからすると素敵な老女であった方である。)しかし二十一世紀も、はや十年代に入った今、この本のスタンスを(近頃よく聞く「立ち位置」という言葉を使えばいいのだろうが、どうもこの言葉、なるほど巧い言い方だとは思うものの、なんだかまだ気恥ずかしくて使う気になれない)現在の読者に端的にアピールするには、という観点から「むかし語り」としたのだが、われわれとしては、関心も価値ありと思う意義も、「回想の昭和歌舞伎」というサブタイトルに籠めたつもりである。

随談第415回 今月の舞台から

歌舞伎が三座もかかった師走の東京。討入り日も過ぎた今更、劇評でもあるまいから、話題あれこれということにしよう。

○三座とは言い条、大人の芝居は国立に尽きる。吉右衛門は三十年ぶりという『御浜御殿』がセリフがちょいとつかえる他は、5年前の「最後の大評定」と合せ、当代歌舞伎の『元禄忠臣蔵』と言うべく、又五郎の富森の大健闘も推奨物。前頭筆頭ぐらいの力士が果敢に横綱に突っかかって行く面白さがあった。とかく、両横綱の対戦みたいだったり、時には富森のほうがエライ役者だったりすることもままあるが、この方が本当らしい。それにつけても、国立劇場には『元禄忠臣蔵』が何とも似つかわしいことよ。

○国立劇場といえば、筋書の「出演者のことば」のページが面白い。イエ、中身の話ではなく、1ページに三人ずつ載っている顔写真だ。とりわけ先頭ページの、上から大谷桂三、澤村宗之助、澤村由次郎が出色。桂三がなかなか風格あるダンディぶりで、優良企業のオーナー社長のよう。下段の由次郎また、温顔を黒スーツで包んで忠実温厚な専務サン、中段の宗之助が、眉までかかったオカッパ頭にストールをグルグル巻きにした軽装で、ナントカ製紙のバカ副社長ではないが、ギャンブルで社費を使い込みでもしそう? と、そう思ってみれば、何故か今月は皆さん、ダークスーツにネクタイをきちんと締めていて、それぞれ、年齢相応の役職者だったり、若手エリート社員であったりのように見えるからオモシロイ。中に一人、白髪で和服姿の播磨屋は創業者かな?・・・と、『元禄忠臣蔵』ならぬ『サラリーマン忠臣蔵』もどきの見立てデシタ。

○平成中村座で四役で五幕に大奮闘の菊之助。最も本役たるべき桜丸よりも、オッと思わせた、しかも自ら志願したという武部源蔵よりも、一番ぴったりだったのは『松浦の太鼓』の大高源吾だったというのは、皮肉といえば皮肉。この辺りの機微は、歌舞伎鑑賞上の奥の院とでもいうべきムズカシイところか。『関の扉』の薄墨は結構でした。それにしてもこの人、踊りにかけては既にお父ツァンをずっと抜いている。

○勘三郎については、とにかくもうしばらく、黙って見守っていることにしたい。

○日生劇場の「七世松本幸四郎襲名百年」というふしぎなタイトルは多分前代未聞だろうが、ひ孫三人にヒイ爺さんゆかりの明治歌舞伎ばかり、しかも所も日生劇場で、という企画は、よく考えるとなかなか味のある企画である。ハイカラ歌舞伎と言おうか、歌舞伎モダニズムと言おうか。どうせのことなら、ヒイ爺さん初演で本邦初の創作オペラという『露営の歌』を、こういう機会に染五郎にさせたかった。(イヤ、本当に。)

○『碁盤忠信』を復活し、『錣引』を復活し、『勧進帳』だは義経という染五郎が、今回最も労多くしていささか割りを喰った形。とりわけ『碁盤忠信』の大詰、同じ二本隈を取った相似形のような扮装で海老蔵とふたり並ぶと、睨んでご覧に入れるのが身上の海老蔵が浚ってしまうのは、気の毒だが仕方がない。碁盤忠信だから荒事、という考えだろうが、染五郎の柄を考えたら、白塗りに生締にでもするべきだった。それにしても、忠臣の忠信が押戻された挙句、三段に上って見得をし、敵役として名高い横河の覚範が押戻しとは、善人悪人とりかばや、というわけだろうか?

『錣引』にしても、46年前、東横ホールで先の権十郎がやったのが目に残っているが、当時はまだそれほどの貫録ではなかったとはいえ、あの羽子板のような役者ぶりは天性のものだから、景清の錦絵美はなかなかのものだった。これもまた、染五郎では仁が違う。とかくに損の卦だった染五郎、日本シリーズだったら負けチームで孤軍奮闘した選手に贈られる敢闘賞でも進呈していい。

○結果的に一番難が少ないのは『茨木』ということになる。松緑は、鬼というより怪猫じみるが、よく研究し神妙に無事つとめ上げた。海老蔵の綱は、何といってもこういう役にはぴったりの容姿風貌で、例の幕切れの舌を出した見得も見栄えがするが、ひと呼吸あって体を決めてから見得をするのは、普通の歌舞伎芝居のやり方で、こういう新しい芝居の息ではない。そこが、歌舞伎モダニズムたるところの筈だ。

○『勧進帳』は、ちょっと困った。いくら睨みが売物とはいえ、弁慶がああ睨んでご覧に入れてばかりいては・・・。海老蔵、惑いの時節か?

随談第413回 11月ア・ラ・カルト

先月の訃報は談志でおしまいかと思っていたら、西本の訃報がその後から伝えられた。かつてのヒールがいつの間にか国民的ヒーローにすり替わっていたかのような談志の場合と違い、こちらは評価はすでに確立しており、私としてもそれにつけ加えたり、異説を唱えたりする必要はまったくない。(もっとも談志の場合は、談志自身が変ったというより、異質分子の受容に関する世間の感覚が、時代とともに変ったということなのだろう。)

個人的印象をいうなら、壮年期でも、あるいはもっと齢を取ってからでも、西本ほどユニフォーム姿に精悍さが失われることなく、闘う男、という感じを漂わせていた監督はまたとなかった、ということだろう。強いて言えば、仰木がやや匹敵するぐらいか。落合が、この頃のように僧侶みたいになってしまわない、まだ現役引退して間もない頃、野球のユニフォームなんていい大人のする格好じゃないよと言っているのを聞いたことがあるが、たしかに一理はあるのであって、一旦先入観を取り払って考えてごらん、あの格好は他のスポーツに比べてもかなり異様なスタイルであることに気がつくはずだ。(あの下半身はニッカボッカーから変形したものであろう。つまりたっつけ袴だ。)野村でも、長嶋といえども、現役時代に比べると、監督末期のころのユニフォーム姿は、正直なところ、あまり感心したものではなかった。だが、西本に限っては、大毎の監督時代よりも阪急時代の方が、阪急時代よりも近鉄時代の方が、闘う男の精悍さを増して行った。何を格好いいと思うかは、もちろん人さまざまな思い方があっていいには違いないが、西本ほど、野球に徹していることが、そのまま、絵になっている老監督の美しさを感じさせた人はない。

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監督としての落合という存在を、好きか嫌いかと問えば、これほど見解の分かれる存在もないだろうが、(私も決して好きとは思わないが)、しかしこれほど「興味深い」存在もまたといない、という意味でなら、私は現在のプロ野球の監督中、抜群の興味を抱いている。いや、いた、というべきか。先週だったか、長嶋一茂のインタビュウに答えていたのを見たが、紫色の上着がまるで法衣のようなくせに、ズボンが(はっきりとは見えなかったが)色合いから言ってジーンズのように見えるという、珍妙といえば珍妙な格好をしていた。監督をつとめるようになってから、見る見る僧侶のような風貌になりまさっていったのは、監督としての徹し方に、他の監督たちとは質の上で違うものがあるからに違いない。「俺流」の表れでもあろうが、インタビュウを聞いていても、答えの中に「凡」ということがひとつもないのは、大変なことである。

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大相撲では、稀勢の里が、先場所辺りから、いわゆる一皮むけた感じになってきたのが相撲振りにもはっきりわかる。目安の3場所合計33勝などという数字に審判部がこだわらず見識を示したのは、近頃の相撲協会としてはヒットというべきである。(マスコミが相も変らず、あと一敗しか出来ませんだの何だのとしきりに言っていたのは、今更ながら笑止だった。)人相も俄然よくなった。大関昇進をを伝える使者に妙な四文字熟語などを言わなかったのも、近頃天晴れというべきである。

そういえば、テレビのワイドショーで女性のキャスターが、四文字熟語を言わなかったというので、大相撲の伝統から見てどうなんですか、と言っていたのが面白かった。この手の、いちど流行りだすと「流行」がたちまち「伝統の型」と化してしまうのは、面白いといえば面白いし、オソロシイといえばオソロシイ。優勝力士に天皇杯を渡す時、ヘンデル作曲の一節を演奏するのは、いつから始まった「伝統」だろう? まさか双葉山がヘンデルの曲の流れる中で優勝杯を受け取りはしなかったろう。まあ、表彰式のはじまりに「君が代」を歌うので楽隊に来てもらっているので、ついでに、ヘンデルも演奏することになったのだろうが、私の睨むところ、柏鵬時代辺りからではあるまいか?

そういえば、先日相撲博物館で、初代若乃花のことを展示していたのを見に行ったら、横綱昇進のときの伝達式の模様のフィルムが放映されていた。見ると、緋毛氈もなく、何と手あぶり火鉢がひとつ、使者と若乃花の間に置かれているばかりである。つまり、当時はまだ、「伝達式」という儀式ではなく、番付編成に関わるひとつの慣例に過ぎなかったのではあるまいか?

随談第412回 私的談志論(修正版)

ナニ、論などというほどのこともない。談志のことについて、心にうつり行くよしなしごとをそこはかとなく書いてみようというだけの話だが、それにしても、訃を報じるマスコミの仕方、それを通じて聞こえてくる世間の反応、へーえ、といささかたじろぎながら、チョイ驚きながら、眺めているところである。額面通りに受取るとするなら、談志サン、よかったね、結局のところ、貴方は勝ったんだよね、と密かに、はなむけの言葉として送ってあげようか。別に、個人としての付き合いがあったわけでないが、それなりに長い年月、高座を聞き、少しは著作も読み、巷間伝わってくる諸々の評判を私なりに腑分けをしながら、これを約めて言えば永いこと親しんできた「彼」に、そのぐらいのことはしてやろうと思うからだ。

勝った、というのは、談志がやろうとしてきたことを、世間がちゃんと理解していた、ということである。世の中も変わったものだ、とちょっと斜に構えてみたい気がしないでもないほどに。こんなにも(あっさりと)理解されちゃって、何だか談志らしくないなあ、とちょっぴり皮肉でも言いたい気も、しないでもない。談志の「毒」って、こんなに口当りがよくってもいいのだろうか? 

私などの年代の者からすると、志ん朝と、何かにつけて対比される存在であった、というのが、談志の位置づけとして、どうしても基本になってしまう。正宗と村正、という風に見られていた。当然のように、オーソドクシイは志ん朝にあり、当時まだそんな言葉は一般にはなかったが、今で言う「ヒール」として談志は見られていた。本当はいい奴なんだってよ、という声はある程度以上熱心な落語ファンには聞こえていたが、世間一般はそんなことまで知らない。落語はうまいかも知れないが生意気だから嫌だ、というのが、平均的な声だったと思う。参議院議員になって、物議をかもして役職を辞任すると、マア、ここらで少し落ち着いて落語の勉強をするといいんだ、などと利いた風の批評をするのも、世間の平均的意見だったが、この手のワカッタ風ノ言い方こそ、談志が最も嫌い、軽蔑するものであったろう。

その頃だったか、歌舞伎座の前で一般客と議論をしている談志を見かけたことがある。談志を異端児と見て、何故もっとまともに落語をしないのか、と問いかけられたのに答えているらしかった。(そんな、見ず知らずの人を相手に真面目に応対している姿が、印象的だったので、いまも覚えている。)その頃私は紀伊国屋寄席の常連だったが、ある時、トリを取る予定の小さんが休演になり談志が代って出たら、バタバタと帰る客が続出した。三越の落語会だったかでは、中入りの後に出る予定の談志が、構わずに高座に上がってしまい、客席が半分も戻ってこない中でさっさと一席終えてしまったりした。(こんなことは珍しくなかったらしいが、私が遭遇したのはこの時一度だけだ。)ここは「古典病患者」の集団、と高座の上から、談志がホール落語の客をからかったりした。

これもそのころ、私の友人で大学の語学教師をしていた男が、談志がしきりにインテリ風の屁理屈を並べて得意がっているが、落語家だから珍しがられているだけで、あんな理屈は大学の教員室では聞き飽きているから少しも面白くない、と言い放った。一理はある、と思いながらも、その男の方もちょっと格好つけてるな、と私は思ったが、今度はある女性が、その男のことを、Sさんて談志に似てるわね、と言い出した。なぜかと言うと、二人とも人を怖れているような眼をしている、というのだった。これにはちょっと意表を突かれたが、なるほど、とも思えたのでSにそれを伝えると、フーム、と考えていたが否定はしなかった。Sは志ん朝の心酔者だったが、内心では、談志のこともまんざら嫌いではなかったのかもしれない。それにしても、いわゆる女性の直感というやつで、これは、談志論としてなかなか急所を突いているのではあるまいか。つっぱったり、髯を生やしたりする奴に限って本当は気が弱いのだ、などと男の論理で一般論化してしまうと面白くなくなってしまうが。

やがて星移り時は流れて、志ん朝も円楽もいなくなり、談志も大名人として見送られる番となった。談志の栄光にして不幸は、演者であると同時に、どの批評家よりも頭の切れる批評家でもあったことだと、私は思っている。その意味では猿之助と共通する面があるが、猿之助にはヒールの要素がないのが、二人の分岐点だろう。しかし二人のしようとしたことは、実は意外に重なり合っている。『現代落語論』を書いた時、あれにまともに応えようとした批評家はいなかったのではなかったろうか。「・・・という部分」というような言葉づかいとか、「業の肯定」とかいうような、それまでの常識だったら生硬で鼻持ちならない(下手な落語家がやったら屁もひっかけられない)用語を連発して、それまでにない落語の「文体」を作ったのが、落語という一点に絞り込んで談志論をするなら、急所のように思う。

それにしても、たとえば『昭和落語家伝』といった本で、先輩の噺家たちを語るときの談志というのは、本当に素晴らしいよね。

随談第411回 いま、菊之助について考えよう

今月の『娘道成寺』は本当に素晴らしかった。快打一番、打球は見事な放物線を描いて虚空へ消え去った感じである。スラッガータイプとは裏腹の華奢なやさおとこが、肩の力が抜けた美しいフォームで一振すると、思いもかけぬ大ホームランとなったというわけだ。

いや、冗談ではない。この『道成寺』は並の『道成寺』ではない。若手役者のお手柄、などというレベルの代物とは天から違う。前代以来のすぐれた『道成寺』たちの高峰群に優に並ぶ。技術的にどうこうと言うのではない。これは、ひとつの時代を切り開いた『道成寺』であるという意味でなら、前代のどの大家の『道成寺』にも優っているといっても、過言ではない。

ひとつの時代を背負っていた、という意味では、歌右衛門のがそうだった。それは、歌右衛門がひとつの時代を背負う役者であったから、可能であったことだ。ひとつのすぐれた『道成寺』という意味でなら、昭和五十八年の五月と十一月に踊った芝翫のは、一人高く屹立する『道成寺』だったが、しかしそれは、時代を背負うものではなかった。誠に気の毒なことだが、芝翫という人が、ひとつの時代を背負っている人ではなかったからだ。菊之助が、現実にこれからの歌舞伎を背負って行く存在になるかどうかは、神ならぬ私には予言することは出来ない。しかし今度の『道成寺』が、菊之助がいま現に生き、これからも生きて行くであろうひとつの「時代」の扉を、菊之助自身の手で開くものであったとは、確実に言っていいであろう。

菊之助はこれからも何度も『道成寺』を踊るであろうが、きっと後になって、俺、菊之助の『道成寺』見たよ、という者があれば、お前の見たのはいつ、どこで踊った『道成寺』であったのかが問われることになるに違いない。あの時のはああだった、この時のはこうだった、という風に。そしてそれを語り、論じることが、菊之助を、ひいてはその折々の歌舞伎を語ることになるに違いない。

思えば12年前の浅草歌舞伎ではじめて踊ったときも、実にしなやかなよきものであったのだが、その折は海老蔵の初役の『勧進帳』の弁慶が大ブレークしたので、話題をすっかりさらわれてしまったのだった。そしてそれからしばらく、菊之助には惑いの日々があったように、私は思っている。これも海老蔵の光源氏が話題を独占した『源氏物語』では菊之助の役は葵の上だったが、この葵の上は、まるで男のように緋の袴でドスドスという風に歩いていたので私は唖然とし、同時に少し不安を覚えたりした。現代劇に出演して、若き日のゴッホの役を演じたりもした。女方であることに、女方として生きていくことに疑問を抱いているかのように、私には思われた。

もちろん、もう今の菊之助には、そんな惑いやら、青臭い反発などは影も残していない。去年の12月、日生歌舞伎で演じた『合邦』の玉手は、花形だの何だのということを超越した、素晴らしいものだった。つまりこの正味一年間に、菊之助は『合邦』と『道成寺』という、ふたつの飛びぬけた傑作を見せたのだ。もちろん、同じ今月の『魚屋宗五郎』のおなぎのように、どこかまだ固さの残った、若手らしい熟し切らない一面を見せることは今なおある。先月の国立劇場の楠の遺子の姫の場合は、その固さが、両性具有のようなチャームとなって生きたとも言える。これらは多分、いまこのときの菊之助の在り様と関わることであるに違いない。『道成寺』で見せた、あれだけのたおやかさ、匂い立つような若女形ぶりにさえ、獅子奮迅ともいえる激しさ、鋭さを秘めていることとも、それは関わりあっている筈である。そうしてそこに、これからの菊之助を考える上で、抜き差しならない大事な急所があるのだろうと、私は思っている。

今月、『道成寺』を踊ったすぐ後に、『髪結新三』では勝奴を演じてこれがまた傑作だった。大ホームランの次の打席で、今度は右中間を大きく破る二塁打を放ったという趣きである。どこが面白かったと言って、この勝奴は、弥太五郎源七やら家主やらを相手に新三のすることを後ろでよく見て(観察して)いて、腹の中で新三を批評しているという男だった。俺ならああはしないがなあ、などと呟きながら。(そんな男だから、お熊を押し籠めてある押入れの鍵を新三に渡す筈がないのだ、ということがよくわかる。)この男は、新三の後を取って、やがていっぱしの顔役になるつもりでいる。いや他ならぬ菊之助自身が、将来の新三役者としての己れを、視野の内に納めているのに違いない。

ところで来月の平成中村座では、菊之助は『菅原』の半通しで『賀の祝』では桜丸を演じ、『寺子屋』では何と武部源蔵役だという。(夜の部では『関の扉』では墨染だが『松浦の太鼓』では大高源吾である。が、これはまあいい。)桜丸は当然、演じるべき、演じなければならない役だが、武部源蔵にはちょいと驚かないわけには行かない。これは、勝奴とは訳が違う。私が実際に見た限りでだが、源蔵をやり女方も演じた役者といえば、三代目左団次に先代当代の勘三郎ぐらいしか、いま俄かには思い当たらない。それとて、この人たちの演じた女方とは、要するに(若い修業時代は知らず)立役から出る加役としての女方である。しかし一方、かつて戸浪とご法度の不義密通を犯したという過去をもつ男としての源蔵を、『筆法伝授』でなく『寺子屋』で、どう演じるのかという興味も抱かせる。(そんなことを考えさせる源蔵というのも、これまでいなかった。)

七月のチャリティー公演では『藤娘』と同時に『うかれ坊主』を踊ってこれも面白かったが、決して二兎を追う愚は犯さないであろうとはいえ、菊之助の立役志向(試行?)は、当分、はらはらしながら見守って行くしかないのだろう。

随談第410回 『怒れる十二人の男たち』への「?」マーク(修正版)

俳優座劇場でまた新たに『十二人の怒れる男たち』が始まって、入りも随分とよさそうだ。歌舞伎の観客に比べると皆々教養なり知性なりのレベルが高そうな人たちで、席はほぼ満席に近い。(たまたますぐ前の席が空いていたが、たまたま都合が悪くて来られなかったのだろう。お蔭でこちらは助かった。それにつけても、この間の平成中村座では、昼夜二回とも、すぐ目の前の席に坐った人が(別人であるにも拘わらず!)おそろしく座高が高い人で実に参った。たとえば『浜松屋』の強請場だと、上手よりにいる橋之助の日本駄右衛門と、下手寄りにいる七之助の弁天小僧の間に、前の人の頭がすっぽりと入りこんで、駄右衛門と弁天・南郷を分断するのだから、たまったものではなかった。)

ところで『十二人の怒れる男たち』だが、たしかにうまく出来ている芝居だし、出演者も才人・達者ぞろいで飽きが来ず、数日来の睡眠不足にもかかわらず一睡もしなかった。いや、する気にならなかった。引き込まれて見たし、インタレスチングでもあった。そのかぎりでは、充分に満足したといってよい。だが、いまに始まったことではないが、私はこの芝居にもうひとつ馴染めないものを感じている。今度もまた、それを拭い去るには至らなかった。何故か。

あまりにもこの芝居、うまく出来過ぎている、と思う。陪審員8号の人物が、残る11人を説得する根拠は、疑わしきは罰せずということであり、その間に浮かび上がってくるさまざまな差別や思い込みに由来する、民主主義に反する言論を論破し、説得する。11人はそれぞれ、ああいう人、いるいる、といった平均的アメリカ人であり、それを日本語訳のセリフを日本人である俳優たちが喋ると、ああいう人、いるいる、は平均的日本人に変貌する。これだけ、それぞれがそれぞれの典型であり代表であるように見える配役を考え、出演を実現し、これだけの成果を挙げるまでには、演出家は大変な努力を要したに違いない。が、そうはいっても、善良で保守的なアメリカ市民が自分でも気がつかない内に自分の中にこびりつかせてしまっている偏見、などというものは、その役を演じる日本人の俳優が適役で巧ければうまいほど、ア、この人、ほんとうはアメリカ人なのだ、と自分に言い聞かせながら見る必要が生じてくるのは避けられない。

が、ともあれ、その説得の過程はたしかにスリリングであり、舞台の壁に掛かっている時計が、上演時間とぴったり一致しながら進行し、終るというのだから、これ以上三一致の法則に適った芝居はありようがないわけだ。(ラシーヌも真っ青?)

だが、私だけなのかもしれないが、陪審員8号の説得が少しずつ効果を挙げていくに連れて、私はいつも、逆に少しずつ覚めてゆく自分に気がついてしまうのだ。(熱演し、好演している8号役の松橋登さんにまで、とんだとばっちりで申し訳ないが、冷ややかなものを感じ始めてしまう。つまりそれだけ、「役になり切っている」というせいなのかもしれない。)つまりはこの脚本は、アメリカ民主主義の理念と精神を観客という生徒に教えるための教科書であり、この芝居はそのために仕組まれた模擬演劇ではないか、という思いが募ってくるのである。そう思い始めると、いかにもそれらしく演じている俳優たちも演出家も、ときどき共感の笑い声を立てながら熱心に見入っている観客も、さあ、この芝居はいいお芝居なのだから一生懸命共鳴し合おうね、と言わず語らずの裡に示し合っている同士のように思えてくる。共犯関係、といっては失礼かもしれない。が、私一人?が、のけ者として疎外されて行くような気がしてくるのが避けられないのも事実なのだ。いつの間にか、最後の最後まで8号に反発する3号や11号に、声援を送りたくなっている自分に気がついたりする。(もちろん、彼らの論理に賛同するわけではあるませんよ。)

いつまでこんなことを並べていても切りがない。つまりは、余りにもよくこしらえられている芝居というものは、一旦、それに気づくと、急に醒めてしまうという弱点があるものだ、ということである。妙な例を引き合いに出すようだが、今月新橋演舞場で菊五郎がやっている『魚屋宗五郎』にも、似たようなことを感じた覚えがある。先々代松緑の宗五郎といえば、松緑の当り役中の当り役だと私は考えているが、何とその松緑と梅幸の演じる宗五郎夫婦を見ながら、ふっと、醒めていく自分に気がついたときの不思議な感覚はいまも忘れ難い。そういえばあの芝居も、禁酒を破った宗五郎が酒乱になっていく過程を、一糸乱れぬチームプレイで見せるのが眼目なわけだが、それが舞台の上であまりにも見事に達成されていくのを見ている内に、虚実のバランスが反転してしまうものと見える。

またしても8号役の松橋氏に失礼なことを言ってしまうのだが、私がふと、安らぎを取り戻したのは、終局近く、いわば決めのセリフを8号が言うところで、こともあろうに練達の松橋氏が、やや絶句気味になって、プロンプターの声が陰から聞こえてきた時だった。あの一瞬ばかりは、私は松橋氏に満腔の同情の念を覚えるのを禁じ得なかった。つまり、醒めた心にも共感の糸口が見つかったのである。

随談第410回 プロ野球選手はグラウンドで帽子を脱ぐな(修正版)

セ・リーグではヤクルト、パ・リーグでは日ハム、ついで西武を応援しているので、結果はともかく、今年のクライマックス・シリーズは、地デジに切替って以来テレビの操作が何だかややこしくなってしまってから見なくなっていたBS放送を、何とかガチャガチャやって、家にいる限りは見た。リーグ戦末期から神宮球場に三度も足を運んだのも、近年では珍しい。まあ結果は、残念ながら実力通り、順当なところであったろう。ヤクルトなど、中日が白鵬とすればせいぜい日馬富士がいいところと思われる。何人かのスター選手を別にすれば、打率が二割そこそこか、外野手でも一割台などという選手がほとんどで、しかしそういう貧打で、3対1とか2対0ぐらいで勝つというのも、なかなか乙なものではある。外野手のくせに打率1割2分でシーズン中本塁打ゼロという飯原のホームランで中日に勝ったのは愉快であった。もし日本シリーズの出場していたら、かつて万年最下位だった大洋ホエールズが、三原監督率いるようになった初年、大毎オリオンズに四タテで勝ってしまった故事が思い出されたりしていたのだったが・・・

ところで、この文章はクライマックス・シリーズの評判をすることが目的ではない。近ごろ気になる野球風俗というか、ファッションというか、あるいは単なるだらしなさか、ともあれ、近ごろのプロ野球でちょっと気になるのは、選手がグラウンド、ダッグアウト内を問わず、帽子をすぐ脱いだり、それどころか無帽でいる光景を、以前に比べちょいちょい見かけるようになったことで、私はそれが気に食わないのである。理由はまず、だらしがない、という気がする。観客見ている前へ出たら、制服制帽、身なりをきちんとしていなければ、そもそも失礼ではないか。ダッグアウトは楽屋ではない。塹壕という、戦場である。(ついでに言うと、同じ意味で、試合途中で降板した投手が、ユニフォームを脱いでしまい、なにやら肩にあてがって治療中みたいな格好でいるのも、アメリカわたりの野球医学から始まったことなのだろうが、私に言わせれば、出番はすんだとはいえまだ試合は続行中なのだから、ちゃんとユニホームを着ているべきだと思う。なんだかパジャマ姿で人前へ出てくるようでみっともない。)

理由の第二は、プロ選手にとっては、試合のときの姿が、観客に見せるすべてであるべきだ、ということである。帽子をかぶっていると、選手はみなそれぞれに、精悍でいい顔に見える。ところが帽子を脱ぐと、いきなり日常の素顔があらわれる。アア、この選手はこんな顔をしていたのか、という興味もないではないが、概して私はこれが気に入らない。多くの場合、帽子をぬいだ途端に幻滅する。現に帽子を脱いだ顔は、ほぼ例外なく、緊張感がなく、だらしがない。

中日の和田という選手は、ちょっと往年の小鶴を思わせるところもあったり、敬服に値する名選手だと思っているが、ところがこの人、中日の選手のなかでも帽子を脱いだ顔をよくテレビ画面に見せることでは一、二を争う。帽子をとると急に、そこらの飲み屋のおじさんみたいになってしまう。西武の本塁打王中村は、この二、三年来頓に風格が出てきて、バットを構えたときの貫録は、まるでベーブ・ルースの再来みたいで惚れ惚れする。ところがその中村が帽子を取るとにわかに、宅配便でも配達に来そうなそこらのオニイチャンになってしまう。この二人だけの話ではない。一事が万事だ。

プライベートな姿を、なにかの番組で見せるのはいい。ファンには、グラウンドでの英雄を見るだけでなく、スター選手の素顔をみたいという心理があり、そこでは、英雄も私生活に戻れば飲み屋のオッサンみたいだったり、ホームラン王が隣りのアンチャンみたいであったって、少しも構わない。だが試合に臨んでグラウンドにいるときは、それではいけない。そうではないだろうか?

随談第409回 劇団「若獅子」の『王将』

春秋年二回、活動を続けている劇団「若獅子」が、この秋は新国劇の流れを汲む劇団としては本命ともいえる『王将』を、三越劇場で出した。九日間、計十三公演、そのほかに奥州市と前橋市で二公演があるのみという規模で、これは今回に限ったことではない。まったく、主催者の笠原章の志と、それに賛同する少数の座員・座友に、応援の幾人かの協力で成り立っているといっても過言ではない。プロフェッショナルの劇団としては、敢えて言うなら「零細」劇団である。しかしこの「零細」の二文字には、「名誉ある」という形容辞をつけて差支えない。

『王将』は、二年前に初めて試みてかなりのレベルを示し、今度が再演である。笠原は亡き師辰巳柳太郎の坂田三吉を、たとえば当代勘三郎が父十七代目の髪結新三をよく写し、写しながら次第に自分のものにして行ったように、まずよくなぞり、よく写し、ようやく自分のものにしつつある。初演のときは、序幕のまだ路地裏暮らしのくだりは何だか借り着みたいだったのが、芝居が進むにつれ辰巳が乗り移ったような迫真力を見せたのが、驚きつつも面白かったが、今度はもう借り着でなくなっている。まだ改善の余地はあるといっても、既に立派な坂田三吉であることは間違いない。笠原だけではない。初演以来、女房の小春と、年齢が行ってからの娘の玉江の二役をつとめる神野美伽にしても、本来が歌手だという先入観で見たら大間違いであろうし、座員・座友が各々二役・三役をつとめるその他の役役も、かなりの水準でよく整っている。上演脚本は、本来三部作として別々に上演されたこの大作を、三幕物として再編成したものだが、よくまとめ、構成してあって、今後この作が今日の上演形態に適切な形で永らえて行く上で、ひとつのふさわしいものといえる。

だが実は、私がいまここにこの『王将』を取り上げたのは、劇評を書こうとてのことではない。私の見たのは二日目、祭日を前にしてのウィークデイのことだったが、あの小さな三越劇場の客席にはまだまだ空席がいくつもあった。裏返せば、客席の大多数は馴染みの常連客でなければ、何らかの意味での関係者であろうかと推察される。日によって多少の相違はあるにしても、大勢は変るまい。つまり、端的に言えば、この名誉ある零細劇団にとっての最大の泣き所は、新しい観客を獲得することがいまだ充分に出来ないでいることなのだ。

たしかに、しばらく前までの「若獅子」の舞台には、新国劇の「残党」が、何とか灯を絶やすまいと細々と頑張っている、といった趣きが強かった。笠井章もまだ発展途上俳優として、自身を成長させなければならず、演じるものも、そのための「勉強」という面が大きかった。つまりまだ、親しい人たち以外には、よかったら来て下さい、というような言い方しか出来なかったと言ってもいい。しかし、少なくともここ三、四年来(といっていいだろうか)の若獅子は違う。笠原も、役者としての「腕」も「役者ぶり」も飛躍的に上った。実りの時期を迎えたのである。もう、よかったら見に来て下さい、ではなく、れっきとした「商業演劇」の劇団として堂々と胸を張って「興行」をしていいのである。そのためには、新国劇の灯を守るという姿勢だけでなく、灯を育てつつ現代の第一線へと一歩を踏み出さなければならない。観客も、新国劇を愛し懐かしむ人たちだけでなく、新しい観客をも獲得しなければならない。一方また、三越劇場をはじめ各劇場も、若獅子を晴れの舞台に招いてやって然るべきである。

約めていうなら、これだけの芝居を、もっともっと大勢の人が見ないのは、実にもったいないということである。